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吉川末次郎君 いろいろ御
答弁がありましたが、恐らくあなたを今日非難しておりまするところの世論は、あなたの御
答弁を肯定しないだろうと思います。私も肯定いたしません。けれ
ども大体のあなたの考え方は、この議場におけるところのいろいろの御
答弁を通じまして大体わか
つております。私は明らかにこの
講和條約の前文の謳
つている精神に背反したところの、なお拔けがたき古きこの
日本の戰前の官学、官僚のオーソドツクスな思想、こういう誤れる思想の上に立
つたものであると考えますが、別にここに哲学論をあなたとしてお
つても、ほかのかたも御迷惑だろうと思いますから、なお、度しがたい考えのかたである。又そういう考えでは
世界人権
宣言は理解することはできないという私の見解だけを申述べておきます。
更に進んで、右とも関連性があるわけなのでありますが、これ又曾
つて予算
委員会においてあなたの御
意見も多少拜聽いたしたのでありますが、なお釈然といたしておりませんから、この
講和條約の前文に関連してお伺いいたしたいと思うのでありますが、憲法にいたしましても、まだできましてから間がありません。又
国際連合憲章も一九四五年のものでありまするし、
世界人権
宣言もまだできて二年もたたないのでありまするから、これは
国民の間に普遍化していないことは十分考えなければならんと思うのでありますけれ
ども、それを促進し、その理解を深め、そして腹の底から
日本の
国民が
国際連合憲章や或いは
世界人権
宣言の思想の上に立
つてこれから歩んで行くということについて、私は先般来申上げましたようなことにおいて全くそれと背反するところの教育方針の方向にばかり天野さんは
日本の
国民をリードしていらつしやると思うのでありますが、そうした線に沿うて
日本の憲法の教育につきまして、天野さんを首班とする文部省がと
つているところの具体的な教育政策について、この機会に更に同一の思想の上に立
つて申上げてみたいと思うのでありますが、その節も多少申したことでありますが、
日本の憲法、即ち旧憲法、明治憲法であります。明治憲法は、これは天野さんも御承知だろうと思いますが、伊藤公が明治天皇から憲法の作成を命ぜられまして、そうしてヨーロツパに一年足らずも向うへ同勢を引連れて留学いたしまして、そしてドイツのベルリン大学の公法学の教授でありましたグナイスト及びグナイストの代りといたしまして、その弟子でありますところのモツセなんかの憲法の、プロシヤ憲法を中心とする講義を聞きまして、又オーストリアの政治学者でありましたシユタインの講義等を聞きまして、そして昔の滅び去
つたところの古きプロシヤの憲法をそのまま翻訳いたしまして、そうしてこれを焼き直したものであります。そのことは今日まで
日本の学校等におきましてはその尊嚴を体し、不磨の大典などと言
つてこれを神格化しているのでありまするから、そういうようなことを教えないで、わざと生徒には教えないでおりまするが、これは
世界の憲法学者が皆知
つていることであります。それはこのときにおきましても、星亨でありましたか、
世界夢物語というところの秘密出版を出しまして、そしてそのことをすつぱ拔いたのであります。そのグナイスト談は
世界夢物語というところの刊行物とな
つて、当時非常な物議を釀したのでありますが、それを見ましても、プロシヤ憲法の第一條はこういうふうにお直しなさい、第
二條はこのままでよろしうございます、第三條は
日本には要らないでありましようというふうに、グナイストが伊藤博文公に教えましたところのありのままを筆記いたしましたところのものを秘密出版しまして、非常に物議を釀したのでありますが、今日にそれは残
つておるのであります。かようなこれはプロシヤ憲法そのままなのであります。ところがそういうところの憲法を不磨の大典といたしまして、大学その他におきまして
日本の
国民にこれを有難く欽定憲法であるとか不磨の大典であるとかいうようなことを言
つて教えられて来たのが、我々初め、天野さんは文科であるから憲法をお習いにならなか
つたかも知らんけれ
ども、これは皆法律学をや
つて来た者は教わ
つて来たのであります。ところがあに図らんやその実体は実にグナイストが教えました
通りのことができ上
つておるのであります。
従つてその一切の法律というものは憲法が基本法でありまするから、憲法を基本としてドイツ法を又模倣し、ひとり法律
制度の上ばかりでなくて、憲法は
国民の生活一切を律するところの基本法でありまするから、そうしたプロシヤの超国家主義、プロシヤの軍国主義、プロシヤの神聖国家主義、先ほど申しましたようなヘーゲル国家哲学と結び付いたそういう考えが、この
戰争に敗けますまで、こういう新しい憲法ができますまで、
日本の
国民の全部を支配して来たところの基本的な考えなのであります。即ち明治憲法というものは、
主権論の
立場からいたしまするならば国家
主権であります。当然に……。そうしてその国家
主権と結び付けてヘーゲルなんかが教えましたように、又グナイストもいろいろ伊藤公なんなに教えているのでありますけれ
ども、又あなたがそれを直接教えているところと結びついているのでありますが、帝王に
主権がある、即ち天皇に
主権があるものであるというところの考えと、国家に
