○吉川末次郎君 私は
結論を先ず初めに申しますると、そういう行動に及ばれたということについては反対であります。又その
内容とせられているところについても
賛成することができないというのは、こういう地方議会の議員の数を減少しなければならんというような議論は今日に始つたことではないのでありまして、久しく日本の
地方行政会議に、主として官僚を中心にしてたびたび今日までそういう議論があつたのであります。それは地方自治
法制定以前のことでありますが、たとえて申しまするならば、警視総監をして貴族院議員をしておりました丸山鶴古氏等がみずから東京市
会議員になりまして、市政革新同盟というものを組織して、世間的な名士が多数それに参加して、東京市政会の者が市
会議員に十数名出たのであります。その平政革新同盟が当時やはりそういうことを盛んに提唱いたしたのであります。そうして市政
調査会の理事をしておりました前の文部
大臣でありました前田多門君のごときは、又その提唱者の一人でありまして、その当時私はその前田多門君の議論にも反対を表明したのでありまするが、大体そのときの議論と軌を一にいたしておる。その後地方自治法の制定等がありまして、旧地方自治
制度が変
つておりますが、根底は同じであります。大蔵
大臣の反対するところによれば、相も変らないところの旧財務省官僚の官僚イデオロギーに根ざしておるということが一つと、もう一つはアメリカの市政組織というものの一部だけを、官僚イデオロギーに便利のようなところだけをセレクトして、自分たちのためにこれを利用しておるというようなこと。それから第三番目には、昨今唱えられておりまするところの議員数の減少の問題でありますが、これ又最近になりまして地方自治体の代表者、或いは
地方行政の
関係者等の中からGHQが選抜いたして、アメリカの
地方行政を視察に大分派遣いたしておるのでありまするが、そうした赤毛布の
地方行政の
研究者がアメリカへ参りまして、十分の勉強もしないでただサイト・シーイングで聞き噛
つて来たところの生噛りの知識を相変らず振り廻して、世間を迷わせておるというようなことが原因にな
つておる、こういう議論が根底薄くして軽卒に流行いたしておるということは、非常に日本の
地方行政のために実は私としては慨歎いたしておるのであります。でアメリカにそういう傾向があるということは、ここにその赤毛布見物をして来たところの小倉庫次君の
報告がどつかに出ておるところを抜萃して置きましたが、こういう傾向があることは事実であります。ニユーヨークの市
会議員七十数名おりましたのが、市の章、シテイ・チヤーターが変
つて二十数名に減少しておるということの外にもそういう傾向があるということは事実であります。併しながらこれはアメリカの市政組織というものが、
小野政務次官も御承知でありますように各州によ
つて違う、同じ州におきましても又市によ
つて、いろいろチヤーターによ
つて違う、そうして大体においてアメリカの自治体の経営、都市の経営というものは株式会社のような企業組織の形体、ビジネスの形体を非常に重視いたしまして、能率を挙げるというようなことを非常に最近にな
つて中心にしておるのでありまして、他にも市政組織というものが区々まちまちでありまして、非常に違うのでありますが、御承知のごとく、最近に起
つて来ましたところの一つの市政組織としましては、いわゆる市支配人
制度、シテイ・マネージメント・プランと市
委員会、シテイ・コミツシヨン・マネージメント・システムというような
制度が布かれて営利会社と同じように、極く少数のエキスパートのビジネス・マネージヤーに市政の運営を任して、そうして会社のように出費を少くして
行政能率を挙げて行こう、会社と同じようなやり方でや
つて行こうというような
制度が採用せられまして、それが非常にいい成績を能率本位の立場から挙げた。そういう市支配人
制度、或いは市
委員会制度というようなビジネス・マネージメントの計画というものがいわゆる市長及び議会の対立
制度をと
つておりまするところの市の組織にもいい影響を與えて、そうしてこういう結果が一つの傾向としてはや
つて来た、私は全部でないと
考えておりますが、一部にそれがはや
つて来ておるということはこれは事実であります。併しながらそれだけを持
つて来て直ちに日本がその
通りやれというようなことはこれは甚だ軽卒ではないかと思うのです。アメリカの一部の市政のこういう傾向は、今言うように米国全体の市政組織の基本観念、それが営利会社の組織を採用して能率を挙げようというビジネス・マネージメントの観念、それから今言うところの市支配人
制度や市
委員会制度を取入れよう、それになら
つて行こうというような一部の傾向を示しておるだけのものでありまして、先進国全部を通じて何もそういうようなことが今傾向にな
つておるのではないということを基本的によく知
つて置かなければならんのであります。
例えて申しまするならば、ヨーロツパ諸国においてはそれではどうであるか、そんなことはちつともや
つてはいないのであります。どこの国だ
つて私の知る
範囲におきましては、大体人口数を基本といたしまして、日本と同じくらいの各自治体の議員があることは
小野政務次官も御承知であろうと思うのであります。たとえて申しますならば、大都市の例で申しますならば、東京都なら東京都に当りますところのものは、イギリスにおきましてはこれはロンドン都とでもいいましようか、カウンテイ・カウンセル・オブ・ロンドンでありますが、カウンテイ・カウンセル・オブ・ロンドンの議員数は、今手許に
資料を持
つておりませんから間違
つておるかも存じませんけれ
ども、大きな間違いはないと思うのでありますが、百四十何人であつたと私は記憶いたしております。又ベルリンは今ああいうことにな
つておりまするけれ
ども、ワイマール憲法が布かれておりました第一次欧洲大戰後におけるところのベルリンの市会というものはこれは私の記憶は間違いないと
思つておりますが、ベルリン市の市
