○館
委員 私が発言を求めましたのは、
現地にお
つて二十七日朝から夜おそくまでかけまわ
つてお
つたときの
状況を聞いてもらいたい、そういう
意味で発言を求めたわけであります。その中でなお
当局の人から御返事いただくことがありましたら御返事いたぎたい。なお私がこういうことを申しますのは、前歴として
函館のさん橋助役として非常に長く勤務いたしておりましたので、船の出帆の
状況あるいは旅客の乗せ方その他について、非常に長い経験を持
つておるのであります。
従つて今度の事故についても、いろいろの経験から
船長の態度あるいは運行
指令の
状態その他をいろいろ見ております。と、
自分の経験から推してどう
判断していいのか、実は経験が多いだけに非常に困
つている
状態なんです。そういうことから、この
委員会が終りましたらすぐ
函館に帰
つて、もう一ぺん十分に
調査してみたいと
思つておりますけれ
ども、経験があるだけにどう見ていいかということが非常に困難で、弱
つておるわけなんです。ですから
現地報告みたいた形で聞いていただいて、
参考にしていただきたいという気持ちなんです、そして見て来たことについての整理も、けさまだ着いたばかりでや
つておりませんから、簡単なことですけれ
ども、
お話したいと
思つております。実は二十六日の内地の五〇六
列車に乗るために、木村禧八郎先年と二人ですでに前から
予定して特二をと
つておいたのです。二十六日の朝は、松前という停車場がありますが、そこで目をさましたところが、非常な暴風雨なんです。そのために最初の汽車に乗れないで、第二番目の汽車に乗
つて函館に着いたのが午後の一時半ごろでしたが、しつかり記憶はありませんが、そのころです。私は船のことですから、家内にすでに言うておいて、渡るつもりでワイシヤツその他を取寄せて、そしてそこで家内を帰して二時半ごろになりましたけれ
ども、どうも風が治まらない。そこで疲れておることでもありますので、その晩運よくとま
つたのですが、もう午後三時、四時ごろの情勢は非常な暴風雨でありまして、電話も電線もみなだめにな
つてしま
つた。市内は電車がとまる、電話がきかないという
状態でございました。
〔
委員長退席、關谷
委員長代理着席〕
それで湯川の方へ
行つてとま
つたのですが、
ちようど晩方の、五時半ごろと思いますが、そのころに
ちよつと暴風がやんだので、その機会に宿から自宅に帰ろうと
思つて外に出たのですが、風は
ちよつと静かでありました。夕焼け雲が非常にきれいに輝いておりました。この夕焼け雲は、子供の時分から風か出るときにそういう夕焼けが光るということを聞いておりましたので、腹の中では私はそう
思つて帰
つたのですが、湯川から電車に乗
つて競馬場というところで電車をおりて、それから私の家までバスで行くのですが、そのバスを待
つておるころでしたから、おそらく六時
ちよつと過ぎぐらいに、あまり感じなか
つた風が念にまた吹き出しまして、
行つておる間風に押されるというかつこうです。吹き倒されるほどの風ではありませんでしたけれ
ども、風に吹かれて五、六歩後に下らなければならないような風が吹いてお
つた。そして私はバスに乗
つて家に帰
つたのですが、そのまま市内は全部電話話も不通ですし、電燈もつかない。もちろん電車も動かない、非常にものすごい
状況で、相当被害も市内に出たわけなのです、そういう
状態で、私の家のラジオもとま
つておるものですから、二十七日の朝にな
つて、近所で騒ぎ出したので、私飛び出してみたけれ
ども、こういう洞爺がひつくり返
つてみたり、四そうの貨物船がひつくり返るような事故が起
つておるとは考えなか
つた。
あとから聞きましたら、
ちようど私か湯川を出て家に帰る間の時間、いわゆる
新聞は
台風の目とい
つておりますが、そうかどうか知りませんが、これは聞いた話ですけれ
ども、そのころ合いに、洞爺が十八時三十七分に出帆をしておるのであります。そうして洞爺が、これは四便という船ですから、四
列車四便で午後二時四十分
青森に渡るべき船なのですが、どうもその先に出て行
つた十一
青函が一二〇二便という形で出て
行つて、港外に
行つてしけがひどいので折り返して来て、
岸壁に着いて、これを四便に出る洞爺に乗せかえておる。これが二時四十分に出られないものですから、その
あとに五〇六
列車、二〇〇六
列車が入
つて来て、これが六便として別の船で行かなければならないものも積み込んだために、さん橋助役の人員計算で言いますと、千四十二名という旅客にな
