○
宮崎参考人 はい。
私
どもが残留いたしましてからの
向うの生活状況というものは、各人の環境、その
人たちが残
つた地域また各人の生活力の相違によりましてそれぞれ
差異があります。満州地区に残られた方々は、たいへん精神的にもまた物質的にも種々の御苦労が多か
つたと思うのでありますが、私自身は
北京及び天津という大都会に残された
関係上、さほど苦しい生活をいたしませんでした。しかしながらただいまも申し上げましたように、これは各人々々の環境の相違でありましで、私が苦しくなか
つたからとい
つて、ほかの人々もそうではないだろうというふうには言えないのでありまして、満州あるいは北支の山岳地区に残留された方々はたいへんな苦労をされておられます。これは私その人々からじきじきにに伺
つた話であります。
大体私
どもの
集団帰国が始まります前までは、個別
引揚げというふうな
処置がとられたわけでありますが、これは内地におられる近親、友人、だれでも身元を保証することのできる人々から
政府に申請をすれば、
政府の方で船賃を立てかえて
帰国することができるという便法でありましたが、それがいつごろから実施されたかということは、全然われわれにはわからなか
つたのであります。
向うには満州で発行しております民主
新聞という
日本字
新聞もありましたけれ
ども、この
日本字
新聞は一向そういうことは取上げませんでした。そのためにいろいろの
つてを求めてそういうことを知
つた人々で、あるいは内地の近親、友人そのほかの方々から手続をされた人々の総数が、私が昨年天津から
引揚げます直前に、天津のバターフィールドの代理店に参
つてその名簿を見せてもら
つたのでありますが、約四百八十名くらいあるのであります。そのうちで実際に個別
引揚げでも
つて帰国のできたという人々はきわめてわずかでありまして、その実数はむろん
引揚援護庁の方で
はつきりおわかりに
なつていることと思います。しかしきわめてわずかであ
つたということを申し上げておきたいと存じます。
その後十二月一日になりまして、
中国の
新聞に
赤十字社を通じてわれわれの
集団帰国という問題を取上げるという発表がありました。しかしその後十二月中には何ら具体的な
処置はとられませんで。一月に入りましてから、再び
日本人居留民に対する全般的な
調査が警察の手をも
つて行われまして——これは毎年々々一回ずつあるのでありますが、私
ども天津におります者は、大体昨年の三月に再び居留証、在留許可証でありますが、在留許可証の書きかえの
調査があるはずでありましたものを、一月にその
調査が行われましたので、われわれもいよいよ
帰国が近いというふうに思
つたのであります。
二月に入りましてから、いよいよ
帰国の申請を警察の方で受付けるということになりましたが、この
帰国の申請を受付けるということも、別段公表をするわけではないのでありまして、ただ警察の方から各
個人々々に指名をして来るのであります。指名のない者は警察へ行きましても
帰国の手続ができないのであります。警察の方から指名があ
つて初めて手続ができる。またいろいろの事情のもとに
帰国したくないという人々がありますが、そういう
人たちに対しても、警察は手をかえ品をかえ、この人をと警察が一旦指名した人間に対しては、手をかえ品をかえ、中には半ば脅迫的に
帰国手続をとらせる。また
帰国を希望するけれ
ども、警察の方から一向通知がない、指名がないというような場合には、いかに警察に日参をしても許可の手続をとらしてくれないというふうな
実情でありました。それで
帰国の順序、だれが先に帰れるかとい
つたような問題も全然わからないのでありまして、私は一番初めの警察からの指名によりまして、二月二十何日に手続を終
つたのであります。そうして警察から、すぐにでも帰れる用意をしろというので、家財道具を売り払い、あるいは仕事
関係の申送り事項を完全に引継ぎ、そのほかもういつでも出立のできるというふうな態勢に入
つたのでありますが、その後三月の第一回の
帰国にも指名されず、二回、三回、四回、五回と、とうとう何らさしずはなか
つたのであります。それでたびたび警察へ行
