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1951-11-26 第12回国会 参議院 文部委員会 第14号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十六年十一月二十六日(月曜 日)    午前十時四十九分開会   —————————————  出席者は左の通り。    委員長     堀越 儀郎君    理事            加納 金助君            高田なほ子君            木内キヤウ君    委員            木村 守江君            梅原 眞隆君            高良 とみ君            荒木正三郎君            和田 博雄君            堂森 芳夫君            駒井 藤平君            矢嶋 三義君            岩間 正男君   事務局側    常任委員会専門    員       石丸 敬次君    常任委員会専門    員       武内 敏夫君   参考人    東京大学教授  城戸 又一君    国立国会図書館    長       金森徳次郎君    第一生命保険相    互会社社長   矢野 一郎君    愛宕中学校校長 野口  彰君    東京大学教授  尾高 朝雄君    東京大学教授  金子 武蔵君    日本育英会理事    長       関口  勳君    小石川窪町小学    校校長     山口 友吉君    教 育 学 者 矢川 徳光君   —————————————   本日の会議に付した事件 ○教育及び文化に関する一般調査の件  (国民実践要領に関する件)   —————————————
  2. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) それでは本日の会議をこれから始めます。開会に当りまして一言御挨拶を申上げます。本日は参考人の皆さまには公私御多用中にもかかわりませず本委員会のために貴重なお時間をお割き頂きまして、御高見を拝聴さして頂きますことを心からお礼申上げる次第でございます。こちらから差上げました案内状にも申述べました通りかねて文部大臣天野貞祐氏が、国民実践要領と申すようなものをまとめられまして、学校教育社会教育参考にも供し、国民道義高揚の世論にも応えるための資料として発表される予定であると聞き及んでおるのでございます。本委員会におきましてはこの企てが社会一般に与えられます影響が極めて重大であるに鑑みまして、又去る昭和二十三年の第二回国会におきまして慎重なる論議の結果なされました教育勅語等失効確認の決議の際、今後教育勅語又はこれに類するようなものを出す必要が生じたような場合には慎重に考慮すべきものであるという申合せになつておるのでございます。このようなことも考え合せまして先般来天野文相自身のお心持についてはたびたびお伺いする機会を持ちましたが、いわゆる国民実践要領が真に必要であるかどうか、その内容発表の時期及び方法等の諸問題に関しまして、広く各方面のかたがたの御意見を拝聴いたしまして的確公正な判断を下すべきであると考えるようになつたのであります。本日皆様に御足労頂きましたことはかような意味合でございまして、皆様がたは学界、教育界政治界或いは実業界等におかれまして、かねがね道徳教育の問題と国民道義の面に関しまして深い御造詣をお持ちになり、且つ常に指導的立場にお立ち頂いておるかたがたでございまするから何とぞ只今申述べました観点から御忌禅のない率直な御意見をお述べ頂きますようお願い申上げる次第でございます。なおお越し頂きました皆様がたにどなたから御発言願うかはいろいろこちらで協議いたしましたが、万止むを得ない用事で早くお帰り頂かなければならん先生がたから先に御公述を願つて、少しお残り頂いても差支えないかたには一つあとでお願いいたしたい、こういうふうに心得ておる次第でございます。なおお述べ頂く時間は別に制限はいたしませんが、大体お一人二十分くらいでおまとめ頂きます。場合によつては短くなりましても長くなりましても結構でございます。その後まとめまして各委員から、お述べ頂きました御意見に対して更に教えを請う意味で或いはお尋ねすることがあるかも知れませんが、そういう場合もお含め頂きまして御遠慮なくお教え頂けば甚だ幸甚に存ずる次第でございます。開会に先立ちまして、一言委員会を代表いたしまして御挨拶申上げます。それでは東京大学教授城戸又一先生にお願いいたします。
  3. 城戸又一

    参考人城戸又一君) 皮切りを指名されまして戸惑うのでございまするが極く簡単に申上げます。私は只今東京大学教授と紹介されましたが、ほんの二、三ヶ月前まで新聞記者をいたしておりまして、従つて新聞記者観点からお答えすることになると存じます。結論的に申上げますと私は結局道徳の根本問題は政治がよくなるということ、これ以外にはないと思うのであります。今日たまたまここへ出て参ります途中で、毎日新聞の第三面、社会面に出ているものを、一口話を読んだのであります。どういうことが書いてあるかと申しますと、題は「大臣商売」という題でございます。「ちよつと三行」というのです。「出せ出せ税出せ米も出せ国民あるものミンナ出せオレは顔だけ出せばよい」(笑声)こういうものが載つております。これは投書でございますが、ちよつと三行でこれは募集しているものと存じますが、こういうものが私この二、三日だけの新聞で以て私の見ました範囲だけで多少集めて参りましたのですが、そういうものがかなりあるのです。そういう根本問題がどこにあるかということを考えてみますと、結局これは政治がよくなるということ、それによつて道徳が必ず高揚されるであろう、そういうふうに考えるのであります。もう一つ新聞を拡げさして頂きますと読売新聞の二十三日でございます。これに「外人記者の直言」というものがありまして、ジエサツプという人が書いておるのです。その中にこういうことがあります。「彼らは」彼らというのは、これは予備隊人たちを指しているようです。「彼らは反対に、日本国民が守りたいと思い、またそれを守るための軍事力を支持したいと欲するほどの生活様式や経済的な生活水準をまずもたねばならないと信じている。一日二千カロリー以下の食事をとり、新しい衣料といえば一年に十ヤード以下、食糧に収入の六五%近くを費い、従つてほとんど楽しみというもののない国民日本でもどの国でも偉大な守り手とはなるまい。」こういうことが書いてあるのでございます。結局経済生活の安定それから政治家道徳的であるということ、これによりまして国民道徳はおのずからよくなる。これが私の結論でございます。従つて天野文部大臣道徳国民実践要領というものを上からお出しになつてこれに従えというような態度をおとりになる必要はないと思いますし、それから天野文相個人としてお出しになるというふうに新聞紙上で拝見しておりますが、天野文部大臣個人というものは私にはよくわかりませんので、文部大臣であるというのか、個人であるというのか、若し全く個人であるならばその出し方については文部省という官庁の機構を通じるのか、文部省を通じて出すというようなことは当然あり得ないと思うのです。それでこれはまあいろいろほかのかたがたにも御意見もあろうと思いますが、私は天野文相個人というその行き方にどうも納得の行かないものを感ずるのであります。結局毎日新聞の社説でありましたかと思いますが書いておりましたのは、愛というものは一方的に押し付けるものではない、つまり愛国心、国を愛する心、それから子供が親を愛する心そういうものは一方的に押しつけるものではなくて、相互的におのずから愛情が湧いて来てそれが国を愛するということになり親を愛することになる。国民道徳中心は私は国民に置くべきものであると存じますし、それからそれを更に国民をバツクに出ておる国会議員かたがた国民道徳中心を置いて頂きたい。特に政治というものに道徳中心を置いて頂きたい。そうしてそういうかたがたが極めて道徳的にお成りになることによりまして、国民又おのずから道徳的になる、そういうふうに考えるのでございます。要点だけを申述べまして一応これで終ります。
  4. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) 次に国立国会図書館長金森徳次郎君にお願いいたします。
  5. 金森徳次郎

