○
北村参考人 このたびかかる権威ある
会議に呼ばれまして、
皆さんに
マヌスの
状況を御説明申し上げる機会を與えられましたことを、実にありがたく思
つております。こういうことを
マヌスにおります連中が聞きましたら、私以上にもつと喜ぶだろうと
思います。
実は私は、昭和二十一年に一旦復員いたしまして、昭和二十三年の四月に容疑者としまして、巣鴨に入れられ、二十五年に
マヌス島に送られ、そこで二年の刑を受けまして、四月の五日に
内地に帰
つて来たものでございます。その際に一番感じましたことは、
向うにおりますと、戰犯として帰
つて来て、一般の人はどういうような目でわれわれを見るだろうかと非常に
心配してお
つたのでありますが、四日市に着きましてからも、その後も一般の
方々の同情と理解あふれるあたたかい
気持で迎えられたことを非常に感謝しております。またそういうことが逐次
マヌスに伝わりまして、
マヌスの連中も日一日とその
気持の上で楽にな
つておるように思われます。最近特に新聞その他において戰犯問題が取上げられておるようであります。これもみな、
国民の
皆さん方が戰犯に対する
考え方がかわられまして、われわれに同情ある理解を持たれるようにな
つたおかげであると思
つております。
現在
向うに
残つております戰犯は総計二百六名でありまして、そのうち六十六名は台湾出身者であります。二百六名のうち、私と同じように
マヌスで裁判を受けた者は五十数名、そのほかの百五十名
程度の者は、
終戰直後あの異常なる心理状態のもとにボルネオ、モロタイ、ラバウル等において戰犯裁判にかけられ、収容され、今日に至
つておる者でありまして、その後各地の者はラバウルに集結せられ、昭和二十四年の一月から三月ごろにわた
つてマヌス島に移
つて来たのであります。
マヌス島では目下濠州の海軍の管理下にありまして、私は巣鴨にもおりましたけれ
ども、特に嚴重なる規則のもとに管理されております。刑期について申しますと、二百六名のうち十年の刑の者が六十四名、十年以上の有期の刑の者が九十三名、無期の者が二十三名、十年以上無期までの者は、合計百十六名という多数に上
つております。現在死刑囚はおりません。濠州におりまして死刑にされた数は、香港を除きまして、モロタイ、ラパウルにおいて百十三名、
マヌスにおいて昨年の六月に五名処刑されまして、百十七名とな
つております。
御存じでありましようが、
マヌスという土地はほとんど赤道直下にございまして、気候は年柄年中
日本の真夏以上の暑さでございます。乾季と雨季との区別もあまり
はつきりしておりませんし、また日中でございますと、部屋の温度は大体九十度以上
——九十六度まで行
つたことを私は覚えております。戸外の温度と申しましたら百二、三十度以上になるのではないかと
思います。しかも土地はリーフで、白つぽい砂がございまして、そこに立
つておるだけでも目がくらくらするようなときがしばしばでございます。原住民はほとんどおりませんで、収容所を警備するために濠州が持
つております土人の巡査と、それから濠州の海軍の軍人が数百人おるだけでございます。もともと
マヌス島は、戰時中は
日本が占領しておりまして、それにアメリカが上陸しまして、そこの
日本人は大体二箇大隊くらいと聞いておりますが、ほとんど殲滅されまして、アメリカはフイリピン攻略にその基地として
マヌスを使
つたのでありまするが、そのときに若干の道路、それから重油タンク、あるいは港湾施設、あるいは居住施設というようなものをあの地に残して置きまして、それを濠州が引継ぎまして、目下海軍の基地を建設しておるのでございます。そこで
日本人は強制労働を受けておるのでありまするが、基地の建設に当
つては、非常に
日本人の労働力というものは高く評価されておるように思われます。大体無償でありますから、ただより安いものはないというわけであります。また技術的な面におきましても、非常にすぐれておるという点が買われまして、
現地当局としては、なるべく
日本人をただで使いたいというふうな
気持があるのではないかと察せられるのであります。
そこにおります二百六名の
日本人の食糧というようなものにつきましては、すでに雑誌などにも出たと
思いまするが、主食は米でありまするが、米とそれからビスケットのような乾パン、それからメリケン粉が少量というのが主食であります。米は一日二合三勺くらいでありまして、石油カンの中に入
つた熱を加えた米であります。ほとんど玄米
程度にしかついてはおりません。そうしてその中にもみが非常に多いというようなこともありまして、食べても非常にまずく、私が
内地に帰
つて来て一番感じたことは、お米がおいしか
つたということであります。副食物としましては、もつぱらカン詰のコーンビーフであります。朝から晩までコーンビーフなのです。そのほかにトマトとか、にんじんとか、そういう野菜のカン詰などがございます。また元大将の今村さんなどが農園をつく
つております。老人だけ十二、三名で農園をつく
