運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1951-11-20 第12回国会 衆議院 文部委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十六年十一月二十日(火曜日)     午前十一時十分開議  出席委員    委員長 長野 長廣君    理事 岡延右エ門君 理事 佐藤 重遠君    理事 若林 義孝君 理事 小林 信一君    理事 松本 七郎君       甲木  保君    鹿野 彦吉君       高木  章君    井出一太郎君       笹森 順造君    渡部 義通君       浦口 鉄男君  委員外出席者         参  考  人         (日本教職員組         合中央執行委員         長)      岡  三郎君         参  考  人         (日本教職員組         合中央執行委員         会高等学校部         長)      成田 喜澄君         専  門  員 石井つとむ君        専  門  員 横田重左衞門君     ――――――――――――― 十一月十五日  教職員行政整理等に関する請願周東英雄君  外三名紹介)(第一二八九号)  公立学校々舎の災害復旧費国庫補助等に関する  請願外一件(坂本實君外五名紹介)(第一二九  〇号)  六・三制校舎整備費国庫補助等に関する請願外  一件(佐藤榮作君外五名紹介)(第一二九一  号)  教職員行政整理に関する請願小林信一君紹  介)(第一三六七号)  静岡大学電子工学科設置等請願福井勇君  外一名紹介)(第一三六八号)  学校校舎白蟻駆除予防対策に関する請願(床  次徳二君紹介)(第一三八〇号)  学校給食継続実施に関する請願廣川弘禪君紹  介)(第一四二八号)  六三制確保に関する請願坂本泰良紹介)(  第一四四三号) の審査を本委員会に付託された。 同日  教職員行政整理並びに義務教育費国庫負担等  に関する陳情書  (第七六四号)  学校給食継続に関する陳情書  (第七六五号)  同(第七六六号)  北信寒冷地帯学校屋内運動場建設費に関する  陳情書(第七  六七号)  教育委員会設置を市町村の任意とすることに  関する陳情書  (第七六八号)  学校校舎建築補助金基礎単価引上げに関する陳  情書(第七六九  号)  万国平和旗設定に関する陳情書  (第七七〇号)  六・三制堅持等に関する陳情書  (第七七一号)  六・三制完全実施等に関する陳情書外二件  (第  七七二号)  六三制確保等に関する陳情書外二十二件  (第七七三号)  教育公務員行政整理の対象としないこと等に  関する陳情書外三件  (第  七七四号)  教育財政確立等に関する陳情書外十四件  (第七七五号)  講和条約締結日を国の祝日とすることに関する  陳情書  (第七七六号)  海技専門学院を神戸商船大学改組昇格に関す  る陳情書  (第七七七号)  文化財保護委員会事務国立博物館移管に関す  る陳情書  (第七七八号)  教育充実に関する陳情書  (第七七九号)  教職員給与ベース引上げ等に関する陳情書外  四件  (第七八〇号)  義務教育費国庫負担制度確立等に関する陳情書  (第七八一号)  清水小学校教育施設モデル校に指定の陳情書  (第七八二  号)  教育財政確立等に関する陳情書外一件  (第七  八三号)  教職員待遇改善等に関する陳情書  (第七  八四号)  戦災学校復旧促進に関する陳情書  (第七八五号)  を本委員会に送付された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  参考人より意見聴取の件  六・三制教育制度実施に関する件     ―――――――――――――
  2. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員長代理 これより開会いたします。  過日の委員会におきまして、日本教職員組合より、六三制教育実施に関する教員給与問題について、参考人を招致して意見を聴取することに決定いたしましたが、日本教職員組合中央執行委員長岡三郎君及び同高等学校部長成田喜澄君を参考人に指名いたしたいと存じますが、御異議ございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員長代理 御異議なしと認め、岡三郎君、成田喜澄君の両君を参考人に指名いたします。
  4. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員長代理 これより六三制教育制度実施に関する件を議題といたします。本件に関連して教育公務員給与問題について参考人より御意見を聴取いたします。岡三郎君。
  5. 岡三郎

    岡参考人 私、日本教職員組合責任者の岡であります。本日衆議院文部委員会において、参考人としてここに意見を述べさせていただくことを、厚く感謝いたします。  教員給与に関しまして、今委員長の方から意見を述べろ、こういうことでございますが、現在の教員給与は、終戦以来一般公務員と並行して二千九百円ベース以後同等になつて来たのですが、ちようど二九ベースのときに教員勤務状態検討してみた際、教員教壇において子供を教えているという時間だけではなくして、それに伴うところの、いかに子供教授して覚えたかという結果としての試験、あるいはテストの答案を調査するような大きな時間、あるいは作文その他つづり方のようなものについての推敲、あるいは教科研究というふうな多様な時間がありますし、そのほか学校特有の各種の雑務もございまして、勤務時間が教壇上の時間に比べて非常に多いというふうな点、これが必然的に勤務に現われて、超過勤務その他の問題が論議されて来たわけですが、当時は超過勤務については、教職員としては簡単に結論が出し得ないという角度において、教職員に対して特別に大体二号俸程度超過勤務その他を含めて給与体系の中に繰入れることの方が妥当ではないかというふうな考えで、現在まで参つたわけでございます。その後七九ベース実施に伴いまして、級別推定表実施という問題が行われ、以後現在においては、この級別推定表実施伴つて、なお給与法律案に基くところの給与別表というものの検討段階にあつて文部省並び人事院にこの意見が具申され、これが実現に努力されておる、こう考えております。  そこで一番問題になるのは、この別表を作成するにあたつて給与がいろいろと理論的に言われております。生活給あるいは職能あるいは能率給とか、いろいろと申されておりますが、最近論議の中心になつているのは、この前この委員会で申されたのを漏れ承つておりますが、学校種別によつて俸給表を別個につくることが妥当であるかどうか、こういう観点が今一つの問題になつております。私たちの態度といだしましては、学校種別に基本的な差等をつけられるものではない。教員の実際の勤務状態及び教育重要性から考えるならば、簡単に学校種別によつて差等をつけられ得るものではない、こういうように思考しております。  その論拠の第一は、六・二・三・四制の教育体系実施されて以来、われわれが最も重視するものは、従来のような知的教育にとどまらず、六・三三・四を通じての教科課程、こういつたものをつくつて、その上に一貫したところの子弟を教導するという面から考えて、小、中、高、大学いずれを問わず、各部面教育を全面的に推進するためには、それぞれの分野に有能なる職員を配置しなければならぬ。つまり小よりも中が優秀な先生、中よりも高の方が優秀な先生、こういつたような考え方では、その間にアンバランスができまして、並行的にこの教育増進、実質的な効果をあげることは、非常に困難ではないか。そういうふうな角度で、教育民主化とともに、各学校にはそれぞれ優秀な教員が配当されて来たわけです。特に新学制伴つて中学校設置されましてこの教員の配当につきましては、当時中学校は、施設その他が非常に貧弱である、そういう観点から、この物的に貧弱なるところの学校内容充実させるためには、一に有能なる教師を配当しなければその効果があがらない。こういう観点で、私神奈川でございますが、神奈川におきましても、当時有能なる教員高等学校並びに小学校から中学校配置転換をいたしまして、この物的条件の備わらないところの教育充実に邁進したわけでございます。そのようなわけでわれわれといたしましては、並行的に小、中、高、大学を問わず、教育の全般的な視野から、これらそれぞれの特殊性に応じたところの教育の進展をはかるということが行われなければ、実質的な教育効果はあがらない、こういう観点をとつて参つております。  もう一点は、これらの学校間において、特に人事交流と申しますか、小学校中学校高等学校大学、それぞれの教科において、いろいろと研究されておる部面の実質的な実践過程、実際の理論を教育に及ぼして行く場合においても、これらの学校を通じたところの教師相互人事交流というものが、新教育においては特に重視されなければならぬ。従いまして、高等学校職能教育を担当した部面の人も、中学校そういつた現状を十分知つておらなければならぬし、より中学校職業教育その他の面においても、人材が配当されなければならぬというふうな一つ見解から、十分相互間に人事交流を円滑にするためにも、俸給体系はやはり基本的には一本がよろしい。但し、この場合において、それぞれの学校特殊性がございますので、それらの点につきましては、基本的な給与体系と別個に、研究費その他において、大学職員あるいは高等学校職員、その他中学校職員小学校職員それぞれに、基本的な給与体系以外に、その仕事十全に遂行するためにも、研究費的ないわゆる給与というものを考えて、そうしてそれぞれの仕事分野に応じてこれを研究して行くならば、その実績が向上されるのではないか、こういう雪にわれわれは考えておるわけでございます。特に義務制高等学校を別個にするという考えもございますが、これの関連につきましても、最近政令諮問委員会その他によつて答申されておる学制の問題について—これは十全検討はなされておりませんけれども、われわれとしてあの試案を一瞥したときに、現在の新制中学コースの三と高等学校の三、あるいはこれを二にして五年制、あるいは六年制の職業教育的な一つ体系を打出そうという考え方が出ている。また高等学校と上級の短期大学の二年、あるいはそれらの三年をくつつけて、それで一つコース考えているというふうな面から考えても、簡潔にこれらの学校すべてにおいて体系をつくるということになるならば、将来の構想を指向しても、学校種別というものはみぞをつけるという結果になつて人事交流の面のみならず、実質的な学校運営においても、支障が当然指向され乗る、こういうふうにわれわれは考えております。そういう面においては、どういうふうに具体的に処置をとればいいかといえば、やはり私どもがそれぞれの担任の仕事分野において、非常にむずかしい問題でございますけれども、やはりそれに相応する仕事能率、あるいは内容に相応するところの研究的な費用研究費というものを配置するならば、その人の固定的な体系ではなくして、その人が配置された業務に応じて、その仕事十全に遂行するところの費用、こういつたものが附加されることが非常に好ましい、こういうふうに考えております。  具体的に申しますと、日光の全国的な教育研究大会においても見られたのですが、たとえば、現在の中学校においても、高等学校においても、卒業年限に達したときに、これを一つの工場あるいは商店に就職をあつせんするということになると、教師教科を放擲して、子弟のためにそれらのあつせんをしなくちやならぬ、こういうことになつて来ると、非常に多忙になる。そういつた場合に、一つ専任教師を置くというふうな場合、さしあたりだれでもその仕事に持つて来て役立つかというと’そういうわけには行かぬ。そういつた場合に、中学校職業あつせん専任の、ほんとうりつぱな人を雇うということになるならば、そういう人を固定的に、義務あるいは高等学校というふうな差等を設けた俸給体系の中では、りつぱな人中学校そういつた方面業務に当らせるわけには、なかなか簡単には行かないのではないか、こういうふうな検討もなされております。そういうわけで、全体的に申すならば、その分野々々において、やはり体系を一本にして、そうして具体的には、今言つたような業務運用面においても、相当有能な人をその仕事に当らせ得るという、そういつた費用を別途考慮して、その業務十全に遂行させるというふうな考え方が妥当ではないか、こう考えております。但しただいまのこの所論は、基本的な考えでございまして、当面大学職員については、いろいろと論議されております級別推定表実施されるときにおいても、われわれは一つ妥協策として、大学教職員俸給表というものについては、一応不満ながらも実施するようになつて来ておりますが、現状においては、先ほど私が申しましたように、教育一つの民主的な建設、いずれの学校を問わず有能な職員が配置されて、それらによつて小、中、高、あるいは大学を問わず、全般的に並列的に教育分野を開拓して行くという点と、それから高等学校中学という固定的なものではなくして随時有能な職員交流して、それぞれの分野において相互連関的な教育体系のもとに増進をはかる、それから現在給与体系を、いわゆる職業教育とかいろいろな面についての新しい分野考えて行く場合においても、特に義務教育中学で修了する場合が非常に多いということになるならば、それらの面について有能な人を配置して、そうして適切なる指導を行うという面についても、十全なそういう措置がとられなければならぬ、こういうふうに考えております。  今度はこれを逆に見て参りますと、現実に各学校がどういうふうな卒業状態にあるか。つまり各学校に収容しているところの教師の、いろいろと学歴そういうものが問題になると思いますが、これについては後刻成田君の方から具体的に述べてもらいたいと思います。私たち考えとしては基本的には学歴勤続年数、こういつたものを中心にしてやつてもらいたい。つまり東大なら東大文理大なら文理大を出たものが、それぞれその人の資質に応じ、あるいはその人の今後の研究分野に応じて、お互い中学校に、高等学校に、小学校に、あるいは大学研究室に、いろいろと問題がありますけれども、それぞれの指向する分野において、その人たち十全研究あるいは実践的な教育に当れるように、われわれとしては伸ばして行きたい、そういうわけで、卒業するときに高等学校へ行くから中学校へ配置するからといつて、そこで俸給差等をつけるということは、具体的にいつて非常にまずいのであります。われわれとしては、そういうものについては、高等学校行つた者について、あるいは中学校行つた者については、それぞれの分野において研究費的なものを増加して行くことが好ましいのじやないか。それで、現在附属教師については、従来この面の考慮が払われておらなかつたわけですが、人事院その他においても、附属においては教師の養成をするという観点から、特別指導という面において今回研究費というものが考慮されて来ておる点については、われわれはこれはある意味においては妥当ではないか、こういうふうに考えております。そういう面で、あるいは実業学校において、農夫——つまり子弟の共同に基くところの農業の多角的経営において、有能なる助手とか農夫を雇用する場合においても、そういつた角度において十全の今言つたような研究措置というものがとられれば、低い俸給の中においても、十分にその人たちの人員を確保することが、私たちはできる、こういうふうに考えております。そういうわけで、われわれとしては、学歴勤続年数というものを中心にして、いずれの学校を問わず、一応基本的には給与体系を決定して、そうしてプラスアルフアーの面について、特別の研究を要する面については、特殊の処置をもつてやられた方がけつこうではないか、こういうふうに考えております。  具体的にいろいろと例がございますが、後刻高等学校部長の方から、実態に応じて御説明申し上げる程度にし、なお質問によつてお答え申し上げることにして、私の簡単な公述を終りたいと思います。
  6. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員長代理 次に日教組高等学校部長成田喜澄君。——なるべく簡潔に。
  7. 成田喜澄

