○
参考人(田畑忍君) 私が当
予算委員会におきまして、
参考人として
意見を聞かれておりますのは、
戰力に関連して第九條の解釈はどうであるか、又
行政協定に関連しまして、第七十三條三号の解釈はどうであるか、こういう点についてであります。即ち
二つの問題に分れるわけでありますが、そこで順序としまして先ず最初に第一の問題、
戰力と第九條の解釈について私の
意見を述べ、次に
行政協定と第七十三條についての私の
見解を述べることにいたしたいと思います。
日本国憲法第九條は、御
承知のごとく一切の戰争を
永久的に放棄し、
国際紛争解決の手段たる
武力的威嚇又は
武力的行使を
永久に放棄し、又この目的を達するために陸海空軍その他の
戰力を
永久に放棄し、更に国の交戰権もこれを、認めないこう定めておるわけであります。異説は勿論ありますけれども、この規定によりまして、
日本国は全部、
軍備或いは戰備、或いは兵力とい
つてもよろしいでしようし、
武力とい
つてもよろしいと思うのでありますが、その一切を
永久に放棄し、国の交戰権をも禁じているとする解釈が、今日の学界のみならず一般の通説であると思います。同時にこの通説は
政府のこれまでと
つて来た有権解釈でもありますし、更に又
連合国関係筋の解釈とな
つているものであります。ところが
政府は漸次最近になりまして解釈を変えて来られつつあるような感じがするのでありますが、私はこの通説に
従つているものであります。
ところで
戰力の問題でありますが、これは
憲法九條二項に書かれております。即ち九條二項には「前項の目的を達するため、海陸空軍その他の
戰力は、これを保持しない。」こう規定しているわけであります。それは詳しく
言葉を換えて申しますれば、前項の目的、第一項の目的、即ち国権の発動としての戰争及び
国際紛争解決の手段たる
武力的行使又は
武力的威嚇をしようとする目的を持つた
戰力、即ち
軍備は陸軍、
海軍、空軍その他如何なる名称を持
つているものでありましてもこれを保持してはならない、こういうことになるわけであります。従いまして
自衛の目的であろうが、
国際紛争解決の目的でありましようが、或いは制裁の目的でありましようが、およそ目的が何であるかにかかわらず、外国に対しましてなされる消極的又は積極的の
意味を持つた一切の
軍備又は
戰力はこれを放棄しなければならない、こういうことになるわけであります。でありますからして
憲法におきましては
自衛のための
軍備も
自衛のための
戰力も許されないわけでありまして、
自衛軍は勿論のこと、
自衛軍と呼ばれない
自衛戰力といえどもよろしいということにはならないわけであります。今述べて来ましたように、
憲法九條の
戰力というのは兵力のことであり、電力のことであり、
軍備のことでありまして、この
戰力と
軍備を区別するということは、これは私はできないと思うのであります。又同じく九條第一項にありますところの
武力というものも、私の
考えによれば
戰力又は
軍備のことにほかならないわけであります。
武力も、
戰力も、
軍備も、すべてこれは同じ
意味を持
つているのであります。でありますからして
戰力と
武力とを区別するということは、これらのものそれぞれを
軍備と異るものであるとする
見解が誤
つていると同じように誤りであると思います。これは言換えますれば、その他の
戰力というものは陸軍、
海軍、空軍以外のつまり
軍備のことでありまして、
軍備の一部ということになりますが、
武力というのはこれらの一体としての
軍備に
相当する
意味を持ち、同時に又そうでないもの、例えば
警察力でありますとか或いは消防力でありますとかいつたようなものの、そういう
戰力として使用せられるもの、
軍備として使用せられるものということになるわけであります。そうして
軍備とは何かということになりますと、それはつまり対外国的、外国に対して軍事目的或いは戰争目的を持つたところの人的物理的な総合性を持つたところの
実力である。即ち
武器を使用する体制を持つた人的組織を言うということになると思うのであります。
従つて武器それ自体のみを切離して直ちにこれを
軍備である、或いは
戰力である、
武力であると
考えることは、これは私は妥当でないと思
つているのであります。即ち他の
武器との結付きであるとか、それから人の集団との結付き及びそれの使用目的或いは使用方向というようなものとの
関連性がなければ、
武器は直ちに
戰力ということにはこれはならないと、こう
考えるわけであります。而もそれらのものは必ず
関連性を持
つているものであります。
武器それ自身が作られて、
武器それ自身があるということはあり得ないのであ
つて、必ず
武器はそういう人的組織に
関連性を持
つているわけであります。
軍備なるものをこのように
考えて来ますというと、一定の組織を持つた人の集団で、或る軽微の、軽い程度の
武器を持
つて訓練されております……。ちよつと抜けましたが、この
武器の問題に関連しまして、
日本国の
主権の下に
日本国を主体とするところの
日本国の
軍備が即ち
日本国の
戰力又は
軍備でありますからして、
日本にある外国駐留軍、
アメリカ駐留軍はたとえ
日本国の
自衛のために役立つ場合におきましても、決してそれは
日本国の
戰力又は
日本国の
軍備とは言えないわけであります。それは外国の
戰力であり、
アメリカの
戰力であり、外国の
軍備であり、
アメリカの
軍備であ
つてただその外国の
軍備、
戰力が
日本の防衛に役立られるというに過ぎない、こう
考えるべきであると思います。その裝備が大きい場合にはそれは問題になり、或いはその裝備が小さければ問題にならない。つまり裝備の大小強弱は問題でないわけでありまして、その裝備が大きくても小さくても、外国の
軍備は飽くまでも外国の
軍備であり外国の
戰力である。かように
考えなければならないと思うのであります。
このように
軍備というものを
考えてみますというと、一定の組織を持つた人の集団で、或る軽微の
武器を持
つて訓練されておりましても、これを以て直ちに
軍備とみなすことはできません。又或る軽微の
武器が
国家に存在し、又それらのものの製造せられる施設が
国内に存在しておりましても、これを以て直ちに
軍備と
考えることはできないと思うのでありまして、併し又その反対にそれが近代戰争を遂行するに足るだけの十分の
実力を有するか否か、こういうことは
軍備又は
