○
公述人(戒能通孝君) 私は
労働組合、
労働争議というものは大体夫婦喧嘩みたいなものだと感じております。というのは、一方が相手を倒さなくちややめないというのではありませんので、
ただ騒ぎが収まりますと、一方は他方を帰す、一方は他方に帰るというのが前提にな
つているわけでございます。ですから
労働争議につきましてどつちがいい、悪いということは、問題にすることはできないのだと感じておりましたけれども、只今小笠原さんのお話を伺
つているうちに、この前の
ストライキというものは、これは明らかに
事業主の
責任であることをしみそれ感じたわけでございます。というのは、電気でございますが、私たちの家庭に配給されておる電気は、一キロワット時につきまして大体十二、三円取られているようでございます。ところが、大口工場に配給されている電気は一円六十銭ぐらいで参
つております。更に特殊電力というものがございまして、これはたしか五十八銭だか六十銭だかで出していると思うのであります。大口電力及び特殊電力は合算いたしまして、関東地方では七七%以上を占めておるはずでございます。言い換えれば、我々が出している電力代というものが結局大口電力や特殊電力の
作つている赤字を埋めているのであります。つまり大口工場や特殊電力の場合におきましては、原価を割
つて売
つているはずでございますが、割
つたやつは誰が負担しているかと申しますと、私たちが負担しているわけでございます。だから
ストライキのような場合におきましては、これは当然高いお金を出して電気を買
つている私たちに廻すべきだ
つたと信ずるのであります。つまり、私たちは同じ一キロワット時の電気を買うのに特殊電力の十何倍というような、二十倍近くの非常に高い値段を払
つているのでありますから、同じものを大体二十倍もの値段を払
つているやつと、それから二十分の一の値段を払
つているのとを扱うような場合におきましては、どうしても値段の高いほうを上等に扱
つてもらわなくちや困るのであります。現に私たちが京都に行こうという場合におきましても、切符を買いまして一等に乗りますというと、三等よりも確かに優遇されるのであります。だからして
ストライキの場合であろうと、渇水
停電の場合であろうと、私たちとしては当然支払
つたけのだ対価を返えせという
権利があると思うのであります。ところが実際のやつはどうかと言いますと、
ストライキによる負担は平等でなくてはならないというので、各家庭の分までみんな削
つてしま
つたわけであります。そしてこの一般の確かに小笠原さんのような最も庶民的な人を一番強く
組合に向
つてかき立てたという点、この点におきましてやつぱり私は
事業主側の
責任が電産についてはあ
つたと信じておるわけであります。
つまりこれは電産そのもの、電産
労組そのものの宣伝力の不足、その他は十分咎められるべきでありますけれども、併しながら一番大きな問題というものは、
ストによる被害を平等に分散した結果といたしまして、一番弱いものが一番苦しめられた。言い換れば一等の代金を払
つて汽車に乗
つた人が、無蓋貨車の代金を払
つた人よりももつと苦しめられたというのが実情であ
つたと思うのであります。このような状態というものを作り出したところから申しますと、私としてはどうしても只今の小笠原さんのお話を聞いているうちにしみじみあれは
事業主の
責任であ
つたというふうに感じないわけには行きませんでした。私はむしろ
責任はどちらにもなか
つた、お互いさまだ、と言いたか
つたのでありますけれども、今の話を聞いているうちに反対の
考えに変
つて参りました。
更に
石炭の場合におきましても、同じでござました。
石炭の場合におきまして、
ストライキが始まる前までに七百万のンの貯炭があ
つたと言われていたのでありますが、その七百万トンの貯炭がなくなるまでというものは、何をしていたかと申しますと、あの
事業者側は
賃金の値下げを要求していたのではないか、途中で少し変
つて参りましたけれども、基本的には
賃金の値下げを要求していたんじやないか。更に輿論が反対に、
スト反対というものを巻き起して行くまでの間、
電気事業家のほうは労働時間の延長を要求していたわけであります。
事業者側におきましては労働時間の延長を要求し、
賃金の値下げを要求し、そして輿論をできるだけ反対に追込んで行
つた。而も電気の場合には特に我々から特殊電力の十数倍、二十倍の電力代をと
