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葛西参考人 ただいま
日本赤十字社につきまして
感謝のお言葉をいただきまして、ありがとうございました。
ソ連地区の
引揚げの大体について、ただいまから御
説明申し上げます。もう大部分は御
承知のことと思いますので、省略させていただいて、ごく大ざつぱに申し上げさせていただきたいと思います。
御
承知のように、今次の
引揚げの前には、
ソ連地区の
同胞の
引揚げのことは、
赤十字社の建前から
言つても当然のことでありますので、
機会あるごとに
ソ連側に対してはいろいろ要求をし、またお願いをしてお
つたのですが、今年の七月になりましてから、
ちようど大山教授が
モスクワに
行つた機会に、このきつかけができまして、同
教授のあつせんによ
つて、
日本赤十字の
代表が
モスクワに行くことができるようにな
つたのでございます。
代表団は、御
承知のように十月の二十八日
モスクワに着きまして、三十一日に第一回の
会談を開いております。今回の場合は、
中共の
引揚げの
交渉が北京で行われましたのと違いまして、三十一日の第一回の
公式会談から
向うの方からすでに具体的な提案を出して来ておるようなことが非常な特色だと思うのでございますが、すでに第一回に具体的な数などをあげて、一番
最初は千三百二十名くらいの人が帰るであろう
ということが第一回の
会談ですでに明らかにな
つたのであります。ことに、その中には、
タス通信で含まれていなか
つた者約九百名ばかり、これは約でございますが、その後数字がかわ
つております。そういう者も今次の
引揚げに入るのだ
というようなことが明らかにな
つて、たいへん私
ども喜んでお
つたわけでありますが、その後十一月二日に第二回、十一月の十四日に第三回の
公式会談が開かれたのであります。第三回の
会談には、これも御
承知のように、
戦犯四百二十名、それから
一般人九百名と
言つてお
つたのが八百五十四名、
合計千二百七十四人の人を送り帰すであろう
ということが言われたのであります。その第一回として、
ナホトカに集結をしておる
関係から、
戦犯四百二十名、
一般人三百九十名、
合計八百十人の人がまず第一に帰るであろう、そしてその船の手配
というようなことまでもすでにそのときに言われたのでございます。そうして第一回に八百十人、それからその残りの者として四百六十四人の
一般人がおる、これが第一回が済んでから十五日ないし三十日の間に帰るであろう
というようなことでございました。私
どもの想像するところによりますと、今月の半ば以降末までの間に
電報が来ることを期待いたしております。そしてまた、さらに千四十七名が
戦犯として残る
ということも明らかになりまして、これは
最終の
会談のときにその
名簿も
代表団に手渡される
とい、りようなことでありました。
なお、そのときに、今回の
引揚げ交渉についての
共同コミユニケ、これは
新聞で御
承知だと思いますが、
向うからその草案を示されまして、そうして、どうするか
ということがあ
つたのであります。すぐに
代表団の方から本国の方に、これでいいかどうか
というような
問い合せが参りまして、御
承知の十一月十六日に、大体においてこの
コミユニケ原案でよかろう
ということを打電いたしたのでございます。大体においてと申しますのは、そのほかに実は若干
希望的なことも申しつけて送
つたのでございます。それは、若干文字の点を訂正するとか、あるいはまた、
コミユニケはそれでいいけれ
ども、調印に先だ
つて、今後残る
俘虜及び
一般人の
調査について人道的な立場から協力してもらう
というようなことが
コミユニケに入ればいい、帰る者だけのことを
言つて、
あとに
残つた者のことは考えないのはいけないから、そういうことが
コミユニケに入れば入れてもらいたい、しかしどうしても
コミユニケ挿入が困難である
というようなことならば
相互了解をつけておいてもらいたい
というようなことも
言つてや
つたのであります。また、その後の
会談の
空気によ
つてはこういう
希望も消えるかもしれないと
思つたのでありますが、
大分会談の
空気もいいようでありますので、できればいろいろこまかい、たとえば一九五〇年に
タス通信によ
つて、
中共へ
引渡した
というようなことがあ
つたのでありますが、そういうふうな者の
氏名並びに
引渡しの時期も聞いてもらえないか、あるいはまた、今度残留するほかの者はどのくらいあるのか、その
