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証人(
濱崎友一君) 承知いたしました。
私は太洋漁業株式会社の社属手操船第七一明石丸の
船長濱崎友一であります。命によりまして
拿捕抑留の経過を御報告いたします。
私は昭和二十八年八月二十五日十一時五十分
下関を出港いたしまして、同月二十八日六時、
推測位置東経百二十二度四十分、
北緯三十一度三十分附近で、僚船の第七二明石丸と会合、操業を始め、その後続行しながら次第に北方に漁場を変更しました。その後第七一明石丸と別れ、九月二十一日十九時頃、
推測位置東経百二十四度十五分、
北緯三十一度十分で第六三明石丸と組みまして操業いたしました。翌二十二日十時、砕氷補給及び漁獲物一千百函4第二九北新丸に転載すべく、農林漁区三百十八区左中発、その場合六三明石丸と別れ、単独で五島荒川港に向けて航走を始めました。当時北の風が強く、風力五、北東でありました。北東の風強く曇ときどき雨の天候でありまし、て、風力を考慮に入れ、針路を東微北二分の一北にて航走、翌二十三日、曇で小雨、ときどき晴間を見ましたので、十二時二十五分、天測緯度
北緯三十二度二十八分を計りまして、針路を東微北に転針し、同日十五時三十三分七秒に天測しました。
東経百二十七度二十九分、
北緯三十二度三十三分をそのとき得ました。十六時五十分
韓国艦艇一〇九号は停船を命ぜられ、停船いたしました。時に
推測位置は
東経百二十七度三十八分、
北緯三十二度三十七分でありました。大体におきまして、私は
李承晩ラインがどこからどこまであるかということをしつかり頭に入れておりませんでしたが、日頃の操業がラインに余り
関係のない南のほうの漁場を主にや
つておりましたので、そういうところに入ることはないというような気持から、そう確かめてもいませんでした。停船を
メガホンで叫びますので、
本船は直ちに停止いたしまして、交渉に入りましたが、なぜ停止しなければならんのかと、それに尋ねましたが、これには向うは答えずに横付けせよと言いますので、大体ここはラインのうちであるから、
本船の
位置は三十二度三十七分北、百二十七度三十八分東の
位置でしたが、ここがラインのうちなんでしようかと手旗を持
つて甲板長を通じて行わせましたが、一向に向うの手旗は解読でませんでした。約五十分横に流しておりましたが、
メガホンで附いて来いとやかましく言いますので、ノー・ノー・ウエスの方向に
スローで附いて行きました。
李承晩ラインがどこかというはつきりした線は知りませんでしたが、そういう方向に引張られて行く場合には、外にいても内に入ることは間違いありませんのでありまして、三十分にして
本船は停止いたしました。そうしてその近くに
日本の監視船が約二十マイルほど北方におるように局長も言いますので、この地点に錨を下さしてくれ、そうして監視船の来船を持つから、それで交渉するように頼みましたが、そういうことは全然受付けてくれませんでした。そうして丁度そこで第二、第三東亜丸が操業しておりました。私の地点から南々西、又は南西の方向かと思いますが、距離は約一マイル半のところでありました。それでついでにその船もという気が起
つたのかも知れません。それを見て全速で以て二艘の船をつかまえに行きますので、私はもう自分らは操業しちやおらんのだし、見逃したのかというような気持も起りましたので、東に向
つて十五分間イース・バイ・イースの進路に進みました。そうすると、その二艘の船を連行して自分の船の表先に来てから停船せよと
言つて船の
航行を害して、どうしても船は走ることができませんでした。仕方なくもう日もかれこれ晩方に近くなりましたので、こうしてお
つても将があかんから、自分が乗
つてから話をするから向うも横付けにしろということを頻りに言いますので、船を横付けにして私も船を去りました。それ以後の船の行動についてはわかりませんでしたが、ずつと
済洲島の方向に
艦艇はトップを切
つて、
あとの船はこれに従
つて行
つた模様でございます。船に乗りまして、第一ここが
李承晩ラインかどうかということを確かめなければならんと思いましたから、副
艦長というのが、航海長を兼務しておりましたように聞きましたが、その人に大体貴艦の
位置はどこなのかと問いましたら、
東経百二十七度十七分、
北緯三十二度三十四分の地点だというように言います。自分は今日二回に
亘つて天測して、拿捕された地は
東経百二十七度三十八分、
北緯三十二度三十七分、こうようように計算上出ておるが、どうしてそれほどの開きがあるのかということを聞きましたが、それはお前らは
漁船であ
つて、正確な何は出し切れん、自分の船は軍艦であるから、あらゆる測器具を持
