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1954-10-07 第19回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第16号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十九年十月七日(木曜日)     午前十一時開議  出席委員    委員長 山下 春江君    理事 高橋  等君 理事 臼井 莊一君    理事 柳田 秀一君 理事 受田 新吉君       大久保武雄君    木村 文男君       小平 久雄君    花村 四郎君       並木 芳雄君    福田 昌子君       中井徳次郎君    山口シヅエ君       中川 俊思君  委員外出席者         厚生事務官         (引揚援護局         長)      田辺 敏雄君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      山下 正男君         参  考  人         (中共地引揚         者)      北村 義夫君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      緒方 俊郎君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      佐々木繁男君     ――――――――――――― 十月七日  委員青柳一郎君辞任につき、その補欠として大  久保武雄君が議長の指名で委員に選任された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  中共地区残留胞引揚に関する件  派遣委員より報告聴取に関する件     ―――――――――――――
  2. 山下春江

    山下委員長 これより会議を開きます。  本日は海外同胞引揚に関する件について議事を進めます。  この際お諮りいたします。去る二十七日に中央地区より引揚げて参りました方々より引揚げ実情を聴収し、今後の引揚げ参考に資したいと思うのでありまして、ただいまお見え中共地区より引揚げられた北村義夫君、緒方俊郎君及び佐々木繁男君を本委員会参考人として事情を聴収するに御異議ございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 山下春江

    山下委員長 御異議なければ、さよう決します。  次に、去る二十六日舞鶴に参り、中共地区引揚者援護状況を実地調査いたしました派遣委員報告を聴収いたします。受田委員
  4. 受田新吉

    受田委員 それでは、これから中共地区よりの引揚者受入れ援護状況調査のため舞鶴に参りました結果について御報告いたしたいと存じますが、後ほど参考人よりの御意見の御開陳もあることと存じますので、ごく簡単に御報告申し上げたいと存じます。  今度の中共よりの引揚げにあたりましては、折あしく台風第十五号に見舞われましたので、入港が予定より遅れ、新聞の報道するところによりますと、全員船酔いし、二十七日午後六時か十時ごろに到着の見込みとのことでありましたので、船の安否を気づかつてつたのでありますが、幸い何の事故もなく、二十七日正午に入港ということになりましたので、一同ほつと安堵の胸をなでおろした次第であります。これもひとえに興安丸船長以下船員の方々の並々ならぬ御努力のたまものと、ここに深く敬意を表するとともに、厚く感謝の意を表する次第であります。  二十七日の入港の当日は、まず舞鶴引揚援護局にて今次中共地域引揚者受入援護に関する状況報告を聴取いたしました。その報告によりますと、乗船人員五百六十六名、そのうち、五百五十八名が引揚者であり、送還沖縄漁民が八名であります。性別は、男子四百八十名、うち子供二十七名、女子七十八名、うち子供二十五名で、身分別に申し上げますと、陸軍四百三十五名、海軍二名、軍属十一名、一般邦人は百十名となつております。  今次中共地域引揚者特色といたしましては、その中心が元山西軍軍人軍属、すなわちいわゆる戦犯釈放者四百十七名でありまして、その他の一般邦人もこれら釈放者の、家族が多く含まれているのではないかとのことであり、また男子が従来に比し多く、将校が比較的少いようであるとのことでありました。持帰り金については一人平均六十二ドルで、昨年に比し半分、荷物も平均〇・八箇で、従来の平均一・四箇より少いようであるとのことでありました。しかして東京関係が百二十八名、これは全体の二二%であり、その他未定の百四名も東京を希望するのではないかと推察され、いずれにいたしましても、東京を希望する者が相当多いように思われることも一つ特色であるとのことでありました。  次に、局内における受入れ援護に関しましては、昨年に比し新しくされたことは、毛布、食器を全部新しくしたこと、また応急援護物資として毛布二枚、石けん二箇、ちり紙百枚をそれぞれ増加いたしたこと等であります。また、引揚者身分取扱いに関し、従来引揚者のうち未復員者に対する身分確認及び決定並びにこれが復員処理舞鶴援護局行つておりましたのを、今次引揚者については、元軍人軍属であつた者といなとによつて異なる取扱いを行わず、元軍人軍属であつたという者の身分についてはすべて未帰還調査部においてあらためて調査の上確認または決定をすることに改められ、復員の証明、未復員者に対する未支給の給与の精算等は、右の確認または決定を待つて都道府県において行うことになつたということであります。  次いでわれわれ派遣団一行はランチにて入港興安丸出迎えに参りました。折あたかも台風一過、秋晴れの快晴に恵まれ、十数年ぶりに故国に帰る人々を迎えるには絶好の秋日よりでありましたが、引揚人々は昨日の台風にどんなぐあいかを案じつつ船に上つて参りました。しかし、懸念のほどはまつたくなく、皆元気に、かえつて出迎えに参つたわれわれを拍手をもつて迎えてくれるという光景で、まつたく感慨の深いものがありました。代表者会見後船内をあいさつしてまわり、再びランチにて引揚げ人々とともに桟橋へもどつて参つた次第であります。みな思いのほか若く、そして元気であり、ランチの中にて種々と中国での生活等を明るい表情で話してくれましたが、さすがに帰国の喜びは顔一面にあふれており、中には十数年間も会わなかつた子供が今やりつぱな青年なつ背広姿の写真を見せ、一刻も早く会いたい様子を示していた人もおりました。  船よりの引揚げが完了する間に、東京都の引揚対策審議会委員が十数名会見を申し出て参りましたので、その話を聞きましたが、それらの人々の話によりますと、東京都としては九十五名の受入れ準備をなしているが、今回の引揚者東京を希望する者が多いようで、もし二百数十名も都が引受けねばならぬことになると予算上不可能であるから、しかるべく善処されたいとのことでありましたので、われわれ委員といたしましては、それは一応もつともなことであるので、努めて他府県に縁故のある者は各府県の努力によつてそれらの方に引取つてもらうべく努力し、あまり東京に集中することのないようにしたらよいであろう旨を伝えて、その会見を終了し、引続き引揚者代表者六名と座談会を開いたのであります。  代表者の話によりますと、まず先方での生活は楽しいものであつたということを異口同音に申されておりました。もつとも、閻錫山の軍に入れられていたときはまつたく殺伐な苦しい生活であつたが、解放後は集団的に生活し、政府からの支給により経済委員がそれをまかない、畑をつくり、豚等自分たちで飼育するほかは、クラブで本を読んだり、ラジオを聞いたり、運動をしたり、またトランプ等をして楽しく自由に遊んで過したということでありました。また社会主義建設途上にある中国勤労大衆・農民の生活の向上、福祉施設発達等について讚美の気持をもつてつておりましたが、最後に、今回の引揚者人々中心である山西軍におられた人々は、自分たち自己意思残つたのではなく、四百十七名全部が強制的に残されたことを強い語調で強調され、また現在一番考えていることは生活問題すなわち就職問題と故郷に帰つて迫害を受けないかという不安のあることであると述べておりましたが、われわれ派遣委員一同は、国民は全部引揚げの一日もすみやかなることを願つておるのであるから、あなた方の意見を十分聞き、一緒に協力して、少しでもよくなるように努力したい旨を述べて、この座談会をとじた次第であります。  現在のわが国の状態は、戦後の生活が一応安定して参つたとはいえ、まだまだ苦しいものであり、またデフレ政策下の今日においては就職難時代でもありますが、これら今次帰国者がすみやかに就職せられ、一日も早くその生活の安定を得られ、しかして今日の日本実情を十分認識されつつ、国民全員が協力して、苦しい中より国の再建に努力せられんことを衷心より願うとともに、いまだ帰らざる人々引揚げを一日も早く促進することに意を注ぐべきであるということを深く心に決して帰京の遂についた次第であります。  以上、簡単ではありますが、派遣委員を代表いたしまして、ここに調査報告の一端を申し上げた次第であります。
  5. 山下春江

    山下委員長 先ほど御紹介いたしました中に漏れたのがありますので、この際お諮りいたします。山下正男君がただいま御出席くださいましたので、本委員会参考人として事情を聴取するに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 山下春江

    山下委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたします。  それでは、これより参考人から事情を聴取することにいたします。  この際一言ごあいさつ申し上げます。参考人各位には引揚げ早々御多忙中のところ御出席くださいまして、委員長として、厚く御礼を申し上げます。終戦後九年、いまだ異境の地に残留している同胞と、一日千秋の思い帰還を待つておられる留守家族の心情に思いをいたしまするとき、一日も早き引揚げ問題の解決につき焦慮いたし調査を進めております本委員会の意図をおくみとり願いまして、帰還に至るまでの概要並びに現地における同胞状況等につきお話しくださるようお願い申し上げます。  なお、お話の時間はお一人大体十五分くらいにお願いいたし、続いて委員よりの御質問に応じて補充的なお話を願いたいと存じます。  初めに山下正男君にお願いをいたします。
  7. 山下正男

    山下参考人 このたび私たち日本に帰つて来ることができましたのは、これは中国人民政府、また中国革命軍事委員会政治部、ここのおとりはからいによりまして私たちが先般八月の十九日恩赦の命を受けまして、今までの中国におきますところの罪悪行為、こういつたものを赦免されまして、さらに日本帰国命令を受けたわけであります。それまでの私たち生活は、一九四九年大連が解放されましてから、河北省の永年、さらに西陵、この地区におきまして生活をいたしておりました。ここにおきましては私たちの自由が非常によく尊重されまして、主として戦争と平和の問題について、私たち自身が、自己体験を通じて、どのようにして戦争によつてこうむる人民危害を二度と再び受けることのないようにするか、どうしたら日本の平和、アジアの平和、また世界の平和を守ることができるだろうか、こういつたことについてお互いに話し、お互いに学んで来たのであります。私たちもやはり、みずからの戦争体験を通じまして、戦争によるところの苦しみから人々が救われなければならない、このように考えて参りました。私たち四百十七名の者は、このような問題についてみずからの体験を通じてお互いに学び合い、そうして二度と再び戦争危害をだれもが受けることのないように、このことを私たちは学んで来たのであります。当然、私たち日本人でありますし、将来において日本に帰るということは、中国人民政府にしましても、また中国革命軍事委員会にしても深く御考慮くださいまして、そうしてやはりその時期というものが到来いたしまして、また日本国民のお力によつてこのたび私たちが帰ることができました。このことはひとえにやはり中国人民政府、また全中国人民、また全日本国民の非常に大きな御努力によつてたちが再び家郷に帰ることができたのであります。こういつた点について、中日両国人民に対して、私たちは心から現在においても感謝しておるのであります。また中国において、私たちとともに帰らなかつた方も、私の了解する範囲では、ごくわずかおられるようであります。この方々もいずれは私たちと同じように帰つて来られる時期が十分にあると思います。このこともやはり中国人民、また日本の全国民の御努力によつて、私はそう遠くない将来において実現されるのではないかというように信じております。これについては、国内においても、全国民方々の私たちに払われた御努力をさらに引続き払つていただくことによつてこのような機会がもたらされるというように考えます。向うにおいては、どの日本人も決して不自由な思いもなく、無事に、また健康に生活しております。決して日本でもつて御心配なさるようなことは一つもないと思います。  あといろいろありますが、当時の状況と、私たちが帰つて来ることができましたことについて私は簡単に御報告申し上げます。
  8. 山下春江

    山下委員長 ありがとうございました。  次に北村義夫君にお願いいたします。
  9. 北村義夫

    北村参考人 ただいま御紹介にあずかりました北村でございます。私は、昭和八年に学校を出まして、ただちに満鉄に入社いたしまして、撫順炭鉱に勤務いたしておりました。終戦の前に撫順採炭事業の方を大体見ておつたのでございますが、終戦の年の一月に、社命によりまして、牡丹江方面に新しく光義炭鉱というものを建設するために現地に派遣されました。八月の八日の未明に私たちソ軍の爆撃を受けまして、現地引揚げまして、牡丹江経由ハルピン経由で八月の十四日に吉林まで参りました。ちようどそのときに、吉林で、当時の満鉄総裁をしておられました山崎元幹さんにお会いしました。当時のいわゆる新京の首脳部、満鉄の首脳部とか、あるいは関東軍とか、そういう方々アジア号に乗つて通化に下られる途中でお会いしたのですが、私は総裁命令蛟河炭鉱――吉林省蛟河で、これもやはり満鉄の経営になつておりましたが、この蛟河炭鉱行つて戦後の混乱を処理するようにという命令を受けまして蛟河に参りました。蛟河に着きましたのがちようど十五日で、終戦の宣言のありました当日でございます。その後九月にこの炭鉱ソ軍管理下に移りまして、私は技術者として現地留用になりました。明けまして二十一年の四月にソ軍が撤退いたしまして後は、結局炭鉱中国共産党の幹部がお見えになつて蛟河工務局というものができまして、引続きこの炭鉱留用をせられておりました。その後二十一年の九月に、状況の変化によりまして、さらに和龍、老頭溝地区後退を命ぜられまして後退いたしました。明けて二十二年の一月に、さらに延辺地区の状況が悪くなりましたために、さらに北方に後退を命ぜられまして、佳木斯鶴崗その辺を経まして鶴崗炭鉱におちつきまして、二十三年の九月まで鶴崗炭鉱におりました。二十三年の九月に大体当時の東北人民政府工業部がハルビンにございましたが、そこに転勤を命ぜられまして、二十三年の十一月、南満の一帯が解放されるとともに、また撫順の古巣に舞いもどりまして、それから以来このたび帰りますまで撫順にお世話になつておりました。大体の経過はこういう状況でございます。  この間私は仕事関係中国の主として炭鉱業復旧努力して参りましたが、一応中国の方、撫順のようなあのような大きな炭鉱復旧も終りましたし、昨年始めました炭鉱安全技術研究所という方の創立事業も一段落を遂げましたので、こういう状態仕事の方も一段落いたしましたし、また家庭事情も、私のところは子供がたくさんございまして、みな中国学校通つておるのでありますが、非常に不自由をいたしており、たとえば、私たちの家の小さな子供なんかも、夜寝言を申しますときにやはり中国語寝言を言う、この程度に来ておりますので、どうしてもやはり日本人日本語の教育をし日本学校で育てたいというのが特に母親の希望でもあり、また私たち家族撫順では残留しておるたつた一人の家族でございまして、たつた一軒だけぽつんと中国におりますので、家庭方面でも特に家内なんかは非常にさみしがりまして、こういつた家庭事情仕事事情で、実は八月の五日に人民日報の紙上でこのたび集団的な帰国があるというのを拝見いたしまして、上級の方に帰国意思を申し述べ、再三お願いいたしまして、快く上級の許可を得て、皆様方とともに帰つて参りました次第でございます。このたび帰るにつきまして、日本関係方面日本皆様方の絶大な御援助によつて、再び祖国帰り着くことができましたので、この点皆様方の御努力に対して厚くお礼を申し述べさせていただきます。  私、撫順以外地区状況は、そういう状態でございますので、あまり詳しくはございません。撫順では、大体私の一家族最後でございまして、それが引揚げて参りましたので、あと残つておられますのは、国際結婚をせられました御婦人で、これは夫との愛情とか、あるいは新しく生れました子供対する愛情、そういつたいろいろ人情の機微に触れる問題がございまして残留しておられるのでありますが、この方々がどれくらいおられるかという数字は、私、はつきりした数字を申し述べがたいのでございます。それは、こういつた日本人方々は現在中国政府公安部門で直接管理をされておりますので、平素こういつたことに携わつていない私としまして、どれくらいという数字ははつきり申し上げかねますが、やはり相当数おられるように存じます。この方たちの御出身は、御承知のように終戦当時非常な困難のために北満地区から南満後退されました開拓団関係の方が大半であるように私了承いたしております。こういつた御婦人の中には、個別的にやはり日本帰りたいという気持をお持ちの方もなきにしもあらず、こういうふうに了解しますが、その点はいろいろ微妙なものでありまして、御婦人として夫への愛着とか、あるいは子供への愛着、そういつたことから、個人としては帰りたいが、やはり残ろうというのが実際の実情ではないか、こういうふうに存じます。実は私、日本帰りましてから、各方面の古い友達あるいは全然存じ上げない方々から御訪問を受けまして、自分の息子が、あるいは自分の兄が、姉がまだ帰つていない、消息を知りませんかという話を各方面から承りまして、私といたしまして、幸いに皆さん方の御援助によりまして祖国帰り着くことのできましたのを非常にありがたく思うとともに、まだこういつた方々がおられるということを聞きまして、何とかしてやはり皆さん努力で早くお引揚げができることを希望しております。また、中にはあるいはもうおなくなりになつたのではないかと思われるような方もおられるようでありますが、これはやはり皆さんの御協力でできるだけ早い期間に生死のほどを確かめ、そうして残つて帰ることを希望しておられる方にはできるだけ早くお帰りを願う、こういうふうに御尽力を続けていただきたいものと思つております。  最後に、私、日本に帰つて参りまして、二十年一昔と申しますが、浦島太郎の二乗か三乗というようなかつこうで、日本状況についてまつたく何もわからない状況でございます。しかし、日本を愛し、私たちの民族を愛するという気持は、私も皆様方の驥尾に付して自分のできるだけの努力をいたしたいと思います。こういつた点で、まつたく日本状況にふなれの私たちに対して、先輩の皆さん方から引続き御援助と御指導を賜わらんことをお願い申し上げる次第であります。  以上、簡単でありますが、ごくあらましの状況を申し上げました。
  10. 山下春江

