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1953-07-06 第16回国会 衆議院 労働委員会公聴会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十八年七月六日(月曜日)     午後一時五十四分開議  出席委員    委員長 赤松  勇君    理事 倉石 忠雄君 理事 丹羽喬四郎君    理事 持永 義夫君 理事 高橋 禎一君    理事 山花 秀雄君 理事 矢尾喜三郎君    理事 山村新治郎君       荒舩清十郎君    池田  清君       田渕 光一君    山中 貞則君       吉武 惠市君    川崎 秀二君       町村 金五君    黒澤 幸一君       多賀谷真稔君    井堀 繁雄君       熊本 虎三君    中澤 茂一君       中原 健次君  出席国務大臣         労 働 大 臣 小坂善太郎君  出席公述人         東京大学教授  有泉  亨君         早稲田大学教授 野村 平爾君         応慶大学教授  藤林 敬三君  委員外出席者         専  門  員 浜口金一郎君     ————————————— ○本日の公聴会意見を聞いた事件  電気事業及び石炭鉱業における争議行為方法  の規制に関する法律案について     —————————————
  2. 赤松勇

    赤松委員長 これより労働委員会公聴会を開会いたします。  それでは、公述人皆さんに、委員長より委員会を代表いたしまして、一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、公私御多忙のところをわざわざ御出席いただきまして、まことに感謝にたえません。本日御意見を聴取いたします電気事業及び石炭鉱業における争議行為方法規制に関する法律案は、当労働委員会におきまして、目下慎重審議中でありますが、何分にも重要な法案でありますので、昨日の公聴会に引続いて、本日も公聴会を開会いたし、皆さんの隔意なき御意見を拝聴いたしたいのでございます。  なお審議の都合上、公述人各位におかれましては、大体二十分ぐらいで御意見をお述べになつていただきたいと存じます。  それでは有泉公述人より御意見をお述べ願います。
  3. 有泉亨

    有泉公述人 時間も短かいことですから、委員長からお尋ねになつ基本的人権公共福祉との関係正当性限界の問題、本法案と各事業会関係というそれぞれについて、時間の許す範囲で私見を述べてみたいと思います。  新しい憲法がつくられまして、憲法普及会というふうなものがあつて憲法精神を普及した当時、私たちは、この新しい憲法と古い憲法との違いは、基本的人権を非常に強く保護している点であるということを強調したわけですが、その強く保護しているのは、その内容においても非常にゆたかになりましたし、同時に、その保護の仕方も非常に強くなつた。たとえば、明治憲法では、法律規定によるにあらざればというので、法律規定すれば、どんな基本的人権もすぐ制限を受けてもしようがない。ところが、新憲法ではそういう制約がないというふうな点を強調したわけであります。  ところが、その後の憲法運営を見ますと、基本的人権も、公共福祉制約をされてもやむを得ないのだという説が、なかなか強く出て来ているようであります。主としてそれは行政解釈として出されている。行政府の方面から出ている。しかし、行政府の方からそういう考えが出がちだということは、これはわかるような気もするのです。というのは、大体基本的人権というのは、国家ないし政府からむやみに侵害されないという、そういう権利として認めようというわけであります。そういう権利がありますと、行政をやるのに非常にやつかいですから、そこで行政府立場としては、なるべくそういうものは公共福祉というような理由制限した方がいい。国民が羊のごとくおとなしければ、行政は非常にやりやすい。そういう観点から、公共福祉基本的人権制限されてもしようがないという説がだんだん出て来る。しかし、これは立法府ではそうお考えになつては困る。立法府は、行政も担当されましようが、同時に、それは国民一般の代表でもあるわけで、立法府では基本的人権を十分に保障するという立場で、ものを考えていただかなければ困るというふうに感ずるわけです。  そこで、結局スト規制法案がどういう性格を持つておるか、公共福祉とどういう関係にあるかということになりますと、これは何といつて憲法二十八条の解釈によつて行くわけです。悪法二十八条に限らず、基本的人権が悪条件に保障されているものは、一般公共福祉理由としては制限されないという、そういう考え方が一方に成り立つわけで、昨日ここで公述された石井教授なども、東大の憲法研究会でそういう態度をとつておられるわけです。私ももちろんそれと同じ考え方に立ちますが、ただ石井教授は、憲法二十八条になりますと、若干その原則を緩和いたしまして、これは公共の福住によつて制約されてもやむを得ないかもしれない、というふうな議論をされていたように記憶いたします。その理由としては、憲法二十五条以下の、いわゆる生存権的基本権というのは、国の力に応じて国が積極的に国民保護しようというものである、だから国に力がない場合には、これは後退してもやむを得ない、こういう考え方に立つているようです。しかし憲法二十八条について言いますと、国力というふうなものは、これには関係して来ない。勤労者が団結し、団体交渉し、団体行動する権利というのは、これは何も国のおかげをこうむらなくてもできることでありまして、憲法二十八条が無条件にこれを保障している以上は、そうむやみに侵害されるものであつてはならない、こういうふうに考えるのです。もつとも、二十九条を見ますと、財産権保障が、公共福祉制約されてもしようがないというふうに書いてありますから、それとのバランスからいつても、やはり労働者基本権公共福祉制約されてもしかたがないじやないかという考え方、これは石井教授なども書いておられるのですが、その考え方は必ずしも有力ではない。なぜかというと、今申しました二十九条の保障する財産権も、実は「神聖ニシテ侵スヘカラス」というふうに言われた時代もあつて、それが今日のように公共福祉では制約されてもしようがないというふうに、神聖の座から引下された。ですから、基本的権利保障というものも、やはりその時代時代精神、あるいはその憲法精神によつてきまつて行くことで、日本国憲法が制定された当時のわれわれの考え方からすれば、勤労者の基本的な権利は相当強く保障しなければならない、そういう考えのもとに、あの規定ができているというふうに理解されますので、ここでは勤労者基本権をむしろ神聖の座に押し上げてもいいというふうに解釈すべきじやないか、そう考えるわけですが、しかし少くともこれからあとで述べますように、ロツク・アウトする、労務を拒否するというふうな争議行為は、公共福祉制約されることはないだろうというふうに考えます。  しかしそう言いましても、労働者基本権も、まつたく無制約というわけではありません。憲法は他にもいろいろの基本的な権利保障しておりますから、それとの関係において他のものの本体を侵害するような争議行為ということになれば、これは制約を受けてもやむを得ない。たとえば使用者財産権を直接に侵害する、施設に直接手をかけてこわしてしまうというふうな争議行為は、これはやはり所有権というものに深く食い入るから、これはできない。これを争議権の場合で言いますと、争議権本体は、何といつてストライキだと思うのですが、これは労働力を売るのを売りどめをして、もつと高い値で買つてくれということなんですから、売りどめをするという権利が、争議権の基本的なものだと思います。その売りどめをするということからは、決して処罰されるようなことは出て来ない。これはあるいは労働法をまつまでもなく、すでにそうなんでして、たとえば古い時代には、忍使いは逃亡をしますと処罰されたのですが、今は労働者が途中でいやになつたといつて職場を去つても、処罰されるというふうなことはない。これは普通の雇用関係でも、ないわけです。のみならず、日本国憲法では二十八条で、普通のそういう市民としての権利よりもう少し進んだ、争議権というふうな一歩進んだ権利を認めている関係上、これは単にその工場から出て行くだけではなくて、その工場から自分たちが出たあと、ほかの者で自由に運転されないように働きかける、こういうことも認められている。これはストライキに伴うピケツトがそれでして、よく私は例にあげるのですが、店を並べている同じ店屋が、隣同士で隣の悪口を言いますと、これは営業権妨害にもなり侵害にもなるでしよう。しかし、そこでストライキをやつた労働者が、その店の前にプラカードを持つてつていても、これは営業妨害にならない。これは普通の市民法の原理を一歩進めたものだと思う。そういう労働法の体系が認められておるのですから、なおさらのことだと思います。とにかく基本的には、売りどめをするということは、これは争議権本体である。それは使用者からも妨害されないし、また政府からも妨害を受けることはない。労働運動は国からも自由であるし、使用者からも自由である。またアメリカ流にいえば、政党からも自由であるというふうなことが言われているのですが、とにかく立法によつてそれは奪われないものだというふうに考えるわけであります。その争議権に対抗する財産権の主体については、先ほどもちよつと申しましたが、争議権に対抗するものとしては、使用者自分所有しておるものを物質的に支配するという、そういう権利は一応認められておる。しかしそれは人的支配を含まない。所有を通じて人間的支配をしておる部分、これは財産権本体を越えたものである。所有権というものが、作用的にはかなり人を支配いたしますが、それはすでに財産権本体を越えたものであります。ですから、ある程度労働者自分たちの仲間に呼びかけて使用者営業妨害するようなことをしても、それはまだ所有者所有権本体に乗り込んだというわけではない、こういうふうに考えられるわけであります。  そこで、その争議権労働者基本権本体は、だれにも制約されるものではないというふうに考えるわけでありますが、しかし権利権利との相互関係は、必ずしも権利本体同士衝突し合うということでなくて、もう少し幅のあるものだと思いますから、そこでその本体を出た、もう少し作用的の部分で、労働権財産権というものは衝突をする。ここでは、相互土地を持つておる隣同士が、お互い土地の利用は協調してやらなければならない相隣関係というようなことがあると同じように、権利の間にも相隣関係というものが成り立つ。隣同士ですと、家を建てるために少し入れてくれ、すると入れてやらなければならない。そのかわりこつちで受けた損害はよこせ、こういうことが言える。一方ががまんさせられれば、それに対する代償というものが与えられるのだと思います。国家公務員公共企業体職員争議権を禁止されておるのが、はたして憲法に違反していないかどうかは問題があるとしても、かりに違憲でないとすれば、そこでは、とにかく争議権をとるかわりには、公正な労働条件で勤めるようにという配慮をしてやつておるわけです。そういう部面が出て来る。ですから、繰返しますと基本的などうしても奪えないという部分が、労働者基本権にあると思います。しかしそれから出たものでも、制限される場合には、何かかわりの補償をくれという部分も残つておる。そういう意味で、かなり強力に保護されておるものだと思います。しかし争議権といえども、やはりそれが独自でもるというわけではありませんから、従つて争議権濫用にわたれば、そこでは保護を受け得ない。権利濫用という法理——権利濫用というのは、発達過程では、自分の方に利益がないのに他人に損害を与えるだけの目的で何か行為をする、そういうのが発達過程では要件であつたのでありますが、今日では大体客観的に認められた権利を逸脱するというような場合には、そこで権利濫用が認められるというような法理発達しておるわけであります。従つて権利濫用というようなことによる争議権の適当な制約というものは、これはわれわれお互いに認めなければならない。そういうところにおるのではないかというふうに、考えるわけであります。  なお付言しますと、一部の論者は、かりに争議権を奪つても、労働者は、いやならばそこをやめればよいじやないか、退職の自由を持つておるじやないか。こういうふうに議論しますが、しかし労働者退職の自由があるということは、——そういう議論をすると、いつも末弘先生のお話を思い出すのでありますが、末弘先生は、永小作人が長年収入絶無のような状態が続くと、永小作人権利を放棄することができるという規定がある。これをある学者が、これは永小作人保護したのだ、こういうふうに説明したのに対して、これを攻撃しまして、それは死せよ、しからば病苦より解放されんというのに似ている、それとまつたく同じだという議論をしました。