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吉川末次郎君 この
基本的な新
憲法に沿うところの
改革が行われて、それが現在の
地方自治法に集積されておると、ところが而もその間
毎国会地方制度の
改正を要するという点については、
法案の出なか
つた国会がないということは先ほど申上げた
通りでありますが、更に今度は
根本的に全体系についての再
検討をや
つて行こうというのがこの
調査会設置の御
趣旨であると思われるのでありますが、そこに私は、非常な
政治的な
見地からの、又
日本の
地方自治の
発達の上においての大きな危機がひそんでいやしないかと思われるのであります。それは、この間の
地方自治法の一部
改正案の
議決のときにも、
委員会でも本
会議でも多少申上げたことでありますが、結局よく使われる
言葉で言うならば、逆コースの線に沿うた
考え方から、我々が
考えているよりも非常に深く
改正しなくちやいけない。これではいけないのだというように思
つていられる人が私は
地方行政の面において非常に多いのじやないかということなんです。それからこうした
改革の
動機が出ているのじやないか。これは
政治上においても私は非常に大きな問題だと
考えるのですが、それで
地方制度のごときものは、これは絶えず無暗に
改革して行
つたり、変えて行
つたりするものじやなくして、
制度が一応できれば、その
範囲内において所期の目的を、多少の不便があ
つても、できるだけそれを果して行くという方向ヘリードして行くのがいいんでないかと思うので、新
憲法に沿うところの
制度上の
改革というものは大体一応済んでいるのですから、これをこんな又
根本的に
改革しようというのは、むしろ
政治的精神の上から言うというと、新
憲法の
精神を否認するところの
考え方の上に立つのでなければ、私はこれを
根本的に
改革しようというような面は起
つて来ないのではないかと、それをもう少し具体的に言うと、この問も
言つたように、今の
鈴木次長の話の中にも私はそういう片鱗が現われていたと思うのですが、具体的に言えば、旧
内務省の復活、それから
内務省が
中心にな
つて、
地方行政を全面的に管轄支配していたときの形態に帰して行こうというところの
考えがやはり
基本にな
つていると思うのです。それで今ここに五十人、或いは七十人の
地方行政の
担当者、或いはエキスパートのようなものを集めて、これをやろうとしていられるのでありますが、結果においてどうなるかというと、これはたびたび我々が言いますように、
憲法は全く変
つたんだけれども、ありていに言うならば、人間というものは、そんなにもう四十、五十にな
つて頭の切替えが行われるわけではないですから、実際
憲法は変
つたけれども、四十、五十の大人の連中は、その頭は、社会的にも
政治的にも実際は全然変
つていないのです。これはもう私は現実だと思うのです。だからして新
憲法の
基本的精神は
人民主権ということだけれども、然らば
人民主権と
国家主権、或いは
君主主権との
相違は、これは
基本的な
相違なんだけれども、それがよくわか
つている人が何人あるかということにな
つて来ると、私は極めて
地方自治体の首長の
立場に立
つている人でも蓼々たるものじやないか。例えばよくデモクラシーとか、
人民主権だとか、民主々義だとかいうことについての
地方行政のことについて話をいたしますというと、これは名を挙げるのは避けますけれども、
国会の専門員です。衆議院の一専門員であります。その
委員会の名も言うことは避けますが、
国会の専門員といえば、これは知識上の或いは最高権威者だと思います。その人が、吉川さん、あなたはそんなことを言われますけれども、
日本にも美濃部さんのような天皇
機関説の
憲法や小法学の理論があ
つたじやありませんか。これは最近のことです。私にそういうことを言
つて、私の言うことを駁論しようとして来た人があるわけなんです。美濃部さんの
憲法が新
憲法の
精神に沿うところの民主々義的な見解であるかのように思
つている人は、この一人の衆議院の専門員だけじやないのです。私は、恐らく今日国家公務員の有数の地位を占めている最高幹部級の人に同様な見解を持
つている人がたくさんあると思うのです。美濃部さんの
憲法は、天皇
機関説は
人民主権論じやないのです。
国家主権論なんです。国家に主権があるという建前から、君主に主権があるという上杉さんの学説に対抗しただけであ
つて、新
憲法の
人民主権というのは、国家に主権があるということと全く対蹠的な見解の上に立
つて、
国民個人に主権があるという見解なんです。美濃部さん自身も、これは大体においてゲルルグ・イエリネツクのドイツの公法学の学説を
日本において継承していた人なんです。イエルネツクは、一九一三年、第一次欧州大戦前に死んだドイツの公法学者なんです。そういうワイマール
憲法以前のドイツの公法学者の国家に主権があるという建前から、君主に主権がある、天皇に主権があるという建前から対抗して、天皇
機関論を唱えた人が、新
憲法の、公法学の権威者であるということの資格を持
つているかのように思
つている者が非常に多い、少くない。現に私が今挙げたところの衆議院の最高のエキスパートであるべき専門員がそういうことを言
つている。同様の見解を持
つている者が非常に多いわけです。そのような見解を持
つた人が、今日
地方行政或いはその他公法学におけるところの通有の観念であるときに、それが
人民主権の上の
憲法に則
つて作られたところの
地方制度の
改正というものの
精神を理解し得ないことは当然なんです。自分が理解し得ないものだからして、例えば今
鈴木君が言われたような、この自治体の首長を一般公選にするというようなことについても、これは非常に懐疑の念を持
つている。そこで現在の
制度はいけないのだからというので、これを
基本的にもう一遍再
検討しなくちやならぬというような
動機がここに
構成されて、こういうことにな
つて来ていると思う。そこでそういうような美濃部
憲法の議論を、新
憲法に適用した民主々義的な見解であるかのように誤
つているような人が、それが
行政法学者であ
つたり、或いは官吏の古手であ
つたような人間がここに集まるにきま
つている。それを集めて、それにここで
地方制度の
改革を
検討さしても、そこから導き出されて来るところの
結論というものが大体どういうものであるかということを私は想像することが極めて容易であると思うのです。今日
地方自治法においての
考えも、やつぱり戦前のドイツの
考え方を継承していますから、官学におけるところの
行政法の学者というようなものが最高権威者であると思う。ところが官学の東京大学にしでも、或いは京都大学にしても、
行政法の然らば講座を担当している人というのは、やつぱり美濃部
憲法が今日適用するかのように
考えているところと軌を同じうするところの人間が今日講座を担当してや
つているわけなんです。そこから生れて来る
結論がどんなものであるかということは、私は想像することができるのであ
つて、恐らくは逆コースの線に沿うたところの反動的な
結論がここに誘導されて来るにきま
つている。そういう
考え方について、私は非常に重要な問題として、絶えず不断にこういうことはうるさく言われているかも知れんけれども、重大な問題だと思うから言うているのですが、特にこの問題に
関連性があるわけですから、お答え願いたいと思います。即ち約言いたしますと、現在の
地方制度の見解の基底をなしているところのものは、美濃部さんの公法学的な見解を新
憲法の
精神に符合さしたところのものである。即ち
国家主権論が今日なお通用するものであるというように誤認している人が
地方行政研究上の最高権威的な地位にすべて立
つているときに、そういうものを集めて生れて来るところの
地方制度の
改革というものは、やはり美濃部
憲法の線に沿うたところの逆コース的な、即ち新
憲法の
精神に符合しないところの
地方制度改革が
結論として生れて来るのではないかということに対するお答えです。