○野村
公述人 野村です。
有泉先生からは、主として
争議権の側から問題を御説明にな
つたのですが、私はひとつ
公共の
福祉という側からこの問題を少し
考えてみたいと思います。
それは、
公共の
福祉という言葉で
争議権の
制約ができるんだということが、
一般的にいわれておりますけれども、それでは
公共の
福祉といつのは、一体どういうものだろうかということについては、案外にみんな掘り下げられておらないようにも感ずるからであります。本来、
公共の
福祉という言葉が、そんなにこまかく
規定できるかといつと、事柄の性質上、これはできないと思いますが、まず次のようなことは言えるのじやないかというふうに
考える。一つは、
争議権は
公共の
福祉で
制限できるかどうかというふうな問いを厳密に出さないで、一体
争議というものはどんなものかということを
考えてみますと、
争議はともかくも生産
一般の停滞を来すというのが普通の
争議の場合の結果であります。生産の停滞を来すということは、今の場合ならば、
企業が独占的に非常に大きくな
つている
関係上、どうしてもこれは
国民の
一般的な需給
関係に影響を及ぼすだろうということは
考えられるわけです。しかも、どこの国でも、この
争議権の
保障ということが
憲法や
法律制度の上に現われたのは、そういう経済的な組織が成熟をして来た
状態のもとで出されているわけですから、だから、事柄の性質としては、当然に
国民一般の需給
関係に影響を及ぼすような
争議でも
争議権は
保障するんだという、こういう
考え方に立
つているのじやないだろうか、こう
考えることができるわけであります。そうだとしてみれば、かりに
公共の
福祉という言葉によ
つて争議権の
制約ができるとしても、その
公共の
福祉というのは、少くとも
国民一般の需給
関係に影響があるという程度の問題ではないということだけは、はつきりしていはしないかというふうに
考えるわけです。
第二の点を
考えてみたいと思います。それは
企業の性質によりましては、御承知のように、公益
企業のような、特に大きな公衆の便益というものと正面からぶつかるような
争議というものが
考えられるわけでありますが、一体こういう公益
企業の
争議というものに対して、それじや
公共の
福祉というような名目、あるいは公益というような言葉によ
つて、ただちに
争議権の剥奪ができるだろうかというふうに問題を出してみますと、この点につきましても、大体先ほどの
理由と同じように、公益
企業というものが今日
一般的にあるということは、当然に予測せられる
状態であるわけであります。そういう予測せられる
状態のもとに、
憲法がなおかつ
法律によりといつような
制限を置かずして、団体行動権の
保障をするというようなふうにしている点を
考えますと、第一、
公益事業だからとい
つて、ただちに
公共の便益というようなことを
理由にして
争議権の禁止はできないものだというのが、正当じやないかというふうに
考えられるのです。この点は、日本のように
憲法上団体行動権の
保障をしていない国、たとえばアメリカを例にとりましても、アメリカあたりでも、この
公共の
福祉という言葉は非常に頻繁に使います。使いますけれども、
公共の
福祉をただちに公衆の便益という言葉に直して、それだけでも
つて争議権の禁止ができるというような
考え方はとらずに、
基本的人権の
制約をするところの
公共の
福祉という場合には、必ずその
基本的人権を守るという
立場からい
つて、他の公衆なり人なりに対して現実的な、かつ明白な危害というものが降りかか
つているときだけにこれをとめることができるんだ、こういうような
考え方を出しているわけであります。そういうような
考え方からしましても、日本などでは、公衆の便益というようなことがただちに
公共の
福祉としての
争議権の禁圧の
理由になり得るかというと、これはやはりまだ
理由が弱いというふうに
考えなければいけないのじやなかろうか、これが第二の点であります。
そこで、もう一つこれにつなが
つて問題になる点があると思うのですが、それでは、この公衆の便益に対して、全然顧慮しないでいいだろうかという問題があるわけです。これに対しては、いろいろに顧慮すべきことが
考えられるわけなんです。しかしながら、基本的な
考え方としては、それを