    山下委員長 ありがとうございました。  次に緒方俊郎君にお願いをいたします。
  11. 緒方俊郎

    緒方参考人 私はただいま御紹介にあずかりました緒方でございます。私も北村さんと同様に、このたび皆様の御配慮によりまして興安丸で帰つて来ることのできました一般邦人組の一人であります。  私は昭和十六年以来上海に居留いたしておりました。昭和十六年に上海に参りまして中国通信社というものに入りまして、終戦の年まであの地におきまして新聞記者として活動いたしておりました。終戦後は、引揚げの船の参りまする間、上海日僑自治会というものがつくられまして、これが日本人引揚げ専務及びそれに関連する事務をいたしたのでございますが、その上海日僑自治会の会長の秘書という仕事をいたして参りました。ところが、終戦の翌年の二十一年一月に、国民党中央宣伝部の対日文化工作委員会という機関ができまして、その機関の強い勧めがございまして、その機関留用となり、主として戦後の中国事情日本紹介する仕事に参加したのでございます。この対日文化工作委員会というのは、その後名称が幾たびかかわつたのでございますが、最後亜東協会という名称になりました。この機関は、上海中共軍が入城いたします直前まで存続したのであります。この機関についてなお十数名の日本人仕事に参加しておつたのでございますが、その大部分、すなわち私を除きその他は二十三年の十二月に全部留用解除になりまして、あの二十四年の十二月の帰国船帰国したのでございます。私だけは、理由は私今もわからないのでございますが、引続き留用ということになりまして、そのまま残されたのであります。亜東協会幹部すなわち中国人幹部は情勢が逼迫するにつれて逃げてしまいまして、私は日本人として残されてしまつた。ところが、留用が解除されていないために、いくら帰国を望みましても、公安局では帰国取扱いをしてくれない。そういうようなことのうちに、結局二十四年五月二十五日でございましたか、上海中共軍が入るとともに機関がなくなり、私がそのまま残るということになつてしまつたのであります。その後、日本中国との間はまつたく交通断絶状態になりました。交通と申しましても、従来は郵便が通つてつたのでございますが、その通郵関係も切れてしまいまして、いろいろと困つたのでございますが、それ以上に困つたことは、いかにして生活を続けるかということでありました。たまたま亜東協会関係しておりましたところの日中貿易をいたしまする華光企業公司というものに招かれまして、華光公司の手紙を書くような仕事をいたしておりました。明けまして二十五年の四月に、人民政府機関であります華東軍政委員会――本日のこの参考人名簿には上海軍事管制委員会とございますが、これは誤まりでございまして、華東軍政委員会、この華東軍政委員会は沿岸六省の大行政区の政治機関でございますが、これはその後行政委員会と名前がかわり、このたび新憲法が公布されるとともに、大行政区画が撤廃され、この委員会もなくなつたのでございます。その当時は華東軍政委員会と言つておりましたが、この委員会のもとに国際政治経済研究所というのが設けられまして、その方面に推薦があり、その工作に参加いたしました。この国際政治経済研究所仕事は、国民党時代亜東協会と大体同様のものでございまして、中国事情日本文に翻訳して、いろいろな方法で日本紹介する、及び日本の、たとえば共同通信のローマ字通信のようなものをあちらでキヤツチしておりますが、そういうものの資料を適当に要約いたしまして報告するというような仕事でございます。そういう仕事研究員という名称のもとに携わつて参つたのであります。その機関昭和二十七年九月の末まで存続いたしまして、これをもつて解消となりました。この仕事は私の聞くところでは中央に吸収されたそうでございます。さて、解消されますとともに、私は突然他の地方に転職するという指示を受けまして、二日間の余裕をもつてただちに汽車に乗せられました。行き先は北京ということでございましたが、途中で、京漢線のあの邯鄲夢の枕の邯鄲の駅におろされまして、それからさらに数時間自動車にゆられまして、着きましたところが永年。その永年に華北軍訓練団というものがあります。その華北軍訓練団のもとにあります日本人訓練組織、その訓練組織の第二大隊に入れられまして、そこで人民政府軍及び政府機関工作をしておりました多くの日本人たちと一緒にいわゆる学習を受けたのであります。ここにおきまして、私どもがかつて日本の対華侵略活動に協力した一切のことを反省する機会を与えられたのであります。その時期は翌年二月まで続きまして、その後永年からやはり河北省の、永年も河北省でございますが、大郭村というところに移されたのでございます。そういたしまして、間もなく、二月の半ばころでございましたが、私だけ特に呼出しを受けまして、ただちに荷物をまとめろ、また他に転出するということで、汽車に乗せられまして、参りましたのが天津。天津で普通の住宅――いかなる住宅かは存じませんが、普通の住宅に収容されまして、そこで約三箇月余り格別に私自身の前歴を――向うでは歴史と申しますが、歴史審査を受けました。これは戦時中及び戦後、戦時中は私の日本の軍官当局との間、戦後は国民機関との関係及びその他におけるそれぞれの社会関係と申しますが、つまり友人知人との関係、そういうものについて具体的に個別的に詳細に審理を受け、かつ報告することを求められたのであります。それから次には北京に移されまして、同様やはり普通の住宅でございますが、それに収容されまして、引続き主として私は社会関係についての審理を受けました。そうして最後に、私が学校を出ました後、つまり社会に出ました後の一切の経歴について詳細に報告を書くことを求められ、約一箇月にわたつてそれを書いたのでございます。書きました後に約一箇月ほどまた余裕がございまして、突然上海の自宅に帰つてよろしいということで、上海の駅まで送られ、あとは私自身で私の家にたどりついたのでございます。それが昨年の十月であります。十月以降、実はその前々から帰ることを希望しておりましたのですが、十月に上海にたどりつきまして翌日、新聞を見ましたところが、集団帰国はすでに打切りとなつたというニユースが新華社の電報として掲載されているのを見まして、私はこのたびもまた帰国の機会を失したのだという感を深くしたのであります。北京を出ますときには、北京の私の審理に当つた人は、上海の自宅におつてつておれ、そうすれば政府の方で君の職業つまり工作は心配する、政府の方で何か君に仕事をさせるからということでありましたが、その後この九月に至るまでそういう通知はなく、かつまた私自身は、自分の了解するところでは政府の公務員としての身分であると思つておるのでありますが、もし政府公務員であるならば引続き給与を受けることができたわけでありますが、その給与も受けることなくこの九月まで自宅におりました。突然公安当局の方から指示がありまして、この興安丸に乗れということになつたわけであります。これが大体の経過でございます。  考えてみまするに、私が幾年住みなれました中国最後の立ちぎわが、はなはだ自分としてもはつきりしない、後味の残ることになつたということを今もつてつくづく考えるのでありますが、これというのも、不幸な両国の関係が、私のような一介の書生にまで事が及びまして、いろいろと格別の審理を受けなければならない、格別のことがなくてもそういう取扱いを受けなければならなかつた、要は両国の関係が依然として今日のように低迷した状態にあるということにあるのじやないかと考えるのであります。このたび一緒に興安丸に乗りまして、だんだん話をしてみますと、同じ一般日本人引揚組を見ましても、いずれもこれは昨年中に帰国を希望した人ばかりでありまして、しかも昨年中にその帰国の許可が出なくて、このたびようやく乗れたという人が非常に多い。その内訳を――これは私自身のことから少し離れますが、この機会を拝借いたしまして申し上げますと、その中を帰国事情別に見てみますと、いわゆる駆逐出境すなわち国外追放の処分を受けておられますのが十五世帯。全部で四十七世帯でございますが、そのうちの十五世帯が駆逐出境、それから九世帯が強制出境、残りの二十三世帯が自由出境ということになつております。この二十三世帯のうちにもまた国際結婚に破れて子供をかかえて帰る御婦人十七世帯の方がそのうちに含まれております。従いまして、普通の状態で帰られた方は世帯数からしましてもきわめて少いのであります。先ほども御報告がございましたように、そういうような関係から、持帰りの荷物なども、おとな六十六人に対して六十六箇、すなわち一人に一つというような状態であります。また携帯品のない者、これも全体の六割に及んでおるのであります。それから、さらに、昨年と相違いたしておりますのは、川発地から集結地すなわち天津でございますが、たとえば、長春から天津、上海から天津へ参る途中の一切の経費、つまり旅客運賃、貨物運賃並びにその食費、これは昨年は中国の紅十字会から支弁を受けたのでございますが、今回は一切自弁ということになつております。こういうこともございまして、荷物も少い。なるべく荷物を持たずに物を金にかえる、そうして日本に持つてつて何とか自活の道を立てようということを考えた人もあるのじやないかと思うのであります。こういう事情で、この点が昨年と非常に違つておる。私自身もその一人でございますが、そのように違つた事情に置かれておるということをつくづく感じたのであります。それで、この機会をかりまして、このたび帰りました人々は、西陵からお帰りになりました旧軍人への方々はもとよりでございますが、一般日本人にいたしましても、昨年と非常に事情が異なるということをどうかおくみとりいただきまして、何か特別のおはからいが願えれば非常に幸いとしますし、また救われることであると思うのであります。そういう事情でございますから、持帰り品の多寡にかかわらず、同じように生活保護の適用を受けるということであればこれまた非常に幸いとするわけでございます。わずかの金額の差によつて生活保護の適用を受けることができないという事情もすでに発生しておりますが、その金額の多寡は決して格別のことではございませんで、途中荷物を持つことができなかつた、自己負担で、しかも持つことができなかつたという事情から来ておるのでございますから、その点をぜひともおくみとりを願いたい、かように思うのであります。  それから、現在中国には、帰国いたしたくてなお帰ることができないで、空しくその日を過しておられる方が非常に多いのであります。ほかの地区は詳しくは存じませんけれども、私が住みなれました上海について申しましても、いろいろな理由で収監されておる、獄中にある方がなお五、六名に上つておられます。それからまた、昨年帰国の申請をしてなお許可が出ない、――決して日常の生活は拘束されてはおらないけれども、許可が出ないということで、管制、こちらでいう一種の観察を受けておられる状態でございますが、そういう方が私の了解するところでは四、五名おられるのであります。こういう人々帰国の問題を解決する方法としては、私どもとしては、どうか日本中国との間で経常的に話合いをするという機会をつくるようにしていただきたい。その意味から行きまして、このたび李徳全会長がこちらに来られるということは、従来中国におりまして帰りたくてやむを得ずおつたという一人としまして、非常にけつこうなことだと思うのでございます。どうか、中国側から一方的に招かれるではなくて、日本側からも関係方面をお招きになつて、隔意なく話合いをされるということに御努力願えれば、問題の解決は従前に増してすみやかに行くのではないかというように思うのであります。  簡単でございますが以上申し上げます。
  12. 山下春江

    山下委員長 ありがとうございました。  最後佐々木繁男君にお願いいたします。
  13. 佐々木繁男

    ○佐々木参考人 私たちが今度中共地区から帰ることになりましたことについて、各議員の方々の御努力と、それから日本国民皆さんの御支援と御援助によりまして無事に祖国へ帰ることができましたことは、私たち最も深く感謝の念を持つておるものであります。厚く御礼申し上げます。  つきましては、私たちがまず上陸いたしましてからすでに援護局の方に提出いたしましたものの中にもありますように、私たち身分問題について、まだ復員軍人としての身分というものは決定されておりませんし、また復員局の方の御意見としては、これは一般人として受入れる、このような御意見でありました。このようなところから、私たちは当然復員軍人であり、私たち身分復員軍人でなければならない、それは私たちが決して自願によつて残つたのではなく、これは軍の命令によつて強制的に残されたものであるというこの点において、私たち復員軍人としてこの問題を取上げていただきたい、このように考えるのであります。  まず第一に、どのような状況のもとに残されたか。私は将の百十四師団ですが、終戦と同時にまず私たちが聞いたことは、日本には無事で帰れない、どこかへ連れて行かれる、こういつたわれわれ兵隊に対するいろいろなデマ宣伝というものが来て、われわれの家へ帰りたいという希望を失わしめるような方法がとられて来ました。当時そういつた状況下にあつて、私もそういつたことにまどわされ、これは無事に帰れないという一種の恐怖というものを持ちながら、私が日本帰りたいという願望というものは、このようなデマ宣伝にまどわされて、同時に私の班長でありました柿原、――当時は兵長であります。これは私に残留をしないかということについて迫りましたし、またあとにおいて渡辺軍曹、これは私の中隊の被服係をしておりました。この軍曹からも残ることについての相談をかけられた。まずこういつた状況下にあつて、島田軍曹、これは別に提出しました文書の中にもありますように、いわゆる当時の残留教育を行つたところの一人であります。この人が私の中隊にも来て、盛んにこのようなことを宣伝し、われわれに残ることを強制しました。同時に、中隊長は、これは新潟県の戸樫中尉であります。これはたしか予備役だつたと思うのですが、はつきりしたことはわかりませんが、この中隊長は、最初残さないというような意見でありました。しかし特務団命令として残れというように態度が一変しました。そして、私と、それから今度帰つて来た中にもありますが、このような状況に置かれ、そして特務団編成という中にたたき込まれてしまつたのであります。そうして、私が残りましてから以後の問題についても、進駐作戦後において私は帰してくれということを申し出ました。そうしたところが、当時の団長であるところの古屋、これは私を帰さない、このようにして私の帰国を拒絶したのであります。同時に、そのような状況のもとにあつて、私自身としても帰りたかつた。しかし帰れない。このような脅迫の中にあつては、私としては帰るというところの願望を達することはできなかつたし、こういつた状況下にあつて強制的に残され、帰る機会はあつたと申されますが、こういつた状況のもとに私は引きとどめさせられたのであります。簡単ですが、私の状況を話しますと、このような状況で残されました。さらに、つけ加えたいことは、機会はあつたにもかかわらず帰らなかつたのではないか――。このような脅迫とテロの中にあつては、――またわれわれの生活の中においてだれ一人としていいものも持つていなかつたし、また国へ帰るにも金はなかつた。そのような願望を持つてつても、脅迫とテロの中にあつて、はたして帰れたでありましようか。これはこの前参議院の方でも証言しましたが、湯浅さんが発言したように、ある者は絞殺されておる。このような状況でありました。このような状況にあつて、われわれの帰りたいという願望はとうてい達することはできませんでした。これが実際の事情であります。  終ります。
  14. 山下春江

    山下委員長 ありがとうございました。  これにて参考人よりの総括的な事情聴取は終りました。  これより委員各位の質疑を許します。木村文男委員
  15. 木村文男

    ○木村(文)委員 まず最初に山下参考人にお尋ねいたしたいのでありますが、ただいま最後参考人としてお立ちになりました佐々木繁男君がお話になりました、また先ほど御提出の供述書にもあつたようでありますが、山下参考人が元軍人であつたので、はたしてそういうような事実があつたかどうかということと、もしかりにそういうような具体的な事実がないとしても、そういうような評判あるいはそういうような宣伝等が行われたというようなことがあつたかどうかをお尋ねいたしたいと思います。
  16. 山下正男

    山下参考人 今御質問のあつた点について、私も佐々木繁男参考人お話したことについて、具体的な状況については私自身もどの方がどのように言つたかということは知りませんが、同じような状況というものはやはりありました。佐々木参考人の述べられたことは私は正しい、またそのような事実はあつた、このように見ております。また私自身もかつて日本軍におりまして特別歩兵十四旅団において少尉で小隊長をやつておりました。このようなときにおいて、私自身の状況について簡単にこれを申し上げますれば、やはり、当時におきまして、今佐々木参考人が言つたような状況のもとにおいて、軍の一部を残留をさせる、そうして閻錫山――当時の第二戦区の教育訓練並びに作戦に従事すること、こういつた点をしいられたのであります。私は当時大隊におきましてこの編成事務を担当させられました。そうして、当時において、下士官あるいは兵の皆さんはやはり国に帰りたい、終戦とともに家郷に帰りたい、こういつた気持をだれもが持つておりました。このようなところから、残留をさせるということについてやはり非常な困難というものがあつたわけです。そのために、いろいろな方法や手段が講ぜられました。これにはやはり、私のおつたところは塁兵団で、兵団長は元泉少将ですが、ここにおいては、兵団長自身が残る、また兵団の大部分を残す、こういつた意向を持つておりましたが、各大隊に対して一定数の人員を残す、また各大隊においては各中隊において一定の人員を割当てまして、私自身もこの業務につきました。このようにして、第何中隊は将校が何名ぐらい、下士官が何名ぐらい、兵がどれほど、このように割当をしました。そうして、それによつてやはり問題が起きました。このような割当を実際に実行させる上においては、将校あるいは下士官、兵の方などの多くの不満というものがありまして、このようなところから、私自身について言うならば、私たちの中隊には中隊長並びに小隊長、こういう者がおりました。この人たちは、やはりおれたちは長い間軍隊において苦労して来たし、今まで勤めて来た、こういつたことについては、若い、まだ兵役年限の少い君たちがやはりやつてもらわなくてはならない――。私自身も一番新参の少尉であつたし、彼らからそのように言われるならばしかたがない、自分自身が残らねばならない、こういつたような気持になりました。また下士官、兵の人についても同じような状態です。古い兵隊、これは、もうおれたちは五年もあるいは長い者は六年も勤めた、こういうことはあとの若い、当時の初年兵、こういう人たちにやつてもらうことだというようなところから、やはりそういつた問題が比較的若い将校あるいは下士官、兵、こういうような人たちにこの割当が強制されるような結果になりました。それによつて、私やそのほかの若い当時の兵士の方々が残りました。大部分は昭和十九年徴集あるいは二十年徴集の人たちが残留したところの部隊の主要な内容であつたのです。このためには、いろいろと個別的に呼んでいわゆる残留の理念といつたものを説いて、日本の復興、これは、やはり大陸に日本軍の一部を置いておく、そういつたことによつて将来日本の再度の大陸侵攻といつたものに備える、日本祖国の復興というものはこの方向にあるというところの理念というものが当時叫ばれたのであります。このようなことについて、私たちは当時それがどのようなものであるかということについてはまつたく了解することができませんでした。ただ、そのような点から、これが祖国のためになる、このような考え方というものを、やはり自分たちはそう考えざるを得ない、またそのように思い込んで自分自身の行動というものをしいられるままにとらねばならない。そういつた余儀ない状態に置かれました。いろいろ私の部隊におきましてもそのような事情というものは存在しておりました。また佐々木参考人が述べられた点については、証言をされた方、その人については、中には了解しておる方もありますし、了解してない方もありますが、やはりこれは全山西派遣軍の各部隊においてこのようなことが行われておつたと私も考えます。私自身も、佐々木参考人の言われたことについて、そのような事実はあつた、またこのように言われることは、当時自分自身が一部隊の将校としてそのような編成業務の一端を自分が担当したというところからも、その事情については了解しております。  今の御質問に対して、私自身の了解した点を御報告申し上げます。
  17. 木村文男