つて、一体いつ帰してくれるのか、あるいはどういう理由で遅れるのかというふうなことを尋ねに行きましても、そういうことはわからぬ、いつ帰れるかそんなことは知らぬ、どういう理由かわからぬ、ただ上級
機関から指示が来ないからわからぬというふうなことでもって、とうとう第六回まで待たされたのであります。この第六回に私が帰れたというのも、私しびれを切らしまして、
向うの内閣総理大臣である周恩来に手紙を出したのであります。一体どうして帰さないのか、こうこうこういう事情でわれわれは準備をすつかり完了したのに、どうして帰さないのかという手紙を出しましたが、その後一箇月後に私に直接でなしに、警察の方に周恩来首相から指令が来たらしいのでありまして、私にすぐ出頭しろというので、警察に参りまして、それから取調べが始ま
つたのでありますが、約一箇月間かかりましてきびしい取調べを受けましたが、とどのつまり帰ることに
なつて、第六回の船の出る直前にきようすぐ出立しろということで、帰
つて来ることができたわけであります。
私
ども一番心配いたしておりますことは、現在残留している人々は一体どう
なつているかと、あるいはいつ帰れるかということでありまして、この人人——むろん私が
向うに残されておりました期間でもそうでありますが、たまにいろいろな径路から入
つて参ります
新聞雑誌の内地の報道を見まして、
中共政府に与えるいろいろな印象というものを考慮いたしまして、一喜一憂をしてお
つたのでありますが、われわれ第一回から第七回まで帰
つて参りました人々の言動ということも、非常に大きな影響があるのではないかと思いますので、良識ある
人たちは遠慮して口をつぐんでおるのであります。
向うの
新聞にはこちらのいわゆる共産党に同調する人々のいろいろな動静は、でかでかと書き立てられるのでありますが、そういうことが続いていさえすれば、
向うに
残つている人間はやや愁眉を開いてほっとしているわけでありますが、反対に共産党、あるいはそれに同調する人々がいろいろな迫害を受けたとかなんとかい
つたようなことが載りますと、非常に憂慮するわけであります。第四回の
帰国の場合に、ちようど一箇月遅れたのでありますが、私は自分の住居が天津の集結所の国民飯店のすぐそばにあ
つたものでありますから、毎日のように行
つて、ここでその
人たちの動静を見、また及ばずながら援助もしたのでありますが、その間の焦慮だけは、実にはたで見ていられないほどの焦慮であります。また事実家財道具を整理してしま
つて、なけなしの金を持
つて集結をしているのでありますから、自分
たちの日ごろの交際範囲を越えた遠い天津で、いよいよ金がなくなるとい
つたような事情から、その苦しみ方というものはま
つたく言語に絶するものがあ
つたわけであります。
それで、一体今
残つておる
人たちがどういうふうに
なつておるかというような事柄でありますが、
新聞の報道によりますと、旅大地区に
残つてお
つた人たちが、ずつと重慶方面、あるいは太原、漢口というふうな方面に移動をしておるということを
新聞で承知をいたしておりますが、これらは
帰国の前提
条件をつくるためというふうに書かれておりますが、そういうことがはたしてほんとうであるかということは、はなはだ疑問であります。それは元ハルピンの鉄道工廠長をや
つておられました某さんという方でありますが、この方は鉄道の技術屋さんでありまして、あるいはお帰りに
なつたかもしれませんけれ
ども、相当年輩のりつぱな技術屋さんであります。この某さんを初めとして、約一千名近い
人たちが、
帰国をさせるという名目で、満州地区から天津地区に移
つて来たことがあります。これは一九五一年ごろだ
つたと記憶しておりますが、
はつきりした日にちを覚えておりません。一九五一年の末ごろでなか
つたかと思うのでありますが、約千名近い
人たちが、むろん女も子供も含みまして、天津地区へ集結したことがあります。天津へ集結をしましたところが、この
人たちに新しい任務の命令がありまして、それぞれ太原あるいは南京、漢口その他の華北、華中の各地区に分散をして新しい仕事につけという命令が出たそうでありまして、最初の
帰国の約束と違うというので、たいへんもめたのであります。某さんは、これは東北帝大の工学部を出られた某という、やはりハルピンの鉄道工廠の技師でありますが、この
