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平野公述人 平野義太郎、
日本学術会議会員、
中国研究所所長であります。過ぐる四月二十三日に、
日本学術会議でこの破防法に関する
決議をいたしましたから、冒頭に御紹介申し上げます。「われわれは、現在
国会に提案されている破
壞活動防止法案が、
学問思想の自由を圧迫するおそれがあることを深く憂慮し、今後の成行きについて重大な関心を寄せるものである。」というのが
決議になりました第一であります。同時に、
学問、
思想の自由の保障について
法務総裁に申し入れた点も、関連がありますので、
最後の
結論のところだけ読み上げさせていただきます。「警察官において、いやしくも
日本国憲法の
精神を無視し、
警察権行使の正当な
範囲を逸脱して、
学問及び
思想の自由を侵し、あるいは脅かすことのないよう、十分に御配慮くださることを希望します。」というのであります。以下申し上げることは、私が別に
学術会議の
会員として、あるいはこの
決議などを
説明いたすのではなく、ま
つたく
個人の資格で申し上げることを御了承願います。今
委員長からお話のありました通りで、私は
法律時報の一月号に、アメリカのスミス法、マツカラン法、
国内安全保障法、あるいは一番判例の基本にな
つておる一九一九年のホームズ判事の「明白にしてかつ差迫る危險」――クリアー・アンド・プレゼント・デンジヤー、この場合においてのみ
言論、
集会、
思想その他の基本的人権を
制限し得るという判例が、アメリカで立てられておるのでありますけれども、これらのケース自体がみな防諜法――クリミナル・エスピオネージ・アクト、あるいは陸軍における不服従を宣伝し、あるいはまた募兵を妨げたというような戰時に関するものの判例でありまして、この点は、特にアメリカの判例を抽象的に見るのでなくて、そのケースケースを見て行く必要があるということをまず第一点として申し上げておきたいと思います。それからダグラス判事あるいはブラツク判事は――現在も最高法院の判事でありますが、その
意見を申して紹介しておるのでありますが、その場合におきましても「およそ立法者がいかように立法にあた
つて説明し、これを目標にいたしましても」、こうブラツク判事は言
つております。「
一つの政治的
団体を目当につくられた
法律は、その最初にはどのように合理的なものであれ、統制の
範囲を越えて、憎悪と偏見を急速に生むことは、幾世紀の経験が証明する
一つの悪しきグループに科せられた
制限は静止的であるのはきわめてまれである。」あるいは「
思想の自由を束縛する性質を持つ
法律は、そのつくられたときの
目的のために使用されることはめ
つたにあり得ない」ということがブラツク判事や、あるいはここに引いております、アメリカの判例を論じている
法律時報の新年号にありますが、これは直接に見ていただきたいと思います。要するにアメリカや
日本は
法律万能
思想の非常に強いところであります。進化論も、なお
法律によ
つて妨げられるという
思想のある国があるのでありますが、その場合におきましても、その
法律がつくられなければならないという政治的、社会的、経済的な諸条件を抜きにして、権力、
法律だけをも
つてその
法律の
目的を達成することができるという幻想あるいは謬想が、この種の
治安立法においては最も警戒されなければならないところであります。何らか
言論の抑圧があるところに、またそれに対する反抗も生じて来るので、その自然の流れを、せきをつくるのではなく、土手をつく
つてあふれないようにして、自然のままに流して行くというところに
治安立法の
意味があるので、それに対してせきをつくり、逆流を巻き起し、かえ
つて大きい荒波をつく
つて行くということは、最も警戒さるべき点である。従いまして
内乱あるいは
騒擾を助長しないようにする
法律が、かえ
つて内乱を助長するということの反作用もあることを、
治安立法に関与する場合においては、
考えなければならないということが、強く感ぜられます。
第三番目には、濫用の事実が常に行われております。これは直接私自身の経験したことでありますが、
日本の場合であります。現代中国学会が昨年の十月二十八日に駒込の東洋文庫で開かれました。支那の言語を研究しておられる東大の文学部教授の倉石教授あるいは仁井田教授、この人々がみな中国の言葉の問題などを議論しておりました会で――学術の大会であ
つたのでありますが、それが
集会届を出さなか
つたという理由をも
つて――駒込署の人がその前に入り込んでお
つたのですが、気がつかなか
つたのであります。やがて気がつきましたところ、
集会届を出していないという理由で、解散の命令を食いました。学術大会であるということで、いろいろ交渉したのですが、遂に数十名の警官が東洋文庫を囲んだという事実が実際あ
つたのであります。か
つての
治安維持法時代にも、やはり歯医者が共産党員、あるいはそれとおぼしき同調者の歯をなおしたということのために、
目的遂行罪にかか
