○吉田
法晴君 先に
討論をいたしました
内村君の
討論を補足いたしまして、私の
討論を進めたいと
考えるのであります。
私どもが
原案と二
修正案について反対せざるを得ない第一の理由は、この
法案に対しまする世論を十分に反映していないという点であります。この破
壞活動防止法の前の案であります或いは
団体等規正令であるとか、或いは保安法等について、
国民の大多数、労働組合といわず、新聞雑誌出版
関係者といわず、学界文筆人といわず、宗教家といわず、法曹界といわず、
国民の良知良識あるかたがたの挙げての強い反対があつたことは私が今更指摘するまでもございません。これだけ広汎にして真剣な反対運動が拡げられた
法案は
曾つてなかつたと言
つても、これは決して過言ではないと思うのであります。労働組合は三波四波と、この間においては或いは
政府の、或いは資本家陣営の弾圧切崩しの意図が明らかに出て参りました。然るにその中において犠牲を覚悟の上で悲痛な反対運動を続けて参りました。新聞雑誌出版界においても筆を揃えて最後の今日に至りますまで
国会に対して反省を求め、この
法案の骨抜きと撤回とを求めて参られました。学界文筆家或いは
文化人の反対に至りましては、先の学術
会議或いは各大学殆んど挙げての反対、それは悪法反対
国民運動連絡協議会になり、期せずして
国会にも陳情においでになり、或いはこの
法務委員と前例のない懇談会を開かれるに至りましたけれども、その間における学界人或いは文筆人の真剣な
態度に対しましては、私ども心から敬意を表し、尊敬の念を払わざるを得なかつたのであります。最近に至りましては、或いはミツシヨン・スクールや宗教界まで反対せられております。或いは法曹界の中にも反対がありますことは御承知の
通りであります。これらの反対に対しまして、自由党の代表は先ほど杞憂だと言われました。
政府ももしばしばそれは杞憂であるという遁辞を設けて来られましたけれども、これらの反対をしております
国民各界の理由は決して理由のないものではございません。この
関係諸
法律によ
つて言論、集会、出版、結社の自由が制限せられること、
規定の中に
憲法違反の条章がありますことは明らかであります。この
法律によ
つて行政
処分と刑事
処分がなされることになるのでありますが、行政機関によ
つて、或いは
公安調査庁によ
つて調査がなされ、或いは
審理がなされ、そして調書と請求書に基いて
公安審査委員会の
審理がなされるのでありますけれども、いずれにいたしましても、これが行政機関であることには間違いございません。そしてその決定が裁判所に持
つて行かれる可能性が残されておると言われますけれども、従来の経験からしますならば、この事前の
審理が、或いは
公安調査官の調書が最後までものを言
つて参ること、これが支配的にな
つて参ることは従来の経験から明らかであります。そしてそこで行政事件訴訟特例法第十条第二項但書によ
つて裁判所においてこの
処分をストツプすることも、恐らくこれは次々に
総理大臣の
異議申立によ
つて抑えられて参るでありましよう。或る人は国家機関の専断と人権の蹂躙がせられる伝統のある
日本においては、この行政機関の専断は防ぐことができないということを喝破いたしておりますが、これは私の議論ではなくして、反対をせられて参りました学者その他各界の共通の
意見であります。或いはこの行政
処分と刑事
処分は入り乱れまして、恐らく実際に法の運営にと
つて起
つて参ります事態は収拾の付かない事態を招来することをこの
法案は物語
つております。或いは
質疑応答で明らかにいたしました基礎条文のあいまいさ、或いは広汎さ、或いは政治
目的を持つ
犯罪の、
刑法各本条に比べて重刑であるということは、これは何人の目にも明らかであります。特に行政機関の中心に特審局であり、或いは特審局の後身であります
公安調査庁であるということは、これは
政府委員も認めましたけれども、それは治安警察の創設であります。治安警察という言葉をわかりやすく言いますならば、それは
思想警察であり、特高警察であると言われておりますが、この三
法案の中心は、或る意味においてはこの
思想警察を復活するのがその最大の使命であり、破
壞活動防止法案はその根拠法文であると言われるのであります。なお行政
処分に裁判が事実上影響せられ、或いは拘束せられるという可能性につきましては、
