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参考人(槇枝元文君) 午前中にいろいろな、持に
学校において直接
職業教育を担当する方々の御
意見を、或いは
教育委員の地方における
教育行政を担当せられる方からの御
意見を拝聽したのでありますが、幼稚園から
大学までを包含する団体として一応日教組という
立場から、ここでこの
産業教育法に対する
意見を申述べたいと思うのであります。
先ず終戦後とられました
日本の
教育行政のあり方として、第一点は学制改革、即ち六三三四の
制度によ
つて国民全般の
知識水準というものを高めて行きたいということの大きな
目的の下に改革がなされたのであります。
それから更にもう一点は
教育行政のあり方として、
教育が他の政治権力或いは
経済界又は曾
つての軍国主義
時代にありました軍閥等のいわゆる
国家権力によりまして支配されない、飽くまでも
教育が自主、独立して行かなければならないという面から文部省の権限というものを大幅に縮小いたしまして、
教育行政の地方分権をや
つたわけであります。そうして各地方の住民から直接選挙によ
つて選出されるところの
教育委員を以て地方の
教育行政の任に当らした、こういう二つの大きな
教育面におきますところの改革がなされて以来ここに五カ年間、その実践を通して来たわけでありますが、その経過から見まして、今日我々が最もこれらのものについて反省し、又矛盾点、或いは
欠陷というものを指摘いたしました際に、いろいろな欠陥なり或いは矛盾点も出て来ておるわけであります。こういう面につきまして、やはり新学制
制度というものの内容なり、そうしたものについての大幅な検討というものをや
つて行かなければならんということは
考えられるのでありますが、持にこうした諸
欠陷というものが一体いずれのどこにあるのか、その原因がどこにあるのかということを探究いたしました際に、先ほど
栃木県の
教育委員の方がおつしや
つておられましたが、やはり私もその大きな原因というものは、
教育財政の貧困というところにあるのではないかと思うのであります。これは勿論物的な面或いは人的な面、質的な面、いろいろな面から探求されなければなりませんが、持に
教育財政の貧困ということが根本原因と
なつて、これはこの
産業教育のみならず、
一般普通の
義務教育、又幼兒
教育或いは持殊
教育、すべての
教育に亘
つて多少の差はあろうとも、殆んど同じようにどの
教育の面においても、
財政面の
欠陷からしてその施設なり
設備というものが非常に荒廃しておるということは言えると思うのであります。その一例をとりますれば、例えば新学制
制度の一環として持に叫ばれて来ました六三制の建築を見ましても、この
義務教育の建築というものが年々や
つては来ておりますものの、昨年の七月の文部省調査によりましても、まだ百十幾万坪の建築が必要である。これに要する経費というものは少くとも百九十億というものが組まれなければならないにもかかわらず、これに対して僅かに四十三億の予算が計上されてあるのみであ
つて、又これを以て六三建築費は打切りだということまでも称せられておる。又これは先般の三十八回の
教育刷新
審議会の総会で建議されたことでありますが、そこで出された問題では、特に
義務教育の面ですでに建築されておる校舎の中で復旧を要するもの、非常に危険なもので復旧を要するものとして、坪数で約百九十万坪のものがあるということも
発表されておるわけであります。
従つてこうした一端を
義務教育の面のみにと
つて見ましても、ここに校舎そのものが無いというために二部授業或いは三部授業をや
つておるということも現にあるのでありまして、これはそうした一端を見ましても、結局
義務教育或いは幼兒
教育、又持殊
教育或いは
実業教育、すべてに亘
つてこういう
教育財政の貧困からして施設なり
設備の未完成、或いは未完備というものがなされておる。又今一面は、
教育員の問題でありますが、
教師のやはり
不足、これは
教師になり手が少いというよりも、むしろ
教育者というものの
不足はやはりこの
教育財政の面から来ておる、と申しますのは具体的に言いますと、例えばアメリカの
教育なんかを見ましても、聞くところによりますと、大体三十人乃至三十五人というような学級の生徒を受持
つて先生が
教育しておる。ところが
日本の
教育にあ
つては小
学校な
どもまだ六十人なり或いは七十人の学級を抱えておるという実情があり、そういうことはすでに
経済的から来る人的な面で十分なる個性の伸展ということがなされないということが言えるわけであります。特に一昨年は
義務教育の
国庫負担法というものが廃止されまして、更に昨年来文部省の特に叫んでおります標準