つておるから絶対に間違いない。レーダーでも五十マイルも見えるものを持
つてや
つておるのだからと言うので、私も五十年来の漁師をしておりましたものですから、今までそれに基いてや
つて一回も事故を起したこともなし、まあ幾分かの自信を持
つてや
つておりますから、その
関係書類は船にありますので、それを一応お見せしてから、そしてそれが正しいかどうかを調べてもらおうということを具言いたしました。ところがその船に移乗されて
あとは、局長は極力その近くの監視船を呼び寄せましてから、その御援助によ
つて釈放してもらうように努力して、余り向うもやかましく言いましたので三ノット、四ノットという程度で夜中までは走
つてお
つたそうであります。そうしたら監視船が四隻来て頂きましたそうでございますが、結局何も私らの拿捕、即ち連行させることについては何の役にも立たなか
つたような状態であります。それで翌日の二十四日の十二時近くと思いますが、一〇九艇は
済洲島に到着いたしまして、私はそのとき
自認書を取られました。その場合にも一〇九艇の航海長にその
位置を強制されました。その書いた何は、先方が書いたもので、私が書いたものではありません。その場合の自分の証拠書類を引合せて何してみるからと言いましたのですが、もう強制的に自分の手の右の親指の何をとりまして、捺印させられました。そして船を去ろうとしましたら、警備府司令官という人が来られまして、そして
李承晩ラインをお前さん方はどういうふうに思
つておるかということを問われました。そのときは第二東亜丸
船長と第三東亜丸
船長と私と五名で二枚敷の
部屋に連れて行われまして問われましたのでありますが、
李承晩ラインというものがあ
つて、その中で操業してはいけないということを会社から聞いておりますと言いましたら、司令官は平和ライン内は領海であるのだから外国の土地に入ると同様だと言いますので、私は領海は陸地から百マイル、百五十マイルとは思いませんでしたと言いました。そうすると、司令官は公海ならどこを航海し、又漁業してもいいと
日本政府は
言つておるが、あなたはそれをどういうふうに思
つておりますかと聞かれましたので、
韓国の領海は五マイルか、十マイルか確かないことは知りませんが、そんな近くで操業した事実もありませんし、私はしようとも思いませんと答えました。
日本政府は平和ラインは
韓国政府が勝手にきめたもので不法であるというが、これはアメリカやオーストラリアにも例のあることで、決して国際法上違反でない、国際法規にこのような主権を制限してはならないという規則もない。それであるから
韓国政府は海洋主権を宣言した以上、これをお前
たちは守らなければならんというように言い聞かされました。そして
連絡将校という大尉の人がおりまして、便宜上私らの
身柄を預
つておる
海軍との間の
連絡をする任務の人でありまして、それを通じて再三その
位置のことでお願いしてみましたのですが、よくラインを引きましたら、私らのつかま
つた位置はライン外におりましたことがわかりましたので、ライン外であ
つたら勝手に外国の船をつかまえることができないということを或る
船長から聞きましたので、そのことを強硬に主張しましたのでありますが、そうしたらなかなか許されませんでしたが、十月の四日頃と思います。各船が皆
海図と日誌ぐらいを持
つて海軍のその司令部へ上りました。それで私は昼からになりまして、やはり言われるようにその
海図と航海日誌を持
つて上
つたのでございます。その場合には
自認書を再び書かされましたが、繩船やそのほかの船は全部その
自認書を
海軍の言う
位置に書かされましたそうでございます。それでそこを操業
位置にせいというように言うことで、繩船の人もあらゆる何が皆これを拒みましたのでございますが、何しろそのときに台風第十三号が発生しまして、近く自分らの所に来襲の虞れがある時期でございまして、天候も不良で網船の人も船位のことについては、その
自認書の
位置と違うことをやかましく言うようなふうでありましたが、これは認められませんでした。その場合私は
関係書類を皆持
つて上りまして、こういう証拠書類に一よ
つて計算したものであるから、一応あなたのほうで調べてみてくれと出しましたのであります。そうしたら作戦課長というのが、貴様が一番生意気だ、ほかの者は皆自分らの言うように
自認書を書いたが、年寄りのくせに一番生意気だというように言われまして、とうとうその書類を全部床の上に投げられましたのであります。そのとき出した
海図はその当時使用しておりましたもので、三時三十三分の線は確かにその中に入れてあるはずであります。それを今
韓国の裁判所が何でも一回見ましたものでございますから、向うに残
