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久米証人 それはいずれもみな古い経験のある人で、同時に交易営団の松屋の再
鑑定にも見えてお
つた方です。その二人の人はずつと昔御木本にお
つたこともありますし、私も古くからよく性質もみな知
つておる人であります。
それでまず格付といいますのは品質の格付でありますから、これをどういうふうに持
つて行くかというので、私は非常に苦しんだのであります。従来、外国方面には色の点、傷の入
つておる点などというふうなことにつきまして、八、九段階の品質の等級別をつけておるのであります。しかしその等級別をつけてお
つても、これもはなはだ不確かなものでありまして、はつきりと、たとえば一級品のヤーガーならヤーガーというものにふさわしいものは、Aの人は幾らか違う、Bの人はまたこれに対して幾らか違うというふうに、はなはだ厳格な
意味において徹底しないのであります。それでこの十万カラツトの、
ダイヤモンドを、どういうふうな格付を持
つてやるかということについていろいろ考えました結果、まず色による格付と、カツト並びに中に入
つている傷なんかに対する格付と両方持
つて来て、それを組み合せるという方法で、同時に占領軍につかまえられてお
つて、
日本人がこれを分類選別をして、あとで、こんなひどい、くだらぬことをやりお
つたと言われるのが私はしやくですから、それですから、それで最も注意を払いまして、その格付の方法を
一つここに考えたのであります。それはまず色の点におきましてAからFに至る六段階、それから傷とかいうふうな点におきまして同じくAからFに至る六段階、この六段階六段階の標準の格付をきめまして、これの組合せで行こうという順序をと
つたのであります。たとえば現在ここにおります荻野さんは、この間御見学になりましたけれ
ども、袋の上にFAとかFEとか書いてありますのは、あそこの
進駐軍に置いてあ
つた格付なのであります。それで今のABあるいはAFというような格付は、万国共通の格付ではありませんで、
進駐軍並びに今度大蔵省に移管した十何万カラツトの
ダイヤモンドに対する格付の標示であります。しかしその格付というものは、むろん従来の欧米の
ダイヤモンドの格付の方面には全部リンクしてありまして、たとえばここに専門家が参りまして、ある銀行のABはどういうふうな見当の品種別に
なつておるかということをちよつと見てもらえば、ずつと統一して十六万カラツトのものが大体わかるような配列に
なつておるのです。それでその格付のもとにやるということで、とにかく占領軍の方の同意を得まして、それから仕事にかか
つたのでありますが、今の
ダイヤモンド、そのときには結局は十一万二千カラツトぐらいに
なつたのでありますが、それが品種、大小すべてぐしやつと入
つておりまして、どうにも手のつけようがないのです。石も非常によごれておりましたし、いろいろ考えまして、十段階の大きさにふるいでふるいわけるという段取りをつけました。それは大きな石と小さな石を一緒にいたしますと、小さな石が大きな石の横の方にくついたり何かいたしまして、非常に取扱いも困るし、また紛失することもありますから、十段階のサイズにふるいわけをやりまして、一番大きいのを苛性ソーダできれいに洗い上げて、そうしてかわかしてかつきりした目方をと
つて、その分はその分で一時
進駐軍の係の人に納めてもら
つて、それから第二次の大きさのものを同様の手順を経て全部洗い上げて、全部別々の正確な目方をと
つて、それで一時納めたのであります。それからまた値段の格付をどうするかと申しますので、今の
進駐軍の話が起
つて来ますと同時に——そのときには別に値段の話はありませんでした。しかしこれはどうしても起
つて来るという私の前提のもとに、山田に帰
つたあとすぐ、戦争中の為替統制まぎわにおいてこちらに輸入されたものの価格、それからまたこれまで私が若干集めておりましたいろいろな方面の価格、それは卸もありますし、小売値段もありますし、また輸入価格もあります。それから交易営団あたりの値段もみな織り込みました。それで下手な値段をつけると、あとで物笑いになる。一個や二個の
ダイヤモンドならどうつけておこうが、それはそのときの出たとこ勝負できめるわけでありますけれ
ども、十万カラヅトのものを整理選別して値段の格付をするということは、なかなか容易なことではないので、しやにむにいろいろな値段の数字を集めたのであります。ちようど一九四〇年までは、私の
手元に外国の雑誌だとか合衆国政府の年報だとかいうふうなものがあ
つたのでありますけれ
ども、一九四〇年から四六年にかけては何らの資料も得られないのであります。同時に、そのときはまだ外国との通信ができませず、また向うからものを取寄せることもできません。それで骨を折
つて、出たとこ勝負で私の友人なんかに頼んで、
進駐軍の兵隊さんに手紙を
出してもら
つて、何でもいいから
ダイヤモンドのニユーヨークの相場を聞かしてもらいたいと頼んだのです。その中には返事の来ないのも大分ありますし、若干返事もありまして、それも
一つの
参考に
なつたのでありますが、その前に
ダイヤモンドの大体の値段の推移、同時に第一次欧州大戦の戦後の値段の上りの変動とかいうふうなものを若干考慮に入れまして、いろいろな苦労をしまして、とにかく複本として
ダイヤモンドのずつと大きいのから小さいのまで、いわゆる今の標準品質による
ダイヤモンドの値段を私の
手元でこしらえたのであります。仕事が始まりましてから、一体だれかアメリカから人が来るのですかと言
つたところが、まだはつきりしない。それで今の
ダイヤモンドの払いが始ま
つたのですが、五月に
