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証人(
田中貞治君) それでは私から
皆様の御趣旨により又箇條によりまして、私の知
つている範囲内を申上げたいと思います。
私が以前満州国に参りましたのは
昭和十六年の五月であります。目的地は浜江省木蘭県の老石房の地でありまして、長野県下伊那郡川路村開拓団に入植しました。その当時の団の
状況は、先遣隊が入りました三年次でありましたが、いささか団の進歩としては非常に入植者の数の点において遅れた感がありまして、私も遺憾としましたのですが、最初から
本部勤務になり、その当時の
自分の職責は主に穀物の
管理及び開田
関係のほうの
仕事に携わ
つたのでありますが、逐次これらの入植者も各地から殖えまして、五カ年計画の年次には大体目標に達した
状況でありました。この間隣り、同じ長野県の諏訪郡富士見村の開拓団と相待
つて、開拓事業もほぼ予定の量に達したのでありますが、私は主に開田地区の
仕事を専任的にや
つておりました。で、五カ年計画のときにはすでに個人に対する開田方面も大体その配当分が
終つて、
終戦の年にはほぼ個人経営に移ることができたことは、
自分も喜んでお
つたのでありりすが、悲しいことに、この八月の十五日を以て国際
関係が一挙にして変革に及んだのでございましたが、その後私は各団の
幹部におきまも、又若い者の兵役にある者というのは殆んど
現地召集というような
状況で、残る者はすでにこの八月当時は年寄の者と、又はうんと未成年の者と、
あとは女子、子供というような
状況にな
つたので、非常にその当時は各自がこの成行を心配してお
つたのでございます。併しながら非常に適切なる先生方が懸命にな
つてこのことをや
つてお
つたのでありますが、そういう
状況の下にいよいよ最後の団
本部に各部落を終結したのが八月の十八日であります。で思い出してみまするが、路頭に迷
つた惨憺たる
状況は、非常に現地において体験した者は苦しみ抜いたのであります。併し私の団としましては、他の開拓団と比較しますというと、土匪といいますか、或いは匪賊といいますか、そうした襲撃は僅かの回数で
終つて、安全な地帯に恵まれてお
つたことはほかの団と比較しまして不幸の中の幸いの
一つであ
つたということを
自分ながらも喜んでおります。これは
一つの
理由があ
つたのでありますが、越冬物資として早く入
つていた塩が相当
自分の団には到着してお
つたのであります。これらを如何にするかということにつきましては、無論今年のうちに若しハルピン方面へ出発すればいいが、万が一の場合にはと思いまして、
昭和二十一年度の四月頃までの塩は現在人員に対する余裕を残しておきまして、
あとはもと苦力のいろいろ心配をしてくれたような者とか、或いは原住民の村長を現在やられておるのを一々寄びつけまして、私が団長からこの塩を無條件で引受けまして、これらに
自分の保有
関係を分けてや
つた、いわゆる宣撫
工作をしたのが
あとあとで非常な効力をなしたと、こう思うのであります。隣りの富士見なんかは二回、三回、又遡
つて約五、六里離れた佐久郷は殆んど団長以下戦闘によ
つて襲撃で団員はばらく、又は戦死された、そういうような
状況があ
つたのであります。で、私の団から申しますと、最初の当時はこの集結した団全体で以て一切給与とか或いは食事
関係のことを賄
つておりましたが、逐次これを解体しまして、隣組のような構成にし、越冬準備にも着手し、終りに三月末を以て分散し、個人の自由にな
つたのでありますが、まだハルピンよりハルピン地方へ集結というような連絡もつきませんので、こういうようなことに解散したわけであります。併し解散しても
自分の所在を明らかにするために
本部へはその行先を
はつきりとする、若しこちらから通知、連絡をなしたときには、それに服従して一緒で元気よく目的の場所へ行くというような相談に基いて、各自が思い思いに農耕をやるもの、或いは又以前に
自分が苦力に使
つた所に
自分が苦力にな
つて行
つた者もあります。又その可能性のないものは、いささかこれは差しとめておきましたが、国際結婚といいますか、
向うの原住民と女は結婚されたようなかたも数あるわけでございますが、これは
自分が生きんがためにや
つた仕事であ
つて、これを
本部としましても差しとめるようなことができなか
つたことは遺憾とするところでありました。そういう
状況下にありまして、
自分も木蘭の町へ下
つたのは
一つこういう
理由があるのであります。木蘭県地区の各開拓の団より接収を受けた発動機、いわゆる石油発動機又はデイーゼルなんかの大きな発動機があ
つたのであります。それが接収されて木蘭の県会省に運んだ、その整備と
取りつけに大体来でくれないかということで私は下
