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鈴木参考人 私は文村村長の
鈴木仁一郎であります。
小貝川の
下流改修計画が
茨城県の
小貝川総合開発委員会によ
つて審議されてから三年を
経過しておるにかかわらず、いまだ実行に至らない。遂にこの民主的議会であるこの
委員会においてわれわれがその
反対の
意見を述べるの必要を感じたということは、この責任はだれにあるか、われわれは実に遺憾にたえないのであります。もともとこの過去を振り返
つて見ますと、
建設省においてもすこぶるぐらついておることがわかるのであります。この二十五年一月三十日に
局長さんからいただいた書面でございますが、これは二十四年の十月につくられたものと思います。それで見ますと、地建
局長が前の
昭和十年の
洪水によ
つて生じたところの増補
計画、これの一環として立てられた
富永案が、これが十年の間
経過して十六年、二十二年、二十三年の
洪水では、いずれも
計画高水位を突破する出水を見た。それであるから、根本
改修計画を立てなければならない時期が来た。こういうふうにすでに二十四年十月にこういうことを書かれておるのであります。われわれはこのときに不可解な文章だと思
つておりましたが、その次にあるのは秋草勲君が書きました
富永案の
改修計画案が、りつぱに印刷されてあるのであります。実に不可解である。そうして第二
委員会が九月二十一日開かれましたが、このときに佐原の事務所長秋草氏は
富永案路線を
実施する方針のもとに
説明をされた。ずいぶんこれは不可解なことである。のみならず、自由党に属しておるところの小野瀬衆議院
議員、この人が
茨城県の
小貝川総合開発委員会の
委員長を勤めておりますが、この今が第一回
委員会で
委員長となり、九月十日の就任のあいさつが送達されましたが、これを見ますと、
委員会の目的なるものは、
小貝川治水の百年の大計を立てるにあると書いてある。しかし一市五郡を
水害から守る大事業であるから、真に恒久的
対策を皆さんと一緒に樹立しようということで決意を示されたのであります。ところが、その後やはり
富永案が
説明されてある。秋草さんが一生懸命
説明されている前に自由党の小野瀬代議士は
委員会だけで真に恒久的
対策を樹立しようということをや
つておるのでありまして、
総合開発委員会も
建設省の各
局長も、秋草さんが一生懸命にやろうとしたものに対して
反対の機運が見えておるのでありまして、実に不可解千万である。今までの
小貝川総合開発委員会は、
委員長とか副
委員長の橋本登美三郎氏その他
県会議員五名が、
委員とともに恒久的
対策を立てようとりつぱにあいさつ状に述べておるのでありますが、三月十九日の
委員会におきましては、そういう意思を自分から放擲して、つけかえの
実施を推進してもらいたい、つけかえの
路線には
犠牲が小であ
つて改修による
総合的効果が最大なるものを選定してもらいたいということを
建設省にお願いすることを議決したのであります。この要請のもとに、
建設省はただちに鬼怒川の元の河道である下総、常陸国境の線に対して測量を開始しましたが、大宮村の北河原部落において大
反対を受け、妨害を受けて測量もできないでしま
つたのであります。その次に測量したのが背割でありまして、そのときにはもう開始する前に、けさここにお見えになりました
龍ケ崎の出張所長は背割の有力なることを
説明したのでありまして、
北文間村の者が来たときに、腕曲はなはだしく長い
路線がいいのだということを話したのであります。私の方に測量に参りましたのは、
ちようど日曜でありまして、私が百姓の姿でおりましたときに測量に来たので、ここを測量をしてどうするのですかと質問した。私の家は
利根川の
合流点よりわずかに三百三十メートルの所にありまして、かどからすぐ
利根川の
堤防が見えるのですが、あの
堤防をここに持
つて来るのだということを測量の親方のような人が言つた。それから自分の村の押付新田に
行つて、おばあさんがここをはか
つてどうするのかと言つたところが、これはおばあさんの目の黒いうちにはできないのだ、そういうばかなことを言う測量人がそこにお
つたのであります。それでそのように私どもが一番よろしいと思
つておつたところの郡界案、これは元の鬼怒川の流れのあとで、まつすぐでございます。このまつすぐということは
小貝川の水位を下げるのに最も有効であることは、私どもの村に、元
