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内山証人 それはたしか
昭和十一年か二年だと思いますが、私実は数字の記憶が非常に悪いので、あしからずお許しを
願いたいと思います。たしか十一年か十二年だと思います。
そしてそのときの話によると、遠山滿という劇団の座付作者として、青島をまわ
つて上海まで来たようであります。そうして、私はこういう一座におりたくない、ぜひひとつ
中国文学をもつと身を入れて勉強したいと思うということでありまして、私は一面識でありましたけれども、それはよかろうと申しました。見まするなり、実は非常にまじめないい青年だと思いましたので、当時私の家と非常に親しい
関係にありました文豪魯迅が始終参りますので、魯迅
先生に私が
鹿地君を紹介いたしましたところ、ひとつよく話してみましようというようなことから、
自分の家へ連れて帰
つて話をされたようでありました。後に、非常にまじめなよい青年であります、だからひとつ私が教えましようというて、魯迅
先生がそれから以後は非常に親切に教えてくだす
つたわけであります。
しかし
生活費をどうして出すかという問題から、まず
生活費というものは
自分で稼ぐことが第一だ、だからひとつ
自分で稼ぐことをやるがよかろうというので、また私の友人であり、当時
上海日報に勤めておりました
新聞記者の日高清磨瑳と申します人、この人は現在宮崎市の日向日日
新聞の重役をしておりますが、この日高君にまた紹介いたしまして、ひとつ援助してや
つてくれということで、日高君は同文書院の卒業でありますために、
中国語に堪能でありましたので、日高君の
中国語と、
鹿地君の
日本の勉強である国文とをつきまぜて、そして
中国文学を翻訳して
生活を立てるということを
——実はこれは私がか
つてに考えたわけでありますが、そういうことを考えまして、私の友人でありまする、この間死にました改造社の社長山本實彦氏に私から手紙を出しまして、魯迅の選によ
つて中国の新しい文学を
日本に紹介したいと思う、改造でこれを毎月文芸の面において一篇ずつ発表したらどうかということを私が照会いたしましたところが、山本氏から、それは非常におもしろい、しかるべくや
つてくれ、おれの方は毎月それを掲載するからということでありまして、それから五回ばかり
中国の新しい文学を改造に載せたのでありますが、当時
日本では
中国に対する考え方が非常に浅か
つた。相かわらず日清
戦争ころのような考え方で
中国を見ておる人が多か
つたと見えまして、さすがの改造も、
中国文学は非常に評判が悪いので、これ以上続けることができないということで、それは終りになりました。しかしその間とにかく毎月一篇ずつ翻訳して載せておりましたために、
鹿地者の翻訳も大分上手にな
つたようでありました。その後あまりかわ
つたことはありませんでしたが、それがやまりましてからも、なお
鹿地君は翻訳を続けまして、中央公論あるいは文芸春秋とか朝日
新聞とか、そうした方面に短かいものを翻訳しては載せておりました。それが彼の
生活の資であ
つたのであります。
その後大したこともなしにずつと送
つておりますうちに魯迅が病気いたしまして、その病気がこうじて、一九三六年十月十九日に遂に魯迅はなくな
つたのであります。その魯迅がなくなりましたときにも、
鹿地君は非常にごやつかいにな
つておりました
関係から、いろいろよく
世話をしてくれました。そして間もなく改造社から佐藤春夫編集
顧問を中心にして魯迅の全集を
日本で出版したいと思う、よろしく頼むという手紙が参りましたので、私もいろいろ奔走いたしまして、魯迅の未亡人であります許廣平と申します夫人と、それから魯迅の愛弟子でありまする湖風、そうした人々を加えまして、
鹿地君、それから日高君などにともに翻訳の衝に当
つてもらうことになりまして、その他翻訳者はたくさんありましたが、七冊の第一巻から第七巻までの大魯迅全集というのが
日本で出版されたのであります。その翻訳の特に雑文の部分は
鹿地君がほとんど引受けて翻訳したものであります。その間も翻訳料が入りますために、
生活はとにかく一人前の
生活を続けて来たわけであ
ります。その間において、今日の夫人でありまする池田幸子氏と結婚したわけであります。そうしまして私たちは常に近いところに住まいして往来してお
つたわけであります。私の方はまたいろいろの方が来られていろいろのことがありますために、その都度文学の
関係の人のことでありますと、ときどきお手伝いを願
つておりましたが、
鹿地者も多くの
中国人との間に友達ができるようになりました。
鹿地君が病気いたしまして、たしか国民
病院にわずかの間でありましたが入院したことがありました。その後また
鹿地君の夫人が病気いたしました。これは
戦争の始まる直前であります。
日本人の
病院に入院いたしますと、これは盲腸炎であるというので、切開しなければならぬというのでありましたが、本人は切開をきらいまして帰
つて来ました。その当時
鹿地君は魯迅全集の翻訳の
関係上、魯迅の未亡人の住まいの近所に移ることが非常に便利だということで、その間にもはやフランス租界の魯迅未亡人の宅に近いところに部屋を借りて移
つておりましたが、そこへ帰
つて参りまして、さらに当時、ドイツからたしかナチスの
関係で追い出されたというお
医者さんがありまして、その人に診察を受けたところが、これは盲腸炎ではない、子宮病だということで、わずかに十日間ばかりの薬をもら
つてその病気は全快したのであります。