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1953-12-04 第18回国会 参議院 水産委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十八年十二月四日(金曜日)    午後一時三十三分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     森崎  隆君    理事            秋山俊一郎君            千田  正君    委員            青山 正一君            野田 俊作君            森 八三一君            木下 源吾君            菊田 七平君   政府委員    保安政務次官  前田 正男君    外務政務次官  小滝  彬君    水産庁長官   清井  正君    海上保安庁長官 山口  傳君   説明員    保安庁保安局長 山田  誠君    外務省アジア局    長       中川  融君   証人    第二福徳丸漁撈    長       佐藤  盈君    第七一明石丸船    長       濱崎 友一君    第二義隆丸船長 藤田 三一君   参考人    日韓漁業対策本    部委員長    小濱 八彌君   —————————————   本日の会議に付した事件 ○水産政策に関する調査の件  (漁船及び乗組員だ捕抑留に関す  る件)  (右件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 森崎隆

    委員長森崎隆君) それではこれより水産委員会を開会いたします。  先ず初めに皆様にお諮り申上げます。本日は主として証人諸君から朝鮮抑留中の待遇その他についてお聞きをすることにいたしておりましたが、日韓関係の漁業問題につきましては、いろいろな問題がありますが、それらを総合して日韓漁業対策本部委員長であられます小濱八彌君からお聞きしたいと思いますので、同氏を参考人として御出席を求めたいと存じますが、この件御異議ございませんでしようか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 御異議ないと認めまして、そのように取計らいます。  本日は証人各位におかれましては、御多忙中、而も遠路のところわざわざ御出席を頂きまして有難く御礼を申上げます。当委員会におきましては、いわゆる李承晩ラインと呼ばれておるこの線を中心といたしました漁業紛争につきまして、今日までしばしば取上げて参りまして、いろいろ検当もし、又政府をも督励をして参つたのでありますが、先般は国会の閉会中を利用いたしまして、現地実情を親しく調査いたしまして、即ち去る十一月二十二日から第一班は下関福岡の両地へ、第二班は李ラインの直接影響下にある対馬に参りまして、各地で地元の実情をお聞きし、二十五日には海上保安庁巡視船「いすず号」に乗船いたしまして、いわゆる李承晩ラインを遥かに突破いたしまして、朝鮮海峡中央水域まで参りまして、附近で勇敢に漁撈に従事いたしておる我が漁民諸君活躍ぶりを拝見して参つたのでございます。丁度我々のこの現地調査と相前後いたしまして、韓国に久しく抑留されていました船員諸君が帰還されたのでありまして、まだそれらの諸君の詳しいお話は聞いておりませんので、本日は証人として主君の御出席を求めた次第であります。証人諸君抑留中非常に御苦労されたことと存じます。又帰還されてからはすぐにも生活の問題や失業問題等に直面されまして、いろいろと御苦難の多いことだと、誠に御同情に堪えない次第であります。それらの点を率直にお述べ頂きますように希望したいと思います。  さて、以上のような趣旨で今日の委員会を開会いたしたのでありますが、今日は証人として去る九月、韓国艦艇に拿捕され木浦刑務所に三カ月近くも収容せられ、過日送還されました静岡田方戸田村の「さば釣り漁船の第二福徳丸漁撈長佐藤盈君、島根県那賀郡岡見村の底曳漁船第七十一明石丸船長濱崎友一君、同じく釜山刑務所に収容されておりました山口県萩市越ヶ浜延繩漁船第二義隆丸船長藤田三一君、それに只今御承認を得ました参考人日韓漁業対策本部委員長小濱八彌君の御出席を求めた次第であります。  証人かたがたは拿捕された当時の模様、送還されてから内地に帰還されるまでの待遇その他全般に亘つて詳しく御証言を願いたいと思います。参考人のかたからは、いわゆる李承晩ライン関係の諸問題について簡潔に御要望を申述べられたいと存じます。なお、委員のかたに申上げますが、一応証人及び参考人発言が一通り終りましてから、御質問のあるかたは引続いて質問して頂くようにいたしたいと存じますので、その点あらかじめ御了承願いたいと存じます。  それから本日の委員会は三証人の体験を率直に承わつて我々の参考にするりが目的でありますが、これに関連いたしまして、留守家族見舞金の問題、拿捕漁船の代船建造の融資の問題、漁船失つた船員失業対策、今後の出漁安全を確保する問題、更に根本的には李承晩ライン問題をどう解決するかという幾多の重要緊急な問題が山積いたしておりますので、本日は政府側がら保利農林大臣清井水産庁長官、阿崎外務大臣中川アジア局長石井運輸大臣山口海上保安庁長官木村保安庁長官山田保安局長その他関係官出席を要求いたしたのでありますが、衆議院予算委員会等関係で、或いは各大臣を初め、要求いたしておる政府委員のかたの全面的の御出席は願えないかとも思いまするが、何度も御連絡は申上げておる次第でございます。委員各位におかれましては、これら政府関係当局並びに証人参考人等十分質疑応答を重ねられまして万全の対策を御検討あらんことを切望する次第であります。  それではこれから証人宣誓に入りたいと思います。  その前に一言証人のかたに御注意申上げておきます。若しこの証言に虚偽の陳述をされたというような場合は、議院に於ける証人宣誓及び証言等に関する法律第六条によりまして、「三月以上十年以下の懲役に処する。」罰則かあります。又正当な事由なくして「宣誓若しくは証言を拒んだときは、」同法第七条によりまして一年以下の禁錮又は一万円以下の罰金に処せられることになつておりまするから、この点十分に御注意をお願いいたします。但し民事訴訟法第二百八十条のうち第三万の場合を除きます。及び第二百八十一条、そのうち第一項第一号及び第三万の場合を除きます。この規定に該当する場合に限り、宣誓又は証言若しくは書類の提出を拒むことができます。念のために民事訴訟法第二百八十条の該当部分を朗読しておきたいと思います。第二百八十条「証言カ証人ハ左掲クル者ノ刑事上ノ訴追又ハ処罰招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人ハ証言拒ムコトヲ得証言カ此等ノ者ノ恥辱二帰スヘキ事項ニ関スルトキ亦同シ 一 証人配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ証人此等親族関係アリタル者 二 証人ノ後見人又ハ証人ノ後見ヲ受クル者」  次に民事訴訟法第二百八十一条の該当部分を朗読いたしておきます。第二百八十一条「左ノ場合二於テハ証人ハ証言拒ムコトヲ得」、「二 医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教又ハ祷祀ノ職二在ル者ハ此等職ニリタル者カ職務知リタル事実ニシテ黙秘スヘキモノニ付訊問受タルトキ」、「前項ノ規定ハ証人カ黙秘ノ義務ヲ免セラレタル場合ニハ之ヲ適用セス」、以上であります。  それでは証人宣誓に入りまするが、佐藤証人濱崎証人藤田証人の順序で宣誓を願います   全員起立を願います。    〔総員起立証人は次のように宣誓を行なつた〕    宣 誓 書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 佐藤  盈    宣 誓 書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 濱崎 友一    宣 誓 書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 藤田 三一
  4. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 御着席を願います。
  5. 千田正

    千田正君 議事進行について……。本日の委員会は特にいわゆる李承晩ラインにおいて拿捕された諸君実情を聴取するのでありますが、この原因や、又この原因を除去する意味から言いましても、政府の施策に対して我々は将来質問もし、又協力もしなければならないと思いますが、現在政府側出席者はどの省とどの省のかたがたが見えておられますか。
  6. 森崎隆

    委員長森崎隆君) お答えいたします。出席を要求しておりまする政府委員については、さつき申上げた通りでございますが、只今参つておりますのは清井水産庁長官保安庁保安局長山田誠君、海上保安庁長官山口博君、三名でございます。
  7. 千田正

    千田正君 先般本会議におきまして岡崎外務大臣李承晩ラインにおける拿捕された抑留者の大部分が帰つて来て、大したあとは問題が起らないかのごとき感を与える演説をしておりますが、我々が実情を見た場合にそうではない、二月以降から拿捕された諸君はまだ帰らない。こういう点におきまして、今まで外務省のとつておるところの不熱心な行き方に対して一応私は外務大臣に釈明を求めようと思うのですが、外務大臣出席を要求します。
  8. 森崎隆