だから、労働者退職の自由があるからスト権制限してもいいじやないかというのは、まさに退職して死せよ、しからばスト権制限というような拘束から免れるであろうという議論と似ているのではないか、こう考えるのです。  まとまりませんでしたが、基本的人権公共福祉という第一の点はそのくらいにいたしまして、第二に正当性限界の問題であります。  これは、具体的に問題になつている電産の場合と炭労の場合とを区別して考えなければならぬと思います。先ほども述べましたように、単純なウオークアウト、これは違法とされることはない。これはもちろんまつたく例外がないわけではなくて、個人に非常に重大な具体的な義務が課せられている場合には、そしてその義務を課することが憲法上も正当と認められるような事情がある場合には、その義務に反すれば処罰されるということは起りましよう。しかし、原則として通常の労働者ウオークアウトをするということが違法になる、すなわち処罰されるというような関係はない。そこで電源ストなどの場合は、これはウオークアウトで、とにかくストライキが行われるわけです。しかし、かりに今電産の労働者が、電源関係の人が全員ウオークアウトをしたとしますと、これは非常にあぶないことが起るわけでして、全員ストライキをしたら、いくら会社が手をまわしても、その電源を受取るだけの人間というものは用意することができない。そこで電源ストがかりに行われたとすれば、これはスイツチを切つて出て行くのが常態だと思う。これはどこの工場でも、たとえば紡織の工場で機械をかけつぱなしで出て行くことは、最もいけないことなんでしようが、それが常態のわけです。この間問題になつたのは、職務命令が出てその職務命令で、まわしたまま渡せと言つたのに、それを切つて出て行つたというのが、問題にされているわけですが、しかし、この場合の職務命令というのは、一体どういう意味を持つのか、ストライキをやろうというときに、職務命令で働けと言つたら一体働かなければならないのか。働かなければ職務命令違反で解雇されるといつたら、お笑いになると思います。そうすると、争議をやろうとしたときの職務命令は、普通の場合の職務命令とは違つたものだ。そうだとすれば、ストライキをやるときの状態でものを渡す、こういうことは違法性も何もない、単純なウオークアウトだというように考えられるのではないか。大体職務命令などが出せるのは、電産の方で、ちびちびとストライキをやつておるから、そういうことになるわけでしようが、電産の争議違法性については、そう思います。途中のスイツチ・オフにしても、やはり同じ関係で、こういうことができるというふうに考えます。  ただ電産の場合は、第三者利益を非常に侵害するということが、この案のつくられた重大な理由になつておると思うのですが、争議というものは、多かれ少なかれ第三者に迷惑を及ぼすのです。第三者に迷惑を及ぼせば、争議制限されてもやむを得ないということになると、ほとんどどんな争議もできなくなる。第三者に迷惑を及ぼすから争議は強いのですが、同時にまた、第三者に迷惑を及ぼすから争議は弱いともいえるわけで、第三者からの批判というようなもので自然自制せざるを得ないというところが出て来る。自主的交渉によつて労使関係を安定するという行き方からすれば、第三者に迷惑を及ぼすということだけでこれを制限するというのは、少し早まり過ぎてはいないか。われわれもそういうストライキが行われるかもしれないという社会機構の中で生活をしておるのですから、まずまずがまんしなくてはならない。ただこう言つたとしても、権利濫用という法理は、ここへも出て来るわけで、その争議のやり方が、争議権濫用にわたるということが判定されるならば、これはあるいは違法といわれるかもしれません。しかし、権利濫用というのは、前もつて一律のわくをつくるのに適しない概念であつて、結局具体的に問題が起きたときに、裁判所が、それは権利濫用であるというふうに判断をする、そういう性質のものであると考えるのであります。  それから次に炭労争議の場合は、これは事情が違いまして、今問題になつておるのは、保安要員引揚げの問題であります。ところで、炭労で問題になつたのは、それが長く続いて、世の中に石炭が出まわらなくなつたということに問題があると思うのであります。だから、電産の場合とは、ねらいが若干違うわけであります。そこでやはり単純なウオークアウト違法制を持たないというふうに考えるのであります。それは、かりに保安要員であつても同様である。鉱山保安法、それから石炭鉱山保安規則ですか、何かその方に若干保安要員に対する制約規定がございますが、それはそちらの関係でいわれておるので、勤労者基本的人権ストライキ権の行使という点からこれを考えれば、それらの規定は、一応封ぜらるべき規定なわけであります。これは労働法学者の間で議論のないところだと思います。ただ、労働者のそういう売りどめの権利、同時に回転する資本の作用には、ある程度まで切り込めるというその原則も、資本実体所有物実体にまで切り込んで争議ができるかというと、これは日本の憲法を公平に読めば、そこまで行つておるかどうかは、かなり問題があるわけで、所有権実体にまで切り込むことは、そう簡単には許されないでしよう。そこで使用者が、保安要員の出て行つたあと自分鉱山保安をやりたい、こういつた場合には、これは一応ピースフル・パースウエイジヨンというようなことはやられても、さしつかえないと思いますが、それを妨害をするというふうな行為に出ると、これはやはり若干行き過ぎではないかと考える次第であります。  そこで三番目の、本法案と各事業会との関係ですが、この点は必ずしも私ども専門家でありませんので、あまり確信のあることは言えないのですが、この法案が成立した場合を考えますと、電産の場合には旧公共事業令の中の八十三条ないし八十五条というものが生かされておりまして、八十三条の方は機能障害を与えて電気を流れなくする、八十五条の方は供給を取扱わない、そういう場合に、正当の事由なくして取扱わない場合に、いずれも処罰規定をおいておるわけであります。八十二条の「機能障害を与えて」という方は、これは積極的に何かこわしでもしない限りは——スイツチの閉鎖というのは、何も機能障害を与えるというわけでありませんから、八十三条は普通のウオークアウトには適用がない。もしあるとすれば、八十五条にある。しかし、八十五条をすなおに読みますと、供給を取扱わずというのは、何か窓口に行つて私のところへ電気を引いてくださいと言つたのを扱つてやらないという、そういう印象を与えるのであつて企業の内部でストライキがあつてそこの労働者争議をする。争議をするについては危いからスイツチを切る。そういう場合に、はたして八十五条に入るかどうか、かなり疑問があると思います。裁判所は、今まで現われたところでは、何かこれに入りそうな、そういうふうに考えているように見えます。そこでもしこの法案が通りますと、電産の電源あるいは停電ストは違法だ、やつてはならない行為だ、こういうことになりますから、これらの規定が出て来るわけです。この法案には別に直接に罰則はついておりませんが、公共事業令のこの規定が浮び上つて来て、そして労働者は処罰されるかもしれない。  なおここで注意したいのは、この法案の第二条でいつている範囲は、公共事業令よりも少し広い。書き方が広くて「電気の正常な供給を停止する行為その他電気の正常な供給に直接に障害を生ぜしめる行為をしてはならない。」こういうのでして、発電所職員がこぞつて何日も出て来ないということになれば、発電所は動かなくなる、そうすると、それも入るような内容を持つておる。少し広くなつております。その点が注意されなければならないと思います。  それから第三条の炭労関係で言いますと、ここでも、鉱山保安法の五条というのが三十条で受けられまして、それが石炭の場合は、石炭鉱山保安規則四十七条三項というのにいつております。そしてそこでは、「鉱山労働者は、坑内排水用ポンプ、扇風機、巻揚機その他の保安上特に必要な施設の維持および運転を妨げ、または停廃してはならない」、こういう規定があつて、これに違反しますと、鉱山保安法の五十六条の五号というのに「第三十条の規定による省令に違反して、第四条に定める措置を講ぜず、又は第五条」——これが鉱山労働者一般的な義務規定している条文ですが、一第五条に定める事項を守らない者一、これは「六箇月以下の徴役又は三万円以下の罰金に処する」。こういうことになつておりまして、この規定が動き出す可能性をはらんでいるわけです。しかし今の条文を読んだ場合に、あしたからもう自分は山へ入らないというふうなことを言つた場合、だから続けて供給しているのを不意にとめる場合を考えているのではないか。あしたもあさつても休む、保安要員だれもかれもみんなが、あしたもあさつても休むという場合に、はたしてこの保安規則四十七条三項に該当するかどうかということは、解釈上は若干問題がありますが、しかしこれが動き出して来る可能性は非常に強い。のみならず、第三条は、石炭鉱山保安規則四十七条三項の「保安上特に必要な施設」と、こういつているのをさらに拡げまして、第三条では「鉱山保安法規定する保安の業務の正常な運営を停廃する行為」というふうな、若干拡張したものを規定いたしております。これとこれとが重なり合つて来ると、保安要員引揚げというふうなストライキ方法があつた場合に、一体どういうふうにこれを処理するだろうかということが、はなはだあいまいでして、この法案罰則がついていないのが、何か奥歯に物がはさまつているような印象を強く受けるのであります。  そこで時間も超過したので、大体結論に行きますと、どうもこの法案には賛成できない。それは、考え方として基本的人権というものをもつと強く保護すべきだというふうに私ども考えるからで、これは法理論的にもそうですし、少くとも憲法精神からいつもそつです。公共福祉で自由にどんどん争議権を奪うことができるとすれば、これは運輸事業その他の公益事業に広がつて行く可能性が十分にあるということ。かりに、これは労働者基本権本体には食い入つていないのだ、本体はちやんとある、ただ方法規定したのだというようなふうに百歩譲つてそれを認めるとしましても、それならば、その場合、権利衝突の場合は、一方の権利をがまんさせるのですから、それには何らかの補償が与えられなければならない。ところが、これにはそういう補償がついていない。大体政府の答弁の中には、これは手段や何かを制限するのであつて争議権そのものを奪つてしまうわけではないというふうに言つておるのですが、電産の場合などを考えますと、これは相撲に、押しの一手だけは許すが、投げも何とかもみんないかぬというのと同じようなものでして、押しの一手だけで、一体今の労働組合が使用者と相撲がとれるかといつたら、これはとれない。そうすると、これは土俵に上れないということを意味するのではないか、それくらい強いというふうに考えます。政府の答弁の中には、新聞などで見ますと、すでに違法なものを違法と宣言するのだというふうに言つておられるようでありますが、電産の争議あるいは炭労保安要員引揚げというふうなことが違法だときまつたわけではない。これはやはり先ほど申しましたように、行政解釈だと思うのです。現に裁判所では、必ずしも違法ではないように読める判決を下しているところもある。  それから立法技術の点からいつても、先ほど公共事業令との関係では非常にあいまいなものを残していて、これは運営上問題が起るだろうというふうに考えられるわけです。そしてこの法律案が成立した場合に、はたして効果をあげ得るだろうか、こういうと、これは争議を押えるという意味ではある程度の効果をあげるかもしれません。たとえば夫婦がけんかをしまして、女房の方が出て行くという。出て行くことは許さぬ、どうしても出て行けないということになれば、享主の方はかなり安心しておれる。だから自然出て行く出て行くと言つてみても、それは口先だけのことで、出て行けないというならば、実際にバーゲニング・パワーが違つて来るわけです。そついう効果を持つている。そういうものを一体持たせてよいかということになると、むしろ政策的にそついうことで適正な労働条件がきまるだろうかという疑問を持たされるわけです。  なお、最後に一言言いますと、これは大体昨年の経験を基礎にして立案されていることは疑いないところですが、当面この法律によつて取締られる対象は何かといいますと、電産か炭労が、それぞれ若干中で仲間割れなどしているようですが、とにかく単一組織を持つていたもの、それが目当てである。それの運動を国家が出て来て何か制約をする。そうすると中で意見のわかれ方などが、えらくはつきりと、ほら、法律もできたんじやないか、ああいうストをやるからこんな法律をつくられたというように仲間割れを来すかもしれない、あるいは来しているかもしれない。そういう意味では国家による不当労働行為の疑いがあるというように考える次第です。(笑声)
  4. 赤松勇