義務教育費の制定につきましても、未だ何ら成立の方途というものが見出されてないというような実情にあるわけであります。
従つてこうした一例をと
つて見ましても、
教育財政の貧困というような面からただ単に
産業教育のみならず、
一般の
義務教育を主眼とするところの
国民全般の
教育というものが非常に荒廃に瀕しておる。
従つてこの際に
考えるべきことは、この
産業教育のみのことを持出して行くのでなくして、飽くまでも全般的な
教育の視野に立
つて、
産業教育奨励、振興ということも
考えられなければならないと思うのであります。そういう
観点から申しますならば、ここに
産業教育法として出されたけれ
ども、他のものに対して
一般的な問題から見た場合に、そういうものに目を蔽
つて、ここにこれのみを持ち出すということには賛成し難いわけであります。ただそうは申しましても、決して私は
一般教育或いは
義務教育が疎かに
なつておるから
産業教育の復興にやるべきではないというのではないのでありまして、飽くまで
職業教育についてもこの振興というものは当然図
つて行かなければならない。又持にいろんな
教育が荒廃に瀕しておる中にあ
つて、終戦以来特にこの
職業教育の面が特別な陷没地帯に
なつておるのではないかということも又論を待たないと思うのであります。
従つてそういうことから
考え併せて行きました際には、やはり
国民全般の
教育のレヴエルを上げる、そうして
義務教育を中心としたところの
教育施設に対し、
教育の充実をやるという視野に立
つての
産業教育の振興という面にどこまでも考を持
つて行
つてもらわなければならん。そこで特別に
職業教育の面が陥没しておるというような面について、何とか応急の措置をやらなければならんという場合に、この
一つの
職業教育法というものが
考えられ、この振興に関する法律というものが
考えられるということは私も一応
考えるのでありますが、ただそうした場合に、現在の出されております
法案をめぐ
つて見ますときに、これに対する
一つ々々の
條項を玩味しましたときに、このままの
法案では果し
産業教育の振興になるかどうかという点にかなりの疑わしい面があるのではないかそこで少くとも私は
職業教育の振興という建前から申しますならば、次に申上げます五点については必ず
考えて行かなければならん、留意をして行かなければならない。その
一つは
勤労に対する正しい信念を確立するということであります。
職業教育を通じて生徒、兒童そうして
国民一般にまで
勤労に対する正しい信念を確立して行く、それには曾
つて日本が世界の市場におきまして受けた非難、と申しますと、非常に劣悪な
労働條作の下に低賃金に抑えられながらも献身的な、而も盲
目的に
奉仕するという
精神、こうした
一つの
勤労観、こういうふうなものを払拭いたしまして、どこまでも正しい
勤労の
精神というものを養
つて行かなければならん。ところが現に未だ現在の職業教補の面を通しましても十分そうした今申上げましたような献身的な、盲
目的な
奉仕するという
一つの
勤労観というものが未だ払拭されていない。それは例えば一九五〇年度の英国の
労働組合会議でありますが、六百二十万を擁するこの会議の年次大会におきましても、
日本の
労働者に対する低賃金という問題がわざわざ提議されて討議されておるという点を見ても、世界的に見て
日本の
労働、
勤労というものに対する正しい評価がなされていないのではないかということが窺えるわけであります。今
一つは
教育というものをどこまでも生産事業的に
考えてはならない。これは勿論こういうことはないと思いますけれ
ども、特にこの
教育というものはその効果を焦
つてはならない。この場合に
産業教育あたりでその効果を焦るの余り明日の日の生産を増すとか、或いは明日の日の貯蓄を増すというような
考えの下にこの
産業教育法が立案されるという工合になりましては、
一つのそうした企業的な、打算的な
考え方からこの法律が出されるということになりますならば、これは
勤労に対する正しい信念が助長されるということは望めないのみか、むしろ
学校を工場化して行き、前の徒弟的な
勤労教育というものに堕して行く虞れがあるのじやないかという点から、飽くまでも
教育というものは企業的に、或いは生産事業的な
考え方で論じられてはならんということを特に強調したいわけであります。
従つて勤労に対する正しい信念というものは飽くまでも専門的、或いは技術的な面からこれを探究するのでなくて、どこまでも社会生活の総合的見地から把握して行かなければならんということを特に申上げたわけであります。
それから二番目の問題といたしまして、
日本の
教育の
体系であります。
日本の
教育体系としては特に
教育基本法が
