○齋藤
参考人 私、元来が
ロシヤ語畑の者でございます。裁判を受けましたときも単独で、ここにおられるほかの証人と若干
状況が違いますが、私のつかまりましたときの事情、刑を受けました事情、その後の
状況、特に最後の引揚者であるハバロフスクの引揚者が
集結いた
しましたのは私の
おりました分所でありますので、その
関係は若干
長谷川氏の
おりました二十一分所と共通するものがありますけれ
ども、私はまた私の
おりました
ラーゲル六分所時代の
状況を
お話したいと思います。
満州で
ソ連のために
抑留を受けましたときは指名であります。これは私がか
つて関東軍の第二課と協力をいた
しまして
ソ連の国力調査をや
つたということで名前が出て
おりましたので、終戦の当時、私は、会社で主として国内
関係の調査をやり、また日満を通じますところの国力判定の
仕事を、総務庁の囑託としてや
つておりました。そういう
関係で、直接
ソ連の調査には
関係をして
おりませんでしたが、か
つての
仕事の
関係で遂に逮捕せられました。つかまりましたときには、私は若干
ロシヤ語を知
つておりましたので、これでおおむね
日本に帰ることはできまいと思いまして、それ以後ハバロフスクに
集結を命ぜられましたときまでそのつもりで
おりました。しかしながら、裁判を受けますまではもちろん若干の希望をつないでお
つたのであります。裁判を受けますまでの
状況につきましては、すでに一九五〇年に同じ経路を経て新京からアルマータ、カラカンダを経ました者
どもが帰
つておりました。そうしてこの東京にもわれわれの仲間が広報
関係にたくさん活動をして
おりますので、この点につきましてはすでに御承知のことと思いますから、詳しくは申し上げません。
つかまりましたときにすぐ言われましたことは、所持品を、時計と金を残
しまして全部没収されて、「チユレムノエ、ザクリチニエ」という言葉を使われました。これは意外でありまして、取調べをする前に、獄禁に処するということを言われまして、ほうり込まれました。ほうり込まれましたのは
前田さんのおられた海軍武官府でありますが、そういう
状況で、最初から、つかまりました者を、もう調べもしないで獄禁に処するというようなことで、がちやんとかぎをかけられて入れられて
しまいまして、その後も何らの取調べをいた
しませんで、
ロシヤに送り込まれたのであります。当時の事情は、あるいは御承知かも存じませんが、関東軍が命によりまして武装解除をいた
しました。ところが、
ソ連側の予定
しましたところの
日本人の軍捕虜は非常に足りません。従いまして、その穴埋めに在郷
軍人狩りをいた
しました。新京でもそれは行われまして、非常に多数の在郷
軍人を呼び出して
集結いた
しました。そのうちでソ軍がねらいました者は、終戦の年に除隊をして帰
つて来た者でして、これを終戦時において軍捕虜として登録せられるべきものと推定をいた
しました。従いまして、その前年あるいは前々年に除隊をしておる者は一応免除され、その年に帰
つたと見られる者を全部集めまして、南嶺方面の
収容所に全部入れてお
つたわけです。そのとき、私は、二、三の
人たちを救出に出かけまして、三名、四名の人を救出して
おります。そしてその他の
人たちは今度帰
つて来ます中に入
つております。でありまするから、そのときに穴埋めに入れましたところの在郷
軍人と、それから、なお足りませんので、地方人、一般人の中からひつぱ
つて来て、それを
ロシヤに送
つております。その
人たちの中には、まことに気の毒な人がおるのであります。新京の駅の前でうろうろしてお
つたところを、ちよつと来いと言われて、来てみたところが、それつきり連れて行かれたというような人が若干
おります。そういう
人たちはおそらく一九五〇年にわれわれが刑を受けまする前後に
帰還されておると思います。しかし、まだそういう人の中でも残
つておる人があるいはあるかと思います。そういう
状況で、四九年には、一応刑を与える者と、帰す者とのおおむねの仕訳をつけて、そうしてふるいを終
つたと思います。
私は四九年の四月五日に起訴をせられまして、カラガンダの非公開軍事裁判によ
つて二十五年の強制労働の刑を受けて