    赤松委員長 ありがとうございました。  藤林公述人は三時ごろ御出席される予定になつております。  次は野村公述人より御意見をお述べ願います。野村公述人
  5. 野村平爾

    ○野村公述人  野村です。有泉先生からは、主として争議権の側から問題を御説明になつたのですが、私はひとつ公共福祉という側からこの問題を少し考えてみたいと思います。  それは、公共福祉という言葉で争議権制約ができるんだということが、一般的にいわれておりますけれども、それでは公共福祉といつのは、一体どういうものだろうかということについては、案外にみんな掘り下げられておらないようにも感ずるからであります。本来、公共福祉という言葉が、そんなにこまかく規定できるかといつと、事柄の性質上、これはできないと思いますが、まず次のようなことは言えるのじやないかというふうに考える。一つは、争議権公共福祉制限できるかどうかというふうな問いを厳密に出さないで、一体争議というものはどんなものかということを考えてみますと、争議はともかくも生産一般の停滞を来すというのが普通の争議の場合の結果であります。生産の停滞を来すということは、今の場合ならば、企業が独占的に非常に大きくなつている関係上、どうしてもこれは国民一般的な需給関係に影響を及ぼすだろうということは考えられるわけです。しかも、どこの国でも、この争議権保障ということが憲法法律制度の上に現われたのは、そういう経済的な組織が成熟をして来た状態のもとで出されているわけですから、だから、事柄の性質としては、当然に国民一般の需給関係に影響を及ぼすような争議でも争議権保障するんだという、こういう考え方に立つているのじやないだろうか、こう考えることができるわけであります。そうだとしてみれば、かりに公共福祉という言葉によつて争議権制約ができるとしても、その公共福祉というのは、少くとも国民一般の需給関係に影響があるという程度の問題ではないということだけは、はつきりしていはしないかというふうに考えるわけです。  第二の点を考えてみたいと思います。それは企業の性質によりましては、御承知のように、公益企業のような、特に大きな公衆の便益というものと正面からぶつかるような争議というものが考えられるわけでありますが、一体こういう公益企業争議というものに対して、それじや公共福祉というような名目、あるいは公益というような言葉によつて、ただちに争議権の剥奪ができるだろうかというふうに問題を出してみますと、この点につきましても、大体先ほどの理由と同じように、公益企業というものが今日一般的にあるということは、当然に予測せられる状態であるわけであります。そういう予測せられる状態のもとに、憲法がなおかつ法律によりといつような制限を置かずして、団体行動権の保障をするというようなふうにしている点を考えますと、第一、公益事業だからといつて、ただちに公共の便益というようなことを理由にして争議権の禁止はできないものだというのが、正当じやないかというふうに考えられるのです。この点は、日本のように憲法上団体行動権の保障をしていない国、たとえばアメリカを例にとりましても、アメリカあたりでも、この公共福祉という言葉は非常に頻繁に使います。使いますけれども、公共福祉をただちに公衆の便益という言葉に直して、それだけでもつて争議権の禁止ができるというような考え方はとらずに、基本的人権制約をするところの公共福祉という場合には、必ずその基本的人権を守るという立場からいつて、他の公衆なり人なりに対して現実的な、かつ明白な危害というものが降りかかつているときだけにこれをとめることができるんだ、こういうような考え方を出しているわけであります。そういうような考え方からしましても、日本などでは、公衆の便益というようなことがただちに公共福祉としての争議権の禁圧の理由になり得るかというと、これはやはりまだ理由が弱いというふうに考えなければいけないのじやなかろうか、これが第二の点であります。  そこで、もう一つこれにつながつて問題になる点があると思うのですが、それでは、この公衆の便益に対して、全然顧慮しないでいいだろうかという問題があるわけです。これに対しては、いろいろに顧慮すべきことが考えられるわけなんです。しかしながら、基本的な考え方としては、それを争議権制約という方向へ持つて行くのではなくてそうじやなくて、組合自体の運動の自制ということにまつという考え方が正しいのじやないかと思うのです。それはなぜかといいますと、今日の社会では、大部分の人が働く経験を持つた人です。つまり多かれ少かれ人に使われるというような状態にあるわけです。そこで、使われる人というものは、自分たち労働条件の交渉ということについて、気に入らなければ仕事をしない、したくないという気持については、共通の感情があるわけです。この点を考えてみますと、たとえば大正年代なんかにおいては、公益企業、たとえば都電なんかがストライキをやるというときには、すくにストライキ破りが出動します。たとえば学生が行つて電車を動かすというようなことをやる。そうすると、これに対して新聞も拍手をするというような状態にあるわけです。まだ日本の労働者が昭和七年でわずかに四十万足らずしか組織されていないというように、この組織的な労働運動の経験が非常に浅いときには、割合に公衆というものは争議に対してはがまんをしないものです。しかしながら、このがまんをするという気持というものは漸次に成長して来ておる。ですから、今日割合に公益企業なんかの場合についてでも、争議が起つても、働いておる人たちは、これは困つたとは考えますけれども、まあしかたがないからというので、ある程度認容するといいますか、がまんする気持というものが相当に成長しておるのじやないか。つまり、生存権を守るために交渉をやつて、そうして交渉がいれられないから争議をやる。そこでそういう気持に同感を持つてある程度まで認容をするというのが、社会的な常識じやないだろうか、こういうふうに考えられるのだと思うのであります。ところで、それならこういうようなものに全然制約がないのか、つまりどこまでもがまんしなればならないのかというような問題が、もちろんあるわけでありますけれども、全体の立法政策の問題としましては、そういうことを法律によつて禁圧して行つたならば、なかなか自制と認容という、公衆の認容ということ組合の自制ということとの限界点というものが、自治的にはなかなか発達して来ないものです。全般的に組合運動というものを助長して行きますと、その中におのずから公衆のがまんをする限界というものが生れて来るのではないだろうか。そこで立法政策の問題として急いでこういうことを禁圧するよりは、運動を助長し、そしてその運動の中でもつて自制心が組合にできるようにさせるというためには一定の時期を待つ必要があるのではなかろうか、こういうふうに考えられて来るのじやないかと思うのであります。  ただその場合に、一つの問題がありますのは、組合がただ組合員大衆というものの中からの大衆的な討議とか、組合内部の民主化とかというものが進んでいないで、ただ決定だからというだけでもつて争議が行われるという状態では、なかなかその問題の理想的展開はないわけですが、今日ある程度まで組合は争議については、これは法律規定もありますように、必ず多数決でもつて参加するかしないかを決定してからでなければ、争議に入れないという制約が他面にあるのですから、そういうことで、ある程度の保障ができるのではないだろうかというふうに感ずるわけであります。  次にもう一つ問題になりますのは、これは公共福祉という言葉で言うかどうかは別問題としまして、争議権というようなものも、基本的人権には違いないけれども、これはたとえば言論思想の自由というようなものなどとは、幾分違つておるところの一つの手段的な権利なんだ。つまり生存目的を達するための一種の手段として法律保障しておるものだ。手段的な権利だから、目的それ自体ではないのだから、従つて目的が達せられるような方法さえあれば、手段は制約してもさしつかえないではないか、こういうような議論がなり立つではないかと思う。議論としては、もちろんこれは論理的に正しいと私は思うのであります。ところで、争議権あるいは団体行動権、団結権というような権利が、それでは今いつたような意味で、ほかにかわりのあるような一つの手段にしかすぎないものであつたならば、おそらくこれは憲法の中までに出て来なかつたに違いない。憲法の中にこういうことが一つの基本的な権利として成長して来たというのは、この長い労働運動過程でもつて、やはり労働者にこういうような権利保障するのでなくては、どうしても労働条件の公平な取引あるいは労働者の生存目的を達するための主張の完徹ということが非常に困難であるという事情考えたから、こういうものが基本的権利として憲法の中に現われるに至つたものではないかというふうに私は考えるわけであります。  ただその場合に日本でも幾つかの例証があるわけですが、たとえば国家公務員や地方公務員について争議権がないとか、あるいは公共企業体関係職員などについて、公労法上争議権がないとかいうような問題があります。しかしこの場合には、政府が、たとえば人事院の勧告をもつてある程度普通の給与ベースを維持させるように努力をするというような制度として人事院勧告の制度を設けたということをもつて答弁にしておられたようでありますし、それから公労法の場合でも、調停あるいは仲裁制度というものを完全に実施して行くということによつて基本権であるところの争議権制約しても、決してこれは目的たるところの労働者の生存目的というものをそこなうものではないのだ、こういうような説明で今言つたような制約が加えられたように思うのであります。ところが、その実施の成績については、私たち見ていて、かなり疑いがあるわけであります。これは私この間ちよつと新聞を読んでおりましたところが、たしか労働大臣の御答弁では、九回今まで裁定をやつたうち、五回は完全即時に実施をし、それから二回については一部実施をし、あとの二回については遅れて実施をしたというふうに言われておつたように思うのですが、私その後これを調べてみたいと思つておりますが、まだ完全には調べておりません。ただ国鉄の場合で私が記憶しております場合が三回ばかりあるわけであります。第一回目の裁定は、ともかくもあの有名な訴訟事件になつたように、四十五億の裁定が結局十五億という形におちついてしまつたというような形で、裁定は行われなかつたといつてさしつかえないかと思います。それから二回目の裁定、あれは仲裁裁定の第三号であつたかと記憶するのですが、裁定が二月か三月ごろに下つて、それから十二月ごろ実施されたように私は記憶しております。その間にやはり実施をしないからということで、賜暇闘争というようなことをやつたり、それからすわり込みをやつたりしていたというような実例を見るわけで、つまり裁定がうまく行かないという形になりますと、何かかえた形で、やはり実力行使的な形が生れて来るということになるのでありまして、裁定というものは、行われなければ何にもならないということになるのではなかろうかと思うのであります。第三回目の問題につきましては、大体昨年のことで、これは実施になつたようですが、確かに時期を相当に遅らせておつた。そのために、また何か額のことについて、昨年の暮れにあのすわり込みやなんかが行われたり、賜暇闘争なんかが行われたりして、その結果として三人ばかり国鉄の組合の幹部の人が解雇されたのを私記憶しておりますが、この点あまり正確ではありません。少し話が横にそれたようでありますが、私の記憶ではそういうような気がするわけであります。ところで人事院勧告制度や仲裁裁定制度というものは、今言つたように、実施がなかなか困難でありますし、実施されることについての保障というものが、必ずしもあるということは言い得ないわけであります。従つてこういうような代替制度をもつて争議権にかえるというのには、よほど何か争議というものに問題があるということになつて初めて起り得る問題ではないだろうかというふうに考えます。  それから次の点で、それでは争議権というものに対しては、まつた制約なしに、かつてにこれを行つて、どんなことをやつてもいいのかというようなことを私は申し上げているわけではありません。ここで争議権の禁止をすべき一つの大きな原則があると私は思う。これは立法的にするかどうかということは、一応問題でありますけれども、それはつまり争議権の行使によつて人の生命を直接に奪うとか、健康にはなはだしい損害を与えるようなことが、目前の、現実の危険として出るというような争議は禁止されてもしかるべきではないだろうかというふうに私は考えるわけであります。ところが、実際保安要員引揚げというような場合でも、別に鉱山の中にだれかがおりているのに、たとえばポンプ方が上つてしまうとか、それから扇風機をまわす役がとめてしまうというようなことが起つていいとは私は思いませんし、また組合の人がそんなことを起すとは私は想像しておりません。しかしこういうことがありますから、労調法の三十六条で、人命の保安のために必要な施設の停廃をしてはならないということを定めているのであります。もつとも、この三十六条の解釈論については、これを経営者の財産の施設にまで拡大しようという考え方が一時出たことはあります。しかし一般学会やなんかでは、全然その点は問題でなかつたと思いますし、行政解釈としましては、労調法の三十六条は、大体人命の保全のための規定だということが、今日では定説になつているのではなかろうかと思う。そうして見ますと、今言つたような場合を除けば、原則として争議権制約すべきものはないのだ。  それでは、公共福祉というものは基本的人権と全然何らのかかわりがないかというと、そうは言い切れないと思います。今言つたように、公共福祉というものは、漠然たる言葉として使うのでなくて、具体的にその場合の問題を分析して行つて、押し詰めて、押し詰めて行つたときに、やはりわれわれの合理的な考え方でどうしても納得のできないという場合にぶつかつたときに、そこに公共福祉というものがどうやら考えられるときがあるのではないだろうか。そこで、この公共福祉というものは、決して立法によつて一般的にこれを適用して定めるべきではなくして、個別的な問題の判定にあたつて用いられる一つの観念になるのではないだろうかというふうに私は考える。ですから、個々の争議行為の合法性、違法性をきめる場合に、こういう考え方がある程度今言つたように押し詰められて来て問題になつて来るというのであれば、私は当然これは考えることができると思いますけれども、全般的に法律的な規定の中で、公共福祉理由争議権を全般的に禁圧してしまう、そういうような理論はとうてい考えられないというふうに思うのであります。もしそういう考え方、私の考えたのと反対のような考え方が正しいというならば、やはり規定の上でも、憲法二十九条のように、何らか公共福祉のために法律をもつてこの争議権、団体行動権等は制約できるのだという規定を置かなければならなかつたはずであります。それを置いていないというこの法律規定から考えても、やはり私が今考えたような考え方が適当でないかと思うのであります。  これは、よく一般に言われることでありますけれども、たとえば民法なんかでも、公序良俗というような言葉があります。その他信義則というような言葉も民法の一条にあります。この信義則とか公序良俗とかいう言葉は、よく世界の学者も言つているわけですが、白地規定だとか、一般的条項だとか呼んでおります。この一般的条項というものを、何らその条項の内容についてのこまかい分析検討なしに使うということは、こういう一般的条項の軟化現象だというふうに批評しているわけです。この一般的条項の軟化条項を濫用するということが一つの法律全体を軟化させて行くことは、やはり立憲制の建前から言うと非常に大きな問題ではなかろうか。立憲制の建前から言えば、なるべく一般的条項というものはそういうふうな大きな形で使うべきものではなしに、個々の行為の判定の基準として押し詰められて、初めて用いられる理由があるのではなかろうかというふうに考えるのであります。その意味におきまして、争議権公共福祉一般論として制限する理論は、私は適当でないというふうに考えるのであります。これらは一般論にだけ即していたようでありますけれども、出されました問題が一般論になつておりますので、その答えがそうなつたかと思いますが、お許しを得たいと思います。  次に、第二の問題として争議権の性格の問題があります。有泉教授のお考えと多少重複するかもしれませんが、私の考え方としては、むしろ争議権というものを、歴史的に発達したものとして考え行つたらどうかというふうに思うのであります。昔は、争議行為というものは、法律で全般的に、いつでも禁圧されていたものであります。法律がない場合には、行政権力あるいは裁判所の司法というような方面の判例によつて、これを押えていたというようなことがあつたわけです。ところで、こういうような禁圧方針から転化する一番最初の転化の仕方は何であつたかというと、争議権そのもの労働条件の維持改善のための職場放棄である場合には、これは合法である。ただ争議の仕方あるいは目的というものに一定の制約があるという形で、争議の目的と手段という側から、職場放棄という考え方を狭めて行く考え方が一時行われた場合があります。その次の段階では、憲法などに争議権保障のない時代、たとえば英国でもそうでありましたが、アメリカなんかでも、判例の上などで次のような考え方が出て来たわけです。争議というのは何かというと、さつき有泉教授の言われたように、これは労働条件についての取引の交渉力なのです。気に入らない労働条件では働かないということを意味するのだ。そこでそういう考え方になりますから、諸外国では、たとえばフランスなんかでもそうですが、争議というものは、一種の退職の自由という考え方から類推して争議権がある、争議の自由があるという説明をするわけです。つまり、争議というのは何かというと、いやな仕事をやらない、自由というか、一種の退職の自由だ、こういうような形になる。そのときにおいては、退職をするのだから、ちようど首切るときに予告をするように、争議をやるときには予告をしろということが、一時諸外国などで行われた時代があるわけです。しかし、ともかくもそういう理論によつて職場放棄ということだけは、悪いことじやない。職場放棄をやつちやいかぬということは、いやでも働けということで、結局徴用令や何かと同じ性質のものになつしまうのではないか、こういうことがアメリカなんかでも考えられた議論であります。そういう形でもつて、団結による団体交渉力というものの力を保持して、相手方と労働条件の取引をやらせるというところに、一番最初の意味争議権というような考え方が成立をしたというふうに考えられるわけです。ところが、実際に争議というものは、単に退職をするだけの問題じやない、実は職場を去りたくないのです。続いて職場にいたいけれども、労働条件が気に入らないから、これを改めてくれというのが、普通の形になるわけです。  そこで、考え方としては、争議行為というのは、単に退職の自由だけの問題ではなく、仕事をやらないということにプラス何かがあるのだ。このプラス何かが何であるかということが一番問題になつたのは、ピケツトの正当性ということで、職場をやめるのならば、ピケットを張る理由がないわけです。やめるのではなくて、職場に残つていたいから、そこでストライキ破りを防ぐということが問題になるわけです。ピケツト権ということの正当性、ピケツト行為正当性というものは、職場放棄の正当性保障された次の段階としてやかましい問題になります。世界各国の大体の趨勢からいいますと、職場放棄の合法性ということは認める。しかし、ピケツト権についての行使の仕方ということについては意見がわかれる。これが現在の段階ではないかというふうに考えるわけであります。  ストライキ権というのは、今言つたような形でできて来ておりますが、ところで現在出ています具体的な問題に入つてみますと、電源職場においての職場放棄とか、あるいは保安要員の職場放棄とかという問題は、すべて職場放棄という一番最初のストライキ権考え方にぶつかつて来ておる問題なのであります。そこでそういう一番初歩的なストライキ権というものを制約する何か強い理由が他面にあるかということになりますと、これはどうも考えられないのじやないか。ことに今度の規定の、たとえば炭労の場合なんかの争議について考えてみますと、鉱山における人に対する危害の防止のためというなら考えられますが、これは労調法の三十六条において、この点についての問題があるわけであります。それから鉱物資源の滅失及び重大な損壊、鉱山の重要施設の荒廃というようなことは、大体鉱山保安法で問題にしているわけであります。ところが鉱山保安法で問題にしておるのは、鉱業権者に保安義務を課しておるわけであります。ですから保安義務は鉱業権者が持つておるので、労働者の正常な雇用関係が継続しているときに、この経営者の保安上の命令というものが、先ほど有泉教授の読まれたような鉱山保安規則に基いてなされたとき、労働者がこれに従わないときに問題になり得るのではないか。正常なる雇用関係がくずれて、つまり労働力というものを一応組合の手に全部握つたというような段階が現われたときに、なおかつ握つた労働者に対して使用者側がみずからその保安の責任を負うのではなくして、組合側に対して保安の命令を出すことができるだろうかということになりますと、これは非常に大きな疑いがあるといわなければならないと思う。よくこの場合に、そんなことを言つたつて、山が破裂してしまうじやないか、あるいは山が水没してしまうじやないかということが言われるのでありますが、この考え方は、現在水がどんどん入つて来る、あるいは爆発するというような過程になれば、労働者保安を放棄するということをやつたときには、それは個々の、個別的の問題として問題になり得るかもしれません。しかしこの法律考えているのは、そういうことではなくして、ストライキのときに一定の施設を施して、つまり数日間は大丈夫という態勢で外へ出ても、保安義務に反するというような形になるわけですから、その点やはり問題があるのではないだろうかと考えられるわけであります。  さらに職場放棄は、今言つたような場合のほかに、あと何のために禁ぜられるかといいますと、鉱害の問題があります。鉱害の問題につきましては、今まで現実に鉱害の第三者にいろいろな争議行為の結果、迷惑を及ぼしたというような事態がありませんので、これは大して問題にならないかと思うのであります。実際起れば大きな問題になりますが、現実の問題としては、まだ起きていないというふうに考えられます。  鉱山の重要な施設の荒廃ということは、実は今言つたように、この規定によつて取上げられた一番中心的な目的になるように思う。もしこれが中心的な目的になるのだとしますと、これと第一条の関係がどうなるかという問題が若干気になるわけであります。この第一条では、石炭鉱業の特殊性とか、国民経済及び国民の日常生活に関する重要性ということと、今言つたような問題とを結びつけているわけであります。ところが、この規定の結果として見ますと、どんな小さな山でも、やはりこの規定が適用になります。そうすると、これが別に国民の日常生活に対して関係がなくても、なおかつ、この規定によつて問題を起し得ることになりますと、従来の緊急調整などの考え方よりも、もう一歩さらにこれは踏み込んで、はつきりと経営者の財産を守る義務というものが労働者側についたということが、この規定考え方になるのではないかと思う。そういう考え方は、いまだかつて労働法規の中では一般的の問題としてはなかつた。さつき言いました労調法の三十六条の場合でも、これは人命の安全というものにかかわらしめて、初めて理由がある。それから緊急調整の場合でも、国民経済に対して重要な関係があるといつても、あの場合には全面的の禁止ではなくて、やはり一定の期間を置いて争議行為を停止して、調停に委任する争議権は全面的になくしたいという建前では貫かれていないわけであります。こういう点から考えますと、今度の法案では、経営者の財産を守るという点でもつて、かなりはつきりした考え方が出て来ているのではないかというふうに思うものであります。そういうふうな場合に、なおかつこれに対して反面から、たとえば使用者側の争議行為方法について何らかの規制を加えるとか、使用者側の財産管理に対して何らかの負担をかけるとかいう考え方が、今度の法律には少しも出ていない。従つて、交渉力がなくなつて、しかもなおかつそれにかわる何らかの措置が講ぜられないという意味では、一つの労使の間のバランスというものが、この法律によつて大きく欠けたということが言えるのではないかというふうに思うのであります。     〔委員長退席、熊本委員長代理着席〕  大体私の与えられました時間も参りましたので、こまかな点についての議論もあるかと存じますが、有泉教授が先ほど述べられましたので、省略して、私の公述をこれで終つておきたいと思います。
  6. 熊本虎三

