○山口(傳)政府
委員 ただいま第一、第二大邦丸の拿捕事件の真相について御
質問がございましたが、実は昨夜海上保安庁の本庁の方へ、現地の佐世保海上保安部から電話である程度の情報が入
つておりますので、まずそれを御報告申し上げます。これは実は書類にして差上げようと思いましたが、時間の余裕がないので、いずれ後刻印刷にして提出いたしたいと思
つております。
第一、第二大邦丸は、米国の軍艦に護衛されまして、昨日の午後三時二十分佐世保におけるアメリカ海軍のベースに到着いたしました。しかしいまだこれを佐世保の海上保安部の方へ引渡すけはいがなくて、同日二時半に同地のアメリカ側の司令部から次のような連絡があ
つたわけであります。十八日、すなわちあすでありますが、あすの午後四時リツチモンド、これはあそこの防衛部隊の旗艦でありまして、そのリツチモンド号においてオールソン少将、この方はあそこの司令官であるらしいのです。オールルソン少将から、佐世保の海上保安部長と、それから第一、第二大邦丸の船主である大邦水産の大野社長の来艦を待つという連絡がございました。
従つていまだ船並びに船員の引渡しを受けておらないのであります。次に、これは向うと交渉いたしまして、第二大邦丸の通信士である切手律君に会わしてもらいまして、この方からいろいろと聴取いたしたわけであります。すなわち拿捕当時の模様及び拿捕後の
措置であります。これは電話連絡で十分わか
つておりませんが、大体電話の要旨をそのまま申し上げます。
当時第一、二第大邦丸は二百七十三と、二百八十三区の中間で操業中、去る四日午前八時ごろ、韓国の手繰り船第一、第二昌運号、これは約五十トンくらいの船で、速力が九ノツトないし十ノツト、船橋に韓国旗を掲げておりました。これが北東方面より近づいて、魚はとれるか、という声をかけられました。数日前に同様のことが他の漁船にもあ
つた情報を大邦丸は承知しておりましたので、何ら心配もせずにそれに受答えをしてお
つたのでありましたが、八時五分また近づいて参りまして、銃撃を受けた、その際、国防色戦闘服を着た兵隊らしい人が自動小銃と思われるものを持
つてお
つて、約四十発ぐらい発射して来た。第一大邦丸に二十発、第二大邦丸に五ないし六発玉を受けた。八時十分第一大邦丸の漁撈長である瀬戸重次郎氏が右後頭部に盲貫銃創を受け、その後船は済州島の翰林という方に引つぱられて行
つたわけでありますが、十一時にその翰林港に入港し、ただちに病院に入れて診断は受けたようであります。お互いにその
責任を転嫁して要領を得ない。それで同人は、その日の午後十一時遂に死亡されたようであります。それで
責任の所在を確かめるために解剖を
願つたところ、頭の中からカービン銃弾が出て来た。七日の日に死体は翰林郊外で火葬に付した。その間におきまして魚は千六百五十箱没収された、魚の種類はかながしら、かれいというようなものであ
つたそうであります。乗組員は軟禁
状態で、憲兵あるいは特務機関等の尋問を受けました。その尋問の要旨は、これは答えは知らして参
つておりませんが、まず第一に領海に入り魚を盗むとはけしからぬ。次に共産党員ではないか。思想は何か。操業の位置はどこだ。その他住所、生活
状態、財産
状態、拿捕当時の感想、これらのことを尋問を受けたようであります。それから越えて二月の十日から十五日まで済州島の警察に留置された。食糧はあら麦三合、副食はほんだわらの塩づけを給せられた、その間に無線機械あるいは測量機械の部分品等がかなり盗難にあ
つたということであります。なお尋問中に第一昌運号の供述調書をぬすみ見たところ、六十メートルに接近、停船を命じたが、停船せぬので発砲と記載しておるようであ
つた。これは本人の言うことでありますが、但し本船はさような信号を受けていないと申しております。それから警察の倉庫番、これは従前に林兼に勤務したことがあるもののようでありますが、その人の話によりますと、前日すなわち二月の三日の日に、この拿捕しました昌運丸が、二十時――午後の八時でありますが、翰林港に入港して密告をした由であります。
それから内地返還のために米軍に引渡されたときに、韓国の水上警察あるいは査察
課長は漁撈長の死に同情し、かつ早く
漁業協定を結ぶべく努力するつもりだから、帰国したら妄動をせぬように希望をした由であります。それから帰国にあたりましては、食糧を要求いたしましたが、これは聞き届けられず、物々交換でメリケン粉などを入手した。乗組員は全部元気である。なお、これから先は余分なことでございますが、
ちよつと速記を……。