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公述人(戒能通孝君) 私はこの
法案を見まして大変恐しいという感じを持
つております。普通の文明国でありますと、
演説や
文書で内乱を起せなどという人がときどきございますけれ
ども、参それが予備、陰謀という
段階に達しなければ誰もが笑
つて見ている
状態でございます。ところがこの
法案によりますと、そうした冷静な神経が消え去りまして、ビラ一枚、
演説一つでも何だか危ないというふうな
情勢が迫
つておるということを現わしているのであります。もつとはつきり申しますと、
日本の現在はあたかも革命的内乱の前夜であるというふうなことを証明するような
法案にな
つておると思うのであります。若し仮にこの
法案が必要であるということ、そうして又この
法案によらなければ
日本の現在の状況すらも維持して行けないということが、明白且つ現実に証明できるような
状態でございましたならば、これに伴
つて人権の保障をするなんてことは勿論矛盾でございます。全然それはできない相談であることは当然であると思うのであります。
政府と革命軍との間に生きるか死ぬかの闘争があるときに、とばつちりがほかの人に及ぶことは言うまでもございません。現にこの
法案ができない現在におきましてすら、多くの人
たちが如何に怖が
つているかということは、これは参考のために頂きました
破壊活動防止法案についての声明に関する
日本学術会議第十二回総会速記録の中に、或る提案に対しまして記名投票がいいか無記名投票がいいかという問題が起りましたときに、この四十二頁に出ておりますが、そういう問題が起りましたときに、伴さんというかたが、自然科学のかたでありますが、こう述べていらつしやいます。「私は記名して頂かないほうを好むのですが、それは、記名されると何だか警察手帳に
名前を書かれたような気がするのでありまして、それだけはかなわないのです。幾ら私の
名前が警察手帳に書かれてもいいのでありますが、何かのときに、
曾つてこれこれのことがあ
つたというので、それを持
つて何かのときにや
つて来る、これが気に食わない。ですからむしろ警察手帳に書くようなことはやめて頂いたほうがいい。」とまで言
つていらつしやるほどであります。これほど世の中の人
たちが、もうこの
法案が出ているということだけによりましてすでに神経を使
つているのではないかと思うのであります。
従つてこの
法案が若しそうした客観的
情勢を前にして行われることになりますと、
憲法無視も先ず必然的な現象ではないかと
考えられます。併し若し仮にそうした現実の状況がない、又それだけの証明ができないということにな
つて参りますと、この
法案の中には、少くとも
憲法の
規定に顧みましておかしいと思われる点が数点ございます。先ず第一点は、
法案の第四條によりますというと、
集会、機関誌紙の禁止條項が置かれております。これは
憲法の言う検閲に該当いたしまして、明らかに
憲法第二十一條第二項に違反していると信ぜられるのであります。元来検閲と言いますと、
出版物の発行前に行政機関が閲読することのように思われておりますけれ
ども、第四條は、それをもつと擴げまして、どんな性質の
集会が行われるか、どんな性質の
印刷物ができるかわからないけれ
ども、併し予防的に一定の期間制限するということでございます。で、つまり事前にそのことを抑制するということでございます。これは狭義の検閲よりも遥かに広い、換言すれば一行政機関にとりまして好ましくないという傾向があることを
理由にするところの差止め
行為でありまして、検閲以上の検閲ではなかろうかという感じがいたすのでございます。現に
アメリカの判例法によりますと、一九三一年のニア一対ミネソタという
事件がございます。その当時の連邦
最高裁判所長官は、ヒユーズ判事でありますが、このヒユーズ判事が裁判官全員一致の
意見といたしまして、「特定の條件の下に
新聞紙その他の定期刊行物の停刊を命じ得るものとしたところのミネソダ州の
法律は違憲である」。ということを述べているのであります。そうしてその
理由の中で「何事によらず成る態度の濫用は不可避である。併しさればとて、
新聞をして豊かに成長させるには、下らぬ下枝を少しだけ残して置いたほうが、それを切拂うことによ
つて果実を成らさぬようにするにまさると
考えるのが、各州の慣例である。
新聞は幾らか権利の濫用によ
つてしみを付けられたにせよ、世界をして禍誤と圧制に対する理性とヒユーマニテイの勝利に進ませたものである。」というふうに述べております。この判例が大体現在
アメリカの判例法にな
つているように存ずるのであります。そうしてその後
集会及び
新聞に関する判例の詳細が本年の五月二十二日付の