つております。もちろんこれは十一
青函から乗りかえておるものも入れておるのですが、正確な数字であるかどうか知りません。混雑の最中ですから、乗船名簿の数が正確であるかどうかわかりません。しかしこの表では千百二十七名とな
つております。おそらくいろいろの方法で乗る人間がお
つたり、あるいは改札の人たちが混雑であるから取り漏れておりますから、千百は越しておることは確かだろうと思います。そういう
状態であ
つたのですが、十八時三十七分に
岸壁を離れて行
つたのが、その先に沖がかりをしてお
つて、沖から出帆したのが、十八時二十七分かということについて、私は現場の人から正確に話を聞くことができなか
つた。これは
岸壁についておると非常にあぶないことがあるので、風向きによ
つては沖に待機してお
つて出すこともあるという長年の経験から、両方聞いてみたのですが、何分混雑しておるものですから、正確につかむことができませんでした。そういうときに出たのが非常にどうかなという感じを持
つてお
つたのであります、
気象の方については、
北海道新聞が二十六日の夕刊ですから、三時か四時ごろですが、それに書いておるのが出ております。これは今後の
進路は速度を時速百十キロに早め、能登半島西部から北東に進み、夕刻奥羽地方北部から本道南部に近接、場合によ
つては上陸の公算も大にな
つたので、
函館海洋気象台では二十六日正午、次の暴風雨
警報を発令した。
台風十五号は三十六日正午現在新潟県西方沖にあり、
中心示度九百六八ミリバール、時速百キロで北東に進んでいるので、今日夕刻ころ道南に近接する。このため渡鳥、日高地方で東後北西の風が強まり、最大風速は
陸上二十メートルから二十九メートル、
海上二十五メートルから三十メートルになる見込みで、驟雨量は三十ミリから五十ミリになる
模様である。なお該
台風は今夜半から明朝にかけて、本道の東方
海上に抜ける見込みなので、天候は明日から回復する、こう出ておる。この
新聞が出たときは、まだ事故が起きていないときなのです。こういう
台風が来ておる時分に、
ちよつと五時、六時、七時の間に静かにな
つたからとい
つて出て行
つたのは、どうも軽率であ
つたと私は思うわけなのです。それは海峡は、
台風が一過してしま
つたあとでも、
海上のうねりというものはしばらくの間続くはずなのです。それもそういうときには、今まで大したことはありませんでしたけれ
ども、そういう情勢ですし、今夜夜半から明朝にかけてという、
台風通過のことが
あとに示してあるので、もう一日待機ができなか
つたのかという気がしてなりません。
そこでこれは上京する
自分に、さん橋からいろいろ聞いて見たのですが、その当時
ちようど
青森のさん橋に羊蹄丸がお
つたわけなのです、これはまだ整理してありませんからわかりませんが、午前八時十五分に出帆して、午後十二時十五分ごろ
函館に着くという便をとる船であ
つたと思われる。これが五百四十九名の客を乗せ、それから
あとから足し前の八百名の客を乗せてあるのですが、これが
青森で三十六口は出帆しない。二十七日も出帆しないで、二十八日の朝出帆をして、
函館に五時ごろ着いて、それから私こつちに来たのです。二十七日に出帆しなか
つたということは、これは
ダイヤが混乱しお
つたり、いろいろな船繰りの
関係で出なか
つたのだろうと思う。しかし二十六日客を積んでいて、一日中
岸壁につけたまま待機をして動かなか
つた状態と、洞爺が動いたという
状況、これを私正確に調べたいと思
つたのですが、どうもうまくないのじやないか。これも時間がないので飛んで
行つて聞いたのですから、正確につかんでおりませんけれ
ども、羊蹄が
青森を出なか
つたという風速は、たしか十五メートルから二十メートル前後のものであ
つたように思われる。これは
青森のさん橋長から聞いたのですが、そういうくらいなのです。それならば洞爺の例にとれば、出帆してもいい風速でなか
つたかと思われる。もう
一つは渡島丸という貨物船がありまして、これが
青森へその日の十六時に着いておるわけです。この渡島丸が
函館を出て非常に難航し、コースを変更して、山の陰に津軽ですか、北上ですか、
進路を変更して、ようよう
青森に着いておるわけなのです、その
状態を
青森のさん橋長はよくつかんで、これをも
参考にしたと言
つておるわけです。そこで
連絡のことですが、
函館のさん橋長と
