○岸最高裁判所
説明員 ただいまの、
逮捕状発付に際して、裁判官が適法性ばかりでなく、その妥当性と申しまするか、必要性あるいは相当性、そういうものの判断権があるかないかということについては、御
承知の
ように、学説は対立いたしております。判断権があるという学説、これは
団藤教授の説が代表的なものであろうと思いますが、その立場は、本法に
規定します
捜査に対する裁判官の司法的抑制という思想を強調する立場から、そういう結論にな
つておるわけでありまして、それに対しまして消極説は、これは
条文の
解釈から来ておる
ようでありまして、この百九十九条の
逮捕状による
逮捕の要件として、「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な
理由があるときは、」というふうに
規定してあります。これが六十条の
規定を見ますと、「被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な
理由」のほかに、罪証の隠滅とか、逃亡のおそれとか、住居の不定という
ような要件が、六十条の方には
規定されておるにもかかわらず、百九十九条の方には
規定されていない。そういう
ような
意味から消極説が出るわけであります。ところが積極説と消極説との対立、むしろ今日では消極説が通説かと存じますが、よく
考えてみますと、この対立は必ずしも実際上そう違う結果の作用をもたらすものではないのであります。と申しますのは、判断権があるという
団藤教授の積極説も、こういうふうにつけ加えるのであります。つまりしかしながら、裁判官は
捜査の全貌を知ることができないのだから、
逮捕の必要がある、つまりこれが妥当であるかどうかということは、
捜査機関の意見を十分に尊重しなければならない、そういうふうに申されております。積極説はとるけれども、やはりそういう条件をつけて、積極説をと
つておるのであります。現在の裁判所の実際を見ますと、百九十九条と六十条とを対比しますと、
条文の上からは確かに無理だ、しかしながらいよいよこの
逮捕状の請求権が濫用と
認められる
ような場合、そういう場合には請求権の濫用である。先ほど合同の席で出ました意見、これが現在の裁判所の支配的な意見にな
つております。そういう場合には
逮捕状の請求が権限の濫用であると
認められる場合には、一応「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な
理由がある」場合であ
つても、これを却下すべきである。そういう
解釈をとりまして、この
逮捕状の問題については裁判所の新
刑訴施行以来非常に頭を悩ましまして、合同があるたびに、中央の合同はもちろん、
各地方のブロック合同でも、常にこの問題を問題にして、先ほど御指摘の
ような
会議をいたしております。どういう場合にそれでは濫用に当るかといいますと、これまでいろいろ裁判官の会同の席で論議されました例を拾いますと、最初から判明している数個の同種の
犯罪がある場合に、まず
一つの罪について
逮捕状を請求した。その
事件では被疑者が釈放される見込みが生ずると、今度は他の余罪について
逮捕状を請求する。こういう例が決してまれではない
ようであります。こういう
ような場合には、
事件によ
つては、もうそういうことは
逮捕状を請求する当初から予想されることである。それを伏せておいて、そういうことを請求する、これは絶対にいかぬ。これはもう濫用として却下すべきである。そういうふうに申しております。それから次に
事件がごく軽微でありまして、罪質情状にかんがみて最初からそれ自体では
起訴に値しない
ような場合とか、あるいはそのために身柄を拘束する必要がなかろうという
ようなことが明らかな場合にはやはり
逮捕状請求権の濫用である、刑事訴訟規則の第一条二項の
規定によりましても、
捜査上の権利は誠実にこれを行使しなければならないということをはつきり
規定いたしておりますので、そういう
ような見地から濫用の法理を使
つてそういう妥当性のない
逮捕状は却下すべきであるということをかたく申合せしておるわけであります。従いましてこの理論としては積極説、消極説というふうにわかれておりますが、実際の解決においてはこの
逮捕権の濫用の法理、そういう
考えによ
つて不当な場合を是正いたしておるわけであります。ところで問題は相当性の判断、妥当性の判断を裁判官が持
つた場合に、はたしてどの
程度現状がよくなるだろうかという点でありますが、これは
捜査手続の根本に触れる問題でありまして、私どもの方の裁判所のものよりもむしろ
法務省、検察庁が御専門でありますが、
逮捕状の制度といいますのは、これは申すまでもなくアメリカの
逮捕令状の制度を受継いで来ておるものと思われます。これはやはり裁判官の令状によ
つての
