○棚橋
参考人 ただいま鍋島会長から大体の御
説明がございましたので、あえてつけ加えることはほとんどないのでざざいまするが、ただいまの施設で
水産教育がどんなふうに不都合な状態にあるかということを、一応御
説明申し上げたいと存じます。私
どもの大学が校舎問題に非常に悩むようになりましたのは、昭和二十年の十二月に越中島の校舎が接収せられてからのことでございます。爾来校舎問題で非常に苦しんでおるものでございます。越中島の敷地は大体二万一千坪でございまして、その上に建物が延べ坪数で約四千七百五十坪ございます。そうして本館はもちろん図書館あるいは標本館というようなものは、いずれも鉄筋コンクリートづくりの耐震耐火のものであ
つたのでございます。これが終戦後約三箇月ばかりいたしまして、突然接収されたのでございまして、当時の学校当局は、百方手を盡してそのとりやめ方を懇願したのでございますが、どうしてもそれが聞き入れられませんで、やむなく近隣の商船大学の寄宿舎を仮校舎にいたしまして、そこできわめて不満足な教育を一年数箇月や
つていたのでございます。大体か寄宿舎でございますので、教室なんかに充当するのが非常に困難なのをあえてや
つていたのでございますが、あまりに不便、不都合であ
つたので、百万手を議しまして、ようやく横須賀市の招きに応じ、久里浜の旧海軍通信学校に参
つたのでございます。参
つたと申しましても、当時海軍通信学校はほんのバラツク建のごく老朽の建物だけが約五千百坪ばかりあいておりまして、そこにとりあえず入
つたのでございます。これもむろん進駐軍の一時使用許可を得て入
つたのでございます。それではなせ全部入らなか
つたかというお疑いがございましようが、当時は優秀な建物が五つございまして、その優秀な建物を五つともそれぞれの官庁によ
つて使われていたのでございます。第一には第八軍が三階建の鉄筋コンクリートの最も優秀な建物を使
つておりました。また横須賀のアメリカの海軍基地が鉄筋コンクリート三階建の二棟を使
つておりました。それから木造の鉄骨三階建の建物が二棟ございましたが、その一棟は横須賀地方の復員局が使
つており、いま
一つは海上保安庁が使
つていたのでございます。こういうようなわけで、全部使用許可を得たか
つたのでございますが、どうしても得られませんので、やむなくその老朽な約五千百坪ばかりの所に移
つたのでございます。けれ
どもそれは数箇月あるいは半年くちいの後に、どれか
一つは必ず明くだろう、また全体的に見てほとんど
仕事らしい
仕事をしているのは復員局くらいでございましたので早晩明くものという期待が非常に強か
つたものですから、あえてそういう老朽な建物にわれわれは移転したのでございます。そしておりましたが、とにかくその当時学生が約一千名、教職員が三百二十二名、それに非常に得がたい図書が約十万冊ございます。それから標本類が一万一千点ばかりございます。また学生の実験あるいは実習に使います機械、器具が五千数百点ございました。これらのものをその中に同時に収容しながら教育をするということが非常に困難でありましたので、五千百坪のうちの一千二百坪に該当する所をかりに倉庫にいたしまして、むろん非常にひどい建物で、ございましたのでとりあえず雨漏りと戸締りだけを厳重にするようにいたしまして、そこにみな収容してしま
つたのでございます。そういうわけで標本とか機械、器具なんかは教育上使用することは全然できなか
つたのでございます。それから図書と申しましても、残りの三千九百坪ばかりの所へ教室あるいは事務室、研究室というようなものを設けるような始末でございますので、閲覧室なんというものは設けることができず、ほんの明いている所に図書を格納いたしているような次第でございましたので、これを教育上利用して一般の閲覧に供するなんということはとうとうできなか
つたのでございます。こんな状態でありましたが、翌二十三年になりますと、われわれが期待した
通り海上保安庁が一部分明けたのでございます。それでさつそくその
あとを
関係の
人たちの立会いのもとに—大蔵省の方もこのときには立ち会われまして、われわれが引継いで管理使用することにな
つたのであります。これは千五百坪ぐらいのものであ
つたと存じます。その建物は当時はあまりいい建物ではございませんで、一部は教官の宿舎なんかに充てていたのでございます。また多少実験、実習室をつくりました。それから翌年になりますと、今度は優秀な建物が三棟明きました。横須賀の海軍基地が使
つておりました鉄筋コンクリート三階建のものが二棟、海上保安庁が使
つておりました鉄骨木造のものが一棟明いたのであります。このときやはり
関係官庁の
方々の立会いのもとにわれわれがそれを引継いだのであります。当時のアメリカ海軍のデツカー少将から、この建物は一切
水産大学が使うのが一番合理的であるという添書までしていただきまして、ただちに第八に軍使用許可の出願をしたのであります。とにかく、それだけのものが明きましたので、とりあえず必要な図書、標本類をそこに移しましたし、案験、実習所をさつそくそこに設備することにいたしました。こんなふうにして一時大学教育らしいものがやや施されるようにな
つて、非常にみな喜んでお
つたのでありますが、昭和二十四年八月十九日と覚えておりますが、アメリカのジユーカス中佐が首班になられまして、米軍の将校二人と大蔵省の
関係官が四、五人ついて参られまして、われわれの建物の使用
状況を視察するということで突然お見えにな
つたのであります。当時ちようど私がおりましたので、親しく御案内していろいろ
説明したのでありますが、そのときに突然に、あるいは近き将来にこれが接収されるかもわからないということを漏らされたのであります。そこで非常に驚きまして、われわれは越中島の校舎を追い出されてやむなくここに来たのであ
つて、これは大学を存続するのにぜひ必要な建物であろから、どうぞ引続いて使用させてくださいということを盛んに懇願したのであります。このときは非常に感動されたように見えたので、私たちは多少善意に解しまして、楽観してお
つたのでありますが、三日の後に関東民事部のジヨーンズ課長の明渡し命令に接しだのであります。それでやむなくそこを明け渡して、元の老朽の建物に引越しさせられたのであります。しかもこのときには倉庫に使いました千二百坪ばかりの場所もまた接収されてしま
つたのであります。それで結局三千九百坪ばかりの所にみな押し込められてしまいまして、従来以上に非常に不都合な教育をしなければならないような状態にな
つたのであります。そこで何とか校舎に使えるような所を物色いたしまして、とりあえず旧軍
関係の建物を探しまわ
つたのでありますが、みな使用中でありまして、使えそうだと思
つて行
つた所もほとんどだめでありました。そこで次には東京付近の海に面した三万坪から四万坪ぐらいの土地を求めましたが、それらの土地は全然ありません。ただ辛うじて二、三ありましたが、これらはいずれもこれから埋め立てる、あるいはすでに埋め立てられていても、護岸工事が非常にくずれて、バラツクを立てることさえとうてい不可能のような状態にありましたので、これもやむなく断念いたしました。そこで次には民間の建物で破産の宣告を受けて売りに出ているものを物色したのであります。たまたま大森に
一ついい建物がありましたので、それを買収するということになり、当時大蔵省当局、文部省当局の方には非常な御援助を願
つたのでありますが、不幸にして即時に現金を全額拂うことができないで、とうとう競争者の他の全社に買いとられてしま
つたのであります。こういうわけで校舎問題については非常に行き悩んでいたときに、たまたま昨年の夏参議院の文部
委員会並びに
水産委員会の合同
委員会などでこれが問題に取上げられまして、今日のような状態に
なつたものでございます。以上のようなわけで、教育という面のことになりますと非常に遺憾な点がございます。