    成田参考人 成田でございます。私お話いたします前に、私の在籍しております学校について申し上げておきたいと思います。私は東京都立のただいま小石川高等学校と申しておりますが、昔府立五中と申しました学校教員でございます。私たち仲間の一部の者が、全国高等学校教職員組合というふうな名前を打ちまして、いろいろ皆様方の方にも申立てをしておるということも聞いておるわけでありますが、当然私ども仲間に入つて来てくれる諸君として、他日その機会があることを信じております。その問題がいろいろ皆様方を悩ましておる点については、私まことに申訳なく思つておる次第でございます。私ども高等学校教職員でございますので、高等学校教員給与について、特に高くしてほしいという要望等について、私自身が否定するというふうな理由はないのであります。この点に関しまして、一応私、見解を述べさせていただきたいと思うのでございます。  これは皆様方もよくお聞きだと思いますが、終戦前の教員給与段階というようなことが、絶えず言われるわけでございます。しかし私どもの今日の状態というのが、まだ残念ながら生活給ということを強く要望せざるを得ない段階にある。この点は十分に御認識いただけることと思うのでございます。それは、まだ私どもベースアップ要求をしておる。これが具体的に職能給とかその他の問題が出て来るのは、ベースアップ要求をしないで済む段階まで、私どもが一応の安定度を保つて行けたときに、初めてそういうふうな問題も出て来ると思うのであります。これは昭和九年から十年ごろの、いわゆるエンゲル係数という言葉で申しますならば、大体四〇%以下、三七—八%程度が、まあ大体日本人の生活水準であつたわけでありますが、今日はまだ残念ながら六〇%以上にあるのでありまして、私ども高等学校教員理性に立つて考えてみましても、やはりこの際は生活給ということを強く考えて、そうしてお互いが一定のレベルにまで達しなければならないのじやないか。その場合に高等学校教員であろうが、大学教授であろうが、やはり一応の生活最低基準は十分に守るようにしなければならぬ。この点については、日教組傘下高等学校諸君は、一応全部了承しておるのでございます。ここに大学の問題が、一応職階級的なものを含めて考えられているというふうな見解も成り立つわけでございますが、これはすでに皆様方も御了解くださいまするように、大学教授自身が、現在の給与体系の中においてはまだ十分な生活すらできない。従つて当然自分たちが食わなければならないもの、着なければならないもの、そういうふうなものをさいて、どうやら研究費の一部に充てているというふうな状態にあるのでありまして、これはまつたく生活給というものが十分に今日実現されておらないで、そのうちにただそういつたふうな形がちよつと見えているというだけのことでございまして、私どもとしては当然生活給をより強く叫んで、この点早く皆様方の御努力によつて解決していただきたい、この点をまず根本として考えていただきたいと思うのであります。全高教の関係の諸君も、この生活給の点については、はつきり了承しておるのでありまして、ただその生活給考え方について、まだ分析の十分でない点があるので、形式的に生活給ということを論じておると思うのでございますが、私どもは、ベースアップ要求をしておる段階において、生活給というものが当然強く叫ばれなければならないということは、御了解いただけるものと存ずるのでございます。  第二点として私ども考えなければならないことは、お互い教員職場は、相互に尊重し、敬愛し合わなければならないと思うのでございます。私、先般高教の方の書かれたものを見て、これはまことに教育者としては嘆かわしいことだと思いました。というのは、最も劣等なる者が小学校に行き、そのうち少しましな者が中学に行き、おれたち高等学校にいて、ちよつとおれたちよりプラスの者が大学に行くのだ、こういつたふうな考え方が、一つの基盤になつておるようでございます。私は、この点については、やはり教育全般の立場から申しまして、大きな問題があるのではないかというふうに考えられるのであります。お互いに、教員職場は尊敬し合つて行かなければならない。これは、失礼でございますが、お互い子供学校に託します場合にも、もし小学校教師がすべて女学校卒業程度、助教程度の者がやつて、まことにあぶなつかしい授業をしている、こういうことはほんとうに親の心持としても、何とかあそこにいい先生がいてもらいたいという気持を持つのは当然であります。それぞれのパートにそれぞれの十分な有能の士がおるように考えられ、そしてお互い職場のそれぞれの人間が、お互いに尊敬し合えるような状態に置くことが、最も必要であろうと思うのであります。これは私自身自分の同級生が、ある者は小学校におりますし、おる者は先般中学校ができましたときに中学校におり、それから自分たち高等学校におる者もおりますれば、今、大学の助教授をしておる者で、私ども大学の同期の者もおるわけであります。そういう者がお互いに話し合つたときに、相互に尊敬し合う、その間にあつて大学に残つている者がほんとうに優秀であるというようには、私は考えておりません。これはたまたま家庭の事情や、あるいは教授との結びつきのチャンスの問題で、そういうような問題は決定しておるのでありまして、決してこれが本質的なものの差によつてきまつておるものではないのであります。この場合に、よく大学を小型にしたものが高等学校であり、高等学校をもう一つ下等にしたものが中学校で、小学校至つては、それのまた下である、こういうふうな考え方によつて学校考えるということは、私は根本的に間違いであろうと思う。これは、たとえば一つの品物、お手元にあります灰皿のようなものをつくるにいたしましても、一番基礎原型をつくる職人上絵づくり職人と、これらがそれぞれ段階を持つて分業作業をしておるわけでございます。その場合に、上絵づくり職人のみを重視して、原型をつくる職人を無視するならば、これはどんなにりつぱな上絵づくりでも、どうにもならない。それは資本を投ずる資本主にしても、それぞれのパート、それぞれの職人に同じような敬意を払い、そこに同じような重要性を感じて仕事をすべきものだというふうに私は考えます。そういう点に立ちまして、私は無理に学校の間に軽重の差別をつけよというふうな考え方に対しましては、高等学校教員の一部の者にそういう印象を与えるような言辞があるにいたしましても、高等学校教員の全理性は、そういうものを承認いたさないのでございます。  次に私が申し上げたいのは、お手元に差上げた一枚のまことに粗雑なプリントでございますが、この表を見ていただきたいと思うのでございます。まん中に大きく出ておりますのは、文部省の統計によりますところの小学校中学校高等学綬の各学校種別出身者の表をつくりましたものでございます。次に小さく書いてございますのは、日教組がかつて教育白書で、全国の各学校にわたつて全部調査をいたしました教員出身学校別を統計いたしましたものでございます。それを一応見ました場合に、現在の中学校職員の状況がどういうふうになつているかということを申し上げたいと思うのでございます。  中段の一番左の上にございます東京の例をひとつ見ていただきたいと思うのでございます。東京新制中学校におきましては、六〇%が専三以上、つまり専門学校三年以上の資格を持つている者でございます。そうして専二が一三%、旧制中学校が五五%、大学が一二%、専四が一〇・五%でありまして、東京都におきまする新制中学校は、ほとんど全部が専門学校卒業以上の者をもつて現在構成されへこの傾向は、昨年と今年を比べますと、一層専門学校三年以上の者の率がふえて参つておりまして、旧中、専二の状態というものは減つて参つております。これは中学校教育において、非常にそれぞれいい教員を集めるために努力しておる証左でございまして、私どもは、この傾向は逐次強くなつて参るというふうに確信を持つておるのでございます。なおこれが最も徹底した例といたしましては、御承知の東京教育大学、あるいは奈良の女子教育大学、広島の大学、これらにありますところの附属高等学校中学校との関係を見ました場合に、これらはまつたくすべて学歴が専四以上の者をもつて構成されております。ただ便宜的に中学高等学校とがわけられているのにすぎないのでございまして、日本の六三三の学制の中で、皆様方も非常に御心配いただいております中学校のいわゆる学力低下の問題に関しましては、私どもとしては一生懸命に、ここにいい教員が入るようにというふうな考え方に立つておるのでございます。この傾向は逐次都会地からいなかに及びつつある。もちろん現在のいなかの状態においては、まだ残念な部分があるのでございますが、それでも、たとえば三重県の例をごらんくださいますならば、三重県ではやはり専三以上の者が四二・九%と、それだけのパーセンテージを占めて、逐次向上しつつあるのであります。こういう傾向は、当然日本の教育をプラスする喜ぶべき現象として、私ども考えているわけでございます。  そこでさらに一番下の方に、たいへんきたなく書いて申訳なく思つているのでございますが、そこに大学、高校、中学、小学として、一番左のすみのところにある表がございます。それを見ていただきますと、現在どういうふうに教員の構成がバランスをとつておるか。大学では、現在約四〇%の旧制中等学校程度の資格の方がおるわけであります。この方々がいろいろな形で切りかえられておる。それから高等学校について申しますと、旧制中等学校程度の資格のある者に、大学に行ける資格の者が一五%程度のものは交流し合つておる。それから中学校におきましては、約四〇%程度の者が、これは旧中学校程度の資格としてあるのであります。こういうふうに見て参りますと、全高教諸君の御説明になるのでは、小学校中学校とでは、全然教員構成が1全然ではなく、ほぼという言葉を使つておられるようでありますが、同じでありまして、これを小学校と同一な扱いにすればよろしいのだ、こういうふうな考え方に立つておられるような次第であります。こういう点は残念ながら、非常ないなかの貧しいところだけ見ておるのでありまして、たとえば東京中学校の人や、その他の人がこのことを聞くならば、私はやはり中学校の立場に立つて憤慨するだろうと思うのであります。私どもの努力も、できるだけこれを全部右の方に引上げて行きたいというふうに考えておるのでありまして、この傾向は逐次ふえつつある。このことをひとつ十分に御了解いただいて、こういうふうな段階にありますときに、私どもは、これにどこで差別をつけるべきであるかという点については、迷うのであります。現に高等師範の附属の方々は、給与に対してどういう要求をしておるかと申しますと、自分たち給与大学と同一にしてほしいという要望を出しておるのであります。大学教職員のグレード表と同じものを使つてほしいと叫んで、いわゆる中学校高等学校の方々が要求を出しております。この点は文部省関係の方々も御存じだろうと思うのであります。こういうふうな点は、私ども見解とも一致するのでありまして、日教組高等学校関係のものは、全部こういうふうな見地から、大学から高等学校まで、本俸においては当然一本であるべきである。これがほんとうに日本の教育政策の上から言つてもよろしいことであるという信念に立つておるのであります。これがただいまの教員の充足状況から考えてみました場合に、学芸大学の卒業生というものが、すべて高等学校中学校というようなふうに、もし給与差をはつきりそこにつけて行く形になるならば、私はやはり希望する者はなくなつて来て、勢い小学校には、もうやむを得ず助教程度の者で絶えず充足しなければならない段階が来るのではないか。この点は、私が高等学校教員で、こういうことを申すのはおかしいのでありますが、高等学校教員が、給与が低いからなり手がないという現象については、これはやや問題があろうと思う。ちようどちつとは給与が低くても1大学の助手に無給でもなろうという者があるのと同じような気持で、東京都の高等学校の場合などですと、やはり相当殺到して参つております。こういうふうな現象は、まあ教員自身が、ある程度名前が持つ封建性にも引かれておるのだと思うのでありますが、これは国が教育政策上からいつて、どこへ行つても本俸においては一応同一である。従つて教師はみな自信を持つてそれぞれのハートで授業ができるというようにするのが、私は日本の将来を明るくする教育政策ではないかというふうに考えるのであります。  それでは、最後に、高等学校教員が、なぜそんなに不満を起しておるのかというふうな点について、御疑念をお持ちになるであろうと存ずるのであります。これは私どももかつて、べースーアツプが次から次へと忙しく、一年に二度も行われていた時代におきましては、ある程度まずい現象が起つたことがあるのであります。それはあるいは全高教の方々が、皆様方にも御説明になつたことがあるだろうと存ずるのでありますが、学歴の長かつた者が、学歴の短かい者よりも低くなるような現象が起つたことがあるのであります。この点につきましては、日教組高等学校関係の者も、日教組の中でみなで討議いたしまして、なるほどこれはまずいというので、昨年度、人事院文部省と相談いたしまして、新しい級別推定表をつくつていただいたわけであります。しかし、その級別推定表をつくつていただいたのでございますが、残念なことに、予算関係から、これを完全に二十三年一月一日までさかのぼつて実施するということをしなかつたわけであります。金がないからそういうことをしない。従つて不合理のままのものを、ただ一号俸かぶせるというような形で実施しましたために、今日県によりましては、まだ十分な解決を見ておらないところがあるのでございます。この問題を十分に解決していただいて、昨年度級別推定表実施いたしました精神を十分に実施していただ、く。もう一つは、これは産業教育法の問題のときにもいろいろお聞きいただいたと思うのでありますが、高等学校教員が、前歴の問勝ついていろいろ複雑なものがある。それを機械的に取扱つた場合に、やはり非常に計算がまずくなつて来る。この前歴計算を十分に優位に見てもらう、こうすれば職業教育関係の方も満足していただける。大体私ども高等学校の方々と相談いたしまして、前歴が十分に見られる、それから級別推定表の精神を十分に実施していただける、こういう二点が、今度の給与準則をつくりますときにも、はつきり確認されて、それが生かされますならば、私はこの高等学校関係で給与に関して起つて参ります問題は、一応解決すると思つております。  なお先ほど岡委員長も言われましたように、将来、研究費というふうな問題につきましては、私ども生活給の問題を解決し、当然これらの問題については別途研究して、この点については皆さん方にも十分に御配慮を願うように、私どもとしてもお願いいたさなければならない段階にあるのではないかというふうに考えております。  以上まことに粗雑でございますが、われわれは生活給の案を持つて砦ということと、職場の構成というものは、現在差別をつけにくい状況になつておるということと、それから教員がそれぞれ相互に敬愛し合う段階に置くことが必要であるということ、最後にこの級別推定表の精神を完全に生かすことによつて、今一番高等学校に関して問題になつておる問題が生かされる点を申し上げて、皆様方の御質疑にお答えしたいと存ずる次第であります。
  8. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員長代理 参考人に対する質疑を許します。
  9. 鹿野彦吉

