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参考人(
椛澤金作君) 私が
昭和二十一年に
戰災復興会として当時借地をしたということについて申上げますが、この当時私がこの
戰災復興会というものを始めた当時は、
昭和二十一年の二月一日に
戰災復興会というものが創立されたのでありますが、そのときに
文部省及び
学校当局に、
地元の発展として、私が当時焼け出された戰災者或いは引揚者等の救済事業として当時豊島師範の一部五千二百四十三坪を
文部省に交渉してお借りしたわけでありました。併しこの当時の借地の理由については、
学校は復興しないということで我々としては当時五千坪を、五百人の戦災者をそこに収容したいというので、私が当時申込んだ次第でありました。併しその当時の
契約は皆三坪以内、最大三坪の組立式、或いはマ—ケツトというような
契約でありましたが、当時はそれ以上の
建築は許可されなか
つたのであります。それがために私は各地で
マーケツトを至る所に露店商が建てられたので、併し私は
マーケツトとしてはもとより建てる
目的でなく、模範的
商店街として建設を始めたのでありましたが、不幸にして
昭和二十一年の七月五日に都市
計画が発表されたのであります。このためにいろいろな、何というか野心家というか、いろいろな露店商などが入り込んで来て、併しこれに対して我々は純な町の
人たちの復興に、こういう露店商或いは極東組というようなものが入るということは非常にいかんので、そのためにいろいろと交渉しましたが、なかなかその勢力に圧迫されて、その当時都市
計画が発表されましたので、私が都のほうに
建築の許可の申請をしたところが、その
場所には
建築の許可ができない、こう言われたので、それはどういう
意味で許可できないのかと言つたら、この二丁目一角は都市
計画にかか
つておるからそのために許可ができない、こう申されましたから、併し都市
計画が発表されるということはもう大体の
計画はわか
つておるだろうから、何とかして一日も早く
建築のできるように
一つ都市
計画を実行してもらいたいということを豊島土木
課長に当時交渉いたしましたところが、この
計画道路、二十メーターの道路としては、今のところこれを全部拡げるということは……、当時はすでにいろいろなごたごたで建て始まつたものだから、当時の長谷川土木
課長が十五メーターだけ明けてもら
つて、そうしてその
マーケツトと
マーケツトの間を十三尺に拡げてもらいたい、そうしたらこれを許可するということにな
つて、私がその当時その
通りにやるということで、当時はまだ黙認程度でありましたけれ
ども、この線になら
つてやることなら差支がないということで、その当時に大体建て始まつた問題であります。併しその当時建てるまでにはいろいろな複雑な問題がありましたけれ
ども、そういう過去の問題は別として、その当時の我々の見通しとしてはこの大
東京の都市
計画によ
つて、我々は都の
意見によ
つてやることに対しては差支えがないと思つたから、これは我々としては将来永続できるものとして当時
計画したのでありました。併し私が当時建て始めた
マーケツトの間を十三尺拡げ、十五メーターの道路を拡げたところが、これに対して反対した極東組が私をいろいろな惡宣伝で排撃をして、それでこの道路の間にばたばたと建
つて、今日に至りああいう狭いリヤカーも通れないというような始末に
なつた次第であります。それでいろいろな問題が起りましたが、私としてはこれに対していつまでもああいう勢力と争うべきじやないと思いまして、当時私は手を引いたわけであります。併しこの問題については余りにも、私は自分の
計画として都に或いは
協力したつもりでやつたことが、ああいう道路の真中へあのまま建てられては、併しこのままでは将来これは非常に
整理に困るじやないかということで、これは当時の石井
建設局長さんにも再三交渉をし、当時の
不法建築としてここに写真を撮つた。この当時の都市
計画の道路の真中に七十坪ばかりの倉庫が建てられた。併しこれはまあいろいろな問題で、都のほうで
計画法によ
つて、到頭……問題はいろいろありましたけれ
ども、これだけはまあ取壊わしましたが、そのために
