○沼田
公述人 何分急な御指名でございましたので、それぞれのケースについて、経過だとか
仲裁裁定の
内容などについて、検討する余裕を持ちませんでしたので、その
意味で、どうしても
公労法の
法律論なり、あるいはそれと
憲法との関連における法理論が中心になることと存じますが、御了承いただきたいと思います。
そもそも
公労法といいます
法律は、私ども
法律をや
つておる者にと
つても、難物中の難物なのでございます。と申しますのは、技術的にきわめてまずいのであります。大体わが国の
労働関係に関する法のとらえ方というものは、どつちかというとヨーロツパ大陸的な
考え方であります。協約法理を見ても、その通りであります。ところが
公労法は、御承知のようにアメリカの、しかもワグナー法系統と同時に、鉄道
労働法系統と二つのものをごつちやにませたような
交渉体制というものを取り入れられまして、木に竹を継いだようなかつこうにな
つておるのであります。それで、わけても
仲裁裁定というものが、
国会の
承認によ
つて何らか影響を受ける
部分ができた。このことをめぐ
つて、
解釈論上も、
公労法ができて以来論争されて、まだ帰結を見ずという状態であります。しかもこの
法律ができたときは、先ほどから
議論がありましたように、
憲法違反という
意見が強か
つたのでございます。
憲法違反であるというのも、あのときはポツダム政令二〇一号という超
憲法的な
法律があ
つたから、それによ
つて、いかに
憲法秩序内において違憲なものであ
つても、ポツダム政令なんだからということで、いやおうなしに承服させられたものであります。それを受け継いでできたのが、
公労法の主として十七条であります。それでもあの当時は、占領下という状態なんだから、しかたがないというような気持で、これまた
憲法秩序内において理解さるべきこの
法律が、超
憲法的な理解の仕方のまま、うやむやにな
つてお
つたのであります。講和後においては、当然十七条は撤廃されてしかるべきであろうと、
労働法をや
つておる者はひとしく考えたことと私は思
つております。そこでこの三十五条、十六条という二つの条項を中心にして考えますにしても、どうしてもこれは
公労法全部というよりも、むしろもつと大きく
憲法との連関においてとらえなければならないということが明らかでございます。
そこで
憲法二十八条に
規定いたしております
労働者の
基本権というものが、
公共の
福祉によ
つてどの程度に制限を受けるのかということが、これまた絶えず論争せられましたが、これはそれぞれの人の世界観によ
つて非常に帰結を異にする問題のようでございます。しかしながら、
憲法の
立場で考えますれば、
公共の
福祉と
基本権というものは、
まつこうからぶつかる性質のものではないのでありまして、むしろ従来個人の利益というものに対して、国家が無条件的に絶対的に優越するという、わが国の、ことに戦時中非常に鼓吹せられた全体主義的な
考え方に対する批判として、この基本人権思想が出たのでございますし、そして戦時中からの例の公序良俗観念、安寧秩序観念というものに対して、パブリツク・ウエルフエアー、
公共の
福祉という観念が取上げられた。つまり基本的人権が十分実現せられていることこそが、同時に
公共の
福祉が実現せられている状態であるという
考え方が、底に流れてお
つたといわなければならないのであります。だから、
公共の
福祉というようなものが観念的に持ち出されて、基本的人権を全面的に否定するようなことがあるとすれば、これは明らかに
憲法違反なのであります。これは基本的人権を蹂躪するから違反であるというだけではなく、
公共の
福祉ということに対して理解を誤
つた点においても、
憲法違反であるといえるのであります。そこで、そのように
争議権の全面的禁止が、
憲法違反であるというふうに言い得るとするならば、もしこの
公労法十七条というものが違憲でないとすれば、どういうふうに理解さるべきであろうかということが、私たちとしてはやはり重要問題であろうと思います。そうしますと、少くとも二つのことが考えられるではなかろうかと思うのであります。これを合憲的なものとして
解釈して行くためには、一つは、この十七条で禁止しておる
争議行為というふうなものは、これはやはり債務不履行を伴うような、あるいは債務不完全履行を伴うような、ストライキとかサボタージユとかいうような、従来の
争議史上
争議行為のいわば類型的なものとして出て来た
行為を禁止するという
意味がある。それだけのものだ。
