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政府委員(
安田巖君) 私は二十七日の朝飛行機で福岡へ参りまして、それから一昨日一日の午後こちらへ帰つて参つたわけでございます。大体現在までの
被害の状況を申上げますと、死者が福岡が二百八、佐賀が四十九、長崎が二十一、熊本が三百八、大分が四十六、山口が二十四、鹿児島、広島、岡山あたりは少うございますから、これは省略させて頂きます。それから行方不明が福岡二百二十五、佐賀が十二、熊本が二百六、大分が二十。それから住家の
被害を申上げますと、全壊福岡七百三十九、佐賀二百二十一、長崎百四十六、熊本七百九十八、大分三百三十一、山口八十三。それから流失が福岡千百五十七、佐賀六十八、長崎十二、熊本六百二十七、大分六百五十三、山口十四でございます。それから半壊が福岡二千二百八十八、佐賀三百三十、長崎三百十四、熊本二千八百二十二、大分千八十、山口三百三十五。それから
被害の拡がりを見るために、床上浸水をちよつと申上げますと、福岡六万四千七百五十二でございます。それから佐賀が二万四千三百二、長崎六千三百二、熊本三千八百十三、大分六千百五十、山口七千百二十三、その他いろいろ数字がございますけれ
ども、大体そんなところでございます。
これで見ますと、福岡、それから熊本、佐賀はどちらとも言えない程度の
被害でございますけれ
どもその次、それから大分というような順序じやないかと思います。この二十七日の午後着きましたときは、まだ
被害の直接の原因になりました雨が二十五、六日降つたわけでありますけれ
ども、二十七日も台風警報が出ておりまして、盛んに降つてお
つたのであります。その日は勿論どこにも連絡ができないような状況で、福岡県の知事も民生部長も、久留米市に見舞、視察かたがた参りまして、二十七日はどうしても帰つて来れない。二十八日になりまして漸く帰つて、二日二晩久留米市に罐詰にされたという状況であります。なお知事が県庁まで帰るということは、非常に重要な問題でございますので、あらゆる手段を講じたらしいのでありますが、船も考えましたし、或いは米軍にヘリコプターを頼むとか、水上機を頼むとか、いろいろなことをやりましたけれ
ども、雨が降るし、連絡がとれない、そういうような状況であつたわけであります。それからその晩一晩やはり警報
通り降りまして、それから二十七、八日もやはり台風警報が出まして、これも百ミリ乃至百五十ミリの台風警報が出まして、やはり二十八日も降りまして、漸く三十日の日にお天道さまが見えたというような状況でございます。それで二十七日はいろいろ各県に連絡をとりましたけれ
ども、無電で
被害状況なり、或いは各県でとつた
措置なり、或いは我々に対する要望事項なんかをとりましたけれ
ども、その晩のうちに返事が来なくて、二十八日、二十九日に漸く返事が来たというような状況でございます。それから二十八日の朝になりまして、建設大臣の一行にお供をいたしまして、飛行機で
被害地を見ようじやないかということでございましたのですが、そういうお天気で飛行機も出ないということでございましたので、トラックに乗りまして、道路が浸水いたしておりましたけれ
ども、佐賀まで無理に参
つたのであります。佐賀でその晩に一泊して、二十九日佐賀県の附近を見て、晩に遅く福岡へ帰つて参りましたけれ
ども、私が
通りました道路の橋が、その晩の雨で又落ちてしまつた、帰りに橋が復旧されるまで待たなければならんというような状況でございましたので、向うに三日か四日滞在いたしましたけれ
ども、割に
被害の一番ひどいところに行けなかつたというような実情であつたわけでございます。で、私
どもの大体応急救助の面から見ますというと、先ず行きました当時は、人命救助というのが一番問題に
なつたような
段階でございまして、久留米市とそういうふうに連絡はとれないというようなこともありまするし、或いは筑後川の堤防に、あそこに何百人、ここに何百人というように上つていて救いを求めている、或いは村が全部水に流されまして、そうして屋根の上で救いを求めているのをどうして助けるかということで家は騒いでいたのであります。一番困りましたのは、何と言つても船が不足だということでございまして、舟艇が足りないということでございました。いろいろ筏を組んだり、或いは漁船等を頼んでおりましたけれ