    ○鹿野委員 ただいまのお話をお聞きいたしまして、根本的に人間の待遇に差異を設けないことがよろしいか、よろしくないかということが考えられるのですが、今のお話でも、差異を設けることは認める。しかしながら、学歴と年数にこの差異の基礎を置く、この方がよろしい、こういうような御意見であつたように承りました。そうしますと、今ここに問題は、学歴と年数だけに基礎を置く方がよろしいか、また一応学歴基礎にはなるけれども学校を卒業した後、長い間におけるその人々の努力によつてもたらされた実力というものに基礎を置く方がよろしいかという、この二つの考え方に、この問題は基本的にわけられると思うのです。この点について、ただいま一これはちよつと枝葉末節的な問題になりますけれども大学教授の問題にいたしましても、ただいまの参考人のお話では、教授になることは、たまたま教授とのつながりや、チャンスによつてのみなるというようなお考えであつたようですが、私も大学を出た者ですから、大体わかりますけれども、これはあまりひど過ぎる。これは弱者の叫びということになりはせぬかと思うのです。やはり同じ大学を出ましても、結びつきやチャンスというような問題も、幾分はあるかもわかりませんけれども、やはり大体の態勢としては、衆目の見るところ、より多く勉強をし、より多く能力があつて成績の良かつた者が上級の学校に行くというようなことが常識のようであります。こうした点につきましても、一応考え方に私は不審の点があるのですが、根本的に学歴と年数だけに基礎を置いたならば、学校を出ただけで、その人の一生の幸不幸、その職場におけるところの幸不幸を決定いたしますから、一生懸命努力をするところの励みを失わせる、こういう結果になるのではないかと考えます。  なおまたただいま生活給の問題がありましたが、確かにお説の通りに生活給という問題は、現段階の日本経済界一にあつては、考えなければならぬけれども、しかしながら、基本的に差異を認めるかどうかということがまず考えられる。しかして、これはきめなければならない問題と考えられます。こうしたことについて、私はまず基本的に差異のあるもの、すなわち中等学校高等学校との先生の間において差異を認めるのか認めないのか、私はもう一ぺん今の方の御意見を承つてみたいのでございます。
  10. 成田喜澄

