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1952-11-13 第15回国会 参議院 厚生委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十七年十一月十三日(木曜日)    午後一時四十二分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     藤森 眞治君    理事            長島 銀藏君            藤原 道子君            堂森 芳夫君    委員            大谷 瑩潤君            小杉 繁安君            井上なつゑ君            常岡 一郎君            高田なほ子君            山下 義信君            谷口弥三郎君   国務大臣    厚 生 大 臣 山縣 勝見君   事務局側    常任委員会専門    員       草間 弘司君    常任委員会専門    員       多田 仁己君   説明員    外務省アジア局    第三課長    卜部 敏男君    厚生政務次官  越智  茂君   証人            田中賢次郎君            長谷 幸一君            田中 貞治君            小林 勇作君   —————————————   本日の会議に付した事件 ○社会保障制度に関する調査の件  (被抑留邦人状況に関する件)  (右の件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) それでは只今から厚生委員会を開会いたします。議事に入ります前に新任の山縣厚生大臣及び越智政務次官が一応御挨拶申上げたいというのでありますが、御異議ございませんですか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 御異議ないと認めます。
  4. 山縣勝見

    国務大臣山縣勝見君) 只今委員長から御紹介がございました山縣でございまするが、今回厚生大臣に就任いたしましたが、御承知通り全くの素人でございます。併し厚生行政は誠に重大でございまするから、皆様方の御指導、御鞭撻によつて、できるだけのことを尽力いたしたいと思つておりますのでよろしく御協力願いたい。ちよつと御挨拶を申上げます。
  5. 藤森眞治

  6. 越智茂

    説明員越智茂君) 私只今紹介を得ました越智でございます。今回はからずも私厚生政務次官の要職を汚すごとに相成つたのでございますが、御承知の如く浅学非才であるし、なお厚生行政につきましては全くの素人であります。幸いにいたしまして賢明な山縣厚生大臣が特に厚生行政につきましては熱と誠意を持つて当たろうという悲壮な決意で御就任せられておりまするので、私もごの大臣の良き女房役といたしまして、最大の努力を払いたいと考えておるのであります。  なお委員皆さんがたは特に我が国に必要なこの厚生行政につきまして、深き御理解を持たれるかたがたによつて構成されておるということを聞き及んでおるのであります。皆さんがたの一層の御協力を賜わりまして、この厚生行政につきましては、皆さんと共に懸命の努力を払いたいと、かように考えておりますので、一層御指導鞭撻のほどをお願いいたしまして御挨拶といたしたいと思います。
  7. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) いずれ大臣政務次官等に対する御質問等があろうと思いますが、これは他の機会に譲ることといたしまして、今日は両氏の御挨拶にとどめます。
  8. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) これから本日の議事に入りたいと思います。  本日は社会保障制度に関する調査の一環といたしまして、引揚援護対策に資するために、最近中共地区及びフイリピン地区から引揚げて参られました六名のかたがたに御出席を願いまして、被抑留邦人状況について、証人として御証言を願うことになつております。  この際に、ちよつと私から証人かたがたに御挨拶申上げたいと思います。  皆様には祖国を離れて、遠く異郷に長い年月の辛酸を嘗めて参られまして、今回御帰国になられたのでありますが、我々委員一同はその御苦労に対し衷心御同情いたし、又感謝しておる次第でございます。今回の御帰国に対してお喜びを申上げます。  当委員会はかねてから引揚問題に深関心を持ちまして、しばしば引揚問題を審議いたして参りました。そうして政府当局或いは引揚者のかたがたから引揚事情を聴取いたしまして、又残留同胞引揚促進に関して努力してきたのでございます。最近即ち先月の末、中共地区から四十八名、フィリピンのモンテンルパから二名のかたが引揚げて来られましたことを承わりました。皆様にその代表者の意味でおいでを願いまして、引揚事情についてお話を承わり、今後の参考資料にしたいと考えた次第でございます。御帰国早々でお疲れのところを誠に恐縮でございますが、何とぞよろしくお話を願いたいのでございます。  お話願います項目につきましては、すでに御通知申上げました。これは必ずしもあの項目と一致しませずとも、又それにこだわることなく率直にお話を願えれば結構と存ずる次第でございます。  それではこれから御証言を願うことにいたしますが、本日御出席証人かたがたは、委員かたがたのお手許にも名簿を差上げておきましたが、元済南日本技術人員協会田中賢次郎君、元天津ゴム庁看護庁伊崎行雄君、元北京醗酵会社長谷幸一君、元工業部看護婦苑田フジエ君、元啓化孵化場田中貞治君、元陸軍中尉小林勇作君のかたがたでございますが、そのうちこの証人伊崎行雄君は旅行中のため欠席の連絡がございましたので、本日はお出でになりません。又苑田フジエ君は遠方のために、長崎でございますので、まだ出頭しておりませんが、そのうちに遅れて御出でになりましたら、その際御証言を願うことにいたしたいと思います。  これから証人宣誓を願うことにいたしまするが、宣誓に入ります前に証人に申上げておきます。証人証言いたします場合は、虚偽の陳述をしたり、正当な理由がなく証言を拒んだりいたしますと、法律で罰せられることになつておりますが、証人のかたは又自己の不利益な点については黙秘権を行使いたしましても差支えがございませんので、念のために申上げておきます。  それでは証人のかたに順次宣誓を求めます。宣誓書の朗読を願います。総員起立を願います。    〔総員起立証人は次のように宣誓を行なつた〕     宣誓書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。        証人 田中賢次郎     宣誓書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。        証人 長谷 幸一     宣誓書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。        証人 田中 貞治     宣誓書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。        証人 小林 勇作
  9. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 御着席を願います。  それではこれから証人から順次御証言を願いますが、順序といたしまして、あらかじめ御通知申上げておきました事項について証言を頂きましたのち、全部の証言終つてから各委員のかたぞれの御質疑を願いたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  10. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 異議ないな認めまして、それでは田中証人からお願いいたします。
  11. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) 私の抑留前及び抑留後の状況でございますか。
  12. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) そうでございます。証言頂く事項については前以て申上げておりますが、これについて大体お話が願えれば結構でございます。先ほど申上げましたように、必ずしもこれにとらわれないで、御自由に大体我々の知りたい点がここだということはおわかりだと思いますから、こういうことについて御証言願えれば結構でございます。
  13. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) 私は終戦当時は、現地召集河南省のほうに行つておりましたが、そこで終戦になりまして、その年の十一月現地解除になりまして済南のほうに帰つて参りました。当時はまだ経南にありました日本の四十三軍の経理部通称村里隊言つておりましたが、そこで通訳で奉職しまして、そのまま国民党倉庫材料管理員として留用されたわけであります。それから昭和二十三年の九月に済南中共軍が入城しまして、文中共によつてそのままずつと同じ所に留用されておつたのであります。ですが中共になりましてからは、非常に給料が減りまして、五人家族、私の家族が五人でありますけれども、五人家族では生活に足りませんので、三月ほどでそこをやめまして、済南造紙廠というのがありますが、そごの汽罐部のほうに、私が以前鉄道の汽罐部関係におりましたものですから、そこの汽罐部に転職さしてもらいました。少し給料がよくなるつもりでおりましたけれども、やはり給料が安くて、その上労働が過激なものですから結局仕事が勤まりませんで、病気静養ということを理由にそこを退職さしてもらつたわけです。そうして暫く静養しておりましたが、その静養しています間、一度帰国を計画しましたけれども、旅費の都合とかいろいろそういつたものが調達できませんで、遂にその時は帰国を断念したような次第です。そうして、そのうちに昭和二十五年の四月に、済南日本技術員協会というものができまして、私が呼ばれてそこの書記のような仕事をしておつたのであります。それが二十六年の四月、例のあの中共でありました反革命分子の粛清の時に、協会会長、副会長、それから委員その他全部約九名の者が反革命分子で検挙されましたので、協会も自然崩壊しまして、解散を命ぜられました。そうして私もそれ以来本年の十月に帰国するまではずつと無職でおりました。  抑留場所につきましては、中国国民党当時は連合軍勤務司令部済南被服廠営繕課になつておりました。それから中共になりまして、やはり済南被服廠の今度修理部におりました。  それから労役の状態でありますが、私の仕事としましては、国民党当時は、先に申上げましたように材料管理材料といいますと建築でありますとか電気、水道、そういつたものの材料倉庫でありますが、そこの収発—出し入れ事務をやつておりましたので、その当時はまあ非常に仕事は楽でありましたけれども、中共になりまして造紙廠に変りましてからは、火夫—罐焚きですが、火夫—と、それから又石炭担ぎなどをやらされたので、労働に馴れない体に非常にこたえたのであります。  それから思想的教育状態でありまするが、これはちよつと速記をやめて頂きたいと思うのですが……。
  14. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) それではちよつと速記をとめて下さい。    〔速記中止
  15. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 速記を始めて。
  16. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) それから一般の日本人に対する態度でありますが、これは概して非常に一般人は良好であります。比較的好意を持つおてります。  それから引揚事情でありまするが、今までのところ向うの各公営機関留用されていた日本技術者帰国はなかなかむずかしくありました。その理由はつきり私たちにはわかりません。
  17. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) ちよつと速記をとめて。    〔速記中止
  18. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 速記を始めて。
  19. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) 私は今年の二月に帰国を申請しまして、八月に丁度半年かかつてやつと下りました。  それから今後の引揚の見通しでありますが、今年の春頃済南では各公営機関日本人留用者について、この人間は不必要であるか必要であるか、本人帰国を希望しているかどうかというような調査が来ていたようであります。これは各公営工場であります。工場日本人について調査していたようであります。それに対して日本人在留技術者はこういうような観測をしております。調査の上不必要なものは大体来年の春頃からぼつぼつ逐次返すのではないかというような希望的な観測をしているようであります。この條項については私の意見は大体そういうものでありますが、ここに私が附加えておきたいと思いますのは、帰国に当りまして、帰国旅費の問題でありますが、現在船運賃国庫負担になつておりまして、これで私たちも結局帰国ができたような有様であり、非常に感謝いたしているのでありますが、まだ一部非常に困つておられるかたで帰国できないかたがあるのであります。それは向うにおりまして、港までに出る汽車賃とか、港における滞在費、こういつたものが出ない人も中には多少いるのでございます。それをもう一歩進めまして、この船運賃に加えまして滞在費、それから旅費汽車賃、奥地から港まで出て来る汽車賃、そういつたものを国庫負担にして頂きますと、非常にそういつたたちが助かるのじやないか。この帰国促進に非常に役立つのじやないかと、こう私は思うのであります。一例を上げますと、済南に現在こういつた人がおります。御主人がさつき申しましたように、反革命分子で逮捕されまして、そうしていつ帰えるか、所在もわからない。現在そのかたは収入もなく、又売るに品物もなくて非常に困つているのであります。そうして帰えりたいと思つておりますが、港に行くまでの汽車賃もない、滞在費もない。それでどうしても帰えるに帰えれないという状態でいる人があるのであります。食べろだけは仕方がないので、その人の友人が食べるだけのことは見ておりますが、そういつた人たちに、こういつた旅費とか、天津における滞在費、港における滞在費、そういつたものを国庫負担にする途がありますと、そういつた人たちも非常に救われるのじやないかと、私はこう思うのであります。これは私の一例でありますが、こういつた人たちも多少あるのじやないかと私は考えます。私の証言は終ります。
  20. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) ありがとうございました。それでは次に長谷証人にお願いいたします。
  21. 長谷幸一