    参考人金森徳次郎君) 詳しい資料を持つておりませんのでただ新聞に出ましたところを基礎にしておおよそ想像を画きつついくつかの点について意見を述べたいと思うのでありますが、第一にこういうような実践要綱というものを政府の手でこしらえるがいいかどうか、この点であります。私自身の関係しております面から言えば道徳根源は各人の良心である。それが憲法の中にも良心の自由としてはつきり認めてありまするので、それを強制するような意味のものを国の力で作るということはおかしいような気もいたします。勿論政府というものは行政はいたしますけれども道徳それ自身をきめるというようなことは恐らく無理なので、丁度政府物理学上の真理をきめることが無理であると同じようにも思われます。でありますから政府としては飽くまでこの教育を行うという面に限るべきものである。その中に若干の道徳内容が出て来なければ教育はやれませんけれども、併しその道徳の本体を政府が作るというようなところまでは行くべきものではないような、こういうふうな気がしております。申上げましたところに少しくわかりにくい点があるかも知れませんが、私の言わんと欲するところは、政府としてはおのずから職分の限界がありましてそれ以上に出てはならない。けれども実際は道徳面についての教育もしなければならんからして、或る程度これに関連を持つということも止むを得ない、こういう二元的な考え方であります。そこで政府としては道徳上の問題についてどこまでの限界を示すべきものであるかということが出て来まするが、それは道徳については飽くまで国民がきめるものである。ただ政府教育をいたします中にどつか間違いのなさそうなところ、教育方便として採用するということはこれは止むを得ないことではないかと思つております。従つて具体的に申しますれば、政府のとるべき立場教育のことについて意見を述べる場合に、ただ客観的に余り間違いのなさそうなところを取入れ、而もそれは政府意見ではない、世の中の大体の傾向がこういうふうになつているのだというこの事実を取上げる形においてすべきものであるという気がしております。これはまあ非常に妥協的な見解に似ておりますけれども、併し教育真理という両面考えますればこの態度も止むを得ないと思つております。従つて曾つて教育勅語が出たということの是非善悪は今日から批評する必要もございませんけれども、時代の傾向を或る程度において標準をつけようとしたところの努力はこれは認めて、そんなに間違つていないと思つております。ただその道徳をここに強制すべき権能政府にあるかのごとく、或いは天皇にあるかのごとく錯覚したところに非常に取返しのつかない間違いがあつたという気がしております。今回現われましたこの新聞記事によつて天野さんが一つ私見として一国の道徳はかくのごとく実践要領として考えられるのだ、こういうことを示されますことはそれ自身として別に間違いはないのであつて、ただ教育を行う場合参考に使うだけであつて、それ以上に強制しないということが絶対の条件であるということに落着くだろうと思います。  次に細かい問題に移ります。これが新聞に伝うるごとく、文部大臣がやるのはけしからん、文部大臣個人というものの性格がわからん、この論拠に立つて行くのでありますが、私は文部大臣が国の機関としてやることはその筋が間違つている、国会が引力を否定するとか肯定するとかいうことができないと同じように、道徳根源を肯定し否定もできない、こういう気がしております。そこで純粋個人としてやつてみてどうか、こういう問題に相成りますが、純粋個人としてやることはその個人がたまたま国家の官職にあろうともなかろうとも思う通り私見を述べていいわけであります。若しも天野さんが純粋個人としてかような見解を述べられるということであれば形の上において何らの支障はないことと思つております。先ほど城戸さんが言われましたように、文部大臣個人、こういうことになりますとそれは意味が非常に不明瞭であります。私も城戸さんと同じようにそういう不明瞭な態度というものはないように、国家機関としてか、個人としてかいずれかに決定して頂かなければならん。国家機関としてはそれは権能を超越しているものである。個人としては一向差支えない、まあこういうふうに結論をするわけであります。  それから次の問題に移ります。それでは仮に天野個人としたときに如何にも国家がその裏付をしているような錯覚があつて甚だ面白くないこういうような意見も所々に流布されております。私はかような意見はとるに足らん意見だとひそかに思つております。昔の見解によりますれば国家機関というものと個人とを区別していなかつたのであります。二様の意見を分つことを恐らくは認めなかつたと思いますが、今の考え方はそうではないのであります。如何なる場合にも個人発言の自由を持つている。たまたま国家機関であろうとなかろうと個人発言を左右すべき理窟は当面には、ときと場合によつてそれは故障を起すこともありますけれども一般的にはないと思つております。たまたま文部大臣である天野さん個人としてその所見を明らかにされるということには何らの支障はない、こう考えております。併しそれに関連をして実際は文部省その他の人が手伝つたり、或いはその経費を用いて印刷物をこしらえるのはおかしいじやないか、こういう議論も起り得ましよう。それは想におのおのの問題を分けて個人意見国家手伝つていいかどうかという問題に分解して然るべく解決していいものと思います。  次に読売新聞の数日前に発表しておりまする実践要領内容を仮に材料として考えてみますると、実質的に言つてどもはこの表明せられたものに対しまして若干の異存を持つております。と申しまするのは、私ども道徳の学問の深い研究をしたものではございませんので一々について意見は述べかねますけれども、たまたま私どもの平素考えておるところと著しく食い違う点を述べたいのでありまするが、その一つの点は、天野さんの道徳考え方個人社会というものの関係をどういうふうに認めておられるかということから出発しております。つまり個人というものを重点的に置いて社会というものをこれを非常に軽いものに思う。こういう考え方が一方にありその逆の考え方もあるのでありますが、この実践要領を見ておりますと、その点がどうもまだはつきりつかめないのでありまして、大部分を見ておりますると国家のほうが個人母体である、こういうような気持のことを述べられております。その点から行きますといささか集団のほうに重きを置き過ぎるようなきらいがあり誤解を生じ易いような感じがいたしますけれども、他の面を見ますると、個人社会というものは不可分的な、同時に存在する両面として考えなければならんと軽く扱われております。その辺はいろいろな巾があることでありまして私異存もございませんけれども、なかんずく個人の本質的な存在を認めない、国家というものが母体であり、それから派生したものが個人であるというふうに考えられますことは、これは何かまだ私どもに疑問を与える、こういう感じがしたのでございます。  次にやや細かいところに移つて行くのでございますが、恐らくここに示されております道徳は、各人これを遵奉する人々が完全に自分良心判断をして行く道徳という意味ではないと思います。社会一般的に認められる道徳、いわば方便に作られておるところの道徳を述べておられるのであろう、こう思つております。そういうものでありますれば、私ども一人々々の意見がこれに反対したからとてそれは止むを得ない。ただ客観的にかくのごとき道義が今後日本において教育その他の場合の一つ参考資料に而も有力なる参考資料に用いられて行くであろう。こういう趣旨であろうと思つておりますが、それにいたしましても天皇道徳的中心であるというような感じに持つて来てあることは私どもには理解が困難であります。憲法に私は関係してだけでありましてその範囲を越えて発言することは不適当と思つておりますけれども、ただその憲法の中におきまして考えました天皇は、政治的な面におきましては憲法の第六条、第七条に掲げてある権能だけがあるのであります。而もこれは本来そういう権能を持たるるというものでなく国民意思に基くということにして国民意思というものを根源にしております。逆転して天皇が何かものの中心であると考えますことには相当懸念すべき点があるのであります。道徳中心ということの意味はつきりわかりませんが、何か天皇が完全に道徳性を備えておられ、これが国民が典型として仰いでいいということであるか、或いは道徳的なる一種の発言権天皇がお持ちになつてその発言に基いて国民がこれを遵奉するのがいいのであるというがごとき感覚を起されまして、私ども考えたところによりますれば天皇はそういう地位はお持ちにならないのである。個人的な意味におきましては一般国民と全く同じ立場にある。政治的な意味におきましては国民意思に基いて特に限られた権能をお持ちになり、それ以上のことは何ら持つておりません。ただ歴史的なものとして天皇が現在深く日本歴史の中の地位をお持ちになつているということは言えます。それは私ども平素使つておる言葉で言い現わしますれば国民愛情中心である、国民天皇に対して非常に深い愛情を捧げておりますが、これは確かに言えると思います。言えると思いますけれどもそれは事実そうであるということが言い得るだけであつて、そうでなければならないという一つゾルレン範囲までこれを持つて行こうといたしますと、果してそういうことが今日どう扱われていいのであろうか相当の問題を含んでおります。こんなことを考えて行きますると、何か天皇道義的中心であるという最後の項に書いてあります叙述が私どもにはやや呑込みにくいのであります。憲法考えました民主的天皇というものと何やら違つた方向に向つているのではないかという気がいたします。繰返して申しますけれどもども現実歴史的段階において天皇国民大多数の愛情中心である、これだけははつきり申上げておきます。併しそれは事実であるがゾルレンではない、ゾルレンまでも私どもは主張しているのではない、こういうふうに結論をつけておきたいと思います。大体その辺でございます。
  6. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) それでは次に第一生保険相互会社社長矢野一郎君にお願いいたします。
  7. 矢野一郎

    参考人矢野一郎君) 御指名によりまして、簡単に私の意見を申述べます。  今日御出席参考人かたがたのお名前を拝見いたしますと皆それぞれこういう問題についての専門家であられます。私一人がいわゆる町の人間であるように存じますので、そういう意味から一般国民、町の人間の一人としてこの問題についてどう感じるかということに主体をおいて申上げてみたいと思います。  天野文部大臣がこういうものをお作りになるというお気持それ自体は、私ども決して悪いことでない、又賛成であります。殊に私は個人的にも天野先生を存じ上げておりますし、平素から先生のお考えも伺つております点もございまして、多少今度御発表なつ新聞等に現われましたものを拝見いたしましても、先生が狙つておられる所はどういうところであるかということは私は大体推測はできます。併し一々の言葉表現その他については或る場合にはいわゆる俗人にはわかりにくいような点があり、或る場合には町の者には誤解を生じやしないかという点はございますが、すべてこれは善意を持つて解釈すれば、決して天野さんの狙われたことに対して私は不賛成ということは絶対にないのでありまして、殊に日本人のように宗教というものが現実生活から離れておりまして、外国人のように或いは日曜に教会に行くというようなチャンスも持たない現在の日本人にとつては、日本人はかく生きべきであるというようないわゆるいいこと、いいものは幾通り出ても結構なことだと思うのですが、そういう意味におきましては、全国民が喜んでこれを読むようなものであるならば一刻も早く出して頂きたい。それを出そうというお気持を持たれたという点において天野さんの御計画、お考えに対して私は賛意を表するものであります。但しそれがどういうようなものが出ますか実はそれを拝見しておりません。又いわゆる新聞を通じて僅かに伺つておるだけであつて、如何なる形式を以て発表され、如何なる表現を以て発表されるかということがわかつておりませんので、或いは私ども感じておることが正鵠を逸しておるかも知れませんが、少くとも新聞に現れた形においては、我々が感じましたことは表現形式方法等においてまだ研究の余地がある、決してあのままでお出しになつて効果が一〇〇%あるとは感じないのであります。従つてこれをやることは結構でありますが、その効果という点についてはもう少し御研究を要するものではないかと思います。  この表現について申上げますと、例えばいろいろ使われている言葉というようなものにも、いわゆる言葉には字義があり意味がございますが、同時にその言葉が持つておる感じというものがあります。これは理窟の問題でない言葉伴つた感じというものがある。そういう面についての御研究がもう少し必要かと思います。国民に与える効果というものは多分にそういう面から来るのであると思いますので、たまたま新聞発表されましたような形、又文字を用いて御発表になります場合には、例えば年齢的に五十歳以上くらいの者には、かなり先生考えておられることがわかるかも知れませんが、二十歳から四十歳くらいの人間には、私は多分先生が狙われるところとは違つた感じを与える、そういうような点において文字そのものももう少し御研究になるほうがよい。例えば国家とか天皇とかいう文字を使われるにしても、その意味というよりはむしろそれによつて起る連想或いは感じというようなものが人によつて違うのでありますから、それが或る場合には非常に全体主義的な感じというものの連想を強く持つている人には却つて効果を与える。或いは何か強制的な感じを持つとか或いは又個人々々によつてその文字から離れられない悪い連想を持つているという人が相当まだいるのであります。そういうものに触れることは危険であると私は思う。場合によつて却つて誤解を生じはしないかという点において一つ表現についてはもう少しお考え願つて考えておられることを皆が呑込みいいように発表して頂きたいということを感じるわけであります。場合によつて先生の持つておられるお考えというものを一つ表現国民に示すことは無理ではないか。幾つかの違つたものをお出しになつてもいいのではないかというふうにも考えるのであります。それを一本で行こうというところに或いは無理があるのではないかと思うのであります。併し或いはこれは先生に伺つてみれば、明らかに対象が極限されているのである、少くとも自分が文教の府に立つて、実際教育者の現場からの要求、そういうものがなくては困るという要求に応えて、いわゆる教育中心になる教育者手引書として作るのであるからそういう心配はないというお考えかも知れませんが、これが現状において教育者だけの手で行われるものであるものならば結構でありますが、やはりこれができた場合には、これが一般国民のものとして用いられることは疑いがないと思いますると、やはり各層々々によつて理解しやすいような着物を着せて頂く、幾通りのもので同じものを発表して頂くということのほうが間違いがないのではないかと感じるのであります。  それからこの御発表方法等についてでありますが、文相天野個人として御発表になるというようなことはどうも納得が行きかねます。決して賢い方法ではないように存じます。若しこれが個人の御意見であるというものならば、やはり哲学の雑誌なり教育の雑誌なりにはつきりと個人としての御意見を御発行になつて、そうして世間の批判を受けるという態度をとられるのが先ず必要な段階ではないかと存じます。併しそれでもなお且つ現職の文部大臣であられるという事実は、相当の私は指導力を持ち、相当の効果国民に与えるのではないかと存じますから、そういうことをなさることがいいかどうかは、これは天野先生個人の御判断に任せるより仕方がないのであります。新聞に伝えられているように先生が講和批准の日にこういうものを発表する、而も、個人意見として発表するとおつしやつておられるようでありますが、これはそれだけのことを伺いますとどうも純粋個人意見でありながら、同時に直ぐに相当な指導的効果を持つような方法をとられるようであります。それは一つの跳躍であつて少し飛び過ぎであると思うのでありますが、いわばやはりこういうものができまするのは国民全体のものであるのならば、どうしても広く衆智を集めてやはり検討したものが生まれるべきであると思う。例えは悪いかも知れませんが、一つ国民歌を作るという場合に、作歌と作曲を天野個人がなさつて国民歌に提供なさるということは少し跳躍しすぎる。又私が先ほど申上げましたことも一般国民感じとしては如何によい歌であつてもその作曲というものがぴんとこない場合にはこれは皆歌わない。是非いいことであるのならば、それが子供には子供に好感が持たれるような、そうして老人には老人によくわかるような着物を着せて行く、そういう作曲というものを広く各層から募集されるというような形をとられるほうが効果が大きいのではないかと思います。一体日本人一つの悪いところは、これは長い間の習慣でありますが、どうもあらゆる面において、私ども日常の仕事、実業界のことにおきましても自分自分をいわゆる理智力が足りないと言いますか、自主性が足りないと言いますか自分のことを自分考えて処理するという力が非常に弱い。何事も何か示されるものを欲しい、欲しておる。何か他力によつて拠るべきものを与えられなければ動きにくいというような国民性があるようであります。この国民道徳実践の要領というようなものについても、これをこの際に上からこういうものがあるといつて示されることが果していいか。私はむしろこういうものが必要であるということは国民の各層がもうそれぞれに考えていると思いますから、青年層は青年層なりに日本国民道徳実践要綱はどういうものでなければならないかということを考えさしてみるということをお考えになつて頂きたいと思う。決して民間から意見が出ないとは私は申しません。若い者は若い者なりに真剣にやはりそういうものを考えておると思う。そういうものを広く募集されて、そうして政府として御発表になる、ならないは別でありますが参考とされて、そうしていわゆる国民にぴつたりあてはまるようなものを幾通りか作つて頂ければ一番私は危げがないのではないか。又そういうことをすることによつて国民のいろいろの層、例えば何か年齢的な層、或いは職業的な層によつてどういうことを考えているかという一種の国民考えの、思想の調査にもなりましよう。そういう現実の姿を考えながら最も効果の多いものを作つて行くというような行き方に行つて頂くことも一つ方法ではないかというふうに考えます。いずれにいたしましても結論的に申しますと、こういうものを何か作られるということ自体は私は賛成であります。但し表現形式方法等については今天野さんがお考えになつている方法はもう一段御一考を煩わしたいというふうに考えるのであります。更に恐らくこれは文部省の先ほど申上げましたような現場の御要求ということから出たことと存じますが、又一面に修身科を置いたほうがよいという御意見教育者の間にあるようであります。私どもとしては、極く大雑把に町の人間といたしまして考えることは、知識教育も技術の教育もすべて教育というものは人類の繁栄のために役に立つものでなければならんという意味において、特に修身の時間だけにこういうことを講義するという必要はない。むしろ人間のあらゆる努力というものはすべて人類の繁栄のために役に立たせるものでなければならんということを織込んだ教育が、あらゆる時間に行われることによつて最も効果があるのではないかと考えるのであります。さような意味におきまして、その根本理念を国民にいろいろな形でわかり易く説いて行く。例えば一つのいい歌詞を老人には長唄で聞かせ若いものには洋楽で聞かせるというような御考慮も一つお払い願いたい。さような点を甚だ雑駁でございますが、一般の町の人間として感じますことを意見として申上げておきます。
  8. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) 次に愛宕中学校長の野口氏にお願いします。
  9. 野口彰