従つて、そういう債務不履行というような問題にあらずして権利の履行をやる、つまり今や
つておられる遵法闘争というような形態のものは、本来それに含まるべき筋合いのものではない。たといそれが社会的観念としては
争議というふうに考え得られたとしても、また労調法の定義においてこれを
争議の中に入れて考えらるべきものであ
つたとしても、
公労法十七条において禁止しておる
争議行為の中には入れらるべきものではあるまい。入れて
解釈するようでは、違憲のにおいが臭くなるというように考えられるではないかと思うのであります。
その点と関連しながらでありますが、いかに
争議行為を全面的に禁止すると
規定をいたしましても、
憲法との調和において考えるならば、現実に何らパブリツク・ウエルフエアーに対して侵害しておらないというような場合、たとえば小さな私線における小さな駅だけが、ストライキをやるというような場合は、これは東武鉄道だとか東横線などのストライキとは比較にならないほどの貧弱なものでありまして、今日およそどういう
争議においても、それくらいの影響がなしには
争議は行われないのであります。そうしますと、このようなものまでも、この十七条によ
つて禁止するというふうには考え得られないのではなかろうか。つまり、そういうような
争議を禁止する十七条自身、何らかこういうふうな制限を持
つたものとして
解釈するのでなければ、合憲的とならないであろう。のみならず、他のもう一つの点は、
争議権によ
つて実現せられる
勤労者の
生存権であります。この
生存権を実現する手段である
争議行為というものを押えた、つまり剥奪してしま
つたのに対しては、それの
代償がいるのではないかということであります。これは、先ほどから幾たびか述べられてお
つたことでございますが、少くも
生存権を保障するに足ると客観的に考えられ得るような妥当な
仲裁裁定、あるいは真に自主的な形で
団体交渉が行われた結果到達する
協定というふうなもの、これが厳に守られておるということが、十七条の
争議禁止を一応合憲的ならしめ得るための第二の要素であろうと思います。
従つて、こういうふうに考えてみますと、この
仲裁裁定規定と、それの
予算上質金上
支出不可能なものについて
国会の同意を得るというこの
規定だけにひつかか
つて、そこだけの次元で
議論をしてお
つては、とうていわからないのであ
つて、そのような
仲裁裁定が
公労法の全部の中で占める位置、あるいは
協定の占める位置を考えますと、やはりどうしても
争議権の制限と結びつけてとらえなければ、正当ではなかろうと思うのであります。
従つて、特にここで要求せられますことは、どうしても当局側の実行
義務であります。およそ、普通の
労働協約というふうなもので見ますと、あるいは民間における
仲裁裁定というもので見ますと、これは普通は
当事者が同じような程度に、そのきめられたものを守らなければならないというのが当然の要求であります。ところが、この場合考えてみますと、
労働者側は絶対的平和
義務を課せられておるとい
つてよいのであります。絶対的平和
義務を、民間産業の場合に協約で
規定いたしましても、そのような絶対的平和
義務は無効と
解釈するのが、
労働法学界の普通の見解だろうと思います。普通の平和
義務というものは、相対的なものだ。つまり、きめられたことだけについてお互いに
約束を守
つて、ストライキもやらない、ロツク・アウトもやらないというのが平和
義務であります。ところが、この
公労法における
協定あるいは
仲裁というものについて見ますと、
労働者側に関する限りは絶対的である。つまり絶対的というのは、これは一方においては、
内容的に見て、きめた事柄以外のことについても争わない、ストライキもやらないという
意味において絶対的であると同時に、この
協定が有効である時期だけストライキをやらないというのではなくて、時間的にもずつと絶対的平和
義務であります。つまり、
争議権の禁止を受けておるのであります。そういう事態に対比して考えますと、
労働組合の平和
義務に対応するものは、この
協定については、常に
使用者側の実行
義務なのであります。この実行
義務の重要性がいかに大きいかということが、わか
つていただけるのじやなかろうかと思うのであります。そうして、これこそが近代社会における、いわば交換的正義ないしは平和的正義といいますか、アリストテレス以来の配分的正義に対して私人間の利益のバランスがとれておるという
意味での正義が実現せられるのではなかろうかというふうに申し上げていいのではないかと思うのであります。以上のような原則に立