つたのでありますが、いささか団におりまして、そういう機械類についても多少手をつけたので幾分かその経験があ
つたので、まあ働くことによ
つて自分の生命も保障される、こういうことでそのほうに下
つてその年の、
昭和二十一年の九月の八日に私の家内はそれ以前に二カ月ほど前から病み続けてお
つて亡くな
つたのであります。この間にハルピンのほうと連絡がつきまして、ほかの者はだんだん木蘭に集結し、船を待
つて逐次ハルピンに転送が開始されてお
つたのでありますが、
自分は団員として一緒に行くことが家庭の都合でできなか
つたのは
自分として非常に残念に
思つたが、終に九月の八日に亡くな
つて、これを始末してハルピンへ参りますときには船はなし、仕方なしに陸路を呼蘭廻りによ
つてハルピンへ着いたのが九月の二十一日であります。これに着いてみますると、すでに全部ハルピン地区の転送は終
つたあとであります。残念ながら
自分も迷
つておるときに、丁度このときには転送後の整理
委員というものが
政府の命令によ
つていわゆる
留用されておるかたがありまして、この人員は大体命令で
行つたのが十二、三人でありました。この中には地方庁の
かたがたもあり、又ハルピンに前から在住されて相当すべてのことに明るいかたがお
つたようなわけでありますが、前にお帰りに
なつたハルピンの鉄道部長をおやりにな
つてお
つた関さん、又はこの四年ばかり前に参られております、今吉祥寺でありますが、野原眞一郎さんというようなかたがおられた。まだそのほかにいろいろなかたがおりますが、それらのかたのお帰りには私も一時整理
委員会の宿舎に泊めて頂くことにな
つたのであります。私と同じように各方面より難民として入るのが、五人、大人、又は一人、二人というようなふうに集
つて来る数が逐次殖えて、大きな数からいいますと五十六、七人というような団体的なものも入るようにな
つて来たのでありますから、又収容所として作る必要を整理
委員会のほうで
感じまうた
関係上、
政府のほうへお願いして収容所の建設について家を借りることの交渉を開始し、それと同時に許可を得まして、第二回目の難民収容所というものの建設に当
つたのであります。次に私のほうは内部
関係について私が働くと、こういうことにな
つて十月のたしか十日前と思いました、大体建設が終り、それと同時に収容された人員も相当そのときにはありましたわけでありますが、で私はこの二十一年の五月までここに働いて
皆様のお世話をしておりました。その場所はハルピンの斜紋頭道街に大きな、昔
日本人の経営していたホテルがあ
つて、そのホテルが接収されて荒屋
状態にあ
つたのをいろいろ手入れをして、幾分なりとも収容の人員をそこに入れるというような
関係ができたのであります。で私は五月までそこにお
つた。それから
あとは以前のハルピン農大といいますか、その学校を
只今は解消したような形で東北農学院と名付けましたのが……、これの実験農場のほうの畜産部のほうに私は身を転じて勤務することにな
つたのであります。この
理由は要するに身分証明書を作ろ場合に一切
自分の履歴といいますか、ここで一切
自分の身柄に対する詳細なるものを作り上げて
政府に出す、そのときに技術のあるものは技術を書立てる、
終戦前後、現在までを細かく書くために、私はいささか畜産に関するところの素養がありましたので、これを出したのであります。これがために私はやはりそちらのほうではこれを
技術者にしてということで勧められるという立場になりました。で私はそちらのほうに転任することになりました。又今以て各機関で使用する場合には三月間を大体標準として試験期に入
つて、それから
あとは本採用になるのでありますが、その本採用によ
つて自分の職場は安定した形になりました。幸いにして私は本採用にまあ
なつた。それと同時に
自分の責務を与えられるわけであります。で私どもは家禽
関係のほうという方面に
自分が責任を持ちまして、実験農場のほうの畜産科の家禽部に入
つたわけであります。で大体目標は三カ年計画を指示されて、それで大体の目標が定められ、これに対して設計から一切私に一任されまして作り上げてお
つて、でき上
つたのが
昭和二十四年の年でありました。すでに第一年度計画は予定を立て
たんだが、二年度において大体目標に定めるだけの羽数になり、又大体計画も
終つて、これを辞すときの私は
理由はいろいろありますが、先ほど前のおかたが申上げましたように、
学習が大体職員は職員、工人は工人と、二派に分れて
学習がありますが、その当時
学習を離るるときにはすでにこの実験農場のほうには
技術者として採用された者が七人ありました。でその中にはまあ多少語学も達者にな
つて中国語が何でもわかる人がありました。併し僕みたいな
関係の年齢のものは比較的語学が不馴れの
