○館
委員 今度の九月二十六日の遭難に対しましては、私三十年近くあの駅で勤務してお
つた関係で、非常に大きなシヨツクを受けました。従いましてここで質問をする場合にも、実にいやな
気持がするのであります。
考えますると、約千六百人の人が五はいの船に乗
つてお
つたことになります。そうしてわずかに二百四十一名しか生還をいたしておらない。但し二百四十一名といいましても、調べたところによりますと、洞爺が
出港をぐずぐずしてお
つたために、船客名簿に書いてお
つて、しかもおりた人が二十七名おるということになりますと、二百四十一名から引くこと二十七名、二百十四名ですか、それだけしか肋か
つておらぬ。これは非常な惨害なのでありまして、言語に絶する次第であります。ことにあそこで鉄道職員として働いてお
つた私として、身に迫るような感じのいたしますことは、鉄道職員は常に身をも
つてあの海峡を守
つて来ておるということなのであります。
敗戦がきま
つた八月十五日よりわずかに一箇月前の
昭和二十年七月十四日と十五日に、アメリカの艦載機グラマンの空襲を受けて、翔鳳、津軽という形の
連絡船、今の
青函丸という形の
連絡船、これが二日であの海峡の所々方方で沈没させられてしま
つた。そのときには、職員の努力によ
つて、乗客はほとんど被害がないというくらいになか
つた。八百ないし九百乗
つてお
つた船も、乗客をおろしてから撃沈されておる状態であります。わずかに九十人くらいしか乗客の死傷がなか
つたのでありますが、その際における
青函間
連絡職員の殉職は、驚くなかれ四百二十九名に達しておるのでありまして、それが
昭和二十年十月の十四日と十五日の惨害でありました。そうして今度また四百三十名の船員諸君と車掌が六名、鉄道郵便が四人、合せて四百五十人くらいの、仕事のために乗
つてお
つた人の中で、生還した者はわずかに船員八十一名、鉄道郵便は一人もなし、車掌が一名、こういう状態にな
つておりまして、四百二十九名失
つた船員が、いままた三百五十何人を失
つたのであります。こういう連中と二十何年来寝食をともにして来たのでありますから、私こういう質問の壇に立ちましても、千々に心が砕けるというのはおかしな話ですけれ
ども、言うに言葉なき次第であります。この点において
函館の運輸事務所といい、船舶管理部といい、あるいは現在の管理局とい
つてお
つたそういう人たちが、こういうときからずつとさしずをしてお
つたわけでありますが、それらの人の
気持も私と同様ではないかと思うのでありますが、しかし長年の職制といいますか、職務の階段といいますか、そういうことについてつくづく
考えてみますと、いろいろの点が目について来るのであります。
一番初めに私が不審に思いましたのは、羊蹄丸が八百近くの客を積んで青森で二十六日一ぱい動かなか
つた。それなのになぜこの洞爺が、しかも三十年の経歴を持つ
船長さんが腰をあげたかということが、どうしても最初からの疑問であり、かつまた今に至るまでその疑問が私には解けない。問題の焦点はここであろうと思います。そこでいろいろの揣摩臆測ができるのでありまして、そういう揣摩臆測についてはすでに同僚
委員から、ああであろうか、こうであろうかと、いろいろの話が出ておりまして、私はその問題についてあまり触れる必要はないと思うのでありますが、なぜ私が不審に思うかというと長い
経験によりますと、
津軽海峡は常に風波がはげしいので、各
連絡船の
船長、職員は、常に警戒態勢を十分に張
つておるところのよい習慣を、私は十分に知
つておるのであります。その習慣というのは簡単なことでございますが、風波のはげしいときには、青森のさん橋長、
函館のさん橋長及び
司令室、あるいは碇泊しておるにしろ運航しておるにしろ、各
連絡船が十分なる連結をと
つたものと私は見ておるし、
連絡をとるのが職の体制で確立されてお
つたのです。それでありますから、風波がはげしいときに、
連絡船のどれかが、きようは運航できないということで、腰をおろしてしま
つて、いわゆるテケミを発する。
天候険悪で
出港見合せというような態勢をとりますと、ほかの
連絡船も期せずしてその態勢をと
つたのが習慣なのであります。われわれ陸におりまして、お客さんを績んだり荷物を積んだ立場から非常にこれがいやなことでございましたが、それほど慎重な態度をと
つてお
つた。それが私の長い
経験で頭にありまするから、いわゆる各船が投錨しておるのに、なぜに洞爺が動いたか。長い間の習慣と逆の形が生れて来ておる。これがどうも私に合点行かない、解き得ないところであ
つたのであります。
そこで私は私なりにこういう
考えを持
つたのでありますが、やはりこれは
青函間の輸送の確保ということが、青常に重大な時期にあ
つた。それは過ぎ去
つた戦争の状態で、総力態勢とか、総力戦とかいう言葉が非常に強く叫ばれてた。その期間を通じてこの
青函間の輸送というものが、尋常の形でなくて遂行されなければならないという国家態勢に置かれてお
つたことは、私ははつきり在職中見ております。われわれはそれによ
つてさしずをされておるのであります。そういうことで船員としてのよい習慣と慎重さが、いつか国家の必要性のために第二義的にならせられてしま