つておるはずと思います。そういう何によりまして、
身柄は、貴様みたいな生意気な者はこれから
海軍の何を離れて
警察とかへ送るからというふうにおどかされましたのですが、私も会社宛にはこういうような、自分の信念に基いた意思を報告しておりますし、余り十五マイルも八マイルも違うような何はどうしてもこれを認めるわけに行きません。それでもそのときに、ああいうような最大限の誤差を考慮に入れまして、四マイルぐらいは
自認書にもラインの地区を言うておるはずであります。その
位置は
東経百二十七度三十四分、
北緯三十二度三十七分と記憶しております。それでもやはりラインの外にな
つております、相当……。それから
あとは、十月十一日かに私らは第一
船団としまして
警察の手へ
海軍のほうから渡されまして、そして
木浦へ連れて行かれたのであります。その場合潮が引いてから下りますので、余計ワイヤーが下へ沈んでおるのであります。それでこういう所で余りゴウヘイな何をすると、スクリューに巻く虞れがあるから、手を出さんように頼んだのでありますが、ぼやぼやせんと早いことせいというようにせきますので、言われたようにゴウヘイにや
つたら、ワイヤーが巻きつきましたので、明る日独航では
木浦へ行くのは不可能にな
つたのです。そうしたら
警察が、夜海女を二人連れて来ましたので、それによ
つて更生丸のほうに、主に魚を集めます電気船がおりますので、それに灯をあからかしてから潜らして、離らかしてしまいました。夜中に……。そしてそれをする金の五千園を私らに要求しましたのです。それへ行くまでにおきまして、私らは千百箱漁獲しておりました漁獲物を、もう二、三日で
日本に帰してもらえることと思いまして、氷はそのように見ておりましたので、東亜丸の氷を七トンばかりもら
つて、施氷してまだ一週間くらいは大丈夫、
日本に帰
つても腐らかす虞れはないように思
つてや
つたのですが、何日た
つても釈放の見込みが付きません。次から次へ船が拿捕されて来る状態であるので、もうこれは売
つてもらわないと中で腐敗させます。ガスのために出すことができない状態になるので、仕方なく
海軍のほうに
連絡をと
つて上げてもらいまして、千百箱ありました船のほうの魚を、三十箱程度、三十箱、四十箱出しております。それで結局六貫五百匁の箱にしまして千十箱、代金は一貫目で二十八園、一箱が百八十二園くらいの値段にして十八万三千何ぼかの魚を売
つてもらいましたが、その金は
海軍が保管して、お前らには渡されないから、そのうちお前
たちが要る
生活必需品はこのうちから買うて何してやるというように言われまして、それでそこで一万四千何ぼか、主食と副食に一日、
船員のものとしては一日十本の煙草をお願いして買うてや
つて使
つたということにな
つております。その残
つた金のうちで京丸の一万六千園か、七千園か、
更生丸の二万八千園と、それもみな引かれまして、十一万九千園程度残
つておるように思います。それで十月十一日に
木浦へ着きまして、そうして晩方の五時頃でありましたか、
木浦の
警察のほうの手に渡
つたそうであります。それからのちは
佐藤証人の言われましたようなことと余り大差がありませんので、
警察での取調べや何ぞの二とを一応報告申上げます。
警察で調べられましたときは、最初大したえらい人のようには思いませんでした、その調書は簡単なものであります。その次部長級の人が、私は夜中頃に調べられましたのでありますが、どうしても
韓国の
海軍の言う
位置を強要しますので、書類でこういう工合にして
海軍のほうに上げてお
つて、どつちが本当か嘘かわからんようにして、私はそれを認めるわけには行かないで、なかなか夜中が過ぎても帰してくれるような何もありませんので、是が非でもそれを書くまでは許さないような何がありますので、それではそこへ一項入れてくれ、
韓国艦艇一〇九号の言う
位置はこれこれと言う、これを入れてくれということを言いましたが、そうしてその場合、その
位置でお前は操業する意思があ
つてそこへ来たんだろうと言うので、そうじやない、自分の船は性能上二艘曳手繰船で、一艘では操業ができない船であるということを
説明しましたが、それがなかなかわからんような状態でありまして、それでこれはあなた方の示す
位置であ
つても、すでに夜にな
つているじやないか、いわんや自分はラインの外におる船であ
つて、そういうところで操業する意思は全然ないじやないかということを言いましたが、どうしてもこれを聞き入れてくれる何がありませんでした。それでそのときは判を押しましたが、二日くらいのちにそれを一旦読んでから読み聞かせまして、無理やりに拇印をと
つたのであります。そうして十三日頃
全員点呼と言いますので、船の表へ集合したのでありますが、そのうちから