質疑の間において羽仁
委員等からも明らかにせられた
ところであります。
以上申述べました反対の理由、そしてこの
法律が濫用せられる危険性を持
つておるのではなくして、濫用せられる
必然性を持
つておるということは反対者のひとしく口にせられる
ところであります。反対の一番主な理由は、この
法案が可能性ではなくして、
必然性を持
つておるという点であります。このことにつきましては、
政府の
原案についてももとよりでありますけれども、
国会がこの反対の空気に鑑み、若干の
修正をせられようとしておりますが、緑風会の
修正案はこの
輿論に対して名
目的に追随したというにとどまりまして、何らこれらの反対について本質的に答えられる
ところはございません。残念でありますけれども、これは申訳的な
修正案であると言わざるを得ないのであります。社会党第二控室、改進党の
修正案につきましては、その
修正の幅は緑風会に数歩優れておる点は認めるのでありますけれども、なお併しこの反対の理由を十分救い得るほどの
修正にな
つていない点を残念に思うのであります。
輿論は
国会、特に
参議院に対して大きな期待をかけ、ここで或いは否決をせられるか、或いは根本的な
修正がなされるかということに大きな期待を持
つて参りました。或いは
参議院に寄せられます
文書、或いは陳情、或いは新聞紙その他を通じて表明せられます期待は、偏えに
参議院に集中せられております。今日
衆議院においては自由党の絶対多数の下に道理が引つ込んで無理が通るという現状において、
参議院こそ
国民の期待に副い得る唯一の一院であると
考えられておるのでありますが、若し私どもがここで十分にこの
国民の期待に副うことができませんならば、これは議会政治或いは民主政治の
基本に対する危惧を生ずるであろうと危惧せざるを得ないのであります。
参議院は申上げるまでもなく第二院として
衆議院の抑制機関であります。立法機関のみならず、国の最高の機関の中において、
衆議院における絶対多数を持
つております勢力の抑制を、
衆議院における無謀を抑制し
修正することができませんならば、
参議院の存在価値というものは私はないと
考えるのであります。そういう意味において私どもこの
法案に対して、この
法案が政治の
基本原則を大きく左右いたしますだけに、大きな責任を感ぜざるを得ないのでありますが、
原案はもとよりのこと、
修正案についてそれに十分答え得ておられない点を甚だ遺憾に存ぜざるを得ないのであります。
私どもがこういう
態度を持せざるを得ない
基本的な第二の点は、
民主主義の
基本的な原則をここで曲げようとするものである点であります。
民主主義の何たるかについては私が申上げるまでもございません。敗戦の結果ではございますけれども、過去の独裁政治或いは軍国主義、これらに対する深き反省の上に不変のものとしてここに打立てた民主
憲法がございます。その民主
憲法の
基本を流れております
民主主義、その一番
基本的な原則は、何と申しても言論、集会、出版、結社の自由であると思うのでありますが、この
民主主義の大原則が行政権によ
つて制限せられ、
規定せられようとしておる
ところに私どもの重大なる関心が存在するのであります。明治維新の後、不完全ではありますけれども、
民主主義への一歩を踏み出しました。それがその後或いは官僚、軍閥の強大化に伴いまして制限せられて参り、或いは大正の初期に普選の実施と共に
民主主義政党政治の高揚として一時期を画しました。併しその後更に軍国主義の高揚と共に
民主主義は跡形もなく奪い去られて、そうして戦争への道、敗戦への道を歩んだことは私が今更繰返す必要はございません。戦後のこの尊い犠牲の上に打ち立てた
民主主義は、十八世紀的な
民主主義にとどまらず、社会化或いは社会主義的な要素を含んで、歴史上ワイマール
憲法と共に、或いは平和主義を徹底した姿において貫いたという意味において、画期的な
憲法でありました。私が社会化の要素或いは社会主義的な要素と言いますのは、土地の解放或いは団結権、罷業権の確立或いは社会保障についての
憲法第二十五条の
規定、これらは資本主義の制限を含んでおる
ところの新らしい画期的な要素であります。この
民主主義を、民主
憲法を捨てるかどうか、大きくその原則を展開するかどうかという段階にこの