    ○熊本委員長代理 次は、藤林公述人から御意見をお述べ願います。時間の関係もございますので、公述人にはまことに恐縮でございますが、二十分程度でひとつお願いをいたします。藤林公述人
  7. 藤林敬三

    ○藤林公述人 結論から先に申し上げますが、私は、このスト規制法案に対しては、賛成をいたしかねるという意見を申し述べたいと存じます。すでに昨日来新聞で拝見をいたしますと、いろいろな方の御意見があつたようでございますが、できるだけ重複をしない範囲で、私の意見を申し述べたいと存じます。  私が反対をいたします理由は、一つは、実は労使関係は、労使の良識のある状態を前提にして、好ましい慣行が打立てられて行くということを、私たちは最もいいことと考えざるを得ないのではないかと思つておるのでございます。その意味におきましては、今日のわが国の労使関係は、まだこのような、私などの理想的なと申しますか、実現される好ましい状態というものから見ると、幾らかの隔たりのあることを、私といえども認めざるを得ないのでございます。しかし、だんだん労働関係の実態をながめておりますと、私のような、ものの考え方、期待、希望は、漸次いれられて行くのではないだろうか。従つて、若干労働組合の行動その他に行き過ぎがあり、従つて、はなはだ遺憾千万だと思われるような状態がありましても、そのうちには、わが国の労使関係の中で、かくのごとき状態も漸次改められて行くだろう、こういう希望は十分つなぎ得るのではないかというのが、私の考える第一の点でございます。従いまして、こういうような見方がもし成立するものといたしますと、ここでスト規制法案によつて、労働組合の争議行為の一部分規制するということは、むしろ避けるべきであると当然言わざるを得ない。  具体的な問題としては、これは炭労保安要員引揚げ、それから電産労働組合の停電、電源その他正常な状態における電気供給状態の停廃というようなことを阻止するものでありますが、炭労の問題については、実は昨年の経験から申しましても、保安要員引揚げに先だつて緊急調整の発動を見たわけでございます。従つてわれわれはまだこれを経験していないわけでございますし、またあの際には、ああいう手を打つことによつて、一応この緊急事態をわれわれは避けることができたわけであります。もちろん保安要員引揚げは、ああいう全般的な問題として取上げられないで、個々の山において、個々の山に発生した争議の場合に起きる可能性は十分あると思いますが、しかしあの際に、経営者の何人かの方もそうおつしやつた記憶を、私も持つておりますが、炭鉱の坑夫諸君は、ことに大手筋炭鉱の場合においては、すでに二代、三代にわたつて穴の中で働いて来たという坑夫もかなり多いのであつて、それらの人々が、自分で働き場をことさらに痛めつけ荒廃に帰せしめるというようなことを、あえてするはずがないではないか、     〔熊本委員長代理退席、委員長着席〕 事実問題としては、かくのごときことをほとんど予想し得ないのではないかというようなことを、経営者の方々さえも言つておられる人があつたくらいであります。しかし一般世の中にとつて見ると、戦術的な態度といたしましては、かくのごときことが現われるということが、はなはだ好ましくないというふうにも考えられますが、その際には、われわれよんどころなければ、やはり緊急調整の発動によつて、緊急事態の回避はできるのではないかというように考えます。  また電気事業の場合について申し上げれば、最初私が申し上げたように、率直に申しまして、昨年の秋季労働攻勢の結果は、組合は、調停法案を若干下まわるような、状態で問題を解決せざるを得なかつた。組合にとつては、何のためにストをやつたんだというような結果が、そこに現われて出ておる。のみならず、この争議の結果は、東電労組という従来からあつた別の組合を除きまして、他は全国一本単一の産業別組織でありましたが、この組織には、すでに大きな亀裂が生じており、従つて今日の状態についていえば、昨年秋季労働攻勢に立ち上つた電産と、今日の電産の労働組合の実態は、その間にかなり大きな開きがあるわけであります。率直に言つて、総評の指示、電産労働組合の意図のいかんを問わず、私は本年、昨年のような争議が再び繰返されるかどうかということについては、若干の疑念なきを得ないのでございます。言いかえますと、昨年の争議の経験の結果では、すでに電産労働組合は、かなり大きな痛手をこうむつております。従来のような争議を、そのまま子供のように繰返すような幼稚なことは、私はしないだろうと思う。また事実半ば以上できないだろうと私は考える。いわば電産労働組合は、実体的には、昨年に比べてかなり弱いものになつておるというのが、事実でなかろうか。こういう労働組合に対して、掛声はなるほどいつ、いかなる場合においても、日本の労働組合は強いことを申します。しかしそれは多くの場合には、ただのかけひきであり、ただの掛声であるかもしれない。こういう声に対して、スト規制法案を通さなければならないということは、客観的に見ると、私から言うと、きわめてむごいしうちのように感ぜられてならないのであります。すでに相当弱まつておる労働組合を、さらにこの法案によつて追討ちをかけるようなことは、将来のわが国における好ましい労働関係の樹立の方向から申しますと、まさに大きな汚点をここに残すのではなかろうか。だれしも、法律をもつて事態を改めて行くというよりは、民主主義的な労使関係の実態そのものの中から、好ましい状態の生れて来ることを期待する方が、はるかにまさつておることは、ここにるる言葉を要しないと私は思うのでございます。  さらに私はここではなはだ解せないのは、ここに労政局長もお見えになつていらつしやるようでございますが、先ごろ統一労働協約の問題について電産がスト予告を出しました。この電産のスト予告に対して、労政局長名をもつてお出しになりました通告によりますと、いわゆる停電、電源ストその他電気の正常な供給の停廃を生ぜしめるがごとき争議行為方法は、電気事業の性格並びに争議権公共福祉との調和をはかることの緊要性にかんがみ、社会通念上とうてい許されざるものであるという通告をなすつていらつしやるのであります。私はこのような通告が労働省から出されることについては、もとより現行法上の根拠があるものと考えざるを得ない。単なる道徳的な戒告というのには、少しぎようぎようし過ぎているように感じます。はたして現行法上においても、電産のかくのごときスト行為が違法であるといとうならば、私は何を好んでスト規制法案を出す理由があるかというようにいわざるを得ない。すでに現行法があるならば、むしろ私は、よかれあしかれ現行法を厳密に適用するということが、われわれ法治国の国民の常識として、当然あつてしかるべきだと実は思うのであります。はたして現行法が悪いか悪くないかというような議論は、これを法改正の問題として国会でお取上げになるならば別問題でありますが、現にある以上か、悪かろうが何であろうが、一応これを厳密に守るという建前には、当然われわれは従わなければならない、従つて、現行法上違法であるというならば、現行法に照してそのスト行為違法性を追究されてしかるべきだと私は思うのであります。従いまして、かくのごとくであるならば、いまさらスト規制法案をつくる理由はないではないかというようにも申さなければならぬと思います。  まだ申し上げることはいろいろあると思いますが、私は最後に、これはかつて、前国会においてこの法案が提出されます前に、労働省で公聴会が開かれました際に私が申し述べた意見でございますが、この法案には罰則規定がない。しかし、これこれしかじかの行為は違法であるということを明示してあります。それでは違法な行為が発生したらどうなるのだということでありますが、私はこの際には違法なる行為は労働組合法の保護を受けないということになりますから、従つて雇い主は、かくのごとき行為をあえてし、またこれを示唆し、指導した労働組合幹部が、この法律違法性に従つて、おそらくは解雇されるのではなかろうか。それでその場合には、この法律に基いたかくのごとき違法行為をする者は、経営者としては、これをその経営の中に置いておくわけには行かないということで解雇されますから、おそらく不当労働行為はここに成立する余地がないということになると、現に幹部諸君は、かつて共産党の諸君がレツト・パージで追い出されたと同じように、この法律によつて追い出されるというのが、この法律が持つ一つの効果ではなかろうかというような推測を私としてはせざるを得ない。従つてこれはレツト・パージではないかもしれないが、桃色パージというような役割をこの法律が演ずることが、一つのねらいであるのじやなかろうか。かくのごとき事実が、このような形で推し進められるということになりますと、今日わが国の労働組合は、たとえば近く総評の大会が開かれる、あるいは今までに個々の単産の大会が開かれておりますが、これらのものを見ておりますと、そこでいろいろ非常に高度の政治論などが闘わされたり、非常に強気の議論などが行われたりなどしております。しかしこれは労働組合のまだきわめて至らない、むしろ幼稚な状態の一つの現われであると私は思つておる。そう言うと、組合の諸君からしかられるかもしれませんが、私は少くともそうだと思つておる。もしも、ほんとうに日本の労働組合が実力を持つておるならば、かくのごとき大会の状態などは、私はとつくの昔に改められておるのではなかろうかと思つておる。にもかかわらず、今日かくのごとき状態がなお存在することは、実はある意味において、労働組合がほんとうの力を持つていないことの証拠ではなかろうかというように思う。その意味において私は、それほど労働組合に実力があるとは思つていないのであります。かくのごとき今日の労働組合の状態は、なるほど表向きは強いことを言い、大げさなことを言い、何か世の中を脅かしておるかのごとき印象を与えておることは事事でございますが、実体そのものは、昨年の電産の場合のごとき、あのような長期の争議をあえて行いますと、組合が二つに割れたりすることは、とりもなおさず組合がそんなに力を持つていないうということの何よりの証拠であります。  かくのごときわが国の労働組合に対して、こういうスト規制法案をつくることによつてますます追討ちをかけるなどということは、今後のわが国の労働組合の順調な発展を、ここにおいて阻止してしまうことになる。なるほどこのような状態の中には、行き過ぎがあつたり、至らない事態が発生したりしたことは事実であります。私のごときも、電産の調停にも参画をしたことがございますが、問題は、こういう法律によつて電産のスト規制を行うところに問題があるのではなくて、私などから言うと、中央労働委員会の調停でございますが、調停案の提示によつて、労働組合がもう少しおとなになつて、ああいう争議行為をやらなくても問題が治まるというようなことに、実はなつてもらいたいと思つております。また先ほど申したような電産の状態では、だんだんそのような状態になるだろうと思つておるのであります。だから、いまさらこういうような法律をもつて追討ちをかける必要もなかろうではないかというように考えます。  なお、私は最後に一つの具体的な意見を申し添えたいと思いますが、私はかつて緊急調整について、これが採用されることをはなはだ強く要望をしたことがございます。しかし、今日こういうスト規制法案をつくるぐらい左ら、電産や炭労の場合に限らず、この際労調法の規定の中で、労使双方の一方が、緊急事態に対応して仲裁の申請をするという道を開いて——労使双方で申請をしろといつても、これは実現不可能でございますが、労働組合側ないし経営者側に、一方的な申請を中央労働委員会に出さしめる。中央労働委員会は、総会においてこれを論議する。しかしこの申請を受理するかどうかは、公益委員だけにおいてこれを決定するというような道を開いておくことがこういう事態に、場合によつて対処し得る道ではなかろうかというふうに思つております。昨年の緊急調整の発動に際しまして、率直に申しますと、労働組合側は非常にいきり立つて自分たち争議を敢行しておる状態を、法律によつて介入して、これをさしとめをするとは何事だというような言い方をされた。しかし私は、実体的には昨年の緊急調整のごときは、明らかに組合を救つておると考えておる。そして組合を弾圧していないと思つておるのであります。そういう意味におきまして、労働組合は表向きはなかなかいろいろなことを言いますけれども、しかし実体的には、先ほど申しましたように、弱い面もあるので、やはりこれらの面を、どこかで息抜きのできるような状態をつくる方が、私はむしろ賢明ではなかろうかというように思つております。但し、その場合でも、いたずらに濫用にならぬようにこれを運営しなければならぬのでありまして、先ほど来申しましたような、私の一つの思いつきでございますが、仲裁によつて問題が治まるような道を開いておいた方が、はるかに賢明ではなかろうかというように考えております。  私の考え方は、若干粗雑でございま出したが、他の人々の意見と重複を避けまして、私の申し述べたいところだけを申し上げた次第であります。
  8. 赤松勇

