○岩間正男君 まあ私の
質問が私流にな
つて、生産か消費かというのは非常にだしぬけな御
質問だとも思うのであります、
提案者にと
つては。併しこれは今日やはり日本の文教政策というものを
考える上において、一体一国の中において
教育というものが、どういう性格を持つものだかということをはつきり、少くともこの性格を
規定することが非常に重要だと思う。と言いますのは、
只今の御
説明によりますと、一国の
財政の許す範囲内においてできるだけ出す。そうしてこれは個人としての天與の生活を何とかそれを完成させる
意味での
教育だ、こういうことなんでありますが、少くとも私たちは敗戦後の
教育の反省から
考えますときに、この性格をはつきりつかむということは
教育に対するところの積極的な態度をとるか、消極的な態度をとるかということ、又従
つてそれを
国家財政の中からどういうふうに支出するか、
国家財政の支出面においてこれを積極的なものとするか、或いは許す範囲というような消極的なものにするかという点で、この性格は非常に大きいと思うのであります。それから又日本の現在置かれている立場から
考えまして、
只今の御答弁ではその点はこれは恐らく討議されていらつしやらないのじやないかと、こういうふうに思うのですが、併しこの点は非常に私は重要な問題じやないかと思うのです、根本的に
考えて。それはもうくどくなりますから、殊に私流の言い方にな
つて提案者には迷惑でありましようから、くどくは言わないのでありますけれ
ども、ただ何と申しましても日本の現在の情勢から見まして、これは生産によ
つて講和発効後の日本というものを持
つて行かなければならん、これはもう日本の
現実から
考えまして、地理的な又歴史的ないろいろな
條件から
考えましても、生産を非常に擴充する、生産の方式については暫らく触れないにしましても、
一般論としましても生産を十分に擴先する、そうしてそれで国内資源が御
承知のように殆んど枯渇して、ないのでありまして、従いましてこれは今後の日本の当然国を本当に立てて行くという立場からしますというと、生産を大いに起すという一点にすべての政策は集中されて来るというふうに
考えられるわけです。いろいろな民主主義の問題とかそういう問題も、生産を擴充するという線と沿わなければ達成できない。従
つてすべての
努力の目標はそこに行くと、こういうふうに思うのであります。その中におけるところの一体
教育というものはどういう
意味のものか、漠然として今までのような装飾的な、女学校に入
つているというとお嫁の売行がいいとか、或いは学歴をと
つておいて、日本の官僚亡国の原因だと言われましたところの学閥、こういうわけで、帝大を出て、赤門を出ているというと官僚閥で羽振りがいい。とにかくそういうような
一つの何と言いますか、人間の本質から離れた肩書的なものに使われて来た。いわば装飾品のように
教育というものは使われて来たと思うのです。併しこれはもうすでに古い
教育であ
つて、まあ人間として本当の実力を養う、而もその実力というものは漠然としたものではなくて、飽くまでもやはり日本の生産をどう発展させるかという面においてどのように一体、これはいわば日本の労働力になる、生産力の中の労働力になるわけでありますが、この労働力をどのように優秀に
教育して行くか、再編して行くか、こういうところに私は非常に大きな
教育の
意味というものが
考えられると思うのであります。そういう点から
考えて、單に漠然と天與の生活を全うさせるというような
教育、いわばこれは非常に観念的な過去の
教育学のあり方なんですが、こういう形では
教育を
現実的なはつきりした目標で具体的に、一国がこの
教育を推し進めて行くという目標にはならないのじやないか、こういうふうに
考えられるのでありますが、こういう点から
考えまして、
教育は消費なのか生産なのかとい
う性格について、これは十分に、やはり我々は今の置れている日本の
現実と睨合せて私はその性格を
規定しておく必要がある、こう思うのですが、如何でしよう。これは
文部大臣にもたびたび今まで
質問したのですが、余り明確に答えられてないのです。これもやはり
天野さん式の、今の御答弁のように天與の生活を云々というようなことで抽象的な、観念的な
規定にしかな
つていないのです。これはどうも
教育そのものが観念に落ちてあいまいになるのじやないか、こういうように思うのですが、そういう点からこれはもう一度お聞きしたい。