逮捕でなければ
逮捕できないという憲法の
趣旨とします
捜査についての裁判官の抑制という思想から来ておるわけであります。しかしながら
逮捕状の制度は取入れてありますが、
捜査手続の仕組みそのものは英米法ではないのでありまして、やはり依然として
逮捕しておいて
警察で四十八時間調べて、それから検察庁で二十四時間調べて、それで
検察官は勾留の請求をして勾留状が出れば
原則として十日、さらに延長すれば十日というふうな仕組み、これは旧
刑訴時代の
捜査手続とそう大してかわらない手続じやなかろうか、特にアメリカの
逮捕状の制度、
捜査手続とはま
つたく異なるものである、そういう制度で、つまりどこが非常に大きな
違いかと申しますと、現行
刑訴の
捜査手続における裁判官の抑制の余地が非常に狭いのであります。ただ令状を出すだけで、そこに裁判官の抑制の作用が働くにすぎない、ところが同じ
逮捕状と申しましても、アメリカの
逮捕状は裁判官が被疑者を
逮捕して
自分の面前へ連れて来いという
趣旨の命令、つまり被疑者を
自分の目の前に連れて来て、そして
自分の面前で、
逮捕した者にちやんと被
逮捕者が有罪の判決を受け得るという見込みの立つ
ような
証拠を提出しろ、そういう制度でありまして裁判官の面前で
捜査官が
逮捕状によ
つて被
逮捕者が連れて来て、そこで
証拠を提出する、それが場合によ
つては証人等を呼んで調べる、これが例の予備審問と申しております。裁判官がそれを公開の法廷でや
つております。そこで
逮捕者の提出した
証拠が不十分であると裁判官が
考えますとただちに釈放を命ずる、そういう仕組みにな
つております。これこそがほんとうの裁判官の
捜査手続についての抑制作用であろうと思うのであります。単なる令状だけで事が定りるということはとうてい
考えられないのであります。しかしこの問題は
捜査手続の根源に関することでありまして、
ちよつとした思いつきや何かでこれを論ずることはできませんで、
法務省あたりでも十分御研究願
つてしかるべき問題だと思いますが、問題は、アメリカにおいても裁判官が
逮捕状を出します、マジストレートというこれは特別の裁判官ですが、アメリカにおいてこの
逮捕状がしばしば濫発されるという非難があるのであります。やはりアメリカでも一応は
逮捕状の要件が備わ
つておれば
逮捕状を出しておる、その点に非常な批判が加えられまして、ある人の
言葉によりますと、
逮捕権の無差別な執行というものはアメリカの刑事法規の最も非難さるべき特徴の
一つであるとすら申しておるのであります。
捜査の手続における裁判官の地位というものはアメリカと日本とはまるで違う。裁判官は
捜査の
内容に立ち入
つて審査することができない。
公判手続で裁判官は
自分で
事件を審理してその
事件の推移をよく
承知します。
従つてもうすでにこの
程度調べたら勾留の必要はないというので、被告の保釈もできる、執行停止もできる、
捜査手続では
逮捕状を渡すだけで、あとは
捜査機関の
捜査にゆだねられておる、裁判のし
ようがない、しかも
捜査の機構がまるで違う、そういう重大な差異があるということを注目しなければならないと思うのであります。
そこでアメリカで
逮捕状が濫発されているという非難がありますが、それをどういうふうにして対策が
考えられているか。これはほんの私だけの狭い調査でありまして、これで十分とは申されませんで、足りない点はどうぞほかから十分補
つていただきたいと思いますが、さしあたり私どもの
承知しております――これは私代表的文献によ
つて知
つたことでありますが、第一の方法は
逮捕状にかえて召喚状を出すという制度であります。
逮捕――身柄を押えないで召喚でいいじやないかという制度であります。ところが
逮捕状の性質が日本と違う。向うの
逮捕状は先ほど申しました
ように裁判官の面前へ、裁判所に連れて来いという
逮捕状、
逮捕は
捜査の終りというのが英米の
逮捕、新
刑訴は先ほど申しました順序で
逮捕して少しずつ調べて行くという仕組みにな
つている、そこが非常な
違いであります。そこに
一つの
逮捕状にかわる召喚状の制度、
一つの方法が
考えられておりますが、そのほか第二の
考え方としましては
逮捕状の請求について
検察官のアプルーヴアルを与え
よう、そういう
考え方であります。これはその
ように執行している州はないか、ミゾリー州ではそういうすべての
犯罪について
逮捕状請求をするときは
検察官のアプルーヴアルを経ている、そういうふうにな
つている
ようであります。またイリノイ州においては重罪については
検察官のアプルーヴアルを経なければならない。そういう
ようなことを
考えて、いろいろ、対策を
考えている
ようであります。
逮捕状の問題につきましてこの問題の根源に触れる
ような問題をつけ加えて御参考に供した次第であります。