争議権の
制約という方向へ持
つて行くのではなくてそうじやなくて、組合自体の運動の自制ということにまつという
考え方が正しいのじやないかと思うのです。それはなぜかといいますと、今日の社会では、大
部分の人が働く経験を持
つた人です。つまり多かれ少かれ人に使われるというような
状態にあるわけです。そこで、使われる人というものは、
自分たちの
労働条件の交渉ということについて、気に入らなければ仕事をしない、したくないという気持については、共通の感情があるわけです。この点を
考えてみますと、たとえば大正年代なんかにおいては、公益
企業、たとえば都電なんかが
ストライキをやるというときには、すくに
ストライキ破りが出動します。たとえば学生が
行つて電車を動かすというようなことをやる。そうすると、これに対して新聞も拍手をするというような
状態にあるわけです。まだ日本の
労働者が昭和七年でわずかに四十万足らずしか組織されていないというように、この組織的な
労働運動の経験が非常に浅いときには、割合に公衆というものは
争議に対してはがまんをしないものです。しかしながら、このがまんをするという気持というものは漸次に成長して来ておる。ですから、今日割合に公益
企業なんかの場合についてでも、
争議が起
つても、働いておる人
たちは、これは困
つたとは
考えますけれども、まあしかたがないからというので、ある程度認容するといいますか、がまんする気持というものが相当に成長しておるのじやないか。つまり、生存権を守るために交渉をや
つて、そうして交渉がいれられないから
争議をやる。そこでそういう気持に同感を持
つてある程度まで認容をするというのが、社会的な常識じやないだろうか、こういうふうに
考えられるのだと思うのであります。ところで、それならこういうようなものに全然
制約がないのか、つまりどこまでもがまんしなればならないのかというような問題が、もちろんあるわけでありますけれども、全体の立法政策の問題としましては、そういうことを
法律によ
つて禁圧して
行つたならば、なかなか自制と認容という、公衆の認容ということ組合の自制ということとの
限界点というものが、自治的にはなかなか
発達して来ないものです。全般的に組合運動というものを助長して行きますと、その中におのずから公衆のがまんをする
限界というものが生れて来るのではないだろうか。そこで立法政策の問題として急いでこういうことを禁圧するよりは、運動を助長し、そしてその運動の中でも
つて自制心が組合にできるようにさせるというためには一定の時期を待つ必要があるのではなかろうか、こういうふうに
考えられて来るのじやないかと思うのであります。
ただその場合に、一つの問題がありますのは、組合がただ組合員大衆というものの中からの大衆的な討議とか、組合内部の民主化とかというものが進んでいないで、ただ決定だからというだけでも
つて争議が行われるという
状態では、なかなかその問題の理想的展開はないわけですが、今日ある程度まで組合は
争議については、これは
法律の
規定もありますように、必ず多数決でも
つて参加するかしないかを決定してからでなければ、
争議に入れないという
制約が他面にあるのですから、そういうことで、ある程度の
保障ができるのではないだろうかというふうに感ずるわけであります。
次にもう一つ問題になりますのは、これは
公共の
福祉という言葉で言うかどうかは別問題としまして、
争議権というようなものも、
基本的人権には違いないけれども、これはたとえば言論思想の自由というようなものなどとは、幾分違
つておるところの一つの手段的な
権利なんだ。つまり生存目的を達するための一種の手段として
法律が
保障しておるものだ。手段的な
権利だから、目的それ自体ではないのだから、従
つて目的が達せられるような
方法さえあれば、手段は
制約してもさしつかえないではないか、こういうような
議論がなり立つではないかと思う。
議論としては、もちろんこれは論理的に正しいと私は思うのであります。ところで、
争議権あるいは団体行動権、団結権というような
権利が、それでは今い
つたような
意味で、ほかにかわりのあるような一つの手段にしかすぎないものであ
つたならば、おそらくこれは
憲法の中までに出て来なか
つたに違いない。
憲法の中にこういうことが一つの基本的な