戰力の心須的な條件にはならないわけであります。例えばジエツト機がなければ、或いは原爆がなければ
戰力でないというようなことは、実にこれは馬鹿げたことであ
つて、そういうことは申せない。むしろ逆に軽い程度の人的物理的な
実力を持
つて、十分に
軍備たるに値する場合が幾らでもこれはあると思う。
従つて今軽微の或いはそれ以下の程度の、否
武器のない、無
武器の人の集団でありましても、外国に対しまして軍事目的或いは戰争目的、防衛の目的も勿論その中に含まれるわけでありますが、そういう戰争目的を以て軍事行動、防衛行動もその中に入るわけでありますが、軍事行動をなし得るように訓練されておるものならば、それは名称の如何にかかわらず、明らかにその他の
戰力、九條に言われる「その他の
戰力」であり、
軍備であると申さなければならんと思うのであります。又外国に対して戰争目的、又は軍事目的を以ちまして軍事行動をなし得るように訓練されていない、明らかに他の目的を持
つている団体でありましても、その持
つている、又はその使用する
武器が一定の限度を超えて、一定の限界を超えて、高度の性能を持つものとなるということになりましたならば、それは名称の如何にかかわらず
軍備になる。このように申さなければならないと思います。
それは
憲法で第四番目に交戰権が禁止されているにもかかわらず、交戰の可能性を十分に持
つておるからであります。で、このような団体が徴員制、徴用制をとるに至る場合についても全く同じことが言えるわけでありまして、徴員制は確かに或る人の集団の
軍隊化、
軍備化、
戰力化を決定する
一つの要素だと
言つてよろしいと思うのであります。勿論応募制であるからと
言つて、他の條件如何によ
つては
軍隊化を避け得るわけに行かないと思います。更に又少々の
武器を有する団体や、
武器のない状態に近い団体、或いは個々の
国民が独立いたしまして、或いは他
国家の
軍隊の一部分として海外の戰争行動に参加する、或いは海外でなくても、
国内において戰争行動に参加する。即ち一朝国外又は
国内に外国の
軍隊の不法の侵略があつた場合に、これに対しまして応戰して
自衛戰を展開する。或いは国外或いは
国内の外国軍の戰争行為に協力しまして、戰争を実施するということになれば、それは直ちに交戰団体を形成するわけでありまして、交戰権を認めていない
憲法九條の建前からしますならば、このような団体、又は
国民も又極めて貧困であるとは言え、明らかに一時的の
軍備たるに至るものであると
考えなければならんと思います。
従つてかくのごとき一時的又は突発的、又は正当防衛的の
軍備、
戰力といえども、それは
憲法九條二項に
違反するものであると申さなければならないと私は
考えるのであります。
即ち
憲法は
国民が石や棒を持
つて、外国の国権の発動である戰争や
武力行使に従事する
軍隊と戰うことまでもこれを認めていないわけであります。自国、主体的にはつきり絶対に戰争はしないというのが平和
憲法の建前であるからであります。即ち
憲法第九條によりまするならば、この場合にも認められる
自衛権の行使といいますのは、戰争又は、
武力行使以外の政治的な
外交的な手段、これによらなければならない。
自衛権は留保されておるけれども、その
自衛権を発動する場合には戰争的或いは
武力的方法によ
つてはならない。それ以外の手段によらなければならない。こういうことになるわけであります。仮に石や棒を持ちまして或いは竹槍を持
つて戰うということを認めているとしますならば、それこそ極めてナンセンスなことに属する、こう言うほかはないと思うのであります。のみならずただにそれはナンセンスに、無
意味に属するだけでは済まないのでありまして、必ずそういうことが民族を亡ぼす、亡民の惨事を引起すことになるのでありますからして、
憲法がこういつた無謀を禁じておる、即ちやめておるという理由は極めて明瞭であると申さなければならんと思うのであります。併しながら外国の侵略行為に対してではなく、国外又は
国内の外国人、プライベートな外国人の不法の犯罪的な侵略があるということも
考えられるわけでありますが、そういうプライベートな外国人の犯罪的侵略があつた場合、これに対しまして
武器を持
つて、
警察の持
つている
武器を持
つて、或いはその他の
武器を持
つて対処するということは、
憲法の当然にこれは認めるところでありまして、それがいわゆる直接侵略に対して自国主体的に防衛のできる唯一の場合であると、このように言うことができるであろうと思います。併しこれは名称の問題にな
つて来ますが、このようなものを防衛と称し、この任に当るものを防衛隊と称するということは、私は当を得ていないと思います。むしろその場合には他の名称が付せられなければならないと思うのでありますが、いずれにせよこういつた外国人による、プライベートな外国人による犯罪的侵略行為に対しまして
憲法は
国家が一定の
用意をする、若しくはしなければならないということを規定するものでは、これはないのであります。
従つて十分の
用意の必要な事態が発生するという虞れのある場合は、
国家はこれを
用意しなければならないと、こういうことが言えるだろうと思うのであります。ただ外国人による、プライベートな外国人による犯罪的な侵略行為というものは、その公的な性質を持たないわけであります。私的な性質のものであります点において、そういつたものは極めて大規模のものとはなり得ないということはこれは必定であります。
従つてそういつたものに対しましてプライベートな外国人の犯罪的侵略に対しまして極めて大掛りな準備をする、
武器を
用意するということは、これは必要ではないわけであります。極めて大掛りの
治安機関はそれは遂には
軍隊化せざるを得ない。そういう傾向を持つものでありまして外国人の不法侵略に対しても陸海空軍その他の
戰力を設備するということは、もとよりこれは
憲法の許すところではないわけであります。ただこういつたものに対しましては、
国民のために
治安目的上設置せられているところの
警察或いは
警察予備隊、海上保安庁というようなものが、今申しましたような犯罪的行為を
処置するということに出ればよいわけでありまして、尤も
国民のために或いは
国民に対して
治安上設置せられる
武器帶用の部隊編成としての団体というものは、結局
軍隊以外の団体ではないと、こういう説もあるわけでありまして、これは通常の
軍備を持
つておる
国家については言えることであります。通常の
国家については言えることでありますが、無
軍備の