    委員長森崎隆君) お諮りいたします。外務大臣出席成規の手続で要求することにいたしたいと思いますが、如何でございますか。
  9. 千田正

    千田正君 若し本日、先ほど委員長の御説明にもありました通り衆議院予算委員会における説明上、外務大臣出席できないとするならば、外務大臣に代るところの責任にある政府委員をここに出席させるようにして頂ければよろしうございます。
  10. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 只今千田委員の御発言通りいたしたいと思います。直ちに衆議院予算委員会模様等につきまして連絡をさせます。  それでは取りあえずこれで証言を始めたいと思います。最初に佐藤証人、大体二十分前後くらいの時間で、時間のことは余り気にしないでも結構と思いますが、大体そのくらいのつもりで……。それでは佐藤証人
  11. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) このたび私ども韓国に拿捕されたことに関しまして、委員長様初め皆々様には御多忙中のところ多大の御配慮にあずかりまして、私たちの予想したよりも早く帰還できましたことは、これ又ひとえに皆様の厚き御配慮の賜物と感謝いたしております。又生活援護措置法から再建のことまで講じて頂き、誠に有難く、三名を代表いたしまして厚く御礼を申上げます。  静岡田方戸田戸田五九八の一番地、船主笹原稻蔵所有船第二福徳丸漁撈長佐藤盈四十一歳であります。只今より命により韓国拿捕抑留の経過を申上げます。  船体、木船三十トンであります。機関は九十馬力ヂーゼル・エンジン漁種別におきましては、「かつを」、「まぐろ」、「さば」の一本釣漁撈でございます。乗組員は二十五名、以上であります。  本船が出港いたしましたのは、日時は九月二十六日、長崎五島列島荒川港を出港いたしました。夕刻六時機関に故障を生じまして漂泊、応急修理の完成した時間が十一時四十分でありまして、南東に微速で航行中、時の風速は北の風六、七メートルでありまして、非常に波が高かつたのであります。そうして航行中、突如十二時十五分頃、韓国艦艇一〇九号であります。これに停船命令を受けまして、早速韓国艦艇メガホンを持ちまして、その漁船待て、本艦の取舵につけよ、こう叫びまして、そこで仕方なく取舵につけましたが、とても波が大きくて、艦は鉄船でありまして、私ども木船の「さば」釣船でありまして、右舷が中破いたしまして、そうして韓国艦艇の司令塔におきまして、メガホン船長機関長通信長三名は本艦に上れと、こう命ぜられましたのですが、船長機関長はすぐ乗り移りましたが、通信長は、私そのとき、事実私が舵を持つておりまして、通信長通信を扱つておらない、おらないからと言つても、アンテナを見て無線があるぞ、通信長がいないということはない、このとき船が当る瞬間で、船は非常にいたみましたので、そのまま私たちはアースタンで下げまして、艦のほうで以て、本艦のあとを附いて来いと、こう彼らは命じました。そのときすでに長崎県の五島列島巾着網船更生丸五隻と、福岡の「さば」の一本釣漁船第三十三蛭子丸は拿捕されて、身柄艦艇に乗つておりました。そういたしまして、私たちはやむを得ず艦の言うがまま附いておりました。それで無線長が乗らないために、私たち通信を行い、そうして戸畑、福岡下関、この海岸局及び海上保安庁に対して、この我々の状況を報告して援助を求めた次第であります。早速海岸局も出まして、福徳丸頑張れ、もう少しだから頑張れ、現場に「こしき」が急行中であるから、現場で解決をしてもらうようにするかり頑張れと言つて来て、私たちは成るべくスロースローで艦のあと附いておりました。そのときすでに各船とも申合せておつたのでありますが、私どもの船には幸いにして韓国の水兵が乗らんために通信ができました。先の更生丸と第三十三蛭子丸におきましては、すでに通信長艦艇に乗つておりましたから、通信が全然できず困つておりましたが、私たちのほうは通信ができました。だんだんそうして行くうちに、どこへ行くかと思いましたら、艦の航路は済洲島に向つておりました。済洲島に引かれて行く途中、成るべくスロースローで行きましたが、仕方なく艦の言うがままに附いて行き、各船とも打合せてスロースローで行き、今に海上保安庁の船が来て現場解決をしてくれるからというので望みを持つておりました。夜明頃になりまして、双眼鏡を使つておりましたら、遥か東のほうに白く光る保安庁の船が見えました。ところが韓国艦艇、七百六号という非常に速力のある二十浬くらい出る艦艇でありますが、この艦艇海上保安庁の船の航行を遮断をして、どうしても我々の現場保安庁の船を入れず、そのまま万やむを得ず、航行を遮断されてどうしようもないかり、今後の対策をすぐ講ずるからというようなことで投げまして、私たちはてのまま、二十七日の午後三時でありますが、済洲島済洲港に連れて行かれました。そのときには、すでに私たりよりも先に七隻の漁船が拿捕されて済洲港におりました。そうして済洲港しおきましては、海軍憲兵隊が我々の身柄抑留しておつたのです。その間におきまして、日付におきましては多少の誤差がありましたらお詑びを申上げますが、自認書の件でありますが、海軍の百九号の艦長が来まして、船長上れ、そして海図を一枚持つて来い、お前らが使用しておる海図を持つて来い、そこで自認書を書かされました。拿捕された位置でありますが、私たち船長の主張した位置は、北緯三十三度五十分、東経百二十七度五十分であるということを、本船推測位置はこの位置だと、船長は飽くまでも自認書に書いて主張したのでありますけれども韓国の百九号の艦長の言うのに、どうしてもお前たちはその位置ではない。北緯三十三度十分、東経百二十七度三十三分の位置である。このとき相当言い争いましたのですが、何と言つても向うではもう聞き容れず、お前たちにおいて何か測る機械があるか、ホーウがあるか、或いは点測をやつたか、ホーウもありません、点測もやりません、それで貴様たちに何がわかるか、嘘を言うなというようなわけで、とうとう万やむを得ずして自認書に彼らの言うままに書き、判を押しました。これは私たちにしましては強制自認書のように書いております。そうしまして、海軍憲兵隊に私たちは十五日間おりまして、その間上陸は一歩もさせません。各船とも一定の済洲港漁船を固めまして、それからそれへと拿捕して来る船を繋ぎまして、ここ一週間余りのうちに三十隻ばかりになりました。そうして十月の十二日に、我々の身柄海軍憲兵隊から地方警察に移されたのであります。各人員、その他船に付く附属品とか、そういつた諸物品の、憲兵隊から地方警察への申送りがありまして、私たち身柄地方警察に移り、十月十三日の夜十二時に、警部補以下五名が本船に乗船しまして、そのまま木浦に向いました。木浦に向う前に、警察身柄を移されたときに、船長機関長を集合さして、お前たちは油は何ぼ持つておるかと、こう向うから聞かれました。油は何ぼと言われましても、走る時間によるものだから、大体どこへ行くまであればいいのですかということを聞いたら、お前たち佐世保へ行くまで油があればよろしいと、こう警察では申されました。そのときに、それでは我我はもう母国に帰してもらえるものかと非常に喜びました。ところが、あに図らんや、佐世保でなくて、韓国艦艇が五隻で我々を警戒して、十三日の夜十二時に済洲港を出発いたしました。その前にすでに我々は二船団に編成され、我々のほうは第二船団でありますが、第一船団は我々よりも二日前にやはり夜出発いたしましたが、どこへ行つたのか全然わかりませんでした。警部補以下乗込んで行くときに、どこへ行くのですかと聞いたら、お前たち木浦へ行くのだ、木浦行つて少し調べればすぐ日本へ帰すから、木浦へ行くのだという。警部補以下五名乗りましたが、こういう者は乗つただけで船に酔つて航行中は寝ておりました。そしてそのときの艦艇は五隻でありました。我だの二船団二十隻に対しまして五隻の艦艇が警戒して木浦に向い、木浦に着いたのは十三日の午後三時でありました。そうして木浦に着きましたとき我々より先に行つた船団のかたはどこへ行つておるだろうかと、そういう思いでおりましたところが、我々より先の船団は全部木浦におりました。そうして船長以下三名が船に残つておるきりで、船員はどこへ行つたかわかりません。どこへ行つたのか不安の念に駆られて、どこへ行つたのかと残つた船員に聞しましたら、どこへ行つたか全然消息がわからない。ただ船長ボースン炊事長、この三名を大きな船に残しましたきり、あと船員は着のみ着のままでどこへ行つたかわからない。二晩も三晩も帰つて来ない。どこへ行つたかと聞きましたが、私たちに全然教えてくれませんでした。そして私たちは十五日に夕食を食べまして、全員集合という警察命令で私たちは集合したところが、そのときすでに自動車が二台待つておりました。そして我が福徳丸におきましては、船長ボースン炊事長と三名を残して、私以下二十二名を自動車に乗せた。どこへ行くのだと言つても、行先はわかるから自動車に乗れと言つて、トラックに五十八名乗せました。かれこれそのときにはもう夕闇が迫りまして、人の顔もうすらうすら見える時分でした。そのときどこへ行くのかと思いましたが、木浦の町を通り抜けて行つたところが木浦刑務所でありました。そしてこの刑務所の中に入れるや、人員点呼をして、そして私たちこの刑務所というところは全然認識がありませんで、どういうところであるかと中へ入りましたら、監房と言いまして、中央監房がありまして、一、二、三と大きな監房がありまして、中央監房のところに我々全員を集合させ、そこでいろいろ刑務所長注意事項があつて、そして我々に番号を付けて、そして着類を全部脱げと言う。それから私たちは言うがままに、しようがないから自分の着ている着物を脱ぎました。そうしたところが、シャツ一枚だけはお前らに許す、ほかは全部とれと、こういう命令を受けました。シャツ一枚では困るからと、それで私たちより先に入つた者シャツからズボン下までもとられて囚人服に着換えましたが、我々はズボン下とあれだけははかしてくれと言つてスボン下にパンツとシャツだけ、その上に青い囚人服を着せられまして、そのまま定員十五名の監房に三十名入れました。これで今晩お前らは寝ろと、あるだけの毛布を分配して寝ろと、私たちは全然刑務所というものは知らんのであります。便所一緒、何も一緒、四方を石に囲まれた、鉄の二重の錠のかかつたドアを締めて三十名その中に入れました。そこでその晩、お前ら寝ろと言われても、三十名横になつて寝ることもできませんので、仕方なくあるだけの毛布を一枚ずつ敷いて、一夜を過そうと思いましたが、何としてもこれでは寝られないから何とかしてくれと言つたところが、便所の蓋の上でも寝られるのたから寝ろと、こういうように刑務所担当官は言うのです。幾ら私たちでも便所の蓋の上には寝られんと言つて頑張つて一夜を寝ずに過しました。只今刑務所に関することになりましたか、今度は一夜が明けて朝食であります。その日は夕食はくれませんでした。食事のことにつきましては、我々も先ほど申しましたように、刑務所食事のことはどんなものであるかということも知りませんでしたが、朝持つ来た我々の食事を見ますと、五等めしでありました。五等と言いますと、器に御飯を入れて、それを一つ一つこういうふうに一つに八十個入る木の箱の中に入れて、韓国囚人模範囚がそれを分配してくれました。その持つて来ためしに五等という字が書いてありました。これがどういうめしであつたかと言いますと、私どもの見たところでは一合でありました。一合のうちに麦が七形、等外米と、それからシャム米とか、何とかいう細長い米であります。それから雑穀が入つて、一合くらいの分量を柔かく炊いためしを持つて参りました。副食物としましては、塩汁の「ほんだわら」、私たちのほうでは「もく」と言いますが、海岸に落ちているあの肥料になる、潰すと。ピチピチというあのもくが汁の中に入つてつて、汁の味は全部塩味でありました。それが三度々々同じ食事であります。朝も昼も夕方も、この食事には全然変りはありませんでした。何としても塩辛いだけで、「もく」を噛むにも噛み切れず、そうして二、三日しているうちに、初めのうちは死んでも食わんと言つて頑張つたのですけれども、いやそれではいけない。生きて帰れば国家のために又御奉公ができるから食べよう、食べようと、そのうちにぼつぼつおなかもすきますから食べた。汁は初めは全然吸えませんでしたが、ぼつぼつ口に入れるようになつて来たのです。汁も味噌とか、そういうものは全然使つてありませんで、全部塩であります。それから十日も十五日も「ほんだわら」の塩汁のみでありました。そうして、話は元へ戻りますが、明くる日に我々の監房を二十二名にしてくれました。その他毛布が約一人前二枚になりました。そして部屋は板敷であります。あれは聞きましたところが、元日本が統治しておつたとき作つた刑務所であつて、設計は日本刑務所と同じであると言つておりましたが、全部一尺くらいの檜の板で床はできておりました。寝具は毛布が二枚で以て、夜間は非常に寒くて、我々の私物シャツがあるのだから、一枚そのシャツを返してくれと言つて幾度も頼んだのですけれども、これは上からの命令だと言つて、なかなか私物のシヤツ返してくれませんでした。そして又食事のことでありますが、どうしても胸やけがして、下痢を起す、何としてもこれは食べられないから何とかしてくれと言つて再三頼んだのです。そのときに、それでは何とかしてやろうと言つて直してくれたのはいいけれども、お前の好きなものをやろうと言つてくれたのが「あおさ」てあります、これは又「もく」よりも悪いのであります。幾ら噛んでも、どうしても口に入れて噛み切れませんでした。これは又としても塩辛い塩汁を飲む以外に方法がない。そのときに刑務所で、日本人だから特に洗面だけは許すと、朝洗面警察が連れて行きまして、そのときに戦争中日本が使いました黒い岩塩を少しずつ分けてくれました。そして片手で顔を洗つて、その塩をポケツトに入れて部屋に持ち帰つた。それも叱られましたが、それを次の御飯につけて食べたところが、これが一番我々にはおいしかつたのであります。そうしてその「あおさ」がどうしても食えないし、下痢をするし、だんだん顔が青くなつて来て、何とかしてくれと言つたところが、今度は大根葉の固くて噛み切れないものをくれましたが、「もく」よりも大根葉のほうが噛み切れますから、私どもは食べました。そういう食事がずつと続きまして、ほかの食事というものは全然我々は食わなかつたのであります。そうして私どもが帰る十五日前に、うちの船員が四名ばかり顔がむくんで参りまして、私も責任がありますから、何だお前苦しいかと言いますと、いや苦しくないと、お前はむくんで来たと、診断を受けましたら、医者が胃が悪いのだといつて薬を少しくれましたけれども、お前はどうか、頭が痛いというと、風邪だ風邪だといつて診断をしまして、番号は二百何番ということで、朝鮮語で言いますけれども、聴診器一つ当てないで、薬は何だかわかりませんが、向うで少しずつくれました。それが十月の十五日に我々が刑務所に入りまして、そのときにはもうすでに我々より先に上つた者か全部この刑務所におりました。  ここで以て一つ暴行ということをお話しておきます。私はかような目に会いませんでしたが、萩の水夫一名が、これは韓国の囚人で、模範囚だといつておりましたが、腕に三本の腕章を附けておりました。この同じ囚人が棒で七つ八つ日本水夫を殴つたということを、ピンピンと音のするのを私は監房の中で聞いて、これは朝でありますが、あれは何だろうと言つたところが、それには何か深いわけがあつてつたのでしようが、結局その韓国の囚人が日本水夫に暴行を加えたことを一回聞きました。  その次に掠奪であります。刑務所におきましては、我々の衣類、貴重品、時計、金銭その他は全部警察が番号を付けまして、貴重品は貴重品、それから被服は被服と別々にしまして、全部預けました。この船当番に残つておる船を監視する警察と朝鮮の地方人とがぐるになつて、我が福徳丸のロープを盗んだのであります。これがわかりまして、残つておりましたボースン警察に言いましたところが、警察が怒つて、結局胸元へ銃を突付けて槓杵を二、三回がちやがちやと引いおどかしました。これをはたにおりました水夫が見まして、第二京丸へ飛んで行つてこの状況を話して、みんな集まつたときには話が穏やかに済んだと、そういうような暴行があつたことを私ボースンから聞きました。  十月の十八日から警察の訊問に移りまして、これは戸籍及び本人の経歴、こういつたことを随分と詳しく調べました。そしてそのときに、お前たちはごの平和ラインヘ、向うでは平和ライン及び韓国海洋主権線と言つておりました。これへどうして入つたのか。初めから貴様たちは入るつもりで入つたのだろうと、こういうような、いわゆる警察の訊問は相当強制訊問でありました。ですけど、これは全部一人一人が約二時間、あれを書き終るまでには……。警察訊問で書類の書き終るまでには時間にしまして二時間くらい一八にかかりました。いよいよ最後の調べも終つて、そしてこのときに一般船員におきましては、我々は当局者の命によつて動くのであつて、魚をとれといえばとる。船を洗えといえば洗うというものであつて、どの辺が平和ラインであるか何であるか……李承晩ラインといつたら向うで非常に怒つたのです。平和ラインと言えと、向うでは李承晩ラインとは言わせませんでした。初めから入つたろうと言つてあれしましたが、一般船員におきましては知らない。船長漁撈長の責任であつて知らないと、このときの訊問はこれで済みました。明けて十月二十七日、我々は検事の訊問に移りました。検事訊問がありまして、恐らく警察の書類が廻りまして、検事訊問を受け、そして検事が本当の内容のことは平和ラインに侵入した事由なんです。ここを特に追及して、このときの追及は非常に向うも強制訊問でありまして、お前たち日本国においては、昔から日本は領土的侵略の強い国である。お前たちは早く言えば経済的の侵略者であると、こういうようなあれを……昔加藤清正から山田長政と、この古い歴史を検事があれして、我々の言うことは全然聞き入れず、ただ弁護人を一人も頼むことができない法廷でありまして、私たち被告は本当の事実を証言すると、貴様たちは大韓民国の神聖なる法廷を汚すかと、こう頭から打たれるのですから、もう何も私たち証言は聞き入れず、本当の一方的なこれはもう訊問としか私たちには思えませんでした。十一月五日に検事の求刑がありまして、検事の求刑によりますと、船長三カ月、五千園、機関長が三カ月の三千園、船員がニカ月の二千園と、こういう検事が判事に対して求刑を行いました。そうして十一月の十二日にいよいよ判決が下りました。判決の結果によりますと、そのときには裁判長と私たちを調べた検事と通訳ともう一人書記がおりました。服装は私たちは裁判のことは全然不認識でありますが、胸にあれを行けました裁判服でありますか、あの服を着ておりまして、頭には裁判帽を被つておりました。そしてそのときの判決が、我々はお前たち船長につき船長懲役三カ月、罰金千円、ほかの者においてはニカ月の五百園、未成年者においては一カ年の執行猶予、そしてこの漁業法令違反及び第六十五条によつて船体、漁具及び物品を没収すと、こういう判決を受けました。判決が終りまして私たちは仕方なくあれに帰りまして、十一月の二十三日にこの特赦、特赦の前におきまして、特赦の出る一晩前に、向うでこの紙の半分くらいの紙ですが、これに各人が全部嘆願書を書きました。嘆願書を書けばお前らはもう日本へ帰れるだろう、嘆願書を書け、こう言いました。嘆願書はどういうふうに書くのですか、嘆願書と書いて、自分の名前を書いて、そうして私たちはこのたびラインへ入つたことをお詫びする、そうしてもう二度とこのラインへは来ません。私たちがこうして刑務所におつたのでは故郷にいる家族は餓死するのみである。それだによつてこのたびだけは寛大なお計らいを以てお国へ帰して頂きたい、こういう嘆願書を書け、こう言つて向うで文面まで作つて嘆願書を鉛筆で以てこの紙の半分くらいの紙に書かされました。明けて十一月二十三日にこの特赦であります。特赦のときに韓国政府当側のかたと思いますが、のかたが来て、通訳にはそのかたが、勿論我々は朝鮮語であれしたのですから一切わかりませんでしたが、通訳がおりまして、その通訳が、このたびはお前ら李承晩大統領の特赦によつて全員釈放すというあれを通訳は説明をいたしました。  今まで申上げました事項が、大体これが特赦までの事項であります。そうしてその他の事項といたしまして、我々船員の帰国後の健康状態は、又帰つて来てむくみの来た者もありますし、医師に早速診断を受けましたところが、これは栄養失調の前兆だ、こういうようなあれを受けました。で、目下この君たち全員薬を飲んで静養しております。  次に、帰国のあれをします。帰国は九〇三号という艦艇で、この特赦の令で出て来まして、我々が木浦の桟橋に来たときはすでに桟橋に九〇三号という砲が二門か三門かある貨物艦で、石炭を積んだあとが見えました。この船に乗る前に全員整列して身の廻り品のことについて、私物をお前らは十分間で以てこれを船に持つて行け、そうして持つて来たものに対しては全部警察があれしまして、シート、我々の少しのものでもゆわけるものがないから、シートなんかでゆわいていればシートは全部取つてしまいます。時計、六分儀、全部徹底的に調べて向うで取つてしまいました。そうして十分間で行くのですから、殆んど身の廻りのものだけ持つて集合して、そのまま艦のほうへ廻されまして、下しませんでしたから、その後のあれはできませんでした。そうして明る朝七時の出帆の予定が少し遅れて、日本国から入国許可証が来ないからまだ出帆できないといつて、向うでは朝七時の出帆の予定を、桟橋から出しまして沖ヘアンカーを打つてとめて置きました。その晩私たちは四百人から狭い所にいたのですから、とても横になれない、ただ荷物の上にこうしたまま一夜を明かしました。そうして夜が明けまして、まだこの艦は木浦におりますので、艫のデッキに行きましたときに、背広の服を着た眼鏡をかけた三十前後の韓国人が見えました。私が艫のデッキから我々の杖とも柱とも頼む船舶を眺めておりましたら、おいお前日本へ帰るので喜しいだろうと申しました。私は故国へ帰れるのは嬉しいのです。だが併し自分たちが杖とも柱とも頼む船をここに置いて、明日に日本に帰つても「かに」が手足をもぎ取られたように私たちは生きることは困難だと言いましたら、彼はいやそれはそうだろうと、そう言います。少しは品もありましたから、失礼ですがあなたはどなたですかと、こう言いましたら、おれは韓国の法務官である。お前たらの身柄日本に持つて行つて諸君日本に受渡しをするまでのおれは法務官である。そうしましたときに、私は船体や漁具はどうしても韓国政府でこれは没収するのでしようかと聞きましたら、その法務官の言うには、お前がそうわからなければ一つのものに例えて教えてやる。おれとお前とが喧嘩或いは必ずしも喧嘩でなくても、お前がピストルを以ておれを打ち殺したとしてみろ、そのときにお前が警察に捕まれたときに、すでにその兇器もその罪の中に、ピストルも罪の中になるのだ。そうしてそのピストルというものは一人で射つものでないのだ。これは人間が持つて射つのだ、お前たちの船舶も、船が一人で以て走つてライン線に来たのじやなかろう。結局これを運用するお前たちが来たのだ。だから罪は同罪であるから、これは結局韓国政府が没収だ。こう私に向うが言いました。それから又私も腹にあれがありましたから、いやそれは違いますと、そういつた場合の我々の罪と罪状が違いますと言つて私が食い入りました。食い入りましたら、水兵が甲板を流すから、そこをどけといつてそのまま別れましたが、この法務官の名前は私知りませんでしたが、長崎に上陸をいたしましたときに税関のかたと一緒におられましたから、この法務官の名前もその筋で調べたらおわかりだと思います。  それで、まだお話したいこともあるのですが、まだ韓国に、私たちが九〇三号によつて帰るときに、第七あけぼの丸の船員が私たちに、遠くてはつきり私たちは見えませんでしたが、二列に並んでたしか八人おりましたから十六名と思います。それが身の廻り品のあれを持つたまま警察がこれを警戒して、そのまま木浦刑務所に行きました。で、私たちは遠くで彼らの健康と、一日も早く帰られるよう甲板でお互いに涙を出して、元気でやれよ、元気でやれよと祈つて手を振るのが第七あけぼの丸の船員にも見えたと見えまして、私物を持つていた手を片つ方に持ち直して手を振つて、あけぼの丸の船員はそのまま自動車に乗せられて、私たちと同じような暗い辛いところの刑務所に連れて行かれたと思います。私たち皆様のおかげで帰国しましたが、どうかこの船員が、或いは又あけぼの丸でなく、まだ羽衣丸もおるのですが、ほかにもまだおるように聞いております。どうか韓国だけでなく、中共も、いわゆるこういつた船員が一日も早く帰れるようお願いいたすのであります。  韓国人の思想でありますが、私たちの思うところによりますと、私が丁度十三号室の部屋長をしておりました。そのときに、韓国の法務官と国会議員というかたが一回見えましたが、そのかたが来て私たち部屋だけを特にあけましたときに、その国会議員の言うには、韓国の平和ラインを侵したお前らは憎みても余りある。だが併し、お前らは罪人であつて罪人でない。これは国際的問題であつて日本韓国政府の問題である。ここにおいて早急に解決は付かない。だがほかに何か困つたことがあるかと、こう言いましたので、私はとりあえず毛布も少いし寒くて寝られんし、食もこれでは困るから、この点何とか一つしてもらいたいと、そのときに私は述べました。思想におきましては、一般に韓国人は排日の思想が高いように私自身感じております。中には又親日家もありまして、私はそのことははつきりはこれは知りませんが、私たちの帰る十五日ほど前から、粉ミルクを、甘味は薄かつたが、粉ミルクを一人に、七、八勺、一合に足らないくらいくれました。このミルクの件につきましては、日本に十七年間ばかり京都におりましたイエス・キリストの牧師、カトリックの牧師であります。このかたが特に日本人にこれをやつてくれということで以て、帰る十五日くらい前から汁をもらう食器に二人で一杯くらいずつミルクを、粉ミルクと思いますが、あれを一合くらいずつもらいました。そういうところは私はいつも感謝いたしております。これから私たちが杖とも柱とも頼む船体を韓国に没収されて、二十五名の船員、船主は明日の生きることにも不安を持つております。どうしても私たちももう一遍再出発をして皆様に御恩返しをいたしたいと誓つておるものでざいます。よろしくこれに対しでお願いいたします。  佐藤証言は以上であります。
  12. 千田正

