○
吉田法晴君
予算委員会は、
総理の失言と
前言取消に関連しまして、
戰力論議をいたしましたので、本
会議においてこの
緊急質問をなすべきか否かについて反省をしたのでありますが、
総理の
取消と
政府の強弁とにもかかわらず、再
軍備はなしくずし的に進められており、本
年度予算が通過いたしますと、
予備隊、
保安隊は、人員、
装備共に強化せられ、
海上保安隊の中から生れる
海上警備隊のごとき、フリゲート艦という駆逐艦を持つに至るものと信ぜられておりますし、近く
政府は
警察予備隊と
海上保安隊の法的基礎をポ政令から国内法に切替える
措置なり、両者を統合所管し国防省に相当する保安庁設置法を提出して来ると信ぜられております。言い換えますと、
治安目的ではなくして、自衛目的を持つ明瞭な国防軍、自衛軍が実現するのでありますが、それまでじつと待つべきではなくして、
憲法第九十九條によ
つて憲法尊重擁護の義務を持
つている
国会議員としての当然の責務を今日果すべきであると、こういう
意味においてこの
緊急質問をなす次第であります。(「そうだそうだ」と呼ぶ者あり)
従来、
吉田総理は、
憲法改正問題に関しましては、しばしば
憲法改正はいたさないのでありますと言明されて来られました。(「言を左右にする」と呼ぶ者あり)去る三月六日に本院
予算委員会における私の質問に答えても、「
憲法改正の今日意思はないのであります。再
軍備はいたさないつもりでおりますから、それ故に
憲法改正の必要はないと私は思います。」と明言されました。然るにその同じ六日の午後、岡本委員の質問に答えては、「
憲法は自衛手段としての
戰力を禁じているわけではない」と、問題に
なつた
発言をせられました。この
発言が第九條に違反すると騒がれたため、三月十日訂正をせられました。然るにそのすぐ直後、又、「自衛のための新たな
戰力を持つや否やを成るべく早く
国会と
国民に問われることが必要ではないか」という岡本君の質問に答えては、「大体御意見の
通りであります」と、これを肯定、
憲法改正と、これを
国民投票に任せることを確言しておられます。(「その
通りだ」と呼ぶ者あり)
総理の
発言を速記録で辿
つてみますというと、前後矛盾撞著、(「分裂症だ」と呼ぶ者あり)いずれに真意があるのか捕捉困難でありまして、極度に心神困憊をしておられるのでなければ、頗る不誠意、不まじめ、
日本国民と共に、
国家の名誉にかけ、全力拳げてこの
憲法の崇高な理想と目的を達成することを誓い、
憲法第九十九條によ
つてこの
憲法を尊重し擁護する義務を有する
総理大臣とは思えないのであります。そこで先ず第一に
吉田総理にお尋ねしなければならんことは、以上の御
発言のうち、いずれが真意あるものであるか、失礼であるけれどもはつきり承わりたい。併せて、この
憲法を公布せられたその
吉田総理は、
憲法前文の末項及び第九十九條の
憲法尊重擁護の義務をどう
考えておられますか、承わりたいのであります。
第二点は、
憲法第九條の解釈についてであります。この條文成案の経緯、英訳文、
憲法学者の多数の意見、
政府の当時の説明等を総合して、
異議なかつたところのものは、一つは無
條件の交戰権否認であ
つて、自衛
戰争を放棄するということでありました。このことについては、一、二の反対意見がございますが、それは極めて少数であること周知の
通りであります。マツカーサー元帥が
憲法改正について民政局に與えられた重要な三点の一つには、次の一項がありました。即ち「
国家の
主権的
権利としての
戰争を
廃止する。
日本は
国家の紛争解決のための手段としての
戰争及び
自己の安全を保持持するための手段としてのそれをも放棄する。」繰返しますが、「
自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。」「以上のことは、
世界の
防衛と保護につき、今や
世界を動かしつつある崇高な理想に依存するものである。」このことは、
吉田総理は、第九十帝国議会において、みずから「
戰争放棄に関する本條の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませんが、第九條第二項において、一切の
軍備と、国の交戰権を認めない結果、自衛権の発動としての
戰争も放棄したものであります。」と明言しておられるのでであります。他の一つは、「その他の
戰力」、英語で言うアザー・ウオア・ポテンシヤルというのは、潜在的
戰力であ
つて、人の集団、物たる兵器及び兵器の製造施設の三つを含むということであります。このことは金森国務相も第九十帝国議会の