つている。同じ電気であります。而もそれをや
つたという点から申しますと、私としてはどうしても
事業者側に
責任があ
つたと言わざるを得ないと思うのであります。で、更に
中労委や
政府というものにおきましても、これはもう少し努力して
解決すべきであ
つた。殊に
中労委の場合におきましてはそのことは言えると思うのでありまして、併しよく起る現象は、アメリカなんかでこういう問題が起りますというと、よく起る現象は一時的に
ストライキを
ストップさせる。その代償といたしまして
組合側の要求を五〇%なり或いは六〇%なり仮に認める。三カ月間だけ認めるというように
法律を作るのであります。そしてその三カ月間は
ストライキをしてはいけない。そしてこの三カ月間の間にこの
事業内容を、経理
内容を調査いたしまして、そして合理的な支払い得る
賃金というものを支払わせるというふうな報告書を提出する。
ただこれを受入れるか受入れないかは更に又別の問題でござまして、とにかく取りあえず三カ月前後を限りまして
ストライキの
停止を命じまして、その間は
組合側の主張の一部を受入れて、そしてその三カ月内に
事業内容を調査しまして、それによ
つて報告書を提出させるというふうなそういう
法律を
作つてございますが、こうい
つた法律というものを成る場合において
考える余地はあ
つたろうと思うのでありまして、併しそこまで至らなか
つたことは或る
意味におきまして非常に幸いだ
つたと思うのであります。それは明らかに
緊急調整以上のものでございますので、そうならないことは私としては勿論望むわけであります。そしてこの前の電産、
炭労の
ストとも先ず最終的に落ちつくべきところに落ちついたということは、これは非常によか
つた現象だと思
つているわけであります。
第三に昨年の電産、
炭労ストが
公共の
福祉に反したから本
法案の
提案があるんだというふうに言
つておられました。
公共の
福祉とは何だということが、これは非常に大きな問題だと思うのであります。
公共の
福祉という概念につきましては
考え方が二つございます。一つは先ほど述べられました
北岡さんの
意見に代表されているわけでありますが、これは専ら絶対主義と申しますか、専制主義、フアツシ
ストの
公共の
福祉論でございます。フアツシ
ストの
公共の
福祉論は、これは全体のためならば個人を犠牲にしてもかまわないということでございまして、全体のためであるかどうかということを判定するのはそのときの
政府の支配者であるというのが、それがフアツシ
ストの
公共の
福祉論でございます。
従つて先ほどローマ法にも
公共の
福祉という概念があると言
つておられましたけれども、これは全く違うのであります。ローマ法のサーヴイス・ポピユルカと申しますのは、
公共の
福祉と申しますのは、これは皇帝の
利益という
意味でございます。皇帝のためならば何をしてもいいと、
公共の
福祉というのは
国家の
福祉と訳すべきだと思いますけれども、
国家の
福祉ならばこれは法に拘束されないという
言葉がございますけれども、これは皇帝ならば何をしてもいいという
考え方でございます。勿論ローマ法学者の間におきましてもかくのごとく述べる思想に対しましては大いに反対
意見もございます。皇帝は法の下にありや、法の上にありやということがローマ法学の上におきましても相矛盾した文献がございます。併しともかくローマ法の法源というものは絶対主義、専制主義というものの中に取入れられまして、そしておよそ
政治家、現在の政権担当というものがすべて
公共の
福祉を代表するという
考え方をヨーロツパでも
日本でも持込んで来たわけでございまして、これこそが
公共の
福祉というものの反人権的な歴史だ
つたのでございます。もう一つは、これは先ほど堀議員がおつしやいましたバージニア
憲法、それからアメリカ
憲法で言うところのジエネラル・ウエルフエアと申しますか、つまり一般的
福祉という概念でございます。これは
基本的人権の充実ということを一般的
福祉という
言葉で呼んでおります。アメリカ
憲法の下におきましてはジエネラル・ウエルフエアを増進する機能はポリス・パワーでのある警察権であるという判例がございまして、警察権の中で、この多くの事柄が
解決されたのでありまして、この中では主として
労働立法、工場
立法は一体合憲であるかどうかという問題だ