    千田正君 証人の陳述は非常に詳しく述べられておるようですが、時間も相当経つと思いますので、次のかたがたはできるだけ前に述べられたことと違つた面を述べて頂くようにお願いしたいと思います。お諮り願いたいと思います。
  13. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 如何でございましようか、重複しないようにということ、このようにいたしてよろしうございますか……。それでは次は第七一明石丸船長濱崎友一君にお願いいたしますが、今千田委員から、申されました御趣旨おわかりかと思いますので、佐藤証人が申述べられました証言となるべく重複しないように御証言を頂きたいと思います。
  14. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 承知いたしました。  私は太洋漁業株式会社の社属手操船第七一明石丸の船長濱崎友一であります。命によりまして拿捕抑留の経過を御報告いたします。  私は昭和二十八年八月二十五日十一時五十分下関を出港いたしまして、同月二十八日六時、推測位置東経百二十二度四十分、北緯三十一度三十分附近で、僚船の第七二明石丸と会合、操業を始め、その後続行しながら次第に北方に漁場を変更しました。その後第七一明石丸と別れ、九月二十一日十九時頃、推測位置東経百二十四度十五分、北緯三十一度十分で第六三明石丸と組みまして操業いたしました。翌二十二日十時、砕氷補給及び漁獲物一千百函4第二九北新丸に転載すべく、農林漁区三百十八区左中発、その場合六三明石丸と別れ、単独で五島荒川港に向けて航走を始めました。当時北の風が強く、風力五、北東でありました。北東の風強く曇ときどき雨の天候でありまし、て、風力を考慮に入れ、針路を東微北二分の一北にて航走、翌二十三日、曇で小雨、ときどき晴間を見ましたので、十二時二十五分、天測緯度北緯三十二度二十八分を計りまして、針路を東微北に転針し、同日十五時三十三分七秒に天測しました。東経百二十七度二十九分、北緯三十二度三十三分をそのとき得ました。十六時五十分韓国艦艇一〇九号は停船を命ぜられ、停船いたしました。時に推測位置東経百二十七度三十八分、北緯三十二度三十七分でありました。大体におきまして、私は李承晩ラインがどこからどこまであるかということをしつかり頭に入れておりませんでしたが、日頃の操業がラインに余り関係のない南のほうの漁場を主にやつておりましたので、そういうところに入ることはないというような気持から、そう確かめてもいませんでした。停船をメガホンで叫びますので、本船は直ちに停止いたしまして、交渉に入りましたが、なぜ停止しなければならんのかと、それに尋ねましたが、これには向うは答えずに横付けせよと言いますので、大体ここはラインのうちであるから、本船位置は三十二度三十七分北、百二十七度三十八分東の位置でしたが、ここがラインのうちなんでしようかと手旗を持つて甲板長を通じて行わせましたが、一向に向うの手旗は解読でませんでした。約五十分横に流しておりましたが、メガホンで附いて来いとやかましく言いますので、ノー・ノー・ウエスの方向にスローで附いて行きました。李承晩ラインがどこかというはつきりした線は知りませんでしたが、そういう方向に引張られて行く場合には、外にいても内に入ることは間違いありませんのでありまして、三十分にして本船は停止いたしました。そうしてその近くに日本の監視船が約二十マイルほど北方におるように局長も言いますので、この地点に錨を下さしてくれ、そうして監視船の来船を持つから、それで交渉するように頼みましたが、そういうことは全然受付けてくれませんでした。そうして丁度そこで第二、第三東亜丸が操業しておりました。私の地点から南々西、又は南西の方向かと思いますが、距離は約一マイル半のところでありました。それでついでにその船もという気が起つたのかも知れません。それを見て全速で以て二艘の船をつかまえに行きますので、私はもう自分らは操業しちやおらんのだし、見逃したのかというような気持も起りましたので、東に向つて十五分間イース・バイ・イースの進路に進みました。そうすると、その二艘の船を連行して自分の船の表先に来てから停船せよと言つて船の航行を害して、どうしても船は走ることができませんでした。仕方なくもう日もかれこれ晩方に近くなりましたので、こうしておつても将があかんから、自分が乗つてから話をするから向うも横付けにしろということを頻りに言いますので、船を横付けにして私も船を去りました。それ以後の船の行動についてはわかりませんでしたが、ずつと済洲島の方向に艦艇はトップを切つてあとの船はこれに従つてつた模様でございます。船に乗りまして、第一ここが李承晩ラインかどうかということを確かめなければならんと思いましたから、副艦長というのが、航海長を兼務しておりましたように聞きましたが、その人に大体貴艦の位置はどこなのかと問いましたら、東経百二十七度十七分、北緯三十二度三十四分の地点だというように言います。自分は今日二回に亘つて天測して、拿捕された地は東経百二十七度三十八分、北緯三十二度三十七分、こうようように計算上出ておるが、どうしてそれほどの開きがあるのかということを聞きましたが、それはお前らは漁船であつて、正確な何は出し切れん、自分の船は軍艦であるから、あらゆる測器具を持つておるから絶対に間違いない。レーダーでも五十マイルも見えるものを持つてつておるのだからと言うので、私も五十年来の漁師をしておりましたものですから、今までそれに基いてやつて一回も事故を起したこともなし、まあ幾分かの自信を持つてつておりますから、その関係書類は船にありますので、それを一応お見せしてから、そしてそれが正しいかどうかを調べてもらおうということを具言いたしました。ところがその船に移乗されてあとは、局長は極力その近くの監視船を呼び寄せましてから、その御援助によつて釈放してもらうように努力して、余り向うもやかましく言いましたので三ノット、四ノットという程度で夜中までは走つてつたそうであります。そうしたら監視船が四隻来て頂きましたそうでございますが、結局何も私らの拿捕、即ち連行させることについては何の役にも立たなかつたような状態であります。それで翌日の二十四日の十二時近くと思いますが、一〇九艇は済洲島に到着いたしまして、私はそのとき自認書を取られました。その場合にも一〇九艇の航海長にその位置を強制されました。その書いた何は、先方が書いたもので、私が書いたものではありません。その場合の自分の証拠書類を引合せて何してみるからと言いましたのですが、もう強制的に自分の手の右の親指の何をとりまして、捺印させられました。そして船を去ろうとしましたら、警備府司令官という人が来られまして、そして李承晩ラインをお前さん方はどういうふうに思つておるかということを問われました。そのときは第二東亜丸船長と第三東亜丸船長と私と五名で二枚敷の部屋に連れて行われまして問われましたのでありますが、李承晩ラインというものがあつて、その中で操業してはいけないということを会社から聞いておりますと言いましたら、司令官は平和ライン内は領海であるのだから外国の土地に入ると同様だと言いますので、私は領海は陸地から百マイル、百五十マイルとは思いませんでしたと言いました。そうすると、司令官は公海ならどこを航海し、又漁業してもいいと日本政府言つておるが、あなたはそれをどういうふうに思つておりますかと聞かれましたので、韓国の領海は五マイルか、十マイルか確かないことは知りませんが、そんな近くで操業した事実もありませんし、私はしようとも思いませんと答えました。日本政府は平和ラインは韓国政府が勝手にきめたもので不法であるというが、これはアメリカやオーストラリアにも例のあることで、決して国際法上違反でない、国際法規にこのような主権を制限してはならないという規則もない。それであるから韓国政府は海洋主権を宣言した以上、これをお前たちは守らなければならんというように言い聞かされました。そして連絡将校という大尉の人がおりまして、便宜上私らの身柄を預つておる海軍との間の連絡をする任務の人でありまして、それを通じて再三その位置のことでお願いしてみましたのですが、よくラインを引きましたら、私らのつかまつた位置はライン外におりましたことがわかりましたので、ライン外であつたら勝手に外国の船をつかまえることができないということを或る船長から聞きましたので、そのことを強硬に主張しましたのでありますが、そうしたらなかなか許されませんでしたが、十月の四日頃と思います。各船が皆海図と日誌ぐらいを持つて海軍のその司令部へ上りました。それで私は昼からになりまして、やはり言われるようにその海図と航海日誌を持つてつたのでございます。その場合には自認書を再び書かされましたが、繩船やそのほかの船は全部その自認書海軍の言う位置に書かされましたそうでございます。それでそこを操業位置にせいというように言うことで、繩船の人もあらゆる何が皆これを拒みましたのでございますが、何しろそのときに台風第十三号が発生しまして、近く自分らの所に来襲の虞れがある時期でございまして、天候も不良で網船の人も船位のことについては、その自認書位置と違うことをやかましく言うようなふうでありましたが、これは認められませんでした。その場合私は関係書類を皆持つて上りまして、こういう証拠書類に一よつて計算したものであるから、一応あなたのほうで調べてみてくれと出しましたのであります。そうしたら作戦課長というのが、貴様が一番生意気だ、ほかの者は皆自分らの言うように自認書を書いたが、年寄りのくせに一番生意気だというように言われまして、とうとうその書類を全部床の上に投げられましたのであります。そのとき出した海図はその当時使用しておりましたもので、三時三十三分の線は確かにその中に入れてあるはずであります。それを今韓国の裁判所が何でも一回見ましたものでございますから、向うに残つておるはずと思います。そういう何によりまして、身柄は、貴様みたいな生意気な者はこれから海軍の何を離れて警察とかへ送るからというふうにおどかされましたのですが、私も会社宛にはこういうような、自分の信念に基いた意思を報告しておりますし、余り十五マイルも八マイルも違うような何はどうしてもこれを認めるわけに行きません。それでもそのときに、ああいうような最大限の誤差を考慮に入れまして、四マイルぐらいは自認書にもラインの地区を言うておるはずであります。その位置東経百二十七度三十四分、北緯三十二度三十七分と記憶しております。それでもやはりラインの外になつております、相当……。それからあとは、十月十一日かに私らは第一船団としまして警察の手へ海軍のほうから渡されまして、そして木浦へ連れて行かれたのであります。その場合潮が引いてから下りますので、余計ワイヤーが下へ沈んでおるのであります。それでこういう所で余りゴウヘイな何をすると、スクリューに巻く虞れがあるから、手を出さんように頼んだのでありますが、ぼやぼやせんと早いことせいというようにせきますので、言われたようにゴウヘイにやつたら、ワイヤーが巻きつきましたので、明る日独航では木浦へ行くのは不可能になつたのです。そうしたら警察が、夜海女を二人連れて来ましたので、それによつて更生丸のほうに、主に魚を集めます電気船がおりますので、それに灯をあからかしてから潜らして、離らかしてしまいました。夜中に……。そしてそれをする金の五千園を私らに要求しましたのです。それへ行くまでにおきまして、私らは千百箱漁獲しておりました漁獲物を、もう二、三日で日本に帰してもらえることと思いまして、氷はそのように見ておりましたので、東亜丸の氷を七トンばかりもらつて、施氷してまだ一週間くらいは大丈夫、日本に帰つても腐らかす虞れはないように思つてつたのですが、何日たつても釈放の見込みが付きません。次から次へ船が拿捕されて来る状態であるので、もうこれは売つてもらわないと中で腐敗させます。ガスのために出すことができない状態になるので、仕方なく海軍のほうに連絡をとつて上げてもらいまして、千百箱ありました船のほうの魚を、三十箱程度、三十箱、四十箱出しております。それで結局六貫五百匁の箱にしまして千十箱、代金は一貫目で二十八園、一箱が百八十二園くらいの値段にして十八万三千何ぼかの魚を売つてもらいましたが、その金は海軍が保管して、お前らには渡されないから、そのうちお前たちが要る生活必需品はこのうちから買うて何してやるというように言われまして、それでそこで一万四千何ぼか、主食と副食に一日、船員のものとしては一日十本の煙草をお願いして買うてやつて使つたということになつております。その残つた金のうちで京丸の一万六千園か、七千園か、更生丸の二万八千園と、それもみな引かれまして、十一万九千園程度残つておるように思います。それで十月十一日に木浦へ着きまして、そうして晩方の五時頃でありましたか、木浦警察のほうの手に渡つたそうであります。それからのちは佐藤証人の言われましたようなことと余り大差がありませんので、警察での取調べや何ぞの二とを一応報告申上げます。  警察で調べられましたときは、最初大したえらい人のようには思いませんでした、その調書は簡単なものであります。その次部長級の人が、私は夜中頃に調べられましたのでありますが、どうしても韓国海軍の言う位置を強要しますので、書類でこういう工合にして海軍のほうに上げておつて、どつちが本当か嘘かわからんようにして、私はそれを認めるわけには行かないで、なかなか夜中が過ぎても帰してくれるような何もありませんので、是が非でもそれを書くまでは許さないような何がありますので、それではそこへ一項入れてくれ、韓国艦艇一〇九号の言う位置はこれこれと言う、これを入れてくれということを言いましたが、そうしてその場合、その位置でお前は操業する意思があつてそこへ来たんだろうと言うので、そうじやない、自分の船は性能上二艘曳手繰船で、一艘では操業ができない船であるということを説明しましたが、それがなかなかわからんような状態でありまして、それでこれはあなた方の示す位置であつても、すでに夜になつているじやないか、いわんや自分はラインの外におる船であつて、そういうところで操業する意思は全然ないじやないかということを言いましたが、どうしてもこれを聞き入れてくれる何がありませんでした。それでそのときは判を押しましたが、二日くらいのちにそれを一旦読んでから読み聞かせまして、無理やりに拇印をとつたのであります。そうして十三日頃全員点呼と言いますので、船の表へ集合したのでありますが、そのうちから船長と甲板長と調理員三名は残れ、あと全員調べることがあるからと言うので、上れと言うので、おかへ連れて行かれて、それぎり全員つて来ないのであります。どうなつたかいろいろ聞き律しますと、一同消息もわかりませんでした。そのうちに何か洗面道具を差入れることを許すということがありまして、警察の下つぱのほうでありましようが、それに聞いてみますと、みんな青い服を着て監獄の中におるということを聞きましてたまげました。それで私が十八日頃でありましたか、朝出頭せいと言いましたから出頭しましたら、検察庁というようなところへ連れて行かれまして、それで何を調べるのだろうかと思つて心待ちにしておりましたが、何も調べることがないというて、留置場に押込められましてから、晩方にそこのほうで調べられることを調べ終つた人間と一緒刑務所のほうに連れて行かれました。そこでみんな着物を脱がされて着換えさせられましてから、貴重品を預け、番号も付けられまして、その場合私は年寄りでありまするし、夏に出ておりますので夏シャツしか持つておりませんので、着物は二枚お願いしたら、お前は二枚でいいからというて許してくれました。それから後は余り大きな何はないと思いますが、それの中へ入つておるうちに、何というか、しつかりした日にちは記憶しませんですが、一応検事の調べとか、何とかその後に全員出ることになりまして、そのとき初めて十二週間日くらいに全員の顔を見ることができたのであります。中へ入つておりますのでみんな青い顔をして、ひげはぼうくになつておりますし、一と目見てから涙が流れるほど悲しがりました。それからトラックで検察庁というところに連れて行かれまして、又留置場の中へ入れられましてから、今度は一番に私が取調べを受けたのでありますが、そのとき私生れて初めてあの手錠というものをはめられて、検事とか何とかいう者の前に行きました。そして今までの内容と余り違いませんでしたが、漁業日誌を向うが没収しておりますので、その中を取調べられた結果によりますと、九月の十六日に東経百二十七度十七分、北緯三十二度〇〇分の推測緯度において操業したことが書いてありましたから、一番にそれをこの地点は何と思うかと言われますので、じつと見ますと、これは、えらいところをやつてつたな、これは推測位置でありますから実際の位置ではありません。それで三十二度〇〇分と言いますと、三十二度線があなたがたの主張される李承晩ラインでありますから、紙一重の差のところであると思いますが、実際においてみましたらば、ライン外五マイルあつたものやら十マイルにおつたものであるやら、これは神でない限りこれを証言することはできないのだと私は申しましたが、九月十五日に又しても入つてつたのであります。三十二度十一分の百二十四度○五分のところでございました。そこは点測位置という欄に書いてありましたが、拿捕された位置を点測地点においてやかましく私が今までずつと述べておりました関係上、これは又拒むようなことを言つてもとても向うが認める何もありませんし、私もこれは事実と認めるよりほかには言うことができませんでした。でもその場合私は大体において韓国や中共の心証を害するような、今までそんな近くで漁業した覚えもありませんし、これからやろうとも思いませんので、李承晩ラインというものはどこからどこまでやら、そんなことは自分には関係はない、そんなところは余りやらんのだからというような気持で、不幸にしてこういうように侵したものであるから、漁船位置といつてもそう……、言い逃れか知りませんが、三マイルや四マイル違うことは韓国漁船においてもあるはずのことと思いますが、検事の何には言いましたが、それは認めてもらえずに、一応の調べを終りまして、その場合船から三名もやはり上つて来まして、そういう調べを受けたそうでございます。  それから今度は裁判の判決ということになつたそうでございます。そこでは官服を着た人が三人おりまして、そこで通訳が一人おつて、中の人が言われることを一々通訳して私に伝えて、そうして答えるように言われました。そのときもやはり位置の問題でそういう何が出ましたが、まあその場合漁業しておつた位置韓国のこういうつかまつた位置行つておりますので、済州島南々東五十マイルの地点において操業したことに間違いないかというように言いますので、そんなことをした覚えはありません。自分が韓国の何によつて調べられた結果、済州島から少しく、五マイルくらいはウエス、サーウエスの方向の地点というふうに言いましたが、たまげておつたような次第でありまして、それで結果その場合局長も日本に電信を打ちました場合、農林漁区で打つたか又は会社の区で打つたか、又は緯度経度で日本に打電したかということを相当長い時間尋問されましたが、結局あれは緯度経度で日本には報告しておりますからそのように言いました。又甲板員の北原安信は船長と社長とが共謀してこのライン内で働くような話をしよつたということを言うたが、これに変りはないかということをそこで言いました。結局会社の社長が漁撈長を呼んだから、お前はライン内のどこどこへ行つて魚をとつて来いということを認めておるが、それに間違いないかということを言いました。それで北原はそんなことを言つた覚えはありませんということを十二、三遍くらい応答しましたが、なかなか許されるようなふうはなかつたのですが、とうとう確か十三遍くらい讐つて、言い抜いたように思います。  それからそのときの私らに示された刑の内容は、漁業会違反によつて船舶、属具、積荷漁獲物はもとより没収、それで政令六十五条とかで船長は三カ月の懲役、罰金二千園、その他の者は懲役ニカ月罰金一千園と言われました。そうして判決はそれから三日あとに言渡をするから午前九時までに出て来いというふうに言われまして、その日は終り、判決言渡しは三日後でなくて、それから九日くらい延びた日に行われましたが、そのときには私は懲役三カ月、罰金三千園、機関長、局長、甲板長が罰金二千園、懲役ニ方月、その他の船員は罰金千園、懲役ニカ月のように言い渡しまして、船に対しては元の通りの判決の言渡しでありました。それでそのうちから前から監獄に入つておりますので、その何を二十日ほど差引いてやるということを言われました。二名ほど未成年者がおりますので、この者は刑の執行は一年ほどこらえてやるというような意味のことを言われました。この裁判に不服のある者は一週間以内に又その上の届けをするところがありますそうで、それに届けをすることができると申しますので、それで一応刑務所に帰りましてから、自分らのことは自分らがこれに服すればいいが、船舶は会社のものであるから自分らの意思で計らうわけにいかん。これはどうしても会社に連絡をとらなければならんと思いまして、そのことを担当を通じてから、日本の船舶所有者にその意向を問い質すようにお願いをいたしました。そうしたらそれが十九日だつたと思います。その日に手紙を書くように言われてからその旨を書きましたが、封筒がないとかいうために三日ばかりそれを送つてくれんのであります。それでは期日までに返事をもらうことができん懸念がありますので、もう一つ上の係官まで面会を求めて、これは重大なことだから是非取計らつてもらいたいというようにお願いをしましたら、大丈夫この頃は交通機関や何かが発達しておるものだから間に合わんことはないから、心配せんでもええと言いますので、それはあなたは責任を以てそう言われますかと念を押しましたら、又その一段上の人に問いに行つてくれました。大丈夫間に合うからと言われましたが、日本に帰つて会社に問うてみますと、そんな形跡がありませんでした。十一月三日頃から私らの待遇は、それまではもう想像も及ばん食生活、やはり着るものとか、あらゆる面におきまして人間として想像も及ばんものでありましたが、十一月三日から俄かに幾分その前よりか変つて来たように思われます。それがまあ、ミルクとか、「いも」とか、豚汁というようなものをときどき支給しまして、六日間、全部で六日間か知りませんですが、六遍も、ミルクの何を受けました。その後のことは余り佐藤証人も言われましたのと大差ありませんので省略します。  最後にここに私が来ることを命ぜられまして、下関を立つに当つて萩市の延繩船から、是非このことは先生方の前で申してくれということを頼まれたことをお話さして頂きます。それは第一項は時間の都合で長引くようだつたら、それは言わんでもいいからと申しましたので、第二項からちよつと話さして頂きます。全く裁判は一方的の裁判であつて、延繩船漁船繁好丸や中伝丸その他の船も裁判求刑の際検事の論告要旨を申上げますと、かく言渡されました。山田長政はシャムを侵略し、インドにもその魔手を延ばし、又昭和の初期においては満洲に出兵し、これを侵略す。今度又も日本国は漁船を利用し被告はその出先機関となり、吉田首相の内命を受け韓国撹乱の意図を以て韓国の主権線内に突入す。よつて法律六十五条及び漁業会違反で、船長懲役三カ月罰金五千園、機関長、甲板長は懲役三カ月罰金三千園、以下乗組員は懲役ニカ月罰金二千園並びに漁獲物、漁具、船一切没収を言渡されました。そのときは獄中で各船共余りに不法なことに泣きました。このことを申述べてくれということでありました。  以上を以ちまして証言を終ります。
  15. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 次に第二義隆丸藤田三一君に証言を求めます。
  16. 藤田三一