おります。この際問題になりましたのは、あくまで私が軍の直系のもとで諜報行為をや
つたということであります。私は軍の直轄下にあ
つた者ではありません。あくまでも国策会社でありまするところの満州電業の業務の
一端として、
ソ連の電力事情を調査したのであります。しかもその資料は、ソ同盟で、あるいは国際連盟を通じて発表
しましたところの資料に基くものであります。こういうものをも
つてソ連の電気事業を調査研究した者が、何で
ソ連の国内刑法によ
つてスパイとして処断されねばならないかということについて、三時間にわた
つて論議をいた
しました。裁判の席上では、裁判長、検事及び書記で、証人はありません。ここで三時間にわた
つて論議をいた
しまして、終始抗歳を申
しましたが、結局、私の資料がおおむね軍に渡り、それが関東軍の対ソ作戦に直接的なる役割りを演じたに違いないという判定のもとに刑を受けました。これまたやむを得ないと私は思うのです。
ロシヤの刑法におきましては、こういうことに対していくら抗議してみても始まりませんので、上告はいた
しましたけれ
ども却下されました。
そうして、私は、ただいま
前田氏が言われたような
監獄ではなくして、非常にひどい
監獄にまる五箇月置かれました。カラガンダの十六
監獄と申
しまするのは、未決
監獄と考えられるのでありまするが、私は既決の後そこへ五箇月置かれました。ここは、当時非常に盛んになりましたところの軍捕虜の
収容所であります。続々として
日本人と
ドイツ人の軍捕虜が刑を受けましてこの
監獄に集ま
つて参りました。一般地方人の受刑者と
区別して
部屋を別にわけましたために、数少い
部屋に多数の
ドイツ人と
日本人を収容する
状況になりました。従いまして、四月すでにこの
監獄の中の
部屋は非常に暑か
つたのでありますが、斜めに板を打
つて内側から外が見えないようにした小さな窓が
一つある
部屋であります。その小さな
部屋に大体七十名から八十名入るのでありまして、すわるところがありません。これは御想像はできないと思いますが、夜寝るときは、ちようど寝台を二つ並べたくらいの幅の
部屋でありますから、頭を向い合
つて寝ますと、ちようど一ぱいであります。こちら側に二列、こちら側に二列、頭と足を交互に入れまして、ちようど目ざしを並べたようにずらつと並ぶのであります。そうして、左向け左と号令をかけて左に向いて寝るのであります。仰向けにな
つて寝ることはできないのであります。途中でだれかが、助けてくれ、右を向きたいと言うと、それではと、右向け右をして、全部が右へ向く。こうや
つて、夜が明けますと、ああ御苦労さんと言
つて起きるわけであります。こういう
状況で約五箇月そこに
おりました。
給与は、五百五十グラムの
パンと、薄塩のつけものです。すぱくなりました野菜を入れましたところのスープであります。この給与で生き耐えて来ましたのは、実に中に
おりまするところの
日本人の団結と同時に、非常に気概のあるところの
ドイツ人の捕虜の一致団結の協力によるものであります。それなくんば、私
どもはとても生きておれなか
つたと思います。私はその中で非常に給与の問題で闘
つたのでありまするけれ
ども、なかなか改善はされませず、終始非常に悪い給与で過したのです。現在、私、体重は四十七キロちよつとにな
つておりますが、当時はもう少し減
つておりまして、ちよつと立
つて歩くのにもふらふらするような
状態でありました。そういう
状況下でようやく生き延びましたところの
人たちが、四九年の十月ごろにその
監獄を出まして、そうして一時、地方人の
囚人の
おりましたところ
——これは割合に
刑期の短かい、かつぱらいの子供
たちの
おりまするところの
収容所ですが、そこに一箇月ないし二箇月
おりまして、その後また分散をいた
しまして、その大
部分がタイセツトを通りまして、バム鉄道沿線の伐採に入
つたのであります。これは四九年の十一月のことであります。バム鉄道の沿線に入
つておりましたのは、五十八条の
政治犯ばかりの特殊
ラーゲルであります。
ラーゲルの上にヌリという零の番号のつく
収容所ばかりでありまして、私はタイセツトから約百五十キロの地点にありますヌリ三二、すなわち〇三二号のところに