椛澤は乗り取られて気の毒だというので、今度の津田さんの問題の
土地の二千五百八十三坪というものは、今度はそれでは
椛澤に貸してやろうというので、当時私は又新たに申請して、今の現在の問題の
土地を借りたわけでありました。その当時も私は
建築を急ぐために、当時は資材の非常な困難な当時でありましたから、これは抽籖でなかなか思うようにこの
建築の許可が取れなかつた。併しこれが三回でしたか四回に亘
つて、戸数にして約九十戸が許可されたものだから、それに対して私は工事を急いでやろうと思
つて、又この許可の当時に石井局長さんにこの問題を持
つて行
つて、何とか一日も早く許可してもらいたいと言
つて交渉した結果、石井局長さんがそれでは
区画整理から
支障がないというその念書をもら
つてくれ、そうしたなら許可してやろう、こういうので、その当時の反町さんの念書を頂いたのが、これが当時の念書であります。これに基いて
区画整理のほうに行
つて、そうしてこの赤線を引いてもら
つて、赤線の中でなければ
支障がないというので、当時
建築の許可を頂いたわけなんです。併しその当時にいろいろな、中には経済的の問題もあり、いろいろな資材の面でも
関係がありましたものだから、まあ工事もなかなか捗らない。そのうちに今の印刷工場とした所に、我々が埋立て整地をしておる途中において、上原孝助の代表たるかたが朝鮮人の金某という
人間と結託してそこに畑を作り妨害をしたために、当時の
場所がそのまま残
つてしまつた
状態でありました。併しこれを取締るべく警察或いは警視庁、検察庁あらゆる手を盡したが、なかなかこの取締ができないがために、止むを得ず当時軍政部までこの問題を持
つて行
つて、そうして当時のデントンという第二
課長が
現地調査に二度も出張されて、そうしてこの現状を……立札にはこの畑に踏み込んだ者は棍棒でぶんなぐるという暴言を書いて立てられておつた。併し我々関東建設としての整地をや
つておる工事人がその畑の角へ足を踏んだというので、非常にそこでおどかされて、それで工事が止むなくできなく
なつた次第であります。それで私らとしては何とかして一日も早く工事を進めんがために、当時のこういう写真まで撮
つて、実はこの問題を軍政部に持
つて行
つて、そうして軍政部から警視庁にその書類が、当時の上原が挙げられると同時に一緒に書類が廻されたが、
日本のほうに渡されるや、そのまま当時の印刷工場を建てるまで草藪と畑のままで放任されてお
つたのでありました。併し先ほ
どもいろいろなかたから
不法建築だ、或いは暴力、いろいろな話がありましたが、併しこれに対して私らとしては
不法建築をやる意思もなく、何とかして
東京都の都市
計画に
協力して、そうして一旦建てたものは成るべく動かさないようにというので、私は都のほうにこの
建築許可……この
都市計画法に基いてやつたわけであります。併しこの津田さんの印刷工場に乗り込んだということは、先ほ
ども学校側のほうから
不法建築だと、いろいろな話がありましたが、当時は畑と草藪にな
つてお
つたので、我々は
学校の
用地としては何もそれは
考えていなか
つたのです。又我々にその通知もなか
つたのであります。併しこれはどこへ行
つても問題が取上げられないために、私がこの朝鮮人の暴力と、この不法の妨害に止むを得ず自分は一騎打ちの鬪いをするというつもりで、あそこに工事を当時始めたわけであります。その当時始めたのが、この
津田友三郎さんが当時私に
土地を探してくれんかと言
つて来たけれ
ども、なかなか市内には思う所がなくて、それで私は何とかしてどつか適当な所を見付けてやりたいと思いましたが、津田さんもなかなか思う所がない、そうしたところが、たまたま津田さんが君のあの問題の
土地をどうだい、貸してくれんかと、こう言うから、これに対して、私はとに
かくこれは問題にな
つて、今こういうふうに実はごたごたしておる。併しそれを承知であれば、併し将来はこれは当然或いは払下げになるということは、これは大蔵省或いは
東京都の
意見を聞きました当時は、恐らく将来払下げになるだろうということで、我々は払下げてもらえるという当時の意思で、この問題についてそれでは津田さんと共同でここを