法律の制定を通じて直面するか否かであります。或いは
民主主義を行政権によ
つて制限する第一歩がここに踏み出されようとするか否かであります。新
憲法の下における
民主主義或いは
国民主権の原則については、各条章のほか、特に
憲法前文において明らかにしておる
ところであります。ここに引用するまでもございませんが、「ここに主権が
国民に存することを宣言し、この
憲法を確定する。そもそも国政は、
国民の厳粛な信託によるものであ
つて、その権威は
国民に由来し、その権力は
国民の代表者がこれを行使し、その福利は
国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この
憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の
憲法、法令及び詔勅を排除する。」と謳
つてあります。この破
壞活動防止法その他はこれに反する法令の
一つに属すると
考えるのでありますが、
政府或いは自由党においては、これらの点について党の名前に自由党という名前が付いておりますけれども、御反省のないことを極めて遺憾に存ずるのであります。行政権による
国民の権利
義務の制限の事実につきましては、
質疑を通じて、公共の福祉と
基本的人権という問題に関連いたして質問をいたして参りました。
政府は公共の福祉のためには、公共の福祉を治安維持という言葉に置換えて、治安維持のため公共の福祉の維持のためには
国民主権の原則を覆えし、行政権が
国民に優先することを認め、その授権立法を認められようとしておるのであります。公共の福祉と
国民の
基本的人権については繰返してここで詳論をいたしませんけれども、或いは佐藤
法制意見
局長官の前任者である金田一氏、或いは東大の我妻教授或いは法学協会等が、それぞれ新
憲法発布後に論述せられておる
ところであります。私はむしろこの新
憲法公布後の諸議論に現われました
基本的人権の擁護のためには、公共の福祉が従属的なものであるとする、公共の福祉を以てしても
基本的人権は奪うことのできないものである。或いは天賦神権説或いは治安法的な観念がございましようとも、
基本的人権は公共の福祉を以てしても制限することができないものがあると、これを高らかに強調いたしますことこそが、現在置かれておる私どもの任務だと
考えるのであります。なおこのことにつきましては、この
法案第三条の朝憲という問題に関連して論議をいたしましたが、
政府は朝憲という概念の中には平和主義は入らないのだ、それは政治上の主義、施策にしか過ぎないのだ、何々イズムと言われるものと平和主義とは同じものであるという御答弁がございました。
憲法を貫いております平和主義が戦争の放棄、非武装、そうして中外に闡明した平和主義が炭鉱国管やその他の具体的な主義施策と同じものであるという
考え方については唖然たらざるを得なかつたのでありますが、これらの点にも明らかに新
憲法の精神と反します
基本的な精神が流れております。まさにそれは旧
憲法的な
思想であります。或いは独占資本の利害と同じものであり、独占資本の利害と官僚主義とが結び付きました旧専制主義的な
考えであり、全く逆コース的な理念と言わざるを得ないのであります。到底新
憲法の確立いたしました
民主主義の容認し得ざる原則がこの破
壞活動防止法の中を貫いておるということを指摘し、そうしてこの
民主主義を擁護することが私どもの今日課せられておる任務であるという点に鑑みて、この三
法案には断固として反対せざるを得ないのであります。
なお第三には、この破
壞活動防止法関係三
法案の立法の前提にな
つておりますものは、第一にそれは共産主義が暴力であるという点であります。或いは破
壞活動であるという点であります。このことについて大内先生も我々との懇談会において指摘せられましたけれども、共産主義を破
壞活動と断定する点について、アメリカの世界的に一番まずい
態度が現われて参るのであるということを言われましたけれども、
法案の前提にな
つております
考え方が、かかる
思想に基いておりますことは明らかであります。殊に木村
法務総裁は
質疑の過程で、独裁制を実現せんとする全体主義だという
表現をなされたのでありますけれども、私は
政府なり、或いは与党の
考えの中にあります単なるこういう
