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緒方参考人 ただいまのお尋ねは、私が
昭和二十七年に永年の
華北軍区
訓練団に参りまして以後の
生活の
状況について申せという
お話のように考えます。
最初二十七年十月に参りまして、翌年二月までは
訓練団の第二大隊の第九中隊第九班であつたかと
思いますが、そこでいわゆる学員といたしまして共同の
生活、共同の寝起きをしまして、共同の反省の機会を与えられて過したわけであります。このときの
状況は、いわゆる軍隊としての規律のもとにありまして、すべて集団的に行動をすることにな
つております。住居、衣食はすべて十分の保証を受けておりました。ただ、私自身といたしましては、従来そのような軍隊
生活をしたことはございませんので、その点ははなはだきゆうくつに感じました。きゆうくつには感じましたが、共に
生活をしましたほかの
人々、このうちには大部分軍隊
生活をした方がおられましたが、その
方々にすれば、まあ一般軍隊
生活と大体かわりないものだ、そういうような
お話でありました。特に食事の問題では一般の解放軍で
生活をされた当時よりも幾分よいということでございまして、食事はわれわれ
日本人の嗜好を十分考慮に入れて、それぞれ
自分たちの希望をいれたものをつくることができたわけであります。食事は各班が交代で一週間ずつ炊事を担当いたしました。そういう点では永年及び後に移りました大郭村における
生活はまずまず問題はなか
つたのであります。
さて、問題は、それから天津に移され、次いで北京に移された、この間の
生活であります。これは私もまつたく予期していなかつたことでありますし、一体どういうことになるのか、それもなかなかわからなくて非常に不安を覚えたわけです。天津にまで行きますのには、途中解放軍の将校と思われる人と、その当番兵と申しますか、そういう二人の同行を受けまして天津に参りまして、天津で待ち受けましたジープに乗せられまして、普通の住宅に伴われまして、そこで
生活が始まつたわけであります。そこにおきましては、一人、
中国人でございますが、二十少しの青年と起居を共にいたしました。そして、私がたとえば夜便所に立つような場合でも、彼は寝ておりましてもすぐ起きて来まして、様子を見届けるという入念の注意ぶりでありました。ここに入りました当時は何事もなくて、一週間ほどしまして、
人民政府の公務員で普通の制服を着た人が三人や
つて来まして、そうして、あなたは永年及び大郭村で
自分の過去について反省する機会を持つた、それによ
つてあなたが
自分自身過去に行つた行為が、どういうものであるかということがよくわかつたろうと思う、それについて
自分たちはあなたから詳細漏らさず承りたいと思う、従来はあなたは
自分のしたことは別に悪いとは思
つていなかつたろうと思う、しかし永年及び大郭村の
生活を通じて、あなたがか
つて戦時中
新聞記者として、及び戦後
国民党の文化
機関の一員としてしたことが、
中国人民に対してどういう意義を持つものであるかということがおわかりに
なつたろうと思うから、それについて歴史的並びに社会的
関係、その間の具体的な点を詳細にわれわれは承りたい、こういうことです。但しこれは今回帰る三万人の
日本人全部についてこういうことをしておるのではない、特にこれはあなたに対してするのである、われわれはあなたについては十分のことを了承しておる、問題はあなた自身からわれわれは聞きたいのだ、こういうことでありました。それで、私はその際、私自身の従来の経歴及び主要な社会
関係というものは、先ほど申しました
華東軍政委員会の
国際政治経済研究所に入りました当時すでに詳細のことを求められて提出してある、その後数回にわた
つて補充の要求があ
つたので補足をいたしまして提出してある、さらにまた永年及び大郭村に参りましたときも学習
生活を通じて批判を受け、またそれに伴
つて私自身が検討したこともあるので、すでに尽しておるというように
自分は考える、このように言
つたのであります。ところが、そのとき、
上海においても、それから
訓練団においてもあなたのことは諸君はみなよく十分知
つていない、だからあの程度のあなたの言われたことでは満足できない、それで尋ねたのである、あなたはまだ重要なことを隠しておる、だからわれわれはそれを聞きたいのだ、こういう話だつた。私が重要なことを隠しておると言われるのははなはだ恐れ入るが、一体どういうことをおつしやるのか指摘していただきたい、こう申した。そうすると、それは
自分で考え
自分で言うことであ
つて、われわれが言うことではない、あなたは過去約二年間われわれの
政府に協力した人であり、従
つてあなたが全部それを開陳されるならば、われわれとしては絶対にあなたを処罰しないということが組織上すでに
決定しておる、だから何ら顧慮なくこれを陳述してもらいたい、そういうことであ
つたのです。その日はそれでわかれまして、その人
たちは
帰りました。それから三日ほどいたしまして、その方がもう一度また