    参考人(野口彰君) 私は道徳教育手引要綱という、すでに文部省発表になりましたものの作成に加わつております一人でございます。その立場から今度大臣が発表されるというように伝えられておりますところの内容考えてみますとちよつと承服できない点がある。その点を申上げておきます。前に手引要綱として発表いたしましたものの考え方は、つまり道徳教育の根本目標としてこういうことを想定しております。「民主的な社会を形成し、その進展に貢献することが自主的、自立的な積極性を持つた人間を育てることにあると考えられる。」これが道徳教育の根本目標として一応想定されているわけであります。併し具体的にどのような人間を育てて行くべきかということは、つまり言い換えれば具体的にどんな人間像を描くのかということになりますと、やがて社会自体から生み出されて来るべきものであろう。「即ち社会を形成し、その進展に心をいたすすべての人々の考え方の集積として、次第に明確にされて来るべきものである」、こういう工合に言つております。然るところこの天野先生がお出しになろうとする要領は、一歩先にもうすでに或る程度の徳目も示して、これが国民実践要領であるとお示しになろうとしているわけであります。これは私どもから申しますと少し急ぎ過ぎておると感ずるのであります。そんなに早く何と申しますか人間像を描いてしまつて枠付けしてしまうような感じがいたします。我々現場の立場から言いますと非常に便利と言えば便利でありますけれどもあんまり結論が性急である。即ち我々が手引要綱に申しておりますように、やがて社会自体から生み出されて来るべきものであつて、特に関心を持つておる者の考え方が集積してそこに次第に明確になつて来るべきものである。それを少し早く枠付けし過ぎておるのではないかという感じであります。この点が私いささか承服しかねるところであります。この要綱が出まするや全国の小、中高等学校におきまして、それぞれの地方地域の要求と、又学校や生徒の事情に応じまして、それぞれの道徳教育も計画も立ててプランを立てております。そうしてやつぱりそれぞれの地域の事情や或いは今学校や生徒の要求と申しまするか事情に一応即応したという心がまえで、それぞれの目標を立てております。その地方はその地方なりに、そうしてそれには勿論批評すべき点もいろいろありますけれども、ともかくも放つておいたらいつまでたつてもできて来ないというのでなくて、すでにここに予想しておりまするように、それぞれ何かしら描きつつあるのでありますからもう少し、描くのを待つたらどうかと思います。その点が私ちよつと承服いたしかねる。特にこの手引要綱の立場から申しまする、と、いわゆる昔の徳目主義に逆転することを成るべくさせないように、むしろ恐れておる立場であります。何かしら一つの徳目を掲げて、そこへ合致させるようにはめ込むといつたような考え方は、いわゆる我々の良心の自由に対して何か枠付けをするという感じを持つのであります。放つておきましても心ある者はその考え方におきましてそう食い違いというものはない、良心という点から申しまして。尤もこれは青少年その他の発達段階、年齢層によりまして一概には言われませんですけれども一般に余り徳目を掲げて、そこにはめるというような行き方は、場合によりますと少し逆効果を生ずる虞れがあります。で、先刻来いろいろお話がありましたように道徳中心は私はやはり良心にあるのではないかと思います。これは主観的道徳とか客観的道徳とかいつて見方はいろいろ違いましようけれどもやはり道徳中心個人良心にあるのではないか。然らばその良心のより所はどこから来るかというと、これは人によつて、或いは宗教に求める人もありましようし、或いは哲学、芸術、或いは科学的良心などと申しまして科学にもあるかも知れません。そういつたいわば高い価値の体系といつたようなものが良心のより所となるべきものでありまして、天皇道徳中心であるとか国家道徳中心であるとかいう考え方は、何か非常に窮屈な或る意味においては暗い感じを我々に与えるような感じがします。もつと自由な、明朗な良心の中に道徳中心は置くべきじやないか。尤も私の言うのは主観的な道徳です。併し結局は主観的な道徳が根本だと思います。天皇は親愛の中心である、これは私は非常に結構だと思います。実はこの十一月三日に文部大臣が全国の優良施設中学校百校を選ばれまして表彰を行われました。その時の大臣の式辞の中に私が聞いておりますと、天皇国民の親愛の中心である、こういうことを言われておる。これならば私は賛成です。国民が敬し愛する、敬愛の中心である。これは私は結構だと思う。むしろ道徳という問題に対しましてはやはり一人の人間として共にそうした行為を御みずからも追究せらるべき御地位にあるだろうと思つております。それから又この伝えられておりまするところの読売新聞を私は拝見したのでございますがそれが若し仮に真実だとしますならば天皇は無私であらせられる、私がない、そうして道徳中心であるということを仰せられておりますけれども、これは見方によりましてはいろいろ見方がありましようが、まあつまり天皇を或る意味においては昔のように神格化せらるる虞れがあるのじやないか。むしろ或いは陛下の御迷惑じやないかというような感じがするのです。御迷惑でないかとさえ思う。尤もこれは見方によりまして、現実個人としての天皇考える場合と或いは法律上或いは政治上のいろいろな考え方から来るのとではいろいろ違いがあると思う。我々がよく戦争前にあの国体下におきまして教えられ又強調した点はこの点でありまする天皇は無私でいらせられる、であるから現人神でいらせられるというどうもそこに又再び連つて行くという虞れがありますので、この点はもう少しおだやかな解釈をされたほうがいいんじやないかと私は思います。むしろ私は天野先生にお願いしたいことは、やはり我々現場の要求もありまして道徳教育の手引要綱を作成いたしまして、更にその全国的な反響や或いは現場における実践のデータに徴しましてここに手引書を作ろうとしておる次の段階があります。むしろ私はこの手引要綱の立場を大臣がもつと推進せられて、そういつた方面から道徳教育の振興を図られるほうが却つて適切じやないかとかように私は希望を兼ねまして申上げます。
  10. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) それでは次に東京大学の教授尾高潮雄君。
  11. 尾高朝雄

    参考人(尾高朝雄君) 結論から先に申上げますと、私も灰野先生文部大臣在任中にこういう国民実践要領というようなものをお出しになることには反対であります。これは是非おとりやめになつて頂きたいと切願するものであります。併しながら非常な学者であり且つ人格者であられる天野先生文部大臣としてこういうものを出す必要を認められ、出そうと考えられその方法なり或いは内容なりがだんだんと世上に伝えられまして非常な論議を捲起したということそれ自身は、これはマイナスであつたかと言いますとそうは考えない、これは非常にいいことだつたと思うものであります。それだけのプラスの効果を非常にもたらしていることでありますからとて、これ以上実際にこれを実行なさることは逆転してマイナスになるからおやめになつたほうがいい、これが私の結論でございます。  反対いたします理由は今まで諸先生が縷々お述べになつたところと多分に重複いたしますので簡単に要領だけ申上げます。まあ形式内容の二点でありますが、形式におきましては金森先生城戸さんその他おつしやいましたように、文部大臣天野個人という資格が甚だ不明瞭であることが根本であります。個人としてお出しになつてもやはり文部大臣というものがうしろにあり、そういう台の上に乗つて天野個人であられるのでありまして、そのエフエクトというものは非常に重大なものである、そして懸念されるのであります。参議院の文部委員会で集録なさいました新聞論説等の中にございますこれは潮田新聞の記事でありますが、文部大臣がその反対論に対しての弁解をしておられる中にやはり文教の責任者として国の道徳指針を出したほうがいいと考え結局出すことに決心したというような言葉があります。どれだけ真実を伝えているか知りませんが、やはり文教の責任者としてというのは文部大臣としてということであり、国の道徳指針というのは天野個人の信念を吐露されるのとはまるで違うことでありますので、そういう形でやるということはよろしくないと考えます。で、そのお言葉の終りのほうに、文部大臣国家道徳のあり方を心配するのは当然の責任であると思うといつておられます。私もそれは当然の責任であると思いますが、さればと言つて心配したからそうしたまあ国の道徳指針を出すのが当然だろうということにはならないのでありまして、若しそれが当然であるということになれば、代々の文部大臣天野文相国民実践要領は、あれはこの点がおかしい、これを修正するために次のA大臣はかくかくの指針を示し次の第三代目のB大臣はまるで反対の指針を示す、これはまあ極端な場合かも知れませんけれども、そういうことだつて起り得るのでありまして、むしろ国民道徳のあり方についての去就に惑わしめるのみである。従つて文部大臣が在任中にはこういうものをお出しにならないということをお勧めしたいと考えておるのであります。  特にその内容につきましてもいろいろ問題があることは御指摘の通りであります。そういう問題の点が多い道徳の方針について十分に説得力のあるものをお書きになるならば、文部大臣をやめられた後に情味あふるる、迫力のおる中学校若しくは小学校の教科事でも一民間人としてお書きになりまして、それを学校若しくは先生が採択され人心にどういう影響を与えるか、それに待たれるのが然るべきであろうと考える次第であります。内容の点につきましてもいろいろ問題がありますが、特に皆さんの御指摘になりまし先天皇を以て国民道徳的中心とする、或いは無私であるというような表現をその中に盛られるとするならば、それは極めて遺憾、若しくは重大なことであると思うのであります。今野品先生もおつしやいましたけれども、そういうことの中に天皇の神格化への逆戻りの懸念があるとおつしやいましたが、私は少し論理が逆でありまして、結論は同じであろうと思いますが論理が逆で、天皇を神格化せずんば天皇を以て国民道徳的中心とし、若しくは無私であるという規定の仕方は出て来ないと確信するものであります。終戦前の現人神若しくは現神としての天皇の場合にも、国民はそれじや本当に神様だと思つていたかというとそうではない面も多分にあつたと考えるのであります。人間天皇として天皇を見ていた国民気持というものは相当広く行き亘つていたと私は考えております。で、そういう場合には天皇の、まあ人格と申しますか、人間天皇の率直に申すと値打というようなものに対して、評価を国民はやはり区別しておつたと考えるのであります。日本書紀あたりに出て参ります雄略天皇、武烈天皇などのいわゆる暴君的存在というようなものは暫くおくとしましても、明治以来の天皇にいたしましても明治天皇については明治神宮というものができておりますけれども、大正神宮というものを造営せんとするまあ計画があつたかどうか知りませんけれども、そういうふうなことは表面化して来なかつたというところに、やはり国民天皇を区別して見ている。それは人間として区別して見ているんだと思うのであります。それにもかかわらず天皇の大御心はこれは絶対無私であつて隈なき鏡のごときものだとしてそれを拝みまつるというようなことは、それは天皇が同時に神格化であり、一つの全くの理念の具現と考えられていたからにほかならん。然るにそういう天皇の人格が規定されまして、そうして天皇みずから人間宣言をされている今日の時代において、天皇を無私であると規定し道徳の規範若しくは中心であるというふうに考えて行くことは、これは論理的に不可能であると思うのであります。従つてそうした内容を盛り上げようとする国民実践要領をお出しになることは、この面から見ても私は反対いたしたいのであります。さればと言つて最初に申上げましたように、私は天野先生の学識なり人格なりについては非常な尊敬を捧げておるものであり、その誠実無比なお人柄というものを深く尊敬しておるものでございます。その天野さんが、而も文部大臣になられる前に文教審議会の委員としてその当時道徳憲章を出してはどうかというような向きがあつたときに反対をしたと、その反対された天野先生文部大臣になつて社会のきびしい現実を身に付け、又各方面からの熱心な要望を受けてこういうものが必要であるというふうに心境が変化されたのであります。それはどういうふうに変化されたのか私は詳しく存じませんけれども、ことほどさように今こういう決意をせざるを得なかつたほど今の国民道徳のあり方が混乱しておるということは、これは事実であると思うのであります。それを何とかしなければと切に思われたことも十分理解されることでありまして、而も民主国家の今日の日本としての考え方文部省部内でも諮られ、それが次第に世上に流布されてほぼその全文に近いかと考えられるものが伝えられるようになり、それに対して囂々の遠慮のない議論が戦わされておるということ、そしてそれが表面に出ておりまして、新聞雑誌の論調はおおむね反対説が強いようでありますが、さればと言つて文部大臣自身とされてはその言葉の中にも窺われますように、各方面から今度は熱心な要望も受けておられるし、支持者もきつとたくさんあると、こう考えておられるのだろうと思います。そういう状態においてこれを真剣に国民があらゆる機会に論議するということは、これは非常に結構なことで、そうやつているうちに野口先生の言われるような国民道徳のあり方がだんだんと社会そのものの中から醸成されて来るという一つの気運を作つたということは天野哲学、文部大臣らしいやり方で非常に結構でこれは大変よかつたのでありますが、これは花も実もある御態度である、こう私は思います。
  12. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) 只今までお述べ頂いた先生がたは午前中しかやつて頂くことはできませんので、御公述はこの程度にとどめまして今までお述べ頂いたことに対して何か委員からお尋ねになることがあるならばお願いいたします。
  13. 金子武蔵