表現に対して非常に悲しみを感じたのであります。共産主義に対する
考えがかくのごときものであるか、或いはこの程度であるかということに悲しみを感じたのでありますが、それは共産主義に対して
思想的に対抗する自信がないことをはつきり暴露いたしております。申上げるまでもなく共産主義は
思想であります。それは政治、経済、歴史各般に亘るでありましようが、私どもは政治、
思想に対しては
思想を以て対抗すべきであるという
民主主義的な原則に立ちますならば、自由党の
政府が
思想を持たずして、力を以て対抗する以外にないということについて憐憫の情を感ぜざるを得ないものであります。あとで引きますけれども、社会民主党鎮圧法は歴史的において破
壞活動防止法と本質的に同じものでございます。この社会民主党鎮圧法は一八七八年五月十一日のベルリンにおけるヘイゼルという気狂い、遺伝黴毒を持
つております者が、カイゼル・ウイルヘルムに対して曲つたピストルで、当る可能性のないピストルを発射したという事実を以て直ちにこれを社会民主党員であるとし、越えて六月二日ノビリングがカイゼルを狙撃した事実をつかまえて、そして社会民主党鎮圧法を制定したのであります。この社会民主党鎮圧法に対する当時のドイツの世論は、まさに
日本における破
壞活動防止法に対する世論と全く同じでありますが、これは
政府の事件を政治的に運用しました策略と、そしてその後に
国民の中に起きた不敬事件の挑発という問題で以て、遂に一八七八年の十月に成立せしめたものであります。その後これは力で以て社会
民主主義を抑圧しようといたしましたけれども、遂に政治的な情勢の変化に押されて廃止せざるを得ない運命に逢着したのでありますが、私は特にこの社会党鎮圧法に対しまして、エンゲルスが言つた言葉を引いて私は
政府の参考にいたしたいと思うのであります。これは「改造」に載りましたものの又聞きでありますから、或いは若干不正確な点があるかも知れませんけれども、お許しを頂きたいと思います。「社会
民主主義的票数の増加は自然過程の不可抗力をも
つて改選毎に進んで行つた。暴圧、警察の擅断、裁判官の悪意、それらの総ては何らの効もなく弾き返された。そうして社会民主党は帝国第二の大政党となつた。そうしてかくの如き場合に、ドイツの労働者が唯ビスマルクを命がけの危難から救い出してやるために、見込みもない暴動に誘導されて、以
つて自分自身の事業を挫折せしめるべきであろうか。……社会
民主主義者のために働かざるを得ないという様な……此の如き刹那に於て規律、自制が役立たなくなるべきであろうか。そして吾と吾が身を突きつけられている劔に投ずべきであろうか。断じて否。かくするには社会党鎮圧法は吾々労働者を余りによく訓練した。……そうするには彼等の内の余りに多くの戦士が弾丸雨下を顧みず、攻撃の機の至るまで立て銃を忍ぶ事を修得した。」と書いてあります。これを以ていたしますならば、
政府或いは自由党の
考えられるような破
壞活動が共産主義の本体であるということは、これは言えないと
考えるのであります。私は
思想に対して
思想を以て対抗しようとするのでなく、力を以て対抗しようとする前提とな
つておりますこの暴力であるという点について反省を求め、そして先ほど読み上げましたエンゲルスの言葉こそ、これは現在の共産党も
考えられるべき点であると
考えるのでありますけれども、この認識につきまして、
政府の
考え方についての駁論の
一つの材料としてここに引くことをお許し
願つたのであります。なおこの共産主義を暴力である、或いは破
壞活動であるとするこの
態度は、これは国際的な繋がりを持
つております世界的な閉じ込め政策の国内版をこの
日本において生もうというのが私は
政府の
態度であると断ぜざるを得ないのであります。私は
民主主義的な
態度であるならば、
思想には
思想を以て対抗する。或いはそのよ
つて来たる
ところの原因については民生の安定、政治を以てこれに善処せられることが
政府の責任であると断じ、前提の第一について反論をせざるを得ないのであります。
なおこの
法律、立法の前提の第二は、破
壞活動が存在しておるというこれは認定に立
つております。
政府は公式には共産党の武力革命の方式と、現われておる破
壞活動の中に
必然的な