答弁で明白に認めておられます。然るに前者は、
吉田総理によ
つて、第七回
国会以来でありますが、「自衛のための
戰争はしないと言つた覚えはない」と覆えされ、後者は、
木村法務総裁によ
つて、今
国会において覆えされ、甚だしい場合は「
原子爆彈であるからと、それのみを以て
戰力とは言えぬ。これを運ぶところの飛行機も要れば、これを操縦する飛行士も準備しなければならん。これらのものを総合して一つの
武器となる」と
言つて、曾
つての人の集団、物たる兵器、兵器製造の施設、その一つ一つが潜在的
戰力であるとされた
憲法制定当時の解釈とは全く違
つております。かくのごとく
憲法の解釈が勝手に変更できるものでありましようか。或る
新聞が、「
日本国員の総意によ
つて創定された
憲法に対して、時の
政府が便宜的た解釈を下したり、事実の上で背反したり、結局
憲法を軽視するようなことがあれば、法治
国家とは言えないことになる。」と申しておりますが、
国民に先んじて
憲法を尊重し擁護すべき
総理大臣なり
国務大臣が、勝手に
憲法を解釈して、
憲法を破壊し、立憲政治を覆えすことが許されるかどうか、
総理及び
木村法務総裁に承わりたいのであります。
お尋ねする第三点は、現在問題にな
つている
警察予備隊と
海上保安隊、この漸増が期待せられておる自衛力は、
戰力ではないかという点であります。今
国会を通じて最も多く論議せられた
戰力問題は、上述の
政府の
憲法第九條を勝手に曲げてする解釈、なかんずく、
戰力は総合的なものでなければ
戰力とならぬという詭弁と、そして
警察力と
戰力との差を挙げず、「
戰力には一定の定義がありません。その時と場所によ
つてその
戰力のあり方が違
つて来るだろうと
考えております。」という逃げ口上で終始して来られました。併し
戰力については果して一定の定義をなし得ないでありましようか。
警察と
戰力の限界はないでありましようか。
戰力の要素、そして
戰力を
警察力と区別する要素として挙げるべきものは、三つあると
考えられます。第一は組織であります。即ち、いわゆる軍隊組織を持
つているかどうかであります。それには、強力な指揮
命令の系統、階級制度、戰闘のための訓練を含み、
徴兵制度或いは予備役制度等の身分束縛を伴うか否かであります。第二は、その有する
武器の性質であります。如何なる
武器を持つことによ
つて警察力から
戰力に移行するかは、時代と環境とによ
つて左右せられるところではありますが、不特定多数の
国民を殺傷する
武器を持つことは
警察には許されないのでありましようし、且つ、
日本が敗戰後、
ポツダム宣言により
戰争能力を破摧され、そして軍国主義の
復活が実定法によ
つて警戒されて来たこの現実の
事態をも忘れてはなりません。第三は、その目的使命であります。
警察は国内の
治安維持を目的とするから対内的であり、これに反して、
戰力は対外的に、自国を
防衛し、或いは他国を制裁し、又は侵略することを目的とし、国の外に向うことを本質としております。或いは
警察と軍隊の本質的区別を、それが人を殺すことを当然のこととして承認されているか否かに求めんとする意見もございます。然るに
警察予備隊等はどうでございましようか。全隊員が総監の下に旧陸軍類似の階級に分れて統率され、兵営類似のキヤンプに牧容されて、外出も自由ではありません。訓練内容は、白兵戰、渡河作戰、敵の上陸に備える障害物構築等、全く戰闘のためのものであります。その訓練を演習と言い、
新聞に伝えられる保安庁設置法要綱によれば、
保安隊、警備隊の総監の下には、幕僚があり、管区隊長の下に部隊がある。指揮
命令の系統はこれを統帥と言う。士官学校という
言葉が飛び出したり、国防軍という
言葉がつい出るのは、語るに落ちたものでなくて何でありましよう。(「そうだ」と呼ぶ者あり)兵器はカービン銃、ライフル銃、その他自動小銃、迫撃砲、バズーカ砲等であると公表されております。近代的装備を持ち、ジエツト機、原子爆弾を持つ
外国軍隊に対して十分戰い得る
戰力でないと
政府によ
つて強弁されておりますが、
世界のどこの国の
警察が、国内
治安維持のために迫撃砲やバズーカ砲を持
つて、多数の
国民を殺戮しようとしておるものがございましようか。なお
ポツダム宣言第九項に謳われた武装解除に関する方針は、「降伏後の対日基本
政策」の中にも、
武器の製造所有を禁止した指令第三号の中にも、具体的に規定されております。国内法としての
昭和二十年勅令五百四十二号に基く兵器、航空機等の生産