    参考人(金子武蔵君) 私午後講義がございますから。
  14. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) それじやおやり願いましようか。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  15. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) では東京大学教授の金子武蔵君。
  16. 金子武蔵

    参考人(金子武蔵君) 私はこの案文というものを少しも存じておりませんので、この意見で案文を拝見した上でなければはつきりしたことは何も申上げることはできないのでありますが、折角お喚び出し賜わりましたのでちよつと二点だけ申上げておきたいと思います。  それは第一といたしましては、先ほどからお話のあつたことと私の考えは少し違うのでありますが、道徳というものは或る意味で直接的な面があると思うのであります。非常に今の皆さんのお考えと違いますのですが、或る意味でつまり有無を言わせないような点があるのではないかと思うのであります。例えば人をなぐりましてそれはなぜ悪いかということになれば若干の説明ができましても、その上に更にそれで又なぜ悪いのかと言えば更に説明をして行つてもどうしてもそれは最後に悪いということしか言えないような面、そういう面が私は道徳にあると考えております。それはわかり易く申しますならば腹が減る、なぜ腹が減るかということにつきまして説明をして行きましても、その説明に対しまして又それはなぜそうなるのかということを問うて行つても無限にただ同じことを繰返して行くだけでありまして結着も付かないのと私は同じであると思います。それは理論の問題といたしましてはどこまでも探求して行くという態度がそこに守られ得るのでありますが、道徳のような実践的な問題ということになりました場合には、そこのところに或る意味の直接性というものが私は出て来ると思うのであります。その点につきまして詳しいことを申上げるということは、その場合でないと考えますので申上げませんですが、とにかく道徳と、いうものは或る意味の直接性というものを持つておるのでありまして、その意味でそれを絶対的に否定するということはそれはすでにこの道徳そのものを否定するという気持からの議論であると私は考えておるのであります。それでこの天野文相が世上の混乱ということをよく経験せられまして、こういう国民実践要領でありますが、そういつたものをこしらえようとせられるということは私は賛成であります。但し先ほども申しますように案文は全然拝見しておりませんので表現の点、それから又発表方法といつたようなこと、先ほどからお話のございましたように天野個人とかいろいろのことはございますが、私はそういうことを余り注意いたしておりませんですし、まだ案文も拝見しておらないのでありますからして先ず案文を拝見しなければ何とも言えない。  それからもう一つは第二といたしましては、特に問題になるのは先ほどからもお話のあつたことと思いますが、天皇の問題であると思うのであります。これは非常にデリケートなことでありますが、根本的にはこういうことが言い得られると思うのであります。道徳というものは社会生活を円滑になして行く上におきましてどうしてもなくてならんものであるというように恐らく常識的には言い得ると思いますが、その場合に社会といたしましては何かの意味の統一というものが如何なる社会におきましても必要であります。何かの委員会がありましても委員長というものは選びますし、ソ連におきましてもやはりその全体を象徴しておるものがやはりあるわけであります。アメリカにおきましてもやはりそうであります。国家というものもやはり一つの人格的な存在であり人格性というものを持つております以上、一つの人格によつて象徴するということはこれは理論上当り前のことであると思うのであります。問題はそれが何によつて象徴されるかということになるわけであります。そこにはやはり或る意味の直接性というものはこれは実際の道徳のほうとしましては実際上止むを得ないことであつて、或る直接性というものは認めなくてはならないと私は考えます。そういう意味でやはり伝統というものは尊ばるべきものである。そういうところからいたしまして天皇と結び付くということはそれは日本としては止むを得ないことと私は思うのであります。ただ併しこの場合におきましてむろん象徴とそれから象徴せられたもの、その間を混同する、先ほどから御議論も多く象徴であるものとそれから象徴されるものそのものとの間の区別の問題に帰着すると思います。そういう意味で根本におきましては私はそういうことをなすということには賛成であります。併しこれは非常に無論デリケートなことでありまして、表現発表その他の点についてはいろいろと考えなくてはならんことがあるのです。そういう具体的な面につきましては、私は案文も存じておらず、その他具体的なこと、どういう形式発表するおつもりであるかということは存じておりませんので、そういう表現方法とか発表形式といつたようなことは抜きにしまして、根本の方針としては私は賛成であります。
  17. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) それではあとお三人でありますから引続いて承わることにいたしましようか。(「続けてしまいましよう」と呼ぶ者あり)それでは日本育英会理事長の関口勲君。
  18. 関口勳

