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川戸証人 承知しました。終戰によりましてこの船が
大蔵省の
所管にな
つたのでありますが、
昭和二十一年の三月二十六日に、第一回
九州地方船舶及び
海運機材処理専門委員会において
関門港運株式会社に配分が決定にな
つたのであります。従いまして、
大蔵省としまして一時
使用の認可をいたしたわけであります。
関門港運株式会社は、
関門港の沈船の
引揚げ、重量荷役等にこれを使
つてお
つたのであります。そうしまして、二十三年の四月十二日に
関門港運が
制限会社に指定されたのであります。そして
昭和二十三年九月一日に——その以前から
関門港運は
返還を準備中でありましたが、二十三年九月一日に米軍が
使用することになりまして、九月一日に、仁川に向けて曳航されて行
つたのであります。それから同じく
昭和二十三年の十二月十日にこの
関門港運株式会社が
閉鎖機関に指定されたのであります。朝鮮から帰
つて来た日にちがちよつと今すぐにわかりませんが、その当時帰
つて来たものと思います。十二月十七日に
関門港運から
福岡財務局にこの船を
返還して来たわけであります。それで
福岡財務局から
日本サルヴエージ門司支店に、現物の
預託だけをその十七日に行
つたわけでありまして、
書類上の決済は翌年二十四年の一月十九日にしております。そうしておりますとき、その三月三十一日に、運輸省第四
港湾建設部から
所管がえの下協議があ
つたのでありますが、四月十三日に大体
意見をきめまして、運輸省四建に
所管がえすることに
本省に協議をなしたのであります。同時に、四建に対して、
所管がえについて当局が異存がないから、
本省と
大蔵省と交渉してくれ、自分の方から
本省に出してやるからという
書類を出したのであります。その後
本省がいろいろ審議をしてお
つたのでありますが、七月四日に、
本省の
係官から、
予算上の観点等から
所管がえはただちにはできないの、一時
使用から
無償貸付の形にすべきであるという事前連絡があ
つたのであります。それで八月の十一日に
無償貸付の上申書を
本省に出しております。それに対して返事が参りました日付はちよつと今すぐ出て参りませんが、九月三十日に四建に対して
国有財産の
無償貸付通知をしております。その
貸付通知書に対しまして、その
條件を全部受諾するという四
建側の
書類が十月二十九日付で私の方に提出にな
つております。そうして、
日サルと四建との現物
引継ぎはその年の十二月二十一日に
行つております。その引継いだという
報告書類の受付を二十三日に私の方がしております。それから、
昭和二十五年の十一月二十六日になりまして、山口県の本山岬沖において触
雷沈没したわけであります。その沈没の
報告が十一月三十日に四建から私の手元に参
つております。それで私の方は一応
報告があ
つたということで、十二月六日
本省に連絡
報告を出しております。それから翌年二十六年の一月二十四日になりまして、門司港湾司令部のキング大佐という司令官から、この
起重機船をくず化処分するというようなうわさがあるけれ
ども、これは
引揚げて、経済的に使うべきじやないかという
文書が参
つております。それで私の方も四建に対しまして、どういう
処理をするつもりか、その
処理方針について照会をいたしたわけであります。四
建側から二月五日になりまして、復旧費の
予算を今
本省に依頼しておる、それから掃海区域外であるのと、その当時冬で悪天候でありますので、すぐに着手ができないかということで、沈没の調査
状況を
報告して参
つております。それから先ほど申し上げました港湾司令官からの照会に対しまして、
財務局側としましても、くず化する意思はなく、それを
引揚げて
使用する方針であるということを答えております。その後七月二十一日になりまして、四
建側にその後の
状況、
処理方針を照会しております。これに対しまして、八月一日に四建から六月十日から七月十一日にかけて掃海をして完了した、作業着手の準備をしておる、八月末ごろまでに完了する予定である、
引揚げ着手したらば連絡するから、こういう
報告があ
つたわけであります。その後
報告がないのでありますが、十二月十七日になりまして、私の方から早急
引揚げ処理をするように、さらに申入れをしておるわけであります。これに対しまして、ちようど
引揚げ準備中のところ、台風によ
つて作業船等が
破損して、今年度中つまり二十七年三月までには作業完成が困難ではないかという、口頭の
報告が参
つております。大体の
経過は以上のようでございます。