    証人長谷幸一君) 私は昭和十六年に奉天、今の落陽でございます。そちらへ参りまして、終戦まで奉天におりました。終戦のとき、丁度やはり奉天におりまして、その当時私は鉱山のほうに多少関係しておりましたのですが、終戦後とともに鉱山の開発も駄目になりまして、醸造のほうに転向しまして、今の中国で言う支那酒ですね、これの技術者として国民党留用されまして、私も家族がたくさんありまして、現在七人おりますが、終戦の翌年二十一年六月家族を返して、私も帰えるべく仕度をしておりましたのですけれども、やはり醸造技術者が是非必要だというので、強制的に国民党のほうに留用されて、そうして私だけ残された。そうして家族だけは帰りまして、それからずつと二十三年の十月までは、もうずつと国民党国営醸造工場でまあ技術者として働いておりました。丁度十月三十一日に解放になりまして、私が二十七日の日に飛行機上海のほうへ行つて上海のほうのアルコール工場仕事をやるべき筈で、その当時国民党幹部連中と一緒に貸切機でもつてつたわけなんです。そうして天津へ参りまして、天津で一応幹部連中と打合わせをして上海に行くべきであつたんです。ところが間もなく天津も又解放というような状態で、天津から上海へ立つものは幹部連中だけ、我々技術員として天津まで連れて来られた者は、天津までは飛行機で参りましたんですが、上海まで飛行機の便がなくて、結局北京のほうへ汽車でもつて私は連れて行かれた。あと幹部人たちは、上海へ行く人は行く、又台湾のほうへ行く人は行くというふうで、北京へ参りますると又北京も同時に解放、次々と解放になりまして、それで二十四年の二月完全に北京解放されまして、その当時私は解放になるまでは国民党支配下人たちに支配されて、一応二ヶ月ばかり監禁同様にあつたわけなんです。そうして監禁されている中にいよいよ解放、完全に解放してしまつたものですから、その連中は皆ちりぢりばらばら、まあ私ら技術者を放つておいて、そうして逃げてしまつた。それで私しかたないものですから、結局解放軍のほうへ外僑として届けをせんならん。それで外僑届をしてその当時解放軍からいろいろの取調べもありまして、まあ解放軍のほうの、又解放軍では今留用という立場でもなければ強制徴用というか、名目というものはさつぱり私にはわかりませんですが、まあどちらかというと強制徴用といつたような形で、私はこの醸造のほうが解放になると同時に中共政府の方針が酒のほうは専売なつたんです。それで専売局技術員として入りまして、そうして二十六年の七月に今のこの北京は非常にお膝下の関係か、昨年ですが、二十六年でございますね。二十六年に反革命鎮圧運動というものが、四月から始りまして、まあそれに殆んど、それ以前に山口というのと咲村というのは、その前の年に反革命でかかつた。結局山口隆二、この人は昨年、二十六年でございますね、八月十八日に死刑になり、それから咲村という人は今行方不明で、この行方不明になつたのは今年私が帰る約一ヶ月ばかり前に、それまでは家族が三週間に一回差入れしたり、又は面会も許されておつたんです。とえろが丁度六月から面会もさせない、それから差入れもいかない。然らば本人はどうしたかというと、今ここにおらないというだけで掴まえどころがなくして、家族の人が非常に歎いておつたことを私は聞きましたのです。それで私らは丁度昨年二十六年の七月落陽民主新聞というのを発行しておりました。この民主新聞取扱店北京にあり、そこで日本人松本廣獺というのが取扱つてつたのであります。それでそのために私らが新聞をずつと取つておりまして、そうして一応この松本という人が反革命分子として取調べを受けた。そこに高野という、これは国民党時代に何か関係があつたとか、スパイをしておつたとかいう嫌疑でつまり取調べを受けた。この新聞代理店をやつているところを本部にして取調べにがかつたわけなのです。そこへ私ら名前は全部覚えておりませんが、あとで又現在まだ引張られておる人たち名前覚えておりますから申上げますが、丁度三十八人このときひつかかつた。それは別に引張りに来てひつかかつたのではなくて、新聞取扱店をしておるのに新聞がさつぱり来ない。どうしたのだろう、皆あちらではほかに読物中国読物は余り日本人には感心せん物が多いものですから、まあ日本のニュースが知りたいというので待ちかねて、私らは新聞取り行つたのですが、そうして取りに行くと、取りに行く者を次から次へとつかまえて、そうして三十八人の者がその時取り行つて本部に収容されてしまつた。そうして結局取調べられた問題が何であつたかと言うと、要するに何か組織を持つてお前らは反動行為をやつてつたのだろう。もうすでにそういう報告が来ておるというような取調べ方で、そうして私が引張られたのが丁度七月の二十六日の朝でございました。それからまあ中国では但白(たんぽい)と言いますが、こちらでは何と言いますか、白状、自分が悪いこをしておる、特務をやつて血つたというような問題に対する但白をしろと言つて私らは取調べを受けましたが、自分思想としては多少悪い点はあるだろうが、特務行為をやつた覚えもないし、又決して今後その組織のうちで反動活動をしようといつたような考えも持つていなかつたということを順次取調べられて、約三カ月外部を調べ、内部を調べ、本人を調べいろいろとまあ調べた結果が、私の場合は、反動行為も、それからそういう組織運動もしておらなかつたということがはつきりして、それで私返えしてもらえるかと思つたところが、反革命特務行為はなかつた、併しまあ今まで取調べた点において非常に君は表現が悪い、私の表現が悪い、どういうところが表現が悪いのだ、別に係官に対して反抗の態度を見せた覚えもない、どういうところが表現が悪いかというと、言葉すべてが悪い、表現になつている。それで表現が悪いということは、結局思想が悪い、思想改造をせにやいかんというわけで、結局それから又三カ月思想改造をやらされるということになつたわけなんです。ところが思想が悪いと言われろと、もうそれに対して私は返えす言葉がない。但し反動行為をやつたという点についてはどこまでもやつた覚えがないものを、やつたと言われると、どうも反駁しなければならない、まあその間にいろいろな問題もありましたが、結局あとの三カ月、それも結局三カ月という日にちをきめないで、まあ思想改造をやれる見込みがあるというような向うの見方をした場合に、帰つてなお以上の学習をし、且つ勉強して、思想改造せよということで私は返えしてもらえましたが、それが実際に、自分がその当時に受けた学習そのものは、理論としては成るほどいいところもあるなあという感じもちよつと出て、多少興奮させられるような状態にも導かれ、又麻痺させられるような気持にもなる。まあ多少いいものかなあというようような感じを起し、持つて、結局又その半面実際に実践においてやつておることがどうであるかということを又突き合せて見ますと、どうも矛盾があるのですね、言つていることと……。そうして私を取調べる上において、決して共産党は嘘を言わない、但しお前らにも嘘を言わせないということを非常に厳格に言うのです。で、まあ私のことは自分良心に訴えて嘘は、今の反革命に対しての嘘はなかつたけれども、思想上において非常に私は嘘があるのです。ということは、今の中共地区で、私は共産党嫌いだでは通れないから、まあこれからもう少し勉強しましようという言葉言葉だけであつて本当の私の気持は、おれは日本人だ、中国人とは違うのだといつたような観念がどうしても抜けないと同時に、おのれの胸の中にはいつも日の丸が消えないのだぞ、というような感じを持つている。それを表面に現わすと又お前思想が悪いというので、いつまでたつても返してもらえないと、こういつたような、一つのあれでみれば良心的には本当でなくても、表現において又言葉においては、もう全面的に共産党に共鳴しますといつたような表現を見せなければならんといつたようなところに、私の苦しみ、まあ偽りがあつたということは申上げたいと思うのです。ところが実際共産党のどこがよくてどこが悪いと言えば、私にはまだそこまでの教養も、能力も、政治的観念なんというものは少しもなかつたものですから、そういう点において初めてそういう壁に頭をぶつけて見て、共産党のやりかたはまあこんなものか、併し自分の現在の思想はどんなものかということは、多少自分の胸に手を当てて見ればよくわかる。ところがどうも改造に熱を入れなければいつまでたつても返してくれぬというわけで、私としては一つの、どれだけというまとまつた嘘でなくても、思想改造をして工作をやりましよう、ということは、私は政治的工作でなくて、技術者ですから生産の面に大いに私は努力します。なお思想改造もいたしますということを、まあ何か学習をやつても、そうしてわからんでもわかつたような顔をして、結局階級とは何とかかんとか言うときには覚えて、それに合うようなことを言いまして、結局三カ月教育を受けた。そうしますと、これなら思想もやや改造できるのじやないかなあと、こういうふうに嘘の表現で見られたわけなんであります。そうして、まあ少しそういう徴候が見えて来たからなお帰つて努力しろ、まだお前の思想改造されているどいうことになつておらないと言われましたが、まあ返してもらいました。それが七月に引張られて、十二月二十七日に私は帰つたのであります。それから三日経つて正月があける。同時に今度中国で三反運動、五反運動というものが順次始まつて来ました。それもどういうふうに始めて、どういうふうであつたかということは、私にははつきりわからないのですが、自分が想像して考えるに、今の結局資本家打倒といつたような行き方じやなかつたかということは、結局それまで解放になつて足掛け三年の声を聞き、まだ二年満了した時期に、結局今の政府へ売り込んだ商人が搾取したとか、又は政府役人たちに賄賂を贈つたとか、又機械でも、使えないものでも使えるように売つてコミッシヨンを出して、そうしてやるというような問題が第一の問題で、次には官僚思想とか、細かい点は私にも説明ちよつとできにくいのですが、そういうものがそれに当てはまるわけです。贈賄とか、攻賄とか、又は政府の機材をごまかしたとか、それから要するに思想上には官僚的思想が抜けないというようなものが、三反という運動に始まつて、そうして大分共産党員の幹部人たちも今度は取調べも受け、そうして中、名前と人数はわかりませんが、死刑になつ共産党員も二、三人あるはずなんです。それから民間では死刑になつた人は私聞きませんが、殆んど大財閥の人たちは、そうかと言つて潰してしまわないのです。潰してしまうと生産がとまるものですから、結局罰金で、皆今まで儲けた以上のつまり罰金を納めなければならん。ですから製粉工場なんか持つておられる資本家は、殆んど工場から自分の持つている財産を投げ出してもまだ足りないといつたような結果になりまして、そういうのを最後にどういうふうに結末をつけたかということは私はわかりませんが、そういうふうで、先ず一応は大財閥の資本家は殆んど罰金で以て倒れたと言うことは語弊になりますか知りませんが、まあ殆んど或るものは没収され、或るものは罰金で以て納めなければならないと、それで私の知つた中国人の人で牧場なんか持つている人が、牛を全部売つてもまだ罰金に充当せんというので、中には気に病んで自殺したといつたような人もあると聞いております。こういうようなわけで、結局一応は大財閥の資本家はまあ倒れたという形になりましたが、まだ小資産階級の人たちは現在許され、且つ自由営業で儲けてもおるという立場でやつておられますが、結局その大財閥の人たちも、それならばやめてしまつてもう一労働者階級に落ちてしまうというわけにもさせないのですね。結局やはりそれだけ工場を経営してやつて行く人はそれだけの能力も持ち、相当のやはり手腕も持つておりますから、結局今度工人と同じ立場で、政府から工人よりはちよつとよい待遇を与えられて、やはりその工場の経営を継続して行かなければいけないといつたようなやり方で、現在もう殆んど大財閥は倒れたというふうに私は考えております。それで小資産階級はまだそこまでは行かない。ところがその間にちよつと政府として余りに急激に行き過ぎたという点は、一般大衆の非難もちよつと聞いてはおりますが、まあそういうような点では、私らは自分が財産を持つた工場を持つてつておる立場ではないものですから、結局関心は余り深くなかつたわけなんです。そうして三反運動が済んで、五反運動、五反運動も結局町の小さい商人が脱税をしておつたとか、又は暴利を貧つてつたとか、こういう点が二つ殖えて五反運動というものに移されて、そうして丁度五月の末頃までに一応三反を五反の運動は解決がついたような形になりましたが、まだあとこぼれおる人たちは、まだぼちぼちやつておるように見受けて私帰りましたが、それに対して現在私らの知つておる日本人が遡つて昨年鎮圧運動が始まると同時に引つ張られた人間が十九名まだ残つているのです。それで、その苗字を何でしたら控えておいて頂きたいと思います。名前はわからないのがありますから、苗字だけですが、松本廣瀬、高野、佐藤、名倉、庄司、笹井光太郎、羽室、三浦、金國、今西、富野、中澤、これは國というのが名前です。この人の名前はわかつております。それから富永、亀田、永田、岩村というのは、それはもう死亡しました。この人は死にましたし、永田というのが殆ど今絶望ですが、これは私の帰る一カ月前に教育隊から出しておる。この教育隊から出しても、この点が私ら非常に不満を感じ帰つたのですが、今もう絶望だというところまで教育隊で以て教育して、これはもう駄目だとなつてから、我々在留邦人たちに寄り合つて世話をせよというので、出してよこして、帰るまで私らも多少持ち合つて、そうして薬代、食事一切を今日本人でやつております。そうして、結局取調べるうちは政府のほうでいずれ薬も飲ましたでしようが、もうこれは駄目だというようになつてから出して、そうしてあと日本人の困つている人たちに見させるということも、これはちよつと間違つておるように私感じましたが、まだこの中に長坂というのも、三沢、咲村、加藤というのもおります。これだけの人間が果して何をやつたかということは、私は自分としてはつきりしたことは言えないのですけれども、先ず私がひつかかりました。又私の自分の立場から考えてみまして、これだけの人間がそう反動活動なんかやつてつたように思えないのですけれども、まあそうかと言つても、山口隆二という死刑になつた人、事実米国大使館の通訳か何かやつておられて、そうしてスパイか何かやつてつた。これは事実らしかつたのですが、結局これだけで死刑にした理由は立たないはずなのです。何で死刑になつたか、その理由は私は北京で聞いたのでは、それは毛首席を襲撃するというので、迫撃砲を以て今の検閲所が天安門といつて、これがいつもメーデーだとか、国慶節とか、建軍節とか、そういうようなときには天安門で検閲があるのです。その検閲所に毛首席がおる、それから襲撃する場所はチエンメンと言つて、前門ですね、前の門と書きますが、チェンメンの或る商家のうちを借りてそこに迫撃砲の設備がしてあつて、それから何千メートルと距離を測つて、そこから打ち出すと、丁度毛主席のおる所に行つて炸裂するという計画を立てて、そうしてそれは新聞に図面で出ておりました。それを、私ち一つと見ましたが、その当時は私は丁度まだ反革命の政治犯で取調べられておつたときですから、ただこういう人間があつた、お前らもこういうことをやつてつたのだろうということで、取調上その新聞ちよつと見せてもらつただけで、私は深いことはわからなかつた帰つて来て細かい事情がよくわかりましたのですが、そういうような人もまあ日本人にもあつた。併しこの人も果してどういうふうであつたかということは、私らでははつきりわからない。それからこの家族の人は、死刑になる前に日本に帰されておるはずなんです。そういうようなまあわけで、今まだ解放にもならない。といつてどれだけの刑にもならない。教育隊へ、果してこのうちの十九名のうちで幾たり教育隊におるかということも、私にはまだ判然としませんが、或いはほかへ連れて行かれておるものか、或いは思想改造にやられておるものか、ただ教育隊で思想改造だけで教育されておるものかということははつきりわかりませんが、現在十九名は、丁度私らが六カ月そういう教育を受けたような立場で今おられる。この人たちを何とかして今後、いずれ出て来られると思いますので、出て来たときには、まあ帰ることに対しての、家族の人から私の所にずつと帰つて来てから、約七、八人の家族から手紙が参つております。それでそれに対しては余り心配をかけないように私は返事を出しましたが、非常に心配をしておられるのです。この人たちをまあ今度ここに寄つて頂いた皆さんのお考えで、もう少し何とかいい方法を設けて頂くことがありはせんか、同時に設けて頂きたい。これは一般に今まで帰つて来られた人たちは、こういう人たちと同じような立場をふんでおられないかたはこういう言葉が出ないと思いますが、私どもは現実に、私は六カ月そういう経験をふみ、又苦しみ、なお現在まだ残つてそういう苦しみを受けておる人のことを考えると、非常にお気の毒に思うわけなのです。それでまあどういうふうにこれをして頂くかということは、これ以上は皆さんの御研究におせしたい。  それで次に、今度引揚げのまだ残つてい天たちが、この頃ちよちよい私の所に来て尋ねられる。新聞社とか又は雑誌社の方面の人から聞くに、今まで帰つて来た人たちから、中国がよくて残つてつて、もう帰りたくないと言つておる人が多いということを聞くが、どうだということを二カ所のかたから私聞きましたが、まあ一部そういう人があるかも知れませんけれども、先ず私が今まで北京で附合い、且つ北京で見た日本人は殆んど帰りたがつておる。けれども帰ると言えば思想が悪いとか言われて帰れない結果、怖くてよう言い出さずにおるというのがたくさんおります。  それから今田中さんが申上げられたように、旅費の点、この点で非常に北京なんかでは、天津へ出て天津で船に乗る間が仮に一カ月無駄をしても、まだそう大した金は要らなくて済まそうと思えば、そういう方法もあると思いますけれども、奥地方面におられる人たちが、船賃は払つてもらえるが、天津まで出るのに旅費も何にもない、食べるのがやつとこだという人たちで、帰りたくても帰れんという人がたくさんあるということは事実なんです。この人たちをどういうふうにしてまあ帰つてもらういい方法として、私が北京感じた面では、まだ中には裕福な人もおるのです。まあ今現在中国券で一ドルが二万五百円になつております。それからその一ドルが日本に来て私が取替えてもらつた金額は三百五十八円でございました。ですから結局百ドル立替えて頂けば、中国券で約二百五万、それだけ立替えてもらえれば、天津まで出て来て船へ乗るまでの旅費はできる、間に合う人がたくさんおるはずなんです。それで二百万ぐらいの金でしたら、現在中国家族も少い、それから給料をたくさんもらつて、幾らかずつでも蓄えのできておる人たちが、そういう人たちが立替えてくれるんです。ということは、私も今度帰るに際して一部立替えてもらつて帰つて参りました。今まででも大分立替えてもらつて帰つておる人がたくさんあるのです。ところが家族の者に届けると言つて帰つても、届けないかたが多いのです。そのために現在持つておる人たちが、もう出しても家族には届かない、これ以上やはり出したくないというような感情になつて来ておつて、持つてつても出さないのです。ところが家族の人に渡せる、渡してもらえるということが確実であれば、そのほうで大分これは援助が願えるわけなんです。これをどういうふうにして、これはできるかできんかわかりませんが、私の意見としては、若し日本の援護会なら援護会のかたがなお船賃以上にまあ援助してやる、できるものならば帰つて来た人に旅費として与える、払わずにたつて中国で船に乗るまでの間のほかに百万なら百万、二百万なら二百万、こちらでは要するに二百万として三万六千円、三万六千円を中国で貸してくれた人の家族に確実に渡せる、渡すということがはつきりすれば、これはこの日本からそういうことを声明しなくても、帰つて来る者に対しては連絡がなくちや帰つて来れないんですから、必ず連絡があるはずです、ですからこういうふうで家族に必ずお渡ししますという書面でも届けば、そうすれば立替えて帰してくれる人がたくさんおるはずなんです。こういう点をどういいうふうに今後御研究下さいますか、なお一つ帰す方法としての援助方法として一応考えて頂きたいと私恩つておるんです。向うから帰るに際して帰れん人からも頼まれる、又自分も帰るが、まだ今機関のほうが帰さない、どうしても仕方がない、もう暫く我慢して働く、その間働いている給料が残つて行く、それをまあ確実に自分家族に渡してくれる途があれば、どなたにでも立替えをするという希望者も、私頼まれて参りましたのです。ですからこの点をどういうふうに今後御援助して頂けるか、この点を一つ御研究願いたいと思つております。で、私が帰るときこういうかたもあつたんです。丁度四人自分の自費で以て船会社へ払い込んで、そうして帰つて来た人がおります。そのうちの私の知つておる二人は結局自分の金がなくて、やはり一緒に帰つてくる人の顔を借りて、天津技術者からたしか三百万くらい借りて来ておるはずなんです、それ以後結局これはここで申上げろということは、申上げにくい言葉ですが、一応私は申上げたい。ところがそれは事実返せる、すぐ返すという見込がない、立たないんです、立たないのですけれども、何でも帰らなければというので、帰るために嘘を言つて借りて来ているという面があるんです。そうすると貸してくれた人は、この人はもう確実に帰つたらすぐ家族に渡してくれるものなりと信じて貸した、それを私らがじつと第三者で見ておつて、帰つたつてごの先生がすぐ返せるものじやないということははつきりわかつておる。ところがそれを、非常に私はこの点を遺憾に思つておるわけなんです。そうして結局今後天津から又そういう人が出たとすると、これらの人は恐らくもう帰れないと思うのです。ですからこういう点をもう少し何らかいい方法があつたらということを私がお願いしたいわけなんでございます。そうして今一般日本人の立場として、この帰る帰らんという問題に対しては、殆んどもう皆帰りたい。これは私、自分が帰りたかつたから人もそうだろうじやなくして、もう皆帰りたいけれども、まあ中共地区にあつては共産主義に副わなければいけないということで不本意だけれども、そうしなければ飯が食えないと、こういう苦しさ、そういう悲しさがあつて結局残つているが、先ず帰つて来たいという者が大半で、残つてもいいという人は恐らく、あるかも知れませんが、ほんの一部だと私は思つて、まあこの点申上げたわけでございます。
  22. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 有難うございました。  それでは次に田中貞治君にお願いいたします。
  23. 田中貞治