つたのであります。多くの学者は、例えば一日八時間労働するとか、特に婦人の十時間労働
制度というものは、これは契約の自由に反するという
意見が強か
つたのでありますが、そのとき裁判所は十時間
立法の労働
制度を作るのはポリス・パワーの問題だ、警察権の問題だ、一般的な
福祉を増進するための警察権の問題であるというふうに判決したわけでございます。だからアメリカ
憲法で言うところの
公共の
福祉というのは警察権の行使としまして個人的な
労働者の生活状態を増進するとか、或いは強制予防接種を作るとかいうときに使われた
言葉であ
つたわけでございます。強制予防のような場合におきましては、これは一般的
福祉というものが明らかにすべての人の
福祉に
関係いたします。例えば伝染病がはやるという場合に予防注射を強制するということは、伝染病を防ぐという点から申しましてすべての人の
福祉に合致いたすのであります。このような場合におきまして
公共の
福祉というものを使
つております。従
つて公共という
意味が二通りございます。一つは国実権力の持主、権力担当者の
利益が
公共の
福祉であるという
考え方、もう一つは一般公衆、すべての公衆の
利益が
公共である。すべての公衆という
意味におきましてパブリツクという
言葉を使う。二つあるわけでございます。先ほど
北岡さんは明らかに
公共の
福祉という概念は、これはナチが申しました、ヒツトラーが申しましたデイ・ゲマイヌツツリヒカイト・フオランゲーエン・デイー・アイゲンヌツツ、
公益は私益に先立つというあの
公共の
福祉を指しておられたと思うのであります。
従つて北岡さんの御
意見のような形で若し万一にも
スト規制法が作られるということになりますと、これこそまさにフアシ
スト、フアツシズムというものへの一歩前進であるということにな
つて参ります。
従つて北岡さんの御
意見のような御
意見がなか
つたら別でございますが、すでにこの席において述べられ、そうして皆様もそれをお聞きに
なつたわけでございますから、ああいう形でこの
意見が述べられ、而もそれに御賛同に
なつたということになりますと、結局
日本憲法を無視するという御決議になるというふうに解釈しなくてはならない、ちよつと乱暴ですが、甚だそういうふうな感じが強くいたしまして実に悲しい思いがしたわけでございます。而もこの
公共の
福祉ということを
理由にいたしまして、この
法案が
労働者の
団体行動権の一部を制限するんだと言われておりますけれども、果してこれが制限であろうかということが問題にな
つて来るわけでございます。これは同じ
法律につきましてこの公労法の三十六条につきましては、まだ私は先例をよく知りませんけれども、ほぼ同種規定にな
つております。殊に殆んど第三条と同種の規定にな
つております。船員法の第三十条というものにこういう条文がございまして、この三十条に関連する解釈は、これは本件にも及ぶと信じておりますので少し申上げさせて頂きたいと思います。船員法の第三十条はこれは「労働
関係に関する
争議行為は、
船舶が外国の港にあるとき、又はその
争議行為に因り人命若しくは
船舶に危険が及ぶようなときは、これをしてはならない」という規定でございます。これをいたしますと船長から懲戒を受けるということにな
つておるわけでございます。ところがこの船員法の解釈につきまして私の知
つている限りすでに三つ問題が起
つております。一つはこの船員が
争議の際に
船舶の保安をやるときに報酬がとれるかとれないかという問題であります。日給がとれるかとれないかという問題でございます。ところがこれは私は直接にその事件にタッチしておりませんけれども、前に特審局長をや
つており、現在弁護士をや
つておられる竹内礼作弁護士から伺
つた事件でございますが、現在船主協会から船員
組合を相手にいたしまして、その保安中の
賃金というものは支払う必要がないのだ、支払う義務がないということを確認せよ、という訴訟を起しているという話を伺
つたわけでございます。船主協会の言
つている
理由は保安中の労働というものは、これは船員法第三十条によ
つて行う労務であります。
従つてこれは契約の履行として行われる労務ではないのだ、雇傭契約の履行として行われる労務ではないのでありまして、船員法第三十条によ
つて行われておるところの公法上の義務の履行に過ぎないのでありますから、それに対しては
