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公述人(影山佐九郎君) 影山でござります。
只今いろいろとお話を承
つておりますると、ただこの
尺貫法とか、或いはヤード、ポンド法とかいうものをなぜ残さないかというようなお話もあります。又
尺貫法、
ヤードポンド法は
メートル法よりは
世界的じやないかというようなお話もありますから、先ずそういう点に関してはつきりするために、
メートル法の現在の特長或いは又その
状況ということを参考に申上げておきたいと思いますが、時間もありませんが、ちよつとそれを読み上げてみます。
第一に、
メートル法が他の
度量衡に優
つている点を申しますと、一、各
単位がすべて
十進法のみであるから計算に便利であり、又中間の
単位を省略してもわかることであります。二、
単位の値が大きいものから極く微細なものまで揃
つているから、如何なる場合にも
使用できるのであります。三、
単位の呼名がその比率を現わして而も
度量衡のいずれにも共通しているのであります。四、度、量、衡相互に密接な連絡があ
つて、比重の計策にも便利であります。五、これらの特長がありますから、現今の
科学界に広く
使用されているために、
科学研究との連絡に都合がよいのであります。
以上が
メートル法の持つ特長であります。又のみならずこれが国際間にどれだけの何を持
つているかと申しますと、万国郵便に関する規定でも、国際学術
会議の記録、それから航空に関する記録、或いはラジオの電波長の表示、気象通報や天文、地震、磁気その他の観測通報、それから水泳や陸上等の運動競技の記録、或いはその他いろいろ国際的なものには必ず
メートル法がたくさん使われております。それでこういう
世界的にこうして使われている
メートル法を
日本だけがほかのものを使うということは余りにもおかしいように思います。私
どもは更にこの
世界的のことを申上げますと、今までも
貴族院、
衆議院にローマで開催された万国議員協議会の決議書が届いておると思います。又モナコで開かれた国際水路
会議でも
メートル法でや
つてもらわなければならんというので、そのために水路
関係は
メートル法にな
つておるわけであります。そういうふうに殆んど
世界的、国際的のものはもうすでにそういうふうにな
つておるのであります。
世界人口は、これは計算のしようでいろいろ違いますけれ
ども、十七億くらいの見当に対しまして
専用国は約六億であります。それから
メートル法を併せて
使つておるのが約九億あります。全然わからないのは二億見当ばかあるわけであります。そうすると
メートル法でわかるというものを加えますと、殆んど六〇%から七〇%ぐらいがわかることにな
つておるわけであります。そのくらい国際的のものであります。同時に
ヤードポンド法の内部をよく眺めて見ますと、ニユーヨークのメトリツク・アソシエーシヨン、ロンドンのデシマルアソシエーシヨンで盛んに
メートル法の宣伝普及に活動しております。イギリスあたりでも
メートル法のカラツトというものを
使つております。そういうように
アメリカでもイギリスでも実際ややこしいので、何とかして直そう直そうとしておる際に、
日本がなぜそういう
メートル法より
ヤードポンド法をとらなければならないかというと、今五藤さんなどが申されました
通り、対外的の必要があるからだとこうおつしやいますけれ
ども、それも尤もです。いろいろな注文が海外から出て来ましよう。併し
メートル法専用が外国の注文を受けるために不向きだということは全然違うと
思つております。諸
工業の
能率を進めそれを
科学的にしようとすれば、どうしても
科学研究の
単位の
メートル法を、工場が
使つておる
単位の
メートル法に直結しなければ完全によい安いものを早く作ることはできないと思います。よい安いものを早く作るというためにはどうしても
科学と直結しなければならない。それには
工業方面をどうしても
メートル化して行かなければならないのであります。そうして見ますると、そのことだけでも
メートル法が必要なんです。若しお客がボンドでくれと
アメリカさんが来ましたら、
最後の包装をポンドでや
つてやればいいと思うのであります。
インチでくれと言つたら
インチで包装してやつたらいいわけであります。
最後の輸入輸出のことについては何ら制限はないのであります。法の規定も法の制裁も何もないのであります。物を作る場合、工場の
能率を増進して製品のいい物を作るがために工場が
メートルでやれというのであります。決して
メートルの表示したものでなければ海外に売
つてはならんぞというわけではないのであります。併し更にそれをもう少し申しますと、
日本の周囲は殆ど
メートル法の
併用か或いは
専用国にな
つておるわけであります。
日本の商品がどこに流れて行くかというと、恐らく
工業の盛んでない
方面に流れて行くでしよう。
アメリカ、イギリスは決して
日本の商品のようなものは買
つてはくれないでしよう。恐らくこれを買
つてくれる所は南洋とか蘭印諸島です。これは
メートル法の
専用国です。オランダが盛に
メートル法を植付けましたから……。又フイリピンなどはスペイン領