    ○木村(文)委員 それでは、さかのぼりますが、山下参考人にお尋ねいたします。今の御答弁を基礎にしてお尋ねいたしたいのでありますが、第一に、あなたは日本の無条件降伏を知つておられたかどうかということ。第二番目には、あなたが将校としてとられたことが、いわゆる軍の命令と思つておやりになつたかどうかということ。第三番目、あなたの先ほどの答弁によりますと、残留するということに共鳴したというようなお言葉を使つておられますが、もしそうだとすると、これは私としては軍の命令であるということにはとりかねる点が出て来るわけであります。それがはたして指揮系統の通つておる、筋の通つておるいわゆる軍の命令によつて、将校としてのあなたが軍のいわゆる編成事務を担当したのであるかどうか。第四番目は、あなたの今の答弁によりますと、宣伝、デマ等がいろいろ出た、その宣伝、デマによつてするならば、日本がすでに軍を引揚げるといういわゆる正常の、その当時の陛下の御命令である、そう私は考えたいのである。しかしあなたが、それはわからない、こうおつしやることがさらにできるかどうか。これは、佐々木参考人の開陳いたしましたことをあなたは大体においてお認めのようでありますと、ここに大きな矛盾が出て来ると思います。この点を、いやしくもかつては軍籍にあつて、しかも将校であり、この軍の編成事務を担当されたということを、この権威ある国会の委員会の席上において参考人としておつしやるのでありますから、相当慎重な御態度によつて、私はさらにもう一回御答弁をお願い申し上げたいと思います。
  18. 山下正男

    山下参考人 無条件投降については、私は知つておりました。  それから、軍の命令かどうか、これは、当時の大隊長の布川直平、この方から、やはり軍としては、どうしても一部の者を残留させなければ、山西におるところの軍並びに邦人の人たちが山西の土地から出ることができない、どうしても一部の兵力というものを残す必要がある、このように私自身も聞かされて来ました。私自身も、これはやむを得ないことであるというように考えました。当時全部の命令、指示というものは軍の命令で来ております。旅団の命令で来ております。これは、当時の軍隊の系統というものは、復員するまで、すべての命令というものは他から命令が来ておりません。軍命令として、どの命令書にも軍の命令あるいは旅団の命令としてすべての書類が取扱われております。そのようなところから、すべての問題というものは軍の命令、こういつたこと以外にやはり私自身としても了解することはできないし、すべての行動というものは軍の命令によつて行う、このように自分は当時考えて来ました。  その他の点については、今佐々木参考人と私の言うことについて矛盾があるというように言われましたが、私、その点ははつきりと了解できませんが、今言つたように、当時軍の命令によつてこうしなければならない、このように言われております。私自身もやはりこれをそのように信じて来たのであります。特に軍の命令以外に、どうこうするといつたことについて、私は当時山の中の部隊におりましたから、そういつたことについては聞いておりません。これはどうしても一部の者が残らなければならない、そうしなければ軍そのものが山西から帰ることができない、このように大隊長自身からも私は言われました。期間は二年間、やはりいろいろ鉄道の援護あるいは作戦の援助、こういつたことをすることによつて他の人たちがみんな帰れる、これはぜひやらなくてはならない。また私たちも、二年間こういつたことをやることによつていずれは復員できる、このように考えて参りました。また当時軍司令官自身も、また参謀長自身も、各参謀、山西派遣軍の各高級幹部方々も全部残されておつたわけです。そのようなところから、私たち自身も、これはすべて軍の命令によつてこのようにやつておられるものである、このようにしか当時においては了解できませんでした。  以上であります。
  19. 木村文男

    ○木村(文)委員 もう一つ、将来のために確認しておきたいと思います。山下参考人お願いします。佐々木さん方は、はなはだ何ですが、その当時の兵でございますが、あなたは将校のお立場でございます。従つて、私はこれを大きく取上げて確認したいと思うのです。それがやがては復員であるか残留邦人として引揚げるかという非常に大きな問題の岐路に立つと思いますので、この点は慎重を期しなけばならないと思うので申し上げたいのですが、あなたは無条件降伏をしたのであるということをおわかりになつて、そして無条件降伏は陛下の御命令によつて、詔勅によつて下された、だれもが侵すことのできないことであつたということは、将校の立場にあつたあなたは十分おわかりになつておられたことと思います。従いまして、次にお尋ねしたいことは、これをおわかりになつて、軍の命令であるということをあなたはさらに強調されるかどうか、それを言い切ることができるかどうかということをお尋ね申し上げたいということが一点。もう一つ、そこで、軍の命令だとかりにそれを認めたといたしましても、重ねて申し上げますが、先ほどのあなたの共鳴したというお言葉は、これは軍の命令に共鳴したということにはならない。その当時は服従でなければこれはできないはずであります。上官の命令はこれ朕の命令と思えということであつて私もかつては軍籍にありました。こういうことを考えてみますと、あなたは共鳴というお言葉を使つておられましたが、この共鳴という言葉になりますると、これは命令でなくして、残ることがみずからの生命を守り、みずからの生活の保存になる、国に帰れば、おそらく国内は動乱の巷であろうというような、そういう臆測があつたりなんかして残留されたのではないかと、危惧の念さえも出ないわけではない。でありますから、この点をはつきりとさせてもらいたいと思います。この二点について。
  20. 山下正男

    山下参考人 今の点については、当時の日本に帰るということについて、やはり日本状況についても私たち理解することはできませんでした。ただ、いろいろ、残留をするということについて、山西に残ることは生活上の問題についても日本に帰るよりもいい、このようなことは私大隊長自身からも聞きました。しかしながら、それは、残さねばならない、残させるという点について、やはり帰りたい、母親や父親を見たい、また日本に帰つて生活をしたい、こういうような気持の方が強い。そのようなときに、どうしても自分は帰す方にまわしてもらいたいという気持はみんな持つてつたのです。そういつたときに、やはり、どうしても一部を残さなければならない、だれかがこれをやつてもらわなければならない、そういつた命令を執行する上において、当時帰りたいと考えた人たち気持を動かすために、そのようなことがいろいろと言われました。しかしながら、やはり当時におきましても、軍の命令によつて――私たちは、この復員の順序についても、どのようなものであるか、よく理解できない。やはり軍が引揚げる上においては各地各方面において違うだろうし、山西においてはこのような事情が存在しておる。従つて山西の派遣軍の復員というものも他の地区よりも非常に遅れたわけです。やはり、投降した以上は、その地における当時の国民党の言うこと、こういつたことも日本軍としては聞かなければならない、そういう立場にあるのではないかと私自身も考えました。負けたところの日本軍が、その地を統治しておる中国の戦区、これの司令官の命令というものには服従しなければならないものである、このように考えました。このようなことから、日本の軍としてもそれと折合いをつけながらこの復員を完結するものである、このようなことからこういう措置がとられたものである、このように私自身も考えました。当時において、やはり一定の期間が過ぎた場合においては私たち自身も帰れる。――家に手紙を出したときにも、私はそう出しました。みんなよりも幾らか遅れるけれども、やはりそのうちに帰れるから、このように私は手紙を出しておきました。当時共鳴をしたと私が先ほど申し上げたか、どうか、それははつきりしませんが、こういつたことについて、お前残つてくれ、軍としてはこれだけの者を残さなければならない、こういつたときにおきまして、やはり私としても、では当然だれかがこれをやらなければならない。そのときに、自分自身としても、では残りましよう、このように言つたことはあります。しかしながら、このようなことについて私自身が自主的に、おれは残るのだ、残つて何かやるのだ、あるいは日本に帰つて生活できないから、こちらに残つて何かやるのだ、このようなことについては私は考えておりませんでした。やはりこれはだれかが残らなければならないし、また軍としてもそのような措置に出ておられる、こういつたことから、これに服従して行かなければならない、このように私自身も考えたわけであります。当時において、これに反抗するということは、依然として軍紀が続いておるときにおいて、そのようなことはできません。すべて命令に服従することが依然としてそのまま残つてつたのであります。それについて、お前残れ、こういつたときにおいて、では自分は残ります、このように私は事実言いました。しかしながら、これは所詮そのような軍の命令によつて一部の者が残らなければならないということに対して、やはり服従せざるを得ないところのものがあつたのであります。  今のことにつきまして、私自身の当時の状況、また考え方について、このように申し上げておきます。
  21. 木村文男

    ○木村(文)委員 それでは、大体了承いたしましたが、今の山下参考人のお言葉の中にも、お前残つてくれ、こう大隊長から頼まれたという言葉もございます。こういつたようなことをいろいろ考えますと、とかく復員の問題と在留邦人の引揚げの問題を分析する上において非常に困難さをきわめるところがあると思いますが、今回引揚げて参りました方々の中に、澄田らい四郎元中将が入つておられるようでありますが、相当の責任者であると本委員は考えますので、時機を見ましてこの澄田らい四郎元中将を参考人として呼んでいただくように、私から提案をいたします。  以上で大体復員関係の質問を終りまして、次にお尋ねしたいのは、北村参考人にお尋ねいたしたいと思います。まず第一に、北村さんは撫順に長くおられたそうでありまして、しかも技術者として、長い間お勤めになり、いろいろ民間の事情にお詳しいようでありますので、私、次のことをお尋ねして、今後の資料にいたしたいと思います。     〔委員長退席、受田委員長代理着席〕  その一つは、まだ邦人の中で残つておる者があるということをおつしやいましたが、その邦人のうち残つておる者は、日本人としての世帯でなくして、国際的な結婚の上からの邦人である、こういう御説明でございましたが、この国際的な結婚について、国際問題がどうなつておるか、どういう手続のもとに結婚をして、現在国籍の問題がどうなつておるかということが第一点。第二番目としては、日常における生活の上に中共がこれを中国人としての、取扱いをして、平等の、何の差別がなく取扱われておるかどうかということ。それから、もう一つはあなたは先ほど、向うにおる生存者の実地調査をしたらよかろう、こういうような非常に案じておられるお言葉がありましたが、今後日本政府としてこの調査をするにはどういうような調査方法をとつたならば一番よいかというその良策を、向うにおられた方としてわれわれに教示していただく点がございましたら、御遠慮なく具体的にここに御説明を願いたいと思います。     〔受田委員長代理退席、委員長着席〕  以上この三つの点をとりあえず北村参考人にお答えを願いたいと思います。
  22. 北村義夫

    北村参考人 国際結婚をなさつております御婦人の国籍の問題についてのお尋ねでございますが、中国に現在在住しております日本人は、全部中華人民共和国の国民としての権利は持つておりません。これはあくまで外国僑民として取扱いを受けております。従つて、結婚はしておりますが、中国の方と結婚されておる御婦人は、中華人民共和国の国民ではないわけです。やはり日本僑民、日僑として取扱われております。籍は従つて中国の籍にはなつていないと思います。これは日僑として取扱つておりますから、国籍の問題は日本人のままになつておると思います。  第二番目の御質問で、生活の上において中国人と日本人と差別があるかという問題でございますが、先ほど申し上げましたように、中国人としては、取扱われていないわけです。従つて中国人と同様な取扱いは受けていないわけです。たとえば中国国民が持つておる選挙権、最近ございました人民代表を選挙する権利とか、いろいろそういつた点がございますが、そういつたものは持つていないのです。それから行動の自由についてもある程度の制限がございます。これは、日本人だからというわけではなくて、やはり外国人なんですから、中国の法律のきめる通りの制限を受けます。たとえば旅行をしますのについては旅行証明をとることが必要です。私の場合などですと、――私、撫順に長くおりましたのですが、やはり長年住みますと人間ですから欲が出まして、生活がおちついて来ると近くの奉天にでも行つて日曜日に子供、家内をつれて行つて散歩したいという欲望が人間ですから当然出るわけです。奉天に旅行したいというお願い公安局にいたしますのですが、私用で旅行する場合は、やはりいろいろと向うの方に御事情があると思いますが、許可は簡単ではありません。私は終戦後今日まで私用で旅行したという経験はまだ一度も持つておりません。しかし、中には許可を得て瀋陽に行き、あるいはその他に行かれたという方もございます。ですから、まつたく旅行ができないわけではございませんが、そういつた点ではやはり制限がございます。一番御案じになつている、たとえば仕事をいたしまして、もらう給料とか地位とか、そういつた点について中国人と日本人との差別があるかどうかという点でございますが、この点につきましてはまつたく差別がございません。私自身の例で見ましても、また昨年撫順から多数の皆さん方がお帰りになりましたが、俸給とかあるいは工作上の地位とか、そういつた点では中国方々とまつたく同様にしていただいております。そして、生活その他の面では、やはり日本人中国人と風俗習慣が異なるという点で、中国人と同様というよりは、逆にその筋で日本人はめんどうをみないと困るという点でめんどうを見てもらう場合が多々ございます。たとえば、昨年まで撫順にたくさん青年の諸君がおられましたのですが、そういつた諸君の食事の問題とか居住の問題とか、いろいろの点で、やはり日本人はみそしるも吸わねば困るであろうし、たまには刺身も食いたいだろうというふうなことで、まかないとかいろいろな点でめんどうは見ていただきます。またたとえば、御承知のように昨年秋から一時非常に厳重な食糧の統制がございまして、白米を食べることが相当きゆうくつでありましたのですが、私の家庭なんかも、日本人だから白い飯を食わしておかぬと困るだろうというわけで、そういつた面でもめんどうを見ていただいております。大体、向うに残つておられます国際結婚をされた方の生活の水準でございますが、これは結婚をされました御主人の収入によつて左右されますので、一概に申すことはできないと思います。収入の多い方と結婚されておる方はよろしいですが、少い方と御結婚なさつておる方は苦しい。しかし、全般的に申し上げまして、中国では労働者の生活が急速に高まつてよくなつておりますので、漸次生活の水準はよくなつておるというのが事実だろうと思います。  最後に、残つている人をどうして調査するかという問題でございますが、この点は非常にむずかしいので、実は日本中国とが正式な国交関係でもございますと、この点は非常に便利だと存じますが、私個人の考えですから、これはこういう方法ができるかできないかは疑問だと思いますが、日本人管理につきましては、中国では非常に入念に端的に管理をされております。中国公安局に参りますと非常に精細な名簿がございまして、おそらく一人も漏れていないだろうと思います。この点については、ちよつとわれわれが考えも及びませんようで、たとえば日本語を全然忘れている、風俗習慣も中国の方にまつたくなり切つて日本語もわからぬし、着物も中国の服装をしておられる、道で会つてもよほどでないと日本人という見わけがつかない、そういつた方でも公安局の名簿でははつきり日本人として整理ができておるようです。ですから、政府政府との交渉は非常にむずかしいと存じますが、何とかして赤十字とかそういつた手を通じまして、特殊な事情で残つておられる方以外、――いわゆる公安局の内部におられる方は、いろいろ事情があると思いますが、一般僑民としておられる方の名簿をこちらのものと向うのものとつき合わすとか、何かそういつたことができればたいへんけつこうじやないか、こういうふうな気がいたしております。しかし、このためには両方の赤十字とかそういつた機関でよほどお話合いを願わないといけないのじやないか、こういう気がいたします。  それから、もう一つ、あるいは御参考になるかと思いますが、一般邦人というかつこうで日本人の僑民で残つておりますのは、中国公安局で詳しく名簿が作成されておりますし、その他いわゆる戦争関係があるとか、そういつた面で残つておる方は、おそらく人民解放軍の総政治部に詳しい名簿があるものと思います。おそらく中国に存留しておられる日本人の名簿は公安部門と解放軍の総政治部の名簿によつてはつきりするだろうという気がいたします。  以上、簡単でございますが、お答えといたします。
  23. 木村文男

