○
神保参考人 私先般
フイリピンに参りましたが、
日本人として
個人として、初めて行
つたような
関係であります。そこで今日の議題にあります
フィリピン在留日本人の
状況を
お話します前に、御
理解になる
前提としまして
フィリピンの
情勢を
簡單に申し上げたいと思います。
私が行きました
目的は、
ロハス元
大統領夫人並びに
キリノ
大統領の招請で、お墓参りということと、それともう
一つは、
ロハス氏の物語りを書くので、
資料編纂というのが
目的でありまして、その間に
皆さんとお会いして旧情をあたためるという人道的な
目的であ
つたのであります。ところが御
承知のように
フイリピンに入国するということは、今非常にむつかしいのであります。これは
あとで説明申し上げますが、何といいますか、一種の
鎖国政策のようなものではないかと思うのです。それで嚴密な
委員会がありまして、資格を吟味いたしまして、やはりなかなか入れないようです。そうして閣議で決定するようです。そういう
関係ですから、よく
フイリピンの
情勢がわからずにわれわれお
つたのですが、行くようになりまして、一月の中ころに
ルパング島に
日本兵が四、五名
残つておるということが確認されたわけです。それから
ミンドロ島、
ミンダナオ島及び
ルソン島にも
残つておるという
情報がだんだんと私の心によみがえりまして、
残留日本人の
様子を調べて来たわけであります。
フィリピンに行きまして気のつきますことが二つあります。それは
フィリピンの対
日感情が予想以上に悪いということです。これは端的に
言つていいか悪いかわかりませんが、実際に悪いです。われわれは非常に甘く
考えまして、
政治家のある程度の
政策土の問題だろうと思いましたが、実際に悪いです。たとえばパーティをや
つたり、あるいはレストランなんかに行きましてボーイや何か、
日本人だとわかれば必ず言います。私のおやじが殺されたの、兄弟が殺されたの、家が焼かれた。これは
戦争中
日本人がや
つた。
日本人ジヤツプジャツプと今でも言います。それからたとえば
自動車に乗
つて、
日本人だとわかれば、
運転手が言いますし、宴会などで女、ばあさんは、まだなかなか敵愾心が
残つております。この
民族感情が、このように熾烈にずつと根強くありますので、
フィリピンの
政治家としましても、この
民族感情の上に外交、
政治をとらざるを得ないのだろうと思います。決して
日本だけに
排日をやるというわけでもないと思います。これはまた歴史的に
考えましても、
ちようどフィリピンは
建国早々日が浅いのでありまして、完全に独立しましてから五年か六年です。そうすると明治維新のようなものです。
日本は
建国早々
尊皇攘夷から発達しまして、それが
世界の
情勢によ
つてだんだん開国、進取、経済、
貿易と進んで行
つたわけでありまして、初めはやはりどの
国家においても、
民族の
内部団結をはかるために、どうしても
対外強硬政策をとるのだろうと思います。私はそういうように大まかに同情して見て来ましたが、確かに一般に悪いということは、
前提にしなければならぬと思います。そこで現在の
日比の
関係におきましては、やはり賠償問題が懸案にな
つておりますので、
向うではやはり
はつきり非常に不安を持
つておるようです。そうしてまた一面に、
日本が強く出れば、
フィリピンも強く出ようというような
考えがあるのではないかと思います。私は
政治の問題はよくわかりませんが、そこでこれはどうしても対
日感情が悪いということを
前提に置いて、
海外同
胞引揚げといういろいろの
政策も、
交渉も進めて行かねばならぬと思います。
それから
フィリピンで気つきますことは、たとえば
マニラの町のまん中にフオート・サンチャゴという
要塞があります。昔
スペイン時代の
要塞です。そこなどにガイド、歩哨が案内してくれますが、そうするとやはり
日本が占領当時
——終戦のときだと思いますが、
昭和二十年ごろ、
憲兵隊に留置した者を拷問をや
つた部屋とか、虐殺をや
つた部屋をそのまま歴然と残しておぐのです。そうして五百メートルぐらいの広い
牢屋ですが、穴が掘
つてありまして、ここでつるし上げて、
日本人が
フイリピン人を殺してそうしてここへ