つたと私は見ておるのです。さらに今度はさき申しました終戦直前の大打撃によりまして、
青函間の輸送がよくできなくな
つてしま
つた。輸送力がなくな
つてしま
つた。しかるにもかかわらず、終戦と同時に終戦時の混乱輸送というものが、
青函間を通じて非常に重大な段階に達して来ておる。輸送力はないが、混乱した輸送を確保するためには、やはりどうしても戦時態勢の訓練、あるいは第一義的に輸送を
考えるように置かれた精神状態は、それからも終戦後続いたものと私は見ておる。そういうことから、船の安全
航海を
考えることが第一義的でなければならないという長年の船員の精神状態が、第二義的に落ちてしま
つた。そういう歴史の変遷のもとに、第一義的には、
青函間の輸送ということが頭にこびりついてしま
つたのだろう。そういうことで潜在的には
気象観測をし、
航海の安全を思うところのものはないわけではないのだか、そういうような輸送要請というものが必然的に第一義的に精神状態を左右してしま
つたのではないか。そういう形から洞爺が動いたのではないかと私は観察するのであります。
しかも鉄道の教養方針といいますか何といいますか、
青函間はレールの延長であるという観念が非常に強く叫ばれてお
つた。十一月号の中央公論にあるように、いかに科学が発達しても、船というものは沈むものであるという観念を失
つてはならないということを言
つておりますが、そういう観念が大切であ
つたのに、レールの延長という言葉がそういう観念をかなり薄めてしま
つて、これが何か渡し船の
船長であるというような
考えが、おそらくこの
連絡船の運航を管理する管理面においての観念であ
つたろうと私は思う。そういう観念が非常に強制されたことと、もう
一つは、それと同時に
連絡船四千人の職員の精神状態は、他の三十七、八万、四十万のレール職員の精神状態とは、非常に違
つた精神状態にいる。これをレール職員並の養成の仕方をしなければならない。はだ合いの違
つた鉄道職員でなくして、レール職員並の、手がたいといいますか、そういうものに養成しなければならないという方針が強硬にとられたことは、私は在職中すつかり聞いている。またそうさせられた具体的な例としましては、
連絡船の
船長なり事務長をわれわれ陸の助役は、第一事務長であるとか大
船長であるという言葉をも
つて表明したものであり、服装がすでに金モールをつけた帽子をかぶり、税関の職員のように金のボタンをつけた。いわゆる船員としての服装までしてお
つたのでありますが、これを改正して鉄道並の詰めえりの服装に改装したという点も
考えられる。ところが船員というものはやはり船員としての気ぐらいといいますか、プライドというか、あるいは習性があるわけでありますから、この服装を非常にきら
つて、詰めえりのえりを開いて、陸の職員から見るとだらしのないかつこうですが、えりを開き、あるいは帽子の紋をてつぺんにつけてぶらぶらや
つているということを、管理者の立場から非常に不愉快に感ぜられて、そういうものを直そうとしたことがございます。これを直すのは悪いというわけではございませんが、そういういわゆるマドロスタイプを毛ぎらいしたというところに、
青函連絡の職員の海員としての要素をかなりそこねてしま
つているのではないかと私は
考えざるを得ない。そういうところから私が良習慣だと
思つてお
つたことに照し合せて、一船が繋留すると他がみな繋留して、陸の客扱い、荷物扱いのわれわれに歯ぎしりをかましたほど、慎重にかまえてお
つた習慣があ
つたのがよか
つたのですが、これがそういう歴史的改訂を経て、そういう
考え方が第二義的になり、で一義的には輸送確保、
ダイヤの確保、そういう形に行
つていると私は見るのであります。これはいかに輸送要請が強か
つたかということは、あの当時輸送力が足りないで、近くの有川岸壁を急に戦争中にこしらえて、あるいは小湊の
連絡設備をこしらえたときには、いわゆる国家総動員法ですか、坊さんの端から小学校の生徒の端まで全部を引出して、埋立工事から強行させた。そういうことから見ても、この
連絡船の職員は、その当時第一義的に輸送要請を
考えざるを得ない立場に置かれてしま
つたことは明らかであろうと思う。こういうところから今度のような場合に処して、海員として処置すべき第一義的な態度が失われてしま
つたのではないかと私は
考えます。
さらにこの船員を、極端に申しますると、列車に乗り込む乗務員のように、そういう形に
連絡船の乗務体制をこしらえたような形跡がないではない。わかり安い例を申しますと、昔の機関士というものは、自分の扱
つておる機関車は自分がきま
つておる。自分の使
つておると言
つてはおかしいですが、補助者である機関助手あるいは火手というものは、大体そろ
つて同じ機関車に乗
つてや
つてお
つた。今そういう悠長なことはできませんでしようが、それなるがゆえに機関士の奥さんは、お正月になると鏡もちを持
つて行
つて自分のおやじさんの機関車に備えて拝んだというようなことがある。技術職員というものにはそういう点が非常にぼくは大事であろうと思う。