    赤松委員長 それでは公述人各位に対する質疑を許します。高橋禎一君。
  9. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 有泉教授に……。先ほどのお話の中に、今、当委員会審議中の、簡単に申しましてスト規制法、この法案規定しておることは、これが実施されれば、争議行為の場合において生きて来るといわれる旧公共事業令あるいは鉱山保安法等の罰則規定範囲が違う。スト規制法案の方が範囲が広い。従つてその場合に旧公共事業令でありますと、第八十三条、第八十五条、鉱山保安法でありますと第五十六条等の規定がいかにも拡張されて来る心配があるというような御趣旨でございましたが、私はそうは考えないので、刑罰法規の適用に関する限り、今スト規制法案がどんな範囲の広いことを規定しようとも、その行為罰則規定に存在していない限り、何らの弊害は起らないんだ。ただ、無意味であるということはいえますけれども、基礎となる罰則規定は、これはどこまでも刑罰法令の解釈が厳格でなければならぬというあの刑法の原則に基いて、どこまでも厳格に解釈されて行かなければならない。そういうことになれば、無意味なものではあるかもしれませんけれども、弊害は生れないんだ、こういうふうに考えるわけですが、その点についてのお考えをお伺いいたしたい。
  10. 有泉亨

    有泉公述人 時間があまりなかつたものですから、少し急ぎましたのですが、旧公共事業令の八十五条というのが、はたして争議行為に適用があるのかどうかという点に、すでに疑問があると思う。それから先ほども申しましたが、鉱山保安法の五十六条五号も、はたしてその保安規則の方の四十一条三項との関係で、これらの争議行為に適用があるかどうかという点に疑問があるというところへ持つて来て、こういう法律がつくられると、そうすると今度はこれに適用があるのだというふうに解釈されることになりはしないか。ところが、それがはつきり言つてないのが、まあ奥歯にものがはさまつたような規定の仕方だと思う、こういうふうな趣旨で申し上げたのです。なおこの法案の方が少し幅を広くしてある。それでその広い部分は、争議行為としての労働法上の保護がはずれた場合に、公共事業令保安規則や何かで処罰される以上に処罰される心配はない。その点はお説の通りに考えております。そうだと思いますが、しかし全然むだではなくて、先ほど藤林さんも言われたように、これは損害賠償とか解雇の理由とかにはやはり使われる、そういう意味は持つと思います。そしてそれがこつちよりも広くなつているということを注意的に述べたのであります。
  11. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 御趣旨はわかりました。問題は、現行の関係刑罰法規は、どこまでも厳格に解釈運用しなければならないので、今の審議中の法案が、かりに法律になつても、この法律あるがゆえに拡張解釈、運用は絶対に許さぬという立場は、はつきりと守らなければならぬということは、これは申し上げるまでもないと思うのであります。ただ今後注意しなければならぬことは、現行の刑罰法規よりも範囲の広いものを規定しておいて、今後このスト規制法の定めている内容のものに関する刑罰法規を拡張して制定して行くということをよほど注意しなければならぬ、こういう問題が一つ私どもとしてはあると考えるのであります。そこでなおお尋ねいたしたいのは、これはどなたでもいいのですが、先生に質問を始めましたから、お答えを願いたいと思います。労働組合法第一条第二項の制定されているところの根拠といいますか、この中でも特に但書である「暴力の行使は、労働組合の正当な行為解釈されてはならない。」こういうこととか、それから「正当なものについて」云々と規定しているのです。不正当なものについては、これは刑法第三十五条の規定は適用しない。この点から見ますと労働組合法は不正当なる、不正なる団体行動は、これは禁止しているわけです。この禁止は一体合憲性があるとお考えであるか、そうでないというふうにお考えになるか、その点をお伺いいたします。
  12. 有泉亨

    有泉公述人 労働組合法一条の二項は、正当なものについてだけ刑法の三十五条を適用している。それから不正当なものは禁止していると言われるのですが、労働組合法は別に禁止していない。正当なものには三十五条の適用を認める。これは普通の場合ならば違法になるかもしれない行為を、違法でなくする。普通の場合に、この一般市民法関係で違法であれば違法になるだけでして、これは憲法に何も矛盾するところのない規定だと思います。
  13. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 私がお尋ねしましたのは、この労働組合法第一条第二項というのは、刑法第三十五条に関係したことなんですね。いわゆる業務行為として違法性を阻却するかどうかという問題について規定しているわけなんです。だから、正当な労働組合の団体行動は違法を阻却するけれども、そうでないということは、不正当な団体行動は、これは刑法第三十五条の違法性阻却の理由にならない、こういうわけです。そういたしますと、この底に隠れた精神というものは、労働組合の団体行動の中に、不正当なものがあるということを考えておるわけじやないか、こう思うのです。わけてもこの但書のところに、暴力の行為はこれは不正当である、こういうふうに定めておるのですね。なおつけ加えますと、労働関係調整法は第三十六条で、これは先ほども引用されましたが、安全保持に関しての規定として、これは争議行為としてでもなすことはできない、こういうふうに規定しておるところを見ますと、争議行為は手放しに許すのではないので、そこに正しいものと、正しからざるものとの限界があるんだ、その限界をこの労働組合法やあるいは労働関係調整法は定めておると思うのです。こういうことを定めることは、一体先生の憲法解釈上正しいことであるかどうか、もう一度その点をお伺いいたしたいのです。
  14. 有泉亨

    有泉公述人 結論を言いますと、憲法に別に触れるものではないと思います。まあ、話の中でも例を引きましたが、隣同士で、隣の店先でこつちが何かじやまになるようなプラカードや何かをやりますと、業務妨害として刑事上あるいは民事上の違法の行為になるでしよう。そういうものが労働争議として行われて、しかもそれが正当だと判断された場合には、三十五条によつて違法性が阻却されるということですから、もしそれが、かりに労働組合がそういう。プラカードをやつたとして、それが正当なものでないということになりますと、普通の隣同士、普通の市民相互関係を律する法律で律せられるのでありまして、元へもどるだけのことでありまして、それが別に憲法二十八条の精神に反するとかいう問題は起きないと考えております。
  15. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 労働組合法第一条第二項の正当な争議行為、不正当な争議行為というこの限界は、一体何を標準にして定めるべきか、先生のお考えを伺いたいと思います。労働組合法第一条第二項の解釈のことなんですがね。
  16. 有泉亨

    有泉公述人 先ほど野村先生のお話の中にも出たのですが「正当な」というようなのは、いわゆる白地規定でありまして、先ほど野村先生が引かれたように、民法九十条というのは「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」と規定をしてありますが、それはどういうことだといいますと、学者も一口に言えないですね。そこで判例に現われる、めかけと手を切る契約だとか、今度はばくちに金を貸す契約だとかそういうものは、一々これに入るだろうか、これはこれに入るだろうか、こういうふうに具体的にきめるほかないのでありまして、それはうまい基準というものがないものですから、こういうふうな白地規定を書かざるを得なかつたのではないかと思います。
  17. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 そういうふうですから、非常に漠然としたものですね。ですから、そこで但書の方で、暴力行為はいかぬ——これは一つの例をあげて、その限界を定めたもののように思えるのです。それから労働関係調整法第三十六条も、やはり争議行為としてはいかぬ。これも一つの例をあげて正当、不正当の限界をはつきりさせているものだ、こういうふうに考えるのですが、先生はそのようにお考えであるかどうか、お伺いいたします。  それからこれと同じような考え方で、ほかに、たとえば船員法第三十条のごときも、やはり同じような争議行為としては行つてはならぬと規定してありますから、社会一般の通念といいますか、あるいは憲法のいわゆる公共福祉というものを、間違つてはいかぬですけれども、はつきりと判断をして、国家がそこに同じようなものをつけ加えて、そこの限界を個別的、具体的に明らかにして行くという行き方は、根本的に間違いであるかどうか、その点をひとつお伺いいたしたいと思います。
  18. 有泉亨

