○
矢嶋三義君
大臣が大学の自治というものは尊重さるべきである。更に
地方教育に対して教育
委員会の立法方針から教育
委員は公選制が原則でなければならない。その点私諒といたします。併し私はここで
大臣に申上げたい点は、
大臣がこういう
委員会でああいう京大事件について責任をとるというようなことを言うことは私は軽卒だと思うのです。その責任という範囲は非常に広いと思う。併し現在の我が国の国民の大体の傾向からい
つて、ああいう記事が新聞に出るというと、
大臣はやめるのじやないか、こういうように国民に私は響くと思うのです。そう響くということは、
日本の私は民主化というものを、民主主義というものを阻害することになる。
大臣はああいう問題について決して私は責任をと
つてやめるべきものじやない。或る
意味における責任はありましよう。それは極めて軽いものであり、そういう責任をこういう所で公言するということは、私はもう少し慎重を期して頂きたい、こういうように私は
考えているものです。そういうわけは、
大臣の常に天皇に対するところの国民の
考え方に対する指導というものは、むしろ私は主権在民という立場から
大臣は少し行過ぎているのじやないかというぐらいに指導なさ
つておる。その指導の下に大学教育を行われてお
つて、ああいう事件が起
つた場合には、この結果というものは極く不埓な行過ぎの問題でありますが、
大臣が先ず先に責任をと
つて総理と相談して云々ということは私は適当でない、こういうふうに
考えるものでございます。これから更に私はこの
質問をもう少し、重大な問題でございますので、本質的に
質問申上げたいのでありますが、私は若し
大臣に責任がありとするならば、如何なる責任があるかというと、
大臣が或いは天皇は道徳的中心であるとか、或いは国民実践要領を出すとか、或いは、
惡いわけではありませんが、国歌とか、或いは国旗とかいうものを非常に大きくクローズ・アップする、そういうまあ
大臣の本質とは反するのでありますが、国民には非常に時代逆行的な、反動的な影響性を持つ。それに対するところの学生のこれは反動と申上げますか、反撥というものが一部にはあ
つたのじやないか。そういう反撥を若い者に持たすような言動を
大臣が平素からされたということに、その点について責任があるならば私はあると言える、こういうふうに私は
考えておるものです。ここで私は
大臣にお伺いいたしたい点は、
大臣は国民実践要領、これについてはもう文部
委員会で議論されましたから申しませんが、これを出すに当
つて大臣は、
日本国民がどこの国民であるかということをわからなくな
つているということをよく言われますけれども、そういうことは私は断じてないと思う。むしろ超国家主義的な主張というものは、そこに滔々として流れておるということを私は
大臣にしつかりと把握して頂きたいと思うのです。
地方に行
つて平和條約、或いは安保條約あたりを取上げて国民の傾倒しているところの超国家主義的な、軍国主義的な、全体主義的な
考え方を燃え上らせるということは極めて簡單なことなんです。その
程度しか民主化、民主主義というものは理念においても、実践においても徹底していないということを
大臣に知
つて頂きたい。私は今
大臣が最もこういう問題についてなさるべき問題は、天皇は国家の象徴である、こういう
意味を徹底させるように
大臣は
努力されるということが一番大事なことではないか、こう
考えるのであります。これは私の
質問になるわけでございますが、と申しますのは、京都大学の学生が空車に対してデモをや
つた、そうして直訴文書を持
つてお
つた。これなんかは最高学府の学生としては、納得できないと思う。現に国会においては民族、国家の運命を決するような二條約の審議をや
つている。そのときに天皇陛下は政治の中心でない、権力の中心でない、ただ單に国家の象徴であるが故に近畿
地方なんかに行幸なさ
つておる。そういう事実を学生に教えなくちやならん。何も政治的中心じやない、権力はないのだということを徹底させることが私は天皇のためにもなるし、
日本の主権在民の新憲法を育てて行くに当
つて最も適当じやないか。もうちよつと申上げますならば、私は天皇制否定論者ではありません。天皇には親愛を感じておるものでありますが、国会の開会式を見ましても、私は頭を垂れてお言葉を賜わ
つている。これは全く神格化された天皇にやはり接しているような感じじやないか、これは本当に国家の象徴としての、我らの親愛の中心であるところの天皇であるならば、私たちはおいでになるときには会釈をする、そうして正面からお顔を拜す、そうして拍手ぐらいでもして送迎をするというくらいが、私は本当に新
日本における天皇の国民の中にあるあり方ではないか、それが本当に親愛というものを現わして行くのじやないか、こういうふうに私は
考えているわけなんであります。更にもう一つ申上げるならば、
大臣に私は教育をして頂くために申上げるのですが、今度の近畿
地方の行幸に当りましても、二條約の批准が、承認が国会でやられているときに同僚のうち、私
惡いとは申上げません。同僚のうちにはその二條約の賛否の投票をしないで、自分の選挙区に帰
つて陛下をお迎えしている、その親愛の情には敬意を表します。新らしい憲法下におけるところの国
会議員はいずれをとるべきかということについては、人によ
つて批判があると思うのであります。お互いでもそういう
程度でございます。
從つて私はこの際に
大臣は或いは実践要領、この言葉の中には、長い歴史を通じて天皇があ
つたところに我が国の特徴があるという万世一系を謳うてあります現在の天皇、曾
つての天皇というものは新憲法によ
つて違つていると思うのであります。そういうような所が
大臣の実践要領というものの中にあります。「父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し」というのがあります。いずれも間
違つてはおりません。併しそういう口調を
出したわけであります。そういう口調ですね、更に道徳的中心とか、いうことような
大臣の言動というものは、私はやはり我が国の新憲法を守り、民主主義というものを推進して行く立場においては、ややもすすれば滔々とした復古調、反動の主張のある現段階においては、よほど文教の最高責任にあるところの
大臣の言動というものは、注意されなければならないのじやないか、その最も適当な方法は、天皇は国家の象徴であるという
意味を、学生にも国民にも徹底するような私は責任が
大臣にあるのじやないか、それが一番適当じやないか、こう
考えるのでありますが、これに対する
大臣の見解を承わりたい。