関係上、
行つても何ら用をなさないというような
状況で、自然とやはり出欠の面においても嫌気がさす
状態になるわけであります。やはり
学習が悪いとか批判をされるわけであります。まあこれをどうかして
自分の立場を明らかにしたいために、どうも
自分として意見を出すことも何だかわからない、こういう場合もあるし、又言うこともわからないということをどうかお互いが理解できるものならこういう方法をして頂きたいと私は意見を出したのです。で私には絶えず語学が不徹底なために、いつもいわゆる通訳ずきということで許可されてお
つたわけモありますから、まあ意見のある場合には通訳を以て私は意見を申上げる。又僕に対して何なりと伝えてもらえることはごの通訳を通じて話して頂きたいということで、私は殆んど除外的に許可をされておりましたが、まあそれらの
関係上他の
日本人もどうも
学習に対してはまあ欠席がちであ
つたがために、
向うでも
教育関係のほうで係のものが考え出して、
日本人は
日本人でや
つたらどうだということを考え出しまして、
学習の
材料も
向うで印刷物にしろ、
材料にしろ、みな
日本語でわかるようなものをくれるようになりました。それによ
つて大体
工作に妨げない程度を基本として大体
学習会を開くことになりました。聞いた
條項をここで申上げますというと、まあ内地へ帰る話やら、
学習はさておいて、多少はや
つておるように見せても、内面においてはいささか不まじめな点があ
つたようであります。こんなような
関係で過ぎ
終つておるときに、私の、
向うでやはり亡くしました女がありましたが、この女が非常に重病態とな
つて、今後これは
自分のできる範囲内でまあ最後の看護をしたいという信念もありますし、又この農場の
自分の責務も大体果しておるから、ここで辞したいという
理由の下に、私は辞職害を出しましたわけであります。この辞職書に対してはどうも私に辞職許可書をなかなかくれないので、約三月かか
つたわけであります。で、漸く許可されて、
昭和二十四年四月四日に亡くな
つたのであります。私が三月に辞めて一カ月ばかりた
つてそれが亡くな
つたのであります。私も働く場所はその間に作
つてありまして、先ほども発表して頂いた天興福という養鶏場にそのときにはきま
つておりましたから、そこに働いてお
つたのであります。この天興福というものの何は元々ハルピンに天興福製粉
工場というのがありますが、ここの
工場の社長が非常に
日本人が好きであり又
日本と以前に満州国時代にもあらゆる面において貿易
関係もいろいろや
つておられたかたであります。殊に私の農場にお
つたときはあらゆる面について非常に心配して私に一切任して、やはり養鶏場のほうを、事業的な建物もある
関係上やることにな
つて、私がお引受けしたようなわけであります。この年の十一月、
北京へ引越したのでありますが、この
北京に引越した
理由としては、この養鶏場を建設した建物が非常に立派な建物であ
つて、当時朝鮮に北朝鮮と南朝鮮の問題が起きたときから、引続いて
中国関係のほうにいささか連合軍
関係の攻撃的な立場から、軍事
関係の
工場が疎開して来るために、建物の接収を受けたわけなんです。その
理由のために
北京へこの養鶏場が移転することに
なつたわけです。それに附いて私も
北京のほうへ転勤ということに
なつたわけであります。これには非常なむずかしい問題があ
つたが、
政府がやはりそうした養鶏場を接収し、これに対して移転するものについては相当犠牲もあ
つたですが、大体契約の面においてもそうい
つたことに援助するという部面もあ
つたために、鉄道なんかは自由に移動のために使用することは可能でなか
つたのを、軍部
関係又
政府関係のために鶏は約三千羽以上になりますが、それを全部
北京へ運ぶことにし、それに対して資材
関係も附随して運んだのですが、莫大な列車を利用したのです。これは恐らく華北では
あと先にない転住といいますか、移転といいますか、いうことであ
つたろうと私は思います。そんなような
関係で、
抑留場所をハルピンから
北京へ私は移動したのでありまする
次の、労役
状況といいますか、これに対しては、前の
かたがたも御報告申上げたように、
技術者の面におきましては非常な現今においても優遇をされます。又技術の面において
はつきりとした証明がつけば、なお一層これらの人材を利用しようとかか
つております。これは各機関とも同じ
状態にあります。なぜそうした
日本人の
技術者を待遇するかということは、以前において
日本であちらに施設したような面においても、あらゆる生産の面においても
日本が優位に一応展開してお
つたことが一大原因じやなかろうかと私は思います。すでに今日はそうした印象があるがために、我々