おりました。この沿線は、大体十キロないし十五キロを区切
つて、そういう
収容所がずらつと並んでおるのでありまして、大体タイセツトから百五十キロの地点にあるかと考えます。ここに私
ども同勢二十八名が入
つたのであります。二十八名の
日本人がそこに入
つてみますと、そこに、樺太からすでにどういう径路を通
つてか入りましたところの横太の役人三名その他で、同勢三十二名になりまして、そこで五〇年八月まで、
ドイツ人の捕虜を合せましてそこに
おりました。八月にそこを出まして、
ドイツ人はタイセツトを通りまして西の方へ、われわれは東の方へと動いたのであります。このときに初めて、この
集結の
意味がどの辺にあるかということがわかりまして、みんな踊り上
つて喜んだのであります。
この
政治犯の
おりまするところのバム鉄道沿線の分所には、まだ残
つておるのであります。今度
帰りました者の中には、一緒に帰るはずの者でそのときわかれまして残りました者も帰
つております。しかし、なおさらにその中で残
つた者のいるところは、完全な特別地帯でありまして、いわゆる瘴癘の地であります。冬は酷寒零下六十五度ないし六十八度です。それから夏は、暑さは大したことはありませんが、蚊とぶよであります。このぶよは、
日本のようなぶよと違いまして、非常に小さいぶよであります。これが五月から十月にかけて非常にはびこります。このぶよに一たびやられますならば、露出したところはもちろんのこと、被服のすき間がありますれば、そこから入りまして全身食われます。食いましたならば、これは離れないのであります。たたいて殺
しますと、血に染ま
つて死にますが、その
あとは皮膚が必ず破れて、そこに血がふき出る。私はその
ラーゲルに
おりましたが、もし被服の準備などが遅れて作業に出ましたならば、帰
つて来るときは、もう顔がわからないようにな
つている。三十名くらいの一個班が、全員それにやられまして、高熱を発し、血だらけにな
つて、遂に作業ができなくて休むというようなこともしばしばありました。このマシカと申
します小さなぶよは、体質によ
つて、反応が非常に顕著な者と、そうでない者とがありますけれ
ども、その
収容所に収容せられて
おりました者はウクライナ方面の
人間でありましてこういうことに経験のない人が多いのであります。また
日本人に
しましても、こういうものに今までやられたことがありませんので、免疫とか何とかいう点ではこのぶよに対して非常に弱い。
従つて、その被害が非常に大きか
つた。このぶよのために死ぬようなことはありませんでしたけれ
ども、このために、作業を
しますのは非常な苦しみでありま
しました。この苦しみからのがれただけでも、ほんとに生き返
つたような気がいた
しました。この瘴癘の地にあ
つてまだ残
つて働いておる者がおると私は考えますと、この者だけでもせめてハバロフスク
収容所にでも集めていただきたい。現在ハバロフスクに集ま
つておる者の
生活は、か
つての四五年、四六年当時の
状況と比べますると雲泥の差であります。あれなら、若干今後ひつばられても命に別条はない
状況であります。しかし、バム鉄道の沿線などに
おりましては、命に別条が大ありなのでありまして、これは早く救出を要する連中であります。そこの給与のことは、先ほど
前田氏が言われましたたような、
パンを主にいた
しまして、それにスープをつけました
食糧の配給でありまして、これから申し上げますハバロフスク方面でや
つておりますところの軍捕虜の給与とは内容が相当違います。私
どものときは、金は全然くれませんで、作業成績によりまして
パンの増食、あるいはおかゆのようなどろどろとしたカーシヤというものの増食がありましたが、現在は金もくれておるようであります。
そこを出ましてハバロフスクに集まりましたのは、これは第一次の
集結であります。この
集結をいた
しました者は、おおむねいざというときにはすぐ本国送還をし得る者として準備せられたと私は考えたのであります。しかし、その後音さたがございませんで、昨年の六月突如として通信が許された。従いまして、ハバロフスクに
おります者は、
ソ連が二回にわた
つて発表