    成田参考人 学歴と経験年数のみによつてものを考えるならば、その職場にとどまることの勇気を失つて来るという点に関しましては、一応私も了承できる点でございます。しかし、これはすべて関連してお考えいただきたいのでございまして、私どもは、ただいま生活給要求をしております。生活給要求という叫びは、相当切実な叫びでございます。この叫び勇れくがしなければならない段階であります。この能力云々という問題になつて参りますと、これは非常に差があると思います。たとえば、高等学校の中においてもピンからキリまである、中学校の中においてもピンからキリまである。これは簡単に絶対的な能力の差というようなことは、私にはちよつと言いにくいと思うのであります。将来この能力というような問題をもつと厳密に考えてみました場合に、私は当然生活給などということを私どもが叫ばなくても済むような段階なつたときには、職場においてその人が十分に力を現わした場合に、その人の力に対して裏づけるようなものを考える時期が参ると考えるのであります。これはただ私見ではありますが、私はそう思います。しかし今私ども生活給要求する段階においては、これはまだ捨てらるべきであるというふうに考えておるわけであります。  それからもう一つ中学校高等学校との関係におきましては、私は今文部省の中においても、一応中等教育として統一し、たまたまローアー・セカンダリースクール、アッパー・セカンダリースクールとして、セカンダリースクールとしての統一した考え方においてものを考えておるわけであります。このセカンダリースクールの形において一番能力のよかつた附属の場合においては、たまたまそのときその人が下級学年を持つておつた。その人が附属中学校の方に席を置いた。その人はたまたま四、五年を持つていたからこれは高学年を持つたというのが実情であります。一番能力的に平均しておるところについては、そういう段階考えられるのでありまして、そういうふうに逐次中学校の質を上げて行くとこに、私どもの責任があるというふうに考えておるわけであります。
  11. 鹿野彦吉

    ○鹿野委員 そうしますと、高等学校と初等中学校先生の待遇の根本的な段階にあつては、生活給が主体であるから、わけることには不賛成である。しかしながら、根本についての差異があることは認める、こういう立場でございますね。
  12. 成田喜澄

    成田参考人 根本においての差があるというのではなくして、これはどんな場合においても個人々々にそれぞれ個人差があるということであります。ここに選ばれて来ておられる先生方と一般市民を比べた場合に差があるのと同じで、これは当然であります。ただ中等教育として見た場合に、差を見るべきかどうかという点については、私は差があるというふうに考えることは、かえつてよくないというふうに考えておるわけであります。
  13. 鹿野彦吉

    ○鹿野委員 問題は、高等学校先生になる人と初等中学先生になる人との間において、あなたは今チャンスという言葉で言われましたが、これは人間の幸不幸という問題で表現できるでしよう。この幸不幸の加わつた面において、努力と実力、幸不幸、こういうようなものの総合したところの結果において、同じ教育を受けました場合でもいろいろに配置されるという面もあります。しかしながらこの問題は、私はあまり問題にならないのじやないかと思います。全体から申しまして、中等学校先生になるべき立場の人と、高等学校先生になるべき立場の人とにおいて、常識的に、より高い程度教育をする者の方が、より低い教育をする者よりは困難であるという考え方が、私は普通ではあるまいかと思うのですが、この点について、あなたはいかように考えられますか。
  14. 成田喜澄

    成田参考人 私は困難度の問題におきましては、これは教師のそれぞれの良心においてならば、どの部分についても同様な困難度があるというふうに考えるのが、正しいのではないかと思います。先ほど委員長研究費のことを申されたのでありますが、もしここに差を見るとするならば、研究費的なものによつて十分に裏づけらるべきであつて教育は、それぞれの立場に立つて実施するときは、それぞれ絶対であるという考え方に立たなければいけないのではないかと思うのであります。先ほどのお話は、この程度の低いという——私が先ほど言つたのは、全高教諸君が、ときぞれ義務教育というのは、白痴程度の者がおるから、レベルが低くて済むのだ、教師の頭が低くて済むのだ、こういう言い方をするのは、私は教師の良心としてまことにまずい言い方ではないか。それぞれ一人一人の人間をりつぱな者にまで仕上げて行く、その階槽を持つておる以上は、すべてが責任を持つてしなければならぬ、そういうふうに私どもとしては考えるわけでございます。
  15. 鹿野彦吉

    ○鹿野委員 あまり時間をとつてもしかたがありませんし、根本的に考え方が違うのでありますから、たいがいのところで打切るつもりですが、率直に言いますと、大学を卒業して高等学校先生をしておるあなたが、小学校先生をしなさいと言われたときに、勇気と誇りを持つて、喜んで引受けるお気持がありますか。
  16. 成田喜澄

    成田参考人 私、実は小学本科正教員の免状を持つておるのでありますから、そういうふうな、小学校教育自分に最も適しておると考えた場合には、小学校に行くことにやぶさかでございません中学校へ参りますことも、これもやぶさかではないのでございます。ただいろいろ考え方に、小学校へ行つたら、うつかりすると時代がかわつて来て、給与を切り下げられて、昔のように低い考え方の、小学校先生とおまわりさん、こういうふうな考え方で社会が待遇して行く、こういうふうな段階になれば、喜び勇んで行く者はない。私ども仲間中学校に行く者と小学校に行く者の希望を募つたこともあります。私どもお互いに校長さんに相談したりした。しかたがないから給与政策の上からいつて中学校へ行く者には何とか特別な給与を与えなければならないのじやないだろうか。これはやはり大よりも中が、中よりも小が低くて、低級な者を置いているのだというふうな社会の一つの感じ方ですね。こうものが早くから根を張つている。ことに小学校先生などには、低い者が行くのだというような根を張つた考え方が社会に彌漫している。これをほんとうに直して行くことが、日本の教育をりつぱにし、社会から尊敬される状態にするのじやないか。小学校に行つたために、この人は将来非常にりつぱな報酬ももらうし安定もする、そうしてその人に対して父兄も尊敬する、中学校においてもそれぞれみなしかりである、こういうふうな段階になつて来ることが、日本の教育のために最も正しい行き方であるというふうに考えておるのであります。この点、何かそこへ行つたらあぶなくなるというふうなことが予想されているような段階において、お前行くなら落し穴ができている、そこに行つたらおつこちるぞというような考え方では、ほんとうにみんな安心して教育の道にいそしむことはできないというふうに考えます。
  17. 鹿野彦吉

    ○鹿野委員 ただ問題は——討論するわけではありませんが、現在の日本は、能力のある者が能力のない者よりも、努力する者が努力しない者よりも、より多く恵まれるというような考え方のもとに立つて、日本の今の国家は運営されているわけです。しかしながら、それが理想的に行つておるかどうかということはわかりません。現在の実情は、確かに小学校先生よりは、高等学校先生の方が一応能力がある、高等学校先生よりは、大学先生の方が一応能力があるのだというふうに、先生という分野において考えられておるわけであります。だから、こうしたことを基準にして、この場合にあなたが、高等学校先生をやることも、小学校先生をやることも、少しも差異のない気持で奉職できますかどうか、こういうことを実は聞きたかつたわけでございます。しかしながら、大体あなたのお考え方についても、よくわかりましたので、このことについては、私は質問を打切ることにいたします。
  18. 松本七郎