権利として成長して来たというのは、この長い
労働運動の
過程でも
つて、やはり
労働者にこういうような
権利を
保障するのでなくては、どうしても
労働条件の公平な取引あるいは
労働者の生存目的を達するための主張の完徹ということが非常に困難であるという
事情を
考えたから、こういうものが
基本的権利として
憲法の中に現われるに至
つたものではないかというふうに私は
考えるわけであります。
ただその場合に日本でも幾つかの例証があるわけですが、たとえば
国家公務員や地方公務員について
争議権がないとか、あるいは
公共企業体関係の
職員などについて、公労法上
争議権がないとかいうような問題があります。しかしこの場合には、
政府が、たとえば人事院の勧告をも
つてある程度普通の給与ベースを維持させるように努力をするというような制度として人事院勧告の制度を設けたということをも
つて答弁にしておられたようでありますし、それから公労法の場合でも、調停あるいは仲裁制度というものを完全に実施して行くということによ
つて、
基本権であるところの
争議権を
制約しても、決してこれは目的たるところの
労働者の生存目的というものをそこなうものではないのだ、こういうような説明で今
言つたような
制約が加えられたように思うのであります。ところが、その実施の成績については、私
たち見ていて、かなり疑いがあるわけであります。これは私この間ちよつと新聞を読んでおりましたところが、たしか労働大臣の御答弁では、九回今まで裁定をや
つたうち、五回は完全即時に実施をし、それから二回については一部実施をし、
あとの二回については遅れて実施をしたというふうに言われてお
つたように思うのですが、私その後これを調べてみたいと思
つておりますが、まだ完全には調べておりません。ただ国鉄の場合で私が記憶しております場合が三回ばかりあるわけであります。第一回目の裁定は、ともかくもあの有名な訴訟事件に
なつたように、四十五億の裁定が結局十五億という形におちついてしま
つたというような形で、裁定は行われなか
つたとい
つてさしつかえないかと思います。それから二回目の裁定、あれは仲裁裁定の第三号であ
つたかと記憶するのですが、裁定が二月か三月ごろに下
つて、それから十二月ごろ実施されたように私は記憶しております。その間にやはり実施をしないからということで、賜暇闘争というようなことをや
つたり、それからすわり込みをや
つたりしていたというような実例を見るわけで、つまり裁定がうまく行かないという形になりますと、何かかえた形で、やはり実力行使的な形が生れて来るということになるのでありまして、裁定というものは、行われなければ何にもならないということになるのではなかろうかと思うのであります。第三回目の問題につきましては、大体昨年のことで、これは実施に
なつたようですが、確かに時期を相当に遅らせてお
つた。そのために、また何か額のことについて、昨年の暮れにあのすわり込みやなんかが行われたり、賜暇闘争なんかが行われたりして、その結果として三人ばかり国鉄の組合の幹部の人が解雇されたのを私記憶しておりますが、この点あまり正確ではありません。少し話が横にそれたようでありますが、私の記憶ではそういうような気がするわけであります。ところで人事院勧告制度や仲裁裁定制度というものは、今
言つたように、実施がなかなか困難でありますし、実施されることについての
保障というものが、必ずしもあるということは言い得ないわけであります。従
つてこういうような代替制度をも
つて争議権にかえるというのには、よほど何か
争議というものに問題があるということにな
つて初めて起り得る問題ではないだろうかというふうに
考えます。
それから次の点で、それでは
争議権というものに対しては、ま
つたく
制約なしに、か
つてにこれを
行つて、どんなことをや
つてもいいのかというようなことを私は申し上げているわけではありません。ここで
争議権の禁止をすべき一つの大きな
原則があると私は思う。これは立法的にするかどうかということは、一応問題でありますけれども、それはつまり
争議権の行使によ
つて人の生命を直接に奪うとか、健康にはなはだしい
損害を与えるようなことが、目前の、現実の危険として出るというような
争議は禁止されてもしかるべきではないだろうかというふうに私は