    証人田中貞治君) それでは私から皆様の御趣旨により又箇條によりまして、私の知つている範囲内を申上げたいと思います。  私が以前満州国に参りましたのは昭和十六年の五月であります。目的地は浜江省木蘭県の老石房の地でありまして、長野県下伊那郡川路村開拓団に入植しました。その当時の団の状況は、先遣隊が入りました三年次でありましたが、いささか団の進歩としては非常に入植者の数の点において遅れた感がありまして、私も遺憾としましたのですが、最初から本部勤務になり、その当時の自分の職責は主に穀物の管理及び開田関係のほうの仕事に携わつたのでありますが、逐次これらの入植者も各地から殖えまして、五カ年計画の年次には大体目標に達した状況でありました。この間隣り、同じ長野県の諏訪郡富士見村の開拓団と相待つて、開拓事業もほぼ予定の量に達したのでありますが、私は主に開田地区の仕事を専任的にやつておりました。で、五カ年計画のときにはすでに個人に対する開田方面も大体その配当分が終つて終戦の年にはほぼ個人経営に移ることができたことは、自分も喜んでおつたのでありりすが、悲しいことに、この八月の十五日を以て国際関係が一挙にして変革に及んだのでございましたが、その後私は各団の幹部におきまも、又若い者の兵役にある者というのは殆んど現地召集というような状況で、残る者はすでにこの八月当時は年寄の者と、又はうんと未成年の者と、あとは女子、子供というような状況になつたので、非常にその当時は各自がこの成行を心配しておつたのでございます。併しながら非常に適切なる先生方が懸命になつてこのことをやつてつたのでありますが、そういう状況の下にいよいよ最後の団本部に各部落を終結したのが八月の十八日であります。で思い出してみまするが、路頭に迷つた惨憺たる状況は、非常に現地において体験した者は苦しみ抜いたのであります。併し私の団としましては、他の開拓団と比較しますというと、土匪といいますか、或いは匪賊といいますか、そうした襲撃は僅かの回数で終つて、安全な地帯に恵まれておつたことはほかの団と比較しまして不幸の中の幸いの一つであつたということを自分ながらも喜んでおります。これは一つ理由があつたのでありますが、越冬物資として早く入つていた塩が相当自分の団には到着しておつたのであります。これらを如何にするかということにつきましては、無論今年のうちに若しハルピン方面へ出発すればいいが、万が一の場合にはと思いまして、昭和二十一年度の四月頃までの塩は現在人員に対する余裕を残しておきまして、あとはもと苦力のいろいろ心配をしてくれたような者とか、或いは原住民の村長を現在やられておるのを一々寄びつけまして、私が団長からこの塩を無條件で引受けまして、これらに自分の保有関係を分けてやつた、いわゆる宣撫工作をしたのがあとあとで非常な効力をなしたと、こう思うのであります。隣りの富士見なんかは二回、三回、又遡つて約五、六里離れた佐久郷は殆んど団長以下戦闘によつて襲撃で団員はばらく、又は戦死された、そういうような状況があつたのであります。で、私の団から申しますと、最初の当時はこの集結した団全体で以て一切給与とか或いは食事関係のことを賄つておりましたが、逐次これを解体しまして、隣組のような構成にし、越冬準備にも着手し、終りに三月末を以て分散し、個人の自由になつたのでありますが、まだハルピンよりハルピン地方へ集結というような連絡もつきませんので、こういうようなことに解散したわけであります。併し解散しても自分の所在を明らかにするために本部へはその行先をはつきりとする、若しこちらから通知、連絡をなしたときには、それに服従して一緒で元気よく目的の場所へ行くというような相談に基いて、各自が思い思いに農耕をやるもの、或いは又以前に自分が苦力に使つた所に自分が苦力になつてつた者もあります。又その可能性のないものは、いささかこれは差しとめておきましたが、国際結婚といいますか、向うの原住民と女は結婚されたようなかたも数あるわけでございますが、これは自分が生きんがためにやつた仕事であつて、これを本部としましても差しとめるようなことができなかつたことは遺憾とするところでありました。そういう状況下にありまして、自分も木蘭の町へ下つたの一つこういう理由があるのであります。木蘭県地区の各開拓の団より接収を受けた発動機、いわゆる石油発動機又はデイーゼルなんかの大きな発動機があつたのであります。それが接収されて木蘭の県会省に運んだ、その整備と取りつけに大体来でくれないかということで私は下つたのでありますが、いささか団におりまして、そういう機械類についても多少手をつけたので幾分かその経験があつたので、まあ働くことによつて自分の生命も保障される、こういうことでそのほうに下つてその年の、昭和二十一年の九月の八日に私の家内はそれ以前に二カ月ほど前から病み続けておつて亡くなつたのであります。この間にハルピンのほうと連絡がつきまして、ほかの者はだんだん木蘭に集結し、船を待つて逐次ハルピンに転送が開始されておつたのでありますが、自分は団員として一緒に行くことが家庭の都合でできなかつたの自分として非常に残念に思つたが、終に九月の八日に亡くなつて、これを始末してハルピンへ参りますときには船はなし、仕方なしに陸路を呼蘭廻りによつてハルピンへ着いたのが九月の二十一日であります。これに着いてみますると、すでに全部ハルピン地区の転送は終つたあとであります。残念ながら自分も迷つておるときに、丁度このときには転送後の整理委員というものが政府の命令によつていわゆる留用されておるかたがありまして、この人員は大体命令で行つたのが十二、三人でありました。この中には地方庁のかたがたもあり、又ハルピンに前から在住されて相当すべてのことに明るいかたがおつたようなわけでありますが、前にお帰りになつたハルピンの鉄道部長をおやりになつてつた関さん、又はこの四年ばかり前に参られております、今吉祥寺でありますが、野原眞一郎さんというようなかたがおられた。まだそのほかにいろいろなかたがおりますが、それらのかたのお帰りには私も一時整理委員会の宿舎に泊めて頂くことになつたのであります。私と同じように各方面より難民として入るのが、五人、大人、又は一人、二人というようなふうに集つて来る数が逐次殖えて、大きな数からいいますと五十六、七人というような団体的なものも入るようになつて来たのでありますから、又収容所として作る必要を整理委員会のほうで感じまうた関係上、政府のほうへお願いして収容所の建設について家を借りることの交渉を開始し、それと同時に許可を得まして、第二回目の難民収容所というものの建設に当つたのであります。次に私のほうは内部関係について私が働くと、こういうことになつて十月のたしか十日前と思いました、大体建設が終り、それと同時に収容された人員も相当そのときにはありましたわけでありますが、で私はこの二十一年の五月までここに働いて皆様のお世話をしておりました。その場所はハルピンの斜紋頭道街に大きな、昔日本人の経営していたホテルがあつて、そのホテルが接収されて荒屋状態にあつたのをいろいろ手入れをして、幾分なりとも収容の人員をそこに入れるというような関係ができたのであります。で私は五月までそこにおつた。それからあとは以前のハルピン農大といいますか、その学校を只今は解消したような形で東北農学院と名付けましたのが……、これの実験農場のほうの畜産部のほうに私は身を転じて勤務することになつたのであります。この理由は要するに身分証明書を作ろ場合に一切自分の履歴といいますか、ここで一切自分の身柄に対する詳細なるものを作り上げて政府に出す、そのときに技術のあるものは技術を書立てる、終戦前後、現在までを細かく書くために、私はいささか畜産に関するところの素養がありましたので、これを出したのであります。これがために私はやはりそちらのほうではこれを技術者にしてということで勧められるという立場になりました。で私はそちらのほうに転任することになりました。又今以て各機関で使用する場合には三月間を大体標準として試験期に入つて、それからあとは本採用になるのでありますが、その本採用によつて自分の職場は安定した形になりました。幸いにして私は本採用にまあなつた。それと同時に自分の責務を与えられるわけであります。で私どもは家禽関係のほうという方面に自分が責任を持ちまして、実験農場のほうの畜産科の家禽部に入つたわけであります。で大体目標は三カ年計画を指示されて、それで大体の目標が定められ、これに対して設計から一切私に一任されまして作り上げておつて、でき上つたの昭和二十四年の年でありました。すでに第一年度計画は予定を立てたんだが、二年度において大体目標に定めるだけの羽数になり、又大体計画も終つて、これを辞すときの私は理由はいろいろありますが、先ほど前のおかたが申上げましたように、学習が大体職員は職員、工人は工人と、二派に分れて学習がありますが、その当時学習を離るるときにはすでにこの実験農場のほうには技術者として採用された者が七人ありました。でその中にはまあ多少語学も達者になつて中国語が何でもわかる人がありました。併し僕みたいな関係の年齢のものは比較的語学が不馴れの関係上、行つても何ら用をなさないというような状況で、自然とやはり出欠の面においても嫌気がさす状態になるわけであります。やはり学習が悪いとか批判をされるわけであります。まあこれをどうかして自分の立場を明らかにしたいために、どうも自分として意見を出すことも何だかわからない、こういう場合もあるし、又言うこともわからないということをどうかお互いが理解できるものならこういう方法をして頂きたいと私は意見を出したのです。で私には絶えず語学が不徹底なために、いつもいわゆる通訳ずきということで許可されておつたわけモありますから、まあ意見のある場合には通訳を以て私は意見を申上げる。又僕に対して何なりと伝えてもらえることはごの通訳を通じて話して頂きたいということで、私は殆んど除外的に許可をされておりましたが、まあそれらの関係上他の日本人もどうも学習に対してはまあ欠席がちであつたがために、向うでも教育関係のほうで係のものが考え出して、日本人日本人でやつたらどうだということを考え出しまして、学習材料向うで印刷物にしろ、材料にしろ、みな日本語でわかるようなものをくれるようになりました。それによつて大体工作に妨げない程度を基本として大体学習会を開くことになりました。聞いた條項をここで申上げますというと、まあ内地へ帰る話やら、学習はさておいて、多少はやつておるように見せても、内面においてはいささか不まじめな点があつたようであります。こんなような関係で過ぎ終つておるときに、私の、向うでやはり亡くしました女がありましたが、この女が非常に重病態となつて、今後これは自分のできる範囲内でまあ最後の看護をしたいという信念もありますし、又この農場の自分の責務も大体果しておるから、ここで辞したいという理由の下に、私は辞職害を出しましたわけであります。この辞職書に対してはどうも私に辞職許可書をなかなかくれないので、約三月かかつたわけであります。で、漸く許可されて、昭和二十四年四月四日に亡くなつたのであります。私が三月に辞めて一カ月ばかりたつてそれが亡くなつたのであります。私も働く場所はその間に作つてありまして、先ほども発表して頂いた天興福という養鶏場にそのときにはきまつておりましたから、そこに働いておつたのであります。この天興福というものの何は元々ハルピンに天興福製粉工場というのがありますが、ここの工場の社長が非常に日本人が好きであり又日本と以前に満州国時代にもあらゆる面において貿易関係もいろいろやつておられたかたであります。殊に私の農場におつたときはあらゆる面について非常に心配して私に一切任して、やはり養鶏場のほうを、事業的な建物もある関係上やることになつて、私がお引受けしたようなわけであります。この年の十一月、北京へ引越したのでありますが、この北京に引越した理由としては、この養鶏場を建設した建物が非常に立派な建物であつて、当時朝鮮に北朝鮮と南朝鮮の問題が起きたときから、引続いて中国関係のほうにいささか連合軍関係の攻撃的な立場から、軍事関係工場が疎開して来るために、建物の接収を受けたわけなんです。その理由のために北京へこの養鶏場が移転することになつたわけです。それに附いて私も北京のほうへ転勤ということになつたわけであります。これには非常なむずかしい問題があつたが、政府がやはりそうした養鶏場を接収し、これに対して移転するものについては相当犠牲もあつたですが、大体契約の面においてもそういつたことに援助するという部面もあつたために、鉄道なんかは自由に移動のために使用することは可能でなかつたのを、軍部関係政府関係のために鶏は約三千羽以上になりますが、それを全部北京へ運ぶことにし、それに対して資材関係も附随して運んだのですが、莫大な列車を利用したのです。これは恐らく華北ではあと先にない転住といいますか、移転といいますか、いうことであつたろうと私は思います。そんなような関係で、抑留場所をハルピンから北京へ私は移動したのでありまする  次の、労役状況といいますか、これに対しては、前のかたがたも御報告申上げたように、技術者の面におきましては非常な現今においても優遇をされます。又技術の面においてはつきりとした証明がつけば、なお一層これらの人材を利用しようとかかつております。これは各機関とも同じ状態にあります。なぜそうした日本人技術者を待遇するかということは、以前において日本であちらに施設したような面においても、あらゆる生産の面においても日本が優位に一応展開しておつたことが一大原因じやなかろうかと私は思います。すでに今日はそうした印象があるがために、我々技術者は重要視される原因が多々あると私は思います。で、有畜生産方面のそうした農業又は家畜とか畜産関係のみならず、まだ待遇関係で重視をされているのは、化学方面とか工業方面で、そういう方面に非常に技術者が不足していることは認めております。で、その技術者に対しての状況は前以て申上げたように待遇もよろしい。で、生活の面においても何ら心配のない状況であると思います。が、但し技術のないかた、まあ男子としましては余りないと思いますが、女子のかたがたの場合には非常に苦しんでいるかたも二、三見ました。それらのかたは頼りになるかたがない場合は、国際結婚といいますか、向うのかたと結婚して、それで生活を安定できるまでになつております。又日本人と意思の疎通ができまして結婚されているかたもあります。今日の華北地区内に入りましては、先ず女子のかたとしましては、大体はそういうような関係の上において生活の面は御心配ないかたがありますと思います。  思想教育の面と申しますか、これにつきましては、前のかたがたからも申上げました通り、私の心持は、郷に入つては郷に従えという語によりまして、やはり自分の心持としてそごまで行かなんでも、まあそういう心持によつて郷に従わなければ、自然と表面的になつた場合には、自分の身の立ちどころに結局あとあと心配しなければならんということになりますから、まあそういう心持ちで私は過しておりました。又一面そういうことをしたと言えば、言葉で現わせば要領がいいということになりますが、結局こういう国際状況になつてつた場合には、我々はそれよりほかに仕方がないと、私は自身自覚してやつて来たような状態です。で、まあ日本人同士が心のわかつた人たち同士で話をする場合にはそういう話もできますが、うつかりほかの話は禁物だし、お互いが気をつけるというような状況で私は過しておりました。  で、子供関係教育なんかは東北地区……今の東北地区でありますが、旧満州国地区の大都市にはすべて日本人民会の組織につきましていささか申上げてみたいと思いますが、最初は主に地方に多少なりお役に立つようなかたとか、或いはそれに適するようなかたが職責についたり、御心配をしたり、お世話をするということになつております。現在のところ大半は中国の政治面に対してはつきりとしたかたがたがやつているということを私は申上げてもこれは誤りでないと思います。新聞方面で見ましても、民会関係というものについても、そういうふうでありますから、この点は私ははつきりと言つてよろしいと思います。学校方面は、その民会のある地区には必ずもう日本人の学校が今設置されております。主に政府の援助によつて、中の教科材料及びあらゆる施設に対しては、以前には民衆の寄附金とか、或いは保護者のほうから学童に対する教育費として月月徴収の金で経営をしておつたような関係があるのでありますが、今は大体において政府の力によつて大体そういう方面を作り上げているようでございます。で教科材料としましては、この民主新聞社によつて生徒各銘々に対して教材が、主として中国の指針に基いた教材と文字を以てやつております。子供はそれによつてだんだん教わつて行くというような形になつているように思います。  で、次の抑留邦人状況につきましては、前にも申上げたように、すべて仕事に就いているかたは生活の面には大して何ら心配はないと思いますが、これらのかたがたは何どきでも日本に帰りたいということは毛頭頭から忘れたことはないだろうと思います。私初めもそうであつたのであります。だから各目的地に着いた頃は、終戦直後の日本人としましては、見るに見かねるような風采といいますか、衣服がもうぼろぼろのもので入つて来たのでありますが、この仕事に携わるようになり、又安定な地位を作り上げて来たかたは、まあ見苦しい、日本人として体面を汚さない程度までお互いがやつていることだけは御心配ないと思います。それに伴つて何どき日本へ帰れるかと思つて働いて多少の蓄財のあるかたがあつても、これが万が一病気をしたときにそのようなものを又なくしちまつて、非常に困つているかたも中にはあるということも私は申上げたいと思います。ところが東北地区はすでに皆さまも各方面からお聞きで御存じのかたもあると思いますが行政区が違つている関係か、私が最後に引揚げたほうの華北地区と非常に違つている点がありやせんかとこう思つております。どうも東北地区から引揚者が少いということ、主に華北地区から比較的引揚者が多いということは、行政関係か何かによつてこれはそうなつていやしないかということを私は思うのであります。それにつきまして、いささかちよつと参考に申上げたいと思います。速記のほうは一つお休みを願いたいと思います。
  24. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) それじや速記をとめて下さい。    〔速記中止
  25. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 速記を始めて。
  26. 田中貞治