    ○木村(文)委員 それでは、もう一つお尋ねいたしておきたいことは、いわゆる外国僑民として、日僑としての待遇であるというお話でありましたが、そこで案ぜられるのは子供の問題であります。この子供の問題について、その子供の籍がどういうぐあいになつておるかということをお伺いしたい。  それから、第二番目としては、邦人の実態を調査するためには、一般邦人については公安局、それから戦争関係者については人民解放軍の総政治部、そこにみな名簿があるだろう、こう思われるというお話でございましたが、かつて戦争関係のあつた人であつても、いわゆる現地復員といいますか、今問題になつておりますが、そういつた関係にある一般邦人公安局の方に入つておるのであるか、それとも、一回でも軍籍にあつた者、あるいは一回でも軍の特務機関とか、そういつたものになつた者は、あくまでも戦争関係者として人民解放軍の総政治部の方に登録されているのであるか、この点をひとつ伺つておきたいと思います。
  24. 北村義夫

    北村参考人 第一の、子供の籍でありますが、私の了承しております範囲では、生れました子供さんは中国籍になつておると思います。これが、国際結婚をされております御婦人がお帰りになるときにも、やはり一つの問題になり得る問題でして、私実は昨年引揚げのございましたときにも撫順地区引揚げの問題でいろいろお世話をいたしたのですけれども、具体的な引揚げの問題になりますと、なかなか御主人が子供を奥さんにつけて帰さないというのが実際の状況でございます。帰りたければお前帰れ、しかし子供はわしの子供だから、間違いなく中国の籍にある中国人だから残しておけという例が非常に多いのであります。そのためにお母さんも子供とはわかれにくいという点から帰ることについてまた二の足を踏む。実に、昨年なども、引揚げの問題で、中国の方と結婚されておる御婦人は、きようは帰るという申請をされて、二、三日すると、やはり子供とわかれづらいから残ります、そうかと思うと、また一週間ほどすると、やはりお母さんに会いたいから帰ります――。帰る残る、帰る残るで堂々めぐりというのが実際の状況であるように存じます。  それから、在留邦人の名簿の件でありますが、実は私、軍籍と直接関係がございませんので、直接にはよく存じませんが、自分の周囲におられました方の点から推測いたしますと、たとえば元関東軍の軍人であつたというふうな場合でも、これを戦争犯罪行為と直接関係があるとして総政治部で収容した人以外は、やはり全部公安局で所管しておるのではないかと思います。たとえば、私鶴崗におりましたときに、鶴崗には千数百名の日本人がおりました。その大半の方は開拓団とそれから北安、黒河方面におられました元関東軍の方なんでありますが、この元関東軍の若い数百名の方は全部公安局の所管になつておつたようであります。たとえばこのたびお帰りになりました西陵の皆さん、そういつた方は総政治部の籍になつておるのではないかというふうに思いますが、これは私、不完全な憶測でございますから、その点御了承願いたいと思います。
  25. 木村文男

    ○木村(文)委員 次に緒方参考人一つお伺いいたしたいと思います。あなたは大分御苦労なされて、転々として方々引きまわされたような状況でありまして、まことにお気の毒に思います。そこで、その間におきまするあなたの生活実態のお話をひとつ具体的に願いたいと思うのであります。この際特に私が強くお願いしたいことは、ほんとうに自分祖国にお帰りになつて、真の日本人として――日本人には違いなかつたのですけれども、帰つて来たときの感情と、向うにおられたときの感情とは、おのずから生活の面において違うと思う。今回帰られて何日間かを経過された今の心境から、日本人としてのお立場で、その当時転々として引きまわされて歩かれた生活の実態を、できましたら詳細に御陳述をしていただきたいと思います。
  26. 緒方俊郎

    緒方参考人 ただいまのお尋ねは、私が昭和二十七年に永年の華北軍訓練団に参りまして以後の生活状況について申せというお話のように考えます。  最初二十七年十月に参りまして、翌年二月までは訓練団の第二大隊の第九中隊第九班であつたかと思いますが、そこでいわゆる学員といたしまして共同の生活、共同の寝起きをしまして、共同の反省の機会を与えられて過したわけであります。このときの状況は、いわゆる軍隊としての規律のもとにありまして、すべて集団的に行動をすることになつております。住居、衣食はすべて十分の保証を受けておりました。ただ、私自身といたしましては、従来そのような軍隊生活をしたことはございませんので、その点ははなはだきゆうくつに感じました。きゆうくつには感じましたが、共に生活をしましたほかの人々、このうちには大部分軍隊生活をした方がおられましたが、その方々にすれば、まあ一般軍隊生活と大体かわりないものだ、そういうようなお話でありました。特に食事の問題では一般の解放軍で生活をされた当時よりも幾分よいということでございまして、食事はわれわれ日本人の嗜好を十分考慮に入れて、それぞれ自分たちの希望をいれたものをつくることができたわけであります。食事は各班が交代で一週間ずつ炊事を担当いたしました。そういう点では永年及び後に移りました大郭村における生活はまずまず問題はなかつたのであります。  さて、問題は、それから天津に移され、次いで北京に移された、この間の生活であります。これは私もまつたく予期していなかつたことでありますし、一体どういうことになるのか、それもなかなかわからなくて非常に不安を覚えたわけです。天津にまで行きますのには、途中解放軍の将校と思われる人と、その当番兵と申しますか、そういう二人の同行を受けまして天津に参りまして、天津で待ち受けましたジープに乗せられまして、普通の住宅に伴われまして、そこで生活が始まつたわけであります。そこにおきましては、一人、中国人でございますが、二十少しの青年と起居を共にいたしました。そして、私がたとえば夜便所に立つような場合でも、彼は寝ておりましてもすぐ起きて来まして、様子を見届けるという入念の注意ぶりでありました。ここに入りました当時は何事もなくて、一週間ほどしまして、人民政府の公務員で普通の制服を着た人が三人やつて来まして、そうして、あなたは永年及び大郭村で自分の過去について反省する機会を持つた、それによつてあなたが自分自身過去に行つた行為が、どういうものであるかということがよくわかつたろうと思う、それについて自分たちはあなたから詳細漏らさず承りたいと思う、従来はあなたは自分のしたことは別に悪いとは思つていなかつたろうと思う、しかし永年及び大郭村の生活を通じて、あなたがかつて戦時中新聞記者として、及び戦後国民党の文化機関の一員としてしたことが、中国人民に対してどういう意義を持つものであるかということがおわかりになつたろうと思うから、それについて歴史的並びに社会的関係、その間の具体的な点を詳細にわれわれは承りたい、こういうことです。但しこれは今回帰る三万人の日本人全部についてこういうことをしておるのではない、特にこれはあなたに対してするのである、われわれはあなたについては十分のことを了承しておる、問題はあなた自身からわれわれは聞きたいのだ、こういうことでありました。それで、私はその際、私自身の従来の経歴及び主要な社会関係というものは、先ほど申しました華東軍政委員会国際政治経済研究所に入りました当時すでに詳細のことを求められて提出してある、その後数回にわたつて補充の要求があつたので補足をいたしまして提出してある、さらにまた永年及び大郭村に参りましたときも学習生活を通じて批判を受け、またそれに伴つて私自身が検討したこともあるので、すでに尽しておるというように自分は考える、このように言つたのであります。ところが、そのとき、上海においても、それから訓練団においてもあなたのことは諸君はみなよく十分知つていない、だからあの程度のあなたの言われたことでは満足できない、それで尋ねたのである、あなたはまだ重要なことを隠しておる、だからわれわれはそれを聞きたいのだ、こういう話だつた。私が重要なことを隠しておると言われるのははなはだ恐れ入るが、一体どういうことをおつしやるのか指摘していただきたい、こう申した。そうすると、それは自分で考え自分で言うことであつて、われわれが言うことではない、あなたは過去約二年間われわれの政府に協力した人であり、従つてあなたが全部それを開陳されるならば、われわれとしては絶対にあなたを処罰しないということが組織上すでに決定しておる、だから何ら顧慮なくこれを陳述してもらいたい、そういうことであつたのです。その日はそれでわかれまして、その人たち帰りました。それから三日ほどいたしまして、その方がもう一度また見えまして、そうして、まず社会に出て以後のこと、それを逐一記憶しておる限りを述べてくれということでありました。それで私は自分の職歴をずつと経過的に申しました。ところが、向うとしては、そういうことは表面的なことであつて、われわれとしてそういうことは聞きたくない、われわれの聞くのは表面のことではなくて、その裏面の話を聞きたい、こういうお話であります。裏面とは一体どういうことか、私は一向わからないから聞いたのでありますが、それは政治的な行動であるというお話でありました。そうすると、私が新聞記者としてとつた行動、たとえば戦争に協力する記事を書き、あるいは論説を書いたということが、それが一定の政治的な行為であるということでございますかというように伺つたところが、それも表面的なことだ、そういうことではないというお話である。結局私は、そういうものはありません。政党に関係したこともございませんし、それ以外の何らかの政治的な行動というものはやつた覚えがない――。それでは戦後はどうか、国民党のあの機関はC・Cの反共の機関である、その機関において君のやつたことはどうかと言われる。私はただ雑誌の編集あるいは新聞の編集あるいは上部から提出された資料の翻訳、そういうことをやつただけであつて、それ以上のことは別に何もございません。こう言つたのです。ところが、われわれとしては君の言うことは非常に不満足だ――。そこで非常に強い調子で言つた。君は今非常に重要な岐路に立つておる、よく考えることが必要である、よく考えろと言つて、そのままそのときは人人は引揚げて行きました。その間約三十分くらいの非常に短かい時間です。第三回目に見えたときに、どうか、よく考えたかというお話でありましたから、いろいろ考えたけれども、御要求になつておるようなことは自分としてどうも思いつかないということを申しました。そうしましたところが、向うの方で、船との関係はどうかという突然の質問が出ました。船ということはどういうことかと聞きましたところが、だんだん聞いてみますと、上海が解放された後に日本から一つの密輸船が入つて参りました。その密輸船の――当時、先ほども申しましたように、日本との通輸関係が切れまして、日本からの新聞雑誌も見ることができない、ただラジオを聞くだけだという状況でありましたので、そういう日本から来たという人が非常にわれわれはなつかしくて、大体近いところにお互いに住んでおりますので、そういう話が伝わりまして、小さな船でございましたが、この船長に来ていただいて日本のいろいろな事情を伺つたことがございます。その際に、帰るときにその船長に友人への手紙を託したことがあるのであります。そのことを率直に話しました。ところが、その手紙だけではない、そのほかに渡したものがあるだろう、こういうお尋ねでありました。そういうものは絶対にない。それは君が忘れておるのかもしれないからよく考えろということで、そのときは、その間の事情を詳しく文書にして提出せよということでその人たち引揚げたのであります。それで、私は約四、五日かかりまして、いろいろと当時の事情思い出し思い出ししまして、その間の事情をしたためた分書を提出いたしました。その次に来ましたときは、やはり上海にかつておりまして国民党の機関に籍を置いておつた人物です。それは日本人でありますが、その人物との関係について言えというようなことがありました。それもただ戦後同じ機関に籍を置いたということだけで知り合つた人であつて自分としては別にそう詳しく知らないということを申しましたところが、いや、もつと詳しく知つておるはずだということを言つて、これもまた数日の余裕をおかれまして、また考えるだけ考えまして、自分のその人について聞き知つたことを書き、その人と私自身との関係も書いたわけです。ところが、その次にまた二週間ほどだつたと思いますが、日をおいてその人たち見えました。そのときはまた非常に威儀をあらためて、非常に強い調子で、まずあなたから話を聞く前にこちらの方から言いたいことがある、すなわち、その人物は吉井善吉という人でありますが、われわれの手によつてすでに逮捕した、従つて君との関係については逐一われわれは聞いておる、それからして君の陳述は非常に不足である、そういうことを言われた。そこで私は、そういうことならば非常にけつこうであるから、どうかその人と会わせていただきたいというふうに言つたのです。会わせる会わせないは二の次であつて、君自身が、初めから言つておるように自発的に一切を開陳するのがほんとうだ、会わせる会わせないはこちらの問題であつて、君自身の問題としては、出すか出さぬか、言うか言わぬかの問題だということを重ねて強く言われ、もう一度よく考えろということで、また別れた。どう考えてみてもそういうことが一向にわからない。それから、忘れましたが、そのときに、さらに上海で私の友人でありました元外務省の副領事がおります。これは私が上海におりました当時すなわち永年に行きます前にすでに反革命として逮捕されておりますが、この人物が獄中でいろいろお前のことについて話しておる、その人物についても知つていることを言え、その人物のやつた行為についても言え、こういうことでありました。この人についても私は一向表面的のことしか知らないので申しようがない。しかもそれと一緒にやつた政治的行動についても全然自分としては思い当るところがない。そのころはもうまつたく精神的にも参つてしまいまして、非常に閉口したのでありますけれども、ともかくこれはどこまでもがんばつて自分がほんとうにやつたことを向うに認めてもらうということに全力を尽さなければいけない、そうしないと、いつまでたつてもこういうところに置かれて、何が何だかわからないことになり、帰国のチヤンスを失うということにもなりますので、ともかくいわば箸のころんだようなこまかいことまで書き上げたわけであります。もちろんそれで向うの方では満足しない。ところが、お前の書いたものは不満足だと言いはしましたが、それ以上重ねての追究はありませんでした。それから間もなくして北京に移されまして、その際はやはり上海で私が非常に親しくしておりましたもう一人の友人でありますが、この友人がまた上海で逮捕されたということを伺い、この人物との関係について述べよということです。これもまたごく表面的なつき合い――表面的と申しますか、普通の日本人同士の日常的なつき合いであつて、それ以上言うことは自分としてどうしても思い当るところがない。しかたがありませんから、ただ見聞きしたことを書くよりしかたがないのでそういうことを書いたわけであります。そのほか、私がかつて向うにおりまして、日本新聞に頼まれていろいろ多少のことを書いたことがございますが、そういう資料も向うにございまして、このほかに何か書いたものはないか、そういうようなお尋ねがあつたのであります。そうして、その間に向うで何度も言われたことは、先ほども申し上げましたが、君はかつてわれわれの政府に協力した人物であるから、これらの君たちの友人、つまり逮捕された友人たちに対する待遇とは待遇はおのずと違う、明確に待遇はにしておるということをよく了解しろということであつて生活上においては、行動がそのように不自由であつたことを除きまして、衣食においては別に大したことはわかつたわけです。ただ日曜日には、一緒に起居をともにしておりますその若い中国人が映画館に連れて行つてくれたり公園に連れて行つてくれたりしたわけです。ふだん外へ出ないということについては、向うの方では、外へ出ると危険だから外へ出てはいけないというようなお話でありまして、どういう意味の危険であるか、まあ地の理がわからなくてうろうろすれば、公安局の方でおかしいと思う、あるいはその辺の中国人から何かこうされてもいけないというような意味であるか、その辺はわかりませんでしたが、そういうような状態で、普通の衣食という点では問題はなかつたのでありますけれども、外出の自由というものはおのずとそういうように制限を受けておつたわけであります。そうして最後には、総括的にもう一度社会に出て以後の全社会的活動について詳細に書けということで、これは約半月の時間をもらつて書き上げまして提出いたしました。そうしてその後は約一箇月だれもやつて参りません。一体どうなつたかと思つて、いらいらすることも忘れてぼんやりしておるときに、取調べに当つた人が現われまして、上海に帰る気持があるかどうかということを聞きましたので、上海の家が非常に気になるから帰りたい、そうしてできれは早く日本帰りたい、おそらく船がなくなるのじやないかと伺つたところが、それは何とかなるかもしれない、あなたが同意するならば上海に帰つてよろしい、さつそく準備をしろ、われわれの方であす切符を用意しておくから、そういうことで、すぐさま汽車に乗せられて上海帰り、駅でそのまま帰すというようなことでございまして、自分としては、長い期間ではありましたけれども、上海駅から外へ出ますと、何か夢でも見たような気がしたわけであります。その間においては、非常に自分も不満で、ときには何とかひとつ中央政府にでも投書でもしてこの実情を訴えて抗議をしたいというように考えたのでありますけれども、よくよく考えてみますと、私の友達の中に実に数人にわたつてそういう関係でいろいろと中国政府に心配をかけ騒がした人物が私の知らない間に出ておるということでもありますしししますから、それは今後の引揚げに大事な問題でありますから、十分注意をする必要がある、よほど苦しい事情に置かれるならばそういうこともひとつ、やつてみようというように考えたのでありますけれども、最後はそういうことで事なきを得たわけであります。最後になりまして、その間の全給与を受取りました。そして、それによつてその後の生活は多少――半年ばかりその受取りました金によつて生活したわけです。大体そういうことであります。
  27. 木村文男

    ○木村(文)委員 それでは、簡単にお答え願いたいことは、あなたに御家族はありましたか。もしあつたとすれば、その間において御家族に対する中国官憲のお手配といいますか取締りといいますか、何かあつたかどうか。それから、もう一つ、これは前後するようでありますが、あなたの取調べに当つた方は、あるいは監視に当つた方は、公安局の方の関係か軍の関係かということ。それから、最後にもう一つ第三番目として、先ほどあなたの御発言は、今回の引揚者いろいろの種別にわかれている、たとえば国外追放のもの十五世帯、あるいは強制帰国のもの、あるいは自由帰国のもの、こういつたようなものがあるというお話でございましたが、そこで、私、今まで不幸にしてこういつたようなことはわからなかつたのでありますが、国外追放というのは、どういうような理由のもとにするのか、あるいは強制帰国というのはどういうような理由のもとにされるのか、これをひとつ説明していただきたいと思います。
  28. 緒方俊郎