    有泉公述人 たとえば、今あげられた暴力の行使と、それから労調法第三十六条は、場人命というようなことを問題にしております。だから、暴力の行使は人の身体を考えていると思うのです。生命の安全ということなら、人命ですが、こういうことは刑法で十分保護されていることは明らかです。刑法に規定がないにしても、自然法的な非常にはつきりした権利ですから、そういうものが向う側にあれば、そこで衝突すれば、これは公共の正当の範囲を出てしまう、こういうことはわかるのです。ところが、公共福祉というのは、野村先生のお話にもあつたように、何か人によつてそれぞれ考えが違う。非常に漠然たるもので、公共の便宜というようなところまで持つて行く人もある。そういう標準ではいかぬのではないか。だから、向うにやはり基本的な権利憲法保障する非常にはつきりした権利があつて、それと衝突する。そうすれば、それは制限を受ける。それで先ほどの話では、これが明瞭に向うと衝突すれば、こつちが制限されるし、こつちの明瞭な本体、基本的な人権の本体に切り込まれるような行為ならば、これはそうしては困る、こういうわけです。それで中間の領域で初めて保障をやつて、まあ、これならばがまんするというような問題が起きるのではないか、そういうふうに理解するのです。
  19. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 今までお尋ねしたことを基礎にしてお尋ねするわけですが、私の知りたいのは、憲法二十八条の団体行動権の権利である以上、一つの内容を持つているべきはずだと思うのです。ところが財産権のように、具体的にその権利内容を、まだ実は日本の現行法律では示されていないと思うのです。団体行動権については、団結権とか団体交渉権ということは比較的明瞭になつておりますけれども、その権利内容を定めるときには、これはやはり権利である以上、はつきりした内容でなければならない。その内容を定めるには、財産権と同じように、公共福祉に沿うように定められなければならぬと思うのです。いま一つは、今度は権利内容とは別に、権利濫用ということがあるわけです。労働者の団体交渉権も、やはり公共福祉に反しないようにそれを行使しなければならぬ。これは憲法上認めらるべきだ、こう思うのです。そこで、この労働組合法第一条第二項の規定、それから先ほど来お尋ねを申し上げましたような関係規定は、一体権利内容に関する規定であるか、あるいは権利の行使に関する面を考え規定しておるのであるか、そのどちらかじやないかと思うのですが、先生はその辺をどのように、お考えでありますか、お尋ねをいたしたいのであります。要するに、これらは権利内容に関するものか、あるいは権利の行使に関する面を見て規定しておるのであるか、それとも全然別なものであるか。
  20. 有泉亨

    有泉公述人 そのこれらというの
  21. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 それは労働組合法第一条第二項の規定、それから労働関係調整法の第三十六条、船員法——これは手元にありませんが、たしか三十条であつたと思うのですが、外国の港に碇泊しておる船泊の中において、こういうことは争議行為としてはできないという趣旨の規定、これらです。権利内容に関するものか、あるいは権利の行使に関するものであるか、あるいはそれらと関係のない別な根拠に基くものか等についてのお考えをお伺いいたしたいのであります。
  22. 有泉亨

    有泉公述人 今、最後にあげられた、それが権利内容か行使か、そのほかか、こういいますと、一応今私の考えておるのはそのほか。外からこつちの権利行つてぶつかるものとして規定されている。こつちの権利内容は入つて来ない、そういうふうに理解するのです。それで団体交渉権の内容というのが、まだ非常に不明確だ、こういうふうに言われますが、それは考えによれば財産権でも同じじやないか。だから、所有者所有物を自由に使用、収益、処分できる、こういつております。その使用、収益処分というのは権利の行使ですが、使用、収益、処分というのは、やはり漠然たる言葉で言つているので、行動権についても、やはりそういう内容を、具体的にはなかなか入れにくいのじやかいかというふうに考えております。
  23. 倉石忠雄

    ○倉石委員 私ちよつと医者ヘ行つておりましたので、高橋君から御質疑があつたかと思いますが、有泉先生にお伺いをいたしたいと思うのであります。  ただいまお話のありました二十八条と十二条及び十三条の、いわゆる公共福祉、この公共福祉というものをただ一般国民の便宜というように漠然と解釈してはならないので、そういうものが二十八条の労働基本権を侵害ずるようなことはいけないというのでありますが、十二条、十三条の公共福祉というのは、われわれ一般国民としては、どういうふうに理解したらよいか、ひとつ先生に教えていただきたいと思います。
  24. 有泉亨

    有泉公述人 どうも非常にむずかしい問題を質問されるので困りますが、この十二条と、それから基本的人権、それぞれの各条との関係は、新聞によれば、きのう石井教授が何か触れて、十二条は精神規定といいますか、非常に強く墨太的人権を保護するのだから、従つて、その行使は公共福祉に適合するように行使して行く、こういう二とを要求している、こういうふうに解釈するのが東大の憲法を研究している人たちの通説だといつております。その中にこの二十八条が入るかどうか、ちよつと意見がわかれますけれども、十二条と基本的人権との関係は、大体そうだというふうに私も思うのです、そこでその公共福祉にいかなるものを入れるかという二とになると、これもまた一種の白地規定で、先ほどちよつとお立ちになつあと、野村先生がその話をされたんですが、そう簡単に言えないと思います。ただその核心は、目に見えて切迫した、何とかいう英語がありますが、現にある人の身体とか健康とか、そういうものが侵害される、そういう場合が中心になる。そういうものを侵害するように行使してはならない。非常に遠い、リモートな関係にあるものまでこの中に入れて来ますと、争議なんというのは、皆公共福祉に抵触するというようなことになつてしまう、こういうふうに考えております。
  25. 倉石忠雄

    ○倉石委員 私どもが、たとえば銀座の町を歩くと、四つかどは人間が非常に混雑しでおります。あの四つかどをつつ切つて向う側に渡るということは、われわれの自由なことであります。ところが、その自由をかつてに行使しておつたんでは、今度は反対の側から来る人が困るというので、やはりわれわれの自由をそこで一応拘束するために、赤信号が出たときには、歩くことは自由だけれども、やはりストツプしなければならない。私は、大勢の団体生活を営んで行くのでありますから、そういう団体生活の大勢の団体の利益は、少数の者の利益を犠牲にしても、大勢の人の団体の行動を便宜ならしめるといつたようなことが、公共福祉という観念ではないかと思うのです。従つて、今先生のおつしやつたことは、炭労ストライキとか、電産のストライキということを全然頭に入れませんで、この憲法上の公共福祉という建前を尊重するということは、私どもは日本人としての団体生活をして行く上においては、ぜひ守らなければならないことなんです。これを守らないということになつたならば、社会の秩序は混乱いたします。従つて、私はこの労働法解釈する場合においても、やはり公共福祉という概念、つまり十二条、十三条に生命、自由及び幸福を追求するの権利国家保障する、こう言つておるのでありますが、それに続いて「公共福祉に反しない限り、」こうなつておるのでありまして、やはり私はわれわれ個人の自由、幸福を追求する権利憲法保障されておるのだが、それほど強いわれわれの要求はないのでありまして、われわれは何よりも国民としての自由を追求する、自由を要求する、この自由をどこまでも守らなければならぬというのが、私ども国会議員としての職責だと思うのでありますが、その自由から、公共福祉に反しない限りということでありますから、二十八条の労働基本権も、やはり前提条件としては、公共福祉に反しない限り、こう解釈するのが当然ではないか。先生は先ほど二十九条の所有権制限には、特に公益優先のことをうたつておるからして、そういう精神であるならば、二十八条の基本権制限にもそういうふうに書かるべきであるが、これが書いてないところを見ると、やはりこれは財産権制限とは違う、もつと強い意味を持つべきだというお話が——失礼いたしました、野村先生でございましたか、両先生のうちのどちらかから、そういうお話がございましたが、私は二十八条というものは、十二条、十三条にいう、われわれの何よりも追求する自由にすら、公共福祉は優先すべきだというふうに解釈するのが、日本の憲法精神ではないか、こういうふうに思うのでありますが、御意見を承りたいと思います。
  26. 有泉亨

    有泉公述人 お答えいたしますが、憲法保障している基本的な権利というふうなものの強さの問題だと思うのです。ですから、非常に強いものもあれば、非常に弱いものもある。そしてそれは文字にそう書いてあれば、一応われわれは法律解釈としては、それに従つて行くよりほかはないのであります。たとえば二十二条では「公共福祉に反しない限り」という言葉がちやんと入つている。これは居住、移転、職業選択の自由です。ところが、良心の自由、信教の自由、学問の自由というものの中には、そういうものが入つていない。それで、これはぜひ厳格に保護しなければならない。個人の一人々々の人間の自由権なり基本的な権利保護する、それを軽々に公共福祉で押えてはならないという精神が、まさに憲法第三章の精神ではないかと思うのです。ですから、たとえば公共福祉という観点からいえば、疑いのあるような人間は、みんな牢屋へ入れた方が、残つた者には非常にありがたいことなのかもしれませんが、その中に、かりに無辜の者があつてはいかぬということから、個人の非常な自由を、公共福祉では押し切れない基本的な自由を認めておる、そういうふうに考えます。そうして戦後につくられた日本国憲法における労働者基本権というものは、そういうふうに非常に強く考えられたものですから、先ほど述べたような考え方なつたわけです。見解の相違といえば、それまでかもわかりません。
  27. 倉石忠雄

    ○倉石委員 先生のお考えもよくわかりますが、私どもも実は二十八条の労働基本権というものは、労働政策上もちろん一番尊重しなければならないという建前にはかわりはないのであります。これは非常に議論の多いところと思いますが……。  それでは先ほどお話の旧公共事業令八十五条、それから鉱山保安法、こういうもので、先ほどお示しのように、すでに電産でいえば、スイツチ・オフは当然禁ぜられておる。しかしこれらの法律の存在にもかかわらず、労働基本権というものによる労働争議権は優先するのであるから、鉱山保安法とかなんとかいうものはその次に存在すべきものだ、こういつたようなお話がございましたが、その点をひとつ法学者として、もう一ぺん御説明を願いたいと思います。
  28. 有泉亨

    有泉公述人 少し古い話をしますと、旧公共事業令の前は、電気事業法だつたのですが、それのたしか三十三条でしたか、それにやはり電気をとめてはならぬという規定がある。労働組合法が初めてつくられたとき、末弘先生が御健在であつた時代、電産が争議をやつた。こういうときに、争議行為であれば三十三条の制約を受けないというのは、その当時の学者も疑つていませんし、組合側も疑つていなかつたし、使用者側もそうだつたと思います。ただ急に労調法が十月十二日につくられて、労調法で冷却期間を置かなければ違法な争議だ、違法な争議になると三十三条が来るのだ、こういうのが末弘先生の見解でありまして、それからその当時の検察庁などもそういう勧告をしたのであります。そこで結局冷却期間を置くまでは、争議行為はしなくて済んだのでありますが、あのとき以来、こういう規定争議権でカバーされると出て来ないというのが労働法学会の通説だと思います。これは私だけの見解ではない、野村先生がおいでになりますから、お答え願つてもいいのでありますが、やはり二十八条の基本権を非常に強くかぶつているというふうに考えるのです。それでお答えになりましたかどうですか。
  29. 倉石忠雄

    ○倉石委員 これはわれわれ国会としては非常に重大な問題でありまして、旧公共事業令、それから電気及びガスに関する臨時措置に関する法律、これはまだ生きているわけでありますが、これらによれば御承知のように、正当な事由なくして電気供給をとめた者に対しては罰則が書いてあります。それから野村先生もお話になりました鉱山保安法の第三条には、保安とはどういうことであるかということを列挙いたしておるのであります。この中には、数目来本委員会審議されておる間に、政府当局の御答弁によりますと、これはその業務に従事する者ということであるから、たとえば経営者、それから労働組合に参加しておらない職員並びにその他の従事員もこの法の拘束を受けておるのだという御説明であつた。われわれもそのように解釈いたしておつたのでありますが、労働争議ということになれば、旧公共事業令鉱山保安法——つまり保安法第三条に規定されてあることについては、先ほど野村先生の御説明がありました。これは違う見解からの御説明でありますが……。それから公共事業令第八十五条も、すべてこれは憲法第二十八条の労働基本権に優先されてしまうから、労働争議による行為というものは、第八十五条及び鉱山保安法の適用は受けないのだ、こういうことになりますと、今度は労働争議というものは、一体どういう限界でこの既存の法律の適用を受けなくなるのかということが、非常にむずかしい問題になるかと思うので断ります。現にこの電産、炭労ストライキの結果、御承知のように各地で係争中でございますが、最終判決はいまだありません。しかし私どもは、裁判所においてあの事件を無罪であるという判決を下したということについて、実は何を一体考えているのだろう、こんなことぐらいわからないのかなと、ふしぎに思つてつたのでありますが、ただいま有泉先生の法律の御解釈を承つて、なるほどここにあるのかということを知つたのでありますが、私はこれは重大問題だと思う。すでに法律は存在しておるのである。政府はまた行政解釈上、これは一般従業員にも適用さるべきものと言つておるし、われわれが公共事業令鉱山保安法を制定したときもそういう精神であつた。これは皆さんが速記録をごらんになれば、よくわかります。しかし、後においてそれを解釈する方々が今のような御解釈であるということになると、立法の精神というものはまつたく違つてしまう。これは重大な問題でございまして、まあこれは先生を責めるのではないが、そういう解釈になるというと、これはたいへんなことなんです。  そこで私は伺いたいのでありますが、憲法二十八条の労働基本権というものは、今先生のおつしやつたようなことで、あくまでもこれに優先するからして、これは適用を受けない。労働争議については適用を受けるべきでないと、われわれはあくまでも解釈しなければならないかどうか、もう一ぺん教えていただきたい。
  30. 有泉亨