    ○松本(七)委員 せんつて高教の方の公述を伺つたときに、新しい教育制度ができてから、何か高等学校というものが、行政機構の中でも、それから給与の面でも、一般に軽視される傾向が強い、これを何とかして是正したいということが、給与を三本建にする一つの理由であつたように私は伺つたのであります。給与の点は、先ほど成田さんのお話に触れられておりましたが、それ以外に“何かこの点について御意見がございましたら、伺つておきたいと思います。
  19. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員長代理 成田君に注意しますが、ここの文部委員というものは、こういうことについて、全然のしろうとではございませんから、聞かれた点のみに関して、簡潔にお答えを願います。
  20. 成田喜澄

    成田参考人 高等学校教育が、そのほかの面において軽視されるということは、私高等学校ができましてから、ずつと見ておりますが、中央の文部省におきましても、各県の予算の面におきましても、特に高等学校なるがゆえに軽視しておるということは、いえないのではないか。そういうふうには、私は考えておりません。ただ高等学校教育の一部である職業教育の過程におきましては、例の総合高等学校がつくられるときに、戦災による設備の復旧が十盆行かなかつたとか、いろいろ問題があつたことは私も認めます。しかしながら、これは今日逐次解決されておつて、予算その他の面において、高等学校なるがゆえに貧弱にどうこうされておるという実例は、私は承知いたしておらないのであります。ただ予算の面におきまして、高等学校の問題が中央においてはつきりわくづけして負担するという形になつておりませんがために、何となく不安だという気持はあるのでありますが、地方ではそれぞれ高等学校の問題については、割合にかわいがつてもらつておるところが多いのじやないかというふうに考えておるのであります。
  21. 松本七郎

    ○松本(七)委員 それからもう一つは、先ほど成田さんのお話で、何か全高教の方から、小学校は劣等でいいんだ、中学校高等学校大学に行くにつれて、すぐれた者がなつておるということが言われておるというお話がありましたが、この前の全高教の方の公述では、私はそういうことを聞くことができなかつたのです。それはどういうことを言われておるのですか、ちよつと明らかにしてもらいたい。
  22. 成田喜澄

    成田参考人 これは先般文部委員会に配られましたいろいろの理由を述べております中に、そういうふうな考え方を基盤にしなければ書けない言葉が出ておるわけであります。たとえばページが打つてございませんが、十一ページ、十二ページに書かれております記事の内容、それから五ページのところにあります考え方、こういうふうなものが、そういう質の低い者が行つているんだという考え方の基盤に立つて書かれております。そのことを申したのであります。
  23. 松本七郎

    ○松本(七)委員 その文章を読まれた感じというか、そういう基盤に立たなければ書けないと御推定なさつたわけですね。
  24. 成田喜澄

    成田参考人 そうです。
  25. 笹森順造

    ○笹森委員 参考人の方にお尋ねしたいのですが、これは先ほど鹿野委員からお尋ねのあつたことに対して、成田参考人が答えられたことに、多少関係を持つようでもありますけれども、やはり私どもは基本的な考え方をきめたいから、もう一ぺんお尋ねしたいと思います。  日本の国の政治の根本を考えてみますと、国民の教育を高めるということのために、国家財政の力を注がなければならない現段階を、私どもは痛切に考えているわけであります。でありますから、教育のための費用を投ずるということは、国家としては消費ではなくて、これは投資であるということを、長い間私ども話をして来たわけであります。そうして特に問題は、教職員の全体の待遇を改善することであり、どうしたならば私たち給与ベースを上げて御満足ができて、後顧の憂いがなくしてその天職を全うし得ることになるかということであろうかと思います。この数年来、私どもはこの問題について熱心に取組んで、今日まで参つたのでありますが、先ほどから参考人のお話のごとく、いまだに日本の経済の状況は、給与が私たち生活を十分に満たすに足りないという段階にありますことは、これは私どもそう思つております。でありまするから、これを総体的に上げて行かなければならないということについては、これも私どもこの予算を審議するにも、この委員会先生方の待遇を改善する場合にも、必ず考えなければならない問題であります。そうして相対的に上げることをする努力が、まずなされるべきであるので、この点は私ども今後ともして行かなければならない。ところが、今内容に触れてのお話は、給与基準を一本にして行くということでありますが、私は先ほどの鹿野委員がお話になつた問題の底に興味を感ずるものがありますから、根本の考えをもう一ぺん聞いておきたいと思う。つまり先ほど来のお話で、教育体系の一本化、人事交流のために、学校の階梯による職員給の差等をつけることはしてはならない、単に学歴勤続年数を基準とすべきだ。そのほかに研究のために、必要であるならば特に費用考えるべきだという考え方については、私は一応その線まで行くことは同意しますけれども、しかし鹿野委員が言われましたように、やはりここにもう一つ考えなければならない要素を無視してはならぬと、私自身は思うのであります。私どもが長い間教育に関係しておつたことを振りかえつてみますと、少くとも大正から——まあ昭和になつてからでもありますが、初めて小学校先生をする今日の助教というような者、当時の無資格の先生は、二十三円から始まつていた。そのとき中等程度の師範学校を終つた者は四十三円の俸給を受けていた。それから中学校教員となる資格を持つていた者は、最低六十円くらいから始まつていた。高等学校教員は百円以上から始まつていた。大学教授は低いところで百五十円くらいから行つていた。こういう差等があつたことが今から二十五年、三十年前の状況であつたでしよう。しかし、これは今日になつてみまして、そういう状況ではいけない、生活給として一応だれもが要するだけの金を得なければならないということはわかる。ですが、やはり小学校先生になり得る人は多いのです。中学校先生になれる人はそう多くはない、高等学校先生になる資格を持つている人は、さらに少くなります。いわんや大学における学問の蘊奥をきわめるために研究をし、進めて行くということのために、適当なる資格と実力を持つている人は、きわめて少いのであります。こういうことを考えてみます場合に、それぞれの段階における努力というものが、過去の資格とその研究の実力をそこに現わしているということになつているのであるから、これを全部一本にすることは、私は少し無理だろうと思う。特に文化の基本的な理論を、これから追究して行かなければならない日本の将来を考える場合に、何もかも一本にしてしまうということは、無理ではないかということを考えますので、私は鹿野さんの言外に含んでおりますその意味に共感を覚えまするために、最後に申し上げますが、特殊の資格のために十分の準備をした者に対する俸給差等を認めることを、全然否定す戸のかということを、特に聞いておきたいと思います。
  26. 岡三郎

    岡参考人 私が先ほど申しました点について申しますと、基本的に新しい学校制度が発足いたしまして、現在の教育そのものの実質を上げるには、小中高大学を連関した一つ教育計画の中にこれが投入されなければ、実質的の効果は上らない。つまり小学校がだらしのない教育をやつていたら、中学校教師がいくら奮闘しても、なかなかできぬし、中学校教師がろくでもない教育をしていたら、当然その残津が高等学校に行くというように、総合的に私ども考えておるわけであります。そういう建前で、一つの理想的な考え方のもとに、小・中・高・大学いずれにも、それぞれの優秀なメンバーが行つて、それぞれの教育の面におけるリードをして行かなければ、並行的な教育の実質が上らないのではないかという考えを持つております。しかし、現状においてこれを考えるならば、大学ならば大学において、それぞれの研究分野に当られる特質的なものがあるという点について、一つの妥協として大学教員については、級別推定表のときに新しい体系というものをわれわれは認めざるを得なかつた。そういう面で現在実際的に考えている部面としては、小・中・高においてわれわれが考えてみる場合に、基本的にそれぞれの教育面におけるところの交流といつたものを考えて行つた場合に、たとえば、高等学校教師をしていて、時至つて高等学校の校長になるということがなかなかむずかしいといつた場合に、その人が中学校の校長ならば転出できるという場合も、われわれは考えている。つまり中学校教師をしていても、小学校の校長にもなるというように、それぞれの分野においてその人の能力がある場合において、自由自在、潤達に行けるという交流の姿が望ましい。だから、その人に能力があるならば、その人が高等師範、文理大、今の教育大学を出た場合に、初めに中学校教師をやる。たとえば教科担当なら教科担当で図工なら図工をやる。そうしてその人がある程度二年なり三年なり教育課程をやつて高等学校に籍を移して、その中においてまた教諭を五年なり六年やつた場合には、どうしても全体的の関連から、またその人が中学校教科全部をもつとわれわれは認識しなければならぬということを考えているという部面からいつて、結論としてその人がまた中学校に帰つて来るというやり方で、その人の能力に応じて、ぼつぼつ高等学校の校長にもなり得るところの年齢と経験を積んで実力もある。ところが、高等学校の校長は数が少いという面で、中学校の校長にその人の能力を買われて出るということを考えて行つた場合に、交流の面において人材がそれぞれ生かされて行く方途が出て来ると私は考える。そういう面で、その人の俸給体系というものは、何も一つのものによつて拘束されるということではなくして、今言つたような連関性の中においてその人たちの特徴が出て来るならば、高等学校なら高等学校に入つて、教頭なら教頭で終つたという形ではなくて、時至れば中学校の校長にも転出するという特殊の方法でやれば、それぞれの道において人材というものがそれぞれ見出し得る。またその人の質において、もしも図画なら図画、あるいは工作なら工作で道を立てて行く場合に、学校行政という面において不適当であるならば、その人はその道においてやはり伸びて行かれる方途を考えて行つた場合に、中学校の図工の教師であつても、年数がたつたら校長さんと大体同程度俸給にも行けるような方式を考えて行つた場合に、その人の実力といわゆる経験年数に応じて、高等学校教師を一生やつて教頭で終るというよりも、あるいは中学校の校長にも出てもらい、あるいは中学校教師として実力を買われた人も、中学校から小学校に出て行くというように、それ相応の実力に基く一つの道を通れる方法を見つけて行くことが、学校運営全体からいつて望ましいというふうに考えております。そういう面で、その人の特質に応ずる給与というものは、たとえば校長なら校長に行つた場合に——これも一つ考えでございますが、特別に教員から校長に行つた場合には、一号俸なり三号俸なり飛ばして、その人の教育努力に対して報いるという考え方をここに持つて来た方が、相当打開策が出て来るのではないかと考えております。だから、少くとも教員の面においては、各種の学校経験を積み重ねて、その上に立つて学校行政なら学校行政の面に携わるということなら、相互交流したところの知能を持つた者が、新しい教育制度においては最も効果が発揮されて好ましいと考えております。そういう面において、その人の努力が発揮されて行つた場合に、高等学校なら高等学校だけでなくして、中学校の校長に転出する道も大いに開くという角度でやられた方がいいと思う。ただこれを俸給体系において別にしたり何かすると、結局基本的な観念として上だとか下だとか、いろいろな考えが出て来て、そのために学校種別の間に感情的なものができて来て、交流というものが具体的にはうまく行かぬという傾きになるということを、われわれとしては非常に心配しておるわけです。だから、特質的なその人の能力というものが生かされておることは、私は教育内容においても当然だと考えております。
  27. 笹森順造