人たちや何か四、五人連れられて私の宅へ見えられて、ここでどうしても帰せという闘争を起すのだ、それが成功して、われわれが配置につかず職業を離れた場合に、何とか帰るまでの職業の世話をしてくれないかというふうな
お話があ
つたのでありますが、その当時天津にそれほど大量の人々をただちに収容できるような工業
施設はないのでありまして、そのことの無謀をいさめまして、特殊な事情の
人たちだけ帰るということを要請をせられて、大部分の
人たちはおとなしくその任務におつきに
なつた方がいいのじやないかというふうな忠告を申し上げましたが、その直後、ほんの二、三日あとでありますが、突然の命令によりまして、強制的に全部大原、漢口、南京、
北京方面にばらばらに分散させられたのであります。その後沓として消息がないのでありまして、そのうちの何人かは永年の強制収容所に収容されたということを風のたよりに聞いております。これもハルピン地区から出て来るときには、
帰国させるということで出て来たのでありますが、事実はそうでないのでありまして、
帰国させるのでなしに、奥地の方にや
つてしま
つたという事実がございます。それからまた。これは高知県の越知町付近の人でありますが、某という五十幾歳かの年輩の方でありますが、この方は人民解放軍、いわゆる
中共軍の中に無線の技術者として——兵隊待遇でしたか将校待遇でしたか、その点は私
はつきり知りませんが、
中共軍の中におられました。この人は天津のある部隊の通信方面を担任しておられまして、ひまなときにはしばしば私のところにも遊びに見えたのでありますが、常日ごろ、自分はもう年をと
つておるし、除隊をしたい。早く帰りたいということを言
つておられたのであります。そうしてまた上級
機関に対しても、帰してくれということを常々盛んに嘆願をしておられたのでありますが、この人が一九五二年に突然行方不明にな
つたのであります。その前に私のところに見えられての話では、近く帰してやるから、帰る
人たちの集結しているところへ転任をさしてやろうという話があるのだということを言
つておりましたが、ところがその後突然行方不明になりまして、消息が全然ないのであります。これは一九五一年の暮れか一九五二年の初めでありまして、この
集団帰国など全然まだ話も何もなか
つた当時のことであります。その後にいろいろな
情報を総合してみますと、この人も永年の強制収容所に入れられたらしいということがわか
つたのでありますが、その後はたして今回の
帰国で帰られたかどうか、これもわかりません。それからまた、これも同じく
中共軍に参加をしまして、自動車の修理工として勤務してお
つたまだ若い人でありますが、一人は大阪府の出身で某という三十才前後の人であり、一人は某という人、この人は出身はわからないが、私
ども親しくつき合
つてお
つたのでありますが、この
人たちは——一九五二年に大部分の者を
中共部隊から出しまして、各地方の、あるいは国営、公営工場
機関に全部を分配したことがありますが、そのときに天津市の市営の自動車会社に修理工として入
つたのでありまして、この人は、一九五三年の三月の四日でありますが、第一回に帰るべき人として指定されたのであります。私
どももそのときに、
帰国、乗船、集結等の注意を開くために一緒に集ま
つたのでありまして、この二人はいよいよ帰れるのだとい
つて喜んでお
つたのでありますが、集結の直前に取消しになりまして、その理由が
はつきりわからない。どうして帰してくれないことにな
つたのかわからないと言
つておりましたが、そのうちに第一回も出、第二回も出ましたけれ
ども、この
人たちはまだ帰されなか
つたので、毎日ただぶらぶらしてお
つたのでありますが、そのうちに、自分
たちは朝鮮戦争に参加をしたことがあるので帰してもらえないのだということを私に漏らしました。ところが昨年の何月ごろでありましたか、ちよつと失念いたしましたが、第四次の
帰国が終
つたころか、あるいはその前後でありますが、突然行方不明になりまして、この二人とも天津で姿を見かけることができなくなりました。むろん第六回、私が帰りますまでには帰
つておりません。第七次にも帰