    参考人(関口勳君) 委員長から初めに、各界の国民道徳の造詣があり指導的な立場に立つている者を集めたとおつしやいましたが、私は矢野さんと同じように、曾つて教育に携つた若干の経験はありますけれども造詣はございませんので、現実的な俗論として私の考えを申上げたいと思います。  先ほど来お話がございましたように、教育勅語廃止直後起りました教育憲章をどうするかという場合に、天野さんは文教審議会の委員として反対された。その反対された天野さんが文部大臣におなりになりましてつぶさに教育の現場を御覧になり、第一線で活動をしておる教員の声を耳にして、その結果どうしても何らか具体的な道徳教育についての措置を講じなければならんとお考えになられたことは、私も曾つて小学校、中等学校の校長、教諭或いはPTAに関係いたしまして、小学校の先生がたの指導のありかたを直接体験いたしますと非常にわかる気がするのです。勿論道徳良心の問題でありまして、上から与えられるべきものでもないことは当然でございますし、又個性の確立しておるものならば徳目を上から与えられなくてもみずからの行為を律して道徳的な行為をなし得ることは当然でございますけれども、併しそういう理想的な社会人というものは遺憾ながら非常に少い。殊に終戦後曾つて我々の道徳を規律しておりましたものはすべて失われて而も新らしいものは何も出ておらない。事柄を少くとも高等学校以下の教育或いは社会教育に限局して考えますならば、教職員は道徳教育によるべきところを失つて茫然自失しておるというのがやはり率直に言つて現在の状況だと思うのです。これを何とかしなければならんという文部大臣のお考えは本当によくわかります。文部大臣が或いは変説されたのか知れませんが、変説された心理的経過というのは非常によくわかるので、そういう意味においては理想的な言動は大いにいたすべきだと思いますが、とりあえずとにかく今の何もない状態よりかも何か目標を与えて、少しでも国民道徳を維持し或いは向上せしめよう、殊に若い者の徳性を涵養しようということは、文部大臣のお気持はよくわかりますし私はやはり必要であろうと思うのです。もとより内容につきましては先刻来お話がございましたようにいろいろ、なお新聞発表と申しますか読売新聞の報道せられました内容を仮に基といたしますれば、いろいろ批判の余地はあろうと思います。私は多少考えもありまするし又浅学でここで自分考え方を具体的な個々のことについて申上げる場合でもないと思いますから、それらの点についてはなお十分検討を要するといたしましても、なお何らかの形で少くとも暫定的な形でも或る程度の徳目的なものをこれらの教育者に示すということは私は必要だと思うのです。そういう意味におきましては国民実践要領を出されるということについては賛成したいと思うのです。ただ先ほど矢野先生からお話がありましたように、国民実践要領として出されます場合には焦眉の急は、天野先生は恐らく直接の動機は、今申上げましたように私は青少年の教育の部面であろうと思うのですが、これを国民一般に示すような形になりまして出るといたしますれば、過般来新聞紙上或いは雑誌等で以て相当な批判が行われておりますように相当な問題だと思うのです。ですから場合によりましてはそういうふうに適用せられる範囲を言及されて、こういう教育の目標であるということにされて出されることも一つ考え方ではないかというふうに私は思います。  それから次に天野文部大臣が、天野文部大臣個人発表することの可否ということでありますが、内容につきましては私が申上げません。検討の要はあるが併し何らかあのような形をもう少し推敲して、教育のよるべきところを示す必要があると私は思いますけれども発表形式に関しましては、私も各参考人からお話がございましたように相当に問題だと思います。この委員会で頂きました資料で見ましても、内閣の告示であるとか文部省の訓令というふうな形式を避けた、そういう天降り的な権威的な立場を避けたということは天野文部大臣みずからおつしやつておられるのでありまして、その点についての御配慮の点はよく一応わかつているのでありますが、併しながら先ほど来お話の通り文部大臣天野貞祐として国民参考に供する意味ではあつて文部大臣天野貞祐として発表されるということは相当問題だと思うのでございます。金森先生が先ほど言われましたように、最近の考え方では政府機関にある身分と個人との身分は分けて考える、個人としては言論は拘束されない、こういうお話。一応観念的にはわかるのであります。その通りであります。我々も将来だんだんそういう考え方になると思いますけれども、併し少くとも一般大衆或いは青少年、教職員等、高等学校以下の教職員を対象としてこの問題を考えますならば、なお旧来の考え方は決してなくなつているのではございませんで、天野文部大臣個人として出されたと言われましても在職中こういう形式で以てお出しになるならば、これは相当弊害を起すというふうに考えざるを得ないのです。それならばどうして天野先生個人でお出しにならないかと私は考えるのですが、そこに又天野先生のお考えがあるので、この焦眉の急に応ずるためにただ参考にとどまると一応おつしやつておられるのですが、参考にとどまる程度で漫然とです、個人的な著書としてお出しになるというふうな形では、やはり教職員等に対する感銘も薄いし、悪く申しますればやや権威が薄いので実効を挙げることが少いのではあるまいか。これは私勝手な実は天野文部大臣の心理を推測してのことでございますが、そういうお考えもどこかにおありになつて文部大臣天野個人として文部省の議を経て出すと参考書には書いてあります。その辺に天野先生の非常に苦しい御苦衷があるのだと十分推察できるのです。併し結果におきましては今申上げましたようにこれは天野文部大臣として政府の出されたことと混同せられがちでございまして、絶対に私は避けて頂きたい。天野貞祐氏が文部大臣の椅子を去られたあとで完全なる個人としてお出しになるか、或いは文部大臣の椅子におありになる間にお出しになるならば、これも先ほど来お話がございましたように、個人の著書としてでもお出し願いたい。若しももつと強いて申しますならば、どうしても在職中もう少し強い形でやらなければならんというならば、アメリカ等ではやつておりますように、小学校長会議とか、中学校会議に行かれたときに天野さんが個人として、この国民実践要領内容のようなものを講演せられると、そうしてそれが謄写されてだんだんに行われて行くというような形でならまだまだ私はよいのではないかと思うのでございまして、要するに現在お考えになつておる発表の仕方は私は反対でございます。  それから道徳的中心天皇にあるという文部大臣のお考えに対する見解でございますが、これはすでに先ほど来いろいろお話がございました。ただこの点につきましても私は天野文部大臣のお考えがよくわかるような気がするのでございまして、良心とか道徳とか申しましてもこれは非常に抽象的なものでございまして、高等学校以下或いは青年、少年、児童等にとりましては具体性が非常にないのでありまして、どうしても道徳の淵源にどつかもう少し我々にぴつたりと来るような具体性を持たせたいというお考えて、道徳中心ではないが道徳的中心、この辺の哲学的思弁は私もむずかしくてよくぴつたりと了解しにくいのでありますけれども道徳的中心天皇に求めるということになつたのではないかと私は憶測するのでございますが、この点につきましても先ほど来お話がございましたように日本天皇は明治以前までは政治的権力の淵源でもなければ、国権の総攬者でもなければ、宗教的中心でもなければ一に国民の親愛の中心として御存在になつたということでございます。それを明治以来悪用いたしまして今日の日本に至つたということはもう私から申上げるまでもないのでございます。そういう意味におきまして国民の親愛の中心であつた、国民統治の象徴であつたという建国以来と申しますか、明治以来七百年来、或いは一千年以来の事実を尊重して今度憲法国家の象徴となされたのでありますが、これをこの際お気持はよくわかりますけれども道徳的な中心天皇に求めるということになりますれば、先ほど来いろいろお話がございましたから私は冗説することを避けますが、これはやはり道徳の権威を他に求めるような形になりまして、又従つてこれもいろいろお話がございましたように、天皇が折角君臨すれども統治せずというイギリスの方式にやつと戻つたのに、道徳的な中心という言葉を使われることによつて再びいろいろな悪用を起し、或いは皇室に御迷惑をかけ或いは日本の国の象徴にひびが入るというふうなことにつきましてはこれはもう悔んでも追いつかないところでございまして、この点につきましても是非天皇道徳的なる中心を求めるというお考えは私はやめて頂きたいと思うのでございます。  要するに全体といたしましては私はこういうふうなものができることは必要である、こういうふうに考えます。曾つて軍国主義の時代に例の道義の感覚におきまして、軍国主義時代にあつても敢然として闘われた天野先生なげでありますから、天野先生を御信頼して現実教育の場においては必要なのであると私は確信いたしますから、更に内容及び発表方法につきましては十分御検討を頂きまして、副作用の完全にない然るべき形で以て公表されて、国民一般教育者及び若い世代の参考に資せられることが結構ではないか、こういうふうに私は思うのでございます。
  19. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) それでは次に小石川窪町小学校校長の山口友吉君
  20. 山口友吉

    参考人(山口友吉君) 先に愛宕中学校長から現場にあるものの立場をお話になりましたので、私も大体同感でありましてできるだけ重複を避けたいと思いますが、とにかく天野先生が現在の国情を憂えて何とかせなければならんというお気持はよくわかるのでありますが、少くとも青少年に対する道徳教育の問題は、先ほど野口先生からもお話がありましたように、すでに道徳教育のための手引書要綱が発表されて、我々現場にある者はこの手引要綱を十分に自分のものとして民主的な社会を形成してその進展に貢献することができ、自主的、自立的な積極性を持つた人間を育てたい、教師自身もそういう人間にならなければならないとしてこれ努めておるわけでありまして、これ以外にこうしたことは私は全く不要だと思うのであります。但し青少年以外の者に対してはこうしたものが相当必要じやないかと思うのです。どうか青少年以外のために実践要領を十分御研究になつて適当な時期に発表して頂きたいと思います。なぜ青少年には必要がないか、こういうことを申しますと、一つは今申上げましたすでに道徳教育のための手引要綱ができておるということ以外に、従来の教育がとかく非常に型にはまつた教育であつて、殊に道徳教育においては全く型にはまつて真実の人間の育成ができなかつた。狙いは或いは必ずしも悪いとは言われなかつたけれども、余りに幼少な時代からその子供の自然の発達というものを無視して直接完成された大人の型をここに押しつけるという、この弊害は非常に恐しかつたものでありまして、今日においてはそうしたことを十分我々が反省して、できるだけ子供の自然の発達というものを見つめて、それに適したところの教育、殊に又道徳教育ということになると私自身の経験からいたしますと非常にむずかしい問題だと考えております。例えば或るこれは心理学者の何か調査されたものであつたと思うのでありますが、小学校の子供は何が悪いのか何がいいのかというようなことに対してとにかく褒められたからいいのだ、叱られたから悪いのだ、こういう考えを持つておるものが二年生あたりで八割以上である。これは御承知のようにだんだん減つて行くのでありますけれども、五年生においてすら六〇%はそういうものである。六年生になつて大分これは減つて、その数ははつきり私は覚えておりませんけれども、そうした時代の子供に対する道徳教育というものは実になみなみならんここに教師自身の創作というものが必要なのであります。折角そういう努力を今続けておるところへ持つて来て国民実践要領といつたようなこうした徳目の羅列的なものが出て参りましたならば学校教育の逆転になるんじやないが、こうしたことを私は憂えるのであります。なおこの道義の高揚について青少年を中心としては、政府においてはもつともつと児童が本当に道徳的に成長するような環境を作つて頂きたい。これは文部大臣一人じやありませんが政府つてこの社会情勢をもつと浄化するような政治的な手を打つて頂きたい、その一端として青少年以外にこうしたものをお考えになるとするならば私は大変結構なことだと思うのであります。但し内容については皆さんからいろいろお話がございましたが私も読売新聞のものをちよつと拝見しただけでありますが、ながんずく問題はやはり天皇道徳的中心であるというその項目、それからなお第二章の家の章については相当これは表現に問題があるんじやないかと、かように考えております。以上であります。
  21. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) それでは次に教育学者の矢川徳光君にお願いをいたします。
  22. 矢川徳光

