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伊藤修君 どうも
法務総裁の御
答弁を伺
つていますと、官吏は全部善良な神様みたいな人だと、こういうことを第一に置いておる。第二には眼前の、
破壊活動の頻々として起るということに盲目にな
つておるわけです。いわゆる鹿を追う者山を見ずという例えがある、眠前のことにばつかりとらわれて、
根本の
あり方というものに対して、少しも考慮が拂われていない、そう言
つては過言ではありましよう。失礼ではありましよう。過言ではありましようが、そういう印象を受けるのです。私は
法務総裁ともあらせられる人が、さような短見的ではいかんと思う。この
法律が一度動き出したならば、将来どういう
方向に
日本の
あり方が行くかというこれはポイントになるのです。
国民的
世論がこれに対しまして強く主張されておるのです。この
法律が一度生きて現われて参りますならば、非常な
日本の、私は姿の変革であると申上げましても過言ではないと思うのです。その意味において私はしつこく
法務総裁に御
見解をお質しておるわけです。
法務総裁も
日本国民の一員として、戦後における
ところの
日本の姿と、独立
国家にな
つた日本の姿が如何にあるべきかという大きな
観点に立
つて、
一つお
考え合せ願いたいと思うのです。今引例されました
ところの戦前、戦後においてそういう例があるとおつしやるけれども、それは非常の場合であるのです。異変の場合です。異例の場合であるのです。我々占領治下における
ところの
国民生活というものが真の
日本の姿であるとは
考えていないのです。我々は何らの自由も與えられず、牢獄
生活の下に置かれた
日本国民の姿として、そのときに現われた
ところの
立法形式が如何ようであろうとも、それは真の
日本国民の欲する
ところのものじやないのです。我々は今日自由な立場において、自由な独立
国民の立場において、新らしい地点に立
つておるわけです。而してその
基本のものは
憲法である、
憲法の精神にもとるがごとき
方向に、すべての
立法形式、制度というものを持
つて行くことを恐れるわけです。その意味において本法に対しましていろいろな点を指摘しておるわけです。でありますから今
法務総裁が現官吏においてそういうことはあり得ないというお
考え方は、それは余りに信頼し過ぎる。勿論我々は官吏諸君を信頼しています、いるのですが、信頼はいたしますが、それは
一つの原則的なものであ
つて、先ほども申上げましたごとく、
法律を作る場合においては、若し誤
つてこの
法律を悪用した場合をも
考えて、
法律を作るべきであると言うのです。神様が
法律を運営するものだという
考え方で
法律を
作つたならば、
根本的に
国民にそれを示す場合において
誤りがあるのです。そういう意味においてそれを指摘しているわけです。でありますから火急的に
法律を作る場合においては、如何ような立場に立
つても、濫りに
国民の権利を毀損し得ないという態勢に
法律構成を持
つて行かなく
ちやいけない、こういうことを申上げておるのです。今成るほど御
説明のごとく一部の人に公開もし、報道陣の人にも公開し、その面前においてなされるからよいんだという御
議論も成るほどうなづけます。
〔
委員長代理岡部常君退席、
委員長着席〕
併し以て足れりとは
考えられないと言うのです。又先ほど私が指摘しましたごとく、いろいろな手続の上において制約される、真にその人の権利擁護の立場というものを十分尊重し得ない構成であるというのです。そういうような構成を無理やりに
行政措置の中に含めてなされようとするそこに大きな無理が出で来るのです。でありますから、むしろこの
法律をお立てになる、どうしても必要であるとするならば、調査官の制度或いは審理官の制度はよろしいでしよう。併しそれを切り離して、以後は裁判所に委ねるとか或いは審理の
程度は裁判所に委ねるという行き方にすべきことが当然だと私は
考えるのです。こういう
法律体制をお作りになる場合において、そこに思いが至らなか
つたというのは、私は
法務府の関係の諸氏の私は余りに研究が足らんのではないかと思うのです。仮にこれを平たく
考えますれば、
一つの官庁の中にいわゆる検察庁でしよう、この場合においては。検察庁の中に検察官の部類、即ち調査官があり、そうして一面においては予審判事、審理官がおると、こういうわけです。フランスの刑訴の建前をとるようなものです。ここに持
つて来て非難を、世界的の非難を受けておる
ところのある予審制度というものが、再びこの形において現われて来るのです。これはお認めになるでしよう。審理官は調査官が調査して来たことを先ずその部内において予審をするという形です。それでこれが容疑ありと
認定いたしますれば起訴すると、いわゆる
委員会にこれを回付すると、こういうのです。
委員会はこれを受けて立
つて書面で審理するというのです。そこにおいてすでに
基本人権の制約は確定してしまうのです。それから以後裁判所に不服の申立ての方法があると、こう言
つたところが、それは事後処理に過ぎない。すでに六カ月の発行停止を食
つておる。すでに解散を命ぜられておる。而してその後久しきに亘
つた後において、ようやくその権利関係が明確にな
つても、それはあとの祭りにすぎないのです。
政府の企図する
ところの
目的は、とうに達成してしま
つておるのです。事後裁判所がどうあろうと、そんなことはもうおかまいなし。少しも痛痒を感じないと、こういう結果になるんじやないでしようか。これでは濫りに
国民の権利、いわゆる自由というものは、一
行政官の手中に握られているという非難を受けても仕方がないでしよう。いわんや
行政事件訴訟特例法の第十條第二項によりますれば、こうした裁判の執行は一総理大臣の異議の申立て、その異議の申立ての内容というものを少しも示す必要がないのです。こういう理由があるからこれを異議申立てると、こう言う必要はないのです。ただ異議を申立てる、一片の異議申立ての
意思表示をすれば、裁判所はそれが理由あろうがなかろうが、この
行政処置に対して停止を命ずることができないのです。
行政処置はそのまま遂行されまして、
目的を達成してしまうのです。この
行政訴訟特例法第十條第二項というものは、非常な
司法権の制約です。これは
憲法に言う
司法権の独立というものを侵すことも甚だしいとして、違憲の法令であると今日言われております。この違憲論は、本法のほかでありますから、ここで申上げることは遠慮いたしますけれども、少くともそうした疑義のある
ところの
法律がこの場合において適用されて来るのです。然るに本法においてはこの
行政処置に対して、いわゆる解散という
行政処置に対しては、仮処分の申請ができるとか、訴えができるとかいうことを書いておる。こんなことを本法において書かなくとも、当然のことじやないでしようか。本法にそういう明文がなくとも、およそ
行政処置を受けた場合においては、
国民はこれに対しまして
行政裁判をなし得ることは当然の権利ですよ。本法に待つ必要はないのです。本法にさようなことを明記するということは、この
法律が如何にも公正、妥当のごとく
国民の前に示すのに、言いわけを本法自身がしているのです。言うを待たない
規定を麗々しく一カ條設けて、当然なことを
規定してお
つて、この本法はこうした公正の途を用いておるのだということを言おうとするに過ぎないのであります。かようなことは不要な
條文であ
つて、こうした点から
考えましても、この機構が、審理機構というものが、調査機構というものが、如何に
司法権の分野を侵す
ところの
行政処置の甚だしいものであるかと言わざるを得ないと思うのです。その点に対しまして、
政府は反省せられる
ところの
意思があるかどうか、お
考えになる
ところの
意思があるかどうか、重ねてお伺いしておきたい。