○青野委員 私はその資料がほしいのです。これは非常にめんどうな資料になると思いますが、こういうものは当然
運輸省の関係局において、もうすでにでき上
つておるはずです。そういうようにな
つておりますではいけません。というのは、私が知
つておるだけでも、たとえば兵隊の服であるとか、毛布であるとか、ズボン、靴、靴下とい
つたものを満載して行こうとしたときに、どうしても十日か十五日、長くて一箇月で手を上げるような状態にな
つていたので、こんなものを向うに送
つて行
つたつてしようがないとい
つて、長崎港外や佐世保軍港港外で、機雷に当
つて沈んだ形式をと
つて、船自身を爆沈させておいて、潜水
業者と話し合
つて、どどんそれをと
つておるという事実が北九州でもありますよ。しかも大豆なんかを満載してお
つて沈んだ。その海の水につか
つたかます一俵が当時二百八十円で、北九州帯の農民諸君に配給されておる。またその服がべらぼうな値段で、終戦後北九州方面に流れておる。全国を
調査してみますと、いろいろそういうインチキが行われておる。そういうことでございますから、
日本全体で推定どの
程度船が沈められておるか、そうしてどのようなものを積んでお
つたか、犠牲者はどの
程度出ておるか、あるいは四十メートル以上は
日本の潜水技術の上からいろいろな
調査は不可能だというが、それがどの
程度あるかというようなことは、もしきよう御
答弁できませねば、この次かその次の
委員会までに大体でよろしいから、各委員のお手元一通ずつそういう書類をほしいのです。そうすると残
つておるのも見当がつきます。というのはなぜかと言いますと、鳥取県のえびす様を
まつつてある海上から五千メートルのところに四千トンばかりの船が沈んで、それを大蔵省は国有財産とい
つて地方のボスに引揚げの許可をや
つた。ところがそれは違うのです。民間の船なんです。保険
会社から金もと
つておる。そこにボスが介在して、国有財産という許可証を振りまわしていろいろな問題を起して、いまだに未
解決のままにな
つております。
そこでここに
高等海難審判庁長官もおいでになりますから、
船舶局長なり次官なり関係者に、ちよつと古いかもしれませんが、人道問題に関係いたしますので、ひ
とつ具体的にお尋ね申し上げておきたいと思います。というのは、これは気象台との関係もありますが、
昭和二十四年の六月中句ごろに有名なデラ台風がございました。これは
中央気象台の発表が全然な
つておらぬから、四国の高松から関門方面に向けて五百九十九トンの青葉丸という船がお客をたくさん乗せて出港した。方向違いに台風か通るというので安心して通るうちに、台風にぶつつか
つて沈んでしま
つた。どこで沈んだか今日まで不明でございましたが、幸いに
高等海難審判庁に行
つて調べてみまして大体沈没所はわかりましたが、旅客が六十九名と乗組員が十九名死亡しております。これは死体が発見されたから死亡ということが確認された。公文書に載
つております。ところが問題になるのは、二十八名の旅客と乗組員の二十五名が行方不明である。これは二十四年六月二十日に今治から高松に行
つて、そこから門司港に向けて旅客九十九人、貨物八トンを積んで出港した。この中には何の失態か知らぬが、身元不明の者が六名あ
つた。船に乗せると小さい瀬戸内海の航路でも、住所氏名はちやんとと
つておる。それで高浜を出港してからは一時間十海里の速力で走
つていた。そのとき気象台からデラ台風の警報が出たが、航路か違うから安心して走
つていたわですが、六月二十日午前三時三十分に沈没した。どこに沈没したかと申しますと、瀬戸内海の姫島西端三ツ石鼻からほぼ真方位の二百八十度十海中半の地点に船荷を東方に向け、右舷約四十五度傾斜したまま沈没しておる。そうして旅客が二十八名と乗組員二十五名、合計五十三名が今日まで行方不明である。一説によりますと、潜水夫をごまかしてその船にダイナマイトをしかけたといううわさすら飛んでる。五十三名の死体が今日まで発見せられないということは、青葉丸の
船体の中にあるということを私
どもは経験の上から推定いたしますが、何とかしてその死体を発見して、遺族に渡して、
相当の弔慰金なり慰藉料なりを出すべきである。もくせい号で死んだ者には、葬式料に二十万円、香奠に十万円、慰藉料百万円出した。この船
会社は川崎汽船ですが、そんな金をこれだけの人に出したのでは、
会社自身の経理からい
つて倒れてしまうというので、その沈没箇所がわか
つておりながら二年も三年も放任して、ようやくその場所がわつかて、その潜水夫に何らかの
方法によ
つて箝口令をしたが、それがまわりまわ
つて船のある場所が今日わか
つたのでありますが、水深がどれくらいあるかは、
高等海難審判庁に参りましてもよくわかりません。地元の神戸地方海難審判庁でなければわからぬと思います。至急に資料を送
つてもらいたいということを言いましたが、こういう点について、
運輸省の関係者は、大体どの
程度に弔慰金を出すのを適当と
考えるか、もしそういうことが事実であるなら、どのようなお
考えを持つか、五十三の死体がまだ発見されないが、こういう点については、弔慰金なり慰藉料がその遺族に渡
つたかどうかということを伺いたい。一九十九名の乗客の中に六名の身元不明ということは、汽船
会社の手落ちですよ。身元不明の者にどうして弔慰金をやれるか。彼らにも必ず遺族があるはずだ。ところがこれが調べてないからわからない。こういうようなやり方をして荏苒日を送
つて参りましたが、こういうことは人道問題にも関係する。この場所の判定というものについて私は読んで参りましたが、それは近いうちに
一つの資料として参りますれば、御希望の方にはお見せするつもりですが、幸いにして甲板で
作業してお
つた乗組員で増田修一という人と、九十九名の乗客中の一名今津虎太郎という人が生きておる。巷聞伝えるところによりますれば、乗組員も旅客も全滅したから、どこで船が沈んだか、どう
なつたかわからないという風説があ
つたのですが、二人は幸い生きている。この人が
現地の神戸か何かの審判庁に証人として出ている。そのときの係官中沢佐久三という人が裁決書をおつくりにな
つております。そういうのもを調べるとその真相がわかるのですが、はたして川崎汽船はこれらの犠牲者の諸君に対して、死体のわか
つただけでも六十九名と乗組員十九名、これらに対して、どの
程度の弔慰金を出したか。それから行方不明にな
つておる合計五十三名の諸君には、どのような方策が講ぜられたか。これはおわかりにならぬとは私は言われまいと思う。たとえばB29が埼玉県の金子村に落ちた。乗組員十名がこつぱみじんにふつ飛んで、三十何軒の家を焼き、電柱に上
つてお
つた職工を爆弾の破片で殺した。年寄りは死んだ。子供も死んだ。そして終戦後四年くらいまでの規約では、トラックでひき殺されたり、B29が落ちて焼き殺されても、た
つた六万五千円で片づけられてお
つた。それで私は労働
委員会で、
日本人は犬やねこではないと言
つて、アメリカ側の反省を求めたことがあります。私は何ももくせい号の犠牲者に百万円出したから、これにも百万円出せと主張しておるのではありませんが、どのような弔慰金が出されておるか、その後どうな
つておるかぐらいのことは、運輸次官は御承知のはずであり、
高等海難審判庁長官は御存じのはずであると思うので、この点をお尋ね申し上げたいと思う。