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岩間正男君 当
委員会の所轄事項の中にありながら、実は
体育行政というやつは非常に著しく粗末にされて来たと思う。殆んどこういうことを今まで討論されたことはなか
つた。我々は非常に気
はついてお
つたわけです。私自身なんかも、そういうような競技なんというものも、若い時相当や
つたものですから、
関心は持
つてお
つたのですが、忙しい仕事に追われてお
つた。こういう際、オリンピックが今度の世界的な非常に大きな規模でやられて、又その與えた影響も、非常に国際親善、平和こういうような方面に対しても、いい影響を與えた。こういう
機会に、十分にこれはとり上げなくちやならない問題で、最後の店じまいの今日あたり、早急にや
つても仕方ない問題なんですけれども、今御
答弁がありましたが、体育行事、行事の面について
お話があ
つたわけですが、私がお聞きしたいのは、もつと根本的に、国民に体育をどういうふうに奨励して行くか。現在は
学校体育というようなものがあ
つて、それが一番やはり
日本の体育の根幹をなしている。それに附随して、社会的に体育のいろいろな団体があ
つて、それが自発的に下から進められている。ところがこれに対するところの基本的な体育政策というものは今日ないのじやないか。これは、どうしても
文部省が検討して出さなければならないのじやないか。そういうことをしますときに、どういうふうな形の、これはシステムをとり、この政策を進めるかということは、非常に大きな問題になるから、ですからこういう問題につきましては、いずれこれは
文部省の
方針というものを検討して、私は出して頂きたいと思うのですが、我々の大体二、三の素人らしい意見を申述べますと、やはり選手中心主義、或いはもう
一つは、興行的な色彩を非常に加えたアメリカの娯楽的な体育の空気が
日本に非常に入
つている。これは最近野球が非常に普及している。最近野球に表現されている形で見ればわかると思う。ところが野球が殆んどこれは蔓延しているのですが、果してあのような野球の興行的価値というようなことで、非常に広いグラウンドを使
つて、実際や
つている人は二十人そこそこの人がや
つている。見る人は何万でありますから、見ることによ
つて楽しみは感じますけれども、併し見るだけで、体育の成績を上げることはできない。そうしますと、種目なんかも考えまして、果して野球というような興行的なものが、本当に体育の根幹になり得るかどうか。ところが
日本の
現実を見ますと、ああいうものはどうも社会体育の中では、
現実的には大量を占めている。七〇%、八〇%を占めている。それに対してやはり時間の考慮、場所の考慮、それからいろいろ体育の服装の問題、こういうものはやはり、バレーとかバスケットとか、最近又問題にな
つて来るでしようが、体操のようなもの、そういうようなものがもつと組織的に取入れられる必要があるのではないか。
従つてバレー・ボール、バスケツト・ボールというのはもつともつと、東京の都内を見ても、バレーのコートも、バスケツトのコートも蓼々たるものである。これをもつと組織的に作
つて、そうして短い時間、三十分とか一時間くらいで、而も十分な効果を上げるように、野球場
一つあれば、二十組も三十組もこれはできる。
従つて一遍に大量に運動量を発揮することができる。時間も多くとらん。費用も多く要らない。こういうような点についても十分に考える必要がある。更に基本的に言えば、それらの根幹をなすところの体操のようなものこれをどういうように普及するか。いわば大衆の生活に即応した、そういうような興行価値というものから離れた、もつと大衆がこれを行うことによ
つて楽しめるような体育の方向に転換して行かなければいけないじやないかということを考える、これは無論社会的な條件と
関係があります。
日本の現在の例えば労働者の状況を見ますというと、だんだん労働時間のようなものが殖やされて来ている。今まで八時間制度というものが、九時間になり、十時間になり、女子労働なんかでは、これは十一時間にも殖やされている。これでは、なんぼ体育をやろうと言
つたつて、精魂盡し果てて、そんな余裕はない。当然これは勤労時間を考えなければならない。こういう点からも、例えば天野
文部大臣は、ソ連が参加するかどうかわからなか
つたようなものが、すでに今日はソ連が参加しておる。そうしてまあ陸上あたりでは、初出場でありますが、第二位、体操なんかは、世界を圧倒して九つの金メダルを得ておる。レスリングその他の水上なども相当にこれは力があるということが紹介されている。全般的に大きな力を発揮している。総得点のようなものは、正式な計算ではないようで、これはオリンピックの
事務当局では、これを計算していかんというような指令を出しておるようですが、併しそういうものを計算されたものを見ますと、現在においては大体ソ連が圧例的に強くて、五百何点を挙げ、アメリカが三百四十点、すでに百八十点を引離している
現実が出ている。こういうような
態勢、これは今まで誰も気がつかなか
つたということで、鉄のカーテンのかなたということで、問題にされなか
つた。併しこういう基礎は、やはりソ連映画なんかを見ましても、彼らの体育がどのように日常行われ、その基礎は何であるかと言いますと、労働者の生活というものは六時間制、そういうような制度によ
つてちやんと賄われている。これだけのものが守られている。そうして時間が非常に余る。当然それは体育とか、娯楽とか、或いは文化的な教養、そういうものに向けられている。生活の態度の相違なんでありますけれども、併しそういうような大衆的な
体育行政というものをごこに取入れることなしには、アメリカ式な選手制度、そうして何か興行価値を狙
つて行く、そういうもの、非常にこれを職人的に養成して行くというような傾向、こういうものとまるでこれは背馳した方向だと思うのですけれども、
体育行政ではどつちが健全であるかということは、これは言うまでもないことであります。こういう問題を私は、今までのような
一つのいわばそういうような共産主義圏でどういうことがなされてお
つたか。我々自身も片鱗を聞いたり、聞かなか
つたくらいな程度なんですが、今度は具体的に力で表現されたんですが、こういうものを十分に検討して、広汎に世界の現在の情勢というものを取入れて、そうして
日本の
体育行政を検討する段階に来ているんじやないか。そうでなくて、選手制で、今までのように
日本的な選手制度はゆとりがない。何か出掛けて行くときには、まるで悲壯な誓いをや
つて、そうして負けるというと、砂場に泣き伏してしま
つたというのは余り醜態だ。もう少し体育というものは、悠々と、やはり楽しみを混えながら、而も悠揚迫らない大きなところで勝敗というもは、無論身命をかけてやるような面もありながら、而も勝敗に囚われないというところに、私は体育の本当の価値があると思う。そういう点から考えますと、今まで、何とか何とかのカーテンとか、封ぜられてお
つた面が大きく出て来て、而も人民的な体育と言いますか、もつと社会制度を根幹として、そこから大きく大衆的に育成され、その中から当然出て来る選手ですね。こういうようなものによ
つて表現された、こういうものを十分に検討する必要がある。こういうふうに思うのですが、これは
文部省としてまだ無論検討された問題でないから、お答えできなければお答えがなくてもいいんですけれども、そういう世界的な規模に立
つてものを検討する必要があるんじやないか、こう考えるのですが、御所見だけでも伺えれば結構であります。