死骸を積んでここに埋めた。そのお墓はここなんだとよく説明します。そうしてやはり昔の残虐的なところを
日本人に
理解させようとするわけです。また半面に、山の中にお
つたゲリラも、これもやはり
フィリピンでは抗日の英雄というようなぐあいにな
つておりますので、やはり初めは抗
目的な
政策をと
つたのだろうと思います。その薬があまりきき過ぎて、現在のようにな
つたのではないかと思います。そこで
日比の
関係が、われわれが
考えるように、いくさが
終つてお互いに
理解の手を差延べておるという
状況でないということを
前提にして研究されることを希望いたします。
それからそういう対
日感情と、もう
一つの問題は、
フイリピンのあちこちをまわりまして気づくことは、
治安が非常にいいということです。これは
復員省あたりでも調べておりましようが、フクバラハップの共産党がありまして、それが中共と手を握
つてはおりますけれども、それも昨年の初めごろから
国防軍の
討伐が徹底しましたので、逐次山の中に追いやりまして、
一般農村は
治安がいいようです。いろいろの家庭産業的なものも復興しましたし、それから元来
平和愛好の
国民ですから、のんきに日を暮すというような
関係で、そういろいろ犯罪もないし、また
軍隊も少いながら
近代装備の
軍隊が配置してありまして、
討伐なんかも熱心にや
つておりますので、ぼくは
治安が非常にいいのだということに気づきました。
従つてフィリピンが共産化して行くというようなことはまあないということも、私は自信を持
つて考えて来ました。その反面に、今の
排日感情が強いということです。
そこで、
モーンテンルパの
牢屋に半日ほど二へん行きまして、
皆さんと
会つてよく懇談しました。また
国防軍の
マグサイサイ大臣や
首脳部と
一緒にあつちこつち見まして、それからまた
飛行機で
ルバングの上なんかも偵察しましたが、
日本人の
状況を、私の知
つている範囲を申し上げようと思います。
フィリピンに
残つておる
日本人がどういうものかということは、これは大
東亜戦争で
日本が
海外に何百万という
将兵をばらまいて、その跡始末ですから、各地に
日本の
将兵、
日本人が
残つておるわけです。その
一つの、何といいますか無形的な意味で
フィリピンの
日本人を研究したいと思うのです。その数ですが、数は、大体において
フイリピンでなくな
つた英霊は大きく四十七万と押えております。これはマッカーサーの方でもまた
日本の
復員省の方でもそのようです。この四十七万の
英霊が海没し、あるいは飢餓で死んだわけなのですから、その
家族の数が、その五倍としましても三百万や五百万おるわけなんですから、これがまた大きなもので、
フィリピンについての関心というものは
日本人に未来永劫に残るものだろうと思います。そこで、
残つておる人ですが、これをいろいろ調査してみますと、
ルバング島
あたりにせいぜい五名くらいだと思います。それから
ミンドロ島というのがありますが、ここは
ジャングルのひどい山の中で、マラリアの多い所で、
ちよつと住めない。住めないということは、何といいますか、町のない所ですが、その付近で
軍艦武蔵が沈没して、その海軍の
将兵もその島にのがれ込んでいますし、
ルソン島からも逃げて
ミンドロ島に隠れております。また
ミンドロ島内に約二
箇中隊の兵が警備しておりましたが、それも
憲兵や何かの
様子を調べますと、やはり
残つておるようです。そこで
ミンドロ島に大体私は約三百名ぐらいおるのではないかと思います。これは百名ないし三百名とお
考え願えばいいのです。それから
セブ島、レイテ、その辺にも合せまして五十名ぐらいおるようです。
セブ島が十名ぐらい、
レイテ島が三十名ぐらいではないかと思います。それから南の方に
ミンダナオ島という、
ちようど日本の北海道と同じぐらいの大きさの島がありまして、昔
日本が
ダバオ麻を開拓したなごりの場所があるのですが、この
ミンダナオ島には敵が上陸しなか
つたので、ここにお
つた者は一中豫とか一中隊とか団体を組んで、士族の酋長などを連れて、
アボ山という山の中にどんどん入
つて行つたというのです。いろいろ私のところに
情報を持
つて来る者は、千名お
つたとか、二千名お
つたと言いますが、現在はせいぜい二、三百名ぐらいではないかと思います。それが