青森のさん橋長は、両方の風の
模様、あるいは海の
模様、
岸壁の
模様を絶えず交換をして知らせ合う
状態なのでありますから、渡島丸の難航しておる
状態、それが
青森のさん橋長の
参考にもな
つておる
状態、そういうことが
函館のさん橋長にどう考えられてお
つたか。たとえば
函館の運航司令部でどう考えられ、お
つたか、
洞爺丸の
船長あるいは
洞爺丸当事者の方でどう考えられてお
つたか、この点が疑問のままここへや
つて来た。いろいろの何がありますが、そういうことが私としては今もつと吟味しなければならぬ点ではないかと
思つている。
測候所の通知のぐあい、あるいはそれをキヤツチしたぐあい、その他も問題でありますが、そういう両方のさん橋長あるいは運行司令部というもののもつと緊密な
情報の交換、これは
現地の
仕事をしてお
つた私たちの経験からすると、非常に大事な
情報の交換なのであります。
洞爺丸がああいうときに
台風の目を知らないで出たというようなことがありましても、現場にいた者にと
つては、たまさかそういうことは海でも経験するのですから、私はとやこう言いませんが、
青森ではそのくらいな風速で一日待機して動かなか
つたのに、
函館は動いた。もちろんこういうことについては
青森の港がどつちを向いているか、あるいは
函館はどつちを向いているか、港の位置もいろいろ勘案しなければなりませんから、めんどうですけれ
ども、ともかく
情報の交換が両方でどう咀嚼されてお
つたかという点が、非常に今疑念のあるところでございます。
それからいろいろの救難作業ですが、洞爺が横倒しにな
つたのが十時か十一時ころには正確にはわからなか
つたのじやないかと
思つておる。
ちようどそのときに
函館乗合バスの組合の書記長の古田君が七重浜の方に家があるので、
自分の車で夜の十一時半ごろに家までか
行つて帰りしなに、七重浜へ打上げられて生還した十八人の人――頭に穴が明いて悩み子の出た者もあ
つたのですが、道路の方に上
つて来た。それを見つけて、そのバスに乗せて、
函館の中央病院へ運んだ。それと同時に別の人が
函館の亀田町の交番にこれを急報した。これが見つけた初めではないかと
思つております。洞爺から無線が行
つたか行かないかということについては、私は吟味をしておりません。それでバスがその後集中して来て拾
つたのですけれ
ども、まつ暗だから、バスのヘツドライトでなければ死骸が見つからない。だんだん夜が明けて来たら、七重浜の砂浜は死人で一ぱいにな
つてお
つたわけなんです。夜みなかけつけたには違いないけれ
ども、夜のうちの遺骸の始末その他はできなか
つたのじやないか。それから応急
処置ができないために、人工呼吸もできない。そういうかつこうで大分なくな
つた者もあ
つたということを聞いております。
そういう
状態で、二十七日の朝早くから夜十二時、一時ころまで、私と木村さんがかけまわ
つたのですけれ
ども、正確な
調査はできませんでした。そのことは残念ですけれ
ども、まずとりあえず
運輸委員会で
調査中ですから、こちらへ
情報が来ておるでしようと
思つてかけつけたわけなんです。
国鉄の営業
局長にも、二十七日の夜十時ころに
管理局で会いましたが、石井さんと天坊副
総裁は、十八日の朝六時半で札幌から着いて、これにも会
つて、とりあえずここへ
行つて来るからということで、参
つたわけなんです。
私一番お願い――お願いではおかしいのですが、楯君から
お話がありました
遭難者の遺骸を早急に引揚げていただく、最大速力で引揚げてもらう。二十七日の朝はもぐりが
洞爺丸に行
つたそうですけれ
ども、どろで潤
つてお
つて、一時間ばかりや
つたけれ
ども、どうしても収容できない。二十八日は、きのうですけれ
ども、朝から徹底的にやると言
つておりました。もちろん旅客の方が主でございましようが、十勝、北見、第十一
青函、それからもう
一つ何でしたか、これがほとんど放擲されているのではないかと
思つております。ことに
洞爺丸は横倒しにな
つて見えますし、十勝は船首だけが浮んでいるけれ
ども、
あとの三つの船は、私の出るまでは所在不明ということです。
連絡船から見たのですけれ
ども、船影は見えません。ただ重油が流れているので、これを当てに探すという
状態でございますので、ここに残
つている船員たちはどうなるか、早く引揚げることを現実にや
つてもらいたいと
思つております。船員は、この表にも出ておりますけれ