    証人藤田三一君) 私は山口県萩市越ケ浜四区一、一八九番地、第二義隆丸船長藤田三一。  韓国艦艇に拿捕され乗組員のみ帰還正した件に付報告、  一、第二義隆丸、木造延繩船、十九一トン、十焼玉五十馬力、乗組八名、  二、萩港出港昭和二十八年九月十五日、出港福岡港昭和二十八年九月十八日五時、  三、事故日時、九月二十一日二十二時三十分、  四、事故位置、私の船は五島玉の浦から九月十九日三時に西方十一時まで走り、速力五マイルであるから、四十マイルのところで操業いたし、その位置東経百二十七度五十分、北緯三十二度四十分、夜は錨を下げて休み、九月二十一日には東の風潮三マイル北流、風速十五メートル、風波が強きため、十三時に錨を下げて避難、船はその間少しは漂流しましたが、その距離はわかりません。  口、拿捕艦艇長の指摘位置東経百二十七度二十分、北緯三十三度二分十五秒、これはでたらめであります。  ハ、検事調査の認定位置李ライン五マイルの位置と言いました。  五、拿捕韓国艦艇はフリゲート艦、木造船二百五十トンぐらい、五〇一号機銃、船首四十ミリ一砲、左右船尾二十五、ミリ、計五砲、  六、拿捕時の情況、風波強きため錨を下げて避難しておりました。二、サーチライトを照し、八十メートル接近し、私はこのサーチライトの明かりで外に出ましたら、一発は船体に当り一発は命中するや否や漁船から大体すれすれに通つて、もうこれでは命が危ないと思つて船にかけ込みました。それにもかかわらず通航するのは危険で外には出られませんでした。そこで巨文島に入港するまで約十八時間、その間距離は遠くなつたといつて船尾に追いかけて曳光弾と実弾の威赫射撃を受けました。もう危険でどうなるかと思つて途方にくれたような状態でありました、巨文島に入港して、そこの将校は自分の捕えられた位置東経百二十七度二十分、北緯三十三度二分十五秒である、艦艇のレーダーは今故障であるが、若しこの位置が違うならば確かな証拠を出せと言つたので、私の船は小さく、余り計る機械がないので、長年の経験から漂流した時間までの計算で頑張りましたけれども、やむを得ず、もうおれの言う通り是認しなければ絶対に帰さんぞ、おれの言う通りに自認すればすぐ帰してやると言いました。それで漂流にもかかわらず、船長たる者が漂流するとは無責任極まると言いました。それで無理やりに前の位置を確認させられたような状態であります。九月二十三日連行され、二十四日に釜山に到着、すぐ海軍情報部に連絡をされて憲兵二名が船へ監視に参り、九月二十七日に海軍情報部で全員取調べがあつたときにはスパイ行為で四時間取調べられ、それでスパイ行為じやない、密漁違反と言つて船にすぐ帰されました。五時に船に帰つてみれば衣類三十点、たばこ六十個、これは確かに憲兵が取つたと私は全然認めております。その証拠に憲兵はポケットに煙草を隠し、自分の番をしていたところに洋服を隠し、肌着を自分で着ておりますから、これは確かな証拠と思います。その憲兵の名は、二人は兵長で、スーハンチン、インタングン、この二名であります。その翌々日に情報部から取調べに来ましたが、こちらは言つても取上げてくれません。十月二日十時、水上警察の警司が来て漁具備品をつけ出せ、保管するからと言つて無理に書かせ、魚類二十七箱、氷三トン以上、その水揚げは三万円近いものであります。それからすぐに全員ランニング一枚でいたところを、そのままでよいから警察へ上るように、夜は船へ帰すぞ、全員二十一時に帰すぞと言つたが、全員二十一時に取調べなく留置所に入れられました。十月五日十三時にトラックに乗せてどこへ連れて行くやらと思いましたところが、検事局に連れて行つて八名を珠数繋ぎに連ねて検事の取調べを受けましたが、結局今は検事がいないからあとで取調べると言いました。それで八名が珠数繋ぎにされて刑務所まで送られたわけです。同日身柄を調べて夜十時に監房に入れられました。その間朝鮮人ばかり七名、もう寝る所もなし、毛布もなし、便所に坐つて夜を明かしました。留置中の状況は乗組員は一人ずつ監房が違い、一坪半の所へ朝鮮人と一所にランニングと夏服、八名で毛布五枚、食事大根葉塩汁、塩、麦飯四合、洗面は毎日二十秒、運動は三日に二十分。検事の取調べ状況は、十月十三日第二検事室金達起検事部長、それよりライン侵入違反、漁獲違反、そのときに漂流は認めているが、ライン侵入犯の罪はある。漂流した件を認めておりますけれども、それは風波強きためもう操業はできなく、小さい船で危険だから漂流したわけであります。その上漂流もわかつてしたのじやありません。風波強きためと言いましたら、それは船長の無責任だ、ラインをみすみす知つてつたかと言いましたから、いいえ、ラインは全然わかりませんと言いました。その間ライン侵入違反、魚獲違反、漂流は認めているけれどもが、法令第六十号によつて取調べをやると言いました。出航日より拿捕時までの私たちの船の行動について、船主と行動の話合があつたか、又李ラインを知つて漂流もわからなかつたか、密漁じやないか、財産見積、船は船主のほうから建造したか、船の見積金額について検事が取調べました。裁判の状況は検事の取調べと同じ取調べでありました。そのときは朝鮮語でしやべるからようわからなかつたけれども、通訳が質問しました。十一月十日十一時、第二法廷、弁護士なし、やはり検事の取調べと同じく、行動は船主の命令か、又船員の計らいであつたか。漂流を認めているが、ラインを侵入した理由を言え。それを答弁したところがどうしても同情してくれませんでした。それで判決事項は、第二法廷即日判決、李ライン侵犯、密漁違反、それを含めて法令第六十五号違反と申されました。それで検事の求刑は、船体、漁具、備品没収、船長機関長あと以下六名三カ月の刑を下すと言いました。即日判決で、午後の判事の判決には、船体、漁具、備品没収の言渡しはありません。船長機関長三カ月、船員二名一年三カ月の執行猶予、罰金二千園、四名五千園の罰金。釈放から内地帰還までの取扱待遇はよい。船体の状況、去る十一月二十日出航するときに我が船を発見し、人間が二、三人乗つておりました。帰還者の数名、全員八名、十一月二十日釜山港発、十一月二十一日下関に上陸帰還す。終り。
  17. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 次に参考人の供述を求めます。日韓漁業対策本部委員長小濱八彌君。
  18. 小濱八彌