アボ山という山のふもとにいるというようにな
つております。これから
パラワン島という島がずつと
西南方にありますが、そこにも十二名ほどいる。その
パラワン島の十二名が、何か別の島に上陸して来て土人とぶつか
つたとか、殺されたという話がありましたが、そのようなことで、大体大きく押えまして、
フィリピンには四百名か五百名ぐらいが確実なところいるだろうと思
つておりました。
想像といいますか、生存し得る数としては千名も二千名もお
つたのでありますが、確実なところでは四、五百名と大きく押えております。そこでこれの発表ですが、
フィリピン国防軍の方ではせいぜい百名ぐらいに発表しておるようです。これも理由のあることでありまして、
フィリピン軍の面目にも関しますし、またソ連の
引揚げに関するいろいろの言質を與える
関係もありますので、最小限になります。また
フィリピンの
軍隊が山の中に入
つて討伐いたしましても、
日本の敗残した
ゲリラの
人々をつかまえることはできないだろうと思います。これはわれわれが昔戦闘をや
つておりましても、
ゲリラをつかまえること、
討伐ということは非常に苦労が多くて、むだの多いものであります。片方では
鬼熊のように山の中をかけまわ
つて逃げて行くのですから、なかなかむずかしいものです。この間行きまして、
国防軍の将校に
会つて聞きましても、やはり各
守備隊が、あすこに
日本兵が現われたとか、この
部落に
日本人が来て殺戮したからというので
討伐に行くらしいのです。また
情報を集めまして、この
部落に
日本兵が三十名お
つて、今何か食事をしておるからというような
ニュースがあるので、至急出動するらしいのですが、行
つてみるといつでも
日本兵はいないと
言つておりました。片一方は命がけで逃げておるのですから、それが実際だろうと思うのです。それで大体の数は、
フィリピンに五百名ぐらいがおるというのは間違いないと思
つております。そこで
ルパング島の
日本の人が帰
つて来ましたり、また
戦犯でお
つた人の話を聞きますと、
戰犯でお
つた人は、やはり
ゲリラで
残つてお
つて戰犯にな
つた人ですが、そういう人の話を聞きますと、どういう気持で残るかというと、やはり
終戰のこんとんたる
時代に山に入
つた人は、依然として
日本は戦いに負けないのだ。
山下大将が迎えに来るという
考えを持
つておる人がいるのです。これはまことにけなげなものですが、それで
がんばつておるのです。その次は、大体どうも負けたらしいが、これから山の中から
部落に
行つて警察隊に投ずれば、もちろん
戦犯に
ひつぱられるだろうし、殺されるだろう。それよりは
講和條約締結まで待
つてお
つた方がよいではないかという、
生命の安全というようなことから
残つておる人もあるようです。それからその次は
タゴボ族とか、ビサや族などと
一緒に山の中の
部落に入
つておる人は、
終戦後約十年近くた
つておりますから、ある程度
家庭生活を営んで安定しておるのではないかと思います。これは
想像ですが、いろいろ
情報を調べますと、子供とか女を連れて山の中におると
フィリピン人が言いますから、そうすると、
人間至るところ青山ありで、やはり
ジャングルの中もよい、そういう間に平和な
国民になるのではないかとも思われます。
そこで大体五百名の
日本人をどうするかという問題ですが、出発前に私のところにも、いろいろ
手紙なり、
慰問品、
医療品のようなもの、それから投降するものを託されまして、荷物になりましたので船で送
つておいたのですが、そうして
モーンテンルパとか、そういうところに届けるものは届け終
つてしま
つたのです。たとえば、私の夫が
レイテ島でなくな
つたから、
レイテ島に
行つて手紙を埋めてくれとか、あるいは
北部ルソンで戦死しておるから、そこにある土を持
つて来てくれとか、あるいは
ミンダナオのどこでなくな
つたはずであるから、その
死骸を探して来てくれとか、それから室中から紙をまいてくれ、水をまいてくれ、そういうことを依頼されるのですが、これはまことに情においては切々たるもので、
人間のとうとい
感情でありますが、これは冒頭に申し上げましたように、
フィリピンの対
日感情と、
治安の
状況をまだ御