つて、初めてこの十七条というものを理解すべきであり、三十五条、十六条というものえ理解すべきであろうというふうに考えていいと思うのであります。
しかも、いわんや、この
法律ができるときに、
労働組合側は全面的に反対したのであります。しかも、議会におきましても、
労働組合側が推薦され、
組合が背景とな
つて推しあげた左右社会党や労農党あるいは共産党というような、いわば
労働者を背景とした政党が、常に少数者の
立場にまわされて、あらゆる反対があるにかかわらず、これを押し切
つた形で成立させられた
法律なのであります。というのは、これは政治的な
意味にな
つて参りますが、少くとも現在の政権を握
つておる政府は、少数政党を通じて、同時にまた直接的に、勤労大衆に一つの
約束を与えたという
意味を持つのであります。だから、
仲裁裁定はあくまでも守るということを
前提としてこの
法律は考えて行かざるを得ないのであります。
およそ近来の世界的な
労働法の傾向を見ますと、ストライキ権を、公益
事業あるいは
公共事業だからとい
つて、全面的に一方的に押えてしまうというのは、ほとんどないのであります。これは大体サルヴアドルとかなんとかいう、そういう二、三の小国において、
公共事業あるいは公益
事業のストライキを全面的に押えておる国があるだけでありまして、世界的には、きわめてまれなわけであります。そしてたとい
争議を制限するという場合におきましても、これに
代償を与えるに
仲裁裁定だけをも
つてするという水準は、少くとももう二十年以上も前のことだろうと思います。今日では、大体それに対する
代償としては、
労働者の経営参加を与えるという
態度にな
つて来ておるど考えてよいのであります。だから、何分アメリカ以上に進んだ二十世紀的
憲法とサルヴアドル等の
労働法との調和を考えて
解釈するということは、
法律学者にと
つて容易なことではないのであります。しかるに、この
公労法は、
団体交渉の対象をそれ自身制限しております。この制限がどこにねらいを置いておるかというと、経営参加を排除するという方向なのであります。経営には一指も触わさせないという形で排除しておる。
それから、さらに、この点はかなり強調しなければならないし、私たち古くから
公労法を見てお
つた者にと
つて、非常に頭の切りかえに困難を来しておる点でありますが、
給与総額の
規定なのでありしなす。この
給与総額というものを、
法律的に確立したということであります。これによ
つて予算上
資金上可能なべース・アツプというものが事実上あるのかどうか、私にはよくわからなくな
つてしま
つたのであります。けさの朝日新聞だ
つたか見ておりますと、国鉄の横山書記長の談話か何か出ておりました。その中に
池田蔵相の発言だとい
つて、この
給与総額規定で
公労法を骨抜きにしたということをおつしや
つたそうでありますが、確かに骨抜きにな
つておるのであります。これが
公労法のある
争議を全面的に禁止する十七条というものを、何とかして合憲的に
解釈してみたいと思
つておる
人たちに絶望させたのが、この
給与総額の
規定ではあるまいかと思うのであります。つまり、
給与総額で骨抜きにしてしま
つた。その骨抜きに
なつたものが、おそらくは唯一の可能な合憲的な
解釈の足がかりであ
つたはずであります。それを骨抜きにしてしま
つた。確かに、考えてみますと骨抜きにした。私は、むしろこの点については、今までぼんやりしてお
つた私たちが悪いかも存じません。
給与総額がこれほどびつしり押えつけて来るものとも知らなか
つた。とい
つては、ずさんな話でありますけれども、今までの
公労法の頭で判例を見たり、そういうことを見てお
つた者の感じでは、とうていこんなきびしいものだとは思
つておらなか
つたのであります。このように骨抜きにしてしま
つたということになると、この
給与総額規定が生きるか、
公労法の
争議禁止
規定が生きるか、どちらかが生きなければならない、同時に、どちらかが死ななければならないということではないかというふうに思うくらいでございます。
以上のような事態に即して、この
協定とか
裁定とかいうものを見ますと、これは政府も厳重に守らなければならないものだということは申すまでもございません。その
協定なり
裁定なりというものが、もし
生存権保障に非常にかけ離れたくらい低いものであるならば、これをも
つて私は
労働組合の闘争を押えつけるには足らないと思うのでありますけれども、今日のこの
裁定が、そのような
意味を持つかどうか。つまり、