新聞協会報に、
最高裁判所調査官の河原順一郎氏も書かれております。河原さんの御
意見も私と同
意見でございまして、第四條の
集会、それから機関誌紙の停刊ということ、これは
憲法違反ではないかということでございます。こんなわけでございますからして、一九五〇年にできました
アメリカの国内安全保障法いわゆる
マツカラン法の中におきましても「特定
団体の
出版物たることを特に記入せよ。」という文字があるわけであります。つまり
マツカラン法は、別に
出版を禁止しているわけではございませんので、特定の
団体については特定の
団体の
出版物たる旨を記入せよという條文がございますが、この記入せよという條文自身が果して合憲であるか違憲であるかどうかということにつきまして
相当争いがあるわけなんでございます。これはまだ判決にな
つておりませんのでどつちに転ぶかわかりませんけれ
ども、違憲論も
相当有力であるということができるのであります。
マツカラン法におきましてはいわゆる
集会の禁止というふうな現象は起
つておりません。これが先ず第一に
憲法との関連について
考えられる点でございます。
第二番目に、役職員の職権剥奪が認められております。これは
団体に関する干渉を
意味するのではないか。
従つてこのような
立法的先例が作られることになりますというと、人に対する検閲という、検閲以上の検閲制度が行われる
可能性を持
つて来るわけであります。のみならずこうした
団体に対する外部的干渉が認められて参りますと、今まで
政府が採用して来たところの
労働組合政策というふうなものも根本的に崩れて行く
可能性がございます。
労働組合関係の問題につきまして今回注目されるものは、
新聞社と
新聞社内の
労働組合でございまして、そして
昭和二十三年の三月十六日付の
日本新聞協会はこの間の声明を出しまして、「
新聞の編集権は、外部たると内部たるとを問わずあらゆるものに対して守られねばならない。」こういうふうに述べているわけです。これが
言論の自由の本旨であるというふうに言
つているわけであります。この
新聞協会の声明は、恐らく
日本政府も多分支持していた声明じやないかと感じられるのであります。ところが今になりまして突如として
新聞社を含む多くの
団体から役職員の排除を命ずるという
規定を置くようにな
つて参りますと、これは單に
結社の自由とか
言論の自由とかだけでなくて、私有財産権の行使につきましても或る種の障害を及ぼして来るのではないかと疑われるのであります。又この
破壊活動防止法のような
規定が置かれるようにな
つて参りますと、今まで生産管理を禁止していたあらゆる政策、それから又この
新聞労働組合が経営権、編集権に関與することを禁止していたあらゆる政策というものも基本的に崩れるのではないかと思われるのであります。ですから、外部から干渉することを認めるということをここではつきりさせるのでありましたら、やはりこの
法案が
成立することによ
つて、従来
新聞協会の出したところの声明は否認されなければならない。或いは又
昭和二十五年十一月十五日の
最高裁判所判決によりますると、生産管理は違法であるというふうに
考えておりますが、これも又今後はやめたということを声明しなければならないのではないかと思われます。ですからして、この外部からの干渉による役職員の排除という
規定は、これは
日本の今までの労働政策とは
相当に食い違
つたものが現われて来るというふうに私は感じております。私自身としては、生産管理の問題については多少の
意見はございます。併しこれが客観的事実であるというふうに感ずるのであります。
第三番目の問題は、これは言うまでもなく
団体の解散というのでございます。
団体の解散に至
つては、勿論
結社の自由というものに対して非常に大きな制限になり、干渉になり、そして又自由の無視とな
つて参ります。
従つて憲法第二十一條第一項の
規定とどう関連するかということは、これは非常に重要な問題じやないかと信ずるのであります。のみならず、この
団体解散政策というものが果して政策として聰明であるかどうか、利巧であるかどうかということになりますと、これも非常に大きな問題があると思うのであります。言い換えれば、
政府が現在、ビラ一枚、
演説一つで革命的内乱が起るかも知れないというふうな神経過敏にな
つている
状態におきまして、或る
団体を解散しました場合、そしてそれを地下
活動に追い込んだという場合、どんな結果が出て来るかということは、これは想像するにも恐しい
状態になるのではないかと思います。被解散
団体が、
政府に対しまして無條件降伏してしまえば勿論問題はございません。併し無條件降伏をしなければ、
政府が地下
活動を恐れるの余り、誰にどんな迷惑をかけるか、これは全くわからないということにな