賃金を払う義務がないのだ、こんなふうに船主協会は主張しておるのであります。これは現在訴訟中でございます。この訴訟というものが、どうな
つて行くかは私には予想できませんけれども、現在の最高裁判所の傾向から申しますと、ひよつとしたら船主協会側の言分を認めはしないかと思
つて私は心配しております。つまり
保安要員の
賃金は只だということになるわけであります。働くのは只で働け、これは飽くまでもこの船員法第三十条の義務として働いておるのだからして、雇傭契約上の義務として働いているのではないからして只であるということを判例として確認されますというと、これは
炭鉱の場合におきましても同じ問題が出て参ります。現在においてすでに
炭鉱の
保安要員が休日に働いた場合におきまして、超過勤務手当は払わんでもいいというそういう回答が
昭和二十七年の十月二十七日、労働省労働基準局長から都道府県各労働基準局長に宛てた回答として出ております。つまり休日労働に対しましても、超過勤務手当は払わんでもいいと言
つておりまして、今後この
スト規制法が若し通過するようなことになりますと、
スト規制法上の義務として労務に従事しているのだからして、
従つて保安要員に対する給料は支払わなくてもいいというあの思想が生れて来る
可能性がございます。これは現在の慣行と全く相反しますけれども、併しそういう主張が一応成立つ
可能性があるわけでございます。
第二番に問題にな
つて来るのは、これは
昭和二十八年六月一日の法制局第一部長から運輸省船員局長宛の回答に出て来るわけであります。保安の義務は先ず第一次的には
組合にあるけれども、第二次的には船長にあるという回答でございます。この
組合のほうはこれは明らかに保安の義務でございます。併し船長のほうにな
つて参りますと、「お前保安やれ、お前保安やれ。」という指名する
権利を含んでいるのであります。保安維持権は結局船長にあるということを
意味しているわけであります。つまり法制局第一部長の
意見によりますと、船員につきましては保安というのは船長が命令したらその命令に必ず服しなければならない。若し命令に服しませんというと、懲戒、その他が行われることになります。
ただ法制局の慶谷事務官というものがそれに対して解説を書いておられますが、それによりますると、船員法には百二十二条という条文があります。船長がその職権を濫用して、船内にある者に対しては義務のないことを行わせ、又行うべき
権利を妨害したときには、二年以下の懲役に処するという規定がございますが、これによ
つて船長の職権濫用を防止できるであろう。だから
余り心配しないでもいいのだという解説が付いておりました。この点は或いはそうかも知れません。今度の
スト規制法案につきましては船員法第百二十二条のような条文はございません。だから特に
炭鉱事業者は任意に「お前保安に従事せよ」と言
つて、そして任意に他人を指名することができるということになるわけであります。これは結局
組合の切り崩し、その他に利用されることが非常に起るわけです。それから又もう一つ船員法について問題にな
つて来るのは
昭和二十八年の二月二十八日付で運輸省船員局長からM協会宛回答というものでございます。これは私市販のものを読みましたので、M協会というものは何か存じませんけれどもそれに対しまして運輸省船員局長は次のようなことを言
つておるわけであります。はつきりわかりませんけれども、趣旨がはつきりわかりませんけれども、要するにこの船主は
保安要員だけ残して船員をロツク・アウトすることができる、
職場を閉め出すことができるということであります。ロツク・アウトされた人間はこれは仮処分されて船から降りなければなりません。併しそれにもかかわらず嵐があ
つたり何かしたような場合にはいつでも呼返せるというわけでございます。そういう回答でございます。ですからつまり任意に追払
つて、そして君は
保安要員だからや
つて来いと言
つて指命して、又仕事をさせるというわけでございます。これはちよつと感情的に
考えて如何でございましようか。つまり追払
つておいて保安に必要だからや
つて来い、そして只で使うというわけでございます。こうなればどうした
つてこの
憲法第十八条のいわゆる苦役というものになる虞れはございませんでしようか。この点におきまして我々としては少くとも保安の問題というものを