見えまして、そうして、まず社会に出て以後のこと、それを逐一記憶しておる限りを述べてくれということでありました。それで私は
自分の職歴をずつと経過的に申しました。ところが、向うとしては、そういうことは表面的なことであ
つて、われわれとしてそういうことは聞きたくない、われわれの聞くのは表面のことではなくて、その裏面の話を聞きたい、こういう
お話であります。裏面とは一体どういうことか、私は一向わからないから聞いたのでありますが、それは政治的な行動であるという
お話でありました。そうすると、私が
新聞記者としてとつた行動、たとえば
戦争に協力する記事を書き、あるいは論説を書いたということが、それが一定の政治的な行為であるということでございますかというように伺つたところが、それも表面的なことだ、そういうことではないという
お話である。結局私は、そういうものはありません。政党に
関係したこともございませんし、それ以外の何らかの政治的な行動というものはやつた覚えがない――。それでは戦後はどうか、
国民党のあの
機関はC・Cの反共の
機関である、その
機関において君のやつたことはどうかと言われる。私はただ雑誌の編集あるいは
新聞の編集あるいは上部から提出された資料の翻訳、そういうことをやつただけであ
つて、それ以上のことは別に何もございません。こう言
つたのです。ところが、われわれとしては君の言うことは非常に不満足だ――。そこで非常に強い調子で言つた。君は今非常に重要な岐路に立
つておる、よく考えることが必要である、よく考えろと言
つて、そのままそのときは人人は
引揚げて行きました。その間約三十分くらいの非常に短かい時間です。第三回目に
見えたときに、どうか、よく考えたかという
お話でありましたから、いろいろ考えたけれども、御要求にな
つておるようなことは
自分としてどうも
思いつかないということを申しました。そうしましたところが、向うの方で、船との
関係はどうかという突然の質問が出ました。船ということはどういうことかと聞きましたところが、だんだん聞いてみますと、
上海が解放された後に
日本から
一つの密輸船が入
つて参りました。その密輸船の――当時、先ほども申しましたように、
日本との通輸
関係が切れまして、
日本からの
新聞雑誌も見ることができない、ただラジオを聞くだけだという
状況でありましたので、そういう
日本から来たという人が非常にわれわれは
なつかしくて、大体近いところに
お互いに住んでおりますので、そういう話が伝わりまして、小さな船でございましたが、この船長に来ていただいて
日本のいろいろな
事情を伺つたことがございます。その際に、帰るときにその船長に友人への手紙を託したことがあるのであります。そのことを率直に話しました。ところが、その手紙だけではない、そのほかに渡したものがあるだろう、こういうお尋ねでありました。そういうものは絶対にない。それは君が忘れておるのかもしれないからよく考えろということで、そのときは、その間の
事情を詳しく文書にして提出せよということでその人
たちは
引揚げたのであります。それで、私は約四、五日かかりまして、いろいろと当時の
事情を
思い出し
思い出ししまして、その間の
事情をしたためた分書を提出いたしました。その次に来ましたときは、やはり
上海にか
つておりまして
国民党の
機関に籍を置いておつた人物です。それは
日本人でありますが、その人物との
関係について言えというようなことがありました。それもただ戦後同じ
機関に籍を置いたということだけで知り合つた人であ
つて、
自分としては別にそう詳しく知らないということを申しましたところが、いや、もつと詳しく知
つておるはずだということを言
つて、これもまた数日の余裕をおかれまして、また考えるだけ考えまして、
自分のその人について聞き知つたことを書き、その人と私自身との
関係も書いたわけです。ところが、その次にまた二週間ほどだつたと
思いますが、日をおいてその人
たちが
見えました。そのときはまた非常に威儀をあらためて、非常に強い調子で、まずあなたから話を聞く前にこちらの方から言いたいことがある、すなわち、その人物は吉井善吉という人でありますが、われわれの手によ
つてすでに逮捕した、従
つて君との
関係については逐一われわれは聞いておる、それからして君の陳述は非常に不足である、そういうことを言われた。そこで私は、そういうことならば非常にけつこうであるから、どうかその人と会わせていただきたいというふうに言
つたのです。会わせる会わせないは二の次であ
つて、君自身が、初めから言
つておるように自発的に一切を開陳するのがほんとうだ、会わせる会わせないはこちらの問題であ
つて、君自身の問題としては、出すか出さぬか、言うか言わぬかの問題だということを重ねて強く言われ、もう一度よく考えろということで、また別れた。どう考えてみてもそういうことが一向にわからない。それから、忘れましたが、そのときに、さらに
上海で私の友人でありました元外務省の副領事がおります。これは私が
