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石川榮一君 今般十三
号台風による被害の
海岸及び
湖岸堤防の
災害復旧調査をいたしました御
報告を申上げます。
私ども田中君、江田君と共に院議に基きまして、去る十一月十六日から十九日まで四日間、
三重県、
愛知県の
海岸堤防の災害の
状況、並びにその
復旧状態につきまして、現地を視察、
調査いたして参りました。なお、滋賀県の
湖岸堤防につきましても同様に視察をいたしました。
日程は十六日滋賀県、十七日
三重県、十八日、十九日の両日を
愛知県に当てたのであります。視察の要領は県庁におきまして大略の
状況を聴取り、現地につきまして成るべく事情を深く掘り下げて視察することといたしたのであります。なお
名古屋市においては
建設省中部地方建設局に参りまして、このたびの法律により設置されました
臨時海岸建設部の
発足状況についても聴取して参
つたのであります。
日程の順序に従
つて調査いたしましたところを御
報告いたします。
第一に滋賀県の
琵琶湖の
湖岸堤防であります。視察いたしましたのは、米原の近傍の
入江干拓地、安土の附近の小
中之湖
干拓地の
堤防についてであります。この
湖岸干拓の沿革を見ますと、
琵琶湖はその周辺に大小四十余の
入江を有しております。この
入江をこの
地方では内湖と称しておりますが、この内湖の面積は
琵琶湖の総面積約七万八百町の中二千八百七十
町歩に達しておりまして、水深は一米五〇くらいで
干拓適地をなしておるのであります。昭和十九年、
戦時食糧対策の一として四十カ所のうち、特に急速に
干拓可能な十カ所を選びまして、
農地開発営団の手で着工したのであります。その面積一千二十二
町歩であります。十カ所のうち
営団直営のもの三カ所、県に委託いたしましたもの七カ所、私ども視察いたしました
入江干拓二百十
町歩は
営団直営、小
中之湖
干拓三百
町歩は県に委託されたものであります。これらの
干拓工事の労力は捕虜及び
勤労奉仕隊によ
つて当時行われたものと言われています。十九年着工、二十年敗戦、二十一年以降国営に移管いたしまして、
入江、小
中之湖共に二十三年完成いたしまして、同年仮分譲されたものであります。
入江においては百五戸の
入植者と
増反者があります。小
中之湖の
入植者は約二百戸でありまして、満洲よりの
帰還者、
特攻隊出身の人も相当ここに入
つておりまして、一戸
当り平均六、七反の耕作をしておる
状況であります。
この
湖面干拓の
工事方法は、先ず内湖をできるだけ広くめぐりまして水うけの溝を掘り、承水溝と申しておりますが、これで内湖の流域からの
流入水を遮断いたします。この承水溝と外湖とは
自然排水で連な
つておるのであります。承水溝の内側に
堤塘を作り、
締切つて干拓地を形成するのでありますが、この
干拓地内の排水は
堤塘の外湖に最も近い所等に
ポンプ場を作りまして、これによ
つて行われておる次第であります。
さて、九月二十四日
伊勢湾を通過いたしました十三
号台風は、
琵琶湖湖面には九月の二十五日の
日雨量百ミリ程度の降雨しか見ておりませんが、これに流入する各河川の
上流部に四百ミリを超えるところの降雨をもたらしておるのであります。このために
流入河川は急激に洪水を起し、特に
琵琶湖東岸の
農耕地を流れます各河川は破堤をいたし、莫大な水量が
琵琶湖に流入して参りまして、
水位の上昇を来たしました。由来
琵琶湖の
沿岸に被害を与えない
水位は
鳥居川量水標、この
量水標については後に触れるところがありますが、
量水標の零点上三十センチと言われておりますが、
入江干拓地で一メートル十センチの
湖面上昇を見たと言われております。これに加うるに風浪を生じ、
入江においては
堤塘を全面的に溢水し、決壊し、
干拓地は全面的に浸水、又小
中之湖では
中之湖
地方を流過する
愛知川の破堤によりまして、洪水は
能登川方面から流入し破堤をもたらし、又
中之湖自体の
水位上昇により西之湖と小
中之湖の間の締切を決壊いたしまして、その破
堤延長三百メートルに及び、これも又