船長と甲板長と調理員三名は残れ、
あとは
全員調べることがあるからと言うので、上れと言うので、おかへ連れて行かれて、それぎり
全員帰
つて来ないのであります。どうな
つたかいろいろ聞き律しますと、一同消息もわかりませんでした。そのうちに何か
洗面道具を差入れることを許すということがありまして、
警察の下つぱのほうでありましようが、それに聞いてみますと、みんな青い服を着て監獄の中におるということを聞きましてたまげました。それで私が十八日頃でありましたか、朝出頭せいと言いましたから出頭しましたら、検察庁というようなところへ連れて行かれまして、それで何を調べるのだろうかと思
つて心待ちにしておりましたが、何も調べることがないというて、留置場に押込められましてから、晩方にそこのほうで調べられることを調べ終
つた人間と
一緒に
刑務所のほうに連れて行かれました。そこでみんな着物を脱がされて着換えさせられましてから、貴重品を預け、番号も付けられまして、その場合私は年寄りでありまするし、夏に出ておりますので夏
シャツしか持
つておりませんので、着物は二枚お願いしたら、お前は二枚でいいからというて許してくれました。それから後は余り大きな何はないと思いますが、それの中へ入
つておるうちに、何というか、しつかりした日にちは記憶しませんですが、一応検事の調べとか、何とかその後に
全員出ることになりまして、そのとき初めて十二週間日くらいに
全員の顔を見ることができたのであります。中へ入
つておりますのでみんな青い顔をして、ひげはぼうくにな
つておりますし、一と目見てから涙が流れるほど悲しがりました。それからトラックで検察庁というところに連れて行かれまして、又留置場の中へ入れられましてから、今度は一番に私が取調べを受けたのでありますが、そのとき私生れて初めてあの手錠というものをはめられて、検事とか何とかいう者の前に行きました。そして今までの内容と余り違いませんでしたが、漁業日誌を向うが没収しておりますので、その中を取調べられた結果によりますと、九月の十六日に
東経百二十七度十七分、
北緯三十二度〇〇分の推測緯度において操業したことが書いてありましたから、一番にそれをこの地点は何と思うかと言われますので、じつと見ますと、これは、えらいところをや
つてお
つたな、これは
推測位置でありますから実際の
位置ではありません。それで三十二度〇〇分と言いますと、三十二度線があなたがたの主張される
李承晩ラインでありますから、紙一重の差のところであると思いますが、実際においてみましたらば、ライン外五マイルあ
つたものやら十マイルにお
つたものであるやら、これは神でない限りこれを
証言することはできないのだと私は申しましたが、九月十五日に又しても入
つてお
つたのであります。三十二度十一分の百二十四度○五分のところでございました。そこは点測
位置という欄に書いてありましたが、拿捕された
位置を点測地点においてやかましく私が今までずつと述べておりました
関係上、これは又拒むようなことを
言つてもとても向うが認める何もありませんし、私もこれは事実と認めるよりほかには言うことができませんでした。でもその場合私は大体において
韓国や中共の心証を害するような、今までそんな近くで漁業した覚えもありませんし、これからやろうとも思いませんので、
李承晩ラインというものはどこからどこまでやら、そんなことは自分には
関係はない、そんなところは余りやらんのだからというような気持で、不幸にしてこういうように侵したものであるから、
漁船は
位置とい
つてもそう……、言い逃れか知りませんが、三マイルや四マイル違うことは
韓国の
漁船においてもあるはずのことと思いますが、検事の何には言いましたが、それは認めてもらえずに、一応の調べを終りまして、その場合船から三名もやはり上
つて来まして、そういう調べを受けたそうでございます。
それから今度は裁判の判決ということにな
つたそうでございます。そこでは官服を着た人が三人おりまして、そこで通訳が一人お
つて、中の人が言われることを一々通訳して私に伝えて、そうして答えるように言われました。そのときもやはり
位置の問題でそういう何が出ましたが、まあその場合漁業してお
つた位置が
韓国のこういうつかま
つた位置に
行つておりますので、済州島南々東五十マイルの地点において操業したことに間違いないかというように言いますので、そんなことをした覚えはありません。自分が
韓国の何によ
つて調べられた結果、済州島から少しく、五マイルくらいはウエス、サーウエスの方向の地点というふうに言いましたが、たまげてお
つたような次第でありまして、それで結果その場合局長も