    ○笹森委員 特殊な資格について考えるという結論であつたようですから、別に私それ以上お尋ねする必要はないのですが、そこで、もつと具体的に給与体系考える場合に、やはり形に現われたものが出て来る必要があるのではないか。そこで伺つておきたいのは、従来小学校教師の資格、初等中学教師の資格、また高等学校教師の資格、大学教授、助教授の資格、あるいは学院にまで及ぶというようなことがあつて教員としては一級、二級という制度を設けたときにも、私ども国会でいろいろ審議をしたわけでありますが、私ども長い間教育に関係しておつたときに、一ぺん免状をもらうと、それが死ぬまで役立つということのために教員が勉強しない、努力をしない。経験は積むかもしれませんけれども、新しい知識の習得をしない。そこでもう一ぺんこれをやつたらよかろう。外国の例によつても、教員の資格は年々切りかえるところさえある。校長になり、あるいは教頭になるのに、それぞれの州の試験なり国家試験をやつておるところもある。こういう意味で、国家試験のようなものでどんどん資格をつくつて行くことがいいのじやないか。そうすることによつて励みもつき、実際的にもなり、そしてその資格によつてやはり級の号俸というものができることになると、その人がどこの学校に勤めておつても、それぞれの資格においてその級号俸がきまれば、学校の上下なしに、その人の実力に応じてやれることになる。先ほどお話の、高等学校教師をしておつた者が中学校の校長になり、あるいは大学教授をしておつた者が高等学校の校長になれる。しかし人間として持つておる資格、実力があるということで、日教組の方々が今案すく籍に対する国家試験のようなものを強行して行つて、いわゆる学校の階級別による俸給ということ以外に、その人間の持つている資格によつて俸給がきまるというようなことをわれわれ考えていいか悪いかについて、皆さん方のお考えを聞いておきたいと思います。
  28. 岡三郎

    岡参考人 これはいろいろ問題があると思います。私は今笹森さんの言つた意見は、無視することができないと思う。それですから、現在のわれわれの考え方としては、たとえば一つの資格、旧制度の中等免許状、旧中免というものについては、その人の学歴のいかんを問わず、現在では専門三年なら専門三年卒業程度学歴に換算して、それに相当するところの給与を受けることが至当ではないか。学歴というものについて、どう見合わすかに問題があるわけです。合理的に免許資格というものについても、われわれは換算と言うのですが、そういつたものを相当重視して行かなければならない。こういう面で級別推定においても実施して来たわけです。だから私どもは、個人の能力に応じて俸給を、学校種別のいかんを問わず受けられるということについて、賛成する面が非常に多いと考えております。
  29. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員長代理 ほかに御質疑はございませんか。
  30. 浦口鉄男

    ○浦口委員 他の委員の方もおありのようですし、時間もそう無限にはないようですから、いろいろお聞きしたいことはございますが、なるべく簡略に二、三お尋ねしておきたいと思います。  まず最初に、従来の給与制度がかわりましたのは、昭和二十二年と承知しているのであります。教職員の組合の中の高等学校部門でございますか、これがありまして、その当時はやはり高等学校の面からは相当これに対して反対もあつたということを聞いているのでありますが、結論において日本教職員組合の決定として現在の給与制度が確立した、こういうふうに承知しているのでありますが、その当時の模様をちよつとお聞かせ願いたいと思います。
  31. 成田喜澄

    成田参考人 私も昭和二十二年には、まだ日教組の中央執行委員長になつておりませんので、明確には申し上げられませんが、当時やはり組合に関係いたしておりましたから申し上げます。当時はまだ高等学校ができておりません時代であります。日教組に中等学校部というのがございまして、今都立五商の校長をしている石田君が、その当時部長をしておつたと思います。そのときに、日教組の中央執行委員会の構成員にも、中学校関係のものが多数おつて、これらの方々が、あの当時、私ども自分で思い出すのでございますが、もうちよつとで餓死をするというふうな考えを持つた時代でございました。そういつたふうな時代だつたので、できるだけ教員給与を高く上げて行かなければならない、どうしても生活給の建前で行かなければならない。そのときに、その中に段階的な差別をつくると、段階的な一部だけいじれば済むというような形になつて、結局お互いが不利になるというような見解に立つて、これが決定されたと私は思つております。もちろん、その当時にもいろいろ意見があつたと思いますが、高等学校関係の者もその当時たくさん出ておりまして、賛成して今日に至つているというふうに考えております。当時は、高等学校というのではございません中学校の時代でございました。
  32. 浦口鉄男

    ○浦口委員 現在の俸給制度をあくまでも守り抜いて行かれる前提として、日本教職員組合は、現在の六・三・三四制をあくまで守り抜いて行くというふうに承知してよろしゆうございますか。
  33. 岡三郎

    岡参考人 ただいま言われた通りでございます。六・三・三・四の新しい学制に即応した教育はいかにあるべきか。これは当然日本人として敗戦下における子弟を教導して行く場合、われわれの抱負というものが、給与の面においても教科の面においても盛り込まれて行かなければならぬ。ただ受け売りの仕事であつてはならぬという面で、われわれが大きく日本の教育ないしはいわゆる日本の産業の再建ということを考えて行つた場合に、中学校卒業の子弟が就職する場合に非常に大きいというふうな各種の面から、新しい学制に即応した新しい教育という二とと、われわれの置かれた現状のもとにおける大きな任務というものを考えて、それぞれの分野にそれぞれのエキス。ハートが入つて総合的に持つて行くという観点でございますので、浦口委員の言つた通りに、われわれは考えております。
  34. 浦口鉄男

    ○浦口委員 その次には、この間全日本高教組の方からお伺いしたところによれば、二十五年の四月八日に、いわゆる全日本高教組というものが結成されて、その当時は加入組合が全国で七県であつたが、現在は一道十八県になつている、こういう坂本委員長のお話があつたのであります。この全日本高等学校教職員組合意見は、全国的なものとして認めてよいかということについて、われわれいろいろの考えを持つておりますが、こういう分裂が起きたについて、おいでになつております参考人に、簡単な御意見をお聞かせ願いたいと思います。
  35. 成田喜澄

    成田参考人 冒頭で申し上げましたように、給与の問題その他に対する誤解、それからまた都道府県ごとの差のためにそうした問題が起つたことにつきましては、私はほんとうに申訳なく思つているわけであります。そしてこの方々も、やがてはほんとうにわかつて復帰してくださる日もあると考えておりますし、またこれらの方々とも私どもできるだけ話合う機会を持つてお互い高等学校教員がまとまつた意見を出さなければ、かえつて高等学校教員として良識を疑われるというふうな点も考えまして、できるだけこれらの諸君とも話をし、そうしてお互い意見の調整をはかるように努力しているわけであります。今勢力関係の問題についてもややお話があつたわけでありますが、全高教関係の諸君が一部ふえていることは、私は否定いたしません。しかしながら、大体私が今日把握いたしておりますのは、高等学校教員がおよそ七万五千ほどおるかと思つております。そのうちの一万五千人程度の方がそちらへ入つておるというふうに見ております。そして大体これらの方々は、まことにおかしな話でありますが、六大都市の存和しない地方に、こういうふうな現象が起つて来ておる。これは非常に注目すべき事実ではないかと考えているわけであります。私はできるだけ早くこれらの方々に日教組の戦線に復帰していただくようにと考えておりますし、そういうきざしも、少しずつ見えつつあると思つております。
  36. 浦口鉄男