    証人田中貞治君) 只今申上げましたほかに、人数と言いますか、概況の数と言いますか、これに対しては、まあ私はそういう方面に携わつていない関係上、ただ人の風説、或いは判断して考えまして、長野県だけでもまだ帰らないというかたが一万四千六百人ほどあるわけでありますが、これらの数字から、全国標準としてみましても、向うで現地で聞いた、輿論としまして、推定的に私は十五万以上から二十万だというようにまあ考えられるように思いますが、無論統計上のことは、こちらの当局でも常にいろいろと各方面から情報を集めておいでになるから、そういうことはおわかりのことと思いますが、まあ大体に向うで聞いた推定数と、それから長野県下だけの状況とを考えましてそのように思います。  次の一般人の日本人に対する態度と言いますか、向うの原住民は、現在では非常に可愛がつてくれますと言いますか、別に昔よく聞いていました抗日とか排日とかいうような態度はないように私は考えます。それではどんなふうであるか、こう申しますが、但しこれは一部じやなく、民衆であつて、併しここでいう警察官、向うで公安局員のかたがたは油断はしていないということは申上げます。それは甲の地から乙の地に転勤なり移住して来た場合には、各自に戸口簿といいますか、ここでいう戸籍簿みたいなものをくれます。それからいわゆる身分証明書としての一面もある。それらに基いて絶えずその人間に対して注意を持つてはつきりとしたところまでは絶えず来て調べて話をする。先ず安心となると今度はやたら来ないというようなふうであります。そんなような場面があるために、私が仮に家を借りたいと申すというと、非常に家を貸したがらない。なぜかというと、公安関係でうるさいというような感じがありやしないかというまあ程度であります。で非常に民衆は不安がつて、家を借りたいというとちよつとうるさがると、こういうような関係はあります。  それで三、四の問題に移りますが、引揚事情に対しては、私はいろいろと家庭の状況を引用しまして、幸いにして許可も早く下りましたし、又こうした御援助によつて今日無事に我々は帰れたことであつたことは、これは申すまでもございません。私のところを申しますと、やはり技術者で、余り排斥を加えられなんだ関係がありますから、なかなか許可が下がらん、こういうことで、自分の村の役場のほうからも家庭の事情の添書を送つて頂き、これに基いて自分の勤め先のところへ願いを出す。自分は年寄のために継続工作は不可能である、この二つの事由によつて工作場所の承認を得る。私、そうしたところがそれでは困るというような向うの事情によつて、大体代理を私は作りまして許可を得、これを持つて公安部のほうに願いを出して許可を得たようなわけであります。今後の引揚につきましては、前から申上げましたようなふうに、あらゆる総合的に皆様のほう又は関係かたがたが御研究下さつて、そうしてやつて頂くことを私はお願いしてやまない次第であります。余り順序がまちまちでございましたが、以上で私は終ります。
  27. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 有難うございました。それでは次にフィリピンから引揚小林勇作君にお願いいたします。
  28. 小林勇作