考えるわけであります。ところが、実際
保安要員の
引揚げというような場合でも、別に
鉱山の中にだれかがおりているのに、たとえばポンプ方が上
つてしまうとか、それから扇風機をまわす役がとめてしまうというようなことが起
つていいとは私は思いませんし、また組合の人がそんなことを起すとは私は想像しておりません。しかしこういうことがありますから、労調法の三十六条で、人命の
保安のために必要な
施設の停廃をしてはならないということを定めているのであります。もつとも、この三十六条の
解釈論については、これを経営者の財産の
施設にまで拡大しようという
考え方が一時出たことはあります。しかし
一般学会やなんかでは、全然その点は問題でなか
つたと思いますし、
行政解釈としましては、労調法の三十六条は、大体人命の保全のための
規定だということが、今日では定説にな
つているのではなかろうかと思う。そうして見ますと、今
言つたような場合を除けば、
原則として
争議権を
制約すべきものはないのだ。
それでは、
公共の
福祉というものは
基本的人権と全然何らのかかわりがないかというと、そうは言い切れないと思います。今
言つたように、
公共の
福祉というものは、漠然たる言葉として使うのでなくて、具体的にその場合の問題を分析して
行つて、押し詰めて、押し詰めて
行つたときに、やはりわれわれの合理的な
考え方でどうしても納得のできないという場合にぶつか
つたときに、そこに
公共の
福祉というものがどうやら
考えられるときがあるのではないだろうか。そこで、この
公共の
福祉というものは、決して立法によ
つて一般的にこれを適用して定めるべきではなくして、個別的な問題の判定にあた
つて用いられる一つの観念になるのではないだろうかというふうに私は
考える。ですから、個々の
争議行為の合法性、
違法性をきめる場合に、こういう
考え方がある程度今
言つたように押し詰められて来て問題にな
つて来るというのであれば、私は当然これは
考えることができると思いますけれども、全般的に
法律的な
規定の中で、
公共の
福祉を
理由に
争議権を全般的に禁圧してしまう、そういうような理論はとうてい
考えられないというふうに思うのであります。もしそういう
考え方、私の
考えたのと反対のような
考え方が正しいというならば、やはり
規定の上でも、
憲法二十九条のように、何らか
公共の
福祉のために
法律をも
つてこの
争議権、団体行動権等は
制約できるのだという
規定を置かなければならなか
つたはずであります。それを置いていないというこの
法律の
規定から
考えても、やはり私が今
考えたような
考え方が適当でないかと思うのであります。
これは、よく
一般に言われることでありますけれども、たとえば民法なんかでも、公序良俗というような言葉があります。その他信義則というような言葉も民法の一条にあります。この信義則とか公序良俗とかいう言葉は、よく世界の学者も言
つているわけですが、白地
規定だとか、
一般的条項だとか呼んでおります。この
一般的条項というものを、何らその条項の
内容についてのこまかい分析検討なしに使うということは、こういう
一般的条項の軟化現象だというふうに批評しているわけです。この
一般的条項の軟化条項を
濫用するということが一つの
法律全体を軟化させて行くことは、やはり立憲制の建前から言うと非常に大きな問題ではなかろうか。立憲制の建前から言えば、なるべく
一般的条項というものはそういうふうな大きな形で使うべきものではなしに、個々の
行為の判定の基準として押し詰められて、初めて用いられる
理由があるのではなかろうかというふうに
考えるのであります。その
意味におきまして、
争議権と
公共の
福祉を
一般論として
制限する理論は、私は適当でないというふうに
考えるのであります。これらは
一般論にだけ即していたようでありますけれども、出されました問題が
一般論にな
つておりますので、その答えがそう
なつたかと思いますが、お許しを得たいと思います。
次に、第二の問題として
争議権の性格の問題があります。
有泉教授のお
考えと多少重複するかもしれませんが、私の
考え方としては、むしろ
争議権というものを、歴史的に
発達したものとして
考えて
行つたらどうかというふうに思うのであります。昔は、
争議行為というものは、