つていないということを私は友人から聞いております。はたしてどこへ行
つたか、これも全然わからないのであります。大体この
集団帰国が終りました後どういうふうに
なつているかということは今わからないのでありますが、第七回で帰りました私の友人から一昨日私が聞きました話では、第七次の出発する直前に河南省の汲県というところに十数名集結をしたということがわか
つております。これが
帰国のために集結をしたのか、あるいはそのほかの理由によ
つて、集結をしたのかわからないのでありますが、その
人たちが第七次の出発の直前にどこかへ移動していなく
なつた。この中には内科の医学博士である某という老人のお医者さんがおられます。私も一、二度面接したことがあるのでありますが、この人は一九五二年に河南省の汲県に配属がえになりまして行かれまして、そのあと
帰国を希望されなか
つたということを聞いております。そのまま汲県の方におられるものだと思
つておりましたが、一昨日友人から聞きました話によ
つて、初めて汲県からまたどこかへ移された、どこへ移
つたか、これはわからない、その中になお元の島津製作所の
北京の出張所の社員でありました某という人も入
つておりました。これはレントゲンの方面の修理工でありますが、この人も某さんと一緒にどこかへ行
つてわからなく
なつた。それから第七次の出発後、私
どもの知
つておる範囲で天津に残りましたものはた
つた一人でありますが、これは熊本県の出身で某という私と同年の男でありますけれ
ども、これは
中国人を妻にいたしまして、その間に子供が五、六人できておりまして、帰るのについて非常に苦慮してお
つたのでありますが、生活も非常に困難でありまして、たいへん苦しかろうと思うのでありますが、これが第七次の出発までには確かに天津にいたのでありますが、いまなおいるかいないかこれは
はつきりいたしません。しかし通信のあるべきはずでありますが、その通信が来ないのであります。こちらから手紙を出しましたけれ
ども、
向うから返事が来ないのであります。あるいは熊本の国元の方に通信があ
つたかどうか、その辺は
はつきりいたしませんけれ
ども、今のところ、これはどこにいるかわからなく
なつております。あるいは旅大地区の例に漏れずに天津地区におりましたそういう
人たちも、どこかへ移されたのではないかという危惧もあるわけでありますが、これも確証をつかんでおりませんので、ただ私の想像を申し上げるのであります。それから旅大地区から一人も帰
つて来ないというのはまことに奇怪でありますが、この旅大地区に某という五十年輩の御婦人がいらつしやいます。相当の教育を受けられた方でありまして、
中国人と結婚をされまして、ことし二十歳くらいの男の子と十六、七になる女の子と二人あるのでありますが、この方は、かねがね帰りたいというので、ずいぶん大連の警察にも、そのほかの
機関にも猛運動をされたのでありますが、いかに繰返し再三再四申請をしても、どうしても
帰国が許可にならないのだ、こちらに妹さんが
残つておられまして、現在九段高校の先生をしておられますが、この方もたいへん心配をされまして、たびたび手紙もお出しになりますし、いろいろな方法をと
つたのでありますが、どうしても
帰国がきない、そして旅大地区から天津地区にせめて移動させてくれ、天津におればまた帰る
機会があるからというので、天津に移動させてくれという願いも出されたのでありますが、それも許可にならないので、この方も現在どう
なつておるか、お帰りに
なつていないことは確実でありまして、どう
なつておるか——御主人は戦犯、いわゆる漢奸でありますが、漢奸というので嶽につながれたままでありまして、生活も非常に逼迫をしておられる、きわめて困難なおかわいそうな状況にあ
つたわけであります。
大体今度の
帰国はどういうふうにして行われたか、どういう動機で
日本人を帰したかというようなことがま
つたくわからないのでありますが、ただ私は現在の久大塩業公司の総経理でありまして、今の華北行政
委員会の副主席をや
つております某さんと懇意であります。そのほか私が奉職いたしておりました会社の社長というのが天津市の協商
会議、といいますと