考えるような場合におきましては、保安が客観的に確保されるという条件を作らなければならないと思う。で、本
法案におきましては何にもございません。要するに
事業者が命令すれば
事業者であるか、それともこの
鉱山保安法によるところの保安
責任、管理者であるか、その点はつきりいたしませんけれども、保安管理者であ
つても
事業者の雇人でございますから、
従つて任意に指命したらいつでも働かなきやならない。而も一旦閉め出したやつまでいつでも働かせられるということにな
つて来る。それに対する報酬はどうかと言いますと報酬は払わんかも知れんというのでございます。こうなると先ほど御
意見がございましたけれども、やつぱり苦役にな
つて来る虞れはございませんかという問題が出て来るわけでございます。この点におきまして私としてはどうしてもこの
法案というようなものはこれは明らかにこの
憲法第二十八条にも反しているし、又十八条にも違反する疑い濃厚ということにならざるを得ないと思うのでございます。若しどうしてもこの十八条違反というものを避けようとすれば十八条に違反しないような技術的な工夫がもつと明らかに必要だと思うのであります。
従つて十八条違反に該当しないような工夫が十分できていないこの
法案というものはこれはどう
考えてもヒツトラー・ゲゼツツじやないかいう感じがするのでございます。勿論
仲裁制度の強化によ
つて、
本法制定に代えよという説もあるが、どう思うかという御
質問でございますが、私としては成るべく
仲裁制度というものはとりたくない、とらないほうがいいと思うのでございます。併し万止むを得ない場合におきましては、先ほど申上げましたような
意味におきまして、アメリカの極く臨時的な
立法、或る特定の条件を
解決する
立法というふうなもの、妥協によ
つて解決する
立法というふうなものによ
つて十分に
労働者の
地位も保護し、それから又雇主の
立場も
保障するということをや
つて行くべきではないかと思うのでございます。本
法案ができた結果として
停電ストができなく
なつたら、ほかに
ストライキ、効果的
争議手段があるかという御
質問でございますけれども、これにつきましては、丁度目がつぶれたけれども歩けるかという御
質問と非常に類似していると思うのでございます。目がつぶれても歩けないことはございません。併し少くとも歩くのには非常に不便であると思うのでございます。ところが目がつぶれた人は国が何とか心配して杖くらい与えております。ところが本
法案におきましては杖を与える努力をしていないのじやないか。
停電ストをやつちやいけないというだけであります。それから先に
停電をしなか
つたらどれだけの
保障をするかというその
保障の規定が全然ございません。だから目はつぶしたけれども杖を与えないということになるのじやないか。公務員法ですら公務員は
ストライキをしちやいけないと言
つておりますが、併し他面におきまして、人事院の勧告、公平手続というふうな方式によりまして、或る
程度まで公務員の
利益を保護しようとしております。それにもかかわらず、公務員の
利益はなかなか保護されないものですから、坐り込みだの、煙突に上
つたりなんかするようなことをしなくちやならないということにな
つておると思うのであります。今のところともかくこの
法案におきましては、少くとも目はつぶしたけれども、杖を与える努力はないという感じがするわけでございます。これは多少ともほかに変だという御批評もあるかも知れませんが、一応例として申上げておきます。更に、
鉱物資源の
滅失、若しくは、重大な損壊が
労働者の
生活権とどう比較せらるべきかという問題がございます。
鉱物資源が全面的に崩壊するという場合というものにおきましては、私としては、先ほど申上げました通り、特別の緊急
立法をする権限というものは、私は、国会にもあると思う。又、これは
憲法違反にならないと思
つております。併し今のこの規定でございますと、
法案によりますというと、全く小さな常磐とか九州とかいうような、全く小さな、月産数百トンの
炭鉱が壊れた場合におきましても、なお且つ、やつちやいけない。で、
ストライキの制限がされておるということなのでございます。こうな
つて来るというと、どうもこの
法案というのは、少し、書き過ぎだということになると思います。現に、
政府側の説明でも、小さな、全く小さな、ほんの、けちな一つの山においての問題としても、なお且つ、