    緒方参考人 第一の点は、私が歴史の審査を受けておりました間に上海における私の家族はどうなつておつたかというお尋ねでございますが、当時私の家族上海でなくて日本の大阪におりました。それで、上海には私の家の同居人がございまして、さらに、何と申しますか、昔大きな料理屋でございまして、ちようど私の今住まわせていただいております常盤寮と同じような住まいのぐあいであります。隣近所みな日本人でございまして、それらの友人たちが私の留守の間の、たとえば家賃を払うこととか、その月々しておかなければならないことをしておいてくれたわけです。従いまして、永年、大郭村におります間には、毎月給与を受けますとすぐ上海に送金をいたしまして、上海へその処理を依頼いたしました。それからまた、さらに上海から日本に送金ができるようであればそれをしてくれるように依頼をしたわけであります。ところが、天津、北京とその後単独で歴史の審査を受けることになりましてからは、そういうことは一切できずに、ときどき町のお金でございますけれども二十万とか十万とかいう金をもらいまして、破れたシヤツをとりかえるとか、あるいはくだものを欲しければくだものを買つてもらうというようなことをいたしました。私は当時前の給与は大体一箇月向うの金で百万元でございますが、一箇月百万元の計算でもつて給与を受取りました。従いまして、食費とか住居費とかいうようなものは支払わずに、ただまるまる一箇月百万元という給与金額を受取つたわけです。でありますから、大郭村におりました間はその都度送ることかできました。ところが、その後は送ることができなかつたわけであります。また国外に手紙を出すことは許されておりませんので従いまして、このたび帰りましてからわかりましたけれども、私自身はほとんど消息がわからないというような状態家族の方は思つておつたわけであります。それから、上海に移送されまして後、これも私がすぐ手紙を出したのでありますが、一回目の手紙だけは着きましたが、その後の手紙はすべて着いておりません。それからまた、中国の国内の他の地方におります私の友人に手紙を書きました。それも手紙は着いておりません。従いまして、船がなくなる時期に上海に帰され、かつ何といいますかはつきりしない状態でずつと置かれたということは、やはり単に私の陳述だけではなお不十分であり、その間において客観的な傍証を固めるということが政府当局、つまり公安部としては必要であつたのではないか、かように考えます。  それから、さらに、ちよつと長くなりますけれども、この際……。今回帰るときに、天津に参りまして、天津の旅館でわかつたことでございますが、昨年上海から帰国するはずで、まさに乗船のときに公安部に逮捕されて監獄におつた一人の歯科医があります。この歯科医が今回釈放されまして、先ほど申しました強制出境で天津に参つております。それが、私が来ておることがわかりまして、面会を求めました。私は会いました。ところが、そのときに初めてわかつたことでありますが、その人がどういう精神の状態か存じませんが、私が日本の特務機関中心人物として上海に残り、上海の民情を視察しているのだというようなことを、当局に対してではなくて、その愛人である中国婦人にそういう手紙を書いておつたそうであります。その手紙を公安当局にとられてしまつた。そうして彼は、逮捕されると同時に、軍国主義者緒方俊郎を本日逮捕した、お前もそれによつて逮捕したのである、だからその関係において逐一述べよということを去年の四月言われた、そう言うのであります。天津のホテルで会いましたときに、彼はまず非常に申訳ないことをした、あなたは公安部当局から去年の四月逮捕されたでしようということを言いましたので、逮捕はされないけれども、何だか自分としても了解のつかないような状態に置かれてここへ来たのだということを説明したところが、その原因の大半は実は自分にある、自分は実は公安部に逮捕された後三箇月間というものは、それはうそである、でたらめを書いた、小説を書くような気持で書いたということを非常に強調した、ところが向うとしてはわかつたのかわからないのか結局ははつきりしないままでそのことは終つたというようなことを言つておりました。このことについては、申開きをせよと言われれば、どういう処断を受けてもよろしいということをその人は申したのでありますが、事はすでに終りましたあとで、そういうことはいまさら笑い話だから、まあまあ今後ひとつよろしく頼むということだつたのでありますけれども、そういうこともありまして、人民政府自身としてはまことにやつかいな一つの存在だつたと思うのです。先ほど私申しましたように、こういうことも、中国日本との間がこのような不幸な状態にあるということで、あちらの政府自身が必要以上に神経をとがらせなければならぬということにあると思う。もしこれが国交が正常化しておれば、私のような状態には絶対置かれることはない、おそらく向うの日本の出先当局がこれを保証すればさようなことは起らない、あるいは政府当局を通じてそういう問題は解決すると思うのです。それがないものでありますから、自然向うの当局としてはそれぞれの残つた日本人、あるいは外国人としての日本人ですけれども、それの全部を直接掌握しなければならぬという非常にむずかしいところがある。そこで、紙一重のところで逮捕か逮捕でないかという非常に微妙なところを歩きながらも、その人間の問題を全面的に掌握しなければならぬという必要が出て参る。そういうように今になつて自分で私は考えるわけです。  それから、第二の問題でございますが、軍関係か公安関係のお取調べを受けたかというお尋ねでございますが、これは私もどうも今もつてはつきりしないのは、私と天津あるいは北京あるいはまた上海にそれぞれ同行してくれました人はいずれも列車の中では軍服を着ておりますが、直接私を審査するときは普通の政府の公務員の服装をいたしておりました。その服装のぐあいから見まして、これは上級の人物であると思います。普通の木綿でなくラシヤの服を着ておりますから、かなり政治的な地位の高い人ではないかというふうに思うのです。私の考えるところでは、これは公安部という、つまり今度は国務院という名称になりましたが、国務院公安部というのではないかというように思つております。外国人はすべて国務院公安部が一掃して掌握しているというように思つております。  それから、第三番の帰国のいろいろの事情の差別でございますが駆逐出境と申しますのは、監獄におられまして、そうして一定の刑を受けられる、今回恩赦でございますか、そういうことで刑の途中で出て来られた方、あるいはまた実刑はなくて追放ということでもつて、その追放がすなわち実刑というような方、そういう方がございます。たとえば、北京でございますと、刑期が十年で実際今までに四年の実刑を受けられたとか、あるいは三年二箇月受けられた、そういう方がございます。この方々帰国寸前に呼び出されて判決文を示されて、そうしてお前の罪はかようよう、刑期は十年なら十年、そしてそれは逮捕の日より起算する。そうして、駆逐出境ということで、北京から護送つきで、つまり天津まで護送されて、紅十字会に渡される。だから、紅十字会に渡されたときは、刑務所の中におられたそのままのよれよれの夏の普通の衣服でありますけれども、そういう衣服を着ておられた。それを、紅十字会のはからいで、多少の金品を受けまして、衣服をあらためて帰つて来られた、そういうような状態であります。  それから、強制出境といいますのは、これはいろいろな事情でございますが、逮捕するほどのこともないというような人々は、逮捕されないで、ただ何時間以内に立てという命令を受けておられる。こういうのが強制出境と私どもは申しておるわけです。私どもも、今度帰ります場合には、二日の余裕しかありませんで、突然呼び出されまして、帰れ、政府の方では君に仕事を分配するところの準備がないということが一つ、それからもう二つは君自身の経済生活が非常に困難であるということ、これによつて今回の船で帰つた方がよろしい、われわれとしてはそれを強く希望するということで、あまり時間がないからもう少し待つてくれ、いやだめだ、いついつ何時何分の汽車に乗れということでございました。私などは半強制というくらいのことじやないかと自分では思うのでございますけれども、そうでなくて、もつと時間を定められ、乗るまでずつと係官がつき添つたという人がございます。こういうのは強制出境というような部類に入るかと思います。それから、自由出境というのは、これは普通登記いたしまして、許可が出て普通に汽車に乗るというようなものでございます。この人人も、今回の場合は大部分昨年登記をして、そして今回初めて許可があつたという人が多いわけでございます。  お尋ねの帰国事情の種別でございますが、大体このように私どもは了解しておるわけです。
  29. 山下春江

  30. 受田新吉

    受田委員 長い間いろいろ御苦労をかけましてお帰りいただいたことに対して、おわびと感謝の気持を捧げたいと思います。先ほど委員を代表して舞鶴にお迎えした状況報告を申し上げました通り、私たち皆様の御帰国に対して深甚なる歓迎の意を表しておるわけであります。従つて中国におきまする御生活を伺つて、外交折衝その他いろいろな手段をとつて引揚げ促進に役立て、まだ残されておる方を一刻も早くお迎えできるならば、この委員会としては目的達成に役立つわけで、その点を今お尋ねしておるわけですけれども、先ほど御説明いただきましたあちらの状況の中で、ごく簡単に要点をつかんでお尋ね申し上げて、早く質問を終りたいと思います。  山下さん、佐々木さん、それぞれ西陵においでになられて、戦犯として御苦労いただいたわけですが、今御説明のお言葉の中に、上官から強制的に居残りを命ぜられたということでありました。ところがまた、お聞きするところによると、聞きようによつては、自分がここに残つて終戦の整理などにでも多少役立つならばという気持で、ことに山下さんの場合のごときは、ある程度上官の命令に共鳴をされて残られたというふうにも伺えるわけですが、この点、御一緒におられた人々の中にはそういう命令を受けながら帰られた人も相当おいでになるのではないかと思います。そうして、命令を受けたが帰つた人と残つた人というふうに別れていることになりますと、その命令なるものは絶対的なものではなくして選択的なもの、すなわち自己の判断によつて居残りする場合と帰る場合との、区別ができる状況にあつたというふうに考えられぬこともないと思うのですが、その点はいかがお考えでございましようか。お二人からお説明をいただきたいと思います。
  31. 山下正男

    山下参考人 今の御質問について、私個人の問題から御説明申し上げたいと思います。当時最初残留をすることについては、約二箇年間くらい向うにおつて、向うの軍隊の教育あるいは作戦といつたものに従事するということであつたのであります。私自身も、大体二年間くらいこれに従事することによつて山西におけるところの軍は全部帰還することができる、このように最初から言われておりましたし、またそうしなければ他の大部分の邦人が帰国することができない、このようなところから自分は残つておりました。この間におきまして、一部の者が帰国するといつた状況もありました。これについても向うでは非常に問題があつたわけなんです。これは、一つは、向うではこの者を帰す、こういうようなことはありません。特に下級の将校あるいは下士官、兵という人たちが、故郷を慕う、どうしてもうちへ帰りたい、こうした希望が非常に強く盛り上つて来たのであります。特に太原が包囲されて戦況が不利になつて来る、戦死者も続出する、負傷者も出る、こういうような戦況というものがどの人にも身の危険を強く感じさせたのであります。そのようなところから、やはり帰りたいといつた気持が強く起つてつたのであります。それで、当時私の見た範囲においては、軍に残つた者の中で、あるいは大酒を飲むとか、あるいはいろいろなばくちをやつて言うことを聞かない、こういつたような者は帰すということをやつております。なぜならば、残しておいてももう言うことを聞かない。このようなところから、そういう者を帰したわけです。当時帰りたいという者は何回も嘆願書を出したのです。各管轄の部隊長、当時においては団長といいますか、そういう人たちに、自分帰りたいから帰してほしいということを何回も陳情したわけです。しかしながら、それがなかなか許可されません。こういつたいきさつがずつと引続いておつたのであります。しかしながら、この帰りたいというところの運動が非常に高まつて参りましたので、この事態を収拾する意味から、やはり一部帰すというようなことが行われました。そのときにおきましても、なかなかこの許可というものは得られないわけなんです。いろいろ帰国名簿というものを出しますが、向うでもつて、それを必要とする、これは残しておこう、こういう者があると、やはりいろいろなことを言われて、帰国名簿から抹殺してしまう。こういうようなことも事実存在いたしました。あるいは、そういうことを強調するために迫害を受ける、あるいはなぐられる、あるいは、私の聞いたところによると、ある人は殺されるというような事実も私聞いておりました。そのようなところから、こういうことも思うように言うこともできない。恐怖心というものがやはりございまして、私自身にしても、私自身は特に比較的高級の幹部の人たちと一緒におつたわけなんです。そのようなところから、また自分の与えられたところの職務上から、こういうことを申し出るというようなことについても――自分は申し出ました。事実帰国の準備をしました。そうして自分は帰るから、こういうことを述べましたが、しかし、お前やはり引続いて教育に当るように――。最後自分が言つたときには、もう自分は事実飛行場のところまで行つたのです。しかしながら、新しい部隊を編成する、これは砲兵訓練団と申しまして、こういうものを編成するときにはやはり一定の人員を必要とする、こういつたところから、私には当時司令長官だつた閻錫山、あの命令だと言つて、結局当時参謀の人から名ざしで残れと言つて参りました。こういつたことについて私ども前もつていろいろ申しましたが、やはり許可されませんでした。こういうような事実から私自身も残らざるを得ないような結果になつたのであります。他の人の状況についても大体そんなような状況が存在したのではないかと思います。
  32. 山下春江

    山下委員長 佐々木参考人、今の問題についてお願いいたします。
  33. 佐々木繁男

    ○佐々木参考人 さつき質問の中におきまして、帰れた者と帰れなかつた者という問題が提出されております。これはどのときをさして言われるのですか。
  34. 受田新吉

    受田委員 戦争が終つた直後に、あなた方が閻錫山の傘下に入られるときのことです。そうしてその際強制残留を命ぜられた。今山下さんから言われたように、閻錫山の命令であるということで人を名ざして残留を命じたという場合もあるということですが、同じ中隊や小隊の中に、帰つた人もあれば残つた人もあるということになると、そこに隊長の命令が、絶対に全員残れというような形でなくして、できるだけ残つてもらいたいというような選択的な意思が働くような形で残留を命ぜられたのか、帰つた人の場合と残つた人の場合をひとつ比較していただいて御説明いただきたいのです。
  35. 佐々木繁男

    ○佐々木参考人 この問題について私考えますのに、確かに帰つた者もあるのです。また私たちのように残された者もあります。その事情を申し上げるならば、これは各部隊またその各おつた所によつて異なる、私このように考えます。しかし、軍の意図としては、はつきりと、もし帰るとするならば強制的でも一部を残す、こういつたのが当時の軍の腹のようでありました。そのことについて、私は、特務団編成になつたときにおいて、お前は特務団編成に行け、このように言われた。その前によく了解していただきたいことは、当時、われわれ日本軍が投降したいうことについて知つたのは後です。そのような状況下において、すでに軍はいわゆる残留させるための準備工作としていろいろな、さつき申し上げましたような、無事に日本に帰れない、このような宣伝工作を行つたものなんです。で、その宣伝工作というものが、われわれの当時の敗戦という、こういつた状況を利用して行われたものなんです。そうであるとすれば、もちろんその中において帰つた人もあります。しかし、私の場合は、お前たちは特務団へ行け、このように言われまして残つたわけなんですが、事情を話しますと、そのようなことであります。  それから、もう一つは、この命令という問題について、私、兵隊でありますから、どのような命令が来ておるかということは当時は聞き出せませんでしたけれども、とにかく特務団として編成するからしてお前は残れ、このようなことを言われた。そのようなもとで残りました。残つてから後というものも、いろいろさつき申し上げましたように帰国をする機会はありました。しかし、私どももそのような状況に伴つて帰国を申請したところ、却下されて、そうして帰れなかつたというような状況なんであります。それで、この軍命令という問題について今質問があつたのですが、もし個人の意思で残つたとするならば、なぜ政府はそのようなことを放任しておつたかということなんです。なぜ軍命令が不徹底なのかと言われるのだつたならば、われわれが残つたということについてはすでに前に帰られた人々によつてよく了解しておるわけなんです。もちろんその中にはいろいろな事情があると思います。しかし、われわれのそういつ帰りたいという願いを達成してくれるはずなのが、どうしてそういうふうに帰さなかつたのか。当時聞くところによれば船さえも派遣しなかつたというようにも聞いております。それから、もう一つ、軍命令について当時積極的に残留工作を行つたのは岩田参謀です。その上に河本大作、この人は川端六二郎と名前をかえておりました。そうして西北実業公司、これの顧問をやつておりました。この人々は閻錫山あるいは山岡少将、こういつた人々と常に残留問題について討議されております。それが、今言つたような岩田参謀、こういつた人々によつて、もちろん当時においては命令という形では出ておりませんけれども、何らかの形において残留させるということがすでに決定され、またそのように工作が行われておつたように考えられますし、そのことについてはさつき山下参考人が言われた通りです。それで、またこういつた事実もあります。南京の総司令部から、日本人は山西に残れというようなことについて、ある参謀の中佐が太原に来られた。そうしてその事情調査されたということについて、これは帰さなければならない、軍令第三十六号というもので帰せというような命令が来ておるわけです。しかし、実際山西に来られたとき、こういつた人々によつてうやむやにこれが黙認されたわけなんです。ということは、命令という形が、どのような性質をもつて行われたかということは、この一点においてもわかる。すでに山西に残れということが公然と認められたというふうに私考えるわけなんです。それで、すでにそのとき山西の第一軍においては強制的に残すということが大体決定されておつたようであります。そのような状況から、一部帰つた者は帰りました。しかし、帰ろうとしても必ず強制的に残すというのが当時の軍の腹であつたということは、この一点から見ても了解することができるのではないかというように考えます。
  36. 受田新吉