国家についてはそれは直ちには当てはまらない
見解だと申さなければならんと私は
考えております。
而も
軍備又は
軍隊のない
国家におきましてはこのような異常な
治安機関は、
軍備を有する
国家に比べて勢い大きなものとならざるを得ないということは、これは避けがたい
一つの現象ではないかということも
考えられるわけであります。併し
治安目的のために設置せられておる施設というものは、その右の理由で比較的大きな規模を持
つておりましても、それだけではそれ自体
軍備であるということはこれはできないわけである。革命でありますとか或いは騒擾を忌避する、
憲法の性質からいいましても、このことは必ずしも矛盾ではないと私は思うのでありますが、そういつたものをみずからの力で回避しなければならんとする、こういう建前を
憲法は持
つておるからであります。ただ
国民の希望としては、又民主主義
憲法の精神としましては、そういつた
治安機関は小さければ小さいほどいいことは、これは申すまでもありません。そういつたものがその固有の目的を、即ち
治安目的を外れて増強されるということになりまするならば、その
国家はたとえ無
軍備の
国家でありましても、つまり
警察力過大の
国家、即ちいわゆる
警察国家とならざるを得ないでありましよう。又
実質上のそれは
軍備国家となるに至ることを必至とするからであります。ただこれを避ける途は、そういつた
警察機関の固有の目的を狹めて、その目的を逸脱しないようにして、
警察国家になることを避けて即ち他方におきましては
国民生活をよく富ましめるということ、民主主義教育を徹底させて、できる限り文化性を持つた、政治を豊かならしめるということに努力せざるを得ないと思うのであります。いわゆる文教費とか福利厚生というものを惜しんでお
つては真の
治安は得られないと思うのであります。
以上述べて来ましたような観点におきまして、通常の
警察は
軍備又は
戰力であるかどうかと申しまするならば、それは短銃等の
武器を持つた人の集団でありまして、一種の部隊編成をと
つておる。且つ名称も、例えば
国家地方
警察では府県単位に
警察隊と呼んでおるのでありますけれども、誰もこれを
軍隊でない、
戰力でないと
考えております。かように通常の
警察は、これは
軍隊ではないと思われておるのでありますが、併し他
国家の
軍隊の一部にこの普通の
警察が編成されまして、非常の場合に編成されまして、その軍事行動に参加するという場合におきましては、それが
永久的な場合であると一時的な場合であるとの如何にかかわらず、それは
憲法の否定する
戰力になると私は
考えますが、又外国の国権下にある
国内又は国外の外国軍に対しまして、積極的又は消極的の戰端を若し
警察が開くとするならば、この場合も又
警察が
憲法の否定する
戰力になることは明らかだと思います。
従つて憲法はこれを許さない、こう
考えるわけであります。なぜかと申しまするならば、
警察に許されておる権限というものは
治安の維持、即ち
国民を犯罪から防護するということだけでありまして、軍事行動をなすこと、戰争をするということはその目的ではないからであります。ただ国外から仕向けられる外国人のプライベートな犯罪的侵略行為に対しましては、その
治安目的上鎭圧
処置をなすことをその権限とせざるを得ないのである、かように
考えるわけであります。とにかく
戰力の問題について普通通常の
警察は論議の対象には殆んどな
つていないのでありますが、併し
戰力となり得る可能性を持
つておるということを、今申しましたように注意をしなければならんと思うのであります。ところが
警察予備隊が
戰力であるかどうかということについては随分これは論議が重ねられておるのでありますが、そもそも
警察予備隊は、これは
昭和二十五年の八月十日に、いわゆるポツダム政令二百六十号として公布されましたところの
警察予備隊令によ
つて設置された、
軍隊のない
国家の特殊の
警察であるということをその法的性質といたしております。即ちその第一條で以て「わが国の平和と
秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で、
国家地方
警察及び自治体
警察の
警察力を補うため
警察予備隊を設け、」と、こう言われております。又第三條第一項で以て「
警察予備隊は、
治安維持のため特別の必要がある場合において、
内閣総理大臣の命を受け行動する」、こう書いております。それから第二項で「
警察予備隊の活動は、
警察の任務の範囲に限られるべきものであ
つて、いやしくも
日本国憲法の保障する
個人の自由及び権利の干渉にわたる等その権能を濫用することとな
つてはならない。」こう規定されてあります。即ちこの規定から見ますならば、それは無
軍備国家の、
軍隊のない
国家の不十分な通常の
警察力を補うために設置されたところの、
治安のみを目的とする、戰争を目的としない、特別の大規模な
警察機関であ
つて、革命とか騒擾とか、そういつた大規模の暴動というようなものに備えてあるものであるということが明瞭であります。こういつたものがこういつたものとしてある限りにおいては、その目的はそれなりで存在しておる限り、それは
憲法の否定しておるところの
戰力であるということはこれはできないのではないかと思うのであります。ところがその裝備としまして小銃であるとか機関銃であるとか、或いはバズーカ砲であるとか、小口径の火器というようなものがあ
つて、部隊編成の組織をと
つてお
つて、
軍隊のように見られるような訓練が施されておると、こういうように言われておるのであります。その数は七万五千百人である。これが更にこの秋は十一万に増強されようとしているということでありましてそれは必ずしも少くはない、むしろ大した
実力であるということができると思うのであります。常識ではこのような程度の
実力というものを
軍隊とみなすのもこれは決して無理ではありません。併し内外の情勢から
考えて、この程度の裝備は
国内の
治安の確保上絶対必要な
実力であ
つて、
憲法の禁ずる
戰力ではないと、こう言うのが
政府の説明であります。成るほど革命等の予防又は威嚇というようなことのためにはこの程度の
武器が特別の
治安警察には必要だ、それは
戰力ではないというような主張は、或る
意味においてはこれは筋が通
つておる感がするわけであります。又
憲法制定の初めから、すでに
軍隊のない平和主義
国家としましてそのような程度の