一つやろうじやないかというので、津田さんと当時始めたあの印刷工場でありました。併しそれには又問題がありましたが、いろいろな経済的な問題から今日に至
つてああいう問題が起りました。けれ
ども、併し私は初めから
学校当局、
文部当局に対しても我々は妨害とか、そういう
教育上に
支障を来たす
目的で私は
建築をやつたつもりではなか
つたのであります。それはすでに
建築の許可が、今の
学校の問題にな
つておる印刷工場の所に、戸数として二十戸ばかりの
建築許可が下りてお
つたのであります。私はこれに対して飽くまでも、こういう不法な、全くにして当時の我々の三坪という
建築に対して、こういう八十坪もある
不法建築が建てられても何としても取上げてくれない。これに対して私もそういう陰謀下に、妨害されているということは誠に残念だというので、私がそこに乗り込んだ次第であります。だがこれに対して絶対に
不法建築だと私はこれは思えないのであります。
もう
一つ私が申上げたいことは、
学校側の主張される、
文部省当局の主張されることに対しては御尤もでありましよう。又
学校があつたために、この池袋の東西が復興したということは、我々としても非常に感謝する次第であります。併し昔の麦畑の当時を夢にいつまでも見るということは、私はこれは少し
考えがその点違うんじやないか。こうして当時は麦畑であつた閑靜な所であつたが、併し今日では
時代が変れば世も変る。こうして都市
計画によ
つてあそこが商業都市にな
つて発展された。又発展されるばかりか信上越線、地下鉄、こういうものがどんどんみんな開通になる、地下鉄なんかの工事を非常に晝夜兼行でや
つておる。そうしたならば、ただこの環境だけを議論にするということは誠に私はこれは残念と思うのであります。正しい
教育をするには、何とかもつと閑靜な広い
土地に私は第二の文教都市として
計画して頂きたい、又
皆様に御
協力を願いたいと思うのであります。併し今日起つたこの問題は、私はこれに対していろいろな過去の問題はありますが、併しこの現在起つた問題は、これはお互いに白紙にして、そうして今、
日本の正しい
教育再建ということに飽くまでも努力をして、そうして
皆様の御
協力を得たいと私は思うのであります。
学校側では当時、
昭和二十一年復興しない、我々に開放してくれた当時のことを、私はこれを飽くまでも実行して頂きたいと思うのであります。そうしたならばこの都市
計画も、或いはあの環境に住んでおる行く所のない
人たちも、これは生活のため、あらゆる点において非常なる国家的、これが本当の社会的事業じやないかと私は思うのであります。これに対して
学校では、これは豊島師範の延長である、或いは近い便利だということをのみ主張するならば、これは各個人も私は同じだと思うのであります。個人も親譲りの財産もあれば
土地もあり家も建
つておる。こういうことをお互いに頑張り
合つてお
つたのでは、この
日本の再建は到底できないのじやありませんかと思うのであります。どうかこの再建と、周囲の環境、正しい勉強を落着いた……
皆様のかわいい学童に落着いた勉強をさせるには、小金井のああいう広い七万坪もあるというような広い所に持
つて行つたほうが将来のためにこれはいいじやないかと思うのであります。そうしてあの所に第二の文教都市として、今度はあの周囲には絶対にそういう飲屋、或いはいろいろなそういう
皆様のきらわれるものを今度は許可しないようにしたら、これは立派な第二の文教都市として、この
地元の発展に対して
学校は開放されれば、非常に
地元の発展のために、
地元の
人たちが非常に喜ばれるのじやないかと思うのであります。(「簡單々々」と呼ぶ者あり)。いろいろな複雑した問題がありますけれ
ども、そういうことを、過去のことを言うとなかなかこれは議論になりますからそれは私は申上げませんが、ただ我々が残念に思うのは
不法建築だ、
不法建築だ、或いはボスだ、共産党だと言
つて(笑声)我々が惡宣伝された。こういうことは我々は誠に残念だと思うのであります。そういうお互いに感情的に私は論ずるということは甚だ不愉快だと思います。こういう問題を水に流して、そうしてこの豊島の発展のために、私は
東京都としても都市
計画を飽くまでも実行して頂きたいと思うのであります。私の問題は大体この程度にして終りたいと思います。