    受田委員 今山下さんから閻錫山命令というものが言われたわけです。それから、佐々木さんから、さつき特務団の編成によつて命令が出たというお話があつた。そこで、さつきの佐々木さんのお言葉の中には、直接に残ることを要請したのは兵長であり軍曹であつたということでありまして、軍の指揮系統で直属上官が全員に対して同一命令を出したのではなくて、各個にそうした兵長とか軍曹を使つて居残りを説得するような方法に最初出たのが、それでは残留者が十分得られないということになつて最後に強制命令というような形になつたというようにさつきのお言葉では聞けるのでありますが、そういう点は私としてはそう感じているのです。今度お帰り願つた西陵の方々はいろいろな事情で残ることを余儀なくされた方々であつて、その事情については私も了としますけれども、その動機というようなものについて、やむを得ずそうならざるを得ないような形になる前にこちらに無理やりにでも帰ろうとすれば帰れたのが、一つの空気に押されてずつと行つたような形になつたのではないかという心配が一つあるわけです。その点の御説明をいただきたいと思います。  それから、いま一つ、二十四年三月に投降して、今村さんが服毒自殺をされ、それ以後戦犯として収容された後の待遇は非常によかつたということでありますが、その戦犯収容期間中において郷里に手紙を出せない。これは、国際法規の上からも、戦犯の氏名とかいうものは全部それぞれの国々に知らせなければならないというような国際法規があるのです。しかし、それが法規に従わないで、だれがどこに収容されているのか、――そういうせつかくいい待避を受けているのですから、こういう人がこういうところに収容されているということがこちらに通報されなければならなかつたと思うのです。それと、御家族にしてみれば、先ほどからお話の通り、皆さんかお帰りになるのは今度の帰還で初めて知られた方かきわめて多いわけですが、こういうことになりますと、戦犯収容期間中における取扱いは、郷里との文通ができないというような精神的苦痛が非常に大きかつたのではないか。それを、なぜ手紙を出せなかつたかというような事情などについても聞きたい。  それから、未復員者給与法、特別未帰還者給与法という法律が日本には相次いで行われておつたのでありますが、この法律の適用を受けさせるためにも、向うからそういう戦犯収容者の氏名を報告してもらつたならば、その留守家族に安心してその期間中にこの法の適用を受けさせることかできたのです。残念ながらそういう情報が向うから入つて来ぬばかりに、今回初めてお帰りになられて、ずつと前に帰られた方はそれを一括してもらつておられるのに、皆さんは未復員者としての身分が今どうなつているかということについて厚生省からいろいろ意見がさしはさまれているというので、おもらいになられないでおる方が大多数である。こういうことになると、これは結局戦犯として収容されたことの取扱いに不備があつた結果この法律の適用を妨げたと私は思うのです。この点においても、早く帰られた方と今度帰られた皆さんとがまつたく同じ取扱いを受けるように、事実問題としてならなければならなかつたのですから、戦犯収容期間中における取扱いに、皆さんとしては、手紙を出させなかつた、あるいは氏名の通告もしてくれなかつたとかいう点について御不満の意思があるかどうか。この法律の適用を受けさせなかつた原因はそういうところにあつたので、氏名でもわかつておつたら、留守家族はこの特別の定めでちやんと手当をもらつておつたんだ。あるいは今度もどつてもすぐこれが手渡されるんだがということについても、遺憾の意が皆さんのお気持の中にありはしないだろうか。この点ひとつ御心境あるいは向うの状況を御報告していただいたらと思います。
  37. 佐々木繁男

    ○佐々木参考人 まず第一番目の残留の動機について、これは先ほどから申し上げている通り、私たちの心境というものをよくお考えになつていただきたいと思います。当時私たちが、何べんも繰返すようですが、終戦に立ち至つたときの当時の状況としては、非常に悲観し落胆したというような考えもありました。同時に、そういつた状況下にあつたときに、今度降りかかつて無事で帰れない、満足に帰れずに、あるいは死ぬかもしれない、まともに船は着かないというようなことを言われました。これは何もそういう空気がないのに生れて来るような言葉であるかどうか。これは、当時そういつた空気をつくり出したのはだれなのかということをよくお考えになつていただきたい。そういつた状況下において、帰れない、殺される、こういうような死の恐怖にさらされたのは当然です。私は今まで戦争中にあつて死の恐怖にさらされて来ました。それがまた、船が着かない、やはり死ぬんだというようなことで、死に対する恐怖というものから、当時特務団の編成ということになつた。大体動機といえばこのようなことです。  それから、もう一つは、通信ができなかつたかどうかという問題。これははつきりしていると思います。当今は日本中国とは正常な関係にないわけです。当時においていろいろな条件もありました。しかし私としては手紙を出したいという気持はありました。私は一ぺん手紙を出したことがあつたと記憶しておりますが、これは大分前だつたと思います。そういうふうに出したという記憶はするのですが、これははつきりしておりません。このことに対して、手紙を出さなかつたということには私は決して不満を持つておりません。しかし、私たちがどのようなことになつているかということについては、前に帰つた山岡参謀とか澄田らい四郎中将、こういつた人々が私たちの名簿を持つて来ているはずです。どのようになつているかということについてはよく知つているはずだと考えます。そこで、こうしているということがわかれば、いろいろ未復員者給与法ですか、これを適用されるというように言われているのですが、この点、私、はつきり了解できないのです。この残したということについてよく知つておれば、これは当然適用さるべきだと考えるのですが、問題はやはり自願であるか強制であるかという問題にかかつて来ていると思うのです。
  38. 山下春江

    山下委員長 山下参考人、何か御意見があれば……。
  39. 山下正男

    山下参考人 今の佐々木参考人の説明に少し補足いたしたいと思います。最後中国政府から文通を私たちにさせなかつた、このことについては現在不満を持つておりません。向うで健在であつたということを両親もほんとうに今度初めて知つたわけです。しかし、こういつたことについて伝えてやりたい、こういう気持はありました。しかしながら、やはりなぜ文通させなかつたかという問題については、私自身も了解できないのですが、このこと自体について、現在においてやはりこのように無事に帰つて参りまして、両親とも会いましたから、別にこういつたことについて不満はありません。これが、援護金ですか、こういつたものを支給するところの法を適用させることのできなくせしめた一つの原因である、この点について私よく了解できないわけです。手紙が来なかつた、向うの状況が通告されなかつた、この一つの点で、この人がどこにおるかわからないというところから、この人たちが未復員者として取扱われたい、このことについて私も了解できないわけです。これはやはり実際問題として未復員者であり、また向うにおつてまだ帰ることができなかつた、これは当時の状況が不明であるなしにかかわらず、事実としてはやはり未復員者であると自分は考えるわけです。ただ、この間において状況が――これは山西だけの問題ではないと思います。南方においてもどこにおきましても、行方不明やいろいろな問題がたくさんあると思う。その人たちがひよつこり帰つて来る、こういう事実もあると思う。このようなところから、やはり私たちが未復員者であり、またこのたび復員をして来た、こういつた点について、こういつた法規を適用していただけるものじやないか、私自身も向うでそう考えて参りました。またこちらに帰りましても私自身そのように考えているわけです。これをせしめなかつたの中国側が私どもに文通させない、あるいは通告がなかつた、そのために状況が不明であつたので、これを未復員者として取扱わないという原因になつているということについては、私はよく了解できないわけです。私の考えとしては、そういうことは実際問題としてこういう理由あるいはその原因にならないのではないか、このように考えるわけです。この点について自分自身の考えとしてはそのように考えております。
  40. 受田新吉

    受田委員 この二つの法律の適用を受ける人々に、法律に規定した資料を持たなければならないということになつている。そうして、向うにおいでになつて戦犯として収容されておるということがはつきりすれば、これがもう第一。家族にしても、今日までこれだけ苦労をして、生死不明のままで九年間もやせ細る気持でおるし、またお帰りなつた方の中にも、帰らないものとして奥さんが結婚なさつたというようなことも起こつている。少くとも戦犯で収容されている者の氏名はこうであるというのが故国に知らされておつたならば、そういう家庭的な悲劇などもなくて、その家庭との気持をつなぐ上にも非常に好都合であつたと思うのですが、きよう現実に生きて帰つて家族がお喜びになるということは想像できます。しかし、戦犯の氏名というものが故国に知らされるという必要がある。佐々木さんからのお話のように、氏名がこちらに知らされておつた、かつての上官が持つてもどつたということでありましたが、あなた方が今度お帰りになりましたときに、実際舞鶴にお上りになつてみられて、その氏名を持つてもどつたはずであつたのに、家族がわかつていなかつたのじやないかという事態にぶつからなかつたか。そういうことについて御意見を伺いたいと思う。
  41. 佐々木繁男

    ○佐々木参考人 これはたしか一九四九年であつたと思うのですが、つまり私たちが捕虜になつた年だつたと思う。それは月日がはつきりしないのですが、そのときたしか手紙を出したというふうに記憶しております。今度帰つて来まして、そのようにはつきりするしないということについては、私は全然聞いておりません。よしんばこれがはつきりしないにしろ、はつきりしたにしろ、当時の残した人々が、誠実な態度をもつて、この人々を残してあるからということをはつきりするならば、そのことについてはよく家族に対して通達があつたはずです。あつたにしてもその点はつきりどのようになつたかということは私了解しておりません。私、死んでおつたのか生きておつたのかということについては、家族の面会においても聞いておりませんし、向うでまたそのように話しませんでした。ただ、無事に帰つて来たということに対しては非常に喜んでくれましたし、大体具体的なそういつたいろいろなことについては、私、まだ聞いておりませんし、また向うの方にも話しておりません。今の御質問に対して、はつきりしないのでお答えできないのです。言われたことは、結局私が手紙を出したということについて家族が知つておつたかどうかということについてなんですか。
  42. 受田新吉

    受田委員 向うから澄田中将などが帰られたときに、氏名を持つてつているから、戦犯として向うに残つているということを家族が知つておつたと言われたのですが、事実帰られて、わかつておられたかどうかということです。
  43. 佐々木繁男

    ○佐々木参考人 だから、そのことについて、私、その書類を持つて来たということについて、先ほども参考人の方に、中に書いてある内容をよく話したのですが、それが家族にそのように通達されておつたかどうかということでないかと考える次第です。
  44. 山下春江

    山下委員長 佐々木参考人に申し上げますが、今の受田委員の御質問は、あなたが舞鶴にお上りになつたときに、あなたの御家族が、前にこれこれの方が帰つて、お前が戦犯で収容されていることは聞いていたよと言われたかどうかということです。
  45. 佐々木繁男

    ○佐々木参考人 そのことについては私は聞いておりません。
  46. 山下正男

    山下参考人 私の場合は、はつきりどこにおるとか、こういう場所は、やはり父も知つておりませんでした。しかしながら、中共地区におるということについては大体了解しておりました。また援護局へ行つて帰還者の名簿を私見ました。これには、前に帰られた、第六次ですか、これで帰られた人々が、大体この人たちはどこにおるということをすでに報告されて、あの名簿にすべて書かれておりました。これは去年の八月か九月ごろに調べられたようであります。あれを見ると全部それに書いてあるわけです。ああこの当時からは私たちが向うにおるということはやはり家庭でも知つておつたし、また政府の方でも知つておられたのじやないかと、私はあの書類の中からそのように了解しておつたわけです。
  47. 受田新吉

    受田委員 それで、山下さんの場合は、帰られた人が伝えておつたので助かつたわけですが、山下さんのさつきの御説明の中にも、自分も西陵に残留者がいることを知つているというお話があつたわけですが、その氏名とか、その場所とかいうこともおわかりであれば、そういうものが今度御報告されることによつて、まだわからなかつた御家族に安心感を与えるわけです。そういうことについては知つた範囲内で――残留者がいるということについて、氏名とか位置というものはおわかりになるでしようか。
  48. 山下正男

    山下参考人 これについては、援護局の方に、どこにおられるか、またどのような状況であるかについて、私了解しておる範囲で御報告申し上げました。
  49. 受田新吉

    受田委員 私の質問を終ります。
  50. 山下春江

    山下委員長 中井委員
  51. 中井徳次郎

    ○中井(徳)委員 たいへんどうも遅くなつて恐縮でございますが、簡単に二、三お尋ねをしたいと思います。  先ほど問題になつていました山西の方に駐在なさつておつた方にお伺いいたします。このことにつきましては、個人的にはまことにお気の毒だと存じます。あれがもし上海とか天津あるいは東北あたりに駐屯なさつておつたら、ずつと前にお帰りになつておつたと思うのであります。問題は結局、山西において閻錫山を助けねばならぬというふうな判断をしました一部の首脳部の人たちに、この帰還が遅れたことについての大きな原因があると思うのですが、その人たちも山西におらなければあるいはそういう判断をなさなかつたかもしれぬとも思うのであります。この間から新聞紙上をにぎわしております手続の問題につきましては、私個人は皆さんのお気持はよくわかります。できるだけ政府の方にわれわれとしては努力をしたいと考えますが、結局問題は、閻錫山軍に編成されるということになりますと、法制的には何か日本の軍隊でなくなつて私兵のような形になる。中国の内乱に手伝つたということになりまして、皆さんの戦犯も中国の内乱の戦犯ということになりまして、ちよつと他の戦犯と違つておるのではなかつたかと私は思うのであります。そこで、問題は、閻錫山助くべしという判断をしました首脳部でありますが、大体どういう人たちがそういう判断をなすつたのか。これは佐々木さんではよくおわかりじやなかろうと私は思いますが、山下さんは将校としてお勤めになつておつたことですから御存じかと思う。その当時の山西の首脳部がどういうメンバーであつたか、そのうち河本大作氏は自殺されたように伺つておりましたが、あの人は軍職にはなかつたのでありまして、終戦後そういう立場をとられたというふうにわれわれ伺つておりますが、そういう首脳部の人で今内地に帰つておられる人あるいは現地に残つておられる人を御存じでありましたら、この席でひとつ御発表が賜わりたいと思います。
  52. 山下正男

    山下参考人 今の御質問についてお答えいたします。私の了解した範囲におきましては、山西派遣軍の司令官、当時建制上の第一軍司令官澄田らい四郎中将、この方が一九四九年のたしか一月ごろまでおられたと思います。それからその下におられた第一軍参謀長山岡道武、その下に参謀長で岩田清一少佐、この方たちが軍の方としては最高の幹部であります。そのほか軍に関係せられたところの城野氏、この方は陸軍の階級は中将でありますが、向うで前の山西省政府の顧問などをやつておられました。あるいは向うの当時の日軍がおりましたときの保安隊の教官、あるいはそういうことを指導されたその方々が、やはり軍に直接おられた現籍の幹部の方と一緒に工作されておつた、このように考えます。これは大体山西派遣軍司令部の関係方々であります。それから、山西派遣軍の中の各兵団長、この方には将兵団の三浦中将、この方も途中からお帰りになりました。それから元塁兵団、これは独立歩兵第十四旅団、ここの兵団長をやりました元泉少将、この方は作戦中において戦死されました。それから独混三旅団、ここの高級参謀と申しますか、この方が今村方策大佐、この方は十総隊、当時日軍の部隊、これを最後まで指揮しておつたところの人です。先ほど河本大作という方が自殺されたと言われましたが、この方ではなくて、今村方策という方が太原解放で捕虜となると同時に毒で自殺しました。このうちで澄田中将、山岡中将、それから三浦中将、この方々は太原の解放される直前に前後して日本に帰つております。向うに最後に残られたのはさつき申しました服毒自殺されました今村方策、岩田清一少佐、河本大作、この方方と、川端六二郎、この方は西北実業公司の顧問をやつておられると同時に軍の方にも関係されてやつておられた。あるいは城野、この人たちは当時の向うの階級で少将あるいは中将、澄田中将は大将になつておりましたが、この方々はたしか北京におられ、岩田少佐あるいは城野、それから河本大作、この方々は北京に現在でもおられると思います。当時私たちがわかれたときにおいてはまだ健在でありました。その後北京の方に行かれておる、このように私は聞いております当時の高級幹部、またその方々のその後の状況について、私が現在了解しておる範囲ではこの程度であります。
  53. 中井徳次郎

    ○中井(徳)委員 まことにどうも山西軍だけは支那大陸の多数の軍隊の中で特殊の状況にあつたと思うのであります。実は私も引揚者でありますから多少その辺のことは知つておるのでありますが、各地方でも敗戦の当初は無条件降伏と言われながら最後まで残らなければならぬという動きがありました。しかし山西だけはそういうふうにまとまつたという点で、今から考えてみますと部下の皆さんにとりましては非常な不幸であつたと、私は衷心御同情申し上げるわけであります。  そこで、その問題はその程度にしまして、二十四年でございますか、戦犯としまして西陵に収容されましてからいろいろな教育をお受けになつたように伺つておりますが、その当時西陵において受けられた、持つておつたところの祖国日本に対する皆さん状況判断と、今お帰りになつて数日ではありますが、実際の日本と、どうでございますか。大体想像通りでありましたか、聞いておつたのとかわつておるところがありましたか、お感じになりましたことをお聞かせいただきたいと思います。
  54. 山下正男