    証人小林勇作君) 私小林勇作でございます。十一月の四日に、フィリピンのモンテンルパ刑務所から無期の判決が無罪に決定されまして、百七名の同僚をあとに別れて帰つて参りました。実は内地に上陸してから、何らかの形で祖国の皆様に訴えたいと思つておりましたところ、本日図らずもこうした厚生委員会の機会を得まして、皆様に御報告申上げる機会ができましたことを心から喜んでおります。且つこうした機会を与えて下さいました皆様がたに深く感謝いたします。  祖国も独立してからまだ日なお浅きにかかわらず、海外に抑留されておる多くの同胞を救わんとする祖国の人々の熱情に対しては、現地におります者は衷心から感謝しております。そうして私は彼らと別れるときに、是非祖国の人々の御声援に対して感謝してくれということを強く言われて参りました。  フィリピンのモンテンルパ刑務所といいますのは、首都マニラから南方三十八キロの地点にあります。一面の丘陵地帯の一角に白亜の殿堂がありまして、それに約七千名の一般比島囚人が収容されておると言われております。その中に日本人が現在百七名収容されておるわけであります。つい最近、今まで独房に収容されていた五十九名の死刑囚が私たち無期、有期の雑房の中に移されまして、百七名の者は一つの家庭の中におるわけでありますが、併しながら死刑囚と無期、有期囚という者はおのずから区画されまして、部屋を二つに仕切られて片方に死刑囚、片方に無期、有期囚とそれぞれ収容されておるわけであります。死刑囚は青い着物、無期、有期は赤い着物を着ております。長い収容生活のうちに色は褪せ、やはり死の冷厳なる事実から離れることのできない彼らの顔は、やはり深刻な日々を今なお送なております。曾つて比島の要人から、もうこれからは死刑がないということを非公式に聞かされておりましたけれども、併しながら決して死刑の執行はないのだという確約は公式にはないわけであります。従つて死刑囚の人々の頭には、常に死というものから離れることができずに、やはり今日一日生き得たという喜び、そして夜の寝台に入る前には必ず身を清め、何とかぼろの着物も洗つたものを着て寝る、そうして不慮の場合に備えようという深刻な気持で夜を迎え、そうして朝の空気を吸つている。こういうのが死刑囚の現実であります。彼らは労働は課せられておりませんが、午前中一回、午後一回それぞれ散歩の時間が約三十分許されまして、屋外に出て日光に当ることができるわけであります。その間非常に粗末なものですけれども、バレーをやるとか或いはボール投げをやるとかというふうにして、一時でも自分の冷たい現実から離れようとする彼らの哀れな姿であります。  無期と有期の者は六十才未満以下の者はそれぞれ労働を課せられております。そうして大体モンテンルパの柵の中にあるそれぞれの作業場に行つております。主として日本人は技術を買われまして、機械工場或はい洗濯工場、或いは発電所、そういつたような方面に働いております。若干外にも出て働いております。私はその外に出て働いていいた者の一人でありますが、やはり朝七時から午前十一時半まで、午後は一時から四時まで、監視の目の下に時間内黙々と働かされているわけであります。中の日常の給与問題は、貧しいながらも比島政府はできるだけのことをしてくれております。実際刑務当局の局長は、日本人には特別にというわけではありませんけれども、刑務当局として許せる範囲の厚意は寄せていて下さいます。ですが大体モンテンルパ刑務所自体が差入れを原則としている刑務所でありますために、一般の給与というのは相当に悪い。赤い飯に石が入つている或いは籾が入つている。これが非常に多くてちよつと日本の人人には想像もつかないものであります。副食のほうはカンコンと言います現地の野草、丁度内地で言う芋蔓、そういうようなものですが、それとモンゴーという内地の小豆の小さいものですが、緑色をしたものです。そういつたものを汁に炊いて、その中に肉と或いは魚というようなものがときどき入つている。これの汁です、いわゆる汁、それが副食であつて、大体日本人の常食となつておるわけであります。量的には比較的恵まれておりますけれども、何しろ味が悪いので、日本人の口には副わないわけであります。従つて食慾も減退しております。それとやはり短い者でも七年、長くて十年ですが、そういつた長い異国の生活のために、今まで重なつた多くの精神的な悩み或いは恵まれない栄養というようなものから歯が非常に悪くなつて行くとか、或いは髪の毛が薄くなつて行くというような状態にあるわけであります。私が帰るときに彼らは何を私に頼んだか、もはや彼らには内地に帰りたいという一念以外の何物もありません。何とか内地に帰りたいというその気持だけです。もう暫らくの辛抱だというようなことの、いわゆるそういつた抽象的な言葉ではもう彼らには堪え切れない。一体いつなんだというその時間を聞きたいという切羽詰まつた気持で毎日送つておるわけであります。内地の政府或いは国民のかたがたから多くの熱情を寄せて頂き、且つ何らか解決の方法をしてやろうという御熱情はよく知つております。そうしてその実現を待つているわけでありますが、何しろフィリピン政府は、サンフランシスコの條約には調印いたしましたけれども、今なお議会においてそれが批准されておらない。地理的にもフイリピンと日本というのはどうしても友好関係になくてはならない、彼らも又それをよく知つている。何とか近き日に批准を実現さして行つたならば、日比の国交も回復されるだろうと思います。そうした機会を彼らは待ち続けておるわけであります。日本国の皆さんも、何とかフィリピンに戦時中における大きな惨禍に対して皆誠意を示して頂いたならば、批准ということも可能ではないかと考えております。当然賠償問題に絡みつく政治的な微妙な問題でありますけれども、今なおマニラ湾に横たわつているところの沈船、或いは街角に見えるビルの破壊された姿、そういうものが早く取り除かれて、日本からもたくさんの指導者が行つて、現地で指導してくれるというようなことを、できるだけ早く実行に移して行つたならば、比島国政府は友好を好んで、勢いそういつた問題が、モンテンルパにいる百七人の人々の運命の上に大きな光明を与えるのではないかと私は思つております。  極めて簡単でありますが、現地の日日の一端を御説明申上げて皆様に御報告儀いたします。終ります。
  29. 田中貞治