関係がある、疑いがあるという言葉で表明せられております。成るほど武力革命の方針を決定したということ。或いは武器をとれといつたような五全協の決定、或いは平和と独立、球根栽培法等については、私どももその資料を拝見いたしました。私は併しながら政治家として、
政府としてこの破
壞活動のよ
つて来たる
ところについて
考えることなしには、そしてそれに対する対策を立てることなしには政治ではない、
政府の責任ではないと
考えるのであります。この点については
伊藤委員からも
質疑の間で指摘せられましたから詳しくは申上げませんけれども、そのよ
つて来たる
ところについて若干の考察を試みますならば、終戦後野坂氏が帰
つて来られたときには、
日本においては、これを凱旋将軍のような恰好で迎えました。この点については或いは監獄から解放して、そしてこれに対して激励までされたのでありますけれども、それの点は遠い昔の話として、この帰還された野坂氏は平和革命方式を、愛せられる共産党の主義を闡明せられたが、その後その
民主主義的な
態度を、平和革命の方式をなぜ捨てたか、これは一に或いはコミンフオルムの批判もあつたかも知れんと思うのであります。なお国内において、
政府の
態度についても反省せられる点があるのではないかと
考えるのであります。そして現在においては自由党が向米一辺倒になられたのに対して、共産党は向ソ一辺倒になられたのでありますが、この両陣営の対立がそのまま国内に持ち込まれる点に私ども非常な平和に対する危惧の念を抱かざるを得ないのであります。そこでこれらの破
壞活動につきましては、破
壞活動がなぜ起つたかということについての政治的な反省を求めたいと
考えます。或いは自由労働者が破
壞活動をやると言われますならば、或いは輪番制によ
つて二日に一日、或いは三日に一日しか仕事がなくて、或いは盆となり、或いは暮となるならば、正月を越す餅代もないという現実が、自由労働者をしてこの種の
行為に向わしめるとするならば、その自由労働者の現実の
生活こそが政治の責任の対象でなければならんと
考えます。或いは朝鮮人の諸君にして破
壞活動がありと指摘せられますが、あの出入国管理令によ
つて強制送還せられ、そしてそのことが生命にも関連すると危惧せられる今日、弱い者として、最後の場合に多数の力によ
つてみずからの身を守ろうとすることは、これはひとり戦後の問題のみではございません。私どもはそのよ
つて来たる
ところに対して、深い同情と、そしてその事態の起
つて参ります原因を
考えることこそが政治家の責任でなければならんと
考えるのでございます。このことは、言われます学生についても私は言い得ると思うのであります。或いは両条約により、或いは行政協定によ
つて米軍の駐留があり、再軍備が行われて行き、或いは自由党
政府の施策によ
つて貿易は進展せず、
生活は苦しくなり、殆んどすべての学生がアルバイトをやらなければならん、そうして
自分たちの過去の半生の大半は戦争によ
つて空白となり、或いは学友は戦線において、或いは徴用された工場においてその命を失い、或いは
生活を犠牲にした。然るにそのわだつみの声がまだ聞える今日、再び徴兵令の第一歩が踏出され、戦争の危機が近付いて、
自分たちがあの学友と、或いは同僚と同じ道に進まなければならんのではないかという危険が身に瀕しておりまするときに、学生の動きますことは、これは学生だから政治に関与することが許されないというような言葉で以て対応さるべきものではないと信ずるのであります。破
壞活動の前提につきましては、或いはメーデーの事件、或いは早大事件、或いは渋谷の事件等について、ここに評論をする機会はございませんけれども、
委員会で論議をいたしましたように、或いは今日現われておりますメーデー事件の第三者の見聞記を見ましても、これらの点について断定をすることができないことは明らかであると
考えるのであります。法の前提となりました破
壞活動の存在については大きな議論があると断ぜざるを得ません。
第五に、法制定の沿革についてでありますが、この破
壞活動防止法その他が
団体等規正令の後身として、いわゆる講和後のこの種の
法律の空白に対処しようとしたことは明らかであります。ただ大きな差異は、
団体等規正令が戦争協力者の追放、或いは平和主義、
民主主義の擁護と推進にあつたという事実を完全に無視し、その要素を完全に捨て去
つて、
法案の中においても破
