○国務
大臣(佐藤榮作君) 機構をどうするかという問題はこの前の
委員会で申上げましたように、これは経営主体がきまりましたらその人たちの責任において処理してもらいたいということを
考えているのであります。その場合に実際の扱い方といたしましては、これは現在御審議を頂いております法律の
建前では、これはどこまでも総裁の責任において決定を見るものであります。併し恐らくは私どもといたしましても、郵政
大臣としてもこれは十分聞かして頂きたい。恐らく経営審議会におきましてもこれが取上げられるだろうと
考えます。そこでなぜ郵政省が認可しないで十分連絡をと
つてもらうということにいたしたかと申しますと、何と申してもこれは経営主体、責任者としての基本的な問題であるように思いますので、できるだけ国が干渉しないほうが本筋ではなかろうかというような
意味合いからこれを認可事項にいたしておらないわけでございます。併し、然らばそれならば
最初から聞かなくてもいいじやないかという議論もありましようが、機構の改革も、大がかりな機構の改革であり、
最初のスタートでありますので、そういう
意味で特に私ども関心があるから十分の
説明を徴したい。
説明を聴取するという方向に
考えているのであります。その後の細かい機構改革等はこれは独自の
考え方でや
つて頂いたらいいだろう、こういうふうに
考えております。そこで御指摘になりました過去における汚職事件でございますが、電気通信省の職員といたしましては、昨年来紙上を賑わしました汚職事件のために非常に肩身の狭い思いをいたしているのであります。場合によりますと、論者には機構又は過去の問題を棚上げするような
意味で機構の改革をするのではないか、事務の処理上にメスを入れないで機構を
国営形態から
公社形態、或いは会社形態へ移すのじやないかというようなひどい批判まで実は受けておりまして、
関係者としましては非常に不愉快な思いをして実はいるのであります。と申しますのは、成るほど昨年来紙上等も随分賑わして参りましたが、電通職員十五万から
考えますと、非常に大きくは宣伝されておりまするが、大部分の職員、極端な表現をいたしますれば、九割九分九厘まではこれは立派な職員であるということが言えるのであります。これらの職員が新聞で汚職事件が大きく取上げられますと、如何にも電通職員だということだけでもうすでにそれに関連があるような色眼を持
つて見られる、殊に職員自身もさように
考えますと、電通職員であること、これは曾
つては非常な誇りを持
つたものが、この種の公益的な業務に従事しておりながら肩身の狭い思いをするとか、或いは又その家族等になりますと恐らくいろいろ色眼で見られたり肩身の狭い思いをするだろうと思いまして、私就任以来はこの事件と取り組んで参りましてこの事件の結末をつけると同時に大いに電通省職員の士気の高揚を図
つて参
つたつもりでいるのであります。
只今申上げたような基本的な
考え方は職員に対しましても機会あるごとにその
説明をいたしておりますが、同時に又部外のかたに対しましても電気通信省の業務についての理解を賜わり、或いは従業員の執務につきましても同時に積極的な御同情ある御理解を賜わりたいと思いまして機会あるごとに話しておるような次第であります。で過去においてかような、然らばかような問題が何故起り、そしてそれに対する如何なる処置をと
つて来たか、こういう点になりますと、小笠原
委員からも
お話がありましたように、人自身の責に帰するものもありましよう、或いは機構の欠陷から出て来る場合もありましよう、或いは法律
制度等の欠陥から生ずる場合もあるでありましよう。併し大きく申しますと、かような事件が発展をいたしました当時の社会的雰囲気、社会的
情勢、或いは道徳的規律というようなものもこれは
一つの背景をなし、又見逃せないものではないかと思うのであります。例えば一例をと
つて申しますと、あの物資
不足の状況の下におきましては、一面に非常に厳格な統制経済は実施されてはおりまするが、闇は
相当横行してお
つた、而もその闇自身は当時の状況としては見付かればこれは厳罰に処するでありましようが、その取締等もなかなか思うようにできないのが実情であ
つたのではないかと思います。で、この闇の例をと
つて見ますと、電気通信省の執務が非常にルーズなように
考えられますが、さような
意味で申すのではなくて、社会的混乱、或いは遵法精神の欠如とか、或いは社会的規律、社会的道徳というようなものが脆弱であ
つた、その時代だということを
一つ念頭において頂きたい
意味で今のよう例を申上げたのであります。で電気通信省としてはさような社会環境の下におきまして、アメリカのシステムを採用せられたわけでありますが、いわゆるライン・オルガンゼーシヨンと言いますか、このものから見ますと、若し間違
つた考え方をいたしますれば、過誤に陥りやすい。と申しますのは官僚、官僚機構というものは特にチエツク・アンド・バランスが
相当できるようにな
つておる。で最も非能率の事務だと言われますが、
一つの認可書類にいたしましても、二十とか三十の判がつかれる。かように
考えますると、これはやはりチエツクの機会が多いということでありまするし、又事務能率が上らないと
言つて非難を受けます、非常に長期間審議を要するということも言われますが、こういう事柄も
一つのチエツクの効果は或る
程度あるわけであります。こういう点がライン・オルガニゼーシヨンでは余りなか
つたのであります。ここにも
一つの問題があると思うのであります。ただ非常に極端な例をと
つて見ますると、工事を施工する場合におきまして、普通でありますならば、起工式を挙げるとか、或いは竣工式を挙行するとか、こういうような雑費は必ず予算に計上される筋合のものでありますが、当時は工事費一本で実はや
つてお
つた。その種の催し物についての諸雑費は計上されておらないし、支出するような
方法がないと
言つて、又工事を施行する場合におきまして民間業者からこの種の
費用を徴収する、これは厳格に申せば明らかに違法なことであ
つたと思いますけれども、当然この種の予算で支出して然るべきような費目すらも実は計上されていなか
つた。こういうような欠陷も実はあるわけでございます。で、そのときの社会
情勢からこの種の事件が生れることは当然だと私は申すのじやなくて、そういうような間違いが起りやすい社会
情勢である、又法制上等においても
相当の不備がある、機構自身におきましても
只今申すようなチエツクが余りできないようなシステムが採用されている。こういうような幾つも欠陷があるわけであります。それにつきましてそれぞれ所要の修正補正をいたして参り、殊に長い間の新聞紙上を賑わした事柄によりまして従業員の自粛自戒、殊にこの不名誉の
状態から名誉ある電通省を作り上げようということで奮起しております職員のこの気持から
考えますると、先ず過去において非常に紙上を賑わした汚職事件は大体私は一段落がついたのじやないかと、かように
考える次第であります。今後これを
公社にし、或いは会社にした場合におきまして、
公社の場合におきましては依然として公務員法に準ずる扱い方を受けるのでありますし、会社になればこれは全然別でありますが、この士気の高揚並びに規律の厳守という基本的な訓練は
只今の状況ならばもう大抵社会からとやかく言われるようなことは絶対にないと私は確信いたしているのであります。従いまして機構を改正すること、この心配は先ず機構を改革することによ
つて扱い方がルーズになるのじやないか、規律が紊れるのじやないか、こういうような
意味の心配は毛頭ないのであります。殊に総裁等がきま
つて参り、その
公社の責任者におきましてこの過去の不名誉な困難な時期を鬪い抜いて来た職員がやはり
公社の
事業の完遂を期する上において大きな働きをするのじやないかと、かように
考えている次第であります。