    参考人(矢川徳光君) 私は今まで皆さんの申上げられたことと少し関係の違う方面から申上げでみたい、こういうふうに思います。それでいずれあとで御質問の時間もおありのようでございますので只今は簡単に申上げてみたいと思います。大体申上げたいと思います事柄は大きく三つばかりの項目について考えてはどうか、こう思つたのであります。それを考える場合にやはり先ほどからおつしやつておりまするように、文部大臣の原文がないのでございますので、読売新聞で拝見したわけでございます。それを拝見いたしまして次のような三つの部分に分けて考えたらどうか、こう考えます。それは一体道徳教育というような事柄が言われるようになりましたのはどういう事情から言われるようになつたのかという事柄を考えてみなければならないのではないか、それについてどう思うかということが第一であります。それから第二番目には天野さんの案のようなものが国民に、又特に青少年にどういうふうに受取られるだろうか、こういうことです。それから第三番目には新らしい道徳はもうすでに教師諸君の中から生まれつつある。例えば先ほど或るかたのお言葉の中にありましたが、教職員はよるべきところがなくなつて茫然自失しておる。こういうようなことは全然認識不足なのである。すでに新らしい道徳は生れつつある。その生れつつある新らしい道徳を、何がどういうふうに生れないようにするための妨害をしておるか、こういうようなことをやはり考えてみなければならないのではないか。そういうことを考えてみました上で表現がどうだこうだというようなことは第二次的のことであり、形式的には今のように大臣のお立場にあるかたがお出しになるのがどうだというようなことが出て来るのではないかと思います。それで今挙げました三つの考え方から御参考までに私の考えを申上げてみたいと、こういうふうに思います。それは道徳教育が叫ばれるようになつて来ましたのは、若しこれを或る時期に限るといたしまするならば昨年の春頃からだと思つております。而も又その中で何らかのきつかけを求めるといたしますならば、やはり学生諸君のどうも最近の動きが思想上面白くない、こういうようなふうに考えられるようになつたところから来ているのではないかと思います。そのことは具体的に申上げますとイールズ事件を前後といたしまして道徳教育ということがいろいろな形で言われるようになつた。明瞭なはつきりとした事実は覚えていませんし、実はこの御報告をするようなことのお知らせを受けました後にもなお忙しかつたものでありますから調べて来ていませんが、大体その頃に吉田首相が教育憲章といつたようなものを出したらどうかといつたようなこともお考えなつたようであります。それから又文部大臣のほうでも修身科を復活したらどうかというような事柄をお考えになつておつたと伝えられておりまして、それがそうこうしておりますうちに朝鮮事変が六月の下旬に起きまして、いろいろ朝鮮の戦況も変つて行つた。その戦況が変つて行きますうちに八月に参りまして次のような事情になつた。と申しますのは釜山が第二のダンケルクになるかも知れない、こういうような形勢になつて来た、これが八月の事情でございますが、その八月にアメリカから第二次教育使節団の学者たちが五名お見えになりました。そして日本の学校をお調べになり、大学から小学校に至るまでをお調べになりまして九月に報告書をお作りになりました。その報告書が実は今日の日本道徳教育が必要だという声の、言い換えるならば外部的な裏付けとなつているものであります。その点につきましては一、二特徴的な事柄を申上げますと、その報告書には例えばこういうふうなことも書いてある。それはあの報告書の中の高等教育機関のことについて述べられているところでありますが、高等教育機関の中では大学の教授会の権能を制限するほうがいい、こういうようなことが書いてあります。それから学生の自治的活動をもう少し制限するほうがいい、こういうことが書いてあります。日本。高等教育機関というものを本当に教育のあり方として望まれるような形にするのにはそういつたような方面の手段をとることが必要であると思うと、こういうふうに書かれているわけであります。こういうことは、イールズ事件、その後発展していましたところの学生諸君の運動でありますとか、それから又学問の自由を守るという学者的な、そうして又憲法によつて約束されたところの人権を守られますところの教授会等の中にも或る動きがあつたわけであります。そういうものを考慮されたものに違いないと私は考えるわけであります。  それからその次には同じ報告書の中で社会教育に関する項目がございますが、この社会教育に関する項目では非常に注意しなければならないことが言われている。それは日本教育ででき上る人間は、例えて言えば極東で朝鮮事変といつたようなものが起きているので、そういう事変のために対処するところの一つの武器となるべきものである、こういうふうにおつしやつております。これは私どもとしては大変困るのでありまして、日本教育が何かしらそういう事変の場合に使われる武器をこしらえるところである、こういうような事柄を外国のかたから申されますと、これは実は私ども国民としては大いに警戒しなければならないことではないかと、そういうふうに思うのであります。第一番に考えてみましても我々は憲法で戦争は放棄している、こういうわけでございますし、教育基本法の中でも平和的な国家及び社会の形成者を育成するのだと、日本教育の根本精神が書いてありまするのに、そういう事変の場合の武器となるところの日本国民を作るのが日本教育一つの重要な働きなのだと、こう言われると、これは憲法及び教育基本法の関係から申上げまして大変おかしいと、こういうふうに思います。それから又教育使節団のかたがたのおつしやつていることそれ自体の矛盾していることがある。と申しますのは教育使節団が自分たちの確信するところによれば、日本は平和愛好国の一つになるようにしなければならない、こういうふうにおつしやつているところとも矛盾して来るのであります。そういう関係で報告書が出まして、これは文部省でも御存じのように「文部時報」の特集号を今年の一月でございますか出されましてそれにつけてございます。それには又文郡省が終戦後例えば第一次教育使節団のかたがたの教えに従つて教育をやつて来た、その後如何に日本教育が進展してきたかということを文部省の側からおつしやつている報告書も同時に編集してあるわけであります。その一番初めに持つて行きまして天野文部大臣が次のようにお書きになつている。第二次米国教育使節団の日本教育に対する評価は我々としてはやや好意に過ぎると思われるほどである。こう大臣みずからお書きになつておられますが、日本の特に社会教育の部面のことでございますけれども日本教育によつてでき上るところの人間を或る場合には武器とするのであると、こういうふうにおつしやつておることを、私どもはやや好意に過ぎると思われるというふうには考えられないのであります。そういたしまして、一番しまいに参りまして、道徳的精神的教育、こういうような項目を設けておりまして、その中で単に社会科だけでなくていろいろの方面で道徳教育をおやりになるほうがよろしいと、こういうふうな教えが示されております。特にその中においては宗教的な儀式に列席することが一番いいことであると我々は思うというようなお諭しもそこに出ているようなわけであります。そういう関係から考えまして、私は日本の最近の道徳教育の重視、こういうふうな事柄は、どうも日本人だけとして問題を取上げたのではなくて、内外呼応いたしまして道徳教育が必要であるというようなことがやはり言われるようになつておると思うのであります。まあその証拠が文部省みずから「教育時報」に編集してお出しになつておるものの中にあるわけでございます。そういう背景を経まして今日までやつて参りましたその一つの現われ方といたしまして天野さんの今度の案が出ておるとこういうふうに思います。  ところでもう一つ日本で修身科という名義を避けるといたしましても、とにかく道徳教育の何か要綱を出すことがよいであろうというようなことが言われて参りました。その結果今日出ておりますものを天野さん御自身のものと見るといたしましても、とにかくこれは天皇道徳的中心にしようとお考えになつておるわけでありますが、先ほどから皆さんもその点については疑問をお持ちであるわけであります。私も大変これは疑問を持つどころではなくてこれは絶対にいけないと、こういうふうに考えます。それは日本国内の問題といたしましても、外国の文献を見てみましてもこれは大いに私どもが警戒しなければならない考え方であると、こういうふうに思います。と申しますのは例えて申上げますと、外国の官庁のものではございませんけれども、御存じのニユーズ・ウイークというものがあります、ニユーズ・ウイークの今年の一月二十二日号を見ますと次のようなことが書いてある。それはいろいろなことを書いてありますが、四つばかり項目を並べて書いてある。その第四番目の項目の中に日本人天皇の下に高度に社会的な団結力を有し世界中で最高度に訓練された国民である、こういうふうに書いてあるわけであります。つまりもう一回申上げますと、日本人天皇の下に高度の社会的団結力を有し世界中で最高度に訓練された国民である、このようにほめてもらつているわけであります。それは第四番目の箇条書でありますが、その第一番目の箇条書は日本人というものは戦つて死なんとする意思を持つておる者である、そのようなふうに書いてあるわけであります。こういうものはただばらばらに並べてあるわけではないのでありまして、第二番目、第三番目の項目を見ますと日本人は大陸軍、大海軍、大空軍を十分に操縦するだけの力を持つておる、安い労働力を提供してくれる、こういうふうに第二、第三の項目には書いてございまして、その両端を飾るものが第一項目といたしましては、日本人は戦つて死なんとする意思を持つておる、こういうふうに言われ、第四項目は先ほど御紹介いたしましたような項目になつておるわけであります。そういう背景がやはりある。そうしてその場合に、不幸にして向うでも天皇ということに着目しておられる、こういうことであります。尤もニユーズ・ウイークは一雑誌にしか過ぎませんけれども、併しニユーズ・ウイークのようなたくさんな部数のものを出します力の奥には、やはりそれだけの資本を動かすところの人々があるということを考えなければならないと思います。それからいろいろ申上げたいことがございますが、そのように日本の青年と申しますか、第一番目の戦つて死なんとする意思というのは、直訳しておるような言葉になつておりますので、いわゆる青年層が考えられております。そうするとその青年層に最近非常に明瞭に期待をかけられた方がある。これは朝日新聞であつたと思いますが写真を掲げてその記事が載せてございましたが、先般お見えになりましたローゼンバーグ女史がたしかお帰りになる前の日、内外記者団をお集めになりましてお話になつた中に、我々は予備隊を人的資源として大いに期待すると、こういうふうに書いてございます。そういうことを見ますと、片方は一商売の雑誌であり片方はああいうかたでございますけれども、やはり全体として考えますと、日本の青年に何を求められておるのかということを我々はよほど注意しなければならないと思います。時間の都合もございますので、少し途中うまく論理的には繋がらないところが出て来るかと思いまするがお許し頂かなければなりません。その際にです、特に予備隊の場合を考えてみますと、予備隊の選出されておるところはどこかと申しますと、例えば東北のような特に単作地帯あたりから出て来ておるところのパーセンテージが非常に多い。そういうことを考えますと、これはやはり天野さんがここに一つ案文を出された、こういうことでなくて、もつと広く問題を考え日本の青少年たちにどういう心がまえを持つことを望まれておるのか、こういう事柄を考えてみなければならない。つまり日本の国の政治情勢、経済情勢というものと結び合わせて考えまして、その中で今度のような国民実践要領というものが出たことにつきましての私ども考えかたを整理しなければならないのではないかとそういうふうに思います。それから第二番目の項目といたしまして、先ほど申上げましたように文部省案のようなものが国民に、特に青少年にどういうふうに受取られるかという点につきましては、実は天野さんの案文につきましても、読売新聞に出ました案文につきましても大変疑問を持つておるわけであります。一々は申上げることを省きますが特徴的な一、二を申上げますと、天野さんは先般有名な「山びこ学校」にお出かけになりまして、激励又はお褒めの挨拶をされて帰られたそうであります。あすこの学校の江口一という青年は文部大臣賞をもらうような立派な綴方を書いた人でおりますが、あの全体に收められております「山びこ学校」という書物の中に次のようなのが一ヵ所ある。これは今日「山びこ学校」なるものをこちらに持つてつておりますけれども、今は要点だけ申上げてみたいと思います。それは父の思出ということです。江口俊一という青年が書いているのでありまして次のように書いてある。つまり自分のお父さんは戦争中自分は好まなかつたのに青年学校の先生にされた、そうしてむりやりに送り出された、その場合に天皇陛下万歳ということで送り出されたのであつた。これはたしか十九年だつたと思いますが、そうして次に一年たつかたたないで終戦になつた。お父さんはいつ還つて来るかと思つておつたらなかなか還つて来なかつた。併ししばらくたちましてから心配しておりましたところへ戦死したという知らせが来た、そうしてお骨をとりに来いということであつた。そこで雪道の中を秋田まで出かけられないので、どこかしらんがどういう事情かそいつを届けられるようにしてもらいまして、子供がお骨をもらいに行つた。そのお骨の箱を抱きながら滑るといけないので一生懸命抱いておつた。足許が危かつたがなんとその箱は軽かつたであろう、帰りまして開けてみたところ位牌が一つつていてそれ以外には何も入つてなかつた。そうしてその次はお葬式であつた日はにぎやかであつた。帰つたあと我々のうちは一しお淋しくなつた。それからしばらくしたあとでございますが盃が届けられた、それでうちではこういう話をした。お父ちやんをとつて一つくれるなどというのは、どうも納得行かないねと、こういうことであります。原文で読めばいいかもしれませんがそういう話でございました。お父さんは天皇のために死んだのだ、だけど我々に盃一つくれたつて我々は有難くない。お父さんを返してもらいたいものだと、こういうふうに子供は書いております。そういう子供がある、而もその学校は文相みずからが訪問された学校であるわけです。そこでその子供たちが今は卒業しておりませんけれども、今度道徳的中心天皇であるというような形で提出されたらこれはどうであろうか。こういうような子供たちは「山びこ学校」だけにあるのではなかろう、こういうふうに考える次第であります。それから又最近長田さんが編集されておいでになります「原爆の子」を見ますとやはり天皇の問題が出て参ります。片岡修という当時中学校の一少年であつた人が、やはり天皇の問題について疑問を提出しておる。そういうような人々にこのような国民道徳実践要領、こういつたようなものが読まれる場合を考えてみますと、私どもはよほど慎重にしなければいけないのではないか、こういうふうに考えます。それから若し天皇が一人格であるといたしますならば、私は一人格としての、つまりこれは国民言つていいのかどうかわかりませんが、一人格という限りにおいては国民考えるのでありますが、そういう一国民が持つておるところの性格というものが、天野さんが道徳的中心とされておる、その道徳的中心とされておる中で出て参りましたところの具体的徳目と突き合せて考えました場合に、大変どうも遺憾な点が多い、こういうふうに私は考える次第であります。そうしますと、ますます私といたしましては、天皇道徳的中心であるというような事柄は絶対に反対しなければならないと考えるわけであります。  それから簡単にするために、先ほどちよつと申上げましたのでございますが、例えば成るかたのお言葉に、教職員はよるべきところがなくなつて呆然自失しておる、こういうふうなことをおつしやいましたけれどもこれは違う。具体的に申上げますと最近日光で日本教職員組合が教育研究大会を持つたわけでございます。それにつきましてはいろいろ報道が行われておりますので御存じだと思いますが、私も講師団の一人に加えて頂きまして第十一分科会に関係しました。その第十一分科会ではどういうことがあつたかと申しますと問題は平和教育の問題でございます。平和教育の問題をすでに研究され実践されておるかたがたから報告をして頂いたのでございまして、第二日目にそれにつきましての討議がございました。その討議には次のような五つの大項目を掲げて討議をしたのでございます。第一番目には平和は守れるか、第二番目には国際理解の指導ということ、第三番目には平和のための歴史教育、第四番目には道徳教育、第五番目には教師のあり方という五つの項目であります。その五つの項目の中で最後の二つをとつて考えてみたいと思います。道徳教育という項目での討議の場合にいろいろなことが申されましたけれども、決してそこに集つて来たところの人たちは全然呆然自失なんかしていないのでございます。例えば次のような意見が述べられておりますから具体的に申上げてみたい、こう思います。それは今日我々は教師という立場にある、だから我々日教組が努力して学者の協力も受けて出してくれたところの教師の倫理綱領、尤も現在は草案だそうでございますが、その教師の倫理綱領が我々の道徳の精神を現わしておるわけであります。倫理観の精神を現わしておるわけなのだ。これは我我が教師として受取る場合であるけれども教育一般にこれは当てはまるところの精神であると我々は考える、これ以外には我々は現在置かれておる状態の中においては道徳はあり得ない、こういうようなふうにはつきり言つたのは例えば高知県であります。一、二具体的に申上げてみたいと思います。それから又ばらばらになりますが、新潟県ではしつかりした人間を作るという意味において我々は曲つたこと、誤つた事柄にはしつかりと反対するような性格をこしらえるところの教育をしなければならないということも言つておる。それから鳥取県でございますならば平和をどこまでも守る人間を作らなければならない、こう言つておる。そうしてそれに三つの項目を挙げております。第一といたしましては自我を確立しなければならないということ、第二番目には批判的抵抗的な力を持つた人間でなければならないということ、第三番目には倫理的に深く生きる人間を作らなければならない、良心に忠実であることが必要であるというような事柄を鳥取県では言つております。静岡県のかた、埼玉県のかたも、抵抗の倫理ということを説いております。千葉県の人は労働者の人権を無視する者はこれすべて悪であるという事柄を、これも子供たちの納得できるように指導したいということを言つております。秋田県でございますと、先ほどから問題になつておりますところの道徳実践要領、あれは方法の面或いは技術の面で参考になることを提供してくれておるが、一向に今日の青少年たちを育てて行くところの指導の内容というものを示していないという事柄は、これから出るかも知れませんがその際に秋田県の人は申して残念がつておりました。そうしてどういつたかと申しますと、聞いたものをここに書いてあるのでありますが、我々は天野道徳教育をやらず人民的道徳教育をやるというような事柄が盛んに言われました。同じく秋田県の人の言葉といたしましては人民の立場に立つ愛国者を育てなければならないというような事柄を言つておる。又は横須賀市の場合でございますと、我々は自分たちの生命すら守られていないのである。防空壕はあるけれども我々の入る防空壕はない、外国人の入る防空壕しかない。そういうような状態の中において一体どういう道徳教育をしたらいいのであるか、我々は指導に非常に困るのであるということを痛切に訴えておられました。その他いろいろございますが、そういうものは今申上げましたのは断片的なことですけれども、全体として考えますとやはり五十万を組織している日教組の中の勿論それは全部であるはずはないわけでございますけれども、日光に集まられた人々、特にこういうことを研究するという理念から集まつて来られた人たちの中には、明瞭に自分たちみずからの道徳というものを打立てようとするところの意欲が現われている、具体的な徳目さえ出ているというふうに私は考えます。そういたしまして今申上げましたようなことを研究し、大会の最後の日には三千人近くたしか集まりまして討議もしたのでございますが、御紹介したような事柄には皆がこれは賛成しているわけでございます。集まられたかたたち一々がその通り言葉で賛成されたというわけではございませんが、圧倒的にこれは認めているわけでございます。この人たちが地方に帰つてそうして自分たちの教育を現場で研究すると共に、新らしい徳目を自分たちの教育現実の中から生み出して行ごうとしており、別の言葉で申上げますならば決して茫然自失しているのでなくて本当にしつかりとやりたい、徳目も明瞭である、方向も明瞭である、だけれどもそれをそのように現場の教師たちが生かして行くことについては妨害がある、そういう関係であろうと私は思います。  そこでこの際若し文部大臣の職におられるようなかたが、何か道徳というような事柄について発言なさり又は何かお書きになるとするならば、今私ども読売新聞を通して拝見しているようなものでなくて次のようなふうにして頂いたらいいのではないかと私は思います。つまりものを言うのは天野さんの同僚として仕事を今日政府の中でおやりになつているかたたちに向つて実践道徳を説いて頂きたい。それがカントの精神ではなかろうかと思う。それから又それ以上の力に対して、つまり言い換えまするならば上に向つて道徳を説いて頂きたい。天野さんの下のほうにおられるところの教職員は自分たちみずから徳目を考え出し、それを子供たちにも又理解させ、そういう性格に子供たちが成長するようなふうに指導して行きたいと思つておられる。その指導して行きたいと思つておるのを抑えないで、下に向つてはものを言わないで、上に向つてものを言うような道徳を実践して頂く、そういうような趣旨から何事かをなさるならば大変結構なんではないか、こういうふうに考えております。  大変長く時間を頂きまして失礼でございましたけれども、今申上げました事柄につきまして何か又御質疑がおありでございますようでしたらわかつておりますことなら申上げたいと存じます。これで失礼いたします。
  23. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) それでは以上で本日お招きいたしました参考人のかたの御意見全部承わりました。参考人のかたには甚だ御迷惑だと思いますが、委員のほうから質疑があるならばいま少し時間を貸して頂いて質疑をお受け頂ければ結構だと思います。
  24. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 簡単にお伺いいたしたいと思います。大変お忙しいところを斯界の権威者が多数おいでになつていろいろ貴重な意見を聞かして頂いてありがたかつたのでありますが、お忙しいかたばかりなのでお帰りになられて非常に残念だと思つておりますが残つたかたに少しお伺いしたい。それは私御意見を承わりましておおむね意見が一致しているかと拝聴したのでございますが、その中で私ここで是非お伺いしたい点は、この参考人意見が食違つている点ですが、その顕著なるものは形式内容についてはいろいろ論じられましたけれども、それらを考慮すれば、こういうものが必要である、こういうふうに述べられたかたと、必要でないと述べられたかたがはつきり分れている。これは最も私は顕著な今日の参考人意見ではなかつたかと思うのでございます。その必要でないということを最も強く強調されたのが現場におられる野口参考人と山口参考人であられたわけでございます。そこで私この両参考人に承わりたいことは、現場におられる先生がたとしては教育を行われるに当つて、やはり社会と隔離されて教育が行われているわけではございませんので、社会要求に即応してそうして教育をなされている、こういう立場において最近よく新聞ラジオでも報道され、更に国会の決議案ともなつているところの官公吏の腐敗ですね、こういうものは現場におられる参考人としてはどう考えておりますか。これと又、出されようとしている実践要領、それとの関連性を教師のかたはどういうところから見ておられるかということを承わりたい。
  25. 野口彰