壞活動のうち、右と言わず左と言わず、法所定の行動があつたならばこれを
規制すると言われますけれども、或いは政治
目的を持つた破
壞活動云々の中に、取りあえず或いは眼前においては右翼の問題は問題にせられていないことは明らかであります。
団体等規正令に比べて法が歴史的に後退をしておるということ、右でなくして左を指向しておるということは明らかであります。
第六に、この
法律によ
つて目指しておる
ところの法体系の問題であります。
曾つて戦前においては治安維持法のほか、治安警察法或いは出版法、新聞紙法等弾圧諸法規或いは
基本的人権を覆えし、
民主主義を奪つた諸
法律がございました。そうしてこれらの諸
法律が国家警察の基礎をなしたこと、中央集権的国家警察或いは警察国家の基礎をなした
法律であることは今更申すまでもございませんが、現在破
壞活動防止法を作り、或いはデモ集会の秩序保持に関する
法律を制定せんとし、或いはゼネ禁法について制定を進め、警察法の改正を進められておりますが、先に成立いたしました刑事特別法と共に、再びこの旧
憲法時代の警察国家を実現せんとする法体系の
基本的のものが、この破
壞活動防止法ほか二
法律によ
つて出来上ろうとしておるわけであります。戦争勃発前の言論の自由の制限が今から
考えまするならば極めて峻厳であつたかのようでございますけれども、顧みてみると、満州事変の勃発前後においては、なお相当の言論の自由が、或いは
国会の中において、或いは地方議会の中において、その他許されておつたことを私ども思い起すのであります。現在の環境にいたしましても、或いは戦前の満州事変前後に比べて遙かにかに反動化し、遙かにに言論、集会、出版の自由が事実上制約せられておることを私ども感ぜざるを得ないのであります。こういう環境の中において
法律体系を
基本的に展開いたします破
壞活動防止法その他ができますならば、これは
曾つての治安維持法或いは治安警察法、出版法、新聞紙法等があつたより以上の人権抑圧時代が招来せられるでありましよう。或いは現在出版法、新聞紙法等が制定せられておらんだけでありますけれども、この
法案の
審議の過程で、地下にもぐる共産党に対しては、共産党の本体に対しては、この
法律は如何ともしがたいとするならば、別に
法律を
考えなければならん。或いは議論の過程でも明らかになりましたけれども、破防法の
修正拡大の意図すらが
政府の答弁の中には散見いたしております。
曾つて大橋
法務総裁が、如何に
修正せられようとも、橋頭堡をこしらえておくならば、
修正拡大は容易であるということを言明せられましたけれども、私どもはその後の
審議を通じても、この危険を痛感せざるを得ないのであります。なお更にゼネ禁法の構想を非常事態に即応する
法律として考慮せられるとか、或いは戒厳令に相当するような
法律を
考えておるといつたようなニユースを散見するのでありますが、
政府がこれを否定せられますけれども、最近の事実は、これらの新聞報道のほうが
政府の言明よりも遙かに正確であるということを私どもは教えられて参りました、かくしてこれらの諸
法律が整備せられて参りますならば、隣国韓国における国家保安法の下における、或いは反対派を弾圧するための戒厳令の実施を見ておりますような韓国の事態が、この
日本に招来せられないと私どもは断言するわけには行かないと言わざるを得ないのであります。
政府は、アメリカ、オーストラリアその他のこの種立法について参考書類を
提出せられましたけれども、むしろ頂かなかつた韓国の国家保安法なり、或いは関連いたします諸
法律のほうが、もつとこの破
壞活動防止法その他に近似しておるのではないかと
考えますが、その詳細は十分知ることはできませんけれども、最近の新聞によりますと、最初のこの韓国版破防法によりますというと、
政府に反抗をするだけで民族反逆者として無期又は死刑に処せられる、而もこれに該当する容疑者は令状なしに
捜査逮捕することができるというしろものであつた、この草案が若干緩和された形で一九四八年十一月
国会を通過したが、これは対外、対内世論的のゼスチユアに過ぎなかつた、或いは令状なしで
捜査、逮捕ができるというようなことも破防法に似ておりますが、名前からいたしまして、国家保安法という名前からして、この破
壞活動防止法或いは参照せられましたアメリカの国内安全保障法に似ております。その国内……。