    ○浦口委員 給与制度の問題がきつかとなつて分裂されたというふうに、一応承つておいていいと思うのでありますが、それ以上に、いろいろ警の本質、ひいては、主義的と申しますか、思想的な食い違いもあるようで、これは非常に大きな問題であると私は考えておりますが、これを今ここで取上げましてたいへん論争になるようなことになつてもいけませんので、また別の機会に承りたいと思つております。  そこでこの間の高教組の方の意見をお聞きしました中に、また先ほど本日の参考人のお話にもちよつとありましたが、私の聞いたところでは、決して小学校職員が劣等なものでいいという言葉ではなかつたように聞いております。ただこういう意見はあつたのであります。それは、小中学校教職員の場合、その先生の人格あるいは道徳性というふうなものに重点があつて子供を導いて行くことができる。ところが、それが高等学校になり大学になるならば、その上にまた学問的な、学術的な能力と経験、あるいは手腕というものが加わつて来るので、これは当然別に考えていただきたいというふうな意見がありました。これに対しては、今笹森委員の御意見もありましたのでそれ以上つけ加えることはないと思うのでありますが、要は、生活給の最低をどこに置くかということが、非常に問題だと思うのであります。これが十分に給与されているという前提に立つて考えるならば、この問題の解決は非常に早いと思うわけであります。これは申すまでもなく日本国家の財政の全体の関連にもなるわけでございますから、最低生活基準をどこに置くかということは、なかなかむずかしい問題と思うのでありますが、私は元来、そういう最低生活の基準が確立された上からは、教職員については特段の処置をすべきだということは、教育が人間をつくるという意味において、当然なさるべきであるということを、一つの私の年来の主張として持つておるのでありまして、この委員会におきましても、そういう意味合いで文部大臣と、ときに応じて質疑をしておるわけでございます。そうした観点に立つて考えましたときに、今いただいたパンフレットの言葉じりをとらえるわけではないのでありますが、まず教員は労働者であるので、その労働力を資本家に売つて、それの償いとしての賃金を受けるべきが当然だというお考えを、もう一度、もう少し具体的にお聞きしておきたいと思うのであります。私はこの言葉だけをとらえて申し上げるわけじやないのでありますが、そうなりますと、どうもわれわれとしては、ちよつと納得が行かないような考えも出て参りますので、この際お聞きしておきたい。
  37. 岡三郎

    岡参考人 そのプリントは、少し不十分な問題を持つておると思うのであります。但し、私たち考え一つの面としては、俸給生活者であるという面において、われわれは労働者であるという見解を持つておるのであります。少くとも、俸給をもらつて、それによつて生活しておるという建前からは労働者である。但し、われわれはもう一つ大きな仕事として、教育というものに携わつている労働者であるということになれば、単に自分の労働の再生産としてもらつているところの単なる労働者ではなくして、子弟を、生きている人間を育てて行くというところに、教育という特殊の一つ職場を持つているのであります。この面が強く強調されて行くと、それは単なる労働者ではないということになつて来ると思うのであり手が、われわれは働いて俸給を受けているというところの基本的な観念に立つての労働者である。しかし、それだけではなくして、教師として子弟を教導して行くという大きな生産的な仕事に携わつているという自信を持つて、その面について、教育という面の大きな分野があるということを、われわれは忘れてはならない。そういう意味において、教育労働者という言葉をとつているのであります。そういうふうに分析しております。
  38. 浦口鉄男

    ○浦口委員 これも私の意見になりますので、お答えがなければそれでけつこうでありますが、そういう立場に立つて考えますと、もちろんそういう今の御説明はよくわかります。ただこれは、何と申しましても、やはり国家の政治の根本に触れて来る問題でございますが、現実やむを得ないということもわれわれは了承しますし、やはり同じ労働者であります以上は、経済闘争もこれは認めざるを得ないのであります。ただしかし、少くとも平和国家、文化国家を建設して行く日本の教育者として、たとい内容が経済的なものであつても、これを闘争という形で闘いとるというふうな方向へ持つて行かなければならぬということに、私はたいへん遺憾を感ずるのであります。これは今劈頭に申し上げました通り、最低生活基準が現段階で確保されないための、やむを得ない形であると思うのでありますが、これはやはりあくまで教育者としての特殊なる立場に立つて、この立場を維持じ得る待遇が与えらるべきであるという原則論に立つて経済活動をなさることが非常に好ましいということだけを、私の希望でありますが、申し上げておきます。  そこで、給与基準の制定にあたつてのパンフレットをいただいたわけでありますが、その中で一の口の項に、「学歴勤続年数学歴を有利とする」というふうな言葉があるわけであります。この点は、必ずしも高等学校意見と食い違つていないと私は思うのです。この間の高教組の方の御意見も、教育の一貫性において、小学校が大事だとか高等学校が大事でないとか、そういうことでなしにむしろこれも私の考えでありますが、教育の本質からいえば、子供というものは、ある意味では白紙のようなものでありますので、小中学校、つまり最初の教育こそ、最も基本的に大事である。その上に学問的な素質が加わつてつてこそ、初めて完全な人間ができるわけでありまして、最初の基礎的な意味からいうと小中学校の方がむしろ大事だということを、私は考える。しかし、だからそれでは小中学校教職員俸給と、高等学校あるいは大学が同じでいいかということにはこれはならない。その点は、先ほど他の委員からもお話がありましたので、申すまでもないと思いますし、なおまた、高等学校1の職員組合の意見も、結局はそういうところに帰すると思うのであります。  そこで両者の御意見をお聞きしてみますと、実質的にはそんなに大きな差異はない、こういうふうに考えられるのであります。結論は、高等学校の方方は、もちろん実質があれば、それでわれわれは何も高等学校教員だから小・中学校よりも偉いのだとか、そういう優越感を持つて要求しているのではないということを、この委員会でも申されております。これももちろん当然のことである。といつて俸給表が一本であるというところに、やはり実質以上に、そこに加えられる何か、名前と申しますか、形式と申しますか、そういうものをもこれは無視できないという気持を、われわれは察することができるのであります。先ほど参考人のお話の中にも、ちよつとあつたと思うのでありますが、名前にとらわれることはどうも封建的だというふうな——これも言葉じりのようなんですが、御意見があつたと思うのであります。もちろんそのとらわれた方の程度によるのでありますが、やはり世の中は、名と実、名実ともにいかにして合致するかというところに、非常にむずかしい問題もあり、本質もあると思うのでありまして、そういう点で、高等学校教職員組合の方の言外にあふれた希望、気持というものも、やはりある程度尊重すべきだと思う。そこで、要は三本建という、これは言葉の問題になりますが、そういう形式で行くか、あるいは実質本位で現在の体系で行くかといつた、私は結論は形の問題になると思います。高等学校教職員組合の方々は、必ずしも形式にはとらわれない、要は実質がわれわれの高等学校教育に人材を得る結果になり、高等学校教育が向上して行けばいいのだということを言われてはおるのでありますが、そこに今申し上げるような名前、形というものも、これはやはり何とか尊重してあげるべき一面を、われわれは認めざるを得ない。そういう点で、一部には俸給制度の改正においては、日教組高教組がまつこうから対立しておる、おそらくそれは並行線である、そこに根本的な組合の性格もあるというふうな決断をなされている向きもあると聞いておるのでありますが、私は必ずしもそうは思わない。そこにいい意味の妥協とか、あるいはいい意味の寄り合いというものが必ずできると私は思うのでありますが、その点について、どんなお考えをお持ちになつているか、お聞きしておきたい。
  39. 岡三郎

    岡参考人 その点について、私は日教組、全高教組とかいう立場でなくして、日本の一つ教師俸給体系——これは体系ということでなくして、日本の教育の振興をどうするかという面で、やはりわれわれの考えは、新しい学制を日本のものにするという角度で、いい点は伸ばして行つてもらいたい、悪い点は是正するにやぶさかではない、こういう考え方を基本的に持つております。そういう面で、現在の教員養成の問題にいたしましても、基本に新制大学の四年制によつて教員配置が考えられている。あるいは短期大学の問題もありますが、その面によつて、小中一高お互い交流するような、おおらかな面における教育分野、しかも優秀な者が小学校に行つて、現在の助教その他の人をリードして、小学校教育の水準を維持するというよりも、なお前進させるような面においても、そういう相互交流の面をつくつて行きたいという、われわれは基本的な考え方があるわけであります。そういう考え方からいつて、われわれとしては、そこに何かみぞをつけるような形のものをあまり強く出すということは、新教育に対する考え方を非常にマイナスにして行くという心配を持つているわけであります。そういう面で、高等学校先生方の待遇について、先ほど成田君が言つたように、たとえば実業教育に関係している人で、前に高等工業を卒業して、ある一つの生産工業に携わつておつた。ところがその人がやはりその人の志望によつてもう一ぺん学校に復帰したいといつたときに、その前の職業に携わつておつた前歴計算が非常に不利であつた、これが大割とか、八割の計算によつて府県によつて違いますが、そういう面に不満が非常に多かつた。そういう面と、もう一つは、中学校教員免許状といつたものが、過去においては軽視せられている面があつたわけであります。ところが二十五年の級別推定については、われわれもこういつた、面の違いもあながち無視ができないという観点から、これについては、その学校の出身のいかんを問わず、やはり推算の学歴というものにふさわしい俸給は一応もらわる一きだという点について、われわれも納得した。そういう面から、極力実質的にこれを確保する。勤続年数によつて想定するということは確かに無理です。しかし現在においては、その個人個人の能力というものを先に考えて行つた場合に、高等学校にいる人の知能とか個人の実質的な力が、すべて中学校にいる教師の上だということにはならぬわけです。そういう面から言つて、それぞれの能力とか実力にふさわしい給与は、先ほども言つたように、一つの大きな課題だと考えております。こういつた面については、われわれは苦悩もし苦慮もしておるわけであります。そういう面でわれわれとしては、現在の考え方が、暫定的に生活給というものが重視されている現状においては、学歴というものについても、私立の大学を出たものとかいろいろな関係がございますけれども、一応目安としてこれをとつて、そうして資格もこれに換算して行くならば、高等学校先生方のある程度の不満は解消できるという確信を持つておるわけであります。それ以上飛び込んで、給与をばらばらにして、もつと極端に言えば、幼稚園、小学校中学校高等学校というものをみんな縦に割つてやるということになつて、それぞれの職場にいる者が、それぞれのよろい・かぶとを着て、他を排除して行くような気分が出て来るならば、新しく卒業して来るところの教師自体も、非常に困惑するという面も考えられる。そういう面で実質的に今まで非常に不利であつたような点があるならば、われわれはそれを解消するにやぶさかではない。それぞれの学力、それぞれの実力に応じてその人が待遇を受けられるような面を、われわれも今後大いに考慮して行きたいという点については、やぶさかではないわけであります。そういう面で、教育分野において形式的に差等をつけるような印象を与えて、新しい教育制度に暗影を与えるような点については、こうした文部委員会にも御考慮を願つて、実質的に力のある人に対するふさわしい給与については、十分研究してもらわなければならぬ。現段階においては、われわれは今言つたような考え方で行く、こういうことなのあります。
  40. 浦口鉄男