    参考人(野口彰君) ちよつと途中で人が来たものですから最後のは……、官公吏の汚職というものについてどういう工合に現場では考えているかということですね。これは非常に遺憾至極だと思つております。いろいろの終戦後の混乱した社会情勢にありまして、政治も経済もなかなか軌道に乗らなかつたような時代であると思います。或いはそういう時代にまあこの辺までは止むを得ないじやないかといつたような多少甘い気持でやられたことが、やや安定しかかつた今日においてそれが会計法にもとつておつたり或いはいろいろなつまり峻厳であるべき規律から逸脱しておつたりするというような、そういう事情もあつたことと思います。そういう点は我々多少年をとつた者から見ますと同情申上げることもできるのでありますけれども、ただ何せ一方は、相手は青少年であります。そういうデリケートな気持というものは到底わかりません。殊に中学校の上級生或いは高等学校あたりにいなりますると、とにかく正直者が馬鹿を見るといつたような、そういう世相に対して極端にこれを憂え且つ憤慨しております、そういつたものの現われと解釈せざるを得ないような工合に受取れるものですから、その点から見ると、非常に現場ではこうした問題は困つておる遺憾至極に考えております。
  26. 山口友吉

    参考人(山口友吉君) 実は現場においても多少ちよちよい遺憾な点もあるわけなんであります。こうした官公吏の汚職事件を見て、現場の我々はまあ極端に言うと我々のやつていることは少々非難されても神様のようなものだ、社会一般というものは実にもう腐敗しておる、こうした考えを一応持つているのであります。なお全然それに関係のないような官庁までも多かれ少かれああしたことがあるのではなかろうかと、こうした不安を抱いておるわけなんであります。まあ子供の場合は中学校よりもまだ幼少の小学校でありますから大してこれという表面に出たものは目撃しておりません。
  27. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 両参考人の御意見では、手引要綱ですでに道徳教育の目標も立つて、着々とこれを描きつつあるのでこの立場をもう少し見ておつて頂きたい。これを更に助成推進さして頂きたい、こういう意味で全く一致しておられるわけですが、さつき山口参考人が、こういうものは青少年には必要じやないが青少年以外に出してほしいと、こういう御発言があつたわけですが、その青少年以外にこういうものが必要だから出してほしいというのと、私のさつき質問したのとは関連性を持たせてお考えになつていらつしやるのか、その点と、それから青少年以外の国民を対象としてこういう実践要領を出すという場合には、山口参考人は伝えられるところのこういう形式とか内容というものを肯定されていらつしやるのかどうか、その点をお伺いしたいと思います。
  28. 山口友吉

    参考人(山口友吉君) 青少年の場合は前に申上げたように、まだ子供は極端に言いますと道徳生活以前にある。道徳生活以前にある者をこうした道徳をまあ押上付けるということは、やがての正常な道徳教育ということに非常に障害を来す、こういう意味で現在青少年においてはこうしたものがさほど必要でない、場合によると却つて混乱を来すと、まあかように考えたのであります。青少年以外の問題については現在の官公吏の汚職事件といつたようなものも無論ございます。又社会全般のいわゆるこの賭博的行為が公然と行われるといつたような、こうした不健全なことについては、どうしても青少年を護る意味においてもやはり大人の道義高揚というものの必要を感じておるわけであります。まあそれにはこうした実践要領出して非常に効果があるかどうか、それ一はよくわかりません。そうした方面に手を打つ必要を感じておる、こういう意味で申上げたのであります。
  29. 野口彰