    参考人(小濱八彌君) 私日韓漁業対策本部委員長といたしまして、前々から現在起つておりまする日韓両国間の紛争の問題につきまして、参衆両院におかれましていろいろ御配慮を頂いておりますることにつきまして、殊に今回拿捕せられておりました船員の早期帰還につきまして、いろいろ御尽力頂きましたことにつきまして、漁業者を代表いたしまして厚くお礼を申上げたいと思います。で、帰つて参りました船員の拿捕当時の状況、向うに拿捕せられておりましたときの待遇の問題等の事実につきまして只今証言をいたしました次第でありまするが、この機会におきまして、水産業者として、前前から政府なり議会なりにお願いを申上げておりますることを重ねて陳情を申上げたいと思う次第でございます。  今回の事件はずつと前から引続いておりまするけれども、特に九月六日以後、韓国の実力行使が著るしく強化せられまして、約一カ月ばかりの間に四十数隻の船が拿捕せられたという状態に相成つておりまして、九月六日以後今日まで拿捕せられておりまする船が四十三隻ございます。九月六日以前二月の五日につかまりました船で、裁判がありましたけれども、その裁判が控訴せられ、更に上訴せられまして、片付かないためにそのままになつておりまするものが一隻ございまするので、それを加えますると、現在拿捕せられておりまする船が四十四隻ございます。これのほかに最近に船はつかまりませんけれども、人だけを、船長機関長、一等運転士、それからオペレーター、この四人だけを連れて行かれましたものが一つございますので、それを加えまして人数も五百五十七人に上つておりまして、数回に亘りまして帰して参りました者の総一計が四百九十六八でございまして、なお六十一人が向うに残つておるという状態でございます。で、只今帰還せられました船員のがたそれのお述べになりましたような状態で、向うにまだおりまする人たちり健康状態も実は気ずかわれるわけなりであります。殊に寒さに向いまして韓国のあの寒い所でつかまえられて残つておられるかたがたの心情を思いまするときに、漁業者として誠にいても立つてもいられないという焦躁の感に駆られる次第でございまして、これらの人たちが一日も早く帰つて参りまするように、この上ともの御配慮をお願い申上げたいと思いますると同時に、申上げるまでもなく、漁業者は船があつて初めて漁業できるのでございまして、船を取られて人だけ帰つて参りましても、内地に帰りまして今日の生業に事欠という状態でございまするから、船も一日も早く帰つて参りまするように、この上ともの御配慮を頂きたいと思う次第でございます。  なおあの朝鮮海峡の漁場は、申上げるまでもなく非常にいい漁場でございまして、殊に十一月から三月に亘りましては底曳の漁業の最盛期に入るわけでございまして、以西底曳漁業者はどうしてもあそこに出漁せなければ生業が成立たんという現状に置かれておりまするわけであります。今日あの漁場に参りますることが非常に危険でありまするために、あの漁場を避けて操業をいたしておりまするがために、収支が合わないで殆んど皆が赤字を出しておるというのが以西底曳の現状であろうかと思います。で、あそこの漁場で平穏に漁業ができまするように、国の力を挙げてあそこの漁業ができますることをお守り頂きたいというのが漁業者の切なる願いでございます。  なお韓国があそこに不法に実力を行使しますることにつきましては、これは今後そういうことを再びやらないように、どうしてもこれはとめなければならん次第でございまするが、悲しいかな日本には実力を持つてこれを阻止するという力が実は十分ではない。それを見込んで韓国があのような不法なことをやつているのじやないかと思います。で、これらの点につきましては、日本といたしましても、できるだけの力を尽してこれを守つて頂かなければならんことは勿論でありまするが、アジアの平和を乱しておるものは今日の韓国の一方的なあの暴行であると思うのでございまして、アジアの平和を念願することを念といたしておりまするアメリカといたしましては、この韓国の暴状をそのまま見過しておるということについては、我々日本国民といたしましては誠に腑に落ちない。殊にあそこで実害をこうむつております漁業者といたしましては、その点が誠に腑に落ちない。こんなことであるならば一体アメリカに頼んで日本が防衛をしてもらつているということは一体意味がないじやないかというふうな議論が漁業者の間に起つております。で、アジアの平和を念願するアメリカといたしましては、当然この韓国の暴状をアジアの平和を守るためにとめるべき政治上の責任があるのじやないかということを漁業者は痛感いたしておる次第でございます。  なおあの漁場に対する韓国の主張については、韓国の主張がございましよう。その点につきましては話合を進めて行く。漁業の話合を進めて行つて、平穏に漁業ができるように一日も早く漁業の協定ができることを念願いたしまするが、この漁業の協定を結ぶに当りましては、韓国の主張は、只今も帰られた船員かたがたが、裁判のときに向うの官憲が申しておりますことの片鱗から窺いましても、あそこの主権の主張が非常に強いように思います。海の上に一定の線を引いて、ここは自国の主権の範囲内だというふうに……。御承知の通りこれにつきましては、日本の漁業者としては何としてもこれを認めるわけに参りません、いずれ話合の場合には互譲の精神を以て話合をしなければならないと思つておりますけれども、公海の上に線を引いて主権を分割するというふうな主張は断じて入れてはいけない、これを認めることによつて禍根を百年の後に残すのだ、こういうようなことを漁業者は痛感いたしておりますから、これは申上げるまでもないことと思いまするが、議会におかれましても、その点を特に強調して頂きまして、李承晩ラインに代る別のライン、公海の戸に三権を設定するというふうなものは如何なる形においても、絶対応じられないように話を付けて頂きたい。そうしてあそこの漁場における魚族の保護のために必要な措置については、これは話合の上で正しい話合かできるのだ、この話合をいたしますために、話合の指図は実は受けたくないというのが漁業者の声なのであります。現実に起つておる事件をとめてもらうということにつきましては、アメリカが介入して、アメリカの斡旋によつて暴力行為はやめるようにしてもらいたい、漁業協約そのものの内容については、実はアメリカの指図は全然受けたくない、これは日本韓国との両国の間において正しく話合を進めて頂くというのが漁業者の強い声でありますので、そのことを一つ重ねて陳情申上げる次第でございます。  なお差当りの当面の問題といたしましては、漁業者の人たちは帰つて参りましても働くべき手段である漁船を持ちません。この漁船は返してもらわなければならんので、そのことに御努力頂くことは勿論でありますが、返つて来るまで待つておるわけには参りません。その間これに代るべき代船の建造は当然考えなければならん。その点につきまして代船の建造について資金の融通の問題について格別の御配慮を頂きたい。なおあの漁場に出漁いたしますのには、それぞれの仕込をして実は出漁いたしておるわけでございまして、ほうぼうから金を借りて出漁をいたしまして、漁獲によつてこれを返済するのが漁業の常通であろうかと思います。で、向うに参りまして、船が捕えられてその借金が返せないのだ、暮に迫つて非常に困つておられる漁業者がたくさんおられると思うのであります。だから向うに出漁するためにごしらえたところの借金の返済が拿捕のためにできないという面につきましては暮も迫つているので、格別の考慮を政府のほうでして頂きたいということを漁業者は考えております。なお船を作りますまでの間黙つておるわけには参りません。その間の生活の資金、これは失業救済というふうなものと同様に考えられるべきではないか、そういう面について又格別の御配慮を頂きたい、この事件によつて、漁業者があそこで捕えられて船は没収されて、長い間船員は向うの獄舎に坤吟せざるを得なかつたというこの状態は、いはば一種の災害であると思うのでございます。韓国の今回のやり方につきましては、日韓両国の間にわだかまつているいろいろの問題を解決するための一つの道具として、韓国がこれを有利に解決するための宣伝である。それで漁業者を捕えたり何かしておるのじやないかということを漁業者は考えております。日韓両国の間にわだかまつておる問題の犠牲が漁業者にしわ寄せられておるというふうに考られます面が非常に多いのでございまして、災害につきましては、国家で当然お考え頂くべきものではないか、だからいろいろの災害等に際しまして、国家が格別の施策を講じて頂く、それと同じような意味におきまして、代船建造について、或いは業者の送還について、或いは漁船建造までの間の生活資金、又新らしく船を仕立てて出て行きますまでのいわゆる就業資金というものについて格別の御配慮を頂きたいという、殊に暮に迫つておりますので、実は失業救済というふうな意味或いは漁業者の送還のための金融というふうなことは年内に、実は暮に迫つておるので早くして頂きたいということを熱望いたしておる次第であります。この機会に漁業者を代表いたしまして重ねてこの問題について陳情を申上げる次第であります。どうぞよろしくお願い申上げます。
  19. 森崎隆

    委員長森崎隆君) それではこれより質疑に移りたいと思いますが。
  20. 千田正

    千田正君 議事進行について……。我々は今まで証人及び参考人にいろいろなお話を承わつておるのですが、質疑は又一方政府当局に対して、現在の状況において、相当我々としてお尋ねしたい点がたくさんあるのです。それで質問を整理して行く上において、最純に証人並びに参考人質問して、次に政府当局に質問するようにするのか、どうするのか、その点を委員長よりお諮り願いまして、そうして質問の区切りを付けたいと思います。
  21. 森崎隆

    委員長森崎隆君) それではお諮りいたします。只今千田委員より議事進行についての御意見がございましたが、参考人並びに証人に対しまして何か御質疑がありますかどうか、それをお諮りいたします。相当詳しくお話がありましたが。
  22. 木下源吾

    ○木下源吾君 ありますが。
  23. 森崎隆

    委員長森崎隆君) それでは証人並びに参考人に対する質疑を先にいたします。
  24. 木下源吾

    ○木下源吾君 先ず、皆さんどうも本日は大変御苦労様でございました。このたび向うで御迷惑をこうむつたのですが、行く前に、ラインが設定されてあつて、そこに入れば何らかそういう危険があるということはあらかじめ承知しておつたかどうか、その点をお三人のうちどなたでもよろしいのですが、お伺いします。
  25. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 李承晩ラインがあるということは前から知つておりましたのですが、そののちに又クラーク・ラインとか、そういう名称のものができまして、これはもつとやかましいラインのように聞いておりますので、そのほうに重きを置いておりました、それか又撤廃になりましてから、そうして韓国は再び李承晩ラインというものをやかましく言い出したように私は聞きました。大体私どもは余りそのラインの近くに関係のないところで操業を今までいたしておりました。煩わしいというと無責任なことでありますが、そんなものはどこからどこまでということはしつかり知りませんでした。結局において余りその近くさえやらなければという気持でおりました。で、私どもは九月の二十日頃でしたか、この中は航海は許さないということを電信によつて知りましたが、そういう気持で前にもマッカーサー・ラインとか、いろいろのラインがありましたために混同しておりましたが、そこはやらせんのだから大丈夫という気持でうつかりした。どこからどこまでという確固たる何はわかりませんでした。
  26. 木下源吾

    ○木下源吾君 皆さんは船主は別にあるようですが、船主のほうから何かそういうことで御注意がなかつたですか。
  27. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 船主のほうから、ただライン内はこの頃なかなかやかましくなつておるから決して操業してはならん、そこに近付いて通つてもならんというように電信を受けましたのでありますが、前申上げましたように、ラインがどこからどこまでというしつかりした線をよく知らなかつたので、そのことを朝鮮の何でも追及されましたのですが、それを知らんということでは船が没収されるというような虞れがありはせんかと思つて、それは一応知つておるがために方位、風潮を計算に入れてこういう進路をとつて何をしたということで、ほぼそれを逃れられるような気持に自分の頭もなつてつたのであります。ラインの概略の所はそれで潮流の関係さえなかつたら、そのときラインの内を、前申上げることを忘れておりましたが、実際は点測地点において逆コースをとりましたときに、ラインの内を十二、三マイルくらいその一端を侵して通過したことになつておりましたのですから、それを韓国では認めましたのです。点測の結果、ここはこれを通つたことには間違いありませんでした。そういうふうな状態でありましたから、局長にも無線電信でも連絡を受けたかと言われましたが、漁船の性能上、局長がいつも無電にかじりついておるわけでもありませんし、会社は確かに地点はどこからどこということを言つてよこしておるわけでありますが、外へ出て手伝いをしておるとか、漁船のことでありますから陸上の何とは違いますから、それを聞き漏したように私は向うでは言うておりました。
  28. 木下源吾

    ○木下源吾君 このラインを軽く見ておつたということではないのですか。
  29. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) そんな何はありませんですが、絶対に今までの操業した経歴にもよりまして、他船も皆知つておることと思いますが、中共の沿岸とか、又韓国の近くを今まで操業しましてから、それの脅威を受けた前例は一回もありませんので、それから又マッカーサー・ラインがきまりましてから、その中の操業を強いられましたときも、絶対に私だけは今までその外へ出たことがないのでありまして、そういうような何で絶対そんな所でやらん、あれが三十二度になつておりますが、百六十区附近の海水になりますと、その上に上ることはあつても左方の中共の方面よりほか行つておりませんので、大丈夫というような気持でおりましたのでございます。
  30. 木下源吾

    ○木下源吾君 そうすると、あなたとしては李承晩ラインの中に入らんでも仕事には差支えない立場であるのですね。
  31. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 今まではそういうような何でございました。
  32. 木下源吾

    ○木下源吾君 ほかのかたはどうですか。李承晩ラインを引かれては困るという立場にあるのですか。
  33. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) 私たちも新聞紙上或いは各水産関係のものによつてラインのあるということは薄々知つておりましたが、私たちはラインにかからんでも操業ができるというあれがありましたから、余りラインという問題に対して深い関心は抱いておりませんでした。
  34. 木下源吾

    ○木下源吾君 今回の災難、責任はどこにあるというようにお考えになつておりますか、どなたでもよろしい。
  35. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 一言申上げますが、今日は抑留された経緯その他につきまして御証言を頂いたわけであります。只今木下委員の御質問証人個人に対する御意見を求られたのじやないかと思いますから、自由な立場で御答弁されてよろしい。わからなければそれでよろしい。自由な立場で証言とは別個に述べて頂きたいと思います。
  36. 木下源吾