    山下参考人 日本状況については、大体向うで日本のニユースをラジオあるいは新聞を通じて了解しておりました。こちらに帰つてみて、これは私自身の感じですが、向うで伝えられておつた状況といつたものがその通りであるように考えます。特に、私自身の考えですが、日本状況というものは非常に、何と言いますか、はでになつておるというような、そういう感じがしました。非常にはでな服装をされておる。昔、私たち日本を出る当時の戦時中の状況と比べて、ちよつと見たところいろいろな物もありますし、こういつた点についてはその当時とは違うな、このように考えました。しかしながら、私自身の家庭に帰つてみますと、もちろん経済的な基礎もありませんが、実際に物はあるけれども思うように手に入れることはできないというような状況で、経済上においては向うでも聞いておりましたように非常に不自由しておる。あるいは、私自身については、就職問題について、実際に帰つて来ましたが、私は前に銀行におりましたけれども、そういうところに復職するという問題についても非常な困難があるし、就職という問題についてもなかなかむずかしいということを痛切に感じておるわけなんであります。そのようなことはそのほかの方も同じだろうと思います。このような状況であるということは大体向うでも了解して参りました。こちらへ来て特に向うで考えておつたこととまる切り違つておつたというようなことについては、私自身はまだ感じておりません。向うでいろいろラジオや新聞あるいは雑誌を通じまして了解したところの日本状況というものは、やはり帰つて来ても同じである。そのようなものであつたというように私自身は感じております。
  55. 佐々木繁男

    ○佐々木参考人 今山下参考人から当時の日本人側の要人について話された問題に対して、さらに補足します。上層部においては今山下参考人が言われた通りで、その下に小田切正男、これは山西産業青年部長をやつておりました。永富浩喜、これは三十七師団の情報関係をやつておつた。階級は陸軍軍曹です。小川光、これは山西の掃共軍の大佐です。小林正孝、これは陸軍主計中尉です。角川久吉、これは太原の在郷軍人会の南分会の分会長で、歯科医をやつておりました。  それから、私も、山下参考人が言われました通り、やはり日本状況というものについては、非常に物が豊富であるというような感じは受けました。しかし、このように物は豊富であるけれども、買えないというのが実情であるというふうに考えます。というのは、私いろいろ家族の者からも聞きましたが、実際このような洋服を着ているのだけれども、財布の中には金がないというような状況である。これはもちろん極端なことかもしれません。しかし、やはり不満があるというようなことは、多くの人々から聞くと、そういつた点がある。ある程度確かに物は豊富のように見えますけれども、それが十分買えないというのが実際の問題ではないかというふうに感じます。
  56. 中井徳次郎

    ○中井(徳)委員 お帰りになつてまだ間もないのに、こんなことをお尋ねして恐縮であつたのでありますが、帰られました上は、ほんとうに自由な立場で御判断を賜わりたい、かように希望を申し上げておきます。  次に北村さんに東北の事情につきましてお尋ねいたしたいのであります。北村さんは終戦の当時牡丹江の北の方にいらつしやつて、それから牡丹江、ハルビン、吉林に出られ、各地の炭鉱をおまわりになつて非常に御苦労なすつたと思うのでありまして、御同情申し上げるわけです。二十三年に撫順におちつかれたというふうに伺いましたが、東北の事情は、終戦後一年ほどのソ連の占領中に、安奉線の複線を単線にするとか、あるいは水豊ダム、豊満ダムの発電機を持つて行く、新京の百キロ放送局も持つて行くというようなことで、満鉄の機関車や貨車もずいぶん今シベリア鉄道を走つておるというふうに伺つておるのであります。従いまして、日本では、あれだけ戦後物を持つてつたのでありますから、東北の復興はなかなか長年月を要するであろうというふうに予想をいたしておりましたところが、最近中共の復興が非常なスピードで進んでおる、もう戦争前の満州国時代のそれよりも以上に生産が上つておるものがたくさんあるということを新聞は伝えておるのであります。北村さんは撫順においでのようでありまして、ほかの事情はあまり知らないという先ほどの御発言でもございましたが、たとえば撫順炭鉱なんかにおきまして、出炭量は日本の満州国当時と比べてどういう様子であるか。戦前を凌駕しておるのであるかどうか。あるいは炭を出します出し方その他におきまして、北村さんは技術屋のように伺いましたが、満鉄がやつておりました当時と非常にかわつた面が出ておるだろうと想像するのでありますが、そういう点につきましてひとつ御所見を伺つてみたいと思います。
  57. 北村義夫

    北村参考人 私、実は正真正銘の石炭掘りでございまして、政治の方は商売外であまり詳しくないのであります。実は私、終戦蛟河、老頭溝各地方をうろつきまわりまして、一九四八年でございますか、二十三年秋に撫順に帰つて参りました。ざつくばらんに打明けさせていただきましたところ、撫順には四つ大きな炭鉱がございましたが、私が撫順に帰つて参りましたときには、昔の日露戦争を記念して名前をつけておりました大山、東郷という採炭所は水没いたしておりました。それから、あの有名な龍鳳の縦坑、その隣りの塔連、阿金溝はほとんど地表まで水没しておつた。それから老虎台といいますのは、これは昔私が計画課長をしておりました時代にデザインしてつくりました炭坑なんですが、これも爆発その他で密閉しておつて、私が帰りましたときには一日の出炭が八十トンという状態でございました。日本人の古い技術者の方が相当おられるということをお聞きして帰りましたが、実は帰りましたときには一人もいらつしやらない。よく聞きましたところ、国民党に八名ばかり残されておつたのが、最後引揚げるというので奉天に飛行機に乗りに行つたところが、飛行機に間に合わなくて奉天におられるということで、これを迎えに行つて、その後撫順をどう復旧するかという点についていろいろ相談をしたのであります。これは今でも笑い話のような愉快な思い出になつておりますが、ともかくこの撫順炭鉱はちつとやそつとでは手に余る。御承知のように、炭坑というものが水没しまして地表まで水につかる、あるいは爆発後火災で密閉してしまうと、ちよつとむずかしい。御承知のように国民党の時代に当時残留しておりました最高顧問の元の炭鉱長をしておつた宮本さんがやはり撫順の復興計画を立てておられましたが、これは莫大な資材と年数を要するわけでありますから非常に懸念されておりましたが、さてかかつてみますと案外スムーズに参りまして、こういつた復旧の作業は大体正式にかかりましたのが四九年からでございますが、五〇年ごろには大体復旧を終了することができたと思います。この間私自身技術者として非常に感心いたしましたのは、たとえば、その当時まだソビエトから物質的な援助なんかももちろんございませんでしたし、大体満鉄の末期から資材がない機械がないということがずいぶんやかましく言われて、国民党時代にまたこわして、とてもだめだと思つたのですが、大体倉庫とか、いわゆるボロ捨場のようなところにころがつておつた機械類を、中国の労働者諸君が片つぱしから直す。そうして結局ないところから復旧を始めたのですが、こういう点はわれわれまつたく教えられる点が多々ありまして、私は撫順の復興のために大いに力を尽したというよりも逆に大いに教えていただいたと言う方がほんとうだろうと思います。事実この東北の工場の復興のスピードというものは非常に早かつた。それで、現在では、大体復興の程度がどうであるとか、あるいはよくなつたか悪くなつたかという比較のらち外に出て、大体今私たち考えますのには、昔の満鉄のときのものを基礎にして、さらに非常に大きな建設を始めておる。しかもこの建設は昔の頭のスケールではちよつと考えにくいというふうなものを現に始めておるというのが実情じやないかと思います。撫順の出炭量云々の点でございますが、これは大体戦前の最高の出炭量までもどつておると思います。たとえば龍鳳の縦坑の巻上げ機械は、五千四百馬力の、世界でも三つ四つしかない大きな巻上げ機ですが、これは昔の満鉄の時分にはフルに働いて炭を出すということはほとんどできなかつたのです。最近になつてやつと設計の能力を出すようになつたというふうな状態で、単に昔の状態を復興したというだけじやなしに、技術の方面でも非常に大きな新しい発明とか発見というようなものがありまして、正直なところを申し上げますと、私自身も終戦の末期には撫順老いたりと盛んに悲鳴をあげておつたのですが、私とか、今東京石炭協会の保安部長をしておられる伊藤清さんが急先鋒で、撫順老いたり、もうどうにもこうにもならぬという悲鳴をあげておつたのですが、現在私の感じでは、撫順は年寄りから若返りをやつて、ますます青春はつらつというところまで一ぺんにもどつたという気がいたしております。これはまた、新しい炭層が発見されたのと、新しい技術の改革があつたという面もございますけれども、大体鞍山の製鋼所にいたしましても、各所、工業の方は昔のマキシマムを突破してさらに次の大きな発展をしておるように思います。
  58. 中井徳次郎

    ○中井(徳)委員 たいへん、実際問題の御表明がありまして、よくわかりましたが、そういう急速な復興につきましては、やはり北村さんももちろんおやりになつたと思うのでありますがあとは中国人のほかにソ連の技術屋なんかも相当お入りになつてつたのかどうか、その点お尋ねいたしたいと思います。  それから、あなたは最後引揚者ということでございましたが、日本におきましては、その当時の炭鉱の次長をいたしておりました板倉真伍氏なんかがずつとそのまま残つておるように聞いておりましたが、ほんとうにまだ残つておられるような人が、中国人と結婚をされておるという人以外にあるのかないのか、もう一度お尋ねをいたしたいと思います。  さらに、この点につきまして、日本人中共に共鳴されまして向うで活躍をされておる方が相当おありだと思います。そういう人たち北村さんあたりの純粋な残つておられる人たちとの間に相当連絡がありましたかどうですか。さらに、それに関連いたしまして、ここ二、三年の間日本から国会議員とかあるいは文化人あるいはそういう人たちが相当中共を訪問いたしておりまするが、そういう人たちが北京あるいはその方面にいらつしやつた場合に、皆さんと連絡がある、あるいは皆さんともお会いになつたというふうなことがありましたかどうか。そういうことにつきまして、実際ありましたことを伺つてみたい、かように思います。
  59. 北村義夫

    北村参考人 できるだけ真実に近く、ありのままをお話いたしたいと思います。  ソ連の技術的な援助についてですが、これは、中国の第一次五箇年計画が昨年から始まりましてからは、非常に大量のソ連の技術者見えております。端的に申しますと、中国の社会主義工業化の重要な企業になつております、詳しい内容は私存じ上げませんが、全国で百四十一の重工業の建設がございますそうですが、この百四十一の重工業の建設は、建設に必要とする材料を全部中国で調えまして、これをソ連から見えました専門家に提供いたします。そうすると、ソ連から見えました専門家の方はその資料をお持ち帰りになつて、そうしてソ同盟におります国立設計院――炭鉱ですとレニングラードにございますそうです。レニングラードの設計院で設計をされて、その設計が中国にまわつて来て、その設計通りに仕事が始まる。こういうかつこうで、新規の建設事業は大体全部ソ連の技術がそのまま入つておるようであります。この点も一つ中国の工業が非常なスピードで発展して行く大きな点じやないかと思いますが、たとえば中国で今建設されております第一自動車工場というのがございますが、それも私詳しくは存じませんので、又聞きでございますが、大体ソ同盟にある一番近代的な工場のプラントをそのまま持つて来て中国につくる。中国のエンジニアは現在ソ連に行つてその工場で実習をしておりますそうです。帰つて来ると、その工場と同じものが中国にでき、同じ製品をつくる。ですから、ソビエトで実習しておるのと中国に帰つてつくるのとはそのままだ。しかもできるものは一番近代的なものができる。そういう方針を中国の方でおとりになつておるようであります。従つて、今後は全面的に政治的にだけではなくて、技術面でもソ連一辺倒ということがあくまで堅持されるのでございまして、そういう点では、古いタイプのわれわれは、たとい教えるにしても、今後はいろいろの問題が起こるだろうと思います。この第一次五箇年計画の始まりますまでは、企業にもよりますが、撫順なんかの場合ですと、私自身が工務局の技術的な全体の責任をもつというふうなかつこうでやつておりましたので、結局、平たく言えば、工業の復興の面で、そういう昔あつたものを復興するという面では昔おつた者が非常に詳しいわけですから、そういう面では非常にお役に立つ。しかし、そういう点から言えば、高級な技術者の歴史的な使命というものに、ある意味では一応ピリオドを打つものではないかと思います。  それから、われわれ技術者中共に共鳴していろいろ活躍されている方との連絡が今あるかないかという問題ですが、御承知のように、昨年の集団的な運送のあります前は、藩陽に民主新聞というのがございまして、相当の方が集まつておられましたが、昨年の集団的な帰国が終りましてからは、現在のところああいう新聞類も出ておりませんし、各地ばらばらになつておりますので、向うに残留しておる者同士の連絡というふうなものも全然とだえておりまして、私自身も、そういつた方が現在どこにおられるか、何をやつておられるかは、もう詳しく存じないというふうな状態でございます。  それから、最後の御質問の、日本から文化人あるいは国会議員の方が中共においでになりまして、私たち向うにおつた者と接触せられたかどうか、こういう点でございますが、白状して申し上げますと、向うにおりましたわれわれとしては、日本からいろいろな方がお見えになる、――とにかく正直な話、日本語の一言聞いてもうれしくて涙が出るというのが実際のところ人情なんでございます。これは中国の方でいろいろ御都合もあつたと思いますが、大体面会をさせていただいたことは一度もございません。また日本の代表の方が単独に来られたことはないようでございますが、各国の代表の方と御一緒に――大体中国にお見えなつた方は必ず東北にいらつしやる。東北にいらつしやる方は必ず撫順をごらんになるというのが、昔の満州時代でも今もかわりのないところでございまいまして、撫順にはたいがいの方がおいでになつているはずでございますが、私自身一度もお目にがかつたことはございませんし、また一度もどういう方がお見えになるということを聞いたこともございません。ただ、一度こういう笑い話のようなことがございました。それは、一昨年だと思いますが、国際的なお客様が撫順においでになりましたときでございます。そのときに、私の子供ではございませんが、ほかの残留されておつた方の子供が、子供のことですから、おもしろ半分に、撫順のあのりつぱなホテルの前に並んで、たくさんりつぱな自動車が来るものですから、珍しがつて見ておつたところが、どうも日本人らしい人がおるというわけで、子供同士が日本人がおるぞというわけで、話したところが、お客さんが、あなたは日本人子供ですかと話しかけられて、その子供は実はびつくりして、当時は全然往復も何もございません状態ですから、おじさんどうして来たんだ、――子供にとつてみれば、日本人中国へ来て歩くなんということはとんでもない、想像の及ばぬことですから、おじさん、日本人がどうして来たんだというふうな質問を発した。そういうエピソードのようなこともございました。その見えたお客さんは、詳しい事情を知りたいというので、坊や、ホテルへ一緒においで、いろいろお話をしたいからとおつしやつたが、子供は大いに恐れをなして逃げて帰つた。そして両親に、えらいこつちや、日本人のお客さんが来ている、という状態で、そういうのが実情でした。
  60. 中井徳次郎

    ○中井(徳)委員 実情を詳しくお話いただいて、たいへんありがとうございました。  最後に、先ほど委員長からもお話がありましたが、特に緒方さんは長年上海におられて、お仕事新聞記者ということでありますので、お尋ねしてみたいと思うのであります。  上海あたりの、政府の人たちの考え方は伺わなくともいいのですが、一般の今の中共の人たち日本観といいまするか、日本人観といいますか、そういうものは戦争前と比べてずいぶんかわつたかどうか。民族としては非常におおらかな、いい民族でありますから、政治的な考え方を離れて、しごく明るい民族のように承つておるのでありますが、そういう一般人の日本人観あるいは日本中共に対する政治的な関係に対する考え方というようなものなんかにつきましては、御感想をお漏らし願えれば仕合せと存じます。
  61. 緒方俊郎

