○山田節男君 これは時期ははつきり申上げませんが、曾
つて文部省が民主主義読本というものを出しておる、今日の世界のいわゆる民主
国家におきまして、どこの文部省、どこの国の文部省を見ましても、
政府がそうい
つたようなものをオーソライズして道徳基準、道徳綱領というものを示すというような例はありません。然るに文部
大臣がそうい
つたようなものを今
自分で起草しておられる。
自分が或いは文部省の幹部のほうで起草しているのかも知れませんが、とにかく起草しておる、これは
一つの
政府の意思の決定である。道徳基準このスタンダードに対する
一つの尺度を示すということになるのであります。その発行が如何なる形式において行われようともやはりこれは天野文相が主宰して作
つたものであるということは間違いない事実であります。でこれはもう私が申すまでもなくこの社会道徳、
個人道徳の低下、或いは
個人の完成の実が上らないということは、これはいろいろなフアクターがあるのでありまして、教育も勿論これは重要でありますけれども、又生きる人間としては衣食足
つて礼節を知ると、こういう社会保障的な
政策の裏付けがなくては教育はできるものではない。明日の日も食えるか食えないようなものがたくさんおるところに、如何にあなたが立派な道徳綱領をお示しにな
つても、やはり犯罪は生きんがための本能のためには犯罪を犯すということになるのがこれは当然であります。又今日の文化
国家の教育制度を見ますと決して
政府が教育道徳ということに対しまして直接そういう基準を示すということはないのであります。民主々義の
精神から申しましてもそういうことは絶対にあり得ない。然らばどういうわけで社会道徳或いは
個人道徳の高揚に盡すかと申しますならば宗教
政策がそれであります。或いは出版、映画、演劇のいわゆるセンジユアルなものがある。又その他幾多の面におきましても文部省として直接間接に社会道徳、
個人の道徳の高揚については盡すべき道が幾らもある。そういうようなものに意を盡すということをしつかりやらないでおいて、道徳の
一つの基準の綱領を文部省が示す、而もこれは文相のイニシアチヴによ
つて示すというのは、これはやはり今日の憲法下における民主々義
国家日本としては誠に
時代錯誤である、反民主々義思想であります。そこの見解は文部
大臣としてどういうお
気持か、先ほど来の質疑応答によりまして、あなたはやはり文部
大臣として主宰し、起草され又発行してお出しになるやに想像するのであります。若しそういうことになりますれば
日本の民主々義に対する
一つの汚点を残すものである。そうでなくてほかの
方面からやるべきである。御
承知のようにキリスト教国におきましてはそんなことをしなくても毎日曜日に教会に行けばそういうことは極めて嚴重なる基準を示しておる。又映画におきましても演劇におきましても出版物におきましても全く今の
日本におきまして文部省の
政策というものはだらしがない。チヤタレーの恋というものを問題にいたしましても、こういうものは文部省としてそういう道徳
政策で行けばどんどんやるべきである。そういうものをほ
つたらかして道徳基準を示す。又現在の
政府は社会保障制度に全然誠意を示さないでおいて、そういう道徳綱領を示したところで食えない者は犯罪せざるを得ないわけです、こういうような直接、間接のフアクターがありますからして、そういうものに全然、全然とは申しませんけれども十分な力を用いないで説教してもこれは何にもならない、私はこういうように
考えるのであります。特にこれは教育の專門家としての天野文相には釈迦に説法かも知れませんけれども、私はこの間二三カ月
アメリカへ参りましてたまたま新らしい小学校の教育を見まして各州にモデル学校が幾つも作
つてあります。そこに教師はいない、いわゆる先生はいない、各クラスの子供がみんなグループになりまして教師は
一つの指導者に過ぎない、先生のいない学校というものが各州にモデル学校を大きな
都市にはみんな作
つております。こういう所を見ても
個人の完成或いは社会道徳の高揚ということもこれは学校教育の組織なり、そういうようなお互いが切瑳琢磨するということは、
一つは社会の世論というものがこれが健全であり、これが強くならなければとても教育というものは、
個人道徳、社会道徳というものは挙らないと思うのでありますが、こういうものに対する天野文部
大臣の文教
政策の重要な一環としての道徳
政策は、やはり今あなたがお
考えにな
つていることが正しいとお
考えにな
つているかどうか、この点について御回答願いたい。