理解にならぬからだろうと思います。大体において
マニラの町も、
日本人であるということがわか
つたならばめんどうです。いわんや、そこから外に出るということは、
日本人としてはきわめて危険で、だれも
行つた者はない。いわんや
レイテ島、
北部ルソン島なんかの古職場にはとても行けません。それからまた
日本人の
無名戰士の墓というものもありません。
山下、本間さんのお墓も掘られて
内地に運ばれておるという話です。曹洞宗の管長さんからも、
日本の仏教徒のために、
経文のりつぱなのを届けられて、これを
マニラの町に埋めて、そうして四十七万の
英霊のかわりに
マニラの土を持
つて来てくれという話もありましたが、それをいろいろ
外務軍や
マニラの
市長と相談してみますと、やはり
感情としては、まるで受付けないのです。まだそういうことをやるほどに
目比の
空気が溶け合
つておりません。もしそういうことを作為的にや
つた場合には、
フィリピン人は墓を掘り返したり、墓地をこわしたりするという危険があるから、それはしばらく時期を待
つてくれというのであります。今その問題につきまして、
マニラの
市長と
交渉しております。そういう戰死者の遺骨の問題、お墓の問題、あるいはお
経文を埋めるとか、そういうことは、まだ
日本がそれをやり得るまでに、
日比の
関係というものは溶け合
つておらないと私は思います。これはこれからの
政治の
空気ができ上
つてからできることでありますので、今そういういろいろの行事を催すことはかえ
つて逆効果が起ると思います。たとえばせつかくお人形を送
つてや
つても、
向うでは受付けない。ことに女の人が受付けないようでした。それからいろいろの誠意も、自分だけのひとりよがりでありますと、
向うの方はその
空気にな
つておりませんから、そこがまあ
交渉の大切な点だと思います。
そこで五百名くらいの
日本の残存しておる
人々をどうするかという問題ですが、これを
皆さんにお聞きしたいというので、一応帰
つて来たのであります。これはどうしても私らのような
個人の力、あるいは
家族の力ではとてもできないものであります。第一そういう
空気が今、
日比の間にでき上
つておりませんから、そこでまず第一の問題は、
日比の間に
敗残日本兵を返す
空気をつくることです。そうしますととどうしても起
つて来ますことは、
日比の
空気を好転させることです。賠償の問題が現在のようでありますと、まだまだ敵、
味方の
様子にな
つておりますし、それからまた
フィリピンの
民族感情を直すために、そうよい近道があるというわけでもないだろうと思います。これはどうしても相当の時間をかけ、
日本が堅忍持久して
フィリピン人を啓発的に
指導して行く、
世界の
情勢を教えて行くという非常な大局的な
立場をと
つてフィリピンに臨まなければいけないと思います。それにはまず
政府の問題が主になると思います。しかし
政府の問題は、
民主国家ですから、どうしても
議会の
人々の力というものが
フィリピン人に作用が大きいようです。御
承知のように
フィリピンは
議会が第一義ですから、
日本の
議会でも
引揚委員会の
人々が、
日本の
戰犯の
引揚げ、それから
敗残兵の
引揚げや、懇願のことについて非常に努力しておられるということはよく
皆さん御了解にな
つております。
ちよつと話はわきにそれますが、
モーンテンルパに行きましたときは、みんな
議会の
人々、
家族の
人々、それから愛の
運動というようなことにつきまして、現在において最大の努力をわれわれ祖国から受けておるというように感謝しておりました。そこで
議会が第一線に立
つてやはりこの
引揚げ運動をや
つてもらわなければならぬのではないかと思います。そこでどうするかとなると、私それから
あとはわからなくなるのですが、やはり
委員長やあるいは衆議院の議長さん
あたりから
フィリピンの国防大臣なり、
キリノ
大統領などに、形式を離れた実情の
手紙を
個人としてお
出しになるのがよいのではないかと思います。そうするとこれは
人種や
敵味方を離れて、
人間の愛情というものが通じますから、
個人の
立場ですと
議会の法規にも
関係ないと思うのです。そういうのでまずメッセージなり嘆願をする、その次には今からだんだん
