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説明員(奧野
誠亮君)
若木さんのお考えは
教育費について国から直接若干の
負担に任じたほうが
教育費が
確保されるのじやないかというふうな前提に立
つておられるように拝承したのであります。それでは六三制が実施されましたときに、新制中学の建設費の二分の一は国が持つから、二分の一は
市町村が
負担するという方針で始
つたものであります。ところが国が出しました二分の一と同額を
市町村が出しただけでは問題が解決しなか
つたわけであります。
市町村は更に多くの金を支出いたしまして、
市町村が与えられておる以上の
財源を新制中学の建設費に充当いたしまして、自然
市町村の
財政は非常な混乱に陷りましたし、多数の
市町村長が退職の止むなきに至
つた事情も御存じだろうと思います。国が二分の一なり幾らかなりを持てば
教育費が
確保されるのだという前提には私は疑問を持
つておるわけであります。更に又従前
教員給の二分の一は国が
負担することにな
つておりまして、もとより
教員給を幾ら支出して行くかということにつきましては、民間給与と或る
程度歩調を合せた方向で考えて行かなければならん面もあ
つたからであろうと思うのでありますけれども、
府県が支出しただけの二分の一は当然国が
負担して行くんだという建前にな
つてお
つたわけであります。ところがその後に国が定員定額の
制度を作りまして、どこの県の先生は何人である、而も平均給は何ぼでなければならない。その半分だけは国が持つという
制度を作
つて行
つたわけであります。自分たちの子供を教えておる、先生の給与を何円だ。又
教員は何人でなければならない、それ以上は国が持たないということにな
つたわけでありますが、現実にはその定員定額を超えて
府県が
負担してお
つた面がたくさんあるわけであります。国が幾ら持つから
教育費が
確保されるというわけには参らないのじやないかと思います。又
義務教育の先生の旅費の半分は国が持つということにな
つておりましと、
終戦後一人
あたり国は僅かに二十円としてその半分を持
つてお
つたわけであります。誠に滑稽な金額の單価をきめまして、その半分を国が
負担してお
つたわけであります。それじや旅費はそれだけしか支出していなか
つたかと申しますと、もつとたくさんの金額を支出してお
つたわけであります。最近
文部省が提唱いたして参りました標準
義務教育費法なり、或いは
教育財政平衡交付金法なりにつきまして、沿革的に私は一例を挙げて申上げてみたいのであります。個人の生活を考えてみます際に、子供の養育費も必要でありましよう。食糧費も必要でありましよう。それから住居費も必要でございます。従来は養育費が大切だから百万長者であろうと、貧乏人であろうと、養育費の二分の一は国がその家庭に交付して行く、こういう
制度をと
つて参
つたわけであります。これが私は
義務教育費半額
国庫負担法であ
つただろうと思うのであります。貧富の如何を問いませず、養育費の半額は無条件に国からその
団体に交付して参
つたわけであります。標準
義務教育費法は
教育費は幾らであるということを
算定いたしまして、それだけは使わなければならない支出義務を課するところに意味があ
つたわけであります。私は自分たちの子供に本を買わせまして読ますことは必要でありますけれども、要る本を買
つてもよい、何を買
つてもよいが、本代にこれだけ使わなければならないというやり方は適当でないと考えたわけであります。むしろどういう本を読まなければならないか。教育について考えなければならない問題は、
教育費にどれだけ金を投ぜられるということになるのじやないのであ
つて、教育の
施設がどの
程度に維持されるか。教育の水準がどの
程度確保されるかという問題だと思うのであります。例えば小
学校の一学年の教材はどういうものを揃えなければならん。二学年の教材はどういうものを揃えなければならんか、或いは教室はどういう
施設を整えなければならんか、或いは運動場はどの
程度の規模を持たなければならんか、こういうことをだんだん
府県なり、
市町村なりに義務付けて行