つて来ると思うのであります。疑惑を受けない人でありましても、警察費は徒らにたくさん負担せしめられ、それから自己の身体、財産の安全保障に関する警察側のサービスを受ける機会を失うことにな
つて参りまして、結局警察も
政治犯のほうに熱中し、そうして普通犯のほうが疎かにな
つてしまうというような
状態にならないということは言えないわけなのであります。こうしまして第三番目の少くとも解散の問題は、これは
憲法の問題と同時に、政策として聰明であるかどうかということについても嚴密な御検討をお類いいたしたいと思うのであります。
第四番目の
憲法関係の問題は、
団体規制手続に関するものでございます。若しこの
法案によりまして規制される
団体というものの手続だけが
法案として取上げられているのならば別でございますが、一定の事柄というものは、これは行政処分の対象になるだけでなくて、刑罰の対象にまでなるのであります。つまりこの
法案によりますというと、行政処分の対象たる
行為、刑罰の対象たる
行為とが明らかに事実上ダブ
つているわけであります。そうなりますというと、実際上行政機関の認定が裁判に対して
影響する効果というものは極めて重大でありまして、公安審査
委員会が特別裁判所化する虞れは多大であると言わざるを得ないのであります。すでに
昭和二十五年の九月九日付の福岡地方裁判所小倉支部の判決によりますと、「アカハタ」停刊に関するマツカーサー書簡を援用するだけで次のようなことにな
つております。「
日本共産党は
憲法の基本的原理たる平和
主義、
民主主義の原則を蹂躙し、暴力と秩序の破壊を以てその
思想を実現せんとしていることが明白な
団体である。これは全く公知の事実である。」というふうなところまで申しているわけであります。この判決とそれから
政府の態度は非常に違
つているごと、これは申すまでもないことであります。
共産党が合法
団体であることは、これは勿論占領治下といえ
ども容認されて来たところであります。裁判所が如何に行政機関の判断というものによ
つて拘束されるものであるかを或る程度まで心理的に示しているように思えるのであります。でありますからして、昨年の一九五一年の一月頃のハーバート・ロー・レヴイユーにハーバート大学のスザランド教授が
マツカラン法について説明を書いております。その中でも、「裁判官が行政機関の認定からなかなか精神的に独立できるものではない。」ということを強く指摘していることなのであります。然るに
マツカラン法の第四條の(f)というものによりますと、同法のいわゆる
破壊活動団体、即ち
共産主義団体の役職員たることを以て刑事訴追の証拠として受入れてはならないという條項がございます。ところが今度の破防法におきましてはその條項もございません。要するに行政機関の認定がかなり強く裁判所の有罪認定を支配する
可能性が豊富じやないかと思えるのであります。現に参議院で問題に
なつたことについて申上げますと、
昭和二十三年十月十七日に参議院の
法務委員会が浦和某という者の実子殺し
事件に関連いたしまして、浦和地方裁判所の判決について国政調査権を行使したことがございます。ところがそれに対しまして翌二十四年の五月二十日付で
最高裁判所か広
意見書が提出されているわけであります。そして又、同月の二十五日
最高裁判所の本間事務総長の名におきまして、「参議院に対する申入は侵害されつつある司法権の独立を守る
行為である。」と述べております。
最高裁判所の
意見では、裁判官というものの心理
状態は非常にデリケートである、外部からの
意見に左右されることが極めて大きいからこの点特に注意してくれという要求だ
つたと記憶いたしております。こういう
状態におきましてこの破防法が行政機関の認定というもの、それから裁判所の刑罰の認定というものの範囲を同一平面で蔽
つて行こういうことになるのであります。浦和
事件の性質は本
法案と少し違う点がございますが、この
法案によりますると、公安審査
委員会が罪となるべき事実の認定を行う結果になるのでありますから、実質的に特別裁判所になる
可能性は随分多い。若しそうなれば
憲法第七十六條第二項に反するというように
考えられる余地も出て参ります。この
法案におきまして以上のような
憲法違反、若しくは少くとも
憲法違反の疑いのある
規定が置かれているにかかわらず、
団体の規制、その手続及び罰則が非常にルーズにできていることはすでに周知の
通りであります。他の点につきましては、今までのかたがたがずつと詳細に御指摘になりましたから、できるだけ省略いたしまして二、三の点だけを申上げてみたいと思います。
一つは、何ら実害がないにかかわらず、或る
行為の