    緒方参考人 大分むずかしい御質問で、私では十分にはお答えができないかと存じまするけれども、御承知のように、上海は戦後四年間国民党の支配下にありました。その後人民政府にかわつたのでございますが、国民党の時代は、例の蒋介石の終戦当時申しました「恨みに報いるに徳をもつてする」ということで、一応みな安心したのでございますけれども、実際生活としては、国民党の役人に日本人はずいぶんいじめられまして、まつたくおちついた生活ができなかつた。しばしば家を追い出されるとか、いろいろなことがございました。中共軍が入つた後はそういつた心配はまつたくなくなりました。中共軍が入つて参りましたのは二十四年の五月でございましたが、その年の夏初めて私どもは表をあけて、そうして床机を表に出して夕涼みをすることができました。それまではそういうことはできなかつた。なぜならば、家を少しでもあけておきますと、すぐ国民党の兵隊なんかが入つて来ましてすわり込んで、その家をとられてしまう。ですから絶対に表をあけることができない。そういう状態でございましたが、その後中共政府のもとでは、そういう心配はなくなつている。ちようどその年の七・七、いわゆる支那事変記念日でございますが、そのときには、いわゆる日本帝国主義の中国において行われた罪行というものを特筆大書しまして、特に南京におけるあの大虐殺事件、ああいうようなものの私ども正視できないような非常に残酷な大きな写真などを上海でも――御存じでありましようが南京路の目抜き通りに永安公司という大きな百貨店がございますが、そういうところにたくさん並べまして、約二箇月間街頭に陳列いたしました。そこで忘れていた痛々しい当時の追憶が人々の間になまなましくよみがえりまして、連日新聞の投書なんかにも、あの兇行を忘れてはいけないというような言葉もいろいろ出ました。それで、私ども非常に心配もしたわけでありますが、一面そういうことがありますと同時に、われわれは日本帝国主義と日本人民とをはつきり区別しなければいけないということを繰返し繰返し必ず忘れずに宣伝されておりまして、私どもそこに平和的に生活している者に対しては、これは日本人民という取扱いでもつて、それに対してもし危害を加えるということであれば、それは厳重に処罰する。事実そういうことでもつて処罰された中国人もございまして、そういう点は私どものただいたずらな杞憂で、そういう心配はございませんでした。  そういうことを通じ、また私どもが接触いたしました中国共産党系の人々を通じて感じましたそういう人々日本及び日本人観というものは、戦争中国に入つて来た日本に対して非常な憎悪を持つて戦つた人々だけに、さて個別的に日本人に接触するという場合には、非常にぎこちない場合もあるし、また周囲の人々が何と思うかわからないというので、接触することを非常に躊躇する趣はございました。しかし、考え方としては、やはりはつきりと二つにわけて、あなた方はわれわれの友だちであり、あなた方は現在非常に困つた状況にある、これはわれわれが百年間苦しんだのとまつたく同じことである、われわれは百年間苦しんだがゆえに、あなた方の苦しみというものはよくわかる、こういうことを申します。それは、御存じのように、あちらでは学習を毎日のようにいたしておりまして、立場とか観点とかいうことは非常にやかましく言われる。従つて、若い人々、たとえば十代、二十代の人々でも、そういうことはやはり申します。私、帰つて来ますときに最後にわかれた幾人かの中国人の友達がおりますが、それらの若い人々といえどもやはり、現在の日本はほんとうの日本国民とは考えられない、私どもは長い間世界の各国から踏みにじられて来たのだ、あなた方も現在やはり外国の重い石の下に置かれている、その苦しみはよくわかるのだ、それでどうか今後そういう問題の解決を戦争ということにしないでやつてもらいたいということを、いろいろの言葉の表現はございますが、人によりそれぞれ申してくれました。それは上海だけでございませんでして、ほかの地方、たとえば天津で会いました人もやはりそういうことを申します。これは長い間の苦労を通じて初めて出る言葉ではないか、上から教えられて出る言葉ではない、そういうふうに感じて帰つて来たわけです。
  62. 山下春江

    山下委員長 福田委員
  63. 福田昌子

    ○福田(昌)委員 北村さんにお尋ねいたします。少し失礼なことにもなるかと存じまして、恐縮に存じますが、おさしつかえのない範囲で教えていただきたいのですが、撫順炭鉱におられました間の地位、それからその会社におきまする地位、それから中国人のあなたに対する信頼度、職能の上においてどういうことを担当しておられたか、そういうことを聞かしていただけませんか。
  64. 北村義夫

    北村参考人 撫順に私帰つて参りましたのが二十三年の暮れでございまして、その当時は撫順工務局というのが、ちようど昔の満鉄の時代と同様に、石炭も工務局でございますし、製油も製鉄もその他一切の附帯事業を含んだいわゆる昔の満鉄コンツエルンという形の撫順炭鉱撫順工務局というふうになつておりました。従つて帰りました当時、私は撫順の工務局の中で石炭部面を担当しておりますうちで特に坑内掘り、いわゆる露天で掘る方面でなくて坑内の方をやります井工処、これは中国語でありますが、日本語でございますと坑内掘りの責任を持たされておりました。その後職制が改正になりまして、どうも坑内掘りと露天掘りをわけておくのは非常に不便だ、これは昔満鉄の時代にもいろいろ議論したのでありますが、そういうことになりまして、採炭関係のところは一本にするということになりましたから、大体露天掘りと坑内とをあわせてめんどうを見させていただくというふうなかつこうで、その当時は全体の仕事を見させていただいておりました。昨年の一月からは中国で初めてできました炭坑安全技術研究所という方に転勤を命ぜられまして、その創立の事務及び技術者の養成等に当りまして、この方の仕事も大体一段落して、どうにかやつて行けるというところまで参りましたので、今度帰していただきましたが、この研究所も、実は帰りましてから大学に行つていろいろお話しておりますが、先生方のお話によると、そういう炭坑の安全技術だけを研究する厖大な機構の設備は、これはとても君日本へ帰つたつて考えるだけ夢だから、夢を考えるのはよしたまえというお話を承つたのですが、実は規模も研究員が七、八十名くらいおる、今年も大体大学を卒業した程度の人が十数名来るというふうな非常に規模の大きい研究所でございます。  中国人の信頼感といいますか、どうも私こういうざつくばらんな男で、にくまれ口は言いたいほうだい、したいことはしたいほうだいしますので、自分中国人から絶大な信頼を受けたというふうなことは申しづらいのでございますが、正直なところ、現在中国におられる技術者、特に東北におられる技術者は、昔の旅順の工業大学とか、あるいは奉天工大とか、当時の長春の新京工大とか、そういうところを出た方及び撫順あるいは西安、そういうところにいわゆる工業学校程度の学校がございましたが、そういうところを出られた方が非常に多いので、最初は中国語日本語の片まじりで、めんどうくさくなれば日本語を使う、技術者の方の日本語もむしろ東北のずうずう弁よりはよくわかるというかつこうでございましたので、大体仲よく仕事をさせていただきました。今度帰りますについてもいろいろ皆さん心配をしてくれまして、もう立つのが急でございましたので、荷づくりでいつぱいであつたのですが、入りかわり立ちかわり、やれ一ぱい飲もうとか、やれ送別会をやるとかで、ずいぶんお断りして参つたようなわけで、こういつた点で何と申し上げますか、日本の国はこうやつて戦争に敗れてしまつたわけですが、また違つた意味で、中国にぽつんと残つてつて、しかも中国の人たちと仲よく仕事をして行くということは、将来中国日本とが国交が開け、あるいは二つの民族が友好関係をつくり上げる上にもやはり役に立つのじやないかというふうに自分思いまして、できるだけ中国の人たちとは接近もし、よくおつき合いするように心がけておりましたので、中国の方から特に恨みを買うとか、つらく当られるとかいうふうなことは特別感じませんでした。逆に、皆さんどうも私には遠慮し過ぎていかぬから、もう少し遠慮なしにやつてくださいと言う程度であつたように思います。大体中国の人たち皆さんにはたいへんお世話になつたと自分でも思つておりますし、また中国の若い青年諸君から非常に多くのものを教えられたと自分でも思つております。
  65. 福田昌子

    ○福田(昌)委員 少し失礼なことばかりお尋ねするようで恐縮でございますけれども、その撫順炭鉱というものは国家機構の上からどういうことになつておりまして、あなた様のおられた、そして後にかわられた安全技術研究所というもの自体が政府の機構とはどういう関係で、あなた様の地位は政府の機構の上からすればどういう形であつたか。それから、さらに、これもまた失礼なことで恐縮ですが、生活水準と申しますか、給料の面が中国で、一般に日本で言うところの給与ベースというものから見た場合、どういうところにあつたか。そういう点を御説明願いたいと思います。
  66. 北村義夫

    北村参考人 ただいまの中国では、大きな企業は全部国営企業になつております。炭鉱に関します限り、北京の中央人民政府に燃料工業部というのがございまして、その燃料工業部というものが石炭、油、電力、この三つのいわゆる動力関係を見ておりますが、その下に、日本語で申しますと炭鉱総局というふうなものがございまして、炭鉱総局の下に各大行政区について炭鉱管理局というものがありまして、昔の満州国ですと奉天に炭鉱管理局というのがございます。撫順工務局は奉天の東北炭鉱管理局に所属していることになります。従つて、私自身の地位というふうなものになりますと、むずかしく言いますれば、結局これは政府のやつております国営企業なんでございますから、国営企業の中の技術的な面の責任者だつたというふうなことになると思います。  それから、安全技術研究所と申しますのは、創立当初は、地理的な関係、新しくものを生み出しますときのお世話その他で、撫順工務局に所属しておりましたが、その後機構が改正されまして、現在では燃料工業部の炭鉱総局の直轄の研究所になつております。  それから、御質問の給与その他の面でありますが、給与は中国のお金にしまして月に約三百万ほどいただいておりました。昨年の換算率が七十五対一であつたように思いますが、ことしの香港ドルの換算を計算しますと、六十七元対一円、これくらいになると思います。従つて、換算いたしますと、こつちの四万五千円くらいになると思います。ただ、日本と違いますことは、向うでは、いわゆる勤労者と申しますか働く者は、大体税金を納めないでよろしいことになつております。国庫の収入の大多数が国営企業の利潤でまかなわれておりますので、労働者及び職員は税金を納めなくてよろしい。大体いただいた給料はそのまま。私、もう少し早く心がけておれば少しはためることも不可能ではなかつたかと思うのでございますがこういう楽天的な性格なものですから、ついつい飲んだりタバコをすつたりして消費いたしておりました。大体収入の面はそういう点でありまして、生活の方は、そういう状態でしたから大体安定していたというふうに申し上げていいじやないかと思います。但し、終戦直後からそのあとぐらいの間、いわゆる国の経済の復興の途上及び国内戦争の最中は、これはとにかく給与がいいとか悪いとかいう問題ではなくて、一家六人の者がどうして生きて行くかということが直接の問題でございまして、とにかく親子六人胃袋をからにせずに生きて行くということが相当重要なその日の問題であつたことは事実です。しかし、その後国の経済の復興とともにだんだん生活がおちついて来た、こういうのが実情でございます。
  67. 福田昌子

    ○福田(昌)委員 たいへん長くお引きとめいたしまして、はなはだ恐縮でございますが、もう一点お尋ねしたいと思います。あなた様の経済的な御事情をお聞かせいただきまして恐縮でありましたが、大体中国の一般のいわゆる勤労者の方々生活水準、日本の貨幣価値に換算してどれだけのところで生活できるものかということが一点。  二点は、技術者はなかなか日本帰還できないのだというようなうわさも聞くのでございますが、事実そういうように技術を持つている人は日本に帰るチヤンスを奪われがちであるかどうか。あなた様は、今度御帰還の前にも、早く日本帰りたいが、しかし帰れなかつたとか、あるいは今までそういうことを考えていなかつたとか、その点を簡単に御説明願います。
  68. 北村義夫

    北村参考人 勤労者の生活水準の点でございますが、これはこういうふうにお考え願いたいと思うのでございますが、中国の労働者一般の生活水準は、新しい政府になりましてからはやはりべらぼうに向上しておるというのは事実だと思います。と申しますのは、昔の中国があまりにもみじめな中国であり、あまりにも生活程度の低い中国であつたからだということが申せます。事実、昔の満州国時代に私たち北満を冬の十一月、十二月ごろ旅行いたしましても、農村の子供なんかで身に一糸もまとわない、着物を着るかわりにからだにどろを塗つて防寒のかわりにしておるというふうな状態がございましたほとで、特に炭鉱労働者などは、昔は、こういう言葉はまつたく人権を無視した言葉でございますが、いわゆる山東苦力というふうに呼ばれて、非常にみじめな生活をしておつた。それが、今日では大体食物は白米かメリケン粉、住むところは大体三階建の大きなアパートというふうになつて生活水準は非常に向上しております。しかし、一般の生活水準がそれでは日本などと比べて非常に高いかという点になりますと、私は正直なことを申し上げたいのですが、それは日本の一般生活水準よりははるかに低いということを申し上げなければいけないと思います。というのは、中国はスタートするスタートの点があまりにもみじめであり、あまりにも低かつた。しかし急速にだんだんよくなつて行つておるけれども、まだいわゆる高度に発達した資本主義の生活水準までは行つていないというのが現実だろうと思います。また、中国のかつての社会で比較的高い地位におられた方、たとえば大学の教授であるとか、あるいは大きな企業の技師長とか、そういつた方は、今日では大体昔の給与よりは下つているというのもまた事実だと思います。しかし、中国が新しい中国になりましてから、全体として急速に生活が向上して行きつつあるということはいなめない事実だと思います。  それから、技術者帰還できないのではないか、また帰ることをいろいろ妨げられる事実があるかどうか、こういう問題でございますが、この点は非常にデリケートな問題で、実は私自身昨年帰りたいという希望をその筋に申し述べました。というのは、私が勤務しておる留学中に、家族の者が家族会議を開きまして、おやじを欠席裁判にして、もう帰るんだというふうにきめまして手続をしておりまして、お父ちやんもう帰るぞというわけで、いろいろお願いしたのでありますが、実際の状況は、先ほど申し上げましたように、安全技術研究所をやつと一月に創設いたしまして、その事務を担当して、実際の状況として手が抜けないという状況でもありましたので、これはどういうふうに表現したらよろしいのですか、強制的に残されたとも申せませんし、百パーセント自分の希望で残つたとも言えませんが、両方の歩み寄りとでも申しますか、そういうところで、とにかくそれだけおつしやるならもう少し一緒に働かせていただきましようというところで昨年はおちついたわけであります。ことしの帰国につきましては、実は私、ことしの一月から十二指腸潰瘍で三箇月ばかり入院をいたしておりました。健康もすぐれず、ことしに何とかして帰していただきたいという希望を上級に述べておりました。上級の方では、当時は個人で帰るということば非常に目下困難だから、次に集団的に帰国する機会でもあつた場合に帰るようにしてもらいたい、こういう御回答がこの春ございました。その後再三帰りたいということを申し上げておりました。実はこのたび、八月五日の人民日報の発表によりまして、まつたく突然今度の集団的な帰国があるということを初めて見ましてこの機会をのがしてはたいへんだというわけで、各方面に帰していただきたいということをお願いいたしました。ところが、何さま研究所ができたとはいえまだ一年半にしかなつておりませんので、帰るなというのが実際の向う様のお気持でありまして、再三私はお願いに上りまして、家庭事情もありいろいろあるから、ぜひ帰していただきたいと申しましたところが、結局向うのお話は、ここで安心して工作に従事してください――。最後は、私は帰していただきたいと言つておりますし、あなたは安心して工作しなさいとおつしやるので、話し合せてみると、平易な言葉で言えば、こつちは帰りたい、あなたの方は帰さぬとおつしやるのと同じじやございませんかというわけで、相当議論をいたしましたところが、撫順ではこの問題は解決できない、従つてもつと上級決定をしてもらわなければいけないというわけで、実は私自身の帰国については非常にめんどうな手続をいたしまして、私自身北京に出向きまして、中央政府と交渉するつもりで連絡しましたところ、中央の責任者が開らん炭鉱に公用で出られて、開らんに全部おられましたので、私は研究所の所長と一緒に開らん済み鉱に行きまして、総局長にお会いをして、ぜひ帰していただきたいということをお願いしまして、相当お願いした末に帰していただいたというのが実情でございます。私、実は、帰国したいという希望を持つておりましたので、昨年の集団帰国後に中国の方で発表されました中国紅十字会の声明書、あるいはその後ことしのジユネーヴの会談で周恩来外相について行かれた黄さんが外国新聞記者団を呼ばれての声明――中国政府帰りたいと思う外国人の帰国を全面的に援助してやる、その理由のいかんを問わず援助する、終戦後すでに十年を経過しておるので、人間自分の国に帰つて親子兄弟と団欒の日を過したいと思うのは人情であり、これは国際公法と人道の精神にまつたく合致したものだという声明をされております。私はそういつたものをたくさん持つておりまして、実は中国の方でこういうふうに再三正式に声明をされておるのですから、私はこれによつて帰していただきたいと思いますから、どうか帰していただきたい、こういう交渉をいたしました。それで最後に許可を得たわけです。私自身の経験から言いますと、もしも私が相当気が弱い、あるいは中国語が非常に不十分であるとかいうことですと、帰るのも、交渉も、そういう点で非常に制限を受けたのじやないかと思いますが、幸い言葉も大体不自由なく最近話せるようになりましたので、直接自分で責任者と面会しまして、家庭事情やその他をお打明けして、ぜひお許しを願いたい、そういうふうにお願いして許可を得ることができました。
  69. 福田昌子

    ○福田(昌)委員 いろいろお伺いしたいのでございますけれども、たいへんおそくなりまして御迷惑でございますから遠慮さしていただきます。  なお、これは委員長お願い申し上げたいのですけれども、いろいろ伺つておりますと、中国に残留されておる私ども同胞方々の残留の動機というものが、ことに軍関係の方におきましては、私どもには理解のできない点もあるやに考えられるのでございます。従いまして、これは片寄らない立場においても残留の動機をもう少し明確に知ることが必要じやないかという感じがいたします。従いまして、終戦前後の残留の動機に関係があるような日本軍の首腦部の方々日本に今日帰つておられるような方々の御意見、その当時の様子を聞かせていただきたいという希望を持つております。そういうことにつきまして、委員長のおはからいで、理事会ででも御相談いただきまして御決定を願いたい、これは委員長お願いいたします。  私の質問は、他の点もお伺いしたいのでありますが、たいへん時間もおそくなりましたから、これで終ります。
  70. 山下春江

    山下委員長 福田委員よりのお申出は、理事会を開きまして決定いたしまして、御報告を申し上げます。  これにて参考人よりの事情聴取を終ります。  参考人方々には長時間にわたり非常に貴重なお話を詳細にお聞かせくださいまして、本委員会といたしましては引揚げ問題の解決に対し非常に参考になりましたことをここに委員長として厚く御礼を申し上げます。  本日はこれにて散会いたします。    午後三時二十一分散会