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佐藤(達)
政府委員 ただいま御指摘の条文の解釈について、私は率直に申し上げまして、相当疑問がある点であると思います。私は少くとも今回の事件を離れまして、今ちようど条文をあげてのお尋ねでありますからして、それについて私自身がふに落ちないと思
つておるところを、とりあえずお聞き取りを願
つて、武藤博士のお教えを願いたいと思います。
今御指摘になりました憲法六十二条、これは「両議院は、」と書いてあるわけでございます。私
どもこれは憲法を立案するときの気持でございますが、その前のオーソドックスの考え方として「両議院は」とある場合は、これはおのおののハウスを言うのであ
つて、すなわち院議をも
つて構成するハウスを言うのだというふうにわれわれは了解して、起案のときもその気持でお
つたのであります。この場合は「両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、」ということがありますので、これはハウスとしての権限である。従
つて委員会の
関係の問題は、そこから当然出て来ないんじやないかという疑問を、私は持つ
つたわけておであります。そこで国会法に百四条というものがございますが、これもその系統を受けてのことであり、申すまでもなく憲法自身には応じなければならないという条文はございません。しかしそれを受けて国会法百四条においては、「応じなければならない。」ということを補足しておるわけであります。これは正面から申しますと、ハウスとしての権限を規定したものであると思います。ところがただいまお
言葉にありましたように、衆議院規則にもう一つございます。五十六条に「
委員会は、議長を経由して審査又は調査のため、」記録の提出を求めることができるとあります。この
関係は私は今まで考えてお
つたところでは、
委員会限りの要求権を、この衆議院規則において創設されたものである。従いましてこの
関係では応じなければならないという
言葉が出て来ないんじやないか。これは今までそういうふうに思
つてお
つたわけであります。これはしかしそうは申しますけれ
ども、お教えを願いたいという
言葉を最初に述べました
通り、国会内部の問題でありまして、私
どもといたしましては、そういうことに深入りしてとやかく解釈論を申し上げる立場になると思います。従
つてわれわれとしては、御要求があれば、それに対して法律上で応ずる義務があろうとなかろうと、お出しできるものはお出しすべきだという一本の建前で参
つておるわけであります。
ところで今度の問題に帰
つて来るわけでございますが、従来御承知の
通りに、いろいろの
委員会で資料の提出要求がございました。
政府といたしましては、喜んでこれは提出いたしました。あるいはまた、これはかくかくの事由でどうしても御提出できません、それはやむを得ないだろうというお話合いで、今まできわめてこれが順調に参
つてお
つたわけであります。今度のように正面からの御要求があ
つて、これに対してどうのこうのという問題が起
つたのは、私おそらく今回が初めてだろうと思います。従いまして非常に心苦しい、好ましからぬことではありますけれ
ども、この法律の条文をこの際は裸にして検討しなければならぬ。この場合におきましては、先ほど申しました場面とは違いまして、われわれとしては要求を受ける方の当事者であります。当事者は当事者としてやはり一定の見解を立てるべき立場にあると思います。その意味でわれわれとしては、われわれの立場からこれを検討したわけであります。ところで今御指摘の諸条文、私は衆議院規則に基くものと思いますけれ
ども、いずれにいたしましても、憲法あるいは国会法衆議院規則、いずれにも記録の提出を求めることができると書いてあるわけであります。そうして今回の御要求にも、
予算委員会における審査のための記録の提出を求められた。そこで私はこの記録という文字の解釈を、心ならずもここでしなければならぬ立場に立つわけであります。普通の法律にたくさん同様な
言葉が出ております。多くは
書類あるいは文書という
言葉が使
つてあります。国会
関係の法律においても
書類という
言葉を使
つておる場合があるわけであります。そこで
書類という
言葉と記録という
言葉の問題になります。
書類ということになれば、およそ一片の紙片も
書類ということに、形式的にはなると私は思いますが、記録と申しました場合には、これは社会一般の通念から申しまして、
書類の中のある性格を備えたものと見ざるを得ないというふうに考えるわけでございます。それならどういうものをその観念の中心とするかということになりますと、われわれの考えております記録というものの観念は、今役所の場合でありますから、役所の場合について申し上げますと、役所の文書として整理保存の対象とされる。たとえば文書の登録簿というようなものによ
つて整理保存の対象となるような役所の文書というものを中心の観念としておることは、私は普通の常識から見て間違いのないことだと思うのです。中心の観念と申しますからして、それの限界はあるいはそれよりも多少は広くなるかもしれませんが、しかしながらいずれにいたしましても、ただいま保安庁長官が答えられましたような、その御要求のものはそういうものであるということになりますれば、それはここにいう記録に当るべくあまりにほど遠いという見解に、われわれは立たざるを得ないという解釈より持ち合しておりませんので、そう申し上げざるを得ないのであります。