扇動、教唆を罰するのは甚だしく不当ではないかという点でございます。殊に内乱につきましては、單に内乱自体の正当性若しくは必要性だけでなくて、内乱の予備、陰謀、幇助の正当性又は必要性を主張した
文書、図面の
印刷、
頒布、
所持にるまで処罰いたしまして、そうして且つそれが
団体規制の決定の
理由にされておるのであります。こうなりますというと、通常の
新聞紙、それから雑誌、著述
出版というふうなものが果して自由にできるであろうか。自由な気持からできるであろうかということが、これが問題になるかと思えるのであります。例えば或る
新聞が公務員の汚職とか、選挙の買收とかというようなものを報道したと仮定いたします。これも見ようによれば、内乱の予備ぐらいやらなければ、そういう弊害は消えないのだというふうに主張するのだということ、こんなふうに解釈されないという保障はございません。言い換えれば、どうも或る人は好ましくない人物である。その好ましくない人物が買収やそれから汚職なんかを報道したひには、内乱の予備、陰謀の正当性を間接に明らかにしているのだからというふうになる
可能性だ
つてございます。つまり人によ
つて適用が違う。こういう
結論になる虞れは十分にあるだろうと思えるのであります。併し自分が
あと廻しに
なつたといたしましても、
あと廻しというのはどこまでも
あと廻しであるというだけに過ぎないのであります。絶対に安全であるという保障はございません。言い換えれば、
新聞、雑誌、著作というようなものは、丁度頭上に刀を置かれまして、その中で仕事を継続するというような状況にならないとも限らないのであります。これはこれだけで少くとも
新聞の信用というものに対する一般的評価を阻害せしめること極めて多大であります。いわんやこの
法案のような形にな
つて参りますと、革命史を含むほかの歴史というようなものを論ずること、それがむずかしくな
つて行くことは言うまでもございません。又世の中には、革命の正当性、内乱の正当性を述べた
文書ぐらい幾らでも転が
つているわけであります。第十一世紀のお坊さん
たちの著作だ
つてそうでございます。それから
アメリカの独立宣言、フランス革命の
文書、これら無数にございます。これらのものが我々の手に入らないということにな
つて参りますと、歴史の
学問、研究というふうなことさへ困難にな
つて来る
状態になることは十分に予想できないわけではないと思えるのであります。
第二に、この
法案の中で特にずるいというふうに感ずるのは、これは先ほど塩谷さんから御指摘に
なつた第三條の第一項二号のリであります。その中には、この
法律に基いて調査するものに対して公務執行妨害を行
なつたら暴力
主義的
破壊活動であるというふうにしております。それから又
扇動を行
なつた場合においても、同じように
破壊活動であるというふうにしている
規定がございますそうなりますというと、
労働組合大会その他に、警官それから公安調査官が入
つた場合に、その人
たちをつまみ出せということをうつかり言うこと、それと、その辺に棒などが置いてあることは、
相当多くの場合に起る現象でありますから、それ自身で
破壊活動的なということになるのであります。又追い出そうやという相談をすることも暴力
主義的
破壊活動であるという
可能性も出て来るわけであります。そうしますというと、
政府が仮に一、二名の警官の身体の安全などは犠牲にすると決心いたしまして、その警官なり、公安調査官なりをそこの
集会に派遣いたしまして調査
行為を行わせ、そうして無理にも追い出され、それを口実に
破壊活動としてその
団体の解散を命ずる、又関係者を処罰する、逮捕するということができる虞れが十分あるのであります。而も今までの
経験によりますというと、警官の警察その他の上司に対する報告が常に正確であ
つたというふうには必ずしも
考えられないのでございます。現に私の勤めております早稲田大学におきまして、本年五月八日に起
つた事件につきまして、五月十五日付の毎日
新聞に「早大
事件を語る当事者座談会」というものがございました。その中で田中警視総監が次のように発言しておられました。「今実力行使したら二警官の生命の保障はできないと言
つた教授さえある」と、こういう発言をしておられます。それから警視庁側の
文書によりますと、その教授の
名前として佐々木教育学部長と瀧口学生部長の、この二人の氏名が指定されていたわけです。私両氏を存じ上げておりますが、佐々木さんはもう五十過ぎた文学博士の肩書を持つ国文学者であります。それから瀧口さんはもう少しお若いようでありますが、併し大学の高級職員たるものであります。こういうような人
たちが、警官に対して、今実力行使したらあなたがたの生命の保障ができないということを言うとは私には
考えられないのでございます。で、学校側の報告によりますと、これは恐らく何かの間違いで、若しくは妄想に過ぎなか
