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佐伯委員 賢明な
安本長官に、よく公平に御判断願
つていただきたいと思いますことは、なぜこれを否定するかわからぬと言われるが、私
どもは否定しておりません。
国家が
資本を投下され大いに電源を
開発なさることも、私
どもはこれを拒否しておらぬのです。この点を誤らずに、よく御理解を願いたいのでありまして、そのこと自体が、せつかくの
日本の
電源開発の総和に対して影響しないかということであります。ところで
安本長官にお
考え願いたいのは、か
つて日本発送電が解体いたしますときに一体どこが悪いのかという論議が行われましたが、発送電は
日本全国を一つにするという理由があります。何となればと申しまするに、一体
国家が
資本を投下して、そうして国民に豊富、低廉なる
電力を供給すること、生産というよりもむしろ供給という分配、消費の面です。
従つていかに今言われる
特殊会社を
日本全国に幾つこしらえられても、
送電線を持たないでおいて、どうして国民にその
電力を公平に分配できましようか。私はここに非常に重大なる問題があると思います。
全国一社になされなければならぬという理由は
——何の
ために
日本発送電は
全国一社にしなければならなかつたかと申しますと、大体が
送電線なのであります。発生せられた
電力を
送電線によ
つて国民に最も公平に均霑せしめるということが、あの発送電の起つた強き理由と
承知しております。そういうところに発送電のでき上つた意味があるのであります。発送電の悪かつたのはどういうところか。それは観念的なものでありまして、実際は北海道と本州と、
電気を送電することはできない。九州と本州は
電気が交流されておりますが、経済性を持ちません。経済性を持たないところまでも、社会主義的な一つにしなければならぬというところに無理があつたと私は
考えます。でありますから、私
どもはあのときに発送電は五つにしたらよかろう。つまり
電気を経済的に届け得られる限度をも
つて一つの区域とする。これは送電幹線を主体にしたからであります。ところが今ここで
安本長官によくお
考え願いたいのは、九州と四国と北海道、こういうふうに五つか六つの発電所だけができるわけであります。
送電線がこの
電気を交流する役目をするわけではありません。それを一つの
会社にしてやらすのだ、こういうことはさしつかえないのだと言われること自体が、
電力の一切の行政を乱し、企業の自主性を破壊する。こういうところに、せつかく燃え上
つて来る
民間創造意欲というものを無視するものがあるのです。われわれは事業人でありますから、あるいはもうけ一ぱいであるというふうにお疑いになるかもしれませんけれ
ども、われわれといえ
ども、
利益はことごとく
国家に還元するということを建前にしておる。こういう意味から申しまして、
国家がなさることも、われわれは何等異議はありません。つまりある一定地点の電源
特殊会社をなさるのならば、何らさしつかえない。
全国一社ということをなさるが
ために、全
日本における
民間企業意欲というものはこれで制止されます。これは恐ろしいものだ。私
どもにはこれが強く信じられる。
安本長官はこれをよく御
承知にな
つておられるけれ
ども、
自由党の案だからこれを強く主張しなければならぬという矛盾を持
つておいでになるのではないかと私は思うのであります。これが一つ。
いま一つ非常な矛盾がございますことは、
電気が発生されまして、それを貸付、讓渡する、この点です。私はこの前
安本長官の、
自由党の主義主張に対するラジオ討論を聞きまして、非常に傾聴させられた。それとこのお
考えとは、たいへん違うように思われます。今は
開発時代です。発電の時代、生産の時代です。欧米先進国におけるところの発達過程を見ますると、
開発とか生産の時代は、できるだけ国民の創意、創造意欲を発揮せしめる。そうしてその生産が飽和点に達したときに、分配、消費する
ためにこれを社会化する。これは共産主義社会あるいは社会主義社会は別であります。英国の労働党が今日いかにして社会化したかと申しますと、あれは
日本人の社会主義理論とは全然違
つておる。彼ら英国においては、生産の段階は過ぎて、生産が飽和点に達しておる。ですから生産を阻害するに至
つてない。今
日本の国の
電力事業はどういう
状況にあるかと申しますと、まだ
開発時代である。まだまだ幾千億の
厖大なる
資本を要すると私は思う。
国家が限られたるところの、わくにはまつた予算の限度において、この大
資本を集め得るということは、
安本長官は御信用なさるまい。おそらく
全国至るところ自由企業になさることが、
自由党の政策にも一致するものと私は信じられる。そうしてこれがある
程度飽和点に達したときに、国営になさることも、社会化なさることも、われわれはあえて反対するものではございません。この実例を一つ私は
お話いたしまして、そうであるかないかという御証明をいただきたい。わが国の
産業界をごらんください。明治三十三年の
日本国有鉄道のときにおいて、加藤高明が国営に反対で殺されかかつたことがある。しかしその後、
日本の国有鉄道は長い歳月を経まして、八十年の歴史を持
つておりますが、毎年毎年
国家の予算の
ために制約をされまして、鉄道の発達というものは英国の三分の一、フランスの三分の一で、イタリアと匹敵しておる。国営なるがゆえに大規模に発展するものだとは、
自由党はお
考えになれまいと思う。残念ながらこの国営が早かつた。しかるにその後どうですか。数十年遅れて発生しました
電力事業は、これはどうかと申しますと、急激に発展いたしました。戦前までにおける水準は、世界の一等国に列するエネルギー源を持
つておつたと思われる。国有鉄道は八十年の歴史を持
つて、世界の三等国であります。海運事業はどうでありますか。海運事業におきましても、あの自由企業といたしまして、世界の一等国に利するまでに至つたのであります。われわれは
国家管理は、どつちかと申しますと、少くとも
開発、生産がある
程度飽和点に達したときにそれを社会化して行く、この段階が最も必要だと思う。今、
日本における
電源開発の
ために総力をあげて集中して行かなければならぬときに、国営という美名に隠れて
——今右か左かと言われましたのは、反対なんです。私の言わんと欲するところは、
日本国民は
国家に依存
性格を持
つております。国営という錦の御旗なら、だれでもすぐにいいと思う。残念ながら
日本の国には
資本もあるわけでありません。こういう
見地に私は立
つて、決して国営がただちに今
日本の国を潤すものではないと思う。しかして私は、どういうところを御参考に願いたいかと申しますと、せつかく国が投資なさるのは、われわれはこれを歓迎いたします、それがいかぬと言うのではありません。ただ
全国的に優越した権限を持
つておる
——同一
電力事業に対して優越したこの
特殊会社だけでは、いつ何時どこの区域でも随時に、特権階級として
電源開発に特権を持
つて臨むことができるということを生ずる。対等な立場においておやりになるのならば、これは大いにおやりを願いたい。もう一つは、ここまでせつかく国がおやりになるのならば、現在の九つの
電力会社の中には、今
国家が大規模と目せられるところの発電所が重要河川に関連してあるのですから、これを合理的に取上げていただいて、それを基本にして大いにおやり願う、これならばわれわれはいささかも反対ないのであります。
安本長官はいま一度御再考になる餘地がないものでありましようか。