    有泉公述人 きよう三十分ほど話しました問題の中心点は、そこだつたのであります。そこをもう一ぺん質問されるとなると、へ一つということになりますが、働くのをいやだといつて出て行く権利は、非常に強いのではないかということを、きよう言おうとしたのであります。ですから、出て行くときに、ついでに物をこわして行けば、もちろんいけませんし、出て行つたあと、当面の責任者である経営者が、たとえば鉱山保安法義務を実行するために、人を入れようとするのに、とめる、こういうことはいかぬのだろう。しかし出て行こうとする権利というのは、先ほど育つた無事の人を一人でも無実に泣かせないと同じように、強いものに考えております。そのお考えのところと食い違いますけれども、争議権というものは、そこが本体だというように思うわけです。これは争議権などが認められない時代でも、普通の一人一人の雇用契約でも、もう私はあしたから来ませんというと、債務不履行になるかもしれませんが、それを強制執行する方法はないわけです。イギリス法などでも法益衡平で、ちやんと強制執行はしない。サブポエナと言うておりまして、強制執行をある程度認めますが、雇用契約においては、サブポエナではどうしても刑罰を科して働けということは言えない。あと損害賠償か何かそつちで片づけなければならない。働けない者が出て行くということは、民事上強制執行もないが、これを処罰する方法もない。たとえばイギリスの一九二七年につくられたゼネスト禁止法は、ゼネストを禁止しておりますけれども、これはピケットするとか積極的に動いた者を処罰する。単に出て行く者を処罰するという規定は置いてないというふうに、働くのはいやだからそこを出て行くという権利は、非常に強い。もしこれを拘束するとなれば、これは奴隷労働であつて憲法十八条にまさに触れるのではないかというように考える。普通の民事関係の雇用契約でもそうです。これを一歩進めた二十八条というものがあるとき、これを団体的にやつて行く、それが処罰されるというようなとこはどうもない。よほど何か向うにコンクリートの具体的な強い権利があつて、それによつて義務づけて行く、その義務違反ということがない限りは放任になる。少くとも刑事上の違法問題は起きないというように考えます。
  31. 倉石忠雄

    ○倉石委員 大体わかりましたが、これについては私ども公共事業令鉱山保安法を制定するときの考え方というものは、もつと違つた角度に立つてつたわけでありますが、これは先生方お忙しいことでありますから、私は最後にこういうことについて伺いたいと思います。  これは私ども政治家としての腹をこしらえる資料に、先生方の御意見を御参考に伺いたいのであります。法律論としては、いろいろ議論があるようでありますが、たとえば西ドイツなどは、御承知のように刑法の中で、すでに公の関係の事業というもののストライキはほとんど禁止されている。それからロシヤの刑法などを見ましても、反逆罪という中に、ストライキとまで行かないで、サボタージユの程度ですら、これは銃殺にされておるような例もたくさんある。いろいろな国々によつて事情は違うでありましようが、私ども現在置かれた日本の立場で、電気を消された、あるいは鉱山保安の要員が引揚げたために、——先ほど野村先生のお話によれば、直接そのことによつて生命に危害を及ぼすというふうなことは、これはよろしくないが、そうでなくて、保安要員ストライキをして引揚げてしまつたということによつて、そういう危険はないではないかといつたようなお話もありましたが、それはガスが充満して来れば炭坑は爆発することは御承知の通り、それから排水を絶えずやつておかなければ、その次ストライキが済んだときに入つて参りましても操業はできない。そういつたようなことで、国家の重要な資源を滅失することをおそれる。こういうことで、われわれは労働争議方法として、これを規制するかどうかは別な問題といたしましても、たとえば、先ほど公共企業体のお話がありましたが、アメリカの公共企業体であるTVAなんかは、組合員がみずからの定めたところの規約によつてストライキはやらぬことにしておる。私は一昨年アメリカの電車のストライキを見ましたけれども、これなどは、やはり日本の類似の労働組合よりも、ほとんどストはできないだろうと思われるような厳重な規約をつくつてつております。日本のような敗戦のどん底から立ち直つて行く今日の国情で、これは法律論は別といたしまして、われわれがこの法律考える場合の政治家としての腹をつくるために、現在行われておるような争議行為が行われることを、国民一般利益を代表する議員としては、どのように考えたらよかろうかということについての御意見を、私は藤林先生のお話を伺つておりませんでしたから、有泉先生及び野村先生から承りたいと存じます。
  32. 赤松勇

    赤松委員長 倉石君、先ほど、その問題じやないけれども、たとえば仲裁制度等について藤林先生が触れられておりましたから、あとでちよつと見解をお聞きすることにしましよう。
  33. 野村平爾

    ○野村公述人 西ドイツの例が出ましたが、西ドイツの場合には、他面経営参加行為について、共同決定法という手段が講ぜられて、それと多少見合つておる関係があるじやないかというふうに私は考えるのです。それ以上のことは、私は詳しく存じません。それからソビエトの場合には、私はロシヤ語は読めませんので、あまり詳しく自分で読んだり、あるいは見たりしたことはありませんが、中国のもので若干私どもが推定できる範囲で読んだものを見ますと、やはりこれは経営参加ということを非常に強力に認めております。特に官公庁などの業務の場合には、ほとんど主体が労働者自身という関係ができ上つております。形式的には、管理権者と働く者と違つております。管理権者の方から賃金などについての決定方法としては、やはり賃金のわくを定めて、自分の賃金に対しての投票をやらせ、決定をやらせて、自分たちで決定して来た賃金に対して、上のわくからもう一度、これは適当であるとかないとかいうことを二度も三度も往復して、個別的に賃金決定のことが討議されるという形ができておる。もしも日本でもそういう意味労働者が経営の中の管理権の一半を持つたということになると、これは若干問題が違つて来るじやないかと考えます。日本の場合には、まだ経営の管理ということが全然問題になつておりません。そこで経営管理上の責任は経営者にある、それから労働権保障はみずからやるという建前が、やはり原則ではなかろうかというふうに私も考えております。
  34. 有泉亨

    有泉公述人 私はあまりつけ加えることはないのですが、民主主義というのが、そういう非常に手間のかかるやつかいなものなので、われわれはそういう民主主義の体制の中にいるのではないか、それぐらいのお答えでございます。
  35. 赤松勇

    赤松委員長 藤林先生、何かございましたら……。
  36. 藤林敬三

    ○藤林公述人 私そういう法律家で、ございませんから……。
  37. 赤松勇

    赤松委員長 倉石さんよろしゆうございますか。
  38. 倉石忠雄

    ○倉石委員 ええ。
  39. 赤松勇

  40. 多賀谷真稔

    ○多賀谷委員 労調法第八条との関係において、休電ストの場合についてお聞きいたしたいと思います。その前に、倉石委員から第十五国会における電気ガスの臨時措置法、公共事業令を適用する場合の委員会の模様のお話がございましたが、私がその議事録を昨日読みましたところによりますと、公共事業令について、当時の局長の石原政府委員は常に次のように答えております。それは当時与党の方から、むしろこれによつて停電ストを禁止したらどうか、この臨時措置法で禁止できるものかどうかというような質問、むしろ禁止できるということを期待した質問がありましたが、その際には、この問題は政府内部でも現在は意見が一致していないので、労働組合法及び労調法で正当でない、違法であるということが判定した場合に限り、公共事業令が適用できるのです。こういう質問者に対して期待はずれの答弁をしておりましたが、その点は明瞭であると思うのです。そこで労調法第八条が特に公益事業として電気事業をあげておりますが、もし政府が今言つておるように、現在違法である、こういうことになりますと、停電ストを除いた電気事業のスト、たとえば事務ストその他のストが、はたして日常生活に影響があるかどうか。どうも影響がないように感ぜられるのです。でありますから、休電ストを除いた場合に、はたして日常生活に影響があり、公益事業としての価値がないかどうか、このことに対して労調法制定のときの気持はどういうようであつたか、この点についてお尋ねいたしたいと思います。
  41. 赤松勇

    赤松委員長 多賀谷君、どなたに御質問ですか。
  42. 多賀谷真稔

    ○多賀谷委員 有泉先生に……。
  43. 赤松勇

    赤松委員長 それでは有泉公述人
  44. 有泉亨

    有泉公述人 この法案が通ると、電気は必ず来る、電気をとめることができない、こういうことになれば、電気事業は労調法の八条の中に入れておく必要がないのではないかという御質問かと思うのですが、そういうことになるのではないかと思います。第八条制定のときの事情というのは、私はまだ労働法学会におけるかけ出しでしたので、その当時何もよく知りませんから、かえつて野村先生が御存じならお答えしていたがきたいと思います。
  45. 赤松勇

    赤松委員長 それでは野村先生に……。
  46. 野村平爾

    ○野村公述人 その御質問の御趣旨は、私、はき違えておるかもしれませんが、労調法第八条というのは、やはり電気事業を含ませておることは明瞭でありますし、その電気事業についての争議行為というものは、第三十七条の規定に移つておるわけですから、当然電気事業においての手帳行為も、通常の形においてはやれるということが前提になつてできていたというふうに、当時から私は理解しておりました。しかし、別に当時の議事録などというものは、私は今引合いに出して言うほどはつきり記憶しておりませんが、解釈としては、そういう解釈が大体定説であつたというふうに考えてよろしいと思います。
  47. 多賀谷真稔

    ○多賀谷委員 政府は「電気事業及び石炭鉱業における争議行為方法規制に関する法律案」こういうので出しておる。そこで政府考え方をわれわれが臆測するならば、方法規制ならば、争議行為制限してもいいのだ、こういう考え方が流れておるように感ぜられるわけであります。そこで私たちは、たとえば予告をするとか、冷却期間を置く、こういうことならば方法規制であり、そういう方法規制ならば許される、かように考えておるわけであります。ところが、現在すでに組合に事務関係も技術関係も含めておりますので、事務ストでも、ストライキといえば言えるわけです。ところが、これは電気技術者が組合をつくつたと仮定しますと、全然争議行為が禁止されるわけであります。このことに対して、この法律案方法規制であるかどうか、この点について野村先生にお尋ねいたします。
  48. 野村平爾

    ○野村公述人 この点につきましては、この前の国会のときに、私はやはり公述人としてお答え申し上げたことなんでありますから、繰返すことになるわけですけれども、私は単純な方法規制でないという考え方を持つております。それは今、電気産業、あるいは炭労、ともに単一の産業別組合になつております関係上、すべてこれに包含しております。もしこれがある程度の職業別組合に分割しておりますと、その職業別組合の人々は、大体争議行為が全然できなくなるという形になるのではなかろうかという考えを持つておる。しかるに、これはやはり一定の範囲においての争議権の剥奪になつておるのではなかろうか、かように考えます。争議権の剥奪になつておるということになりますと、単純な方法規制でないということになりますから、やは従来の行き方からすれば、何らかこれにかわる方法というものを、同時に政府はいつも考慮して来たわけであります。ところが、今度の場合にその考慮がないというのは、これを単純な一つの組合のやり方の相違というような角度でお考えになつておるからだと思いますが、私はその点では反対の考えを持つております。
  49. 多賀谷真稔

    ○多賀谷委員 この法律案が、われわれから言えば不幸ですが、不幸にして通過したという前提に立つて解釈論としてお尋ねしたいと思います。工員組合、職員組合があつて職員組合にも相当技術者を加えて組織されている場合、工員組合がストをやつても、十分保安の維持はできるわけであります。その場合は職員組合に頼んで、職員組合が就業して、それに頼んで工員組合が争議行為に入つたと仮定をしますと、事件は実際には起らないのであります。ここにいろいろ書いておる事件は起らないのですが、やはり第三条違反になるかどうかということを、有泉先生にお伺いしたいと思います。
  50. 有泉亨

    有泉公述人 どうも仮定のお話なんで、そういう例を考えてもいませんので、お答えしにくいのですが、文字上は、これこれと第三条にありますことを「生ずるものをしてはならない」。こう書いてある。生ずるというプロバビリテイの問題に、解釈上なつて行くかと思うのでありますが、確実にあとを引渡して出て行く。そのとき、場合によれば、使用者側が自分がやるから何とか渡してくれ、こう言われて渡して出て行くといつた場合、はたして第三条に違反することになるかどうか、どうもよくわかりませんけれども、相当のプロバビリテイを生ずるが、それが確実に生じないような処置が講ぜられておるとすれば、これはならないのじやないか。一応そう思いますけれども、あまり確信はありません。
  51. 多賀谷真稔