生存権を保障するに足るものかどうかということについては、私は何とも断定する勇気もございません。というのはかなり幅の広いものでございますし、のみならず、これは一応
組合の方も賛成されておることでございますし、それから
今井さんの話を聞いておると、どうも当局も大体賛成なさ
つたような線でございますので、私たち自主的にこの形成されたものについて、あえて多くを語ろうとは存じませんけれども、ただ先ほどの
公述人の方もおつしや
つたように、これは決して、少くも
公労法に含まれておるような規模を持
つた、そのような産業における平均の賃金より高いものでないということは、明らかであろうと思うのであります。しかしながら、この点については、あえてこれ以上触れないことにいたします
三十五条と十六条の
関係でございますが、この
関係は、今までいろいろ問題があ
つた点も、
給与総額で吹つ飛んでしま
つた形なんで、と申しますのは、今まではまだ流用したり何かしてどうにか捻出するという道を
当事者が持
つてお
つたのでありますが、
給与総額でびしやつときめられてしま
つては、
当事者としては、ベース・アツプをきめられて来る限り、そういう特殊な机の上で考え得る以外には、現実には
予算上
資金上不可能でないものはない。つまり、
あとはほとんどボーナスの場合以外はないと思うのであります。
そこで、ここに出て来る問題は、政府は
裁定を受けたときに、一体どのような拘束を受けるのかということだろうと思うのであります。ところが、一切拘束を受けないと書いてある。そこに問題がある。一切拘束を受けないということは、どう理解すべきものなのか。いやしくも、これは国家の
法律が
基本権を剥奪する
代償として、最も合理的な労使
関係を形成するためにというのでつく
つた法律が命じておることを、それをま
つたく拘束を受けないとは何かということをよく考えてみろと、これは結局、
予算が通らなければ、それをのんではいけないというようなことに理解する以外にないのであります。そうな
つて来ますと、政府としましては、
仲裁裁定だけをぽんと
国会に出して、これではどうやら
給与総額を上まわりますからよろしくでは、済まないのではないかということであります。私は、今拝見いたしたわけでございますが、この提案されておる事由を見ますと、今申し上げたことに尽きるのであります。つまり、こういうふうに
仲裁裁定を下されて、そしてこれはどうも
給与総額を上まわる。
予算上
資金上の
支出不可能なる
部分に属するから、十六条の二項によ
つて出すのだ、こういうことでありますが、これではいけない。やはり
国会に付議するものは、何かといえば、
予算を付議すべきものでありまして、その
意味で言えば、これは
予算委員会の問題であるということも考えられるのであります。追加
予算を付議する。それにどんな事由を付するのか、追加
予算を出さなければなか
つた事由を述べる。その事由は、いろいろの経過を経たけれども、この公正なる
仲裁委員会が
裁定を下したことによ
つて、労使
関係における合理的な線が出たから、それに
従つてわれわれは追加
予算を出すのだという事由を付するのが当然だろうと思うのであります。あるいは、そのほかに何らかの事由があればそれを出す。とにかく、そういう
建前のものなのであります。だから、
予算を出さざる事由を大いに主張されるのではなく、
予算を出してその事由を説明され、その中の一環として
仲裁裁定が出て来なければ、うそであろうかと思うのであります。
国会でも、もとよりこれに対応することでございますが、先ほども言いましたように、これは
予算委員会の問題だと、極言すればいえるのであります。つまり、
国会は決して上級
裁判所ではない。
国会はこの
法律によ
つて仲裁裁定に対する何らか上級
裁判所の機能をや
つて、
裁定がよか
つたか悪か
つたかというようなことで、いろいろ取消させたりする機関ではないのであります。いやしくも、国家機関の意思が統一あるものとして、われわれに印象つけることが必要であります。とすれば、
国会のつく
つた法律が命じておるこの
仲裁の拘束力というものを、そのまま是認するということ、そしてそれを全部の財政的な
観点から
予算を示す、こういう
建前でしかるべきである。
従つて国会は、この
協定の中にわた
つてまで、これが妥当であるかいなかということを審議することは、決して
公労法のねらいとするところではなか
つたはずだと思うのでございます。
それから、今実益がなく
なつたような
議論でありますが、
国会の
承認があ