利根川の流れを有するために、私どもの村を貫いたところの新
利根川というのがございますが、これがあまりまつすぐなために、利根の水が枯れて水利の便が悪くな
つたので寛文三年ごろから掘り始めたのでありますが、たつた一年水を通しただけで締め切
つたのであります。その通りにまつすぐにこの
路線をこしらえるということは、かくのごとく顯著なるところの歴史が証明するところである。その当時、寛文年間のこの新
利根川開発のために私どもの村の者は印旛沼の沿岸あるいは現在の布鎌あたりに移住をしておるのでありまして、私の村であるところの上曽根、下曽根、押付、松木、行徳というような部落はなくな
つてしま
つておるのです。その人
たちは何の御利益もなく、むだな移住をされたのですが、かくのごとくまつすぐということはすこぶる
効果があるのでございます。わが
小貝川総合開発委員会の議決したところの、
犠牲が小で
総合的効果が最大ということは、この精神を貫くがためには、今申しました郡界案の方を一とすれば、こちらの背割式の方は一・八の長さでありまして、直径と半円の周囲の長さの
関係になる。こういうふうに
利根川の今度の背割式にぶつかりぶつかり流れる、そうして一・八の長い方を流すのが
小貝川改修の根本目的である水位の低下に最もよろしい線であるか、こんなのはだめな線であるということはだれだ
つて知
つているところである。小野瀬
委員長はここにはお見えになりませんけれども、その子分の秋山高、この人は台湾の警部補をやつた人で、ごろつき
新聞ではないでしようが、いわゆる「
茨城民声」という
新聞の主幹をや
つている。昨年県会に立
つておりましたが、遺憾ながら落ちました。その人が私のところに来た。そこで
委員長として小野瀬代議士が、
犠牲小にして
効果最大なるところの
路線を選ぶことを
決議して陳情しておきながら、このような
効果の少い
路線を選んで、これに対してさらに
検討も加えない、すこぶる不都合な代議士だと秋山高という子分に対して私が言つたところ、いや、そうじやない、小野瀬も
布川の方なんかをまわ
つて、あれでいいのだろうかと
言つているということだつた。かくのごとく
建設政務次官の属する自由党の代議士である小野瀬さんもこの問題に対しては疑問を抱いている。疑問を抱いているなどというのはばかです。これは疑問を抱くまでもありません。このようなものでございますから、はたしてこれに対していかなる
説明ができるか。私は昨年の八月六日、
茨城会館においてやはりこの説に対して
反対の
意見を陳述いたしました。また総合開発
委員長並びにわが
茨城県の首長である
友末知事が、本日やはりこの悪い線をやりたいという意思を表明したことについてはわれわれは崇敬いたしません。かくのごときよしあしを知らぬ、黒白を知らぬような
知事であることをわれわれは今日初めて知
つて驚いたのである。われわれはこれまでまさかそうではないとかたく信じてお
つたのでありますが、今日は実に奇怪なことを承りまして、まことに失望を感じたのでございます。私は数え年九歳にして頭水の
水害を受け、それ以来
昭和十六年まで八回の
水害を受けておるのでありまして、この
水害については痛切に難澁をいたしており、二度と再びこんな
水害などは受けたくないのでございます。でありますからこの利水問題については水戸あたりにいる
知事などよりも、最も真剣に考えている人間であります。われわれは
小貝川の
堤防決壊はいやですから、ここにおられます土田さんと同じように
小貝川の水位をできるだけ低下させてもらいたいというのがわれわれの懇願でございます。前の佐原の事務所長であつた秋草さんの時分に
建設省からいただいた
文書を見ましても、一尺でも一寸でもよけいに
小貝川の水位を低下させたい、こううた
つてございます。実にこの通りでございまして、一寸でもよけいに、最大限度に
小貝川の水を低下するところの
路線を選んでもら
つて、それを即刻
実施していただきたいというのが私の念願であります。以下
建設省が昨年発行されました
改修に関する
理由について、若干の所感を開陳することをお許し願いたいと思います。
建設省が昨年七月十二日に私どもに発表した
小貝川合流点付替に関する
文書でございます。それはもちろん
布川と布佐の
狭窄部が普通の川幅の半分しかない。そこのところが水を制約することになりますから、その
上流は、先ほど龍ヶ崎の
町長さんもるるお述べになりましたように、水位が上
つているところに
小貝川の河口がございますので