    ○多賀谷委員 刑事罰の場合は、検察庁が発動するので、比較的法は公正に行われると思いますが、民事責任の場合で損害賠償の場合は、実際損害が起らなければまた問題になりませんから何ですが、一番問題は解雇であろうと思う。この規定に違反したから解雇をするということで問題になると思うのでありますが、その際の判定の問題であります。労使双方の話合いがつかないためにストに入つた。こういうような場合に、判定はだれがするのかということが非常に問題になる。これはやはり一次的には経営者がする。それは経営者という形でなくて、保安管理者という形で出て来ると思います。保安管理者は経営者ですから同じですが、経営者がするのではなかろうか。こういう場合に、救済がないわけであります。そこで、これは後に裁判所に提訴するとかいろいろやりますが、なかなか救済できない、こういうことになると思う。そこで第二のレット・パージというのが非常に危惧されておるのです。先生方は、労働法あるいは労働組合の実情をいろいろ研究されておりますので、こういう法案は、第二のレツト・パージを引起しはしないかという点に対して、われわれ危惧を持つておりますが、有泉先生の御所見を伺いたいと思います。
  52. 有泉亨

    有泉公述人 一体この法律が通つたあと、これに違反して争議行為をやつたとしますと、最低限の効果というのは——これには罰則がついておりませんし、その点問題があると思いますが、それを除けば、損害賠償か解雇で、損害賠償は、今お話のように、損害の証明、それから因果関係の証明が困難でしようから、解雇ということになる。ところがこの解雇については、実は私は前から疑問を持つておりまして、今もよくわからないのですが、組合なら組合が徹底的に民主的な会議をして、そしてある行動がきまつたとします。それが純粋に民主主義の原則を貫いて、そしてある方針がきまつて、それによつてある行動がとられた、そしてそれが不幸にして違法だつた。こういう場合に、一体使用者はだれを解雇できるかということです。これは一方では、民主主義の方の責任の問題、だれが責任者かわからないが、だれか責任者があるということが、民主主義の一つの要請であるかもしれませんが、一方で非常に民主主義の原則を貫いたとすれば、だれがイニシアテイヴをとるというのではなく、みんなの意見が一致した。ところが、ある一人が責任を負わなければならないという実情が起るかどうかということになると、実は今もよくわからない。行為に対する責任の問題と、その行為が、よく会議を尽して、みんなの意見としてまとまつて出て来た、こういう場合の区別がわからないのですが、しかし今までの経験ですと、どうもこれは組合の指導者や何かが解雇される。そしてそれが一応やむを得ないものとされております。そういうことになれば、これは先ほで藤林先生の言われたように、桃色パージの可能性はかなり強いのではないか。この前、ほかの会合で藤林先生は、使用者側が統一協約なり、統一交渉というようなものを拒否して、何かばらばらにしたがつているということを非難されましたが、そういう態度からだんだん押して行くと、桃色パージというところまで心配なさるのは、無理ないというふうに私も考えております。
  53. 多賀谷真稔

    ○多賀谷委員 最後に、野村先生にお伺いしたい。今度政府が、この法案を出して参りましたのは、新聞でも御存じのように、現在でも違法であるが、その違法を明確化するために出したのだ、こういう出し方でございます。現在は合法であるけれども、合法にしておくと困るので、この法律によつて違法にするのだということになりますと、われわれはなるほど今度、電気石炭保安要員の取締りだけで、ほかのものには適用しないのだということが、今までの法の常識から考えられると思う。ところが、今まで違法であつたけれども、それを明確化するために出したということになりますと、私たちは非常に危惧するわけであります。それは鉄鋼の争議、あるいはメタル・マイニングの争議、あるいは私鉄でもそうなるかもしれませんが、争議が起りますと、政府が、それは違法だ、それは違法だということを、二、三回声明しますと、これは当然違法な行為をやつた、しかもすでに電気石炭保安要員引揚げと同じような法益均衡を害するものだ、これはむしろ例示的な規定だ。こういうわけで、この法律によつて、新たに立法をしなくても取締る可能性がある、こういうことを危惧するわけであります。それは、この前のレッド・パージのときに、マ書簡が報道陣常だけに出されておつたにかかわらず、その他のものにも適用された経験をわれわれは持つのであります。すでに今違法だが、新たに明確化するのだという出し方と、現在は合法であるけれども、これを違法化するのだという出し方とでは、法解釈上、将来においてわかれるかどうか、その点をお尋ねいたしたい。
  54. 野村平爾

    ○野村公述人 今までのところ、ここに規定されたような争議行為が違法であるかどうかということは、具体的な一つの行為について探求しなければ、きまらないものですから、一般論としてのお答えはちよつと困難です。ただ一般的にいつて、ほかに他の条件が加わらない場合には、大体において、ここに規定されるような行為は、従来は正当だと考えられていたものではないかというふうに思います。ですから、そういう限りでは、今まで違法であつたという見解は、どうも私は一般的な見解でないように考えております。もし今まで違法であつたものを違法だとすることになりますと、この規定は非常に意味がなくなつて来るのではないか。それは附則の第二に、三年を経過したときに、また違法であるか、こういう規定を置くべきかということを検討することになつておる。その考え方は、今の行為が何か暫定的な、緊急的なものであるということによつて、初めてそういう附則をつける理由がある。ところが、もし従来一般的に違法であつたものならば、何のためにかような附則をつけるのか、その理由がはつきりしなくなる。そこで政府のお考えとしては、こんなことを言うのは僭越かもしれませんが、従来合法であつたものを、ここで違法にするという考え方ではないだろうかというふうに考えております。これは規定面から見た私の推測で、政府の人の言つた答弁を申し上げておるわけではありません。  それからほかの産業に類推されるかされないかということでございます。刑罰、規定というものが、たとえば鉱山保安法だとか、公共事業令の中にあるところの罰則が適用されるのだということになると、これは電気石炭の場合だけに限るので、ほかの方に及ぶべき筋合いのものではないと思います。ただ一般刑法の規定として、たとえば業務妨害罪が成立するかどうかということになつて参りますと、つまり行為違法性考え方というものが、今回この法律ができることによつて、やはり拡張されたものだと私は考える。そうなると、私の解釈によれば、従来は、まだここに規定しておる行為のうちでは、全部とはいえなくとも、大部分のものは違法でなかつた。そうすると、そういう行為は、正当な争議行為として認められるということになるわけですが、この法律ができてしまいますと、今度は、経営者の重要な施設に対して損傷を与えるような争議行為というものは、その評価の上でどうなるだろうかという行為違法性考えた場合に、裁判所あたりの考え方が、つまり、経営者の重要な施設を損壊するような争議行為は違法だということを、今度の石炭並びに電気事業に関する争議行為規制法律の中で明瞭に規定しておるのだから、従つて他の産業においても、同じような程度の行為をやるということは、違法性を持つておるのだ、こういう考え方に類推して来る可能性というものも、私は五〇%は考えられるのではないだろうか。ことに刑罰規定の場合だと、先ほど高橋議員からの質問の中に再々出ておりましたが、これは非常に厳密に解釈されますから、そこまで及びませんが、特別法でない一般刑事規定、業務妨害罪等における違法性考え方という点になると、大分かわつて来るのではなかろうかというような懸念を持つています。そういう懸念があるから、私は若干この法律に、その点でも疑義を抱いたわけであります。
  55. 井堀繁雄

    ○井堀委員 争議行為内容法律規定する場合に、私どもが経験から考えてみますると、従来、戦争前の団結権が認められていない場合においても、労働争議はかなり頻繁に行われておりました。その当時の争議行為に対しましては、かなり極端な弾圧を受けた際におきましても、ある所轄においては看過され、ある所轄においては厳罰をもつて処罰をした。また警察においても同様でありましたが、さらに裁判所行つても、刑法その他の法律の適用を受けて処分を受けた場合におきましても、かなり区々な弁論が行われ、あるいは判決がなされておりました。ところが、新しい憲法のもとに広い労働者権利保障されましたもとにおいて行われております労働争議の場合ついて、われわれが短かい期間でありますが、大きな経験を一、二申し上げますと、たとえば生産管理のような争議行為の問題があります。これは今日私どもの承知しておるところによりますと、その正当かあるいは不当かという問題について総括的な結論を加えるということについて、まだ躊躇しておるのじやないかと私は思うのです。やはり具体的な事実によつて判断をするということになるのではないかと思うのですが、そういうようなわずかの経験の中から判断いたしまして、これこれの争議行為はこの法律に触れるとか、あるいは今いわれております公益福祉との調和をそこなうとかいうような仮定の事柄を、争議行為の禁止事項に加えるということが、一体学問上できるものであるかどうか。またできると仮定いたしましても、実際上そういう法律というものが、争議行為の取締りもしくは禁止、あるいは道義的な目標にいたしましても、一体どれほど役に立つものであるかということについて、われわれれは経験の上から徴して、まつた意味がないように考えておるのでありますが、労働法学の立場から、こういうものに対する御所見を、担任の先生のそれぞれの御見解がありますならば伺いたいと思うのであります。
  56. 野村平爾

    ○野村公述人 実はそういうことを初めから私申し上げたつもりであつたのでございますが、少し長くなり過ぎたために、かえつて要約できなかつたかと思います。一体ある争議行為制限するとか禁止するとかが妥当かどうかということ、行為の評価という問題は、いつでもあり得ると思います。具体的な一つ一つの争議行為についての評価というものは、具体的にあると思う。しかし、それを立法的に制限してよろしいかどうかということになると、これは同時に、一つは法理論上の問題と、もう一つは立法政策の問題と両方あると思います。法理論士の問題としては、私先ほど来申し上げましたが、立法政策の問題としては、実はあまり詳しく申し上げなかつたわけであります。むしろその方をお答えした方がいいかと思うのですが、立法政策の問題として見ますと、法理論士の問題はしばらくおいて、かりに制限しても、法理論上制限してもよろしいものだという考え方に立つて、そうして政策的にこれを考えてみると、やはり政策的にも私は適切じやないのじやないか。これは先ほどもちよつと触れましたが、争議行為をだんだんやりますと、やつておる間に、みんなは争議行為についてはこのくらいのところ、それから人が争議行為をやつておるときに、自分は公衆の立場に立つて、人の争議に対しては、このくらいのところまでは、みんながまんするものだ、つまり労働者は、あるときは自分争議行為の当事者となり、あるときには人が争議行為をやつて自分第三者になるというように、絶えずその地位を交換しておるうちに、おのずから自分たち争議限界、ここらが適切な争議行為限界であるということを、争議戦術上ちやんと考え出すのではないか。そういう形で進んで行くのが、民主主義のルールとして一番いいので、この意味において、やはり立法的な制限禁止ということには賛成しづらいというふうに考えておるわけであります。
  57. 有泉亨

    有泉公述人 私も大体同じ考えなんですが、日本の民主主義というものは、どうも上からくと来る。その上から上からというのが、やはりこういう立法の案になつて現われて来るのではないかという気がするのです。何か上から見ておると——高いところから見ておると、人のやることが、あぶなつかしく見える。しかし、やらせてみると、それが経験になつて、だんだんお互いにりこうになる。先ほどちよつとイギリスのゼネストの例をあげましたが、イギリスのゼネストというのは、イギリスの経済に非常に大きな損害を与えたといわれておるのですが、あのゼネストをやつた経験が、私はその後今日までのイギリスの組合運動に生きておるというふうに思うのです。昨年の電産のスト、炭労のストにしても、これはわれわれの経験の中に生きておると思う。それを上から見ておつて、刃ものはあぶないとか一人歩きはあぶないからというので、何かわくを加えるということになると、いつまでたつても刃ものは使えないし、いつまでたつても独立独歩はできないのではないか、どうも法律学者がかえつて法律にたよらないという一般的な現象かもしれませんが、私はそういうように思つております。
  58. 藤林敬三

    ○藤林公述人 私は今の問題については、先ほどすでに申し上げたつもりでございますが、今野村教授からお述べになりました御意見に、私も政策的な立場では賛成でございます。私は御承知の通り法律家でございませんので、むずかしい法律論をする素養をちつとも持つておりません。ただ、きわめて常識的に判断をして、先ほどの野村さんの御意見のようなのがいいのではないかということを申し上げるだけであります。ただ、私は先ほど申しましたように、今の御質問とは少し先に参りますかしりませんが、私は一般論としてはそうでございますが、わけても日本の今日の労働組合の状態から申しますと、もちろん若干至らない節もあるけれども、そうかといつて、ただちに手足をもぎとるようなことは、かえつて労働組合の正しい発展の道を妨げるものではなかという意味で、ことにこういう立法には賛成いたしかねるのであります。
  59. 赤松勇

    赤松委員長 他に御質疑はございませんか——なければ、これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。  公述人各位におかれましては、本日は御多忙中にもかかわらず、長時間にわたり御意見をお述べ願いまして、まことにありがとうございました。本委員会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。  それでは本日の公聴会は、これにて散会いたします。  明七日午前十時より労働委員会を開会いたします。     午後四時三十九分散会