つて、そこで初めて
裁定は
効力を持つのかという問題であります。もちろんこれは言うまでもなく
予算上
資金上
支出不可能の
部分についてでございますが、
予算上質金上
支出不可能な
部分について、
国会の
承認を得なければ
効力がないのかどうかという問題であります。これはたとい
国会の
承認がなくても
効力はあるのだという
議論をいくら主張してみましても、実益としてはあまりないのであります。というのは、今日
給与総額という問題ががんとして出ている限りは、やりくり算段で片づけることは、一ぺん
国会は
承認しなか
つたけれども、ほつとけばそのうち年度末あたりにはもう一ぺん支払い可能になるのだという事態が起りつこはないからであります。そういう実益においては、私は疑がわしいと思うのでありますが、法の
建前としていかに理解すべきかということになりますと、やはりどうしても両者を拘束する大原則を明らかにしたものである。そうして、ただその
仲裁裁定を履行するについて、
国会の
承認がなければ、事実上
ちよつと履行ができない。しかしながら拘束はしておる、こういう
精神で
解釈して行かなければならないのではないかと思うのであります。どちらにしても、この
給与総額制度というものが廃止されなければ
——公労法が経済統制法の一環としてならば、あるいは出て参るかもしれない、あるいは取締法の一環としては出て参るかもしれないが、
労働法としては出て参らないのではないかと思うのであります。
以上のような法の
解釈というものは、実は実際に政府のおやりにな
つていることを見ますと、遺憾ながらくずれていることは、多く申すまでもないと存じます。すでにいろいろ新聞やその他で承
つていることでも、もう
裁定が八月以降にというのを、来年一月一日からやるのだと言
つている。今までも
予算案を付さずに
裁定だけを議会に付せられたということがよくありまして、その点については、法を守ることにはあまり触れておらないことは明らかであります。
組合の主張を見ますと、これは
争議権の
代償であるということを申しておりますが、これは事実であります。これは
争議権の
代償としては、ことに
仲裁制度としては弱過ぎる
制度なのであります。むしろ今日は、先ほども申しましたように、
争議権は原則として制限しない。緊急事態という一定期間を過ぎれば
争議権はもう一ぺん元に返るのであります。これが今日の
労働法のあり方であります。そうして
組合側の主張する
代償は、経営参加ということなのであります。ところが、その
代償たる経営には触れさせない。
給与総額の問題
——この
給与ということが、実は
団体交渉のま
つたく中心なんです。この中心のことについては指一本ささせないということになれば、この
仲裁制度が、とうてい
争議権を押えた
代償になるとは考えられません。それでも
組合側は謙虚に、
争議権を剥奪されたものとして、この
仲裁裁定というものを尊重されているようであります。これは実施するのが当然で、実施しないのはも
つてのほかであります。また
組合が、政府は大いに法を守れと言
つておりますが、ま
つたくそうであります。
日本は法治国家であるに違いありません。ただ近代民主主義国家における法治主義というものは、悪法を示されたときに、権利を擁護するのがほんとうであります。少くとも
労働運動史を知
つている者としては、実に控え目な
態度であるということに、むしろ驚かされておるのであります。少くとも近代国家において、
憲法が
基本権を保障しておるにもかかわらず、
争議権を押えて、そのかわりに
仲裁裁定を出した。その
仲裁裁定が政府当局によ
つて守られなか
つたということに
なつたとしたならば、おそらく気の早い外国の文明国の
労働者は、ゼネストをも
つてこたえたであろうと思います。それに対して、おそらく市民は同情を寄せたに違いないと思います。権利意識の強い、つまり人格主義の強い国においては、かような現象が起るのではないかと思います。とにかく国家とか政府とかいうものは決して法を軽んじないものであるという信頼が国民の間にみなぎ
つておるような国ならば、おそらくこのようなゼネストを支持するのが当然であろうと思います。
従つて、この控え目な
組合の要求というものは近代国家の政府にと
つては、最小限度の
義務内容だろうと考えられます。
従つて、最大限の努力を払
つてこれを実現していただくのが、ほんとうだろうと思います。とにかく今日私が申し上げておることは、何か非常に
組合の肩を持
つておるような、あるいは
組合をけしかけておるような気持をお持ちになるかもしれませんが、今日