しました千四百八十七名の軍捕虜に該当する受刑者であります。その十四百八十七名につきましては、すでに通信が許されて
おりますから、
日本では氏名その他も十分おわかりのことと思います。また、その
状況につきましても非常にはつきりしておるのであります。しかしながら、ハバロフスクに
おります者はその全員ではないのであります。またその千四百八十七名は、通信も許可され、軍捕虜として取扱われましたけれ
ども、実質的には軍捕虜でない者がたくさん入
つております。私のごときもそれでありまして、いつの間に軍捕虜に
なつたかわかりませんが、しかし軍捕虜に入れられたことが私にと
つては非常な幸運でありまして今日命を拾
つて帰
つて来て
おりますのも、軍捕虜として取扱われたがゆえであります。私のような
状況の者で、軍捕虜に扱われないでバム沿線あるいはタイセツト方面に残
つておる者がまだあるのであります。私の学校の後輩の
方々でまだ残
つておる者もあります。
ハバロフスクに出て参りまして第六分所に入りましたときの
状況は、バム方面から集まりました軍捕虜が大
部分でありました。そしてそれにわれわれのような随伴的な者がくつついて入りました。そのほかに、逐次あちらこちらから集まりましたところの朝鮮人、中国人、蒙古人、そういう
人たちが集まりまして、第六分所を形成したのであります。この朝鮮人及び中国人、蒙古人につきましてはこの際除きまして、
日本人たけについて
お話いた
します。第六分所は、最終時
——と申
しますのはナホトカに出発する直前でありますが、
日本人であの
ラーゲルの人員として発表されておる者は三百九十六名。この三百九十六名の者がこの分所の
日本人といた
しまして、これは全員本国との通信を許可されておる者であります。この約四分の一に当りますところの百十一名が、その分所から軍捕虜として今回
帰還をして
おります。この中には純然たる軍捕虜
——ソ連側の解釈では、軍捕虜とは第一線にあ
つて兵器を持
つてソ連軍と戦
つた者で捕虜に
なつた者を軍捕虜と言うのです。しからば、後方勤務者はどう取扱うか、特務機関の要員で働いた者、あるいは憲兵として働いた者、こういう者はしからば軍捕虜であるか
抑留者であるかというと、これはおおむね
抑留者として取扱
つておる。この
抑留者が、
帰ります場合に軍捕虜の中に入
つておる者もありまして、この辺は非常に混乱して
おります。こういう点は
日本流にきめこまかくきちつとはな
つてはおらないようでありますが、おおむねの
取扱いの要領はこういうふうにな
つておるわけであります。それから、この三百九十六名の中には一般地方人扱いの者があります。純然たる
抑留者であります。これは、開拓団において
ソ連に拉致されて
おります
人間が、クラスノヤルスク方面で割合に短かい
刑期を受けまして
ラーゲルで働いておるうちに、あるいは
刑期満了で地方に解放されました。しかし、ハバロフスク、クラスノヤルスク方面に居住制限をされて
おりまして、
ラーゲルその他の周辺で働いておる者、あるいはすでに一生涯帰れないという見込みで
ソ連の婦人をめと
つて一家を構えて働いてお
つたという、純然たる地方人として
生活をしてお
つた者があります。そういう者を、われわれがハバロフスクに終結いた
しました際に、たんねんに拾いまして、個人別に、お前は今度
日本に帰れるようになるかもしれない、もし希望であるならば取扱
つてやる、こういうようなことを個人別に聞いてまわ
つた向きもあります。従いまして、すでに
ソ連の婦人をめとりまして子供がある、しかし帰れるというならやはり
日本に
帰りたいというので、そういう家族とわかれて単身われわれの仲間に入
つて帰国をしたというような境遇の人もある。ところが、それもまた全部が全部そうではないのでありまして、そのうちの何名かをピツク・アツプして、扱いて来ておる。従いまして、そういう境遇の者で、
刑期が明けて
ソ連の中で地方人として、単なる居住制限を受けるのみで、
ソ連の国籍を持
つた人間と何らかわらない
生活をしておる者も
ソ連に残
つておる。そういう
人間はわれわれの方で全然わかりませんし、また照会のしようもないのでありますが、
ソ連側としては案外こまかいのでありまして、必要とあれば
