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田中(角)委員 関連事項で、
ちよつと
会計検査院に伺いたいのですが、同じ
答弁を堀井さんのところで、できましたらお伺いしたいと思います。これを見ますと、三九三の当時の所管者は戰災復興院の大橋武夫君のようであります。三九四は東
京都長官の安井誠一郎、こういうことに
なつております。この工事は、私が申し上げるまでもなく、終戰直後は終連が所管してお
つたのですけれ
ども、その次に戰災復興院、その次に特別調達庁、こう
なつております。私
ども自体が専門的に考えても非常に複雑な、特に占領軍の治下にあ
つて、日本
政府と占領軍との中間に、ま
つたくあいのこのような立場にお
つて、むずかしい條件を要求せられているところの、この種工事所管者の苦しさというものは十分わか
つているのですが、終連当時の批難事項というものは、非常にたくさんあ
つたわけであります。それが先ほど三宅君の言われたように、煙の立つところは
公団と特別調達庁だという大衆感覚を生んだわけでありますが、それではいかぬというので戰災復興院に統一せられ、それでもなおいかぬというので、ま
つたく占領軍の申し子のごとき特別調達庁が生れて現在に至
つているわけであります。それで会計
検査をやられておるところの
会計検査院の立場として、終連当時、戰災復興院当時及び現在の特別調達庁
関係に移管して来た経済によ
つて、どの程度批難事項が減
つておるか。私の考えでは、二十五年度からは、機構上からい
つてもぐんと減
つておるだろう、こう思
つておるでありますし、特に
昭和二十年よりも二十一年、二十二年よりも三年と、こういうふうに減
つて来ておりますが、二十五年度等は大体どういうものであるかということを、ひ
とつ伺いたい。それは各省の批難せられる額は非常に小さいのでありますが、特別調達庁は何千万円、場合によると何億、こう言うから、人は驚くわけであります。しかしその所管する工事量そのものは千億をオーヴアーする
金額で、総公共事業費を上まわるような
金額を使用し、しかも非常に短かい間に特殊な工事を要求されておるのでありますから、その間の事情は十分
承知をするのでありますが、このようなことをずつと続けて行くということは、たいへんな問題である。こういうことによ
つても、私たちが今考えておる行政機構の改革、簡素化という大旗を掲げておるわけであります。そういう意味におきまして、終連よりは戰災復興院、戰災復興院よりも特別調達庁が減
つておるということであれば、行政機構の再編という場合に、
相当な資料として役立つものであ
つて、
小峰さんの
答弁は、その辺に対して自由党を大いに勇気づけることでありますので、ひ
とつ真実を申していただきたい。先ほど二十四年度の決算報告の中で、最も悪質である三九四でありますかに対しても、そういうふうな
お話もありましたが、その所管者は東
京都であります。私たちは当時からこの問題は十分問題にしてお
つたのです。それから二十三年度の決算を見ましても、官給材の
代金未納に終
つているものとか、それから過拂金の
徴收当を得ないものとか
——二十三年、二十二年のものは、ほとんど終連、戰災復興院の当時、いわゆる各
府県知事に委管されたものでありますが、このときの各
府県の渉外部というものの立場というものは、非常に微妙でありまして、私たちもその間の事情はよくわかるのでありますが、一歩つつ込んでみるときには、いわゆる官給材支給
金額がいまだに納まらないという問題もあるのです。それは私は
会計検査院によく
お話を申し上げておきたいのだが、当時そういう問題を起した物件が、
国有財産に返納できなか
つたのです。清算が完了しておられない、こういうのが千百億もあ
つたわけです。
最後には、本
委員会の力によ
つて、とにかく承認を與えてもらわなければ、どうにもならないというような
状態まで至
つたのであります。あの当時の問題は、二年、三年前の問題ではありますが、非常にいろいろな條件を内蔵しておるわけでありまして、今
会計検査院が
指摘をせられるところでは、ただ批難事項として、
徴收すべきものである、返納を要求すべきものであるというようなことを言
つておりますが、これは一部において民事裁判等にゆだねた場合には、逆に国庫から損害をとれるような工事もたくさんあ
つたのであります。それは
会計検査院がよく御調査に
なつてみるとわかるのですが、全然日本人の監督は有名無実である。向うの言う
通りに白いペンキを全部塗
つた。ところが、悪いというので、また青いペンキを塗
つた。そうすると、黒いペンキを全部塗れというのであ
つて、実際一万坪しかないものが四万坪にも五万坪にもなるというものがあ
つたのでありますが、そういうものと一列に三九四あたりが非難されている。
小峰さんはこれは一番悪質だと言われたのです、そういうようなときの事情に便乘して三九四ができているのだと私は思
つております。当時の状況も、私は幾らか事情を
承知はしておりますが、このときの所管官庁が東
京都であ
つたということに対しては、こういう問題こそ、行政機構の改革に対して研究しなければならぬものであると思
つておりますので、過去五、六年間にわたる、どの程度減
つているか、ふえているかという問題を、簡單でけつこうですから、御
答弁願いたい。