    証人田中貞治君) 誠に恐れ入りま託すが、ちよつと申上げたい残りがございますから、私にちよつとお話をさして頂きたいと思います。  私が今回帰りまして、皆様のかくも御配慮によつて無事に帰り、併しながら同じ同志として帰つて、全員、五年、六年前に帰られた中で亡くなられているかた、又私に関係した特別の、団長も現地において亡くなられたので、墓参をかねまして現地を先頃二日ばかり廻りましたときに、現地召集に主人が会い、又どこで亡くなつたかわからずに、子供を連れて思い出の故国に帰りましたが、今日もその子供を楽しみに多少の生計は立つておりますが、非常に悲惨なかたがあることを私は知りました。無論この更生の途は国家としましていろいろに御配慮はあるものと存じまするが、私がここで附加えて声を大きくして、これらに対して十分な御援助と指導と、更生の途を開かれんことを私はここでお願いしてやまない次第であります。  なおこうした状況下におきまして、国家の経済の変革と言いますか、貨幣の方面において一応改革しましたときがあつたのでありまするが、現地におきましていささかその当時から楽しみに、恐れ多い話でありますが、菊花の御紋章のついたお札を今日肌身離さず持つてつたそのときに当つて、こちらに帰りまして、私もいささか持つていましたが、向うでもそうして身につけて離さず今日持つているかたも少少あるのでございます。帰りましたらその法令の改正によつて今度は切替ができないということで、折角今まで肌身離さずに持つてつたが、これが取替えすることができないということは、我々の向うにおつた心持と、今日希望の国に帰つて、これがそうした交換ができないということは、国家の法令とは言いますものの、そういうときの関係上できなかつたことについて、いささかなりでも私初め又今後お帰りのかたがありましても、そうしたような心持で帰られたようなかたが、そういうようなお取扱いがあるとすれば、同じ心持だと思う。でき得れば外地から帰られた者がそうした以前の貨幣を持つて来たら、事情は、そういうことは証明によつて交換できるように私はお願いしたいと思います。以上でございます。
  30. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 苑田証人が来られるはずでありましたが、病気で今日は出られないという手紙が参りましたので、これで今日の証人からの証言は一応終りました。  つきましては委員諸君から御質問等があろうと存じますので、証人かたがたに御質問の点を質問して頂きたいと存じます。なおそのほかに証人のかたにお願いして置きますが、時間も大分たつておりますので、質問に対しては極く要領だけを簡明にお答え願うようにお願いいたして置きます。  それから委員諸君に申上げて置きますが、今日政府のほうからは外務省からはアジア局第三課長卜部敏男君、それから引揚援護庁長官、これは今ちよつと用事があつて出られましたけれども、引揚援護庁のかたが見えております。
  31. 藤原道子