日本でいえばちようど市会に当るわけでありますが、市会の秘書長の某という男が私の社長でありまして、それが私の
帰国問題についていろいろ苦慮いたしまして、某とも相談して
政府の意向を開いて来るとい
つて北京に
行つたのでありますが、それが帰
つて来て昨年の二月私に話した話でありますから、ただの想像や何かではないと思うのでありますが、
日本人を帰すということは今の
政府の政策である。だから君一人を残すというふうなこともできなく
なつた。これは
政府の政策だ。むろん政策で帰したに違いないのでありますが、その中で某が私に漏らしました言葉の中に、現在朝鮮の捕虜の交換問題が非常に紛糾しておる。われわれの方ではこういうふうにきれいに
日本人を帰すのだというふうなところを見せなければならぬ。それはちようど朝鮮の捕虜問題の非常に紛争してお
つた当時であります。これは事実を事実として申し上げるのでありまして、私想像や創作で申し上げておるわけではないのでありまして、この某という男は、
向うの
新聞をごらんになりますとわかりますが、天津の
新聞には毎日名前が出る有名な名士であります。某はむろん昔の
日本の実業界の方々にもおなじみの深いこれまた実業界の名士でありまして、現在今申し上げました
通り華北行政
委員会の副主席という
地位についております。たびたび天津に参りますので、私も仕事の
関係上始終面接いたしましていろいろなことも御相談した仲であります。この
人たちがそういうことを言
つたのでありますから、この点は私は間違いはない、こう思うのであります。
この
集団帰国が打切られましてから、あとは個別
引揚げについて、
赤十字社は努力をするというようなことを言
つておるということを
新聞紙上で拝見いたしましたが、この個別
引揚げという問題が先ほど私が申し上げましたように、技術的に非常に困難でありまして、個別
引揚げがいつ開始されたかというようなことも、全然
向うでは通知してくれないのであります。あるいは今回は
赤十字社がそういうふうに責任を持
つてやるというのでありますから、
赤十字社の方から各人に通達があるかもしれませんけれ
ども、以前にはそういう方法が全然とられておらないのでありまして、そのために知らない人がたくさんあります。船賃はそれで解決つくのでありますが、
中国の各地に分散しております
人たちが、その船の出る場所まで出て来るその旅費、あるいは天津で船が出るまで
滞在するその
滞在費、こういう点も非常に問題になるのでありまして、今まで個別
引揚げでお帰りに
なつた方々も、天津での生活で非常に苦労をされたのであります。奥地の方の警察では、船の名前と船の出る日がわかれば、許可してやるというようなことを言うのでありますが、これは
北京の警察でもそうでありますが、実際は船が入
つてみなければ、船の名前もわからなければ、出港の日にちもわからない。どこにも公表するわけでもなければ、その予定をどこにも発表しないわけでありまして、実際問題として不可能なことなのであります。それらの人々からどこをどうして
連絡をとられるのか知りませんが、私が天津にいるということがわか
つて、私のところにたびたびそういう船の
調査あるいは出港予定あるいはいろいろな電報あるいは予算
関係とい
つたようなことを尋ねて来られるのでありますが、私もできる限りのことは
調査をして
お答えを郵便でしたのでありますけれ
ども、うそいうことをするのはスパイ活動であるというので、私は
帰国の前一箇月間警察で取調べを受けまして油をしぼられたのでありますけれ
ども、大体船の運航状況というものは一向発表しないのでありまして、私はたまたま貿易業者に友人がおりまして
関係があるからその方面から入りますそうい
つた予測を知らしてや
つたのが、スパイ活動であるというふうに言われるのでありまして、こうい
つた問題も、これから先の個別
引揚げというふうな問題について技術的に非常に困難な問題に
なつて来るのじやないかと思います。
まとまらない
お話を申し上げたようでありますが、限られた時間でいろいろなことを盛りだくさん申し上げることも不可能であるから、ただ思いついたことを、特に現在まだ
残つておられる方々に対するいろいろな点を考慮いたしまして、御参考までに申し上げた次第であります。(拍手)