氏名がわかれば知らせてもらいたい、あるいは、
ソ連側で判明している、今日まで死んだ者の
名前な
ども、わかれば知らせてもらいたい
というようなことを、実は申し送
つたのでありますが、これは
代表団の方からすぐに返電が参りまして、それは十分わか
つている、そのほかに、まだこつちから言わないことであるけれ
ども、いろいろな
項目についても書面をも
つてソ連に要求している
というようなことを
言つて参りました。特に、
内地服役の問題であるとか、あるいはまた
北鮮にいる
日本人の
安否なんかもわかれば知らせてもらいたい
というふうなことも、
自分たちは聞いてあるのだ、安心してくれ
というような意味の
電報が参
つております。なお、その
電報の
あとには、
ソ連及び
日本双方における好ましからざる反応を懸念して
代表団はこれらの諸点を通報することを差控えておりました
というようなことで、ずいぶん
会談ではいろいろなことが聞かれ、そして
向うも相当それについては約束をしてくれたようであります。それで、そのコミュニケに対するオーケー
という
電報を打
つたものでありますから、十一月十九日、
モスクワ時間の午前零時三十分に、
ソ連赤十字社本部において
共同コミユニケに署名をする
ということが行われたのでございます。そうして、今月の初めでありますが、
委員長を初め衆議院の
代表の方もおいでいただきましたが、すでに第一回に八百十一人が
舞鶴に帰る
というようなことがあ
つたわけでございます。
その後、
代表団は、十一月二十三日にイワノヴオ市の郊外にあるチエルンの
収容所を訪問することを許されました。
山田乙三元
大将外三十七名の収容されている人を坊間して、相当時間話をする
機会があ
つたのでございます。私
どもも、行きますときに、できれば、まだ残る人があるならつ、ば、ひとつどういう状態にあるか
ということをこの目で見て来てもらう
ということが一番いいおみやげになるのだから、ぜひそういう
機会を持
つてもらいたい
ということで、
使節団もそのつもりで
行つたのでありますが、これも目的を果すことができました。一箇所でありましたが、訪問することができた
というようなことでございます。それが済みましてから、
ソ連の
赤十字の方では、こちらから要求してあるいろいろな
項目について最後にひとつ
回答いたします
というようなことがあ
つた模様でございまして、十一月二十八日に
最終の
会談が行われたようでございます。その
最終の
会談の際に、私
どもが心配をしておりましたいろいろな問題について実は
ソ連の方から
回答があ
つた次第でございます。
その二十八日の
会談の要旨でありますが、これは
あとに
関係がありますから、若干申し上げてみたいと思いますが、
項目は八つばかりにな
つております。
第一は、残る者が
——犯罪人である
といなとを問わず残留する
同胞が一体どのくらいいるのか
という点でありますが、この点については、そういう
一般人がおるやいなやについては
ソ連赤十字としては何らの
資料を持
つていない、こういう返事であ
つたのでございます。おらないとは
言つておらぬ。その辺が私
どもが今後のことについて
希望を持てる点だと思います。ないとは言わない。
赤十字としては
資料がない、こういう言い万であります。
第二が、
中共への
引渡しの問題でございますが、
タス通信にある九百七十一名の
戦犯中、二名は死んだ、それで九百六十九名が一九五〇年に
中国に引渡された
ということを
言つております。これは、
中国にこれだけの
戦犯がまだ抑留をされておる
ということがはつきりして来たわけでございます。
第三は、
消息不明者並びに死んだ者が一体どれくらいおるのか、その
名前も聞きたい
ということを
言つてお
つたのですが、それは、
タス通信の発表の
通り一万二百六十七名であり、
名簿の
作成は困難だ。
——これは非常に残念なことでありますが、そういうことを言われたのであります。
それから第四が、
戦犯者と
留守家族との間の通信ば現在
国際法上の原則によ
つておるのでこれ以上拡張は困難である。
——これは条約にある月に何通
というあれだと思いますが、そういうことを
言つて来ております。
第五が、
消息不明者の
調査については
赤十字の
安否調査方式によ
つて引受ける
ということを
言つております。これは非常にありがたいことであるのでありまして、今後われわれの方
といたしましては、
相当数の者がまだ
ソ連におるのじやないか