本法の適用があると言
つております。これは少し書き過ぎであるということになろうかと思
つております。
従つて全面的な
鉱物資源の損壊というような現象が起
つて来たような場合においては、個別的な全く小さな山の場合と区別して頂くことが望ましいと思うのでございます。勿論、併し、
労働者の
生存権というものも、これは言うまでもなく大事なものでございます。そして、一寸の虫を生かすためには、五分の虫を、殺してもいいという
考え方は、最終的には一番自分に
都合の悪いやつは、殺してもいいという
考え方にも通じて来ますので、こういう
考え方には賛成できない。ルソーも
曾つて「一寸の虫を生かすために、五分の虫を殺してもいいという
考え方は、絶対
制度の発案した最も嫌悪すべき
言葉だ」と申しております。私もそれが、やつぱり正しいのではないか。みずから犠牲を払
つてこそ、これは感心すべきことであります。併しながらそうではなしに、犠牲を強要するということにな
つて、参りますと、やはりこれは行過ぎになると存じます。そうして
公共の
福祉という概念をむしろフアツシヨ的に理解するという結論になる虞れがあると感ずるわけでございます。なお、この電産、それから
炭労につきまして、この
法案と類似した
法案が制定されれば、勿論、
私鉄、
ガス、水道というようなものについても、どんどん制定されるでありましよう。又、制定されませんでも、
労調法の第三十六条がそういう解釈だ
つたんだということで適用されて行く虞れがあると思います。
従つてこの
法案ができるかできないかというのは、結局、
私鉄、
ガスなんかに、勿論
関係して参ると思うのであります。併しおよそ
考えて見ますというと、すべての
産業で、
公共の
福祉というものに
関係しない、
公共の生活に
関係しないものは全然ございません。で、あの三越であろうと松坂屋であろうと、やつぱり
公共の生活というものに何らかの
関係を持つということは、これは言うまでもございません。で、競輪でさえも
公共と
関係していると言われているわけでございまして、すべて
ストライキというものは制限されるという
可能性が出て来ると思うのでございます。
従つて、何が
公共産業か
公益的事業かということをあまりにも拡大する形になることは、勿論望ましくないと思うのでございます。そして私としてはあまり好まないのでございますが、
労調法第三十六条の解釈問題を、これを裁判所に任すのが正しいのではないかと思うわけでございます。勿論この三年の
時限立法にするということは非常におかしなことでございまして、違法なのに持
つて来て、三年た
つたら合法になるということもないのでありまして、その間にいろいろ慣習ができるのだという説明があ
つても、慣習というのは
法律があ
つて作られだ慣習でありますからして、自然な慣習とは申せないわけでございます。この点はちよつと私としては納得できない点でございます。で、これを要しまするにこの
法案というのは、全体的に申しますと、
労働組合に対する絶対的な不信の上に立
つているという感じがいたして仕方がありません。然らば、果して
労働組合は実際不信なものであるかと申しますと、これはどうもそうは申せないと思うのであります。この前の
炭労の
ストライキのような場合を
考えましても、
組合はすでに六十日以上に亘
つてストライキを継続いたしまして、
組合員
自身あした食べるお米がないというところまで追い詰められて来たのであります。それにもかかわらず、じつとその間、
保安要員を
引揚げないで堪えて来たわけです。この
日本の
炭労の
性格というものがどれほど穏健で、そして
信頼できるに足るものであるかということが、あれだけでも証明できると思うのであります。更に、
炭労電産の基本的
権利とい
つてもいいような
ストライキ規制の制限が行われる。この現在の下におきまして、若し気の早い
組合でございましたら、今のうちにそれでは最後だとばかりに
停電をぶん流してしまえ、或いは又
保安要員を全部
引揚げるということをやるであろうと思うのであります。無
責任な
組合なり、それから気の早い
組合だ
つたら、それをやるだろうと思う。併しそれをやらないで、じつとこらえているところに、
組合の健全さと良識さというものをお認めになると思います。私は別に