    ○浦口委員 実質的に非常に理想的なものにしようという御意見、まことにもつともであります。私もそれを了承いたします。これは非常にむずかしい問題と思つております。文部省人事院のそれについての意見も、われわれ直接、間接に聞いておりますが、まだ結論を得ていないと思います。われわれも大いに研究しなければならぬと思つております。それで先ほど申し上げたように、高教組の意見も、必ずしも三本建を、あくまで形式だけにとらわれるものでない。といつて、実質がそうなれば、それだけでいいということでもない、そこに両方を加味された意見があるということを、一応御了承を願つておくにとどめておきたい、こう思うわけであります。  そこで職業教育についての問題が出たわけでありますが、この点について、時間もありませんので蛇足を避けて、御承知のように五月に成立いたしました産業教育振興法について、職業課程を受持つ教師に対して特殊なる待遇をしなければ、この法律をつくつても実質は上らないということが、われわれ立法に携わつた委員の中で非常に問題になりまして、これが法律に盛られたわけでありますが、それが幸か不幸か参議院で削られて、今ないわけでありますが、これは今の御意見によりましても、なお過日十日に行われました日教組の大会で出ておる職業教育重視という結論ともにらみ合せまして、これは早急にやはり私は解決すべき問題だと思うのであります。私も実は実業学校出でありますが、先ほどの御意見にあつたように、たとえば工業課程を見ました場合に、工業界が非常に景気のいいときは、職員教師がみな実業界に出てしまう。そうして実業界が不景気になると、いい先生が得られる。こういうことでは、一貫した職業教育の実が上らない。これは農業教育、すべてしかりであります。そういう点で、きよう私はたいへん快心の御意見を聞いたと思うのでありますが、今後産業教育振興法のそうした面にも、また改正案が出るような場合には、いろいろな面から御検討御協力をいただきたいということを希望いたしまして、時間も大分経過しておりますので、質疑を打切ります。
  41. 若林義孝

    ○若林委員 私少しその筋への交渉事項がありまして、全部拝聴することができなかつたのでありますがしかし拝聴いたしました分については、大いに敬意を表し、将来このことの審議にあたつて貴重なる資料を与えられたことを多とするものであります。なおこれに関する重要なる質疑が、各委員から出ましたから、蛇足を加えないのでありますが、私の希望をひとつ申し述べておきたいと思うのであります。  過般高教組の諸君のお話を聞き、今日日教組の方のお話を聞いたのでありますが、すべてのものが一つずつ数を少くしてまとまつて行こうというときに、分裂の経過をとることは、まことに遺憾に思うのであります。ことに教育の面に御関係の方たち、特に平和ということを強調せられる部類の方たちが、みずから闘争という言葉を使い、なおともにやつておられる方たちが分裂の経過をたどつて行くということ、これはお互いに自粛せられて行く必要があるのではないかと考えるのであります。これについても、非常に遺憾の意を表せられておるわけでありますが、いよいよ反省をせられて、お互いに協調を保ちつつ行くことを希望するのであります。  それから、過般高教組の場合にも申し上げたのでありますが、本委員会が、御存じの通り政党政派を超越して、打つて一丸となつて教育政策を推進して行くという姿は、おそらく皆さん関係の諸君は御了承のことと思うのであります。にもかかわらず、その行動自身が、どうも委員会を離れで、国会を離れての単独行動をしておられることを、われわれは遺憾に思うのであります。過般文部省へ交渉においでになつたことなども、どういうことを、どういうように交渉しておられるか。もしわれわれがこれを知るならば、少くとも五度足を運ばれるのが三度で済む、三度のものは一度で済む、しかもこれが円滑に行くのではないかと思う節があるわけであります。そういうことに関して、この文部委員会なり国会というものを一体どういうように思われておるか。政府をいかに責めても、政府の方では、いわゆる国会で決定した事項を遂行して行くのであります。だから、もし責めるべきことがあつたならば、国会を勇敢に責めるべきではないか、こういうように私たち思うのでありまして、その国会を抜きにして、文部当局へただちに行つて、非常な手間をとるというようなことについては、良識を持ち、また政治の運営がどういうふうになされておるかということの現実を知つておるものだと認識してみるときに、はなはだ遺憾に考えるのであります。おそらく、これは私個人の意見ではございますまい、各委員諸公も、同様に私のごとき考えを持つておられると思います。事の大小にかかわらず、国会と一体となつて諸君教育政策に対する熱意を伸ばして行くようにせられたいという気持がするのでありますが、その点ひとつ政党的の色彩をどういうふうに考えるかということ、またどういう心構えで進んでおられるかということのお考え、御決意を伺つておきたい。
  42. 岡三郎

    岡参考人 いろいろ申したいことがあるのですが、われわれとして含蓄に組合運動を進めて行くという場合に、国会を尊重することは当然だと思います。ただ問題の焦点は、われわれが現実にああいうふうに文部当局と話合いを進めたという点は、現実に正しくないテータによつて——これは当局も認めておるわけですが、教員給与を現在切り下げるという点について現実の問題が出て来たわけです。この点については、本委員会がどのようにお取扱いくだすつたか、われわれ注目しておつたですが、その点はなかつたわけです。われわれはその後議院の方にこの問題について参考人として、組合の者が出ていろいろれ陳述いたしましたが、そういつた面で、われわれとしてはやむにやまれずに、教員の現在の給与が不十分であるのを、なお切下げるということについては、はなはだ不所存であるという観点から、この点についてわれわれは申入れをして、そうして文部大臣の誠意のある回答をいただいたわけです。そういうふうな面から、国会に対するわれわれの基本的な考え方は今言つたわけですが、文部当局自体も、教員に対する給与の全般的な法的な関係のいかんを問わず、精神的な面としては、大きく日本の教育についての責任を持つという所存から、われわれとしては強く交渉せざるを得ない当面の問題にぶつかつたということになると思うのであります。この点は今委員の方々の言われたように、国会において教員全体のいわゆる待遇の問題のみならず、教育制度の問題について御高配を今後いただいて、われわれとしても日本の教育充実並びに日本の再建のために努力する点においてはやぶさかではないわけであります。そういう面でわれわれとしてやむにやまれずしてああいつた状態——都道府県の状態もありましたし、われわれとしての闘争をやらざるを得なかつた。今の闘争という言葉にとらわれるわけではありませんが、この前岡崎官房長官に会つたときにおいても、岡崎さんは闘争という言葉を使われた。というのは、首切り行政整理といろい害われ薫るが、いろいろとああいつたような案が出て来た場合、各省で、減少するように努力する、私は減少しないように闘争しなければならぬということを言つた。これは闘争という言葉に何もこだわる必要はないので、やはりほんとうに一生懸命になつてやる場合においては、話合いで解決することが一番望ましいのですが、話合いでなかなか解決しないという部面が相当あるわけです。そういう場合は、真剣にその声をやはり国会なり当面の当局なりに反映するということにならなければならない。そういつた場合に、ひくにひかれぬ一線を堅持して行く場合には、そういう意気込みが当然出て来るということは御了承願いたい。そういう面で、われわれとしては、本質的に給与を改善するということ自体が目標ではなくして、結局教壇に立つている教師が、裏表なく教壇を守つて行くという角度において、表において教壇子弟にいいことを言つて教導して、裏で商人と結託したり、あるいは教科書会社と結託したりすることによつて、小銭をもらつて教師がうわのそらで教育をして行くような状態は、好ましくないというような面で、われわれとしては給与が低い場合には、やはり堂々と輿論に訴えて、待遇改善をしてもらいたい。そのかわり、われわれの目標は、それの暴けとして、教壇を守つて子供を育てて行くのだという新しい姿を打出して行きたい、こういうようにわれわれは覧ておるわけです。そういう面で、われわれはやはり輿論に訴えるところは訴えて、そうしてわれわれ職場を守つて行くについては、みんなに批判されないように守つて行く。こういうふうな明朗な態度で今後やつて行きたい、こういうふうに考えております。その意味においても、文部当局もいろいろ困難だろうけれども、われわれの誠意をおくみとりくださつて、最善の御努力をお誓いくださつた。こういう点で、各都道府県の教師文部省に期待をし、われわれ教員も団結して、われわれの明朗なる職場を守るための努力をお互いに誓つておる、その以外に他意はない、こういうふうに考えております。
  43. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員長代理 他に参考人に対する御質疑はございませんか。——参考人に対げる質疑はこれにて終了いたしました。  参考人には、御多忙のところをまことに御苦労さまでございました。  本日はこれにて散会いたします。     午後一時二分散会