主権があるものであるという考えとを結び付けまして、そうしてその国家
主権を代表するところの者が天皇であるというような考え方において
日本の
国民は長い間あの憲法を通じて教育されて来たのである。それをあなたはまだ再批判し内省するだけの力を失礼ながらお持ちにならない。即ちそれは天皇
主権、或いは少くとも国家
主権……国家
主権論と憲法であります。ところが新憲法は国家に
主権があるのでもない、天皇に
主権があるのでもない、
主権は即ち
国民にあるのであります。
主権在民の憲法……、先ほ
ども、一昨日でありましたか、昨日でありましたか、曾祢君なんかもそういうお言葉を述べられましたが、
主権在民の憲法である。その
主権は民にあるというところの見解の上に、この
講和條約も、
世界人権
宣言も、又
国際連合憲章も明かにこれは文面に現わしているのであります。だからして昔のこの明治憲法というものは、この
講和條約とは明かに背反するところの
主権論の上に立
つているところの見解であるから、これを打倒しなければならん。そういうものは捨ててしまわなければならん考えであるということが
はつきりした上でなければ、新憲法の精神も、
国際連合の精神も、
世界人類
宣言の精神も、又それと共通する
講和條約の精神もこれはわからないのです。そのわからない人が如何に
日本に多きことよであります。それで、それには憲法に対するところの考え方、憲法に対するところの
国民に対する教育を第一に文部省が考えなければならんのであります。そうでなければ民主主義は絶対
日本国民には理解することができないのであります。ところが文部省はそういうところの具体的なこの憲法教育に対するところの政策を、今まで積極的に私はおとりにな
つておらんと考えるのです。試みに上層部の官僚なんかにそういう話を私がいたしまするというと、これは極めて高き地位にあるところの議院内の職員であります。一人ではありません。数人の者が言うのでありますが、「あなたはそういうようなことを言われますけれ
ども、美濃部さんの天皇機関説のようなものがあるじやありませんか。」そんなことを考えているのが上層官僚あたりの常識なんです。そんなことを考えている者が極めて多いのです、美郷部さんは、即ちドイツの国法学者であるところのエリネツクの国法学を祖述して来たところの人であります。これは明かに国家に
主権があるというところの即ちヘーゲリアンであります。先ほど申しましたヘーゲル的な、ジヤーマン・ステート・セオリーをと
つているところの国法学者であります。美濃部さんの説は……。成るほど帝王神権説、天皇に
主権があるところの憲法
解釈をと
つているところの人間と論争せられていろいろな憂さ目を見られたのでありまするけれ
ども、新憲法の精神である人民
主権というものに明白に対立するところの見解に立
つておる。そういう人が、まだ何らか民主主義の見解であり、新憲法の学者として通用するかのように思われる人が非常に多い。だから御覧なさい、我々が参議院議員に当選して来るや新憲法の註釈書を我々に全部渡された。それは国家
主権論者として、明らかに新憲法の精神に背反するところの
立場をと
つている美濃部さんの新憲法の註釈書が我々に渡されたのであります。而も聞くならく、東京大学法律科におきましては、憲法の参考書、テキスト・ブツクとしてこの美濃部さんの古い国家
主権論の憲法の本をばやはり生徒に読ましているということであります。美濃部さんは、あの新憲法を作る場合に、新憲法を作る必要はない、この明治憲法で十分やれるんだということを
主張せられた人であります。そういう
立場をと
つたところの人が、その法律家として三百代言的に法律の文言の文理
解釈をすることができるでありましようか。精神的に、あの民主主義的な人民
主権の憲法というものを理解するということはできないということは、これは実に火を見るより明らかなことであると考えるのであります。文部省は、そういうところの明治憲法を不磨の大典として学生に教えて来たような、古い明治憲法の先生という者をこれを教壇から追放するのでなければ、
日本に本当の新憲法のこの思想というものは、これを教わる学生の中から生れて来ないのであります。私はそういうことを先にも言
つたのでありまするが、あなたがやはり私の申しますることをちよつとも御理解にならぬように、これについても御理解がないとは私は推察いたしまするけれ
ども、そういうようなことでは
主権在民の新憲法の精神は断じて
国民の間に普及しないのであります。そういう憲法教育が
日本に行われておりまする以上は、
日本国民は本当の精神的な理解を持
つてこの條約というものを批准するところの資格のないところの
国民であると私は言わなければならん結果が起
つて来ると思うのでありますが、あなたはそういう
日本の昔からの、この古い伊藤公の習
つて来たところのビスマルク、モルトケ時代のプロシヤの、国家主義的なプロシヤの憲法をそのままコツピーしたところの
日本憲法を不磨の大典として教えて来たところの古い憲法学者が依然として
日本の大学の教壇に残
つて、一つの権威的な憲法学者の地位を教育界に保有しておるということが、この條約を批准せんとするところのこの
立場と矛盾するものであるということについてはどうお考えになるか。又それについてどういうところの対策を持
つておられるかということをこの機会に御
答弁が願いたいのであります。