上海におりました当時すなわち永年に行きます前にすでに反革命として逮捕されておりますが、この人物が獄中でいろいろお前のことについて話しておる、その人物についても知
つていることを言え、その人物のやつた行為についても言え、こういうことでありました。この人についても私は一向表面的のことしか知らないので申しようがない。しかもそれと一緒にやつた政治的行動についても全然
自分としては
思い当るところがない。そのころはもうまつたく精神的にも参
つてしまいまして、非常に閉口したのでありますけれども、ともかくこれはどこまでもがんば
つて、
自分がほんとうにやつたことを向うに認めてもらうということに全力を尽さなければいけない、そうしないと、いつまでた
つてもこういうところに置かれて、何が何だかわからないことになり、
帰国のチヤンスを失うということにもなりますので、ともかくいわば箸のころんだようなこまかいことまで書き上げたわけであります。もちろんそれで向うの方では満足しない。ところが、お前の書いたものは不満足だと言いはしましたが、それ以上重ねての追究はありませんでした。それから間もなくして北京に移されまして、その際はやはり
上海で私が非常に親しくしておりましたもう一人の友人でありますが、この友人がまた
上海で逮捕されたということを伺い、この人物との
関係について述べよということです。これもまたごく表面的
なつき合い――表面的と申しますか、普通の
日本人同士の日常的
なつき合いであ
つて、それ以上言うことは
自分としてどうしても
思い当るところがない。しかたがありませんから、ただ見聞きしたことを書くよりしかたがないのでそういうことを書いたわけであります。そのほか、私がか
つて向うにおりまして、
日本の
新聞に頼まれていろいろ多少のことを書いたことがございますが、そういう資料も向うにございまして、このほかに何か書いたものはないか、そういうようなお尋ねがあ
つたのであります。そうして、その間に向うで何度も言われたことは、先ほども申し上げましたが、君はか
つてわれわれの
政府に協力した人物であるから、これらの君
たちの友人、つまり逮捕された友人
たちに対する待遇とは待遇はおのずと違う、明確に待遇はにしておるということをよく了解しろということであ
つて、
生活上においては、行動がそのように不自由であつたことを除きまして、衣食においては別に大したことはわかつたわけです。ただ日曜日には、一緒に起居をともにしておりますその若い
中国人が映画館に連れて
行つてくれたり公園に連れて
行つてくれたりしたわけです。ふだん外へ出ないということについては、向うの方では、外へ出ると危険だから外へ出てはいけないというような
お話でありまして、どういう意味の危険であるか、まあ地の理がわからなくてうろうろすれば、
公安局の方でおかしいと思う、あるいはその辺の
中国人から何かこうされてもいけないというような意味であるか、その辺はわかりませんでしたが、そういうような
状態で、普通の衣食という点では問題はなか
つたのでありますけれども、外出の自由というものはおのずとそういうように制限を受けておつたわけであります。そうして
最後には、総括的にもう一度社会に出て以後の全社会的活動について詳細に書けということで、これは約半月の時間をもら
つて書き上げまして提出いたしました。そうしてその後は約一箇月だれもや
つて参りません。一体どう
なつたかと思
つて、いらいらすることも忘れてぼんやりしておるときに、取調べに当つた人が現われまして、
上海に帰る
気持があるかどうかということを聞きましたので、
上海の家が非常に気になるから
帰りたい、そうしてできれは早く
日本に
帰りたい、おそらく船がなくなるのじやないかと伺つたところが、それは何とかなるかもしれない、あなたが同意するならば
上海に帰
つてよろしい、さつそく準備をしろ、われわれの方であす切符を用意しておくから、そういうことで、すぐさま汽車に乗せられて
上海に
帰り、駅でそのまま帰すというようなことでございまして、
自分としては、長い期間ではありましたけれども、
上海駅から外へ出ますと、何か夢でも見たような気がしたわけであります。その間においては、非常に
自分も不満で、ときには何とかひとつ
中央政府にでも投書でもしてこの
実情を訴えて抗議をしたいというように考えたのでありますけれども、よくよく考えてみますと、私の友達の中に実に数人にわた
つてそういう
関係でいろいろと
中国政府に心配をかけ騒がした人物が私の知らない間に出ておるということでもありますしししますから、それは今後の
引揚げに大事な問題でありますから、十分注意をする必要がある、よほど苦しい
事情に置かれるならばそういうこともひとつ、や
つてみようというように考えたのでありますけれども、
最後はそういうことで事なきを得たわけであります。
最後になりまして、その間の全給与を受取りました。そして、それによ
つてその後の
生活は多少――半年ばかりその受取りました金によ
つて生活したわけです。大体そういうことであります。