    ○藤原道子君 私から外務省のかたにお伺いしたい。  虞は私マニラのモンテンルパへ七月の二十七日にお訪ねいたしまして、今の証人のがたにも現地でお目にかかつて来たわけでございます。そのときに現地で宣教師として、本当によき父ともなりよき相談相手ともなり、本当に身を粉にして働いて下さる賀川さんからいろいろお話やら御依頼を受けて参りました。そうして私は外務省へお伺いをいたしまして、そうしてその中のどうしても私聞いて頂きたいと思いましたのは、今も証人が申されましたように、差入れでどうやら賄われている刑務所に、日本の同胞には差入れというものは本当に少いのでございます。幸いにして無実のかたが多い、戦時中も原住民に対して非常に愛情を以て接せられたというようなことに、現地のかたが感謝されて、今もなお僅かながらも月に千円とか二千円というふうに差入れをしていて下さるのを、それを個人の収入にしないで、プールにして、そうして最低限の栄養を維持することができているという現状でございます。これではいけない。できるならば、内地の巣鴨には相当の費用がかかつているはずです。フィリピンにいる戦犯もやはり同胞でございます。従いまして巣鴨にかかる費用をどうぞ政府として現地の人々、マニラの戦犯のために送つてもらえないだろうか、それによつてまさに栄養失調の寸前にある同胞に是非とも元気で帰れるまで私は体を丈夫でいてもらいたい。キリノ大統領は、戦犯の命は取らないから安心しろと、はつきり私には約束して下さいましたけれども、あの講和條約で、そのときすぐ十四人という者が死刑にされております。こういうことを考えるときに、現地にいる人達に対して日本としてフィリピンに誠意を捧げると同時に、長い囚われの人達のために日本政府としての誠意を示してもらいたいということを私は早速お願いに参りました。ところがこれに対して今いろいろ調査をしているから直ちにその手続をするということを言われたはずたんです。ところがここに今日まだそれが具体化していないということが一つ。いま一つは、栄養失調と過労のために結核で倒れている方が私が会つた方でも二人ございました。そうして、外務省に対して。パスやマイシンを送つてほしいということを再三お願いしたけれども、送つてもらえない、是非お帰りになつたらすぐ送つてもらいたいということを頼まれました。これは兼願いいたしました。送つて下さつたものと思つておりました。ところがそれが送られていないのです。私は約束して来たことが本当に申訳ないと思つているようなわけでございますが、その後ナシヨリスタ党のジュラン氏がお帰りになるときに、安心して下さい、私が持つて帰りますと言われたときには、私は嬉しやら情ないやらの気持で感謝して来たのです。果して今切々として涙がごみ上げて、今の証人は私話せなかつたと思うのです。証人気持は痛いほど私わかる。こういう気持でいる人に対してこれだけのささやか希望をかなえて下さる気持があるなかどうか、このことを私は伺いたい。
  32. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) ちよつと委員の諸君にお諮りいたしますが、今日は証人に対する質問を主としているので、そうして政府に対する質問は又別の機会にしたいと思いますが、併し今折角藤原委員のお尋ねでございますから、政府のほうで御答弁があればこれだけして頂いて、あと証人に対する質問にお願いいたしたいと思います。
  33. 卜部敏男

    説明員(卜部敏男君) 御質問に対してお答え申上げます。実はモンテンルパの給与が不十分であるということがフィリピンのほうに伝わりますと、フィリピンのほうの反響が極めて悪い次第であります。その点を一つ……。
  34. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 速記をとめて下さい。    〔速記中止
  35. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 速記を始めて下さい。
  36. 高田なほ子

    高田なほ子君 田中さんにお尋ねいたしますが、今日の大体の御質問の要項の中には触れていませんが、つまり私のお伺いしたいのは、邦人の衣食住の関係はどんなふうになつているかという問題であります。それは先ほどあなたの御発言の中に非常な労働過重で、おまけに低賃金のために病気になつた、遂に病気休養という形にならざるを得なくなつたと、こういうお話がありまして、そのような病気になるような低賃金であるならば、家族のかたもどのような生活をしていらつしやるのか、衣食住の問題を一端でいいからお聞かせ願いたいということが一つ。二点は病気休養をされたその休養期間中の生活はどのようにして保障をされておつたのだろうかということが二点。もう一つは病気のときはどのような機関でどのような医療を受けておられるのかということが第三点。第四点は、御発言の中に二月に帰国申請をされて、八月に帰国できた、大変お喜びの御報告でございましたが、あとに残されたかたがたの中には、旅費がなくて帰られないというような意味の御発言があつたのでありまするが、旅費がなくて帰られないのか、その人がほかに別な事情があつて帰つて来られないのか、特に私がこういう御質問をいたしますのは、反革命分子九名が未だ非常にひどい目にあつて、そのうちの一人が遂に死んでしまつたというような悲惨な御報告を案は受けていて、単に旅費がなくて帰られないというだけでなく、こういつたような思想方面の拘束を受けて帰ることができないのだろうかという心配がありますので、その点を伺わせて頂きたいと思います。大体この四点について概略お答え願いたいと思います。
  37. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) 只今御質問になりました衣食住の問題につきましては、私の場合は当時はいわゆる解放直後でありまして、未だ給与制度が非常に整備していなかつたものでございますから、それで非常に給料も安く、私ども一家五人で喰べて行けなかつたようなわけであります。現在はそれからずつと改善になりまして、普通の中国人の工人よりはいい待遇を受けておりまして、大体四、五人で喰べられる待遇をもらつておりますので、その点は私もこちらに残つておられる御家族のかたに心配のないようにお伝え願いたいと思います。  それから私がやめまして、静養しておりました当時の生活は貯えとて別にありませんので、当座売り食いのような状態でおりました。こういう例はそうたくさんはありませんけれども、それから第三点は何でございましたでしようか。
  38. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 医療でございます。
  39. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) 医療は大体私の場合は胃弱でございましたから、胃病が非常に悪くて、ときどき胃痙攣のようなものを起したりして何かしておりまして、売薬を飲んで、別に国家からは何もしてもらつておりません。
  40. 高田なほ子

    高田なほ子君 お医者さんには十分にかかれるのでございますね。
  41. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) 子供でございますか、家族でございますか。
  42. 高田なほ子

    高田なほ子君 日本人のほうは…。
  43. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) 機関におれば、機関で或る程度みてくれますが、当時私がやめておりましたから、すべて自分自身でしなければならんことになつておりました。そういうふうな状態でございました。  それから第四点の反革命分子で逮捕されておる奥さん、これは現在のところは公安局のほうでは帰つてもよろしいという内諾はあつたのでございますが、ただ旅費の問題で行き詰つておるのでございます。その事情は私よく知つておりません。そのかたもさつき申しましたように、国家で保障するのは滞在費、それで港までの汽車賃、そういつたものが保障されれば、向うにおられるお医者とか何とか、自分自身で開業をしておられるかたは相当貯えもあるのでありまして、そういうかたから借りる方法もあるのであります。そういうふうな方法も将来何とか考えて頂きたいと、こう思うのでございます。
  44. 藤原道子

    ○藤原道子君 ちよつと続いてその点でお尋ねいたしたいのですが、機関にいれば医療が受けられるというお話でございましたが、そのとき機関で働らいていて病気になつたとしますね、医療は受けられるが、家族の生活保障というものはどういうふうになつておりますか。
  45. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) それは或る程度は機関で働いておりまして、病気になりまして休みますと、仕事を休みますと、労働総工会というものがありまして、それから二カ月なり三カ月なり給料は出るのでございます。大体半年ぐらいは出るようになつております。それまでに病気を治せばいいのです。最近は聞きますと非常にそういう衛生方面も力を入れておりまして、全従業員に健康保険でなく、健康診断、それをやりまして、肺が悪いとか、少し悪いものは転地療養をいたしております。転地療養と言つて仕事を休みまして、休養をさしております。そういうような方法も今逐次やつておるようであります。
  46. 藤原道子

    ○藤原道子君 どうも有難うございました。
  47. 高田なほ子

    高田なほ子君 ちよつともう一点伺いたい。長谷さんにちよつと伺いしたいのでございますが、先ほど大変深刻な御発言がございまして、必ずしも自分では心ではそうは思わないけれども、解放に全面的に賛成であるという表現をしないというと、なかなか帰国が遅れるために、自分本当はそうは思わないけれども、結局そういうようなことを言うというようなお話がありましたが、今日本の国内でも、学生の就職運動で、自分本当は別な政党を支持しておるのだけれども、正直に言うとなかなか就職させられないので、ちよろつと嘘を言うような空気があるのですよ。それと同じようにやはり心ではそう思つていても口では違うことを言わないと帰れないという仕組になつているのですか、今でも。
  48. 長谷幸一

    証人長谷幸一君) そうでもないのですけれども、私らの場合は、一日も早く帰してもらいたい、ところが本当にまだ自分の心は解放されておらないけれども、解放されて。マルクス、レーニンといつた理論に共鳴した、同時に今後それを勉強するということを表現しないというと、いつまでたつても、私は年寄つておるからたださえ頑固分子というような扱われ方をしておるために、まあ一つの何と言いますか、ちよつと要領よく、本当の腹の中はとにかく割り切れんところはあるけれども、まあとにかく全面的に共鳴して、とにかく勉強しますという私らは態度をとつて、そうしてまあこれなら幾らか解放できるだろうという見られ方で私は帰してもらえた、こういうふうに感じたから先ほどそういうことを申上げたのです。
  49. 高田なほ子

    高田なほ子君 ここは非常に重大なつもりでお聞きするのですが、向うは、あちら側はそう思想的な拘束をしておらないように伺えるわけです。例えば田中さんの御発言によりましても、反革命分子であるからと言つて帰さないという態度はとつておらない。又あなたの場合もそういう態度ではない、大体思想的に全部ちやんと自分のほうの考え方にならなければ帰さないという態度ではない、こういうようなお話でありますが、私もまあその点がわからないのですが、中共のほうでは別に思想的な拘束はしなぐとも、受ける側のほうの私たち日本人の側が、受けるほうの側の日本人がむしろ拘束を自分から受けておるように感じておられるのではないでしようか。
  50. 長谷幸一