組合員でもございませんけれども、一般的にはやはりそうなんじやないだろうか。
労働者にと
つてストライキというものがどれほどつらいものであるか、これは私たちも十分わかります。で、一日五百数十円というような基準
賃金をもら
つておりますが、その五百何十円、六百円足らずの
賃金を失うということは、これは非常につらい、これは当然でございます。又自分の
職場に対する愛着心も非常に強い、これも当然でございます。それに対しまして、このような
法律ができまして、そして、その結果、雇主のほうでロツク・アウトをしたり、そして又
ストライキをやる場合に切崩しをや
つたり、或いは又この
保安要員の報酬を払わないと言出したりすると、
労働者というものが、自分の敵は何だということを、やつぱりその場合におきまして身近において見るようにな
つて来るのではないか。言い換えれば
保安要員という名目である
ストライキ破りを入坑せしめる、それをピケツトを張
つてとめるということになりますと、これは
スト規制法第三条違反ということで、警察が出てピケット隊員を殴り倒すということになりますと、結局、最後には、
炭鉱労働者と、それから警察官とのぶち合いというものにならざるを得なくな
つて来るという虞れを私としては感じるわけです。併しそれによりまして、折角穏当に又穏健に進んでいたところの
ストライキが、
争議が、最後に血を見ないと納まらないという
段階にな
つて来る慣れを感じるのでございます。現にアメリカの
労働法というものを
日本でよく参考にすると申されるのでありますが、アメリカの
労働法というものは
余り参考にすべきものではございません。これは非常に乱暴な
ストライキが前提にな
つております。
ストライキ破りの
会社なんかございまして、そうして雇主側の要求によりまして
スト破りを供給する、或いは
組合の幹部の後ろから自動車を走らして行
つてぶつつけるというようなことをやる
会社なんかあ
つたのでございまして、
ストライキというと、殴り合い、鉄砲の打ち合いというものが起るわけでございます。又、交通
ストライキのような場合におきましては、街の真中に釘をまくというようなことをよくやるのであります。釘をまきますと自動車のタイヤに触れますと、ポツンと上に上りましてみんな破れてしまう。
従つて釘をまいた
ストライキなんかよくやります。それからホテルのボーイの
ストライキなんかの場合におきましても、これはみんな何か特殊な塩酸か何かを材料にした薬がございまして、そいつを持
つて行
つて、そうして廊下のあつちこつちに唾をつけて靴でなすりつける、そうしますと嫌な臭いがいつまでも消えないという薬がございます。こういうものを、あつちこつちになすりつけたということがあるわけです。殊に一九〇〇年前後のこの前のつまりルースヴエルトのニユー・デイール以前の
ストライキは、機関銃まで持ち出したような
ストライキが多いわけでございまして、アメリカの
労働法というものは正直に申しますと
余り学ぶべきものかどうかは疑問なんでございます。私は
本法に類似するものが外国に果してあるかどうか存じませんが、ひよつとしたらアメリカの州なんかにあるのじやないかと思いますが、若しあ
つたとしても、こういうふうなものは
余り紊りに学ぶべきものではない。それよりも、如何にして
国家権力が
ストライキから自由で、そうして
労働者と雇主の、本来夫婦喧嘩であるべきものが、だんだんだんだん成長して、どうしても
組合と、
労働者と警察官或いは
労働者と
国家というものの激烈な衝突というものに発展しないことを、私としては祈るわけでございます。そのほうがむしろ
経営者の
立場から申しましても、非常に常識的な、そうして又現在
炭労なんかがと
つている
態度にいたしましても、
態度に応える十分な道ではないかと信じるわけでございます。要するに、私の
意見というものは、只今小笠原さんのおつしや
つたことを
中心にいたしまして、やはりしみじみこの前の
ストライキというものが
会社側の
責任にな
つているのじやないか、
会社側がより大きな
役割を演じてお
つた、そうして一般の俗論を煽りまして、
組合を圧倒しようと、もつと進めば
組合を分裂させようというような政策が、この場合強く働いているのじやないかという感じが強くするのであります。その点を
中心にいたしまして、あの事実は本
法案の
基礎にならないということを信ずる旨を申上げたいのであります。