干拓地は全面的に浸水するに
至つたのであります。現状は土俵による仮締切と
ポンプ排水、九月二十五日には
ポンプの機能は全くとま
つて、今日ではともかく田面は空気に触れることができたといつた
状況であります。
この
干拓地の地質はいわゆる草炭と称せられる脆弱な
有機物質を含んだものであります。農耕に対しては極めて有利なこの地質も、これを以て
工作物といたしますときは、極めて不利な危険な
工作物しかできません。然るにこの附近には
堤防用として適当な土を又見付け出すことが甚だ困難であります。
水位の上昇、風浪、これに加えて
堤塘そのものが戦時中及び戦後の安直な
工事で
堤塘も沈下していたものであります。災害を受ける諸条件を完全に具備していたとい
つてもよいというような
状況であるのであります。なおこの
復旧には約二億円を要すと言われます。
復旧について
琵琶湖干拓小中之湖
土地改良区の要望する重なる点を申し上げますれば、一、
直轄国営工事として
復旧工事を実施せられたい。第二には、
重油エンジンの
ポンプの増設、その他
営農関係の諸件でありまして、これらは
災害特例法が適用されれば或る程度解決し得ると考えますので、省略いたします。
この
復旧についての
基本条件の一つに
琵琶湖の
水位調節の問題があります。
琵琶湖の
水位の零点は瀬田川の
右岸鳥居川町の
瀬田橋のたもとにある先に述べました
鳥居川量水標の零点であります。この零点は
東京湾中等湖位上約八十六メートルの点であります。さて
琵琶湖の水を大量に使
つておりますのは京都への疏水、京都の水道及び発電と、関西電力の
発電用水でありますが、これらは常時に使われておりまして、洪水時に
湖面を左右するものは南郷の洗堰であります。これによ
つて下流宇治川の流量は毎秒六百九十五立米以上は流下しない。これ以上流下すると、宇治川延いては淀川、延いては大阪市に影響を与えることになるのであります。この死命を制するものは明治三十五年差工、三十七年竣功したいわゆる南郷の洗堰でありますこれは角落による堰で二間巾の
通水路を存して堰柱を設け、
総通水路三十二カ所、角材を落し込んで締め切るのに三十時間以上を要すと言われておる古めかしいものであります。これを締めれば
琵琶湖の
湖面は上昇する。開放すれば淀川の
水位に影響を与える。大阪と
琵琶湖との利害の矛盾の解決は目下のところこの
南郷堰の
操作一つにかか
つていると
言つていいわけであります。
近来、山地の荒廃と
干拓地の増加によ
つて琵琶湖の
水位は上昇の傾向にあります。
琵琶湖としてはかかる洪水は欲しくない。一方淀川も洪水は欲しくない。眼を転じて渇水を見ると、大阪は
地下水の
汲上げで地盤が沈下する。高潮に見舞われると沈下を生じた地盤にある工場は一たまりもない
状況になる。淀川を水源とする水道によ
つてこの
地下水汲上げに代らせたい。一方
琵琶湖側にいたしましても、
干拓地その他湖畔の発展と共に渇水時には水を非常に必要とするのであります。即ち、洪水に対しては双方とも不要だとし、
渇水位については双方ともこれを必要とするのであります。零点上三十センチ以上の水は
双方共にこれを不要といたしまして、零点以下一メートル以下に水をと
つては困ると主張するのは滋賀県側であります。一メートル三まで欲しいというのが
大阪側なのであります。この相矛盾する地点に立
つているのが南郷の洗堰であ
つて、毎秒六百九十五立米上の流下を拒否しているのであります。ここに加うるに発電の問題、更に水の
操作地点等の問題の絡んでいるのが
琵琶湖総合開発計画であると考えます。この
干拓地の
水位の問題は実に大きい内容を呈示しております。
法制的な問題として、
琵琶湖は
準用河川でありますが、
干拓堤防、特に内湖のごとき外湖に接する部分の小さいものを
河川堤防の例とし取扱うべきか否か、農地に附属した施設の一として
堤防を見るべきか否か、研究に値するものがあると思います。法的な問題としてはこの程度に指摘をとどめておきたいと思います。
次に、
三重県
伊勢湾附近の
状況の
報告に移ります。
伊勢湾奥部は木曾川
デルタ地帯でありまして、