時代から
メートル法を
使つております。又安南とかタイとか、これも皆
メートル法を
使つております。南米のウルグワイ、エクアドル、アルゼンチン、チリ、中米のメキシコあたり、それからパナマ、これは違いますが、あの辺の小さい国も皆
メートル法専用国であります。そういう
方面に売るためには
メートル法を使うほうが向うは
却つて話がわかる、
サイズを表示するとかいうことに都合がいいわけであります。中国の人が買に来たり或いはイギリスの人が買に来て、
メートル法はわからないというのがありましたら、
最後の
段階だけはそうしてやつたらいいので、決して初から
メートルでや
つてはいけない、ポンドで作らなければ商品ができないものではない。イギリスや
アメリカでさえ
ヤードポンド法は
工業に不向だと言
つております。
インチの八分の一、十六分の一というような四上り三上りはうるさくて
工業向には不向だから、どうにかして
ヤードポンド法を
十進法に改正したい。さもなければ
メートル法を採用するかというようなことでほめておるとい
つては悪いですが、中でそういう
意見が対立しておる。その際に
日本が何を苦んで
工業として
メートル法を使わないで
ヤードポンド法を使わなければならんのか、
最後の仕上だけを御注文に応じたものをやつたらいいのであ
つて、工程作業そのものを
メートル法でやつたら
科学的になるわけです次に今まで約二十年、三十年の間
メートル法が遅々として進まなかつたのは何のためであるかというと、
日本には
自分は
自分、人は人という気持が多分にあるわけです。今橋本さんのお話にGHQに打つたら、或る人が
自分は
機械技師なので
メートル法でや
つておるのだが、
アメリカの世間がポンドだから
自分も仕方なく
ヤードポンド法を覚えておるのだ。世間がそうだから
自分もそうなるのだというその気持、ところが
日本はこれは甚だ失礼なお話ですが、大蔵省は大蔵省さえあれば
日本には他の省はどうでもいいようなことを言い、安本は安本で
自分のほうだけ顔を立てておけばほかはどうでもいい、通産省は通産省として
自分のことだけや
つてお
つて、ほかはどうでもいいというセクシヨナリズムの悪い癖がある。同様にこれが
民間にもあるわけです。試みに化粧品を御覧なさい、ほかはわかろうがわかるまいが私の方はポンド詰だ、私の方はヤード詰だとい
つてや
つておる。そんなことはわかろうがわかるまいがかまわない、現にそのために
家庭の
科学化をそれだけ損じているので、どうしてもこれからの
日本人が
世界に、国際に伍して行くには
家庭生活を根本的に
科学化しなければならない。ところが今の買物の
状態を見てごらんなさい、奥さんが市場へ行く、これは幾らですか、これは半ガロン入
つています、半ガロンではわからんが、ああそうですか。これは幾らです、これは五キロ入
つている、わからん、これは幾ら、五ポンド入
つています、そんなことはわからない、仕方がないから値段は幾らですか、三円五十銭、これは三円、二円五十銭、どちらが安いか、金のことはわかるが、ほかのものはわからん。何故
家庭がこうなるかというと、そのために今はラジオでも新聞でも或いは又街頭にあるいろいろな本を見ましても、
家庭生活の改善に参考になる書類はたくさんある、参考資料はたくさんある、ラジオでも注意すればたくさんあります。それを
家庭に取入れることは何故できなかつたか、これは
尺貫法なるものが
科学的じやないのです。重さと容量と長さに何ら無
関係にな
つておるから、比重とか、濃度とか
一つ一つ計算しなければならない、そのために
家庭の人は
尺貫法だけしか頭にないから、そんなむずかしいものをやれんから、結局ふんふんと聞くだけで、実際
家庭で実習してみよう、実験してみようということはできないのであります。簡単なことでも医者へ行かなければならん、簡単なことでも薬剤師へ行かなければならん、育児とか或いは炊事
方面でも
家庭には相当
科学をとり入れる部面が洗濯などでも相当ある。
家庭で染色する、或いは
家庭で洗濯することも
メートル法のようにいわゆる学科的な
度量衡が頭にあ
つて、そういう
部分をみたら直ぐやれるのにかかわらず、やらんのは何か、今の
度量衡が悪いからであります。今
一つ悪いのは、
日本の各業界がセクシヨナリズムであることで、ほかがわか
つてもわからんでも私の方は一貫目で売
つている、私の方はこれはポンド詰で売
つている、わかろうがわかるまいが私のほうはそれで売
つている、私は金を取
つていればいいんだ、これは官庁のセクシヨナリズムというものを
民間の人が悪口言うが、
民間自体がそうな
つている、このセクシヨナリズムを直さなければならない。今総
司令部の何とかいう人が言われたように、世間がそうすれば仕方なしに私もそれを習つたと同じように……、そうして行かなければならない、私いつか農村へ参りまして
メートル法の話を
一ついたしました。百姓はそんな
メートル法なんか要るもんか、尤もだ、向うの人はそう
思つている、それですから本当に農業を改善する、実際
メートル法の必要というものは原始産業の農業とか水産という
方面には最も必要なのであります。今まで
科学の
方面を取入れていない
方面の