つたということで、これを当時扱われた弁護士が雑誌誌上で述べておられる例もあるようなわけで、
ちよつと想像できないことが、末端の警察官によ
つてしばしば行われ得るということが、実際上あるのであります。第二に、このたびの
法案の重要点として気づいておる点を申し上げたいのであります。
最後の罰則の刑事上の犯罪構成要件並びに
団体規制の要件と共通して重要であると思いますのは、ここに暴力
主義的とは言
つておりますけれども、結局は
内乱、
騒擾その他の
刑法上の罪のその教唆、扇動ということ、あるいは施策を推進し、支持し、またはこれに反対するということがあります。これは
刑法七十七条でありますが、その七十七条の「
政府ヲ顛覆シ」という「
政府」というのは、国家の基本組織であ
つて、当面の
政府でないことはよくわか
つておるのでありますけれども、今の
刑法では、七十七条は「
政府ヲ顛覆シ」という文字にな
つておる。「朝憲ヲ紊乱スル」という文字はその次に出て参りますが、この
刑法の七十七条が、そのまま今日の新
憲法のもとにおいてもなお存続しておるという条件のもとにおいては、その
政府ということが、やはり朝憲紊乱と相照応した当面の特定の
政府というふうに、末端の警察官などがこれをとることの危險が非常に多い点から、すなわち
政府に反対する
行動、支持あるいは反対するというそのこと自体が、七十七条からすぐに教唆、扇動の方にひつかか
つて来るという点があるのでありまして、文書、印刷、図画というものまでも、すべてこれに入り込ませられるという危險が非常に多いということは、古い
刑法が今日の新
憲法のもとでもなお残
つておるというところから来る大きな危險であるという点が第一点であります。第二点は
騒擾に関してでありますが、御承知の通り「多衆聚合シテ暴行又ハ脅迫」とあるのでありまして――しかし要件としては、一地方の静謐を害するということが、実質的な要件であるわけでありますが、明文上
規定がないために、ただ多衆集合して暴行、脅迫ということから、
騒擾というものに対する教唆、扇動ということは非常に広く、たとえば
労働組合にいたしましても、
団体交渉の場合に、
ちよつと旗の端でさわ
つてガラスが一枚こわれましても、これが
騒擾罪となる危険のあるような
騒擾罪の
規定なのでありまして、これがまた教唆とか扇動ということにひつかか
つて参りますので、ここに
労働組合等が非常に恐れを持
つておるということが言えるのであります。第三番目は、今も御指摘に
なつた所持に関することであります。箇条でいえば、第三条第一号のロの「その実現の正当性若しくは必要性を主張した文書若しくは図画を印刷し、頒布し、公然掲示し、若しくは公然掲示する
目的をも
つて所持すること。」という、所持すること自体が暴力
活動であり、所持すること自体を教唆するということがあり、あるいは印刷するということがあれば、そのこと自体がまた暴力
活動にな
つて団体は解散される。そしてまた、それに関する
団体の役員が、その罰則で
刑罰を受けるという、所持それ自体、持
つておるということだけで犯罪になるということは、いまだか
つて刑法の場合にはないわけであります。
この所持ということを具体的に申し上げると、たとえばここにあるマルクスの書物を持
つてお
つた。それが公然掲示する
目的を持
つてであるというふうに警察官が判断した場合におきましては、所持自体が暴力
活動になり、それを印刷し、あるいはその前に必要性あるいは正当性を主張しというような文書と判断いたしますると、暴力
活動になりますから、
団体が持
つておることによ
つて規制を受け、
個人は
個人として、
団体のほかにまた関係を持
つて来るということが、所持ということに関係がありますので、
新聞紙あるいは雑誌編集者、印刷所あるいは学者などが、非常にこの点を重く見ておるということを申し上げます。
次には、
団体と
個人との関係及び
団体の分会及び支部との関係であります。この第三条の二項の
最後でありますが、
団体の支部、分会その他の下部組織も、この要件に該当する場合にはこの
規制を受けるというので、ある單位組合、またその下の支部、分会において、例を申し上げれば、末端のある組合が今のように
騒擾と目せられる場合には、そのことのゆえをも
つて、共犯理論でいえば、意思の共同のない組合の幹部の者またその組合そのものが、この暴力
活動ということにな
つて来て、そして末端の組合
活動がただちに、全然意思の共同のない上の方の
団体までもが
規制される、あるいは後の罰則に適用されて来るという危險が非常にある。少くとも、この点はあいまいであります。あいまいであるのみならず、そういうふうに適用される危險が非常にあるという点を、指摘しておきたいと思います。そうなりますと、これはいわば徳川時代の五人組のような、今は一万組、二万組のように、下の方のある
行為に対しては、意思の共同がなくても連帯責任を負わなければならない。
団体的責任を負わなければならないという、結果的共同正犯で、結果がそういうふうに起れば、初めから意思が共同であ
つたかのごとくとられることが、少くともこの
法律において出て来るということを申し上げたいのであります。