ソ連側ではいつでも十分そのデータをとり得ると私は思うのであります。
それから、
ラーゲル内の
生活のこまかいことについては一々申し上げる必要はないと思いますので略
しますが、第六分所におきまする
生活で
代表的な特徴と申
しますと、これは給与その他が、従来われわれが受けました
囚人の
取扱いから全部完全に
日本人軍補捕虜の
取扱いにもど
つておるのであります。
日本人に対する給与というものは
ソ連にはこの軍捕虜の給与の
取扱いしか今ないはずであります。この場合の違い方は、
パンの量を減らして穀物の量をふやしておるということでありま号。これは
日本人のために特にこしらえた給与規定であります。
パンが三百五十グラムであ
つて穀類が四百五十グラム。この四百五十グラムのうち大体三百グラムを米で給与するということにな
つておるのでありますが、米などというものはほとんど食わされたことはありませんが、そういうふうにな
つております。ここの特徴は、自活
ラーゲルでありまして、働いてかせいで、そして金をもら
つて、
ラーゲルの経費を作業隊の
日本人がまかなうということにある。従いまして、一定の
国家規定によりまするところの作業
基準に基いて作業をいた
しまして、その作業
基準一〇〇パーセントを遂行した者に対して所定の金額を労働賃金としてくれるわけであります。この賃金の中から三〇%を差引きまして七〇%をわれわれの手に支給するわけでございます。この支給せられたものをもちまして、われわれの給与の補給をし、また文化
生活をわれわれ自身の手でやるというのがこの
ラーゲルの建前であります。四五年、六年の当時の捕虜の分所の場合は、
ソ連全体が非常に疲弊をして
おりましたので、作業上におきましても、またわれわれ自体が働いて金をかせぐということにおきましても、非常に困難でありました。ところがそれから八年た
つております。おのずから各人は年はとりましたが作業の経験を積みまして、そうして能率もよくなり、また作業に対する
ソ連側の信頼も非常に増
しましたので、現在では非常にかせぎやすくな
つております。従いまして、大体協力をして働くならば、月に手取金が六、七十ルーブルくらいになるというのが平均のようであります。非常によく働く者は、これは平均百五十ルーブルにもなるような月がある。また悪いところでは十ルーブル、三十ルーブルにしかならないというところもある。しかし、おおむね五、六十ルーブルのところは働いておるというのが現状であります。五、六十ルーブルのものが手に入りますということは、大体一日に五、六十カペイクの
黒パンの補給ができるということであります。
黒パンが一ルーブルか五、六十カペイクで大体一キロ近いものが買えますので、それだけの
パンを補給すればおおむね重労働に何とかついて行けるという
状況まで現在達して
おります。もちろん分所の給与におきましては、
砂糖も不足いた
しますし、その他のものも不足するので、何もかも補わなければなりませんが、まず軍捕虜として働いてかせぎます場合に、体力を維持するためにはます
パンの補給をすることが第一であり、
砂糖と
黒パンとさえ補給がつけば、まずまず最低の
生活——生存維持ができるということでありまして、その五、六十ルーブルの金は、その限度内においておおむね現在では何とか獲得できるというところまで来て
おります。
ラーゲルの中の
生活で特徴的なのは、われわれの作業場でも体位を毎月検定をいた
しまして、この体位の決定に基きまして作業の割当が実際行われるのであります。表向きはそういうことにな
つております。従いまして、毎月係の医師が参りまして、裸にな
つて体位を調べまして、この者は一級である、この者は二級である、この者は三級であるときめます。そうして、一級の者は
国家がきめますところの作業
基準を一〇〇%遂行する義務を負わされ、二級の者は七五%、三紋の者は五〇%というのが従来の捕虜の規定であります。現在残
つておる者も同じような体位検定を受けて、
自分のカードに記入を受けるのでありますが、実際に作業場におきましては、現在では体位等級によるところの作業
基準の遂行ではなくして、金の面で制限を受けておるわけであります。四百五十六円という毎月所定のかせぎ高を上げることによ