制限に関する件を待つまでもなく、兵器の製造は明らかに
憲法違反であります。
警察予備隊及び
海上保安隊が如何なる目的に使われるか。国内
治安維持のほか、自衛のために使われることが明らかにせられて参りました。即ち
日米安全保障條約による自衛力漸増の具体的姿が、
警察予備隊なり
海上保安隊の増強であります。この自衛ということは、海外からの侵略、或いは外からの脅威を與えんとするものに対して、
日本の
独立安全を守るということであると説明されましたが、このことは、即ち
予備隊、
保安隊が対外的な使命を持
つておるということであります。なお又
行政協定第二十四條によ
つて、
日本区域において敵対行為又は敵対行為の急迫した脅威が生じた場合には
日本区域の
防衛のため共同
措置をとると規定されているが、共同
措置をとる一方が
アメリカの
戰力であるならば、他の
日本の自衛力も
戰力ではないかということは、当然のこれは理論であります。
以上、
戰力の要素と、自衛力と称せられる
警察予備隊及び
海上保安隊の実体を比較検討いたしましたが、
吉田総理、木村、大橋両大臣とも、なお依然として
理由も挙げずこれらは
戰力でないと抗弁せられるのでありましようか。
理由を挙げて
お答えを願いたいのであります。(「その
通りだ」と呼ぶ者あり)なお、この自衛の現実の姿として、
政府は、「
予備隊の外敵の
防衛に任ずることは……これは自衛権の行使でありまして、
予備隊と言わず、消防隊と言わず、或いは我々一介の
国民と言わず、誰でも自分の国が侵されんとするときは当然自衛権を行使してこの国を守るのであります。」と
答弁しておられます。これは
予備隊が外敵に当る
戰力であるとの証拠でありますが、そのほか
政府は、万一外敵の侵入があつた場合、
国民の老幼婦女にも竹槍を持たせて一億玉砕主義を再び繰返すつもりであるかどうか、お伺いしておきたいと思います。
第四には、
政府は
日米安全保障條約によ
つて、直接及び間接の侵略に対する自国の
防衛のため、漸増的にみずから
責任を負うことを約束し、その自衛力漸増計画については、ダレス氏が昨年の十二月来朝、
吉田首相と協議決定せられたと一般に理解せられており、米英初め
世界の輿論のみならず、
日本の
新聞、雑誌、特にこの問題についての輿論調査までが、「
日本軍の再建はもう始ま
つている。」と言い、三月六日の
首相の
自衛戰力に関する
発言を
取消してみても誰も信用しないのに、
首相初め
政府は、何故飽くまで強弁し、
憲法違反の疑いを反省しないのでございましようか。それは
吉田総理が秦の趙高の例に倣
つて、その左右や学者に鹿を馬と言わせようというのでありましようか。或いはアンデルセンの「裸かの王様」のように、町の子供たちに「裸かの王様だ」と笑われても、なお美しく立派な着物を着ていると言い張るつもりでありましようか。
占領下現在の
憲法の下においては、国内
治安維持を任務とし一朝有事の場合外敵に対し
国家を
防衛する
警察予備隊を強化し、その数と訓練装備が如何に強化されようと、これを
警察と強弁し、機の熟するを見て、
日本国憲法は曾
つて上から與えられたものであるが、今は客観情勢が変化し、その筋の要請が異なるとして、
憲法の修正ではなくして、
憲法そのものの否定、
憲法の変革にほかならないところの第九條の変更をなされようというのでありましようか。
日本国憲法は、その理想の高さにおいて、
民主主義に
社会化の要素を取入れた点において、ワイマール
憲法に幾多相似た点を持
つております。第一次欧洲大戰後のドイツの辿つた
運命は、
日本の我々が今歩もうとする道に極めてよく似ております。ワイマール
憲法は一九一九年に誕生して、一九三三年ヒトラーの政権獲得後公然と蹂躪せられて行きました。我が
日本国憲法は、
昭和二十一年十一月公布、翌二十二年五月施行せられたことは、まだ
日本国民の記憶に新たなところであります。実施満五年分記念日を迎えんとする今日、当時の
総理大臣兼外務大臣
吉田茂その人によ
つて、事実上の変更と、そして
改正変革が行われるのでありましようか。
民主
憲法、平和
憲法の骨抜きによ
つて育つ軍国主義の亡霊は、旧軍人を中心に、それを育てる大橋国務相を乗り越え、
吉田首相と自由党をもテロと彈圧の対象とするのでありましようが、
日本の
運命を、ドイツのそれのごとく、再びフアツシヨ支配に任せ、そして
戰争と、(「時間々々」と呼ぶ者あり)民族の再び起つ能わざる滅亡に推し進めないではおかないでありましよう。
吉田首相の心境と
決意を承わりたいと思います。(
拍手)
〔
国務大臣吉田茂君
登壇、
拍手〕