国家機関の設置の必要ということが
考えられておつたということは、その当時の
議会の
速記録を見ますというとわかるわけであります。併しながら
警察予備隊のこのような程度の裝備というものは、
国際社会の通念上戰争遂行に有効適切なる兵力でもない。これは木村氏が
言つておるのでありますが、それから又
国際紛争の解決の手段としての
武力なるものでもない、これも木村さんが
言つております。或いは近代戰を遂行するに足るだけの
実力でもない、これは大橋氏が
言つておるのであります。そういつたものであるから
憲法の禁止する
戰力ではないというような
政府側の説明というものは、これは何人も首肯することのできないところであろうと私は思います。それは外国と戰争しても勝てる見込のない程度の
武器を備えておるところの
戰力は
軍備ではない、或いは小
国家の
軍備は
軍備ではない、小さい
軍備は
軍備ではないということとこれは同じ事柄であります。ただ
軍備の代りに
自衛力或いは
警察力という
言葉を用いているだけであ
つて、
実質は変らないわけであります。又多少の
武器、これは竹槍でも見ようによ
つては、その目的によ
つては優に
戰力ともなり得ることを否定することはできないと思うからであります。現に過ぐる大戰には竹槍と肉弾によ
つて近代的な
武器の質量を誇るところの
米国を打ち負かすことができると叫んだ人々が我が国にはかなりあつたことを想起してよろしいと思うのであります。ただ竹槍や、或いは機関銃や大砲くらいの
武器を有する
戰力では、ジエツト機や原爆に対抗することはできないということは言えます。併しそれは別の問題であります。而も竹槍論者が今なお盛んに存在しているということは悲しむべき事実ではないかと思うのであります。一旦何かあつた場合には何を持
つてでも戰うのだというその勇敢な
言葉を聞くのでありますけれども、それが過ぐる大戰のときに言われた竹槍論と少しも異な
つていないという感じを我々は受けているわけであります。丁度
日本における再
軍備論者
たちの構想によるところの
戰力というものが、微々たる対象のごときものでしかないということから
考えて見ましても、右に述べて来たことは明白にわかるはずじやないかと思うのであります。
要するにそれが
戰力であるかどうかということは、つまり本質的には裝備の対象の問題ではない、ジエツト機を備えているとか或いは原爆を備えているとかいないとかいうことが問題じやないので、それは必ず目的及び程度如何の問題だと思うのであります。
警察予備隊は、前に言いましたように法規上
治安目的を有するものでありますからして、
政府の説明
通りこれは
軍隊ではない、
軍備ではない、
戰力ではないということは一応可能なことは前に述べたごときことであります。併し法規上の、いわば表面上の目的が
治安目的ということにな
つておりまして、この
実質上のいわば裏面の目的、又は隠された目的というものが軍事目的或いは戰争目的に置かれておるとするならば、それは明らかに一種の
軍隊だと断じなければならないわけであります。
戰力であると申さなければならないと思うのであります。
治安目的に並んでこの防衛目的が加わ
つて来る場合におきまして、
警察予備隊は一変してそこに一変して
軍隊の性格を帶びざるを得ないことになるわけであります。外国の
軍隊の侵略に対して明らかにそういつた性格を有することを予定されておりまして、それはポテンシャルな
戰力であるということを失わない。
従つてその場合におきまして、それは
憲法違反の存在になると
言つてよろしいと思うのであります。
政府の国会における
答弁にはこのような疑念を我々に起させる節が実に多々あるわけであります。又目的は依然として法規
通りのものであるといたしましても、その要員、施設、裝備及び
軍隊的操練というものはますます増強して行くということになれば、この場合におきましても又
警察予備隊はいつの間にか
警察力を補うという本来の目的から逸脱しまして他の目的、即ち防衛目的、即ち戰争目的を有する
国家機関に変質せざるを得ないわけであります。併しその本質の限界を見定めることは最もこれは困難なことであります。困難なことではありますが、併し見定めがたいからと言いまして、その本質を否定するとはできないと思います。勿論旧軍人一千名の採用というようなことで直ちにその本質を云々するということは、これは早計であると思いますが、併し
政府の国会における
答弁では、
警察予備隊の増強的な改組の計画に明らかに示しております。その名称も例えば防衛隊としてこれを変える。組織上の変革強化を加えよう、こういうように計画されておるものでありまするからしてその計画が実現しました曉におきましては、それは劃然として
警察機関から防衛機関、或いは軍事機関、即ち
軍備に変貌を遂げるに至るということは、これはすでに明らかなことであると思います。そして
警察予備隊をこのようなふうに
軍隊に改組するということは、結局隠然たる再
軍備を行うものでありまして、まさにそれは
憲法に
違反すると言わなければならんと思います。勿論そうでない状態におきまして
警察予備隊を保安隊と呼び換えましても、或いは防衛隊と、例えばそれは
名前は適当でありませんが、呼び換えましても、それによ
つて警察予備隊が
軍隊になるわけでないことはこれは勿論であります。現在の
警察予備隊はなお
警察機関たることをこれを認める。としましても、それは以上述べて来たような諸点から
考えまして、そういうような性質をそれが持
つて来る、或いは持
つておるとしますならば、少くともそれは
軍隊になりやすい危険性を十分に含んでおるものであるということは何人にと
つても否めないことであろうと思います。
ところが
警察予備隊を強化して
軍隊に切替える必要が果してあるのかどうか、これは解釈の問題を少し外れますが、再
軍備論者
たちは、それは
憲法を変えるというような厄介な方法によらないで、この
軍備を設けることになるのであるからしてそれは結構だ、こういうふうに言うのであります。それよりも彼らは、又ほかの人
たちも
政府も、日米安全保障條約というものが
警察予備隊の増力化、又は
軍隊化を規定しているのであるからして止むを得ないのである、これは安保條約の結果止むを得ないのだ、こういうように
考えているようであります。国会における質問の中にも、安保條約を
警察予備隊軍隊化への