古来我が国における有数の
干拓地の一つであります。これを
三重県
沿岸に沿
つて南下いたしまするに、鈴鹿川あり、安濃川あり、
雲出川あり、櫛田川あり、これらの
デルタ地帯に鈴鹿市、津市、
香良洲町、松阪市等の都邑が営まれているのであります。これらの都市の周辺にある
農耕地造成の沿革は相当古いものでありまして、私どもの視察いたしました鵲村の開田は百六十年乃至百七十年前かと言われております。右に述べました河川の
沖積物による寄洲ができると、ここを開墾し、
海岸に
堤防を築いて行つたものであります。小規模に前面に出て
行つた海岸のため
湾奥部以外は近代的大
干拓は見られません。
従つてポンプ排水の地点は殆んどなく、皆水門による
干満差利用の
自然排水の方式をと
つております。
三重県の
海岸線延長は
水陸岸のみで八百三十四キロ、
大小島嶼を加えると、一千十三キロに亙るのでありますが、
宇治山田から桑名に至る約八十キロの
海岸の後には、人口の三分の二と七市の中の四市が集中し、
農耕地六万
町歩を擁しているのであります。
海岸管理については
県当局も熱心でありまして、
耕宅地三
町歩以上を保護するため、或いは又人家十戸以上を保護するため、護岸若しくは
堤防を必要と認める
海岸、前の場合人家二戸を
耕宅地三段歩と換算しておりますが、このような
海岸は
県費支弁海岸としております。この総延長は百五十三キロに及び、
宇治山田、桑名間は殆んどこの範疇に属すものであります。この
海岸に近年異変を生じていたと言われます。即ち、東海、
南海地震以後地盤の沈下、
従つて堤塘の沈下を生じ、そ量のは毎年三十センチに及び、地震後二メートルも下
つた所さえ認められるとのことであります。阿漕浦の前面のごとき水深が大となり、
海岸線は浸蝕されて、十五年乃至二十年前は
堤防がなくとも
海岸は波浪に対して安全であつたと言われています。
湾奥部の木曾川
デルタ方面ではこれと逆に
隆起現象が認められるとのことであります。
既存の
堤防は土堤に石張又は
コンクリートの護岸をしたもので、古い沿革のものは松林をなしております。この附近の
干満差は二メートル五くらいで、
天端高は
満潮位上一メートル乃至一メートル五と推測されます。かかる状態に台風十三号が来襲したのでありますが、九月二十五日十五時潮岬を通過、木本、尾鷲間を経て十七時四十分頃
宇治山田市と鳥羽の間を通り、再び洋上に出まして、
伊勢湾を横断、
渥美湾を経て豊橋をかすめて上陸し去
つたのであります。
三重県通過時の
中心示度九百三十ミリバール、
最大風速五十メートル、
津測候所では六十三年以来の勢力の強い記録を示していると言われております。このため
伊勢湾は
東京湾中等潮位上四乃至六メートルの高潮に見舞われ、総延長百五十三キロの
県費支弁海岸のうち百三キロが決壊し、
伊勢湾海岸背後地の
農耕地六万
町歩のうち四万
町歩が浸水する惨状を呈しました。
私どもの視察いたしましたのは、津から順次南下しまして、鵲村、天白村、港村、松阪市であります。津の
中河原護岸は
コンクリートの
傾面護岸でありますが、これの頂部八百メートルがこわれ、百二十
町歩に浸水しています。土俵で一応
満潮位の海水を止めております。鵲村は
雲出川右岸に当りまして、
雲出川をはさみ、
香良洲町に相対している場所でありまして、前面の護岸三百十二メートルと
左側面の
雲出川護岸六百メートル、
右側面碧川の護岸が三百八十メートルを切られまして、全村の農地の九八%、三百
町歩の浸水となり、未だ
海正面の締切ができておりません。目下盛んに
工事中であります。鵲村の田面は
干潮位より八十センチ沈下していたと言われています。この
海正面の仮締切のため十九万五千俵の俵を要し、一俵当り五十五円、一メートル当り十三万円を要すと
言つています。澪筋の深さ七、八メートルに達しておるのであります。鵠村の南は天白村で、これも
海正面を四百七十メートル切られました。十七日私どもが視察した前日くらいに漸く
締切りが
終つたようであります。渡川を隔てた天白村の南は港村であります。住家四百六十五戸、田畑百二十
町歩に浸水、漸く