    ○木下源吾君 簡単に言えば、今あなた方のお話を聞けば、自分たちはそういうもののラインがあつても、そういう所では漁をしなくてもいい、又別に会社に命ぜられたわけでもない、いろいろこうだんだん考えて行けば、責任が一体どこにあるかということはお考えになつたのだろうと思うのですが。
  37. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 大体におきましてこれを、必ず私らの漁船はこれを守つてもらいたいという御意向がありましたら、政府の名を以て私らに言うて頂きましたら、私らは日本の人間でありますから、政府の言葉であつたらどんな何でも聞くはずであります。
  38. 木下源吾

    ○木下源吾君 ほかのかたも責任政府にあるということを考え、確信しておられますな。それでは小濱さんにお伺いします。大変この問題でいろいろ御尽力願つて御苦労さんでございますが、今日も又いろいろ御苦労さんであります。今お話のうちにアジアの平和を撹乱しておるものは韓国である、こういうように今おつしやつておる。そうしてアメリカがアジアの平和を望んでおると、こう言つておる。然るにこの問題に対してはアメリカと韓国との繋がりの上においてどうも解せない、こういうようにお話しになつた。解せないということをあなたはもう少し援究せられたことがございますか、どうか。
  39. 小濱八彌

    参考人(小濱八彌君) 解せないことを探究ということはどういう意味だか知りませんが、私は公海の中に一方的に宣言いたしまして、これは自分の主権の範囲だというふうな宣言は無効のものだと確信いたしております。従つて李承晩ラインがあつてもなくても、そういうものの存在は日本の漁業者としてこれを無視しておると思つております。そういうものを承認するわけには参らない。ただ現実にあすこの漁場で、ここは自分の主権の範囲内だと称して暴力を以て自己の主張をあすこに貫かんとしておる。この状態は、公海の中において勝手にこれは自分の領域なんだということを言つて、そこに入つ来るものは怪しからんといつてこれを捕まえた。これは韓国の私は暴行だと思うのです。だから私はこう解釈しておるのです。日本とアメリカとの間では防共協定を結んでおるのである。アメリカも又韓国と防共協定を結んでれる。これはアジアの平和を守る意味においてアメリカはそういうことをしておられると思う。ところが現実に韓国は自己の主張を、国際法上我々が認められないと思います。その認められないところの暴行を公海の上においてあえてして日本漁船を捕まえておるのだ。この状態はこれは日本に武力があつて立上つて両方でやつたら、これはアジアの平和は害せられることになります。だからそういう状態はアジアの平和を確保するゆえんじやないのだ、だからアメリカは、これは防共協定の解釈の上から責任があるかどうかは、これは議論のあることでございましよう。併しながら少くとも政治上、道徳上の責任を私はアメリカでは感ずべきものだ、これを感じないのはおかしいじやないかというふうに漁業者は考えておりますと、こういうことなのであります。
  40. 木下源吾

    ○木下源吾君 先ほどの濱崎さんの伝言してくれと言うた中に、アメリカも濠州もこういうようにやつておる。だからして、これは当り前である。向うは向うでそう主張する、こつちはできない。今小濱さんの言われた通り言つておる。そうしてまあアメリカはそういうことをやつたという手本を先に示しておるという点が第一点、そして私は本当にアメリカがアジアの平和を希つておるならばというのが本当か嘘かということの疑問を小濱さんがさつき言われたのですが、この点が非常に重大だと思うのですね。この点は恐らく日本政府がそう思つておるかも知らんが、アメリカは日本を守るためにやるのだとか、又アメリカはアジアの平和を考えておるのだということを日本政府がやつぱりそういうふうに主観で独自に考えておる。すべてがそういうようにやつておるのですが、この事実を見てアメリカはすでにアジアの平和ということなどは眼中にないのだ、アメリカ防衛のために都合のいいように日本韓国を使つておるのだということがここに明らかに出ておるのではないかと、こう思うのだが、先ほどからのお話で……。そうして先ほど韓国で吉田政府の手先になつて韓国を侵略しておる、お前たちはその手先だ、こういうような意味のことを言うた。まさしくアメリカはアジアの平和を考えておらないし、日本を手先に使つて、そうして韓国を手先に使つておる。軍隊を作らせるまではあらゆることを、今のようなこともやる、今日まで起つたようなこともやる。で、それを吉田首相は本当にまともにこれを考えておるのか、考えていないのか、アメリカの丁度そういう考え方のようなことを実行に移して、そうしてこれらの人々を、つまりこの人々はそういうふうに使われておるということを考えておらない形であるけれども、実際にはそういうものに利用しておるのだ、こういうことに今の証言では受取れるのですがね。ですから適切に今証人が言われたように、責任は全部吉田政府にある。これは私は正しいお考えだと思うのでありますが、さてこの損害について私は今いろいろ小濱さんか言われましたが、日本政府がこれを必ず負担すべきものであるという論拠が出て来るならば、これまでこういうことをやらせた責任も吉田政府だということを我々は考えてもよろしいかどうか、これを小濱さんにお伺いしたい。(笑声)
  41. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 木下委員にちよつと申上げますが、今日の証人かたがたの御証言は、さつきも申しましたように、抑留されました経緯の証言でございまして、小濱さん個人からは希望意見もあつたのでございますが、証人発言された内容でなお不明確な点について一つ取りあえず御質疑を頂きまして、原則的な問題はこれは非常に大切でございますので、次回の委員会で十分政府当局と議論をして参りたいと思いますが。
  42. 木下源吾

    ○木下源吾君 それでは今日はこれでやめておきます。
  43. 千田正

    千田正君 証人のかたにお尋ねいたしますが、あなたがたが最後に、例えば刑が一年とか、或いは半年とか、或いは罰金が幾らとかいう判決をされる、この場合において弁護士か付けてありましたか、或いは付けなかつたのですか、さつきは付けてないというようなお話であつたのですが。
  44. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 今の御質疑は重大でございますので、証人お一人お一人お答えを願います。
  45. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) この裁判のときにおきまして弁護人というものは一人もありませんでした。そうしてこの弁護人を頼むにはどうしたらいいか、どれくらいの韓国の金銭が必要かということも私たちは尋ねましたが、韓国人の言うには、その詳細は全然教えてくれず、すべての検事から公判に至るまでの弁護人というものは一人も立ててはくれませんでした。
  46. 千田正

    千田正君 佐藤証人はそうしますと、今のできれば弁護人を付けて欲しいという考え方もあつたので、韓国側に対して弁護人の費用を問うた、付けてもらえるのか、どうかということを尋ねたわけでありますね。
  47. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) そうでございます。
  48. 千田正

    千田正君 それに対して何らのお答えはなかつた、こういうわけですね。
  49. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) そうです。
  50. 千田正

    千田正君 濱崎証人はどうですか。
  51. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 私も同じでございます。
  52. 千田正

    千田正君 あなたから弁護人を付けてほしいというようなことを御希望を言うたことありますか。或いは全然言わなかつたのですか。
  53. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 付けることもできるというような話も聞きましたのでありますが、それによつていろいろ相談も、船内とも各部屋が獄窓が違つておりますので、それでようよう洗面に行くとか或いは……丁度私は何か映画か何かを何してくれるというので、一つところに集まつたことがありますので、そのとき内緒に弁護人を付けるということもできるという話だが、金は日本金が一万三千円より持つておらんのでありますが、どれくらい金の要るもんやらそんなことは知りませんし、大体においてこれは弁護人は頼んでやつてもらおうかどうだろうかということをみんなに相談しましたが、各船ともそんな何を付けたつて同じ自分たちの主張が容れられる何はないのだから、そんな何のことはすまいということに大体の空気がなつておることを察しまして、私もそれに倣つてまあやめたようなわけでございます。
  54. 千田正

    千田正君 佐藤証人はどうですか。
  55. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) 私はこの事件につき弁護士が付いておる裁判にもかけると全員にも話しましたけれども、費用を聞けば、弁護士を付ければ相当な金がいるから、これは考えたらよかろうということを委任官に聞きました。それでもう外人は弁護士は付けられんというようなことも委任官に聞いた。そんなことで裁判にかけられまして、それで通釈もはつきり日本語はよくわからなかつたので、それでこつちも答えが実はうまく行かなかつたわけです。
  56. 千田正

    千田正君 これは国際法上非常に重大な問題であつて、将来外交折衝の際におけるところの重大な証言でありますから特に伺つておるのであります。全然付けない裁判を決定する場合において、裁判長からこの判決は略式の裁判である、或いは正式のいわゆる裁判ではないとかというような、そういうことは全然冒頭においてあなた方に対しては何も話さなかつたのでありますか。
  57. 藤田三一

    証人藤田三一君) それは十一月十一日の釈放の日直、午後六時に金達起検事部長が、年寄つた検事が裁判所に来て、私たち八名を呼んだわけですから、そのときすぐ行きましたら、お前たちはおれの力によつて八時までに釈放してやると言いましたから、それでとうも船の没収の言渡しが判決にありませんから気になつてなりませんから、私たちの船は没収になりましたか、どうですかと聞きましたところが、お前たちの裁判は皆終つておらんと申しました。
  58. 千田正

    千田正君 佐藤証人に伺いますが、さつきあなたの証言の中に判決が下つた中で、更に釈放される際に特赦だというので、まあ一応皆さんが呼び出されて釈放の言渡しがあつたのだと思います。そのときの理由ですね、釈放する理由、特にあなた方を釈放するという理由を何か向う側であなた方に対して言渡しがありましたか。
  59. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) はい、ありました。そのときに名前は、私最後尾におりましたから、はつきり聞きませんでしたが、韓国の当局の者と思います。その者が来て私たちは、通訳の言うには、お前たちは李承晩大統領の特赦によつて全部ここで帰国させると、それから船体であります。これは被告に対しては所有権を認めず、没収と、こういう言渡しだけありました。
  60. 千田正

    千田正君 所有権を認めて没収ですか。
  61. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) 認めずであります。
  62. 千田正

    千田正君 認めず没収と。それから特赦の理由は単に李承晩大統領の命によつて釈放するのだと、これだけですか。
  63. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) はあ、それだけしか聞いておりませんでした。
  64. 千田正

    千田正君 どういう理由でということは言いませんね。
  65. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) はい、その理由は言いませんでした。
  66. 千田正

    千田正君 次に濱崎証人はどうでありますか。
  67. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 私も最後尾におりまして、皆はよく聞こえませんので、しつかりした何はわかりませんでしたが、そういうような言い方のように思いましたが、李承晩閣下の有難き思召しによつてということは聞こえました。そしてなお検事とか、判事とかは、これには未成年者をそれより直ちに帰すという噂も聞いておつたのでありますが、それすら不服を言うておつたのに、そういう有難い、刑をこの場で打切つて帰してやるという恩典に浴したということは、非常にお前らは幸福なことであるというような意味のことを言われました。それでこれからあと日本に帰つて又支那海で操業する場合、再びこの平和ラインを侵した場合は、その負けてもろうた分の罪も又その上加重して(笑声)服させるという意味のことを言われました。以上であります。
  68. 千田正

    千田正君 藤田証人はどうですか。
  69. 藤田三一

    証人藤田三一君) この釈放の日の、釈放は午後十時でありましたが、七時にこの刑務所長機関長船長を二名呼んで、今法務長官が来られたので、嘆願書を書け、その嘆願書は十分以内でないと遅いと……十分以内でどれもこれも書け、この嘆願書で以て、おれの力によつて釈放してやると言いました。それでこの釈放の日に大福丸、徳島丸と私の船とこの三艘の皆乗組員を集めて言渡されました。法務長官が、法務長官たる者がオーバーを着て、じきじきに私たちに釈放の命令を出されました。そのときの説明は、日本韓国と近い国だ、いわば川向うの国だ、お互いに信義々々と繰返して、お互いに手をとつて行かねばならんから信義を守つてくれと言われました。それで信義を守るといつても、近い国といつても、今後二度と李ラインへ入つてはいけない、絶対に入つてはいけない、信義を守つてくれと言いました。
  70. 千田正

    千田正君 もう一、二点だけ伺いますが、あなた方が書いた嘆願書によつて、特に李承晩大統領の名を以て釈放するというようなことは全然言わなかつたのですね。嘆願書だけは書かせたが、嘆願書によつて李承晩大統領が恩赦をするのだというようなことは附加えなかつたか。
  71. 藤田三一

    証人藤田三一君) いや、それは刑務所長が、おれの親切は日本へ帰つてよく言つてくれ、おれの親切で釈放したというようなことを言つておりました。自分も褒めてもらうようなつもりで嘆願書を送らしたと思います。
  72. 千田正

    千田正君 皆さんが収容されている間に暴行を受けたという事実はありませんか。或いはあなた方の船ばかりでなく、前に入つておられるかたで、収容されておる間に監守或いはその他の警察官、その他の者によつて暴行を受けたというようなことはありませんか。殴られるとか、或いは斬られるとか、そういうことはありましたか、なかつたらよろしうございますが、あつた記憶或いは聞いたということは……。
  73. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) 私の船におきましては、先ほど私が申上げました通り、自動小銃をみんな胸元に突付けられて、三、四回空間を置いて打殺すと、これだけはボースンから聞きましたが、ほかの面におきましては、先ほどお話いたしました韓国におきまして水夫が七、八つ叩かれるのを、音を聞いただけであります。
  74. 千田正

    千田正君 先ほど皆さんのお話の中に、いわゆるあなた方が拿捕された地点、その理由に対して皆さんが正しい主張をされた、ところが向う側の聞取書は、あなた方の意思とは反した、或る程度向うに有利のような自認書を作成して、それに署名捺印を強制されたように私は皆さんの証言で伺つたのであります。実際そうでありますかどうか、その点をもう一度聞かして下さい。やむなくあなた方は自分たちの主張しておる点を認められないで、むしろ韓国側がこうであるという一方的な自認書を差出して、これに署名捺印しろ、こういう強制的な命令によつて、あなた方が拇印なら拇印で捺印されたのかどうか、その点をはつきりしておいて頂きたいと思います。
  75. 藤田三一

    証人藤田三一君) 検事の取調べには、こちらは漂流について問題を出した。ところが検事は漂流は認めておるけれども、結局ライン近くで操業するから、漂流してもすぐラインに入るのにということを言つたのを覚えている。お前たちは五島から西を向いて出るな、五島の近海から日本海で魚をとれ、ライン内の魚は韓国が飼つている、(笑声)韓国が飼つている魚をお前らはライン外からとつては逃げ、とつては逃げするから、お前らは泥棒だと、こう言つておるのです。
  76. 千田正