一つの起点として観念づけているかたもあるようでありますが、そしてそれは一応尤もな説のように見えるわけでありますけれども、その條約を、安保條約をそのように見てしまうということが果して適当なことであるかどうか、私は適当であるとは
考えられないのです。右のような諸説を延用されているのは、同條約のこの前文でありますが、その前文は「
アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国
軍隊を
日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、
アメリカ合衆国は、
日本国が、攻撃的な脅威となり又は
国際連合憲章の目的及び原則に
従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき
軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。」というこの一節、殊にその但書であります。
併し第一に、それはその條約は、直接且つ間接侵略に対する自国防衛について漸増的には
日本みずから責任を持つことを期待しております。期待しているけれども、これを強要を決していたしておりません。希望はしているかも知れませんが、強要はいたしておりせん。第二に、その期待しているのは
日本国の
軍備又は
戰力であるはずはこれはないわけであります。それは
日本国憲法が完全なる戰争放棄、
軍備放棄の
憲法であるということを
アメリカは十分にこれを知
つているわけであり、講和條約の
主権尊重の原則から申しましてもこれを尊重しなければならないわけであります。且つ常にこれを尊重する
国民であるということに鑑みて明らかだと思うのであります。
従つて第三に、そこにいわゆる面接の侵略に対する自国の防衛というのは、これは外国人の国外及び
国内において犯すことのあるべき犯罪的な侵略、その犯罪的な侵略に対する鎭圧のことにほかならない、このように解釈すべきであると思うのであります。即ちそれは外国への侵略を
意味するものではない、このように解釈しなければ辻褄が合わないのであります。又間接の侵略に対する自国の防衛というのは、外国又は外国人によ
つて煽動され、示嗾されて
国民中の或る者が或いは犯すことのあるべきこの大規模の暴動であるとか騒擾であるとかということに対する鎮圧のことにほかならんのである、このように
考えるべきであると思うのであります。それ故にそれを外国
主権に対立する
意味を持つた戰争又は
武力行使にかかることでは決してない、このように言わなければならないのみならず、それはその條約には、平和と安全を増進すること以外に用いられるべき
軍備を持つことを常に避けることを期待しているのであります。安保條約が
戰力又は
軍備を期待すらもしていないことはかくして明瞭だと
言つてよろしいのじやないかと思うのであります。そのことは同條約第四條を見ると更に明らかに理解できるのじやないかと思うのです。即ち四條は「この條約は、
国際連合又はその他による
日本区域における
国際の平和と安全の維持のため充分な定をする
国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと
日本国及び
アメリカ合衆国の
政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。」と、このように定めております。即ちそれは
日本の安全保障のための
国際連合の措置というものを他の安全保障と共に考慮することを明示しているわけであります。
従つて日本のこの
自衛力を、
戰力を必ずしも期待していないということを示しているものであるということができるわけであります。このことは彼らが
日本の平和
憲法を無視していない、戰争放棄、
軍備放棄の
憲法を無視していない証拠だとこのように言うことができると思うのです。條約によ
つて再
軍備を義務ずけられているものと観念したり、或いはこれを
国際信義と
考えましたりしまして再
軍備を急ぐことは、誠にそれは過りであると言わなければならんと存じます。
言うまでもなく、
日本を主体とする
軍備又は
戰力保持の問題は、飽くまでもこれは
日本国憲法の問題でありまして、條約の問題ではありません。現に條約自体が右に述べたようなこの平和
憲法を無視しない態度をと
つているわけであります。併し若し仮に
憲法におきまして……わからないかたがあ
つて、
日本の再
軍備を要求若しくは強要するということでありますならば、その場合には我々
日本国民としましては
日本の
主権、それは平和條約第一條で謳われているその
主権、即ち
憲法尊重の原則に立ちまして、その非を鳴らせばよいわけであります。大西郷が言いましたように、「徒らに漢の強大に畏縮し、円滑を主として曲げて漢の意に順従するときは軽侮を招き、好親却
つて破れ、遂に彼の制を受くるに至るものである、こういうふうに
考えられます。須く大正道を踏み国を以て繁るるの精神なくば外国交際は全つたかるべからずものである」ということを銘記しなければならないと思うのであります。幸い例えばダレス氏のごときも、曾
つてアメリカは
日本の再
軍備などを強要するのでは更にないのだ、然るに不思議にも
日本にはそういう誤解が存在しているということを明言してお
つたのであります。これは週間朝日にその記事が出ておりました。そうであるならば、強国の意中を臆測して、或いはこれを勝手な口実にしまして再
軍備を持つということは最もこれは愚なことである。国を害うことであるというほかはないと思うのであります。
いずれにいたしましても、如何なる名称においてでも、自国を主体とする
戰力又は
軍備を持つことは
憲法違反であります。先に述べて参りましたところの種々の方式で
警察予備隊等をこれに充てるということは
従つて憲法違反であります。ところが
軍備を持つために
憲法を変えれば
憲法違反にならないから、
憲法を変えられたらいいという説が行われております。これは私は間違
つていると存じます。
憲法を超越して説かれる再
軍備論の不当なことにつきましては、今更これを論ずる必要はないと思います。ところが與えられた
憲法は、民族の自尊心からい
つて当然にこれは講和後に変えるべきものだ、こういう
考えがありますが、併しよし自主的にその
憲法が変えられるということを
考えてみましても、それで失われた面目が更まるわけではございまん。敗戰の嚴然たる事実と、
連合国の助成によ
つて民主主義的な
憲法を制定されるに至つたということは喜ぶべき事実でありますが、これを覆すというわけには行かない。問題は