締切りの終つたところでありますが、人口四千人の貧弱な村であり、その被害の深さは推し計れませぬ。殊に最近客土したところの土地を失
つているのは悲惨であります。
次いで松阪市に入りました。松阪港の
鉄筋コンクリート桟橋の床版は波浪に叩かれまして鉄筋の肌を出しております。立派な防波堤内でかくのごとき
状況は波浪の強さを推測するに十分であります。松阪市も又人口五万四千のうち
罹災者一万二千百二十五、戸数一万千七百二十八のうち三千三百九十九の
罹災家屋を出しておるのであります。二千百五十五
町歩の田のうち千三百八十二
町歩に浸水したと
報告されておるのであります。今後の
復旧に要する費用、その他何らの手段がないように見受けられた次第であります。
三重県
民主団体水害対策協議会会長桑名悦男氏からの
要請書を受取りましたが、本
委員会として処置しかねる問題も含まれておりますので、このことだけ一応御
報告するに止めておきます。
次に
愛知県の
状況について申述べたいと思います。
愛知県の
海岸線は西の方から木曾川
デルタに始まり、
名古屋港を経て
知多半島、
知多半島と対峙する渥美半島とを以て
渥美湾を抱いているわけでありまして、その総延長本陸岸のみで二百八十五キロ、島嶼も加えますると三百二十キロに亙ります。この
海岸線のうち
県費支弁海岸は百五十二キロでありまするが、
三重県のように
県規程を以て
選択標準は定めておりませぬ。知多、渥美の両半島及び
渥美湾内も
三重海岸と同様、
東海地震の影響で沈下を生じておりまして、これの修復のため
県費支弁海岸百五十二キロのうち百二十五キロを
高潮対策事業として
蒿上げなり補強なりの
工事が行われていたものであります。その約二分の一が被害を受けたと言われています。
前に述べました通り、十三
号台風は九月二十五日
夕刻知多半島の先端をかすめ、
渥美湾を横切り、豊橋、
岡崎附近を通過しております。台風の眼らしきものを
岡崎附近で観測しましたのは十九時十分頃と言われております。
日雨量は海面で四十ミリ、内陸の最大百七十ミリ程度であります。
十三
号台風の被害の最大のものは
台風通過線に当ります
渥美湾沿岸一帯でありまして、私どもの視察いたしましたのも、この湾内に面しまする各町村、即ち西から
碧南市、平坂町、一色町の
沿岸、及び豊橋市の
神野新田と、田原町の
隣村杉山村の
海岸を主といたしております。私どもの視察いたしましたこの
地方の
沿岸は甚だ古いもので、
新田という名称の地名をたくさんに発見できますし、この
地方で「あすこは
新田だ」等と申しておるのでありますが、この
新田という名称は吉宗の
享保改革、西歴一七二二年以後の
徳川時代の
制度的名称であつた点から見ましてこの方面の耕地の発達を二百年以前に遡り得ると考えられます。即ち
碧南、一色、吉田の地帯は
矢作川デルタの発達と歩調を併せ、
豊橋一帯は
豊川デルタの発達に即応しておるのであります。明治になりましてから
矢作川を水源とする明治用水、豊川を水源とする
牟呂用水の確立と共に、更に
干拓による
新田、この時はこの
新田なる名称は慣習的なものに転じているわけですが、この
新田の発展を見たものと考えられます。
明治時代におきまする
干拓の最大のものは
豊川デルタにおきまする
神野新田約千四百町であります。又最近におきまして、
目下工事中の
農林省の
国営干拓に係りまする
碧南市の
渥美湾正面、
矢作川右岸の
碧南干拓百七十四
町歩、又
代行干拓地区として、この
碧南干拓の
矢作川を隔てて相対する地区の
平坂干拓七十五
町歩、或は
知多半島と碧海郡に狭まれる
衣ヶ浦地区の
滝川干拓等を数えることができます。
この地帯の干満の差は二メートル四一でありまして
基準面を
東京湾中等湖位におきまして、満
湖面は
基準面上一メートル一六、干
湖面を
基準面以下一メートル二五としております。以下述べまする
海岸工作物等の数字は
東京湾中等潮位を基準とするものであります。先に述べましたように沿革の古い土地でありますので
堤防も古い型式のものが多く、数年前までは恐らく
海正面前面に砂浜を相当残して