    証人長谷幸一君) そういう点も大いにあるのです。第一私は三カ月は何がなし俺は政治犯だ、何も政治的に自分は考えも何もないが、併し自分の捕われている立場は政治犯だという考えが非常に恐怖心を増されてまごついておると、自分日本人だと、ひよつとすると死刑にもなるような立場になりやせんか、自分はそういう覚えはなくても、先ほど申上げた山口隆二ですな、この人は死刑になつた、その傍杖をくつて、誰もそういうことになりやせんかといつたような不安で、非常な精神的にも国体的にも疲労を感じるということは、こういうことはまあ申上げたくなかつたのですけれども、一応質問に応じてお話せんというと、私の気持の意味が現わすことができない。わからないというのは、別に昔のように縛つて叩いたり、そういうようなことは絶対しないのです。ところが一番苦痛は、夜寝てないことがある。私は最初二日までは耐えたのです。やはり、俺は政治犯だ、なに半面には俺は覚えがないのだといつたような、それともう一つには、今の日本人というまあ一つの虚勢からこんなところでへたばつてはというので、二日までは私は立つて中国では無睡状ということが罰になるのですね、つまり寝ずに考えろと、そして立つて寝させずに考えさせられる。それで私は二日目の昼三時頃に倒れたのです。とても……、それはどこまで耐え得るか、一つ耐えてみようという一つ自分の考えもあつたのですけれども、丁度寝ずに立たされ、坐ることもどうすることもできないのです。但し御飯時、便所に行く、これはそう言えば便所にやつてくれる、それから御飯時は腰かけて御飯を喰べる、三十分なら三十分、御飯が済めば又立たされる。立つてつまり二日目の一日半、時間にしますと約二十八、九時間、三十時間というところでしよう。それまで私は耐えて立つて考えた。ところが何も自分は別にやつておる覚えがないものですから別に考えないが、そのうちに身体は疲労する、倒れた。そうすると倒れると決して引ずり起して叩いたり又何かしないのです。そこには監視がおり、監視の次に工作員というのがおり、又それを取調べ中国では法官々々と言いますが、日本で言えば検事という立場になりますかね、それが報告するのです。そうするとそのときに応じて、丁度私が倒れたときに熱が少し出たのです、自分には何が何だかさつぱり覚えがなかつた、ところが調べて熱があるというので薬を飲ませたりいろいろ介抱してくれる、そういう点は非常に親切にやつてくれるのです。
  51. 高田なほ子

    高田なほ子君 どうも有難うございました。今のは民主主義新聞の問題で、あなたが三カ月間捕つたときのお話ですね。
  52. 長谷幸一

    証人長谷幸一君) そうです。
  53. 井上なつゑ

    井上なつゑ君 こちらのかたの田中さんと小林さんにちよつとお聞きしたいのですが、田中さんのお言葉の中で、たくさんあちらに残つております婦人が苦労をしているというのがお話出ておつたのですけれども、日本新聞にもちよいくそういうことが出ますのでございます。この間も何新聞でございましたか、満州のあの辺から何でも引張つて集団暴行をしたという記事が出ておりました。それからあちらで苦労した人たちの女のかたたちにその苦労を聞き出そうとしますと、皆そのことを思い出すのはいやだから聞かないでくれと言つてなかなか言わないのでございます。あちらの満州でございますか、中国のかたと結婚していらつしやるというようなことやら、又大変苦心があるということのお話でございますけれども、内地では非常にパンパンガールのことがやかましく言われておりますが、あちらでもそういうようなことをたくさん強いられてやられているような実情があるのでございましようか、ないのでございますか、それが一つ承わりたい。  それからもう一つ政府が何でございましよう、帰るお船の費用を政府が持つてくれる、船まで出る費用がないということはこの間からもやかましく言われているようでございますが、政府がお金を出すということについては、あちらでは余りいい感じを持つて迎えられないというお話でございますが、国際赤十字が動き出しているというお話でございますが、これは国際赤十字の問題についてはお聞きになつたでございましようか、お聞きになりませんでしようか、その問題が一つ、それだけお伺いしたい。  それから小林さんに伺いたしたのですが、たしか小林さんのこと、新聞で伺つたのでございますが、無期刑がどうして無罪になりましたか、ちよつとその朗報を一つお聞かせ頂きたい。
  54. 田中貞治

    証人田中貞治君) 只今の御質問にお答えいたします。私が以前民会の内部の関係をやつていた当時からもすでにそうした女性のかたがたが非常に多かつた。これは要するに現地において御主人が召集を受ける、そして遺児を持ち、その終戦後の資産で幾日か暮して行くうちには、自分の生命ということ、又独身であれば独身で身の行き方が非常に楽ですが、子供を持つておられるような女性のかたは非常に苦労された。そういう立場において日本人であればお互いが助け合うということは当然でありますが、又助けようという心持があつても、それを助けることができないかたが最初はありましたが、後日にだんだんこれらが心配にならない程度になつて来たということは、すでに男性としましても多少就職し、安定につけばこれらの人を助けたり、お互いに命があれば、ここで結婚をしてお互いが生きて行けるというような見解の下に同棲されたかたがあります。併しそれに漏れて、どうもこれができない場合のかたは、先ほど申上げたように、中国人のかたと国際的な結婚をされたが、その結婚が幸いに行つた場合はいいが、非常に複雑な状況あとで起つて、そうしてそれらの問題を民会へ持ち込んで来て解決する、そういうような問題の数はパーセントで言いますというと、中国人と結婚された数は、まあ離婚と言いますか、というような解決をするような数字は八%ぐらいに及んでおつたことを私は記憶いたしております。それらのあとはどうなつたかと言いますというと、大体お前にはこれだけの着物を著せたとか、ああだとかこうだとか言つて、金の問題を要求する、離婚する場合にはそれらのものが多く、そうしてそれらの金をどうして作つたらいいかということで非常に苦しんだ、結局又そこに行つてお世話になるというようなかたもありましたというような関係でございます。それから私忘れましたが、その次は何でございましたか。
  55. 井上なつゑ

    井上なつゑ君 売春行為をやらされていないかということ……。
  56. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 売春行為、パンパンのような強制されておらないかという御質問なんです。淫売です。
  57. 田中貞治

    証人田中貞治君) パンパンというと……そこまでは、私はえらい研究をしませんが、隠れたところでやりますからどうもわかりません。(笑声)
  58. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) 次は小林証人
  59. 小林勇作

    証人小林勇作君) 折角の御質問ですが、私が再審の結果無罪になつたということは案に晴天の霹靂でありまして、その間何ら予報もなければ、この情況はわからないのです。突然再審の結果無罪になつたという通報に接したわけであります。
  60. 藤原道子

    ○藤原道子君 長谷さんですか、田中さんでもよろしうございますが、今そちらの田中さんの御答弁でございましたけれども、実は私ども帰つたからいろいろ聞くところにきと、中国では売春、今の問題ですが、売春婦等に対しての徹底的な制度ができていて、そういうことは一切やられていない、そういうことをしなければ生きられない人に対しては、政府指導によつて就職斡旋等が行われて、売春婦を街頭で見るなんということは絶対になくなつておるというようなことを伺つておるのであります。私たちとしても、この問題は日本国内でも非常に大きな問題になつておりますので、若し少しでも御事情がおわかりでございましたら、向うのそういうことに対する状態をお聞かせ願えれば有難い、こう思つております。
  61. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) これは長谷証人からお答えになりますか、田中証人からお答えになりますか、どちらからお答えになりますか。
  62. 田中賢次郎

    証人田中賢次郎君) 長谷さんにお答え願います。
  63. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) それでは長谷証人
  64. 長谷幸一

    証人長谷幸一君) 北京での状態は、解放当時はちよつとまだありましたが、解放と合時にすべて治安が維持され、それから政治が一般に行届いて来てから、その当時私ずつと北京におりましたですが、殆んど中共政府としての方針は、日本人でなくても中国人にも、公営にしろ私営というような面でも絶対にそういう行為は差止めてしまつた。ですからそういうこちらで言う遊廓とかそういうものもなくなつた。それからそういうものでも初めのうちは隠れてやつておるという人たちのうちで、それがために死刑になつた人もあります。そうしてそれは非常に厳しく取扱いまして、そうして又最近もこの春まで三反五反の運動が始まつてからは恐らくそういうことはありませんでしたが、それまではやはりそういつた中国人の行為が仮にある、そういう者が捕まつた場合には、これは男女によらずそのまま、これはちよつと露骨な話になりますが、仮に。パンツを外しておると、そのパンツを外したその状態をそのまま引張つて、街をずつと連れて歩くわけであります。そうして人民に批判をさせるわけであります。いいか悪いかこういう状態は……、そういう点を一、二回私は見たこともあります。これは事実なんであります。ですからそういう点から行きまして、売春行為とか何とかいうことは、徹底的に取締つておる。  それから娯楽の場合では映画、麻雀なんかというものは中国が本場でありますが、ところが麻雀も娯楽でもやるべからず、禁ずる、又それ以上の娯楽という娯楽は殆んどありません。
  65. 藤原道子

    ○藤原道子君 いま一つお伺いいたします。取締だけでは解決できないと思うのでございますが、そういう場合に婦人が職業につきたい、仕事をして生きて行こうとする場合には、仕事があるのでございましようか。それから男と女との仕事の上における賃金差というものはどういう状態になつておるか。
  66. 長谷幸一

    証人長谷幸一君) そういう人たちにはまだはつきりした何は設けておられないように私は思います。なぜならば、それには家庭工業としての内職がある。そういうものを当てがうというくらいの程度で、まだ機械とかそういう方面に、それに対する能力のある人は採用しますが、そういう能力のない、普通子供を抱えて主人に死に別れたというような立場で、そういう帰還工作に努められない人たちには、結局内職ですね、そういうのを与える、内職はあるのです。ですからこの点はただやらないのは、やらない人がずるい、そういう見方を私はしたいわけです。
  67. 藤原道子

    ○藤原道子君 内職をすれば子供を抱えても生活ができるだけの収入はあるのですか。
  68. 長谷幸一

    証人長谷幸一君) どうにか収入はできます。収入が、一生懸命にやれば一日に一万円くらいの収入にはなるのです。
  69. 藤原道子

    ○藤原道子君 完全雇用というわけですね。働こうとすれば働く口はある。
  70. 長谷幸一

    証人長谷幸一君) ですから中国は働かざる者は食うべからずということを……
  71. 藤原道子

    ○藤原道子君 くどいようですが、もう一つ、これは小林証人にお伺いしたいのですが、最近横山中将も結核でお倒れになつたということを伺つておりますが、向うに原田さんですか、その他二人の結核のかたと、それから横山さんの結核の病状はその後如何でしようか、それをちよつと伺いたい。
  72. 小林勇作

    証人小林勇作君) 私こちらに参ります前にお会いして参りましたが、どの程度に菌が進行しておるのかということについてははつきりいたしておりません。最近政府、復員局を通じて薬品が到着いたしておりますから、どんどん注射をしておると思いますが、それまでは病院の薬がやはり不十分でありましたために、途中で休んでおつたということもありまして、まあ好転はしておらなかつたと思います。ですが今後よくなると思います。併しながら彼らは三人とも皆元気ではおります。
  73. 藤森眞治

    委員長藤森眞治君) それでは証人のかたには今日、御帰国早々で大変お忙しい中をおいで願いまして、いろいろ御証言願いまして有難うございました。  今日はこれで散会いたします。    午後四時四十七分散会