なつてからアメリカから二人専門家が来るのだという話でありました。その専門家もだれかニユーヨークあたりのユダヤ人の手ごわいやつが来るのではちよつと困るなと、実は恐れをなしておりましたが、その専門家二人が、六月一日と
記憶しておりますが、飛行機で着きまして、すぐにその二人に会いました。そうしたところが、その二人の西洋人というのは、ワシントン国立博物館の地質部の部長とその次の人二人で、だんだん話をしていますと、たいへん気持のいい二人で、仕事もやりやすか
つた。しかし、この二人はこつちへ来る前に、
ダイヤモンドの資料並びにいろいろなことをかなり
調査して来たと見えまして、学者であ
つてまたなかなかつつ込んだ意見な
どもあ
つたようであります。それで
ダイヤモンド全部を洗い上げて、そうしてそれを一時向うの
係官の手に返しておきまして、ちよつと待
つてくれというので、数日間待
つたら、その二人が来ました。それから
日本銀行に頼んで、今の
地下室ではとても光線のぐあいが悪い、それで三階のごく晴れやかな、大きな、光線のいい部屋を選定してもらいまして、それからいわゆる選別にかか
つたのであります。その選別は、まず一番大きな袋の分全部を向うの方から
受取りまして、それでわれわれ四人と二人、三つテーブルを置きまして、二人ずつ並んで、その全部の
ダイヤモンドをまず色によ
つて分類したのです。形の大小は別としまして、色によ
つて分類した。その色はつまりAの色からFの色までというふうに色によ
つて分類いたしまして、そのときにやはりいかに優秀な
鑑定人といいましても、その日その日の感情やらいろいろで多少の狂いがありますから、絶えずお互いによりわけた色を交換したり、それからまた一緒にして、これは、あなたの方は色がAとしては濃過ぎるのではないか、このBは少しよ過ぎるからAの方へ入れなさいというようなことで、お互いにできるだけ不同のないようにはから
つて行きました。それから最後にその色の選別が終りますと、六人のものを全部AはA、BはBというふうに一緒にまとめて、なお二、三これはちよつと色が濃過ぎるとか、あるいは品物がよ過ぎるとかい
つて、そこで若干の訂正を加えまして、そのあとで再び今度はAならAの色のもので、また中の傷とか、そういうことで分類して行きました。そうして分類したあと、それで初めてこの大きさのAAの品等のものはこれだろうということが出て来ますが、それは色とか大小に幾らかやはりふるいでふる
つた上にも大小がありますから、必要に応じて一箇ないし数個の袋に分類いたしました。そうして私は途中で間違いがあるといかぬと思いましたから、一々私が袋の上にAA、それから箇数と目方をちやんと入れまして、そうしてみんな通し番号でAA1、BB1というふうに番号を打
つて行きました。今の
ダイヤモンドの分類にかかります前に、物資はないし、道具類はみんな焼いてしま
つたというので、道具類だとか、それから第一あれを包むのに特定の紙があります。その紙を
進駐軍の方で電報を打
つてもら
つて、すぐ飛行便で取寄せてもらいまして、その袋に一々、適当に数を配分してみな納めました、まだいろいろありますけれ
ども、そういう順序で行きまして、それが毎日毎日あつい中を越えて、ようやくその仕事が十月の半ばに完了いたしまして、向うの記帳
関係なり何なり、すつかり引渡しをして、一時
日本銀行の
鑑定室は閉鎖になりました。そうしてその
ダイヤは十一万二千五百と
思つておりますが、その
ダイヤモンドだけでなしに、その間大阪、名古屋方面らしいものが、約四万五千カラツトくらい入り込んで来ましたし、それからそのほかにたくさんの工業用
ダイヤモンドも入
つて参りました。その工業用
ダイヤモンドは、全部かどうかは知りませんが、大体において私
どもの
手元で整理をして、そうしてそれぞれの番号をつけて、小さな包みにして向うに納めたわけであります。それから越えて四十七年になりまして、例のマレー大佐の問題などが起
つて来ました。そのとき私は郷里から呼ばれて、それをひとつ片づけて、それから今度はドイツ人の敵産金属だとかなんとか、ぐしやぐしや入り込んで来ましたり、またいろいろなものを難してくれしてくれというので、ひつきりなしにずつと携わ
つておりました。それから幸いに私の家もようやくこつちにできたものですから、こつちに移りまして、それから引続いてあとの引渡しのところまで行
つたのであります。
進駐軍の今の鑑別は非常に厳重をきわめておりました。途中からわれわれの一生懸命にやる気分だとか何とかを大分認めて、若干簡略になりましたけれ
ども、部屋の前には鉄砲を持
つた兵隊が立
つておる。中には各テーブルに二人ずつピストルを持
つた兵隊がつき、同時に各テーブルには一人ずつ
係官の中尉あるいは大尉の将校がおりまして、われわれがやる指先まで監視しておるわけなのです。巽君あたりは、こんな刑務所におるような仕事はいやだから、もうやめると言い
出しましたけれ
ども、いや別にこれはわれわれの人格をどうのこうのするのでなしに、ここへどろぼうでも入
つて来ると困るというので、われわれの身辺を守
つてくれるのだからというようなことを言
つて、ようやくなだめて、非常に苦しい中を熱心にやり上げてくれまして、あの仕事を終
つたわけなのでありますが、番号づけだとか、値段づけだとかいう品物の整理、これは一ぺん帳簿なり何なりをごらんいただけば、一見して明瞭だろうと思うのでありますけれ
ども、非常にきれいに
なつております。途中からどういうふうな人が入
つて来てそれを受継いでも、いささかもごちやくすることはないように
なつておるはずであります。それから値段もそういうふうに私の腹案を組んでおりまして、同時に今のアメリカ人二人が来まして、値段をひとつきめようじやないかというようなことになりまして、私の分と向うの分と一緒に照し合せて三人で
会議しましたところが、その値段は幾らかの狂いはありますけれ
ども、大体同じ見当に
なつております。