つたものであろうというふうに述べております。併し警官が公安審理官の前でこんな妄想を述べたらそれが記録になるわけであります。勿論学校側はそれに対して否認するだろうと思いますけれ
ども、併しとにかくそれらの記録ができた、その記録に基いて公安審査
委員会が或る判断をすることになるのでありますからして、これは実に危險の結果を予期しなければならないように思えるのでございます。
それからもう
一つ、本
法案が、現在のこの
法案が公安調査官に強制調査権を持たせないというふうにな
つてはおりますが、実質上強制調査に近いような形になることは、これは十分に予測できるわけでありますが、例えばこの間の東大で取られたという警察手帳の中で、数人の教授
たちが身元調査等をされているわけであります。このかたは皆私の友人でありますが、医学部の
先生は知りませんが、ほかの人
たちは友人でしたけれ
ども、これは絶対に棒でなぐるというようなことはしつこない、完全に保証できるかたがたばかりなのでありますが、その身元調査というようなものが行われていることが偶然にもはつきりして来たわけであります。で、幸いにして、私
どもでございましたら、少しぐらい変なことを言われても、身元調査の
一つぐらいやられましても、これという痛手のある立場ではございません。併しながら公務員であるとか、或いは小、中学校の
先生であるとか、
新聞社のかたということにな
つて参りますと、しよつちうそういう人
たちがや
つて来て、上司に向か
つてものを聞くというような
状態に
なつた場合に、果して自分の勤務先に平静に勤務しておれるであろうかという問題が起
つて参ります。で、この点は、一般のかたがたにも恐らく職業上の地位保障の問題と非常に強い関連を持つのじやないかと思えるのでございます。又
労働組合に対しまして、或る警察署長が、この
法案を根拠にいたしまして、そうして女子
労働組合の
組合員を尾行させるというようなことが起る、その近所でその人の行状を聞かせるというようなことが起る、この場合、結婚の障害になる虞れがないかどうか、こういうような点を十分私
どもとしては予測しなければならない気がいたすのであります。で、これらの点につきまして、勿論我々といたしましては、そういう不当な捜索を受ける、身元調査をされたような場合には、国家賠償法の
規定によ
つて賠償を請求するということが理論的にはできるわけでございます。併しながら賠償請求の訴えを起すということになりますと、どうしても四、五万円、或いは十万円くらいの現金を用意しなければなりません。で、弁護士にお願いいたしましても、まさか無料でお願いすることはできかねるわけでございます。で、これらの点は十分な資力を有さなければなりません。そしてやはり判決があるのは数年先ぐらいであろうというふうに予測せられるわけであります。そうなると結局泣き寝入りにな
つてしまうということが多いだろうと、信ぜられるのであります。
以上の点の
結論といたしまして、私は一九二一年のギツトルー
事件と呼ぶ判決が行われた後に、
アメリカの最も偉大な裁判官の一人であ
つたホームスという判事が、イギリスの大学者であるポロツクという
先生に手紙を送
つた。その手紙の中身を
ちよつと思い出すのであります。ホームスはポロツクに対して、「近頃
共産主義が発達し、個人の人権や運命についての
関心が著しく薄く
なつた。これが裁判所においてすら行われるに至
つたのは嘆かわしい」という趣旨の手紙を送
つているのであります。ところが
日本の場合でありますと、戰争中からの
影響によりまして、個人は
政府に対して忠実であるべきもの、公務員や、軍人の汚職なんかを
新聞が書くことさえ官民離間、軍民離間というふうな一種の犯罪以上の犯罪を犯すものとして糾弾されて来た、あの一種の上役人意識というものが抜けないのではなかろうか。又この
法案を機会といたしまして、恐らく復活して来るのではないかという虞れを私
どもはしみじみ感ずるのであります。この
法案によりまして得られる直接の効果は、言うまでもなく
特審局が公安調査庁というものに昇格いたしまして、公務員が殖え、権威が増すというようなことになるわけであります。果してそれによ
つて国民の利益というものが保障されるであろうか。十分に保障されるであろうかということにな
つて参りまして、これは異常に問題が多くなるのではないかと思います。近代
民主主義が
言論の自由を基礎として
成立することは言うまでもありません。併しそうした
言論の自由を基礎として
成立している近代
民主主義国家でありましても、明日にでも革命が起るのだ、ビラ一枚、
演説一つでどんなことが起るかわからない。それほど切迫した
状態ならば、
憲法を無視した意思の自由を……