協定や
裁定を守ろうとしない政府というものは、少くとも文明国においては珍しいことだということを申し上げておきます。それから、二、三の補足を申し上げさせていただきますが、
裁定が出てから、さらに
組合がその
裁定の実施のために闘わなければならないということは、不幸なことであるということは、各
組合を代表しておられる方々の公述の中にしばしば見たことであるし、それは私もそう思うのであります。そのことは、
使用者側というか、
労働組合と
交渉する当局側の
立場から見れば、こういうことでありましよう。つまり
裁定というものが
争議にピリオツドを打つものではなくて、
裁定自身が政府が相手と
なつた
団体交渉の出発点という
意味であります。つまり
労働組合は、その当局と大いに談判をして、
団体交渉をや
つて、そうして
仲裁裁定で
裁定を得た、ここでこの問題は片づいたはずである。その片づいたはずのところを、政府として無視しようとするから、今度はここから闘争にな
つてしまう。ということは、当局は二段、三段に常に闘争の矢面にみずから立たれておるということであります。そうして下手すると、
国会までが動員されて来る。つまり、
予算案をのむかのまぬかということで、ここまで動員されて来るということになりますと、政府が最もきらいな政治闘争が起るのはあたりまえであります。私もまた
労働法というのは、なるべく市民社会の領域で、つまり経済社会の中でこの経済問題を片づけるのが、第一原則だと思
つております。ところが、それを不可能ならしめて
行つておるものがこの
公労法の闘争であります。私はその点
労働法のためにも、また国家のためにも非常に案ずる次第でございます。それから、これは各
組合の方や、
今井仲裁委員長の公述をずつと見てお
つたところの私の感想で、一体当局は自主的な解決をお考えなのであろうかということを感じたのであります。というのは、ここで読んでもよろしいのでありますが、こういうことであります。
今井委員長の発言されておるのには、当局は
組合が要求をつきつけて来ておるのに対して、これくらいならば払えるという提案をなしておらない、つまりカウンター・プロポーザルをなしておらない。
団体交渉というのは、どこでも、一方の
組合が要求を出せば、これに対応した何らかの提案を持
つて臨むというのが、誠意ある団交というものの最も重要なメルクマールとな
つておるのであります。
団体交渉制度はアメリカでよく発達しておるから、アメリカを引用しますと、アメリカでもカウンター・プロポーザルを持
つて来ないような
団体交渉は、誠意ある
団体交渉として認めない。これは民間産業の場合に、もし
組合の方が
団体交渉を申し込んで、
使用者側がこれに対して、困
つた困
つた、どうもそれはできない、うちの経理が困
つたというだけでは、
団体交渉といえるかどうか。カウンター・プロポーザルを出して来ないならば、民間産業の場合には不当
労働行為になるということは、ほぼ明らかなことだろうと思います。そうすると、不当
労働行為は、下手すると
公労法にも
適用される、場合によ
つては団交拒否の不当
労働行為という問題すら、あるいは考えられるのではないかと思います。もとより私は、ほんとうの
団体交渉の実態というものをよく存じ上げておりませんから、
一般的に不当
労働行為が成り立つとは申しません。しかしながら、
今井仲裁委員長の公述をずつと読んでおりますと、ここに
仲裁委員長の
議論が出ております。とともに、やはり自主的な
交渉をやるという
態度が非常に乏しいように感じたのでございます。自主的な
交渉を去
つて、すべてを法の領域、
法律によ
つて片づけて行くという
態度は、
労働法にと
つては一番忌むべき
態度であります。ラードブルーフの法の三つの究極の理念は、いわゆる法的安定性と正義と、それから法における合目的性というふうなものを掲げているのでございますが、これを
労働法についてこれをながめますれば、一つは社会正義の要求でございましようし、一つは自主性の尊重ということでございましよう。そして一つは社会政策目的を実現する、つまりこれは社会政策目的として労使の産業平和ということでございましよう。こうした法の究極目的というふうなもの、それは
裁定を政府が忠実に守
つて行くことによ
つて、辛うじて若干の実現を見得るのではなかろうかというふうに思いますので、どうかこの法の理念に照して、合理的な
態度で法の
運営をや
つていただきたいというふうに思います。
私の公述の要点は、以上をも
つて終らせていただきます。