    千田正君 特に濱崎証人に伺いたいのですが、あなたは帰港の途中、而も自船の羅針盤その他において明確にわかる通り、彼らのいわゆる李承晩ラインではない、李承晩ラインの外線を帰港中のものを無理やりに拿捕されたというように私は承わつておるのですが、まさしくそうであり、そうして曳航された後においての最後の裁判確定前における証人に対するところの強制的な自認書を書かせられたように我々は聞いておりますが、その点はどうでありますか。
  77. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 拿捕されました地点は私の申しました地点に間違いないと私は思います。それで韓国の一〇九艇の主張する位置は、その差が十七マイルか、八マイルくらいあるように思いました。そうしますと、それはラインの五、六マイルうちになつているのでございます。その点につきまして余り時日が経たないうちに早く帰してもらいたいから、済洲島行つても再三連絡将校を通じまして、自分のすべての資料を一応点検してもろうてから、それが事実かどうか見てもらおうと思つてつたのでありますが、なかなか許されません。許されずに十月四日かにその自認書を司令部の作戦課のほうで書くようにいわれまして、それを書くときに自分の正しいと思う線より十七、八マイルもありますので、最大限の、漁船としてこれより西へは出んと思う線まで四マイルくらい東に寄せた地点をそのとき書いておりますが、それでもライン外三、四マイルのところと思います。その点は先ほど申上げましたように、今のあの証拠書類を何のほうに出しておりますから、しつかりわかりませんが、ライン外四マイル以上離れておるというように書きまして、そのために作戦課長というものの怒りを買いましたから、証拠書類もそこにとられております。お前みたいな強情な者はない、一番年寄りほど一番強情だ、そういう態度であつたなら、韓国海軍を侮辱するような行為をとるなら為にならん、身柄警察のほうへ渡すというように言われました。
  78. 千田正

    千田正君 もう一点だけ。これは若しおわかりにならなかつたらお答えにならなくともいいのでありますが、非常に水産委員会としましても、又水産庁にしろ、外務省にしろ心配している問題なのですが、本年の二月の五日、第一太平丸、以西底曳ですが、これはやはり十二名の乗組船員が拿捕されてそのまま帰つて来ない。本年のずつとあとから拿捕された皆さんは一応とにかく釈放されている。ところが本年二月に拿捕された人たちが帰つて来ない、非常にいろいろな問題が起きているので、皆さんが向うにいて……、恐らく外へも出されないから聞くチヤンスはなかつたろうと思いますが、この第一太平丸の人たちがどういうふうになつているかというようなことをお聞きになつたことがありますか、どうですか、なければないでよろしい。
  79. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) 只今のそのことは、私たちは全然第一太平丸のことはわかりませんでした。
  80. 濱崎友一

    証人濱崎友一君) 私も全然そんな消息は受けておりません。
  81. 藤田三一

    ○一証人藤田三一君) やはりその通りであります。
  82. 秋山俊一郎

    秋山俊一郎君 先ず藤田証人にお伺いいたしますが、先ほどの御証言のうちに、判決の中に漁船漁具を没収するという判決はなかつたというお話でありますが、このあなた方のいわゆる延繩船、萩市の延繩船が十八艘あるようにこの表に出ております。これらの十八艘がおのおの皆そういうふうな状態でありましたかどうか、判決には拿捕、没収という言葉がなかつたが、そのほかに何かそういうふうな言葉がありましたか。
  83. 藤田三一

    証人藤田三一君) あとの十七隻はみな木浦でありますから、それを聞きますれば、判決で全部没収を受けたと言いました。それで発砲を受けたのも延繩船十八隻のうち、ただ義隆丸一隻であります。
  84. 秋山俊一郎

    秋山俊一郎君 もう一点伺いますが、今度釈放されて帰りました四百数十人の人たちは、これは皆さんおわかりにならない点も勿論あると思いますが、お三人の船の乗組員は全部帰されましたか、残された人がございますか。
  85. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) 私たち一緒に入りました中では、第七曙丸船員ほか全部元気で帰りました。
  86. 秋山俊一郎

    秋山俊一郎君 それでは帰られたものは、その船の乗組員は残らずに帰された、例えば明石丸なら明石丸、或いは義隆丸というようなものは全員が帰されたと、こういうわけでありますね。今の第二福徳丸ですか、これも同じですが、全部残りなしに帰されたものは、一つの船の乗組員が全部帰された、こういうわけですか。
  87. 佐藤盈

    証人佐藤盈君) そうであります。
  88. 森崎隆

    委員長森崎隆君) それでは一応証人参考人に対する質疑をここで打切りまして、只今水産庁長官保安庁保安局長海上保安庁長官外務省は今まで小瀧政務次官がおられまして、厚生委員会のほうにおいでになりましたが、必要に応じて直ぐお呼びいたします。それからアジア局長、アジア第二課長、皆さんが参つております。
  89. 千田正

    千田正君 議事進行について……。大体どのくらいで委員会を終りたいつもりですか。
  90. 森崎隆

    委員長森崎隆君) 今日は予定よりも証人証言に相当時間をとりました関係上、皆さんの御協力を得まして、できますならば今日の委員会は五時で打切りたいと思います。
  91. 千田正

    千田正君 外務大臣若しくは以下政府委員に、大局的な真剣な問題については外務大臣責任ある答弁を私は要求するのでありますが、一応外務省のアジア局長がおいでになつているようですから私はお尋ねしたいと思います。この問題は少くともアジア局長にとつては非常な重大な問題であると私は思う。本日も委員会開会勢頭から外務省責任ある政府委員出席を求めておつたのだがなかなか出て来ないで三十分も遅れて委員会を開会するような状況である。こういうことは再びないように委員長から特に外務省へ申入れて頂きたい。  アジア局長に伺いますが、一体外務省としてはこの問題をどう取扱うつもりか。外務大臣は今日いないから、私は外務大臣と論争しようとは思いません。但し一昨日の本会議におけるところの外務大臣の施政演説には、日韓問題については徐々に好転しつつあるというがごとき演説があつたし、且つ又同僚議員諸君質問に対しましても、第三国を中に入れても、とにかくこの外交問題を解決したい、その際第三国は一体どの国を指すのかという質問に対して何ら答えがなかつた。恐らくアジア局長も或いはお答えになれないかも知れませんが、お答え願えればその点は明らかにして頂きたい。特に私が考えているのは、李承晩ラインは昨日今日の問題でありません。何回となく我々は外務当局にこの問題の善処方を要望し、又協力して来ているのであります。そこで現段階において一体どうなるのか。数万の漁業者は今や路頭に迷いつある。而も何らの方策が立てられていない。先ほど小濱参考人からお話がありましたが、代船の建造も十分じやない。本日ここにある材料で見ますというと、拿捕されているところの漁船のトン数は二千四百九十二トン、一体これは今の証人のお話によると没収だという。この没収された漁船の代替もできない現状であります。これに対する返還も勿論外務省は要求されるであろうが、返還されない場合には賠償を要求するつもりなのかどうなのか。大体この二千四百トンという厖大な、漁船にとつては相当数でありますが、これの賠償というものに対しては一体どれくらいの金額を考えておられるのか。或いはそれに附属するところの漁具、勿論不法監禁でありますから、長い間牢獄の中に苦しんでおるところの人たちに対する人権蹂躙の問題もありましよう。こういうものを総括して、この問題はどう解決するのか、聞くところによりますと、日韓会談の日本側の韓国に対する外交的、いわゆる請求額に対するところの理事会としての犠牲を漁業にしわ寄せした感も相当あるのであつて、これは或いは韓国一つの外交技術かも知りません。併しながら、その外交技術の犠牲になつて日本の外交の貧弱さが日本の平和的な産業に戦つておるところの漁民の生活を脅かすということがあるとするならば、日本政府としてはこの産業に働く漁民に対するところの行政の方策、或いはあらゆる面においてこの人たちが平和な産業に従事するところの方策を考えなければならないはずである。こういう点からいつて、一体外務省はこの問題をどういうふうに考えておられるか。特にアジア局長はこの問題に対しては当面の重大なる任務を持つておられると思いますので、アジア局長のお答えをお願いしたいと思います。
  92. 中川融

    説明員中川融君) 李ラインをめぐりまする日韓漁業問題につきましては、今年夏、李ライン問題が直接紛糾いたしまして以来、政府といたしましては韓国との間に交渉を開きまして、これを何とか打開したい、解決したいということで、御承知のように日韓交渉を用いたわけであります。先方の希望もあり、単に漁業に関する問題のみならず、一般のその他の日韓間の懸案も一緒解決しようという方向をとりまして、その結果会談を続けましたが、十月二十一日、これが中断されることとなつたのでございます。その後政府といたしましては、できるだけ早くこの会談を再開したい、そうして漁業問題を初めその他の日韓間の懸案も解決したいと思つて努力しておるのでありますが、遺憾ながら現在までのところ、これの再開の運びに至つておらないのであります。一方この会談と並行いたしまして、拿捕せられました漁船及び乗員の釈放方につきましては、別途これも再三交渉いたしまして、これは直接韓国に対する交渉及び第三国を通ずる交渉等をやつたのであります。幸い乗組員の大半は釈放をみましたけれども、なお六十七名ほどのかたがまだ未釈放であります。なお漁船につきましては、九月以後のものはまだ一隻も釈放されておらないという事態でありますので、これはなお今後交渉を続けたい、現在続けておりますし、今後もこれの釈放については、誠意を以て努力いたしたい所存であります。なお抑留船舶が帰つて来ません場合に賠償を要求するというような問題も出て来るかと思うのでありますが、現在の段階におきましては、漁船抑留解除、返還という方針で交渉いたしております。先方がこれを没収という判決を下したといたしましても、それは韓国の国内法における没収でありますので、まだ国際外交交渉としては依然引続き韓国側に責任があるものとして、これの返還を要求いたしております。なお日韓会談の再開につきまして、外務大臣からすでに本会議或いは衆議院予算委員会等で報告いたしました通り政府としては努力しており、又公平なる第三国の仲介、斡旋ということはこれを進んで歓迎するという態度でおりますけれども、最近の漁船乗組員の釈放或いはその他韓国側での、例えば最近出しました政府声明というようなものにも、その大前提といたしましては日韓両国の親善協力ということが今後必要であるということを謳つております。内容につきましては、まだまだ今のところ非常に相違したものがありますが、大前提としてそういうことを語つております。取捨勘案いたしまして、韓国側の態度も或いは若干好転して来るのではないかということは、予想は或る程度期待はいたしておりますけれども、未だ的確にさような事態になつて来ておるわけではございません。我々といたしましては、今後とも引続き、而も急速に本件の解決を図りたいと努力いたしたい所存でございます。
  93. 千田正

    千田正君 今の答弁は今まで何回も外務当局から我々も聞いておるのであつて、その点実際困つておるのは漁民なんです。何回もそういう答えは我々は外務当局から、大臣からも次官からも聞いております。併しそれではらちがあかないので我々は聞いておるのであつて、先ず第一に私はこれをお伺いしたい、先ほど証人にも聞いたのでありますが、二月の五日に拿捕された第一太平丸の船員が十二名、これが現在大邦の郊外において百姓をしておる、身元引受人がないから帰られない、而も判決は執行猶予である、こういうのはどうしても身元引受人がないから帰られないというので、あとから、七月、八月に拿捕された船員が帰つて来て、二月に拿捕された、こういう人たちが一応の苦しい立場に立たされたのでありますが、一応とにかく身柄だけは釈放しておるのです。にもかかわらず自国には帰れない、こういう実情にあるということをあなた方は一体研究しておるかどうか、この問題についてあなた方は、外務省として折衝された経過があれば御説明願いたいと思います。
  94. 中川融

    説明員中川融君) 第一太平丸の乗員の件につきまして、我々としましても韓国政府に公文書を以てこれに抗議すると同時に、その消息については、これの照会をいたしたのであります。現在まで我々がわかつておりますところでは、第一審の判決があり、更にこれに対して第一太平丸の乗員のかたがたは再抗議をしており、目下大邦に抑留中であるということでございます。なお只今御指摘のような乗員のかたがだがすでに外部に出まして、そうして只今耕作に従事しておるけれども、身元引受人がないために帰られないというような事情がありますならば、我々としては更にこれに向つて、これの釈放を実現いたすように努力いたしたいと思いますが、我々はまだその情報を聞いておりません。
  95. 千田正

    千田正君 情報を聞いていないから、それは知らんというだけでは、これは大変不熱心なんです。私はこの間対馬からの帰りに博多におきまして拿捕された青年の家族或いは船主等、会場に集まりまして我々は陳情を聞いた、その中に只今のような問題があつた韓国の弁護士からどうか何とかして釈放したい、釈放というか、帰してやりたい、併しながら身元引受人がないから帰れない、現在は大邸の郊外において農業に従事しながら辛うじて自分の生命を繋いでおる、こういうふうな現状でありますから、これは一日も早く、外務当局としてはあらゆる機関を通じてこの点を調べてもらいたい、この点は我々としましても、外務省はこれは当然責任を以てこういうものの解決に当つてもらいたいと思います。それからもう一つ重大な問題は、今あなたが御発言になりましたが、これは我々としても非常に日本の漁業にとつて重大な問題であろうと思うのは、近頃李承晩ラインが非常にクローズ・アップして来て、資源保護の宣言をして、国内法によつて如何なるものでも韓国の許可なくしては出漁できないような、そういうような法律を作る、こういう法律を韓国の国会において立法化しようということが新聞で報じられております。果して然りとするならば、これは理由のないところの一方的な措置だと思う。現在においてもいわゆる濠洲におけるところの、アラフラ海に関するところのああいう一方的なやり方に対して、日本の曾つての実績も認めておらないし、公海の自由の原則に対しても何ら考えることなく、一方的に宣言をされて日本政府は黙つているわけには行かない、これに盲従するわけには行かない、こういう宣言に対してどういう措置を、態度をとるつもりであるか。もう一点は、これは必ず将来起るであろうということを我々は懸念しておつたのですが、一昨年サンフランシスコ会議の正式な平和条約が結ばれる前に、日米加条約のようなものが一応仮調印された、その前に外務当局は勿論のこと、我々も立会つたのですが、ああいういわゆる一方的なラインを引き、漁業条約を結ぶということは、日本と将来海を接しているところのソ連、或いは韓国、或いは中共或いは濠洲、或いはフィリピン等で同じような条件が将来持出された場合において、日本が公海自由の原則の立場に立つて、これは保持できない、だからアメリカさんや、カナダさんの言うことを率直に聞かなければならない、そういう場合が起つたらどうするかということを我々は日米加条約の前提において、これは、論議された問題である。そのときアメリカやカナダ側の説明はあなた方もよく知つておると思う。これはアメリカやカナダがその国の法律を以て保護して来たのである。そうしてこの資源保護の意味でお互いに紳士的な条約を結んで信義を保つて行こうじやないかということで一致したのでありますが、その際にもアメリカ側はどういう説明をされたか、アジアには資源を保護するは国は日本を除いてないのだから、あなた方はそういう問題が将来起きて来ても日本では強く主張できるのだということを、あのときあそこに来た代表のかたが言つておるのだから、こういう問題について、日本としてはこの仲介にアメリカを引張るなら引張り、カナダを入れるなら入れて、本当にあなた方の外交の手腕を発揮して、この際韓国において濠洲と同じような国内法を作ろうとすることに対しまして外務省としては第三国を通じ、或いは何らかの方式によつて、これに対して抗議を申込むだけの腹をきめておるかどうか、その点についてお聞きしたいのであります。
  96. 中川融

    説明員中川融君) 公海の一部を沿岸国が自分勝手に一つの線を引くなり、或いは或る区域を限りまして、それの権限を一方的に持ち、それによつて第三国の船がそこを通り、或いはこれを利用するというようなことを阻止するということは我々日本政府としては、これは国際法の原則に対する違反であると考えておるのであります。その点から李ラインが一方的に宣言された場合にも、これに対して抗議をして、その抗議の結果が今日まで続いて、いろいろの懸案となつて日韓間に横たわつておるわけであります。更に韓国政府只今御指摘のように国内法を出しまして、いわゆる李ラインの中における漁業というものを制限するということになりますれば、これは当然日本としてはこれに抗議をするということになろうかと存じます。
  97. 千田正