ども、思うに任せなかつた。そういうときにやはり米軍の援助でありますとか、或いは保安隊の活動というようなものが非常に力付けられたようでございまして、殊に保安隊が現地へ出て参りますということは、民心の安定上も、又実際の活動ぶりから見ましても、非常に目ざましいものがあつたように見て来たわけであります。大体筑後川あたりは、この前大正十年の
水害のときには、まだ農家が、あの辺でございますから、船を皆持つてお
つたのだそうでございますけれ
ども、だんだんその後筑後川は堤防か改修されますし、
災害もなかつたものでありますから、昔と比べてそういうような準備も非常に少なかつたというようなことも、一つの、人が死んだりいたしました原因に
なつたかと思うのであります。
それから
食品の給与、炊出しでございますが、これも炊出しましたものをどうして運ぶかということが実は問題なんで、いろいろ船を動員いたしまして連絡いたしますけれ
ども、それが当初思うにまかせなかつた。炊出しなんかも思うにように向うに届かなかつたというような状況でございまして、そういう状況でございましたので、普通場合には握り飯なんかをやるのでございますけれ
ども、乾パンを大分たくさん買いまして、そうして運んでおつたような状況でございます。
それから佐賀県なんかへ行きますというと握り飯なんかよりは全市のパン屋を動員いたしまして、パンを作らせましてそれをまあ袋につめてどんどん送つておるというような状況でございますが、殊に飲料水が足りなくなります。そういたしますと炊事なんかも勿論できませんし、それから乾パンでありますとなかなか食べにくいからパンのほうがよいという要求がございまして、福岡ではなかなかパンができないというので乾パンを配つておりましたけれ
ども、佐賀ではパンを作つております。小麦粉はありますけれ
ども、イースト菌がないというようなわけで大分騒いでおつたような状況でございます。そういうわけで炊出し等につきましても当初のうちは必ずしも円滑ではなかつたということが言えると思うのであります。なお私
どもの仕事の
関係から申しますというと、大体炊出しというものは一日が一人三十四円くらいに
なつておるのであります。乾パンやパンを作りますというと、この
基準ではとても参りません。乾パンが今五十九円くらい農林省の放出のものでもいたしますので、そういう点で大蔵省とよく話をいたしておるところでございます。それから飲料水でございますが、これも非常に困りまして、忽ちぶつかつた困難な問題でございましたが、濾水機とか、濾水車、給水車というものがないのでございます。これもやはり米軍から濾水機を借りるとか、保安隊の濾水車が出動するとかいうようなことでいろいろ急場を凌いで参りました。なお又
東京のほうにも申しまして、
東京、神奈川から現在濾水機を送つておりますけれ
ども、そういうような非常に困難な実情でございます。それから米軍が浄水錠、これはどの程度のものか私知りませんけれ
ども、錠剤に
なつたものを入れますと水がきれいになるそうでありますが、そういう浄水錠あたりも米軍が無償でくれておつたようでございます。そのほか消防車を使うとか或いは酒樽に水をつめてトラックで送るとか或いは一升瓶や湯タンポなりを買つてそれにつめて送るというような状況でございます。それが少し落付きますと、やかましくいわれましたのが実は被服、寝具でございます、一番毛布を早く寄こせということがございました。これは各
府県に若干の手持がございまして、福岡あたりも五千枚ばかり持つていたようでございますけれ
ども、それではとても足りません。大阪に地元の商人を通じて注文をいたしたわけでありますが、これがなかなか着かないというような状況で、将来やはりこういう問題は私
ども考えなければいかんと思つております。この点につきましても米軍あたりから相当の放出物資もございました。丁度佐賀へ参りましたけれ
ども、そのときにアメリカ軍が毛布を一万枚出してくれるという話を聞いてお
つたのであります。まさか一万枚もすぐ届けてくれるとは思わなか
つたのでありますが、私がもう橋がかかるのを待つておりますうちに、翌日もう大きなトレーラー・バスに毛布をたくさん積んで参りましたし、それから携帯口糧、レーシヨンでございますが、あれを一万食ばかりすぐ持つて参りました。それからシャツとズボンというようなものは五千人分ばかり持つて参
つたのであります。その他薬品
関係、赤チンだとかそれから繃帯だとか、そういうようなものも大分各県がもらつております。私のほうでとりました
措置といたしましては、現在アメリカの三つの宗教団体が日本の
施設に衣料を送つて来ておるのであります。その衣料が一万三千四百人分を
被害地に割当てることに