逆流するのであります。
逆流するから、
利根川のその
付近の
堤防は一時安泰でございます。そして付替の
理由を見ますと、必ず合流して
逆流するから切れる、こういうような書き方でございますが、これはまことによろしくない書き方でございます。これは寛永七年に伊奈伴十郎によ
つて、三百二十二年前でありますが、天理にそむいて
小貝川が当時常陸川と言われたただいまの
利根川と合流された当時より、
洪水のたびごとに
逆流したものに相違ない。
逆流する水はいつごろ来たか知りませんが、ずつと前から
逆流いたしておりました。それで今から約二百十年前の寛保二年以来——代議士先生のところに
茨城県から配付してあります
水害略史を見ますとそれがありますが、私らの方が正しいのです。それは
小貝川が、寛保二年以来明治四十三年まで十一回
決壊しているのであります。
利根川は十七回
決壊している。かくのごとくどちらかが
決壊する。
利根川も
決壊をしております。それが
利根川の
改修計画以来
昭和十年——この
昭和十年のときなども、そこの新しく築堤しておつたところが沈下していたのを、知らないでおつたから
決壊したのであります。あれが陷没していなかつたならば、切れなかつたかもしれません。その当時
利根川と
小貝川の
改修をやりましたが、それ以来
利根川の
堤防はりつぱであつた。
小貝川の
堤防は、先ほど
知事さんもかみ
そり堤防と申された通り、
利根川の
工事に比べると貧弱な
堤防でありましたので、
逆流すると切れてしまうのであります。この
堤防が利根の
堤防と同一なる力を持
つているものならば、切れるはずはありません。弱いから切れたのであります。
建設省の
方々は、
逆流するから切れると簡単に書いてありますが、こういう書き方は作文としては落第です。人をばかにしたものです。知らない人であればいいけれども、その
現地にある人に対してはよろしくない書き方であり、良心のないところの書き方といわなければなりません。その次に
路線の選定に関する
理由書でございますが、この
理由書によりますと——先だ
つて松本委員長が私どものところにお見えになりましたときにも所感を述べましたごとく、この富永博士の書きました
路線なるものは、二十二年以来の異常なる
利根川の大出水のために不適当に
なつたから、これから新たに改訂
計画を立つるに及んで、
検討を加えて、そうしてこの異常なる大出水に適当するような必要な
路線を選んだというのであります。およそ富永博士が立てたところの
計画なるものは、その当時の
昭和十年における
洪水をもととして
小貝川の水位をはか
つて、そしてどのくらいのところに
合流点を求めたらいいかということで立てたところの
計画であります。それが二十二年以来の異常なる大出水となりましてからは、その
計画が不適当であるのは当然であります。それが適当するのにはどうするかというならば、
小貝川の水位を
昭和十年に富永博士が立てた
計画通りにするためには、利根の水位が高く
なつたならば、ずつと
下流に
合流点を持
つて来るのが当然である。二十二年以来の大出水に適応するためには、
合流点をずつと
下流に持
つて来るのがほんとうの良心のある、誠意のある、
技術者でなくても常識ある人が立つべき案であります。しかるに富永博士案と同じところの東文間村の加納新田というところに
合流点を持
つて来た。それで驚くなかれ富永博士案よりも四・六キロメートル、すなわち一里以上の長い線が、
利根川の異常なる大出水に適当なる線であるというのでございます。これは
技術者でない何人にもわからない話であります。
建設省の
技術者一人にだけわかる話でありまして、私どもにはまつたくわからない話で、こういう不都合なる案はよろしくない、こう感ずるのであります。この書き方では、われわれには
技術者の頭がわからないのである。このように
合流点が同じで、そして
富永案よりも四・六キロメートル、一里以上も長くしたならば、これが利根の異常出水に適当した
路線である、こういうのでありますから、これは人を食うにもほどがある考え方であります。さらに選定の
理由をあげております。その
一つは土工並びに附帶事業が少い、こういうことを書いてありますが、こういうのでは
犠牲が少いとか、
改修による
効果が大きいというようなこととは全然無
関係なのでありまして、われわれの見るところではこういう
理由は何もならぬ話でありまして、これは
予算が少くて済むという証明にすぎないのであります。