法律で全般的に、いつでも禁圧されていたものであります。
法律がない場合には、
行政権力あるいは
裁判所の司法というような方面の判例によ
つて、これを押えていたというようなことがあ
つたわけです。ところで、こういうような禁圧方針から転化する一番最初の転化の仕方は何であ
つたかというと、
争議権そのものが
労働条件の維持改善のための職場放棄である場合には、これは合法である。ただ
争議の仕方あるいは目的というものに一定の
制約があるという形で、
争議の目的と手段という側から、職場放棄という
考え方を狭めて行く
考え方が一時行われた場合があります。その次の段階では、
憲法などに
争議権の
保障のない
時代、たとえば英国でもそうでありましたが、アメリカなんかでも、判例の上などで次のような
考え方が出て来たわけです。
争議というのは何かというと、さつき
有泉教授の言われたように、これは
労働条件についての取引の交渉力なのです。気に入らない
労働条件では働かないということを
意味するのだ。そこでそういう
考え方になりますから、諸外国では、たとえばフランスなんかでもそうですが、
争議というものは、一種の
退職の自由という
考え方から類推して
争議権がある、
争議の自由があるという説明をするわけです。つまり、
争議というのは何かというと、いやな仕事をやらない、自由というか、一種の
退職の自由だ、こういうような形になる。そのときにおいては、
退職をするのだから、ちようど首切るときに予告をするように、
争議をやるときには予告をしろということが、一時諸外国などで行われた
時代があるわけです。しかし、ともかくもそういう理論によ
つて職場放棄ということだけは、悪いことじやない。職場放棄をやつちやいかぬということは、いやでも働けということで、結局徴用令や何かと同じ性質のものに
なつしまうのではないか、こういうことがアメリカなんかでも
考えられた
議論であります。そういう形でも
つて、団結による団体交渉力というものの力を保持して、相手方と
労働条件の取引をやらせるというところに、一番最初の
意味の
争議権というような
考え方が成立をしたというふうに
考えられるわけです。ところが、実際に
争議というものは、単に
退職をするだけの問題じやない、実は職場を去りたくないのです。続いて職場にいたいけれども、
労働条件が気に入らないから、これを改めてくれというのが、普通の形になるわけです。
そこで、
考え方としては、
争議行為というのは、単に
退職の自由だけの問題ではなく、仕事をやらないということにプラス何かがあるのだ。このプラス何かが何であるかということが一番問題にな
つたのは、ピケツトの
正当性ということで、職場をやめるのならば、ピケットを張る
理由がないわけです。やめるのではなくて、職場に残
つていたいから、そこで
ストライキ破りを防ぐということが問題になるわけです。ピケツト権ということの
正当性、ピケツト
行為の
正当性というものは、職場放棄の
正当性が
保障された次の段階としてやかましい問題になります。世界各国の大体の趨勢からいいますと、職場放棄の合法性ということは認める。しかし、ピケツト権についての行使の仕方ということについては
意見がわかれる。これが現在の段階ではないかというふうに
考えるわけであります。
ストライキ権というのは、今
言つたような形でできて来ておりますが、ところで現在出ています具体的な問題に入
つてみますと、
電源職場においての職場放棄とか、あるいは
保安要員の職場放棄とかという問題は、すべて職場放棄という一番最初の
ストライキ権の
考え方にぶつか
つて来ておる問題なのであります。そこでそういう一番初歩的な
ストライキ権というものを
制約する何か強い
理由が他面にあるかということになりますと、これはどうも
考えられないのじやないか。ことに今度の
規定の、たとえば
炭労の場合なんかの
争議について
考えてみますと、
鉱山における人に対する危害の防止のためというなら
考えられますが、これは労調法の三十六条において、この点についての問題があるわけであります。それから鉱物資源の滅失及び重大な損壊、
鉱山の重要
施設の荒廃というようなことは、大体
鉱山保安法で問題にしているわけであります。ところが
鉱山保安法で問題にしておるのは、鉱業権者に
保安の
義務を課しておるわけであります。ですから