準備をしまして、
引揚げ同胞の
委員のようなものをおつくりにな
つて、これを
政府の
指導のもとに
フィリピンに送られたらよいのではないかと思います。それには
援護庁あたりが主になりますが、そうして呼びかける、それには三月くらい正確なところを調査研究された方が私はよいと思います。その間にだんだん
日比の
情勢も進みますから、三月くらいの余裕を置いて
準備しまして、とりあえず
帰順工作班というようなものをお
出しになるのがよいのではないかと思います。そうして結局こうなればもう山の下におりて来る、
フィリピンの
治安がよくな
つて日本の人も殺されない、また
生命も安全に
日本に帰れるということが保障されればおりて来ると思います。
日比の
関係が、
貿易でもよくな
つて日本人があつちこつちに現われると、自然に山の中の人はおりて来るようになりますから、やはり国交をよくして
空気を直し、その間三月、四月そういう
準備をして、それから
帰順工作班というようなものを
援護庁あたりがお
出しになればよいのではないかと思います。それから、そういうことをだんだん進めます場合に、
フィリピンの
政府の対
日感情ですが、これは民衆の
感情と
ちよつと違いまして、
政府の
指導者は、
世界の
情勢を十分
理解しておりますので協力します。私が
エリサルデ外相とか
キリノ
大統領などと
会つて、
残存日本兵のことをお願いしたときにも、
はつきり
言つて、
大統領はまだ五百名もおるというようなことは信じませんでした。これはやはり
フィリピンの
指導者としては、
ちよつと
考えられないのでしよう。まあ百名ぐらいおるのではないかと
言つておりましたが、表向きは
フィリピンには一人もいないことにな
つておるのです。それで今
フィリピンの中にいる
人々は、
生命なり何なりは保障するから武器を捨てておりて来い、そういうぐあいに
指導してくれ、
フィリピン政府はそれを保障しますと言う。それからおりて来たならば
日本に返しますと
言つておりましたし、また山の中に
残つて平和な
人種とな
つておるならば、そういうのは移民としてわれわれも将来認めるようになりましようということを
はつきり
言つておりましたし、それから
国防軍の
人々も、忙しいときにも、ただ四名か五名の兵隊のために
飛行機とか
自動車を
出してくれましたり、またいろいろのことにより協力してくれます。それですから
日本に対する世話といいますか、盡力をしましようという
向うの
受入れ態勢は十分ありますので、それは非常に感謝していいだろうと思うのです。そういう
受入れ態勢ですから、こちらの方が
意思表示をしまして、そうして
向うにだんだん手を伸ばして行くことがいいのではないかと思います。最後に
ちよつと
モーンテンルパの
戦犯の
人々についてですが、よく
行つて確めたり懇談しましてわかることは、現在の段階では
牢屋にいる人も、
日本政府の人も、
家族の人も非常に盡力してくれておることはみなわか
つておるようでした。それで
横山中将とか
川口少将なんかと
会つて話してみましても、もう打つ手はありません、
議会の人もいろいろや
つてくれおりますし、それから
フィリピン人で
日本に来た人も、よく
議会の人や皆に頼まれて非常に盡力してくれているということで皆感謝しています。
貿易業者でも何であ
つても、よくわか
つて帰
つて来ているし、非常にありがたい、ただできますならば早く
日本で
服役することだけをや
つてもらいたいと
言つています。そこで
日本での
服役ということになりますと、全部
服役になるだろうと思います。これは時期の問題で、
議会でおやりになるでしようから、早く
日本に来て
服役する。これはこの間
メレンシオ大使にも
出しているということですから、
議会あたりからそういうことを
キリノ
大統領に直接お
手紙を出せばよいだろうと思う。やはりああいうところは、何といいますか、
個人的な
政府というような感覚も起るのでありまして、
キリノ
大統領に直接お
手紙を出すと、そのまま
大統領は見るようです。そこで
内地服役ということがただ
一つの今残された目標でありまして、そのほかはみな感謝しているという
状況だと思います。
ちよつと概括的に申し上げましたが、とりあえずこれで終ります。