ども、大体四百二十五名乗
つている。弘済会の人が十二人、そのほか荷扱いが二人、その助手が二人、
鉄道郵便屋が四人くらい乗
つていたと思われる。このうち二十七日の晩、私の出る前の日のおそくでは、職員としては七十九名という説もあり、八十三名という説もありますが、そういうところが生還をしてお
つたわけであります。
あとは、二十七日の晩ですから、見込みがたいということにな
つておりますから、ほとんど三百五、六十名、もつと多い人がああいう悲惨な
状態にな
つております。乗客は千百二十七名、乗船名簿では千四十二名ですが、このうち、私の出るまでは、百二十九名生還ということにな
つておりますから、これもほとんど千名くらいはい
つているのではないか。
こういうことで、
現地では局も
国鉄の労働組合も徹宵してや
つておりますけれ
ども、遺族が殺到して来る。その遺族を遺骸の安置してある七重浜の
国鉄の養成所とあそこの慰霊堂と西別院に、夜でも連れて行かなければならぬという
状態、病院にもおるという
状態で、手が足りないわけなんです。
〔關谷
委員長代理退席、
委員長着席〕
そういう
状態にな
つておることをお知らせしておきします。
それからさしあた
つては
原因の究明、これが大事で、正確にそれこそ
国鉄が悪か
つたら悪いということをあげてもらいたいし、
気象台が悪いなら悪いとい
つてあげてもらいたいが、お互いにほんとうのことを
発表していただくことをお願いする、私はそう
思つております。
それからさしあた
つて救出の問題を徹底的にや
つてもらいたい。死骸はどんどん上りますが、あれだけの市では火葬能力が、六十くらいしかないということですから、市会がどういう態度をとりますか、弱
つておるということであります。
函館の大火のときと違いまして、大分引取られてはおりますけれ
ども、引取りのできない遺体をどうするか。防腐をするか、防臭をするかということも協議されておりましたが、結論は聞いておらないわけなんです。そういうようなさんたんたる情勢にな
つておりますので、今度この
委員会から視察に派遣される方々も十分見ていただくとわかりますけれ
ども、運輸省あるいは
鉄道本庁の
調査もおありでしようが、
青森のさん橋
関係、
函館のさん橋
関係、その他無線の
関係、いろいろ詳細に調べていただくようにお願いしたいと
思つております。私のまわるところはわか
つておるのでありますけれ
ども、どうも火急の場合ですからまわることができませんでしたし、いろいろ私たち二人の身柄についても心配があ
つたそうで、顔見せだけに出て来ました、こういうわけです。
それからさつきいろいろ話が出ましたが、
局長会議の問題なのです。
局長さんが、三人、それから総
支配人が一人、まことにお気の毒なことなのですが、どの
列車で
函館までおいでにな
つてお
つたのか、もしその間に時間があるとすれば、その間何をしていらつしや
つたか、こういうことも非常に凝問になるわけなのです。二十七日の朝は今皆さんこらの方からいろいろ
質問があ
つた。
局長会議のために非常に
出港を強制せられたのじやないかということが、だれ言うとなく市内
一般の空気にな
つているのです。こういう不幸なときですから、私はそこまで考えてはいけないと思いますけれ
ども、何時の汽車で
函館へお着きにな
つて、そうして定時ならば、二時四十分の船にお乗りになるわけであ
つたが、もちろんその時間には出ませんでしたけれ
ども、その間何をしていらつしや
つたのか、こういうことも気にならないわけでは私はないのであります。
船長の出たのが悪い、出ない方がよか
つたというようなこと、それから
船長の
処置、投錨したのが悪いとか、いいとかいり
処置、そういうことについては長年あそこにお
つてそういう例がたくさんありますので、これについては私としてはどう
判断してよいかわからない次第なのです。とにもかくにも
青森の羊蹄丸が動かなか
つた。一日貨等を積んだまま動かなか
つた。
函館が動いた。この点が非常に私
ども今のところ気にな
つておるところなのです。こういうことも
参考のために申しておきます。
ここでいただいた
資料がありますが、これに似通
つたものだし、こつちか
連絡がついておりますから言いませんが、これは労働組合がこしらえました、五つの船の乗船職員の名簿です。家族が非常に押しかけて来ておりまして、ここに丸じるしを書いたのが生還した者、三角のはもう死体の上