保安義務は鉱業権者が持
つておるので、
労働者の正常な
雇用関係が継続しているときに、この経営者の
保安上の命令というものが、先ほど
有泉教授の読まれたような
鉱山保安規則に基いてなされたとき、
労働者がこれに従わないときに問題になり得るのではないか。正常なる
雇用関係がくずれて、つまり
労働力というものを一応組合の手に全部握
つたというような段階が現われたときに、なおかつ握
つた労働者に対して
使用者側がみずからその
保安の責任を負うのではなくして、組合側に対して
保安の命令を出すことができるだろうかということになりますと、これは非常に大きな疑いがあるといわなければならないと思う。よくこの場合に、そんなことを
言つたつて、山が破裂してしまうじやないか、あるいは山が水没してしまうじやないかということが言われるのでありますが、この
考え方は、現在水がどんどん入
つて来る、あるいは爆発するというような
過程になれば、
労働者が
保安を放棄するということをや
つたときには、それは個々の、個別的の問題として問題になり得るかもしれません。しかしこの
法律で
考えているのは、そういうことではなくして、
ストライキのときに一定の
施設を施して、つまり数日間は大丈夫という態勢で外へ出ても、
保安の
義務に反するというような形になるわけですから、その点やはり問題があるのではないだろうかと
考えられるわけであります。
さらに職場放棄は、今
言つたような場合のほかに、
あと何のために禁ぜられるかといいますと、鉱害の問題があります。鉱害の問題につきましては、今まで現実に鉱害の
第三者にいろいろな
争議行為の結果、迷惑を及ぼしたというような事態がありませんので、これは大して問題にならないかと思うのであります。実際起れば大きな問題になりますが、現実の問題としては、まだ起きていないというふうに
考えられます。
鉱山の重要な
施設の荒廃ということは、実は今
言つたように、この
規定によ
つて取上げられた一番中心的な目的になるように思う。もしこれが中心的な目的になるのだとしますと、これと第一条の
関係がどうなるかという問題が若干気になるわけであります。この第一条では、
石炭鉱業の特殊性とか、
国民経済及び
国民の日常生活に関する重要性ということと、今
言つたような問題とを結びつけているわけであります。ところが、この
規定の結果として見ますと、どんな小さな山でも、やはりこの
規定が適用になります。そうすると、これが別に
国民の日常生活に対して
関係がなくても、なおかつ、この
規定によ
つて問題を起し得ることになりますと、従来の緊急調整などの
考え方よりも、もう一歩さらにこれは踏み込んで、はつきりと経営者の財産を守る
義務というものが
労働者側についたということが、この
規定の
考え方になるのではないかと思う。そういう
考え方は、いまだか
つて労働法規の中では
一般的の問題としてはなか
つた。さつき言いました労調法の三十六条の場合でも、これは人命の安全というものにかかわらしめて、初めて
理由がある。それから緊急調整の場合でも、
国民経済に対して重要な
関係があるとい
つても、あの場合には全面的の禁止ではなくて、やはり一定の期間を置いて
争議行為を停止して、調停に委任する
争議権は全面的になくしたいという建前では貫かれていないわけであります。こういう点から
考えますと、今度の
法案では、経営者の財産を守るという点でも
つて、かなりはつきりした
考え方が出て来ているのではないかというふうに思うものであります。そういうふうな場合に、なおかつこれに対して反面から、たとえば
使用者側の
争議行為の
方法について何らかの
規制を加えるとか、
使用者側の財産管理に対して何らかの負担をかけるとかいう
考え方が、今度の
法律には少しも出ていない。従
つて、交渉力がなくな
つて、しかもなおかつそれにかわる何らかの措置が講ぜられないという
意味では、一つの労使の間のバランスというものが、この
法律によ
つて大きく欠けたということが言えるのではないかというふうに思うのであります。
〔
委員長退席、熊本
委員長代理着席〕
大体私の与えられました時間も参りましたので、こまかな点についての
議論もあるかと存じますが、
有泉教授が先ほど述べられましたので、省略して、私の公述をこれで終
つておきたいと思います。