というふうに考えられるのであります。
使節団が持
つて行つた資料等を見ましても、一万何千人
というような生存確実な者がおる
というような
資料もあるのでありましてそういうことになれば、この
消息不明者の
安否調査の
方式によ
つて向うに
交渉する余地がある。現に
赤十字社におきましてはこういう
様式の
安否調査の紙があるのですが、これを
ソ連の方にも出しておりますけれ
ども、今まで一切わからない。着いた
ということも言わないし、一切わからなか
つたのでありますが、こういうふうな形でやることになれば、またさらにはつきりして来るのじやないか、かように恩
つておるわけであります。この
様式なんかも、実はアメリカなんかの場合には、
名前だとかいろいうことを書いてやりますと、この裏の方に
向うが
安否を書いて来まして、何の何がしはいつどこで死んだ
というようなことをちやんと書いて来ておる。今はどこにおる
というようなことを裏に書いて、これを送り返して来ております。そういうことで今後
安否調査の
方式によ
つて明らかにされるのじやないか、こう期持しております。なお詳細は
代表団等が
帰つた上でよくわかると思います。
第六は、
残留者の一千四十七名の
名簿はここにお渡しする
というわけで、それを渡されております。これは
向うから
名前を
電報で
言つて参りましたので、過般
新聞に出てお
つた通りであります。
それから第七
といたしまして、
北鮮並びに外蒙にいる
日本人の
消息はそれぞれの
赤十字と
連絡をされたい
というわけで、これも入れたわけですが、そういうふうなことで、
そつちの方に
連絡をされなければならぬ
というようなことでございます。
それから第八に、
内地服役の問題については、これは
司法機関の権限に属して、
ソ連赤十字としては
回答の限りでない
というようなことで、これもやむを得ないことだと思います。
そんなようなことで、これもつつ込めばもつとつつ込める
というふうに思うのでありますが、
代表団の方は、滞在中いろいろ誠意をも
つて向うが調べてくれた結果であろうと思うし、その
好意を了とし、これ以上の
質問をすることを不適当と認めて、これで
会談を
打切つて、三十日に
モスクワを立つ
という
電報が来たのであります。これは実際は二日に
向うを出発しておりますが、そういうふうなことであ
つたのであります。欲を言えば、これはもちろんきりがないことでありますが、
先ほど申し上げましたように、これは今後全然打切られたわけでもありませんし、
安否というようなものも
調査の
方法もまだあるわけでありますので、これくらいのことでやるよりしかたがないのじやないか。全体的に見て、私
どもの受けた大
ざつばな感じといたしましては、相当
好意をも
つてや
つてくれた、こう申し上げてさしつかえないのじやなかろうか、こういうふうに存じておるような次第でございます。
なお、
代表団からさきに三十日に
電報が参りまして、
慰問品を送ることについて
言つて参つたのでございます。
最終会議の際に、今回の第二次の
送還船でどうせ迎えに行くのだが、そのときに
慰問品をひとつ特別に引受けてもらいたい
ということを申したところが、それはよろしい、各
個人別に
収容所の
郵便番号をつけてあれば
ソ連赤十字の
代表が現地で引受けて渡す、だからあらかじめ
慰問品の個数を通知してもらいたい、こういうことで、
代表団としては、行
つてみた結果、
収容所の中におる
人たちが待
つてお
つたことがわか
つたものですから、これはぜひ実行してもらいたい
ということを言うて参りました。従いまして、
赤十字といたしましては、先月の三十日に各
都道府県にあります支部に依頼をいたしまして、
ソ連残留者に対して
慰問品を送ることを通牒いたしたのでございます。こまかいことを申しては何ですが、大体船が二十日ごろまでには出るであろう
というようなことで、明日から二十日までの間にひとつ小包を出す、
内容等はこんなふうに注意してや
つてくれれば持
つて行きます
ということを言いまして、そうして第二次の
興安丸で
ナホトカに届ける、そうして
残つた人たちにこれが着くのじやないか、こういうふうに思
つております。
代表団は、
先ほど申し上げましたように、本月二日の朝
モスクワを立ちまして、
東京には八日の夕方SASで着く、こういうような
電報が昨日人づております。非常にばらばらにな
つて不充分でありましたが、なお御
質問によ
つてお答えをすることにいたしたいと思います。