    参考人(野口彰君) ちよつと私先ほどお答えしたのですが、よく御理解がいかんことがあつたかと思うのですが、実は道徳教育手引要綱を作ります建前ですね、これは最初から道徳教育というものは一般教育とは二元的でない、こういう建前に立つております。つまり一般教育が徹底すればおのずから道徳教育が徹底するのであつて二本建てになつてはならないと、こういう立場であります。従いまして道徳教育の目標というようなものでも、結局教育の根本目標と同じであつて、具体的には学習指導要領というものがございますが、そうしたものに示されております教育一般目標、それがつまり道徳教育の目標である、こう考えております。ただ併しそれが地方によつて或いは学校の事情等によりましてどこを目標としなければならないかという問題が起きて来る。だからそこから各地区或いは地方或いは年度の多少のずれが出て来、或いは具体性が出て来るのであつて、それを離れて別途に道徳教育というものが二本建てにあるべきものではない、こういう立場を堅持しております。それでありますからこうしたものがだんだん今生れつつありますので、矢川先生が先ほどおつしやるのと違つた見解でありますけれどもとにかくそういうところから生まれつつありますので、それをいま少し待つて頂きたい。余り短兵急にふたをかぶせるように枠をかぶせるような工合にする必要はない。即ちそれの時期と内容がよほど適切なものならば、こういうものを示すことが決して不必要ではないが、現在の段階においてこうした内容を示すことは不必要なことと思うのです。
  30. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 両証人の現場におられるかたの自信ある陳述に私も非常に傾聴し、自信を持つたわけですが、私社会人としての関口参考人にお伺いいたしたいのですが、それは只今現場のかたはそういうことを言われておりますし、まあ青少年、学校教育を受けている以外の国民大衆に対しては、或いはこういうものが必要ではないかというような意向も一部のかたにあつたようでございますが、立法府におる私がこういうことを申上げるのはおかしいかと考えるのでございますけれども、そうしてこれは私は意見になつて申訳ありませんが、こういう内容のものを出すことによつて果して社会道義とか道徳というものが高揚するかどうかということなんです。立法府におる私が言つてはおかしいのですが、まあ立法とか行政、司法こういう方面の粛正、刷新を強力にやつて、まあ国法に背いての汚職、こういう方面に走つたような者は厳罰に処するということが第一であつて天野文部大臣が出さんとするこういう内容のものは従的なものじやないか。意見になつて恐れ入りますが、そういう見解を持つておりますが、関口参考人社会人としてどういうふうに社会の窓から見られておるか、ちよつとお伺いいたしたい。
  31. 関口勳

    参考人(関口勳君) 実際教育の場に立つていらつしやいます先生がたに私が少し或いは言葉が言い過ぎ竹かも知れませんが、私の申上げた点について十分な御自信を持つていらつしやることを今日伺いまして非常に意を強くするのであります。併し今文部委員のかたから社会人としての私とこういうことでありますが、社会人としての立場から見ますると一部の進んだ先生がたは、そういうふうに道徳教育指導要領なり或いは日教組の臨時綱領なりによつてそれぞれ自己の目標を定めて教育の場に実践しておられるだろうと思う。併しながら私が曾つて接触した先生がたなどがこの頃でもおいでになることがありますし、私先ほど申しましたようにPTAの関係の仕事をしておりますから、それらの窓口から現実に見ましたり聞きましたりしましたところでは、大量観察をいたしますと、必ずしも教育の場全体から考えますと非常によくやつている所は、決してないのではなくしてお話のような自信ある先生方は相当あろうと思いますけれども、併し国の教育全体から見ますと必ずしも私はいわゆる徳育が十分に行われているとは断言できないと思います。アメリカのカリキユラムは我々の国にも応用されまして、そうしていろいろ教科が変りましたことは御承知の通りでございます。アメリカの社会科の科目の中には、参考書にも書いてあります、資料にも書いてございましたが、余り徳育に触れるようなことは書いてない。日本にもその通りつて来ておる。ところがアメリカではピユリタンが入つて参りまして宗教的なものというものはおのずから建国以来社会にキリスト教的なるものが瀰漫しておる。日本におきましては遺憾ながら殊に終戦以来はそういう宗教的なものは殆んど地を払つてないような形であります。従いまして徳育とか体育とか知育とか分けることは野口先生のお話の通り邪道ですが、観念的には分けられるのでありますが、教育の場においては一体のものであります。併し小学校、中学校の各科の教育におきましてあらゆる面において徳育が加味されなければならないのでありますが、併しそういうところを狙つて各科の教育についてそういう徳育がおのずから滲み通るような指導ができるかということについては、今申しましたように新らしくできましたカリキユラムには何もはつきり具体的なものはないのであります。これはないけれども、今の道徳教育指導要領、手引要領というようなものがだんだん浸透して行けば、将来は恐らく先生がたが自主的にこれを道徳教育に資するように扱い得ると思うのでありまするが、先ほど申上げましたように現在は私の見るところ必ずしもそういうふうに行つていない。さればこそいろいろ青少年の問題が出て来ると考えるのであります。併しながら私先ほど申上げようと思いましたけれども城戸委員が申されましたから私遠慮したのでありますけれども、一面におきましては今のような状態でありますから相当研究せられ推敲せられた形においては或る程度の徳目を示すことは必要であると私は先ほど申上げたのでありますが、併しこれは文部省の訓令或いは文部大臣天野貞祐では困るということを申上げておるのですから、そういたしますれば相当弱いものにはなつて来る。ですからこれだけで以て日本道徳を建て直すということは考えられません。一つの有力なと申しますか一つの貢献はすると思いますからその点でもやつて頂きたい。同時に今お話の通り、或いは今城戸委員の言われましたように日本政治、行政、社会をもつと粛正して、そしてお話のように汚職等は厳罰にしてやることが一つと、むしろそれよりもよく言われますように、国民生活を安定する面におきまして、政府がもつともつと大きな努力を払われなければいけない。二つのものが相待たなければ私はほんとうの道徳教育効果は挙げられないものだと、そういうふうに私は思うのです。
  32. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 もう一つ簡単に質問させて頂きます。山口参考人にお伺いいたしますが、こういう道徳基準というようなもりが政府機関から押しつけられてはならないという点では全部の参考人かたがた意見が全く一致しておるのでございますが、天野文部大臣はこういうことを言われておるのですね、天野個人として出すので、権威は持たしたくない、従つてまあ諮問委員会にもかけない、国会の文部委員会にも御相談しないで出すんだ、若し国会の文部委員会にでもかけると権威を持つことになるから、その権威を持たせることを避けるためにそういう方法をとらないんだと、こういうことを天野文部大臣はずつと主張されておるのでございますが、私承りたい点は、今伝えられるような恰好で出された場合に教職の場にある教職員の皆さんがた並びに生徒に対して権威を持つか持たないか、教育の場にある山口さんの意見を承りたいと思います。
  33. 山口友吉

    参考人(山口友吉君) それは受けるほうの立場ちよつと私お答えできません。或る教室にとつては大した権威を持たない。或る所では非常な権威を持つかも知れない。
  34. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 一般的にどうお考えですか。
  35. 山口友吉

    参考人(山口友吉君) 一般的には或る程度の権威を持つのではないかと思います。
  36. 矢嶋三義

    ○矢嶋三義君 では野口さんはどうですか。
  37. 野口彰

    参考人(野口彰君) 一般的には相当権威を持つものと考えます。
  38. 高良とみ

    高良とみ君 関連しますが、権威の点は、権威は持つてもこれを守らなければ何にもならないのでありましてその点はもう一遍お答え願いたい。特に野口委員からは、先ほどもこれからあるべき民主社会の自主的、自発的人間等は社会自体から明確に集積され又生み出されて来るものと考えるという発生的なお考えがあつたのです。そういう点から行きますると、徳目の羅列、或いはもうきめられた一つの哲学的抽象前提があるということは、そういうふうにみずからの中から悩みつつ、新らしい解決を出そうとして来る教育界或いは社会道徳性の発達にプラスになるかマイナスになるか。むしろ障碍になるというふうに考えられ得る点があるかないか、その点をお伺いしたいのであります。即ち先ほどは権威は持つだろうと言われましたが、それには効果があるかということ、それからあとの問題は今申上げたように邪魔になるのではないか。むしろ畸形的な性急過ぎる一つの型づけになつてしまうのではないかというお考えを承わりたいと思います。
  39. 野口彰

    参考人(野口彰君) 権威がありますから好むと好まざるとにかかわらず或る程度効果がある。それから自然にその社会において割り出され、又集積して来ることを期待しておるとこう申上げましたのは、ただ手放しでそうやつておるのではありません。この道徳教育の手引要項の根本精神としていろいろ基調をなしておる考え方にいろいろありますが、その著しい一つ人間性に対して深い信頼をおいておる。こういう考え方一つの基調になつております。これはものの見方はいろいろありましよう。我々これを作ります者の考え方の根抵に相違があります。つまり個人の尊厳とでも申しましようか、これは何ものにも増して尊いものである。従つてそれは同時に自分だけでなくて、あなたに対しても同様な尊いものである。であるから我々はお互いに協力してお互いに尊敬して行かなければならん。こういつたような、これはもう数学の公式のようなもので大前提で人間性に対する深い信頼を置いておりますのでその考え方からだんだん押しつめて参りますが、ただ単に手放しで、ぽかんと参るという意味ではありません。それからそれじやその場合に、今のような指導の実践要領のようなものが出たらプラスになるかマイナスになるかということですが、これは余りにこれまでの日本歴史が、或いは教育歴史と申しますか何と言いますか、本当に個人の尊厳というような、自分良心というものを見つめ一貫性を持たせて行動するというようなことはなさすぎました。従つて何かよりどころがあり、より大きなものから掛声がありますと殆んども考えることをやめてそつちのほうに皆んなついて行つてしまうわけでありますが、我々は過ちと言いますかそういう事実を体験しております。今度こそ新しいこの教育こそ何とか青年は青年なり、少年は少年なりにともかくも一つ考えさして、そうして特に自分良心に訴えて、納得のできないものはどこまでもこれを批判するくらいの気持で育てて行かなければ、これから五十年後、百年後の日本人としては困るじやないか、こういうような考え方はあるのであります。余りに性急にやられると困る、こういうのであります。
  40. 高良とみ

    高良とみ君 大体同じお考えだと思いますが、山口参考人にお伺いしたいのでありますが、先ほど環境浄化のお話があつたのは勿論でありますが、併しこの性格或いは道徳性の発達は自然の発達、殊に道徳性の自然の発達は、こういう言葉がなかつたと思いますが、後天性を含んでおるものだというお考えがあつたのであります。道徳生以前にも生活はあるのだから、上から或いはまわりから一つのきめられたカテゴリーを哲学的に抽象したものを与えられるということは、その発育の上には障碍になるというような口ぶりがあつたと思うのであります。その点は野口さんと同じかと思うのでありますが、私の了解いたしまするところでは、先ほど野口さんから一つの自然科学の法則みたいなものだ、方程式みたいなものだというお話もありました通り、心理学的な発育段階があるということを十分お認めになりまして、今日現場の教育者は心理学的な発展を指導しておられる、こういうふうに了解してよろしうございましようか。即ち道徳生活以前の状態にあるものに対しても、昇華されてしまつた抽象的哲学思惟をそこに与えることは障碍になるということにあなた様御賛成でございましようかどうでしようか。
  41. 山口友吉

    参考人(山口友吉君) 障碍になると思います。
  42. 野口彰

    参考人(野口彰君) 今高良先生の心理学的な法則だけで道徳教育考えるかという御質問でございますが、私どもはそうまでは考えておりません。単に自然の心理学的なというのではなくて、むつと広く解釈して来れば自然の心理の中に、社会性というものがあり、真善美聖ということを憧れるという性質がありますから、その意味において単に心理学的ではなくて、価値的な方面からも勿論理解しております。そこはちよつと誤解のないように願います。
  43. 堀越儀郎

    委員長堀越儀郎君) 他に御意見はございませんか、それではこれを以て本日は終了いたすことにいたします。  終りに当りまして、公述人の皆様方公私非常に御多端であるにかかわらず、我々の希望をお入れ頂いて御出席の上、十分御意見をお述べ頂き、我々の参考になることが非常に多かつたことを感謝いたしましてお礼の言葉に代えます。ありがとうございました。    午後一時二十五分散会