○芝原
証人 私は大正八年の七月にその当時の東京帝国大学の農学部の農芸化学科を卒業いたしまして、その月に
專売局技手を拜命いたしまして、大正十年七月
專売局技師を拜命いたしました。それから最終は
昭和十八年の三月
專売局の
中央研究所長を拜命いたしました。同二十年三月に
專売局中央研究所長を退職いたしました。これが
專売局における経歴でございます。
それから十九年ごろから満州国で
タバコ会社は主として奉天から以北にあるものですから、その当時南満での
タバコが非常に不足しておりまして、満州国の興農部と経済部で
タバコ会社を南満に設立したいからたれか適当な人をよこしてもらいたいというようなことで、大蔵省から話がありました。それで私がそれに行
つたらどうかと言われまして、そのために
昭和二十年の三月に
專売局を退職いたしました。満州国へ参りまして、興農部と経済部の設立要綱に従いまして、あちらで
タバコ会社の設立にかか
つたのであります。それで大体機構その他全部でき上りまして、もう登記を済ますばかりになりましたので、こちらから技術官を連れて行くとかいろいろ用件がありまして、私は
昭和二十年七月の二十六、七日ごろだ
つたと思いますが、内地に帰
つて参りました。しばらくする間に終戰になりまして、その
会社もそのまま消滅したのでございます。それから二十二年の六月まで別に職もなくぶらぶらいたしておりました。ところがその当時時折
專売局へも、古巣でありまするから顔出しをいたしておりましたが、当時は御
承知のようにすべてが統制の時代でありまして、
專売局が使いまする
製造用の
木箱もくぎも、現物が入るのが非常にむずかしい。くぎはその当時は一括しまして、
專売局が通産省に
要求いたしまして、一括発券されることに
なつたのであります。それを各地方局の業者あてにさらに
專売公社が分配して券を出すことにな
つておりました。各地方で、たとえばそれに使いますのは丸くぎのインチ半でありますが、非常に入手が困難であるというので、何とかこれは中央でそれの現物化をはか
つてもらわなければいかぬということを、東京の
木箱屋さんの人々が主唱しておるのを私も聞いたものでございますから、
ちようど私もぶらぶらしておりましたし、それじやひ
とつそんな仕事を私にもやらしてもらえないかと話しましたら、うんそんならよかろうということで、
昭和二十二年の六月に專売用品調達組合というものをつくりまして、その組長には西谷安之助、これは東京の
木箱屋でございますが、それが組長になりました。東京の吉川、荒木、それから私、それから四国で一人、中国で一人、これらが
理事になりまして、私が常任
理事で調達組合の仕事をやるということを二十二年六月から始めたのでございます。そして
專売局の一隅に机を二つ借りまして、そして
專売局で発券するものは最終需要者の名あてにな
つておりますから、それを一括しまして東京で組合が折衝して順次それを
木箱屋に発送する、そういうのをつく
つたのであります。会員は大体四十何名で、大体これは希望によ
つたのでありますから、中には自分の
つてで現物化できるところは加入せぬところもありましたが、大体大部分の
木箱屋が一口千円ずつ出資をいたしまして、六月に專売用品調達組合をつく
つたのであります。そういうふうにしてくぎの現物化を二十二年六月から二十三年の六月までや
つておりましたが、そのとき事業者団体法が出まして、そういう団体で物の購買、あつせん、発送、集金その他一切が禁止されたものでありますから、やむを得ず二十三年六月末で一応仕事は全部打
切つたのであります。しかしそのあと集金とかいろいろ解散の残務があ
つたので、引続き
公社の中でその残務整理をや
つてお
つたのであります。またその当時やはりくぎは切符制でありまして、地方によりましてはインチ半というのが最も需要が多いものでありますからなかなか現物化がむずかしい。組合でできなか
つたら何かひ
とつ会社ででもや
つてくれると便利だ、こういう話があ
つたものですから、それならひ
とつどうせ私も別に仕事がないのだから、それじやその
会社をやろうというので、それに似たような名で、
專売需品株式会社という準備をやりながら解散事務をや
つてお
つたのであります。明けまして
昭和二十四年一月六日にようやく登記も済みまして、私の現在や
つております
会社が設立されたわけであります。しかしやはりくぎは
公社から需要者あてに発券されたのを利用して現物化をや
つてお
つたのであります。たしか二十四年の第二・四半期まで
会社でくぎの現物化をや
つておりました。ところが統制がはずれましたので、はずれると同時に
生産もふえたものですから、切符制がやめになりました。その後も地方によ
つてはくぎが困るから東京からひ
とつあつせんして送
つてくれというので、
会社といたしましてはまだ二十四年一ぱいくらいは注文があるとこしらえておりました。特にあいくぎといいまして、
木箱と
木箱の間に打つくぎは
一般市場にないものですから、あいくぎだけはおそくまで注文があ
つて、このあつせんをよくや
つておりました。しかしその当時からもうそろそろくぎは
生産が過剰になる傾向に
なつたものでありますから、
会社をつく
つた以上は何かやはり扱う品物がなければいけません。
ちようど私は長年の
專売局時代の半分は印刷の方に適したものですから、創立当時から、くぎだけではとうてい
会社も成り立たないから、他に日用雑貨というようなものを営業項目の中にも入れてお
つたわけです。その当時から、
紙類もやりたい、ことに将来やるならば、自分が経験が深い紙を扱うのが一等よいのではないかというので、その当時から、金物と紙というものを目的にしてやろう、定款にもそういうふうに書いております。そういたしまして二十四年の夏ごろからぼつぼつ紙をお願いして、ことにそのときは
製造力がだんだん回復してお
つたときでありますが、
製造力の回復と
機械の整備と一緒に、将来小箱の一本入りがどうしても増加するだろう、こういう趨勢に……。