技術者は重要視される原因が多々あると私は思います。で、有畜生産方面のそうした農業又は家畜とか畜産
関係のみならず、まだ待遇
関係で重視をされているのは、化学方面とか工業方面で、そういう方面に非常に
技術者が不足していることは認めております。で、その
技術者に対しての
状況は前以て申上げたように待遇もよろしい。で、生活の面においても何ら心配のない
状況であると思います。が、但し技術のないかた、まあ男子としましては余りないと思いますが、女子の
かたがたの場合には非常に苦しんでいるかたも二、三見ました。それらのかたは頼りになるかたがない場合は、国際結婚といいますか、
向うのかたと結婚して、それで生活を安定できるまでにな
つております。又
日本人と意思の疎通ができまして結婚されているかたもあります。今日の華北地区内に入りましては、先ず女子のかたとしましては、大体はそういうような
関係の上において生活の面は御心配ないかたがありますと思います。
思想教育の面と申しますか、これにつきましては、前の
かたがたからも申上げました
通り、私の心持は、郷に入
つては郷に従えという語によりまして、やはり
自分の心持としてそごまで行かなんでも、まあそういう心持によ
つて郷に従わなければ、自然と表面的に
なつた場合には、
自分の身の立ちどころに結局
あとあと心配しなければならんということになりますから、まあそういう心持ちで私は過しておりました。又一面そういうことをしたと言えば、
言葉で現わせば要領がいいということになりますが、結局こういう国際
状況にな
つて行
つた場合には、我々はそれよりほかに仕方がないと、私は自身自覚してや
つて来たような
状態です。で、まあ
日本人同士が心のわか
つた人たち同士で話をする場合にはそういう話もできますが、うつかりほかの話は禁物だし、お互いが気をつけるというような
状況で私は過しておりました。
で、子供
関係の
教育なんかは東北地区……今の東北地区でありますが、旧満州国地区の大都市にはすべて
日本人民会の
組織につきましていささか申上げてみたいと思いますが、最初は主に地方に多少なりお役に立つようなかたとか、或いはそれに適するようなかたが職責についたり、御心配をしたり、お世話をするということにな
つております。現在のところ大半は
中国の政治面に対して
はつきりとした
かたがたがや
つているということを私は申上げてもこれは誤りでないと思います。
新聞方面で見ましても、民会
関係というものについても、そういうふうでありますから、この点は私は
はつきりと
言つてよろしいと思います。学校方面は、その民会のある地区には必ずもう
日本人の学校が今設置されております。主に
政府の援助によ
つて、中の教科
材料及びあらゆる施設に対しては、以前には民衆の寄附金とか、或いは保護者のほうから学童に対する
教育費として月月徴収の金で経営をしてお
つたような
関係があるのでありますが、今は大体において
政府の力によ
つて大体そういう方面を作り上げているようでございます。で教科
材料としましては、この
民主新聞社によ
つて生徒各銘々に対して教材が、主として
中国の指針に基いた教材と文字を以てや
つております。子供はそれによ
つてだんだん教わ
つて行くというような形にな
つているように思います。
で、次の
抑留邦人の
状況につきましては、前にも申上げたように、すべて
仕事に就いているかたは生活の面には大して何ら心配はないと思いますが、これらの
かたがたは何どきでも
日本に帰りたいということは毛頭頭から忘れたことはないだろうと思います。私初めもそうであ
つたのであります。だから各目的地に着いた頃は、
終戦直後の
日本人としましては、見るに見かねるような風采といいますか、衣服がもうぼろぼろのもので入
つて来たのでありますが、この
仕事に携わるようになり、又安定な地位を作り上げて来たかたは、まあ見苦しい、
日本人として体面を汚さない程度までお互いがや
つていることだけは御心配ないと思います。それに伴
つて何どき
日本へ帰れるかと思
つて働いて多少の蓄財のあるかたがあ
つても、これが万が一病気をしたときにそのようなものを又なくしちま
つて、非常に困
つているかたも中にはあるということも私は申上げたいと思います。ところが東北地区はすでに皆さまも各方面からお聞きで御存じのかたもあると思いますが行政区が違
つている
関係か、私が最後に
引揚げたほうの華北地区と非常に違
つている点がありやせんかとこう思
つております。どうも東北地区から
引揚者が少いということ、主に華北地区から比較的
引揚者が多いということは、行政
関係か何かによ
つてこれはそうな
つていやしないかということを私は思うのであります。それにつきまして、いささか
ちよつと参考に申上げたいと思います。
速記のほうは
一つお休みを願いたいと思います。