なつております。それをすぐに
災害用に切換えて使うということをしております。福岡とそれから長崎でございましたか、これだけはこちらからまだ送つておりませんでしたから、送る
措置をとつております。それからララ物資が残つておりましたので、それを九十七梱包、大体一包百人分、或いはそれ以上ございますから、約一万人分、それをすぐ送る手続をいたしたわけであります。
それから引揚用の毛布、作業衣袴が舞鶴の
援護局に若干ございますのと、それから
九州にありますところの検疫所に残つておりましたので、これを毛布が一万四千九百枚、作業衣袴が七千百枚、これを三十日の日に送る手続をいたしました。舞鶴のものは海上警備隊のほうの船を使いまして送る手続をいたしたわけでございます。
そのほか国立
病院や療養所あたりに余つたものがあつたならばそれを出すようにという手配もいたしたわけでございます。
私
ども向うへ参りましてすぐ手が打てるということはその程度のことでございまして、そういうことも非常に喜はれたわけでございます。
それから医療救助活動でございますが、これはまあ私は佐賀と福岡だけでございまして、他の
府県につきましては推測でございますけれ
ども、割に早く医療班を編成をいたしておりました。保健所を中心にいたしますとか、或いは日赤とか国立
病院、療養所、或いは県立
病院とか済生会の
病院とかいうようなものがそれぞれ二班ずつくらいを組んでいつでも出られるような態勢におつたわけであります。併し結局
災害直後でありますし、医療班が現地に行くことができない。それで福岡のごときも十班ばかり作つてお
つたのでありますけれ
ども、私が行きましたときは僅かに三班が出て、後はまだ待機しておるというような状況でありまして、勿論その後交通がだんだんと開けて参りましたらばそういうものはたくさん行つたことと思いますけれ
ども、そういう点でもやはり何か日赤あたりでも舟艇くらいを持つていませんと、いざというときの役に立たないというような問題がございます。
三十日の日に福岡の筑後川の下流のほうで、久留米のちよつと手前でございますけれ
ども、大橋村とか善導寺村というのに無理に入つて行
つたのであリますが、そこらで見ますと、まだ医原というものは必ずしも十分でないというような感じがいたしました。
被害の実情は、例えば佐賀へ行く途中で鳥栖の町を鉄道の線路が通つている陸橋の上から見ますと、下流のほうが一面ずつと湖のような状況であります。勿論そういう状況ですから、船でなければ行けない。船でも出してもらえばいいのでありますけれ
ども、食糧を運んだりするのにとても我々までそんなところをのこのこ見に行くわけに行かないというような状況であります。それから善導寺村とか或いは大橋村まで行つて参りましたけれ
ども、もう殆んど軒先以上水が入つております。田圃なんかも上から流れた泥でもつて畠のように
なつております。それから三十日の日に初めて天気になりましたものですから、いろいろ荷物を引出して、それをどぶのような色の川で洗いまして、それを道路とか屋根の上にたくさん乾しております。ふとんなんかも丸洗いで、泥だらけ、家の中に泥がこんなに積つておる。街を歩きますときにゴム靴で歩きますと、道路の上に泥がたまつているために入つて行つて足が抜けないような状況の所がたくさんあります。車なんか勿論
通りません。善導寺村に行きましたが、二階に上つておりまして、農家なんかでは窓なんか余りないような二階で、そこにいろいろの収穫いたしましたものを入れておるのでありますけれ
ども、そこまで逃げておるうちにだんだん水が上つて来ておる。そうして二階にも浸水してだんだん危くなるというので、上の藁屋根を破つて逃げた跡があります。そこの親父さんにいろいろ話を聞いて見ましたが、非常にすごいものであつた。筑後川が決壊した箇所がその村で三百メートルくらい大きな品をあけておりますが、そこから一遍に入つて来た。屋根の上に上つたりして、或いは酒屋の
倉庫の屋根などに十数人も避難して救いを求めておるという状況で、私が丁度そこの町長さんと一緒に参つたんでありますが、町長さんもあれだけ助けてくれと言つて叫んだのに、俺のほうに先に来ないで、向うに先に行つたというような怨み言を言われておつた、さだめしひどか