憲法の
内容にあるわけである。敗戰の最中に、そうでなければ自力では到底なされ得なかつたであろうような
世界史的なこの最善の平和主義
憲法を與えられた。この
憲法を民族の永世のためにむしろ我々は喜ぶべきであり、全力を挙げてこれを護るべきである、かように
考えられるわけであります。然るに又
憲法を変えれば堂々とその再
軍備ができるではないか、
警察予備隊のようなあいまいな
軍備を設ける必要があるくらいなら、これは廃して、その必要に応じて、この方法によ
つて憲法を変えればいいのだ、こういう説は如何にも尤もらしく聞こえて、
憲法を擁護し、
国家のためにはよいのだという気持を起させるような通俗性と説得力を持
つているようでありますが、併しそれは根本的に誤
つていると
考えます。それはつまり間違いの現実を、誤れる現実を
憲法の鏡に照らして直すべきであるにかかわらず、その反対にあたかも誤れる現実に
憲法を合せようとするつまり便利主義であります。
憲法の何たるかを知らないものであると言わなければならんと思います。それはつまり人を殺す必要があるからして刑法を変えろ、こういうような
議論と通ずるものであると思います。のみならず何人も
言つておりますように、
憲法を変えて
軍備を持つことは、
国民の道義と経済と幸福を破壊し、
世界の戰争的な危機を助長し、国の信用を失墜せしめることになるだけであります。とにかく如何にも尤もらしい理由を持ち出して来ましても、
憲法というものを右のような便宜主義で片付けてしまうということは、これはまさに民主主義の破壊であると言わなければならないと思います。
憲法は即ち国の最も肝腎な面目でありまして、これは生命以上に尊ぶべきを知らなければならんと思います。自国のこの
主権と
憲法を尊重する
国民は、又必ず
他国の
主権と
憲法も当然にこれは尊重する
国民であります。
アメリカの人
たちが、自国の
憲法と共に
日本の
憲法をも大事に
考えるべきことは、これは当然のことであり、我々も又これに学ぶべきことは言うまでもないと思います。ところが最も
理想的な
憲法だと評価してこれを作つた人
たちが、今更これは
理想に過ぎる、非現実の
憲法だから変えろ、こういうようなことを言うのは、オポチユニズムである、オポチユニズムであります。これは
占領の結果押し付けられた
憲法であるからして、講和後はこれを変えなければ、
独立国家としての面目はない、こう
言つて……従来のウルトラ的なナシヨナリズムと共に、許されがたい政治的な不道徳であると
考えるのであります。つまり要するに
憲法を改正することは、歴史の進行の方向に向
つて、
憲法を現在のもの以上によく改める場合にのみ許されるのでありまして、それが即ち改正であります。即ち正しく改めることであ
つて、これを逆行的に悪く変えることは、
憲法の改正ではなくして改悪であ
つて、断じて許されないと思います。即ち改悪は許されないというのが、
憲法の根本原理であ
つて、そうしてこの根本原理は一片の空論ではなくして、政治の現実に直結して民族の興廃を決定するものである、即ち民族の興亡の歴史を必的たらしめる基本原理と
言つてもよろしいと思います。この原理に背いた
国民は、例えば近くはナチス・
ドイツのごとく、歴史上必ず不幸の経験を嘗めておるのであります。殊に
日本憲法第九條は、
永久に戰争と
軍備或いは
戰力を放棄するということを規定したものでありまして、
永久に放棄したものを途中ですぐに又これを持ち直すということは、原理上できることではありません。それこそまさに又
国際信義上できることではないと思います。それ故に
憲法九條を如何なる形にもせよ、戰争を行い、或いは
軍備又は
戰力を持ち得るように変えるということは、これを
考えるということも、これを主張することも、嚴格に言えば、これは
憲法違反になると思うのであります。故に
警察予備隊を
実質上
軍隊化することも、
憲法を変えてこれを
軍隊に切換えることも、いずれも、すべてその他の如何なる方法による再
軍備と共に、そのこと自身が
憲法違反であるという性質を持
つていると断じてよろしいと思います。
日本国憲法九條の平和規定というものは、第十一條の基本的人権の規定と共に、特にこのような嚴しさを持
つている規定であると
考えるのであります。
次に
行政協定と、第七十三條の
関係について私の
意見を申述べさして頂きますと、
行政協定の何であるかにつきましては、種々の
見解が行われておりますが、
岡崎国務相のお
考えによりますと、條約を作つた場合に、その條約の実施項目について行
政府限りででき得る範囲の協定を結ぶ場合に、これをエキゼキユーテイヴ・アグリーメント、或いはアドミニストラテイヴ・アグリーメントと呼ぶのがそれであると言われております。そうして、若しそれ以上の転換があります場合には、法律案を出し、若しくは予算案を
提出して、国会の
承認を求め、その他所定の手続を経てやるものであります。このように附言し、更に、一般の常識では、国会の権限等に
関係なく、行
政府の権限ででき得る範囲の協定を結ぶ場合に、これを
行政協定と
言つている。このように言われております。併しこの
行政協定も一種の條約であることは否定せられないと私は
考えます。のみならずこの
行政協定の制度は、何人もよく知
つておるように、
アメリカ合衆国におきまして発達した
アメリカ合衆国の制度であります。即ち
アメリカ合衆国
憲法二章一節二項一款の規定は、大統領の條約締結権の制度について発達したものであります。右の
條文には、大統領は上院の助言と同意により條約を締結する権利を有す、但しこの場合には、上院の出席
議員の三分の二の賛同権を要す、とありまして、これによれば、條約について大統領は條約締結権を有するのではありますけれども、上院の助言と同意がなければ、條約の締結をすることができません。のみならず、その上院の同意は過半数制によるのではなくして出席
議員の三分の二以上の賛成のあることを必要としておるわけであります。つまり三分の二議決制をとるのでありまするからして、大統領が條約を締結する場合に、それに必要な條件でありますところの上院の同意を得ることは、これは実に容易ではないわけであります。
従つて條約の締結をする場合における大統領と上院との全般的な、そうしてすべての段階での協力
関係において決定的な力は、大統領よりもむしろ上院に置かれておると言うことができるわけであります。こういつたような