日本に電信を打ちました場合、農林漁区で打
つたか又は会社の区で打
つたか、又は緯度経度で
日本に打電したかということを相当長い時間尋問されましたが、結局あれは緯度経度で
日本には報告しておりますからそのように言いました。又甲板員の北原安信は
船長と社長とが共謀してこのライン内で働くような話をしよ
つたということを言うたが、これに変りはないかということをそこで言いました。結局会社の社長が
漁撈長を呼んだから、お前はライン内のどこどこへ
行つて魚をと
つて来いということを認めておるが、それに間違いないかということを言いました。それで北原はそんなことを
言つた覚えはありませんということを十二、三遍くらい応答しましたが、なかなか許されるようなふうはなか
つたのですが、とうとう確か十三遍くらい讐
つて、言い抜いたように思います。
それからそのときの私らに示された刑の内容は、漁業会違反によ
つて船舶、属具、積荷漁獲物はもとより没収、それで政令六十五条とかで
船長は三カ月の懲役、罰金二千園、その他の者は懲役ニカ月罰金一千園と言われました。そうして判決はそれから三日
あとに言渡をするから午前九時までに出て来いというふうに言われまして、その日は終り、判決言渡しは三日後でなくて、それから九日くらい延びた日に行われましたが、そのときには私は懲役三カ月、罰金三千園、
機関長、局長、甲板長が罰金二千園、懲役ニ方月、その他の
船員は罰金千園、懲役ニカ月のように言い渡しまして、船に対しては元の
通りの判決の言渡しでありました。それでそのうちから前から監獄に入
つておりますので、その何を二十日ほど差引いてやるということを言われました。二名ほど未成年者がおりますので、この者は刑の執行は一年ほどこらえてやるというような意味のことを言われました。この裁判に不服のある者は一週間以内に又その上の届けをするところがありますそうで、それに届けをすることができると申しますので、それで一応
刑務所に帰りましてから、自分らのことは自分らがこれに服すればいいが、船舶は会社のものであるから自分らの意思で計らうわけにいかん。これはどうしても会社に
連絡をとらなければならんと思いまして、そのことを担当を通じてから、
日本の船舶所有者にその意向を問い質すようにお願いをいたしました。そうしたらそれが十九日だ
つたと思います。その日に手紙を書くように言われてからその旨を書きましたが、封筒がないとかいうために三日ばかりそれを送
つてくれんのであります。それでは期日までに返事をもらうことができん懸念がありますので、もう
一つ上の係官まで面会を求めて、これは重大なことだから是非取計ら
つてもらいたいというようにお願いをしましたら、大丈夫この頃は交通
機関や何かが発達しておるものだから間に合わんことはないから、心配せんでもええと言いますので、それはあなたは
責任を以てそう言われますかと念を押しましたら、又その一段上の人に問いに
行つてくれました。大丈夫間に合うからと言われましたが、
日本に帰
つて会社に問うてみますと、そんな形跡がありませんでした。十一月三日頃から私らの
待遇は、それまではもう想像も及ばん食
生活、やはり着るものとか、あらゆる面におきまして人間として想像も及ばんものでありましたが、十一月三日から俄かに幾分その前よりか変
つて来たように思われます。それがまあ、ミルクとか、「いも」とか、豚汁というようなものをときどき支給しまして、六日間、全部で六日間か知りませんですが、六遍も、ミルクの何を受けました。その後のことは余り
佐藤証人も言われましたのと大差ありませんので省略します。
最後にここに私が来ることを命ぜられまして、
下関を立つに当
つて萩市の延繩船から、是非このことは先生方の前で申してくれということを頼まれたことをお話さして頂きます。それは第一項は時間の都合で長引くようだ
つたら、それは言わんでもいいからと申しましたので、第二項からちよつと話さして頂きます。全く裁判は一方的の裁判であ
つて、延繩船
漁船繁好丸や中伝丸その他の船も裁判求刑の際検事の論告要旨を申上げますと、かく言渡されました。
山田長政はシャムを侵略し、インドにもその魔手を延ばし、又昭和の初期においては満洲に出兵し、これを侵略す。今度又も
日本国は
漁船を利用し被告はその出先
機関となり、吉田首相の内命を受け
韓国撹乱の意図を以て
韓国の主権線内に突入す。よ
つて法律六十五条及び漁業会違反で、
船長懲役三カ月罰金五千園、
機関長、甲板長は懲役三カ月罰金三千園、以下
乗組員は懲役ニカ月罰金二千園並びに漁獲物、漁具、船一切没収を言渡されました。そのときは獄中で各船共余りに不法なことに泣きました。このことを申述べてくれということでありました。
以上を以ちまして
証言を終ります。