つた者、何も書いてないのはまだ死体の上らない者、もう絶望でしようけれ
ども、そういうことにな
つておる。このうち一番ひどいのは十一
青函丸で、死体を確認したのばかりでありまして、生還は一人もないというような
状態にな
つております。この遺族、家族の人たちと応接しておるのですが、見ていられないような
状態にな
つております。これは局でこしらえた乗船名簿によ
つてこしらえた名簿なのですが、これも、別のところで受付をして応接をしておりますが、これはもう言語に絶するような見ていられないような
状態が、
函館埠頭から、七重浜から、死体の置場、病院に繰返されておるということを報告しておきます。
何にしてもそういうことで、ここで万全の策を講ぜられるということを私は言う必要はありませんが、事故の
原因をほんとうに正直にあからさまに
発表してもらうこと、それから応急の
対策として死体収容なり、その辺のことを十分にや
つていただくこと、それからその後におけるいろいろの
弔慰その他に、後顧の憂いのないようにしていただかなければなりません。
それからまた輸送の方も聞いて参りましたが、残
つた船で十三運行をやる。そうすると三千五百人ぐらいの輸送力があるということを申しております。しかしこの輸送力が一日片道三千五百人の輸送力があるということですけれ
ども、
列車の
接続を全然考えたものではない。とにかく両方へ渡せばいいのですから、
青森のさん橋と
函館のさん橋は非常に混雑することになる。これは経験上からも、実際上からも考えられます。そこで話の通りならば徳寿丸をごく最近のうちに
函館へ回航するそうですが、それが一千名くらいの乗客定員があるということも聞いております。もう
一つそういうような応急の輸送をとられるにしても、十八運航をやるということにな
つてお
つて、それが片道八千五百トンの貨物を渡すことにな
つておるのが、こうな
つたのですから、このままの形で行きますと、五千トンくらいしか輸送ができない。三千トンが行き詰まる。この問題も早急に解決してもらいたいと思うのです。ことに秋作のばれいしよその他の出まわり期でありますので、これは何としても船の増強を急速に十月、十一月、十二月にや
つていただく必要がある。そこで
当局としてもあそこに道南海運という機帆船ですが、
会社がありますから、これを動員して――
北海道のものが押しかけるのですから、できるだけ
青森で
貨車積みできるような手配も速急にと
つていただきたい。
海上運賃も
鉄道並のように、
政府あるいは本庁であんばいしてや
つていただけないかと
思つております。そういう話も営業
局長に
お話をして来たわけなんですが、そういう現実の輸送態勢を強化するというようなことについても考えておられるだろうと思いますが、や
つていただきたいと
思つております。
鉄道職員はこれで二回非常な目にあ
つておりまして、二十年の七月の十五日と十六日のグラマンの空襲で、
連絡船が大半やられてしま
つた。そうして職員が三百五十数名あの海底に沈んでおる。その後今山崎さんから
お話のあ
つた避難などを入れまして、たしか四百十九名の
遭難者が現在までにあの海峡において出ている。
函館の労働組合が
中心にな
つて、八ツ頭に沈んだ記念日に石碑を立てて何したのが二十八年の八月十五日でしたか、四百十九名、今またここでほとんど七十九名か八十名しか上
つておらないとなると、そういう
状態にな
つて来ます。その
青函連絡船が空襲を受けたときの遺家族の
処置も非常にスピードが遅れたのです。いまも
つて函館の母子寮へ三十軒ぐらいの人が入
つておる
状態で、遺家族の救済が非常に遅れ、
現地には非常な非難の声も上り、御病人たちの難儀は言葉で尽せないような
状態であります。現在でもそれを考えますと、とにかくそういう問題についても
政府――これは
一般の旅客も同じでありますが、
一般の旅客も含めて
政府が絶対的にこれを
処置しなければならないと
思つておる。
国鉄の経済ではとても満足させるものはできないと思う。福永官房長官その他が
新聞で言明しておられることを聞いておりますので、いずれまた向うへ帰りますが、福永官房長官とも会いたいと
思つております。長崎さんの
責任も非常に大きいことでありますが、これは
鉄道のわくを抜けて考えていただかなければならぬと私は考えております。それだけのことを申し上げておきまして、なお帰
つて現地において十分なる
調査をして入たいと
思つております。