アメリカ合衆国特有の大統領條約締結権制度の欠陷を補うことの必要上出て参つたものが、即ち
行政協定の制度である、こう言うことができるわけであります。そこでこの
アメリカの制度としての
行政協定には、上院の同意を必要としないことに
なつたわけであります。例えばラスキー氏のごときは、これを判然としない権限であると申しております。それは併し時として、上院により権限の賦與に基いて行わることがある、
アメリカ憲法研究者によ
つてこのようにも言われておるのであります。即ち必ずしもこの上院の権限外においてのみ行われるわけではないということが言われておるのであります。即ち
アメリカにおきまする
行政協定のすべてが上院の権限外にあるとは言えないということが申せるわけであります。併しそれのみならず、もともと
アメリカにおきましては、このような條約に対する助言権及び同意権が上院だけにありまして、下院にはないわけである。
従つて嚴格な
意味において言えば、それは初めから
議会全体の権限でないということが言えるわけで、これは又注意すべき点ではなかろうかと思うのであります。然るに我が国におきましては、このような制度、
行政協定というような制度は、まだ
アメリカと同じようなこの制度は存在しておりません。又これを存在せしめる必要は毛頭ないわけであります。相手国にこの
行政協定の制度がありましても、我が国はこれを同様のものとして取扱う必要もなければ、又同様のものとして取扱うということは、
憲法がこれを許さない、かように
考えるのであります。このことは
アメリカの人々は、
日本の
政府よりも却
つてよく知
つておるのではないかと思うのであります。我が国の條約に関する制度は言うまでもなく、
憲法七十二條の三号、七條の一号に規定されております。即ち七條一号は、天皇の條約公布権を定めております。天皇に條約締結権を認めておりません。即ち七十三條の三号に定められておりまするように、條約の締結権者と批准権者は
内閣であります。言い換えるならば、それらの権限は
政府にあるわけであります。條約の締結権は
政府にある、これは国会にはないわけであります。條約の締結は
憲法上立法とはされないで、これは行政の一種とされておるわけであります。
日本国憲法上、立法権は、御
承知のように法律を作ることを必ず言うのであります、法律制定権、即ち立法権であ
つて、そのほかの法令を制定する権限は立法とは言うていないのであります。それらは広い
意味の立法でありますけれども、
憲法ではこれを立法とは言うていない。即ち條約の締結についても、そういう嚴格な
意味におきましては、
日本国憲法上は立法でないわけであります。それは
内閣即ち
政府の権限に属しております。即ちすべての條約は、トリーテイーであれ、アグリーメントであれ、チャーターであれ、コンベンシヨンであれ、プロトコールであれ、或いは協約であれ、協定であれ、宣言であれ、交換公文であれ、何であれ、すべてここに言うところの條約、即ち広義の條約でありまして、即ち国と国との約束、
政府と
政府との約束でありまして、でこの條約の締結権者は常に
内閣であり、
政府であり、併し究極においては
国家であり、
国民であるというわけであります。
従つて安保條約は
国家間の條約であるが、
行政協定は
政府間の協定であるなどということは、これは
憲法を知らない者の言辞としか言えないと思うのであります。條約というも、協定というも、すべて
政府の締結するところであ
つて、
従つて又
国家の締結するところであるわけであります。一はこれは
国家が締結するところであり、他は
政府が締結するところである、故に国会のこの
承認は
行政協定については必要でないということは言えないわけであります。これはつまり
憲法がそのように定めておるわけであります。つまり
憲法はこの條約の締結権は
政府にあることを規定しておるが、同時に、「事前に、時宜によ
つては事後に、国会の
承認を経ることを必要とする。」と定めておる、このことを注意しなければならないわけであります。それで條約と呼ばれておる條約も、協定と呼ばれておる條約もすべて国会の事前、又は事後の
承認を経ることを必要とする、これが
憲法のきめておるところであります。七十三條、三号のきめておるところであります。でありまするからして、
行政協定は條約と呼ばれていないから、国会の
承認も経ることを必要としないというような解釈は、明らかにこれは誤つた解釈であります。広義において條約の中に数えられるものは、すべて同様に、同じように取扱うべき性質のものであります。これは即ち
日本国憲法七十三條三号の精神である。もとよりその際における国会の事前又は事後の承諾は、
アメリカ合衆国の上院の同意権と異な
つて、三分の二議決制ではなくて、通常の過半数制であります。
従つて特別に
アメリカ合衆国のように
行政協定のみを、上院同意権の除外例として設ける必要は毛頭ないわけであります。又除外例を設けることは
憲法の精神から
言つて、許されることではありません。
行政協定の締結を以て七十三條二号のいわゆる
外交関係を処理する権限の中に加えるということももとよりこれはできるものではありません。それは
外交関係の処理と申しますのは、
外交関係の措置の決定を言うわけであ
つて、條約の
一つである
行政協定のこの決定と根本的にこれは異な
つておるものと
考えなければならない。つまり條約の一種である
行政協定を決定することは、これは行政行為とは言われておりますけれども、行政行為という点ならば、ほかの條約についてだ
つて同じことが言えるわけでありますからして、それは
外交関係の処理であるというふうに
行政協定のことを
考えるべきものではなくて、その性質上明らかに他の條約と同じように、特殊的な
国際法の設定に属することだ、このように申さなければならないからであります。要するに
行政協定は
日本国憲法との
関係におきましてこれを見る限り、他の條約と異
なつた取扱をすべきものでは決してないということになります。ところが
行政協定を以て安保條約の委任命令のように
考えている説が行われておりますが、併し両者は法律と委任命令との
関係にあるものでは決してありません。勿論安保條約三條は、「
アメリカ合衆国の
軍隊の
日本国内及びその附近における配備を規律する條件は、両
政府間の
行政協定で決定する。」とあります。で、
行政協定を決定するとありますけれども、委任するとは書いてないわけであります。これは予定しているわけであ
つて、将来そういつた問題については、