堤防を作り、その背面に松の木を植えまして補強していたものと思われるのであります。この状態に対して改良が各地に行われていたもので、例えばこの土堤を石張するとか、或いは
コンクリートで被覆するとか、或は胸壁の
波返しをつけるとかの類でありまして、
平坂新田又は一色の
堤防の
崩壊断面によ
つて推察し得るのであります。この
堤防の
天端高は胸壁のない場所で三メートル九くらい、胸壁のある所で
天端高三メートル九乃至四メートル三六くらいであります。ただ
神野新田の分は六メートル五あります。これは四メートルの高さは
満潮位が一メートル一六であり、これに波高二メートルを見ても、若し壁体が確つかりしていれば先ず安全と見なくてはならぬ高さであります。併しながら十三
号台風による高潮は一色、吉田では二メートル八、平坂、豊橋で三メートルと言われております。これに波高約一・五メートルが加わり、
豊川河口前芝の
検潮記録は四・三四、同船町のそれは四・四九を示しております。
名古屋湾、武豊港も同様であります。従いまして、四メートル前後の
堤防は溢水するのは当り前であります。なお波浪に叩かれて破壊するのはこれ又理の当然と言わねばなりませぬ。この破堤のために
碧南干拓において六百
町歩、平坂も同様、一色町は千九百
町歩、
神野新田千二百
町歩浸水したのであります。
愛知県全体で、この
渥美湾沿岸を主としているわけですが、耕地の浸水一万八千
町歩のうち十一月十八日現在未だ浸水を見ているものが千五百
町歩との
報告があります。
海岸の未だ
浸水水路、澪と
言つていますが、これの止まらぬもの十三カ所であります。
代行
干拓によつた
平坂奥田新田といい、一色村の
小藪附近といい、
神野新田四号地といい、全く海中に没し去
つて応急復旧すらできずにいる
状況であります。
三重、
愛知両県とも災害直後直ちに
応急復旧にとりかか
つたのでありますが、
三重県は主として
請負業者の力を借り、
愛知県は主として
地元町民の手でや
つて居ります。この
海岸の
復旧工事は
原形復旧では足りません。改良を加えて万全なものを作らないと、再び災害を繰返すことは火を見るより明らかであります。このたび
建設省の
中部地方建設局に設けられた
臨時海岸建設部の意義もここにあると存ぜられます。
臨時海岸建設部は要員約二百名、うち六十五名は
建設省関係より、残りは県の吏員の併任に待つと申しておりますが、津及び
碧南に各
三重海岸工事部、
愛知海岸工事部を設け、本局に置く
建設部に次長二名、技師一名、事務一名、
工事部も
同様次長二名を置き、各
工事部が五、六カ所の出張所を持つ予定であります。
建設部の
工事担当延長は
三重県九十五キロ、
愛知県百十五キロの中の合計九十キロくらいかと
言つております。
三重では津から
宇治山田にかけて、
愛知は吉田から半田にかけての
沿岸であります。法規的に
建設省が
海岸堤防を施行する権能がありませんので、両県よりの
委託工事であります。又
平坂海岸の約三キロ分は
農林省が
碧南市に
碧南干拓のスタツフを有するために、
農林省が県より委託を受ける由であります。
愛知県当局の考えております
堤防構造は堤体の天端を五メートル、胸壁の天端を五メートル五と考えているようであります。
天端幅は四メートルくらい、施行の方式は請負を考えています。
地元労力と請負の労力との調和を深く望むものであります。
このたびの視察のときまでには未だ材料の
総量等の計算ができておりませんでしたが、いずれにせよ、厖大な資材を必要とします。ところがここに難
工事を予想されますのは、
三重において特に不足するのは石材であります。
愛知においては湾内は
幡豆石の産地でありますが、
海岸が浅くて運搬の不自由な点、砂のない点、砂は
海岸から
サンドポンプで揚げるといたしましても、電力のない点、更に
コンクリート用の水のない点等が
工事の困難さを予想させます。又この
工事に
地区ごとの
完成主義をとらないと何にもならないので、文字通り捨て金になるのでありまして、
工事の急速を要するものであります。今後の
予算措置について十分な監視を必要とすると存じます。
以上を以て
報告を終ります。