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横田委員 話合いのことを何も聞いているのじやないのです。話合いがあ
つたということを私は言
つたのです。なぜかといえば、ここにも出ておりますように中日
貿易促進会、ここで
意見がまとめられているから私はこう言
つたのです。私はこれ以上あなたに追究いたしませんが、
高橋さんは確かに言
つた。私は
通産委員会におきましてあまり
高橋さんと質疑応答をいたしませんが、二、三回や
つたときに、じわじわと問い詰めてとつちめたと思
つておりますので、やりにくいと思われたのか、きようは逃げて行かれました。また後ほどゆつくりやりますが、
高橋さんは、健全なる、正常なる普通の
日本の実業界の方々はそういうことを望みません、こういうことを
はつきり言
つたんです。これはあなたに関係ないことなのですが……。そこで今度はあなたに伺いたいのですが、
中共貿易というものは非常にぼろいのです。やれるのです。やれますから、これに対してはやめてはいけない。もつと危険が台湾海峡にただよ
つておりましたときでさえも、活動してお
つた場合がある。それは
香港貿易の場合におきまして、ジャーデン・マジソンという船会社があ
つて、これが非常に活躍してお
つた。これは私設
保険という
意味において、非常にその間の危険を負担してお
つた。こういうようなものは、
日本がやられなか
つたらやるのです。それが、後ほどあなたにも申し上げます数字の点で十分に出ている。ここにも出ておりますように、大体
日本が、満洲と関東州、それから台湾を除くところの支那、そういうところを
中心といたしました
貿易を例にとりますと、
輸出の場合におきまして、
昭和六年から七年の間においては一五%であ
つた。十三年にはそれが、もちろん事変の影響もありまして二九・七%に伸び、十四年には三四%に伸びた。その場合の輸入は、これは
昭和十四年を比率にとりますと、十四年には一大五%であ
つて、これが十二年のときには九・二%であ
つた。この間に非常に大きな開きがあるけれども、輸入は十年間を平均にして一二・二%と出ている。それが戦後になりますと、
昭和二十五年には
輸出が五・八%、それから二十六年に〇・七%に減
つている。輸入の場合におきましては、二十五年は四%であ
つて、二十六年はわずかに一%にな
つてしま
つている。これを金額に直しまして、
輸出の場合においては向うの五百八十三万ドル、
日本の金に直して二十億九千八百八十万円、それから輸入の場合におきましては二千二百三十一万ドル、八十億三千百六十万円、こういうような額にな
つておりますが、そのかわりに、
昭和二十六年の
香港貿易の
輸出入を調べてみますと、
香港に対しては六千百五十五万ドル、二百二十一億八千五百円出ている。同時にまた輸入の場合には五百八十二万ドル、二十億九千五百二十万円出ています。このうちあるいはこれ以外に、繊維
輸出として二千七百二十五万ドルのものが
香港から
中国に渡
つているのではなかろうか。金属製品の場合におきましても九百六十三万ドル、三十四億六千六百八十万円のものが
香港から
中国へ
行つておるのではなかろうか。これを
英国人の手に渡さずに、また
英国人以外の各国人の手に渡さずに、
日本から面接入れるようにしたいという願いは私は至当だと思う。ここに数字が出ておりますように、平均して一五%から二九%、三四%、こういうようなものを割りましたところの数字が非常に下
つてしまいまして、わずかに五%とか一%にも満たないように
なつたのですから、せめてこれを二〇%並にしたいというような欲望を持
つていいのではないか。世界は非常に
貿易市場を求めているにもかかわらず、また
日本はそこから閉め出されて遅れているにもかかわらず、むしろ
日本は狭いのを喜んで、
中国の場合は入れません、
アメリカが戦争する場合のお助けをしましようとい
つて、東南アジアという得体の知れない所から入れるのは不健全ではないでしようか。そういう場合に、こういうような数字、こういう実績を基礎としてやられますところの実業界の
人たちに対しまして、よし外国人はどんなに圧迫しましようとも、
アメリカ人がどんなに
妨害いたしましようとも、
日本の役所によ
つて執務し、
日本の人民のために、国民のために服務する公務員であるならば、もう少し努力されるような意思があるのかないのですか。くどいようですが、もう一ぺん
はつきり承りたいのであります。