つて、生野菜の補給をしておるのでありまするが、それも土地が悪いせいもありますし、労働力も足りないという点もありますし、またたくさんつくり過ぎますると、一々目方をはか
つておりまして、配給の方から減らすというようなことがあるものですから、あまり多くもつくれない。そうかとい
つて野菜は足りないというような
状況であります。肥料な
どもありませんし、しよつちう連作々々でや
つておりますから、いいものは
一つもつくれないのであります。その食糧全体としましては、カロリーには不足はない。また脚気患者も、私のいる間にはほとんどそれらしいものはありませんでした。しかし潜在的に、そういう熱帶地におるということのために、また食事が今言いましたように非常に單調でありまして、どのように調理しましても、口に合うというような調理はむずかしいのでありまして、そのために食欲がないという点で、決して満足すべきものではないと
思います。現に体重などにいたしましても、漸次低下しておりまして、ラバウル時代に比べまして、平均三キロか四キロ
程度減
つております。それに関連しまして、私が
マヌスに着きまして、未決の監房に入れられ、そうして既決の連中が外を通るのを見まして、何て色が黒いのだろう、目がぎよろぎよろしておる。太
つているやつは一人もいないじやないか、これではたまらぬ。この暑いのに働かされたのではとてもたまらぬ、というような感じを受けました。まあ
自分も中に入
つてや
つてみますと、体重なんかも減りまして、つらいに
はつらいにしましても、しかしどうやら務めを果すことができました。
そのほかに、通信としましては、月に一回の、濠州の赤十字で出します戰犯用のはがき、それから六週間に一ぺんの封書
——封書も全罫紙一枚だけに限られておりまして、そういうものが発信ができます。受取る方は一月に一回でございまして、
内地の
家族の方が何通書かれようとも、われわれが受取りますのは、
家族の者から一通ということにな
つております。そのために、通信の時間も、往復するのに半年以上かかるというような
状況でありまして、
向うにおります者が一番
心配しますのは
家族のことでございます。
家族から手紙が来て無事だということを聞きますときが、一番うれしいと思うのであります。そのほかにラジオがございまして、収容所の外側の
事務所の窓からそれをや
つておりまして、そのわきの柵のところまでみな集まりまして、夜の七時から七時十五分までのニュースを聞いております。空中状態が悪いと、ほとんど聞けないときもございますが、これが唯一の
内地の直接のたよりでございます。そうしてみなそのラジオを聞くたびに、きようは戰犯についてのニュースがあ
つたかなか
つたかということだけというわけではございませんが、世界の情勢とか、そういうことのほかに、特に戰犯についての放題がなか
つたかということを気にしております。巣鴨は仮釈放されたというようなニュースがございますと、巣鴨のことについて、それはよか
つたという反面、われわれはどうなるだろうというような
気持を持つのであります。
そのほかに娯楽としましては、碁、将棋、あるいはマージヤンというようなものがもつぱら行われております。ピンポンとかバレー、それから野球の道具等もそろ
つてございます。これらは、ほとんど日赤を通じまして皆様から贈られた品物でございます。最近では、そういうベースボールとか、あるいはバレーというような屋外のスポーツのようなものは、どういうわけでありますか、国体的にも疲れるということもありましようが、そのほかに精神的に非常に参
つて来ておるということのために、あまり以前ほど行われておりません。みな帰
つて来ると、そのまま宿合に寢ころんで、雑談をする、そういうことにな
つております。
一般的に申しますと、健康状態というものは、先ほど申し上げましたように、体重は減少しており、労働に耐え得る最低の状態とい
つてもいいのではないかと思
つております。そのほか患者といたしましては、大体二百人おりまして、五十名くらいがその一般の患者の部類に入るわけでございます。その中で
——患者と申しましても、いろいろな作業別にわけられておりまして、軽作業をなす者、
自分の宿舎で寢ておる者、重い者は入室する者というふうにわけられておりますが、そういうものを集めまして、大体五十人くらいが、常時患者としてリストに上
つておるわけであります。
向うの病気といたしましては、一番多いのはやはり下痢とか、かぜ引きでございまして、そのほかに十二指腸虫病が多いとか、あるいは腎臓結石が多いということ、また神経痛が非常にある。そのほかに、結核患者がしばしば出まて、私のおる間に六名が
内地還送にな
つております。この結核になりまして
内地に帰るということは、非常に
思いやりがあるといえばあるようなものでございますが、なかなか申請いたしましてから、すぐ許可になるかどうかということはわかりません。ある一例のごときは、非常な喀血をした、すぐ
内地に帰してくれ、ここにお
つたのでは十分な養生ができないから
内地に帰してくれということを申請しましてから、ほとんで一年
たちましてようやく許可になりましたが、それな