家庭とか、農業、水産というような面が最も必要なのであります。農村あたりは本当に雨量が何ミリというと、よくわからん、昨夜の小雨は二十ミリであるとか、或いは二三日で以て百二、三十ミり降つた、相当降つたということがよくわかるようにな
つてくれればいいが、そんなものは要らん、こう言うから気象台のほうではつまりお世辞を
使つて坪当り何石何斗降つたと言う、新聞にもそう堂々と書いてあります。これは果してわか
つている入が何人ありますか、わからんけれ
ども、ただそう言えばふんふんと言うて気持ちがいい、
尺貫法で言われたら気持がいいというだけのことで、決してその
尺貫法に書いたそのものがわか
つているわけじやないのです。私は今から三十年ほど前に静岡県の水産試験場の橘川章という人に対して水産のほうはこれから先どうしても
計量的に行かなければならん、それには水産のほうは
使つておる
単位が余りにものんき過ぎるから少し
科学的な
単位を使わなければならんということを私説明しました。私の言つた結果ではないでしようが、最近においてはだんだん水産の
方面でも施設にそういう
計量的の施設が出て来ている。まあこれは時間がありませんからその実例を話しておる暇もありません。今現になんでしよう。昔は「目に青葉山ほととぎす初鰹」とい
つて初鰹というのはこの三月、四月ということにな
つているが、昔南洋の委任統治であつた当時は一月から二月鰹が獲れている。鰹というのは海の水が温かにな
つて、十七、八度にな
つて来ると寄
つて来る。又寒くな
つて来たら今度は南洋に行く、三月頃は小笠原島に、一月二月寒いときはサイパンから南のほうに、だからそこに行つたらいいんです。そのためにはどのくらいの温度の所を鰹は往復しているか。又鰹が喰べる餌というものはどういう所に、温度などのくらい、又どのくらいの水玉の所では食物の供給ができないから鰹は棲まないのだということで、
科学的にやるにはどうしても
計量的に水深を測
つて見る、海の深さ、塩水のつまり比量を測
つて見る、或いは水圧を計
つて見る、いろいろの濃度の屈折なんかを測
つて見る、そうならなくては本当に完全な漁業調査というものはできないのであります。
度量衡を離れて物の
進歩とか発達とかいうものはないのであります。今我々は「きゆうり」を食べます。冬の真中でも「きゆうり」を食べることができる。そうして六月と同じような湿度とか温度にしておいたら冬の真中でも「たけのこ」が出れば「きゆうり」もできれば今食べられる。この自然を征服するにはどうしても
度量衡、それを使わなかつたら完全に行かんのであります。ですから私に言わせますと いうと、今荒木さんが何年経
つてもや はりどうも
メートル法は進んでいないと言うけれ
ども、それはそういう気持を直さなければならん。
度量衡がごしやごしやにな
つているほうがいいか、一本ですつと行つたほうがいいのかということで比較しますと、どちらがいいかということはわかると思う。これができないのは何であるか、これは人は人、
自分は
自分という気持、セクシヨナリズムのお蔭です。そこで甚だ遺憾ながら今
尺貫を
使つて罰せられたらどうかという、それは我々も
尺貫を
使つて罰するということは決していいとは思いません。そんなものは法律で規定すべきものでない。むしろこう指導奨励、こういうもので行
つて、決して法律で臨んでやるべきものではない。かかるセクシヨナリズムの強い、小さいところで小さい殻を作ろうという気持でいる
日本ではそこに何らか統制力を持たせなければならんようになるかも知れません。ただ気持だけでそういうことを言うているのか、つまり
尺貫法というとちよつと御承知の方もあるかも知れませんが、昔は
尺貫法とは言いません。この尺斤の法なりというので、戦国
時代以後にそういうものが出て来た。
尺貫法は昔の何じやありません。そういうものは
単位も変
つていれば事情も変
つているわけです。それは唐
尺度を取入れた古代
尺度と大宝令の
尺度との違いと同じようなものなんです。これはまあ気持だけです。論語には以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべし云々……とありますが、その六尺は何かというと尋常一年か二年の子供のことを言
つておるのです。それが南宋
時代に
なつたらどうで す、三尺の童子は云々……と言
つておるが、六尺と三尺はやや同じなんです。そういう尺を
日本で輸入して高麗尺と言い、或いは古代尺と言い、或いは大尺、小尺、而も更にそれが天平尺に
なつたらば又更にそれが伸びている。奈良の大仏が五丈三尺何寸と言いますが、五丈何尺は何の尺で測つたのか、天平
時代に作つたときの尺で測つたのか、天平
時代の尺で測つたとすれば、その五丈何尺は今の六丈何尺にならなければならぬ。かように
尺貫でも時によ
つて変遷が甚だしいのであります。又その
単位の入換えもある。尤も両と言えば昔は重さの両でしたが、徳川
時代には金の両にな
つて、而も又薬種屋さんなどは目方の両に
使つている。四匁一両に
使つていた。今では坪も同じです。何町何段何畝というが、昔は坪じやない。長さのことですからただ坪とは言いません。そういうものでも
尺貫法の尺とか貫とか言う気持がいい……。