つたらどうだろう。我が国の教育の問題につきまして主管いたしますところといたしましては、そういうような
施設の基準というものをもつとどんどん作
つて行かなければならないのじやないか。 エロ本を買
つてもよろしい、何を買
つてもよろしいから、本代にこれだけ使わなければならないという思想というものは、如何にも自分の子供が非常に幼稚な知識しか持
つていませんでしたら、それも止むを得ないかも知れませんけれども、やはり一人前になるその成長を考えたならば、もう少し国としてなすべきやり方があ
つたのじやなかろうかと思います。更に、現に言われております
教育財政平衡交付金制度と申しまするものは、各人につきまして、養育費だけは別個に
算定する、併し金持ちにも幾らか出すということは穏当ではないじやないか。金持ちの所得の中から、例えば主人の所得のあるうちの何%そ、れだけを差引いたものをそれを国から交付して行くという考え方であります。この点につきましては、第一にはやはり標準
義務教育費法に考えましたように、支出を強制することに狙いを置いているのじやないか。そうでなければ、現在でも
地方財政平衡交付金制度におきまして、
教育費は幾らであるという測定をしておるわけであります。でありますから、別個に測定するということは支出義務を課そうというところに狙いがあるわけであります。支出義務を課するということは、私は教育を真実に高める問題にはならないと思うのであります。むしろそれだけ使わなければならないということは、それだけ金を出しておれば、言い換えれば
教育費をそれだけ教育
関係者に与えて置けば、それで問題は済んでいるというふうな恰好にしてしまう虞れが多分にあるわけであります。自分たちで教育をどうするというような関心を奪い去
つてしまいましようし、釘付けに
教育費をしてしまう虞れもあるわけであります。むしろ教育をどうして維持するかということに深い関心が注がれて行かなければならないと考えておるわけであります。こういう問題に
一つの疑問を持
つておるわけであります。
第二に、養育費が
算定されましてそれからとの家族の中の所得の一定
部分を差引く、一体どの
程度差引けはいいかということについては、必ずしもこれでよろしいのだという決定はできないだろうと思うのであります。それよりも、やはり現在
地方財政平衡交付金制度で考えておりますように、養育費も測定する、住居費も測定する、食糧費も測定する。半面その主人の所得も測定をするし、或いは息子さんが働いておればそれも測定する。そうして働いて足りないものはその家庭に生活保護費的なものとして交付して行くというやり方が望ましいのではないか。そうしてその家庭に病人がおれば、衣料費、或いは住居費を節してたくさん使うでしよう。養育費に対して住居費を節してもつとたくさん使うでしよう。そう考えれば一家の円満、一家の発展を図
つて行くためにはどうすればいいかということを知恵を絞
つて行く、そういうことが望ましいのじやないか。が併し、その半面子供の教養というものはこういう恰好でなければならない、そう考えるならば、子供の教育のあり方というものを規定すればよろしいのではないか。子供には必ず何歳まで
学校に入れなければならない、或いはこういう本を読ませなければならない、そういうような教養のあり方を規定すれば、教養費はこれだけ使わなければならん、養育費は必ずこれだけを使わなければならん、どんな使い方をしてもこれだけは使わなければならない、こういう思想というものは適当ではないじやなかろうか、こういう考え方をしておるわけであります。
教育財政平衡交付金制度につきましては、
文部省から深い連絡は受けておりません。こういうようなことを自由党に話して行
つたところだということは一ぺん私は口頭によ
つて連絡を受けたことがあるだけであります。その後に
文部省がどんな作文をしておるのかということは再三
要求してもら
つたことがございます。それ以外には、一度自由党へ今こういう話をして来たところだということで話を受けただけであります。その後に、
予算編成の当時に閣議で問題にな
つたことを聞いておりますけれども、それ以外には公的に連絡を受けておりませんけれども、従来から
只今申上げましたような考え方を持ち続けて参
つておるような次第でございます。