教育の憲法とも言うべき法律としてあり、その下に
学校教育法、社会
教育法という二つの枝が出ております。この際にこの
産業教育法というものの位置するところ一体どこであるか。先ほどどなたか申されておりましたが、
産業教育法というのは名前は
ちよつとどうかと思うが、内容については
学校教育法の
補助法であるというようなことを申されておりましたが、成るほど内容的にはそういう面も織込んであるように思いますが、併しながら二條の定義のところを見ましても「
中学校、
高等学校又は
大学が、生徒、学生又は
青少年その他
一般公衆に対して、」というように非常に広く分野が規定されておりまして、これは
学校教育のみならず社会
教育の面までも跨
つている
法案であるという点に非常な疑念を持つわけであります。勿論
職業教育の振興というものは
一般社会までも影響さして行かなければならないけれ
ども、先ほど申しましたように、
日本の
教育そのものが非常に危機に瀕しておるという
現実に立ちますならば、そうした
一般の
青少年とか、公衆というものにまでも発展よりは、むしろ現段階においてはどこまでも
学校教育法の中にあ
つて、
学校教育の範囲内にとどめるべきである。とどめてその振興ということに持に重点を注いでもらいたいと思うのであります。なおこの表現につきましては聞くところによりますと、或いは現在すでに東北あたりで採用されております
中学校、或いは
高等学校あたりの成年学級、或いは社会学級とか、或いは別科とかいうようなことも
考えられておるのかと思いますが、そういう問題はどこまでも
職業教育として
考えられるのでなくして、これは大きく言いますと、やはり六三三制の内容の検討というところへ入
つて行かなければならん。又そうした別科とか、社会学級、或いは成年学級というようなものについては若しもこれを規定付ける必要がありとするならば、やはり
学校教育法の中に規定すべきであ
つて、こうした商業
教育法の中にこういうものを織込んで行くべきではないと
考えるのであります。
次に
教育行政の在り方でありますが、これは冒頭に私申上げましたように、
日本の
教育行政の在り方として
教育委員会
制度の採用というものは文部省の権限というものを大幅に縮小して
教育の地方分権を行
なつた。そうして地方の自主性に基いて地方に即応したところの
教育をや
つて行くという建前をと
つておる場合に、現在ここに出ております
審議会の問題でありますが、中央に
産業教育審議会というものを置き、更に地方にそれと同じような地方
審議会というものを置いて行く。これは勿論規定付けをみますれば文部大臣の諮問機関であり、又
教育委員会の諮問機関ということには
なつておりますけれ
ども、この
審議会がなされる権限の問題、これが非常に広汎に亘
つておる。
審議会の権限が非常に広汎に且
つておるということと、更に地方
審議会の場合に、中央
審議会が議して決定した中央の基準というものに準拠して行くということを出しておる点から見ますならば、ここに再び中央集権的な
考え方が出て来るんではないかということと、今
一つは文部省の基準に則
つて地方の
教育委員会が自主的にや
つておる
教育行政という在り方に、ここに又別個な中央
審議会、地方
審議会というものができて行けば、
教育行政の一元化ということに相反するような面が出て来るのではないかということを憂うるわけであります。
それから次に
学校の
教育内容に関する問題でありますが、持にそれの例としてここに第四條に持
つて来て、
学校の収益でありますが、この収益をその「
学校の実験実習に必要な経費又は生徒若しくは学生の厚生に必要な経費に増額して充てるように努めなければならない。」という一項であります。これは持に私はむしろこの逆のことを規定してもらいたいとさえ思うわけであります。と申しますのは、
農業学校、或いは商業
学校にしましても、私は
農業学校にお
つたことがありますが、そこで一県に、私の県に三つの
学校がありましたが、ここで以て収益を
独立会計としてその
学校の実験実習、或いは生徒の厚生という面では卒業旅行の経費あたりに
補助をするというようなことがなされてお
つたわけであります。そうしてそれから来る弊害というものはその一面から言いますならば、
教育の本質をむしろ失
つて、生産に重点を置かれたということは私身を以て
体験したことがあるわけであります。更に県が予算を編成するに当りまして、勿論ここには「増額して」とありますけれ
ども、その
学校の収益というものがその
学校の実験実習の施設に充てられるという條件がありますならば、
教育委員会としてはやはりこれを見越した予算というものを立てて行くということが常道に
なつて来るわけであります。そこに
学校としては少しでもたくさんの収益を挙げることによ