行政協定と称せられる條約できめるということを予定するのだということをきめておるだけであ
つて、委任するとはきめていない。そのように
行政協定と呼ばれる條約が、安保條約と呼ばれる條約の第三條によ
つてその存在するべき主たる根拠が與えられておるということは言えますけれども、併しながらその右安保條約三條は、今後
アメリカ軍の
日本国内及び附近における配備は
行政協定と呼ばれる條約で以て取極めるということを定めておる、予定しているのであ
つて、委任じやなくて予定しておるのであ
つて、国会を無視してよいということを定めているものではないわけであります。又條約には、
国内法の場合における法律と命令との間において見られるような、制定機関についての相違はないわけであります。即ち
国内法におきましては、法律の制定機関は国会である、国会が即ち唯一の立法機関である、ほかの法令はこれは或いは政令は
内閣で以て定める、或いは裁判所事務処理規則は最高裁判所で定めるという工合にな
つておりますが、法律の制定機関は国会のみであります。ところが命令の制定については国会はこれにタツチしないところであります。ところが條約の場合には、トリーテイーと言われるものでもアグリーメントと言われるものでも、チャーターと言われるものでも、何でもすべて
日本におきましては……、
アメリカではありません、
日本におきましては
内閣が外国のそれぞれ所定の
国家機関との協力におきましてその締結又は決定の任に当るのである。言い換えれば我が国の制度としては、條約の制定機関は一定しているわけであ
つて、
内閣がこれに当る。そうしてその事前、又は事後におきまして国会がその
承認の権限を持つことになりておるという点においても、條約の種類ごとに何ら相違のあるべきものではないのであります。同じであります。これは法律とほかの命令との
関係とは全く違つたところであると申さなければならんと思います。我が国におきましては例えば参議院のみが、或いは又衆議院のみがその
承認権を與えられておるのではなくして、国会がその
承認権を與えられておるということとも関連して、このことを理解さるべきであるというようにも
考えられるのであります。
要するに安保條約第三條に根拠して
行政協定が決定されるものであるとは言え、その決定に際しましては、安保條約は国会の
承認を経て定めるのであり、同じように国会の事前、又は事後の承諾、
承認に基くことを要するわけであります。その論理は、つまり安保條約は平和條約に基いて定められておることは、安保條約の前文に徴して明らかではありますが、而も
二つの條約は別々に国会の
承認を必要とするものであり、且つそのようになされたのと同然であると申さなければならんわけであります。
従つて例えば
行政協定も、この
二つの條約に下属の條約であるということを認めるとしましても、すでに安保條約が国会の
承認を経て定められているのでありまするからして、これによ
つて決定される
行政協定が、
〔理事小林政夫君退席、
委員長着席〕
改めて国会の
承認を必要としないということは、我が国の
憲法制度としては独断であり、国権の最高機関であるところの国会の権威を軽視するものでありまして、
憲法七十三條に忠実であると言うことはできないわけであります。このことは
行政協定の
内容が、或いは律法事項たるものがある、或いは予算事項たるものがある、そういつたものを含んでおるということ、それ自体国会に付議してそれは定めなければならない性質を有しておるものであるということとも関連して考うべきものでもあり、この点も注意すべき点ではなかろうかと思うのであります。即ち
国民の権利義務に関する、或いは又罰則の規定もある、その
内容の重大性に徴しましても、これを含む
内容のものを、一定のものとしまして国会にかけないということは、断じてこれは許すべきものではない。即ちこのような
行政協定は、
憲法上から国会の
承認を経て決定すべきものであると申さなければならないのであります。この点についてはこの参議院においても
相当に論議を盡されたようでありますから、詳論をする必要はないと思うのであります。
これは要するに
憲法七十三條三号は、以上に述べて来ましたように、
内閣が條約の
一つである
行政協定を決定する場合にも、当然に、事前又は事後に国会の
承認を経ることを要するものである。だからして国会の
承認を求むることなくして
行政協定を決定するということは、明らかに
憲法の
違反になると断ぜられるわけであります。なお今回のこの
行政協定は、その
内容としまして、「
アメリカ合衆国の
軍隊の
日本国内及びその附近における配備を規律する條件」、これを定めているものでありますからして、一種のこれは軍事協定である。明らかに一種の軍事協定であります。ところが積極的な軍事協定というものは、戰争を放棄し、武裝を放棄した平和主義
国家たる
日本国では、これを締結することは
憲法上不可能としているものであります。積極的な軍事協定を締結することは
憲法では許されておりません。ただ辛うじて消極的、又は受動的な軍事協定はこれは許されるわけであります。許され得るのでありますが、積極的な軍事協定は断じて許されない。
従つて今回のこの
行政協定の二十四條は、この
意味で問題になる
條文であると思うのであります。即ち非常事態の場合といえども、その両国
政府のとる、
アメリカ及び
日本国
政府のとる共同措置について、
アメリカは軍事行動をとることは勿論であります、勿論でありますが
日本国
政府はこのような軍事的措置は、これはとり得ない、軍事的措置をとることは許されないと思うのであります。即ちその場合において共同措置と申しましても、
アメリカは軍事的措置をとるが、我が国は軍事的措置はとれない、ただ非軍事的措置のみを、
アメリカの軍事的措置と並んでとり得る、こう解しなければならんと思うのであります。若しそうでなくて、これを積極的に解釈しますならば、この二十四條という
條文は、
行政協定二十四條は
憲法九條の、あたかも
違反になると言わなければなりません。
従つて又第九條
違反の、この箇條を含んだところの
行政協定はこれを除くか、或いは消極的な解釈をとるのでなければ
憲法の
違反になるのではないか、このように私は
考えておるわけであります。
まだ言い盡さない点がありますけれども、これを以ちまして
憲法九條と
戰力との
関係及び
行政協定と
憲法七十三條三号との
関係についての私の
意見の陳述を終らして頂きます。