ども、その間途中に二回も大きな喀血をしまして、病状が相当進んだということもございます。また最近の話によりますと、結核で帰した連中がよくな
つたら、巣鴨に入れろというような通知があ
つたとかいう話を私聞いております。
それからまた全体といたしまして、精神的な面において一番悩んでおるということが申し上げられると
思います。というのは、以前からでございますが、特に九月の
講和條約の調印というようなときには、われわれについても何かいい知らせばないものだろうかということを非常に期待してお
つたのであります。ところがそれも何にもございませんし、また今度の批准ということにな
つても、非常にみな期待してお
つた。今度の批准のときこそは、濠州戰犯について帰すなり、あるいは帰さぬなりというふうな、何か決定がされるのではないかということを心待ちしてお
つたのであります。私は四月の五日に帰
つて参りました。それ以後のことでございますから、
向うの連中はどうでございますか、おそらく非常な失望落胆をしておるのではないかと
思います。いろいろな
向うの規則の中で、熱帯地において長い間拘禁
生活、労働
生活をしてお
つての唯一の
希望、それをささえるものといたしましては、
内地に帰るということだけでございます。
そのほか巣鴨の例と比較しますと、巣鴨の方では減刑制度が比較的完備しておる現在どうですか、従来いろいろなことが言われております。少くともアメリカがや
つているときには、善時制度というか、仮釈放制度というようなものがありまして、どんどん出てお
つた。ところが
マヌスにおきましては、昨年の十二月にそういう一部減刑、非常にわずかな率の減刑があ
つた。そういう制度が実施されただけでございまして、仮釈放制度というようなものはてんで望まれないのでございます。それから減刑の率も、十年について申し上げますと、鴨では三分の一減刑されます。ところが
マヌスにおきましては、それが四分の一、五年以上は四分の一しか減刑されない。無期の刑は三十年しなければ釈放されないというふうに規定されております。そういうふうに、巣鴨に比べまして、本質的な刑の減刑制度においてすでに差別があるというようなこと。また非常に規則が厳重であるというようなこと。それからまたフイリピンにおきましては、所長だとか、そこにおります教講師、大僧正の方が非常に理解をされておるというふうなことを聞きましたが、
マヌスにおきましては、この点は話をしていいかどうかわかりませんが、すべて
向うの人々は規則を守るということたけをモットーにしておるように私には感ぜられたのであります。現在濠州の海軍におります従軍牧師が、一週間に一度来て英語でしやべ
つております。しかしそれも聖書の講義だけでございまして、そのほかに修養になるような話などはありません。特に
日本人の味方にな
つてわれわれを
考えてくれるというあたたかい
気持を感ずることができないというのが、彼らの不幸な一面であると
思います。修養の施設といたしましても、いろいろな本も若干あります。しかしそれにも増しで必要だと思われることは、彼らの
気持をやわらげるというふうなことではないかと
思います。元の今村大将がそういう点についていろいろ教えておられますが、しかしなかなか感服というか、その
気持になれない。こういう長い拘禁
生活、あるいは熱帶地における労働というようなことから、これも無理のないことではないかと思うのであります。
この際もう一言お願いしたいと
思いますのは、台湾人の問題であります。六十六名の台湾の青年がおります。みんな若い連中ばかりでありまして、初のクチンの捕虜収容所の
監視でお
つたのであります。それが
日本の戰犯者として処罰されまして現在に至
つておりますが、この問題については、すでに講和
会議ができまして、台湾人というのは
日本人ではないと
思います。何かそこに手を打つことができるのではないか、
向うにおります連中にいたしましても、われわれは二番目でもいい、ぜひ台湾の人々を早く帰してや
つてくれ、そういうふうに
日本政府、あるいは台湾の政府が濠州に掛け合
つてもらえぬかということを要望しておるのであります。それから今
向うにおる連中も、やはり出征以来十四年になる人もあります。十年以上の人が大部分でありますが、家のことを非常に
心配しております。しかも通信が不自由でございますので、半ばあきらめるというような、また投げやりにするという
気持も生じておりますが、
家族のことについては特に
心配しております。私が帰
つて参りましても、
向うの
方々のたのみというのは、
家族に会
つて、無事でや
つているか、そういうことだけを伝えてくれというわけでございます。帰
つて参りまして
家族の方に会いますと、中には
子供に学校をやめさせなければならない、あるいは
自分自身が胸が悪いのに勤めに出なければならない、そういうような気の毒な家庭にいつも接しております。この点につきましては、各方面の御同情ある御理解によりまして着々と成果が上
つていることを内心喜んでおります。
これをも
つて終ります。