つて施設が充実するというところへおのずと行かざるを得ないということになるわけであります。そうして極端になれば同じ県内に三つの
農業学校があれば、それがお互いに競争し合うというところにまで発展して行く危険があるわけであります。
従つてこの
條項につきましては、むしろ規定するならばそうした実験実習によ
つて生じた経費というものはどこまでも全額を納入して、それをその
学校でそのまま使うということはさせないというような規定すらすることが、むしろ
教育の本質を失わない問題ではないかと思うわけであります。
次に五点としまして予算の問題でありますが、先ほど総括的に申しましたように、
教育の復興というものは勿論予算的措置というものが十分なされなければならない。この場合に現在の
日本の各種
教育を見ましたときに、
教育財政の貧困からいずれの
教育施設も充実されていないという
現状であります。
従つてこの際にどこまでも
教育の、この
職業教育についての予算についも十分なる措置をしなければならない。そのときに現在ここに規定されております文句を読んで見ましたときに、これでは果して国が予算をどれだけ編成して、どれだけそれが交付されるのか疑わしい面が出ておるのであります。というのは一定の基準を国が定める、そうしたならばその基準に
従つてその当該基準にまで高めようとする場合においては、これに要する経費を予算の枠内において
補助するということは、高めようとする場合という文句と予算の枠内においてという、この二つの文句によりまして非常に消極的に
なつておる。そこで飽くまでもこの
予算措置につきましては、例えば
実業学校の
教育費
補助に関する法律がありましたが、あのときのように毎年国は予算を以て定めるところの金額を
補助金として支出しなければならないというような一項を入れて行く、こういうように積極的に入れて行くことによ
つて毎年度必ず通常予算で取るんだということを
はつきり明文化して行く。更に当該地方が高めようとするということに
なつて来ますと、地方
財政に頼る面もこの現在の原案では相当出ておるわけでありまして、それが一定の予算を組んで高めようとするというときに初めて国からも
補助する。これでは真の振興にはならないのであ
つて、どこまでも
国庫負担は基準に達しない基準以下のものに対しては全額を国庫が負担して
補助してやるんだというところにまで行かないと、最も恐るべきことは、現に窮迫した地方
財政のうちにあ
つて、同じ貧しい
教育予算のうちにおいて共食いを始めるというような虞れも生ずる。又は全然この規定は別に出しても出さなくてもいいように
なつておるので、有名無実の
法案に
なつて行くという虞れもある。そういう心配を特に持ちますので、この予算面については
はつきりと先ほど申しましたような点を明記して頂きたいと思うのであります。明記しなければならないと思うのであります。なお申し遅れましたが、先ほど
矢川先生のほうからでございましたか、
産業教育、この
法案について
戦争を導くというような
意味が述ベられ、更に次のどなたからでしたか、これこそが
戦争を導かないというむしろ平和に、平和
国家を建設する何があるのだというような反論も出ておりましたが、私はやはりこの
法案の見方によ
つてはその見る見方によ
つてはいずれの面も一応肯定できると思う。というのはやはり非常な危険な面を含んでいると思います。
従つてここでそういう問題を解消するためには、
日本は現在ポツダム宣言を受諾いたしまして、持に平和憲法のもとにどこまでも平和な
国家を建設して古くというところの義務と責任がある。なお
教育基本法にも平和的な社会人を育成して行くということが載
つているにもかかわらずこういう
観点から
考えますならば、一條の
目的の中へ持
つて行
つて、
はつきりと平和
産業に寄与するという文句を入れることによ
つて、これは今の問題は解消するのではないかと思うのであります。そういう以上いろいろな問題について述べましたが、なお一條々々、或いは一項々々につきましての問題は
あと持
つておりますけれ
ども、又御質問がありましたならばそれにお答えするといたしまして、要するに総括的に申しますならば、今申しましたように、現
法案には幾多の問題点が含まれている。でどこまでもこの法律を単独法として、これのみに重点を指向して、これだけを別個に
考えて立法するということには賛成できないのであります。
教育の全般的視野に立
つて、どこまでも
国民の資質向上、
国民全般の向上という点に立脚して、その中の一環としての
職業教育振興というように把握して行かなければならん。こう
考えるわけでございます。なお洩れた点がありましたならば、後ほど御質問によ
つて補足説明をさして頂きたいと思います。