つてのみ金を受取ることができるのであります。私は三級でありますが、三級と申
しますと作業隊の中で最も体位の悪い者であります。従いまして、所定の作業
基準を五〇%遂行すれば私としては百パーセントになるのでありますが、それでは金になりません。四百五十六円と申
しまするのは、大体作業標準を完遂し、若干上まわらねばならないような金額にな
つておりますので、私といた
しましては二二〇%も二三〇%も働ぎませんと、金を受取ることができないのであります。しかしながら、私が今日こうや
つて無事に帰
つて参りましたのは、ひとえに
ラーゲルに
おりまするところの力の強い、また作業成績のいい
日本人が、年寄りや弱い者をかばいまして、人の分まで働いてそうしてその得ました金を弱い者にも均霑してみんなに与えたためにほかならないのでありまして、こういう
人たちが一致協力して働くことが、お互いにとにかくまとま
つて生き長らえて帰るゆえんだということをみな自覚して、団結して働いて
おります。
医療施設の点につきましては、私の分所には病院はありませんで、二十一分所にありまする病院のわかれの単なる医務室
——サンチヤースと言うのがあります。医療施設は最近非常に完備いた
しましたけれ
ども、医者薬品その他について非常に欠けるところがありまするし、特に医者そのものは、従来は
ラーゲルの分所の所長と全然別な系統で、単に
収容人員の衛生、それから健康についてもつぱら独自な立場から見て来たものでありまするけれ
ども、最近は所長の権限の中に入りましたために、所長が作業の方に重点を置くために、どうしても病人をかり立てて作業をやるという傾向になりました。この点は、非常に収容されて
おります者にとりましては不幸なことであります。従来は、からだが悪ければ、所長がいかにがんばりましても、医務室の長がこの
人間は作業に出してはいけないということをがんば
つて、作業に行かないようにしてお
つたのでありますけれ
ども、現在ではそういうことはありません。
以上で大体分所の
状況を終りますが、私が考えますのに、
ソ連側の
取扱いは、今回
帰りました者の内容を見ましても、私
どもの
ラーゲルでは、総じて特殊会社の
抑留者、それから純然たる軍捕虜のうち将校を除く、しかもこの軍捕虜のうち将校ならざる者でありましても、特務機関及び憲兵
関係の者はほとんど入
つておりません。第六分所に関する限りは、このように、ふるい方は非常にはつきりしておるように思います。十一分所の方は若干違うようでありますけれ
ども、六分所についてはそういうことが言える。でありますから、一応こまかいふるいをかけました上で、そのこまかいふるいのねらいをすぐわからないようにする
目的をも
つて、いろいろな者をこれに加えまして、集ま
つてしまいますと、結局何か何だかわからないような結果を見せて
おります。千四百八十七名しか残留する者なしと発表しておきながら、集めました者はわずかにそのうち四百名余りでありまして、他の者は全部
ソ連でいまだか
つて発表したことのない地方から、発表したことのない
人間が集ま
つて来て
おります。
従つて、今後もそういう
人たちが幾ら現われて来るかということは全然予測を許さないのであります。千四群八十七名の
人間は公表したのでありますから、この
人間を帰
しましたならば何名残るということがはつきりわかります。所管の番号からして、おおむねその所在の
見当がつくのであります。しかしながら、樺太に幾らいるか、あるいはバム鉄道の沿線に幾らいるか、マガダンに幾らいるか、マリンスクに幾ら残
つておるかということは、今度帰
つて参りました者の中から数字を出
しまして推定をするにとどまりまして、実際どのくらい残
つておるかということはわからない、こういう
状況でありますので、たまたま今回、従来おらないと言
つてお
つたところの千四百八十七名以外の
人間の中からたくさんの者が帰
つて来たということは、
ソ連にと
つては
——私が申しては非常にまずいことでありますが、こちらにと
つては非常につつ込みいい点でもありますので、こういう点を十分説いていただきまして、残
つております者が一日も早く救出せられるようお願い申し上げます。