それから、さらに重要なのは、
審査に関する第三章の
手続でございます。十九条が十一条と相関連しますが、およそ
審査という以上は、やはり当面の
当該団体に疎明をさせ、弁明をさせ、
意見を徴し、のみならず原告官たる
公安調査庁長官と対質して、お互いに相会
つて、それぞれ証拠を出し合
つて、客観的に公平にきめらるべきもの、それが
審査委員会であるだろうと思われますのに、この
法案におきましては、十一条では、
公安調査庁長官は、
当該団体の
事件につき弁明をなすことは許しております。前の
手続で、
審査委員会の前に、権力を持
つております原告官が呼んで弁明をさせ、かつ十二条では弁護士も選任して疎明、弁明をすることはできますけれども、もうすでに弁明をした以上は、また原告官はそれだけの反対の証拠を集めて、
最後の
決定をいたすその機会においては、弁護士もなく、全然当人をも呼ばないで――二十条の第四項でございますが、
当該団体は、第一項の通知があ
つた日から十四日以内に、
処分の請求に対する
意見書を提出することはできますけれども原告官たる公安
調査長官と対質の上で、お互いに証拠を出し合
つて、そこでともに事実の糾明を客観的公平にするという機会が、この第二十条四項ではないのであります。ただ
意見書を提出して、文書によるだけの
審査でございます。その前の
手続の場合においては、弁護士もつけ、また本人の疎明、弁明も聞くのでありますが、それが実際上の場合におきましては――弁明を聞けば、原告官は必ずその反対の証拠を持
つて公安審査委員会に出て来るわけでありますから、その場合においても、やはり
意見を直接にただし、また弁護士も入
つて、そうしてのみ、初めて事実の糾明というものが客観的公平にでき得べきこと、あたかも前の
手続と同様であるべきであるのにかかわらず、それがこの
規定におきましては、
意見書だけを出させて、文書だけの
審査に終るという点は、非常に実際の動きにおきましては、結局原告官の集めた証拠、あるいは反対証拠というものだけで、
結論が出るということになるのだということを、非常におそれます。従いまして、根本は、およそ
団体を
規制し、あるいは一定の
刑罰的
効果を生ぜしめるような罰則の前提になる
団体規制を、行政権が
裁判権から離れまして、ここに
規定があるというところに根本の問題があることは、もうすでに諸家の御指摘にな
つておる通りであり、東京弁護士会の
決議にもありました通りでありますから、これ以上言う必要はないと思います。
それで、私は
最後に、非常に残念なことではございますけれども、今の
日本の
治安立法の状況が、一九四八年ごろの韓国の
治安立法に、きわめて酷似して来ていることです。それはいろいろな条件はむろん違います。違いますけれども、まず一九四八年、
ちようど韓国が独立しようとする際、韓米軍事協定、韓米経済協定などを結ぶとともに、一方では
治安立法を設けました。それが
法律の面だけから見ますと、きわめて
日本の
治安立法と酷似しております。それは国家
治安法という名前で今日まで来ておりますが、一九四八年十二月に立法されました。その第一条には、
政府を破壞する
目的で、
結社または集団を構成した者は、首魁は三年以上、
実行、扇動、宣伝した者は十年以下というような
規定を設けまして、このことが、やはり反
政府活動というものを、民主
主義を通ぜずして、一気に
政府を転覆するという、先ほど言
つたことと相応ずるような、生のままの言葉で第一条ができ上
つておるのであります。それから、それに照応いたしまして、
新聞紙法が四九年一月にただちにつくられました。そういうことも今後の
日本の場合おそれられるのでありますが、その
新聞紙法の
刑罰の対象となる
行為は、国憲を紊乱し、国際友誼を阻害し、秩序を乱し、
公共の福利と善良な風俗を破壞するおそれがあり、社会の撹乱を誘発する
目的で、虚偽の風説を流布することというような
新聞紙法をつくりましたような状況と、今日の
日本の
法律と比較して見ますと、非常に酷似しておりまして、第二の朝鮮にならないようにこの点をひどく私どもは心配いたしておるのであります。
最後に、先ほど申しましたアメリカのダグラス判事の言葉として、
言論集会、そのほかの自由の
権利は、われわれの心臓にも比すべきものであ
つて、心臓が弱まれば人体は衰弱して、それがとまれば人間のからだは死亡するごとくに、ほんのわずかのような心臓でありましようとも、その自由が弱まれば弱まるだけに、民主国家としてのその国家の心臓がとま
つて行くのであり、やがてその民主国家は他の国家形態にかわり、民主国家は死滅するものであるということを、アメリカ最高裁のダグラス判事が、今日までも述べておることを述べまして、
治安立法は、決してせきをつくるものでなく、土手をつく
つて水を流し、自然に流して行くのが
法律の
役目であ
つて、あべこべに逆流させて、逆コースをとらせるような、
内乱を助長するような立法の仕方は賢明でないのみならず、
法律そのものの信用から見て、非常に不当な結果を生ずるということを申し上げておきます。