つたのだろうと思います。牛なんかもごろごろ死んでおつたような状況でございました。それで食糧なんかも殆どそういうわけで浸水いたしまして、麦なんかも穫り入れたりしたものが水を冠つたわけでありますが、それを道端にたくさん並べて乾しておる、それが醗酵しまして腐つて妙な臭いがするのです。農林省の人が行きますと、そんなものは使えません、飼料にもならない、飼料にすると牛が下痢をするしだめだそうであります。それでもやはり自分たちが丹念に作つたものでありますから、一生懸命にかき廻わしたりして乾しております。それから袋の中に入れた豆類なんかも袋を通して芽が出ておるというような状況でございます。
それから防疫対策てございますか、これは私
どもが行きましたときにはまだそれほど問題になりませんでしたけれ
ども、恐らく今後一番大きな問題になると思いますが、私が帰りますときには福岡県で四十七名くらいの赤痢患者が出ておりました。昨日の正午現在の調べによりますと、福岡県が大体赤痢が九十九でございます。佐賀県が十九、長崎県七、熊本県が四十三、大分県が一、山口県七十二という数字が出ております。勿論これは連絡が不十分のために必ずしも正確な数字とは考えられません、恐らく落ちておる数字もあると思いますけれ
ども、まあ現在のところでは、平素の発生件数に比べて特別に多いということはまだ考えられません。併しその中で避難所あたりから
収容されておるものの中から赤痢が発生するということがございますと、将来やはり集団発生の危険がありますので、この点については非常に努力をしなければならんと思つております。この防疫用の資材、薬品等でございますが、最初参りましたときには、クロールカルキとかクレゾール石鹸液、生石灰、殊にクロールカルキで浸水地の井戸替をするとか、井戸の消毒をする必要がある、水源地なんか汚染された場合には消毒する必要がある。福岡あたりでも百トン以上足りないというようなことで、本省に私早速手配いたしたのでございます。佐賀でも十二トン以上足りないというようなことで、ところがだんだんその後努力をいたしまして、福岡県に実はメーカーがございまして、小倉に大阪曹達というのが確かある、大牟田市に三井化学なんかがございまして、そういうところが一生懸命生産をするというので、参りました三十日の夜は、すでに一日の朝、小倉からクロールカルキ二十トンが福岡に送られるというような状況でございます。勿論この現地でも薬品や消毒資材が足りないということを訴えておりますが、そういうわけでございますので、そういう末端に早く交通が回復いたしまして、配る必要がある、末端にはないのでありますけれ
ども、併し大体そういつた薬品なり或いは防疫資材が地元で補給をし得る見込みが立つたようでございます。なおこちらから薬務局長が参つておりますので、薬務局長がいろいろそういう資材や、殊に薬品につきましての一覧表を持つて参りまして、電報一本ですぐにそういうものを使いましたならば補給ができる、或いはクロロマイセチンなんかでもすぐに送れるような手配をいたしております。なおクロロマイセチンも三万人分ばかり三十日に飛行機で持つて参りましたので、現在のところでは、そういう面の不自由は恐らくなかろうという見通しだと存じます。ただ末端までそういうものが早く届きまして、そうして防疫対策がうまくやれるようになることを願つておる次第でございます。
そのほか生業
資金とか、仮設住宅というようなものについても相当要望がございましたが、これらは従来
災害救助法で考えておりました
基準よりは、できるだけ
基準をよくいたしますように、現在折衝中でございまして、大体見通しがつきましたので、もう一両日中に
府県に対しまして通知をいたしまして、
府県が出しました
災害救助費につきまして、私
どものほうから概算払いができるようにいたしたいと思つております。
なお畳の要望がございまして、一遍畳が水につかるとどうにもなりません、畳表を何とか心配してくれないかということを私
どもにも頼まれたような次第でございます。
なおこの
国民健康保険でございますが、やはり浸水地に相当国民保険がございます。こういうものの
直営診療所の復旧も必要でございましようし、なお又今後活動しなければならん
診療所が、運営
資金がないためにうまく行かないというようなことがございます。そういうような医療費の支払いにつきましては、
保険局のほうで
災害地におけるところの貸出しをするような
措置をとつておるようでございます。
なおこの国民救援運動というのを厚生省が主唱で起しまして、新聞ですでに御
承知の
通りでございますけれ
ども、そういう運動を起して、義捐金なり或いは救援物資を集めまして、その窓口と申しますか、世話役を日赤のほうにお願いをいたしております。これもだんだんと効果が上つて来ると思つております。
簡単でございますが、以上で。