    千田正君 外務大臣も次官もいないので、私はもう一つ重大なことを聞きたいと思うのでありますが、これはアジア局長から伝えて頂きたいということは、先ほどいわゆるその漁船、漁具が没収されて、先ほど小濱参考人も縷々述べた通り非常に困つておる。併しこの漁船にしろ、漁具にして、その資金というものは皆農林中金とか、中小企業金融とかいう借金を負つて出て行つておる。それは借金を返されない、漁船も返されない、漁具も返されない、代船も建造できないでは、これはまさに踏んだり蹴つたりで漁民は自殺するほかはない。これにはやはり外交が早く決定しないという点もありますので、この点は水産庁、いわゆる関係官庁とあなた方と十分協議してもらいたいことは、少くとも返還さるる時期までに何らかの方途を講じて金融の措置をしなければならない。或いは返還が全然できないとすれば、これは賠償として請求しなければならない。賠償額が決定するまで政府としては面倒を見てやるのは当然であります。それで農林当局、いわゆる水産当局からあなた方と協議があつた場合に、大蔵省に対して同じようにこの問題の解決に望んでもらいたいということを私は強く要望いたします。その点をどうぞ大臣並びに次官に伝えて頂きたい。私は外務省質問はこれで終ります。  海上保安庁のかたが見えておりますが、先般水産委員の我々が参りましたときに、非常にお世話になりまして感謝に堪えません。そのときつくづく感じたのは、誠にその予算が十分じやないために監視船が動くにしても十分な活動はできない。例えば三日活動すると、もう三日休まなければならない。燃料も不足であるし、航速の点においても、それから職員の疲労の点においても非常に困つておる。それから船の速力にしましても、十ノットや十一ノットではそこまで走つて行けない。まあこういうような現実の実情に我々はぶつかつて来たのであります。これはやはり日本の大きな国の守りであり、又国内の産業を保護する意味からいたしましても、海上保安庁はこれは特段の力を持つて頂かなくちやならん。それについて予算の増額というような点につきまして何か考えておられるかどうか。二十九年度予算の作成も目前に迫つておりますので、海上保安庁としての立場もありましようが、一応その点はどういうふうに考えておられるか、伺つておきたいと思います。
  98. 山田誠

    説明員山田誠君) 先般参議院の水産委員のかた四名に委員長を始めお出かけ頂いて、私どものほうの巡視船にも乗つて頂いてつぶさに実情を見て頂き、只今又それに基いての御意見を承わりまして有難うございました。御指摘の通り海上保安庁の船力は全般的に申しまして日本の一万カイリの沿岸を日常警備するには不足であります。この点につきましては毎年相当の予算を要求いたしておりますのが、まあ大きな財政難という見地から十分な伸び方をしておりません。ただ今お話の差当り困つておるという燃料等につきましては、さほど不足はいたしておらん。若しも仮に巡視船のほうでそういうことを申上げたといたしますれば、その巡視船に当てがつている割当の燃料が或いは不足かも知れませんが、海上保安庁全体としては今日までのところは燃料で困つたことはございません。ただ差当り私どもが困つておりますのは、この特別哨戒に出た場合の船員に対する手当、これは僅かなものでありますが、最高一日当り二百円乃至五十円という僅かなものでございます。これが昨年の閣議決定以後、特別哨戒に出た場合には、その当時としてかような額をやつて頂いておりますが、御承の通りこの九月からのような大規模な出動ということは考えておりませんでしたから、現に哨戒している特別哨戒手当などについては非常に不足いたしております。これらにつきましては絶対額の増加も是非とも見てもらわなければなりませんし、又単価も今日の状態は去年に比べまして非常に緊迫した状態になりましたので、この増額も実は大蔵省に申入をするようにいたしております。それからなお今日のような状態に対しましては、警察官として不測の事故があるかも知りませんので、船員のためにいわゆる傷恤手当規定でございますが、怪我をしたり死亡をしたりする場合の傷恤手当制度というものが今日まで欠けておりましたが、先月初め頃にやつとその規定もできて、改正も或る程度整いつあります。それから巡視船のスピードが非常に低くておかしいじやないかというお話でございますが、これは御尤もでございます。これは従来からございます船はその程度でございますが、専らそこで働らいております新造の四百五十トン型或いは二百五十トン型というものは十二ノットから、せいそれ十三ノットであります。設計の速力は十三ノット。これは占領地区で日本海上保安庁に持たせられる船につきましての一隻のトン数の制限でございます。それからスピードにつきましても十五ノット以上の設計はやれないというので、余儀なくかようになつたのであります。二十八年度までの予算で三百五十トン型の巡視船が新設できましたし、又二十一メートル港内艇四隻もできますが、これはいずれも十八ノット、十九ノットの設計になつております。これは先にそういう設計の下に作りましたので、実際私ども職務を執行する際に、或いは今度のような極どい交渉をいたしまする場合に頼るものはスピードということになるわけであります。非常に残念に存じております。
  99. 千田正

    千田正君 この間長官が対馬に行つて誠に勇ましい話をされたらしいので、実は現在問題になつておるところの李承晩ラインと称せられる線に沿うておる日本の島嶼のうち、一番多い対馬が人口六万を抱えて、そうして朝鮮からの一番近い距離にある関係で、而もいろいろな問題が起きるので焦慮にかられておる人たちが、而もその中に警官が僅かに百名、朝鮮人は三千人ぐらいあの島に住んでおる。いざというような問題が、不幸な場合が起きないことを希望しておりますが、そういう場合において実に不安でたまらない、こういう状況なんですが、この間木村長官は、巡視したときに、心配するな、そのうちここに保安隊を置いてやる、安心して生業につけるようなことをやらせるというようにお話なされたようなんです。実際本当にあそこに保安隊を置いて、そうした人たちの不安を除去する気持でおられるのかどうかこれは今日は長官がおらないから、長官と差向いでなければ議論になりませんけれども、あなたはどういうふうに考えておられるのでありますか、応聞かせて頂きたいと思います。
  100. 山田誠

    説明員山田誠君) 先般新聞紙上で私もさようなことを拝見いたしました。その後長官がお帰りになりましてから、いろいろ対馬視察の模様などを承わりました。その節にお尋ねの件につきましては、未だ長官としても最後の腹をきめられた、かようには私ども承わつておりませんで、部隊の設置について折角研究をして見よう、かようなことを言われました。私ども目下検討しおりますので、これはいろいろと海上保安庁或いは国警本部、或いは水産庁、そういうようなところとも事務的に話を将来固めて行きたい、かように考えております。目下設置するとはまだきまつておらないように私ども考えております。
  101. 千田正

    千田正君 そこであそことしての長崎県がまあ総合開発の一環として対馬の産業の開発にいろいろ案を立てておるのであります。併しなかなかあの通りの生産力のない島であり、そう容易にはできないであろうと我々は想像できるのであります。今の国家財政から見て……。そうなるというと、あの人たちの不安はちつとも除去されない、ところで我々から考えればまあ防衛費は相当あるはずだから、むしろ防衛費の一部を割いて、あそこの産業開発をしながら、対馬の人たちのいわゆる不安を除去してやる、そうして安心して生業につけられるような方途を考えられたほうが非常にいいと私は思います。全額国庫負担の意味においても……。保安庁あたりは先ず第一に今問題になつている李承晩ラインに近いあの島のいわゆる計画に対して、一日も早く安心させるような方途を講じてもらいたい、これはまあ私の希望ですが、伝えてもらいたいと思います。
  102. 秋山俊一郎

    秋山俊一郎君 時間も少くなりましたから簡単にお尋ねいたします。アジア局長にお尋ねいたしますが、先ほど来いろいろ小濱参考人から申述べられたように、大部分抑留者は帰つて参りましたけれども、肝心の船が帰つて来ないのであります。そこでいろいろ代船建造の問題もございますし、又これに対する融資等の問題もございますけれども、若し仮に代船を建造するにいたしましても、今から始めまして半年はかかるのじやないか、その間を一体どうするかという問題なんであります。我々といたしましては、是非とも今後船を取返して返還をさせるということが一番手つとり早く又必要な問題じやないか、かようにまあ考えるわけであります。私ども先般対馬に参りましたときに見ましたことは、朝鮮の漁船か何か知りませんが、船か遭難と言いますか、機関故障と言いますか、入つて来た、その船を保安庁の船が厳原の港から李承晩ラインまで曳行して行つて、そうして李承晩ラインまで連れて行つて放してやるというようなことを日本政府はやつております。この事実も見まして、余りにも朝鮮と日本のやり方の差に私は非常に驚いたのであります。かようにして独力でまあ帰れないと見たのか、或いは帰れないから引つ張つて行つたのか知りませんが、少くとも拿捕、抑留というようなことは日本では絶対しておりません。保護して、そうして油を焚いて大きな船が李承晩ラインの傍まで引張つて行つて、さあ帰れと言つて帰してやつている。この事実を見ましても、この無法な拿捕というものはあり得べきものではないと思います。こういうことを外務省としても十分認識の上に強力な一つ手を打つて、代船建造に至らないで、早急にこれを取返す手段を是非とも講じてもらいたい、先ほどからいろいろ問題がありましたが、なかなか我我が見ておつても簡単には行かないと思いますし、新聞で見ますというと、拿捕している船を民間に払下げておるというようなことを聞いておる、そういうことを片端からやつてしまつてから返還しろと言つてもなかなかむずかしいじやないか、そういうことを先ず差止めておいて、そうして早く返還の方法を講ずるということも私は必要じやないか、ただ日韓会談が開かれるまで、まあ何かやつておるかも知れませんけれども、待つてつて、そうして船はもう処分されてしまつて、賠償を仮にもらつたといたしましても、それから船を作る間というものは又一層長くなる、私は何をおいてもこの船を取返して、恐らく取返しましても動かすところの機具、用具なんというものは恐らくありますまい。併しその船が帰つて来れば何とかこれはやつて行けるのでありますが、この点に重点を置いてやつて頂きたい、いろいろな問題もございますが、殊に差当つて漁業者が家族を抱えて生活に困つております。これを一々政府が養つて行くということもなかなかむずかしい問題でありましようから、取りあえず船を一日も早く取返すということに全力を挙げて頂きたい、我々日本政府としては、韓国漁船或いはその他の船に対しては十分の保護を与えて、そうして返還さしてやつておる実情から考えましても、それくらいのことは十分要求していい、又当然すべき問題だと思うのであります。是非この拿捕されている船が処分済にならんうちに手を打つて頂きたい。こういうことを希望するのでありますが、過日四百何十人の抑留者がまあ帰つて参りましたのを見まして、李承晩の特赦と言つておりますけれども、果して特赦であるか、或いは何らかの三国方面の交渉によつてそういうことが促進されたものであるか、その辺の消息がわかつておれば一つ伺いたいと思います。
  103. 森崎隆

    委員長森崎隆君) ちよつと秋山委員にお諮りいたしますが、只今の御発言の中で、李承晩ラインまで行つて、まあ綱を解いたというお言葉がありましたが、逆に考えると海上保安庁では李承晩ラインを認めたようなことに誤解される向きもあるのじやないか、そこでまあいわゆる李承晩ラインと称せられる附近で綱を解いたというように解釈さして頂きたいと思います。
  104. 秋山俊一郎

    秋山俊一郎君 今我々は李承晩ラインを突破して行つたものですから、そういう考えで言つたのですが、委員長のほうで適当にお願いいたします。
  105. 中川融

    説明員中川融君) 只今の御意見誠に御尤もでございまして、我々といたしましても、全く只今の御指摘のような考えで事を運んでおります。なお我我が今まで聞いております情報では、いわゆる拿捕されたと言われる漁船も、一応政府又は政府関係機関等にこれを移管いたしまして管理保管させておる、民間に払下げたというような話もあるのでありますが、どうも的確にはまだそういう事実はないのじやないかということで、いわば期待しております。なお今回の船員かたがたの釈放がどういう事情によつて韓国政府がしたのかということは、実は我々も的確な情報を持つておりません。或いは御推察のように第三国の幹旋ということも考えられるのであります。それと同時に、又韓国側が日本との交渉について未だ希望を捨てていないということの或いは証左かとも考えられます。その点は全く推察の域を出ないことを御了承願いたいと思います。
  106. 千田正

    千田正君 もう一つ。これは将来の問題で外務省としても相当この問題は強く洗つてもらわなければならないのは、漁船の操業に対しては向うはそういう魚族の保護とか、資源保護という意味で勝手な暴力的な行動をとつておる、更に日本の水産庁の監視船まで、いわば日本の一国の政府のパブリフク・シップ、こういうものに対して公海のあの真ん中において拿捕するということは、これはもう海賊的行為だと我々は見て差支えないのだが、一体こうした一国の政府の船を故なくして、而も彼らか言う漁民が操業してしるものを掴まえるのでも何でもない、いわゆる監視して航海しておるのに対してああいう暴力を振うことに対しては、体政府としてはこういう問題をどういうふうに考えておられるのでありますか、この点についてはどう考えておりますか。
  107. 中川融

    説明員中川融君) 只今御指摘の通り漁船拿捕抑留するということは、すでに我々から見ますれば国際法の違反であるのでありますが、更に政府のいわゆる公船というものさえ抑留する、そうして返さないということは最も甚だしい国際法違反であると考えております。又その解釈で政府は厳重な抗議を韓国政府に発してこれの釈放を要求しておるのでありますが、遺憾ながら現在まで水産庁の公船につきましての回答がないのであります。
  108. 千田正

    千田正君 時間も大分迫りましたので、それで我々としては更に大蔵当局に対して、さつきも参考人及び証人のかたから陳情がありましたので、実情はよくわかつておるのですから、一日も早く漁民の生活の安定を期さなければならないと私は思うのです。で、次の機会に大蔵省を呼んで頂いて、そうして真剣にまさに暮れなんとするときに向つて生活におびえておるところのこの人たちを生業につかしめることを考えてやらなければならん。農林当局の意見もありましようが、今日は時間がありませんから、次の機会にこういう問題は、外務省には局長にさつきも私から頼んでおいたのですが、大臣なり、次官から、大蔵省にこういう問題は現在も本当に漁民が苦しんで、船を返してもらわなければ首をくくるかも知れない。そういう状態ですから、大蔵省としては何らかの金融の措置を付けてやれということを大臣からもそう言つて下さるようにあなたからもお伝え願いたい。我々も我々として国会の代表として当然大蔵省に対して要請いたしますが、その点を十分考えて頂きたいと思います。
  109. 森崎隆

    委員長森崎隆君) それではお約束の時間が参りましたから、質疑は一応これで打切りまして、次回に譲りたいと思います。本日は佐藤濱崎藤田証人には遠路わざわざおいで頂きまして、御苦労なさつて、疲れも治らないところ御証言頂きまして厚く御礼申上げます。特に本委員会から皆様と苦労を共にいたしました今日ここに来られていない同僚諸君によろしくお伝え頂きたいと思います。又参考人小濱八彌君からいろいろな重要な御要望がありまして、本委員会は十二分にこの問題を取上げて今後とも努力いたします。  それではこれを以て本日は散会いたします。    午後五時三分散会