会議員の数は二百二十五名であります。それからパリーは即ち百人であります。それから世界のやはり大都会でありますところのウイーンもこの頃はどうな
つておるか知りませんが、私は大した間違いはないと思いますが、第一次欧洲大戰後社会民主党が市政権を握
つておつたのでありますが、市
会議員の数は百二十人であります。ヨーロツパ諸国におきましては大体において日本の自治体議員の数と殆んど相違はないのであります。然らばこの議員の数は何を基準にして
決定すべきかということについては代議政治というものが居住民の意思を代表して政治が行われる、それが議員の数を
決定するところの基準でなければならん、即ちどうしたならば居住民の意思が一番よく代表されるか、どれくらいの数が一番よく居住民の自治体
行政に対するところの意思を代表しておるか、プリンシプル・オブ・レプレゼンテーシヨンといいますか、代表の
原則ということが議員の数を
決定するところの私は基準でなければならんと
考えるのでありまして、それをただむやみに議員の数を減らしたからとい
つて、それが行われるものではない、それは
相当のやはり議員の数を、十分に居住民の政治意思というものを代表することができるだけの数を選ぶのが当然であります。
参議院議員が二百五十人ありますが、これを五人か十人に減らしてしまつたならば、日本の
参議院議員を選ぶところの私は代表の
原則というものは十分に現わされないと同じことであります。でありまするから、例えば現在は多少区の
制度も変
つておりまするけれ
ども、東京都で申しまするならば、昔ならば赤坂区のようなところは地方議員は一人しか出しておらなかつたが、一人というようなことはこれは階級的に
考えましても、或いは職業的な構成からいたしましても、いろいろ自治体に対するところの自分がや
つてほしいという
意見が違うのであります。仮に極端に各選挙区一人というようなことになりましたならば、絶対にそういう
意味においての居住民の意思は議会に反映されないのであります。即ち地主の人もありましようし、資本家の人もありましようし、中小商工業者もあり、労働者もあり、サラリーアンもあるというような、そういうような階級的構成によ
つていろいろ市政に関するところの、或いは自治体に対するところの自分がや
つて欲しい政治意思が異
つておりますときには、一人ではこれはなかなか代表できないのであります。でありまするから、それに呼応した適当なる議員の数を出すということは当然のことでありまして、今日東京都が百二十人でありましたか、或いは大阪が七十何人でありましたか、そういうような数は決してこれは不当に多いと
考えることができんのであります。この間もこれを書いておるところの小倉庫次君にも個人的に
ちよつと話もしたのでありますが、小倉君は長く宮内省の侍従をしておりまして、最近にな
つて市政
調査会へ入
つてこんなことをひねくり廻しておるのでありますが、同君もはつきりよくわか
つていないのであります。そうしてこういうことを書いて出しておりますが、私は非常にそういう
考えが不健全である。そうして何か市政
調査会の理事であるとか、前田多門が長い間内務省の官僚をしておつたからというのでそういうことを言い出すということがたびたびここで申しますように、日本においては
地方行政に対するところの本当の学問的な
研究というものがどこにもないのでありまするから、ああいう偉い人が言
つておるんだからというので以て、直ちに新聞記者が附和雷同いたしまして、そうしてそれが世間の誤れる輿論を構成するのであります。前田多門氏が曾
つて市政革新同盟を通じて丸山鶴吉氏や何かとやりましたときに、朝日新聞や他の新聞においてこれに賛同するようなことを言つたときに、私は言つたのであります。一犬虚に吠え万犬これを伝う、丁度今日の情勢はこれと同じであります。こういう無智と非常に未熟なる
研究に基いてこういう誤れるところの見解が流行いたしておることに対して、軽卒にも
小野政務次官が、或いは岡野君もそうであるかと思うのでありますが、中央
官庁が賛意を表してそういう通牒を出されるというようなことには私は甚だ同意いたしかねる。なぜならば、私はたびたび言うように日本の
地方行政というものは封建的な内務官僚がその権力を独占して、そういう官僚イデオロギーで以て今日まで日本の国民を誤らして来た。官僚の立場からいたしまするというと、官僚の敵国は何であるかというならば議会であります。だから中央政治において官僚というものは政党が大嫌いであつたと同じように、地方議会においても地方議会の政党を否認し、又そういう誤まれる官僚の
意見がこの地方選挙を前にして流行して、そういう馬鹿な社説を書いておる新聞はたくさんある。地方自治体には政党はあ
つてはいかんというような、そんな馬鹿なことはない。社会党はプロレタリアの政党であり、保守政党は資本家の政党であつたならば、地方自治政治についても階級的な立場において正々堂々と論争するということは当り前の話であります。それが立憲政治であり民主政治でなければならんのに、相変らず官僚政治が少しも批判されないで、今度の選挙にも相変らずそういうことを言
つておる。それと同じように又こういう地方自治体の議員の数を減少しようという
考えの根底には、昔と同じように、そういう旧内務省官僚の封建的イデオロギーがその底意にあるわけであります。できるだけ議員の数を減らして議会の権力というものを減らして、議会が執行部に対して干渉するような権力的立場をできるだけ減殺しようとして、この間も神戸の市役所へ行きますと、これは我が党から出ておる市長でありますが、原口君は旧内務省の官僚でありましたが、やはりそういうことを言うから、原口さん、それは間違
つておると、私は非常に説得したのでありますが、ともかく議会なんというものは市
会議員の数が余り多過ぎます。減らしたほうがいいというのでありますが、私はこれは大変な間違いだと思います。そういう役人も執行部の人からするならば、地方自治体においても、中央政治においても、極端にその
考えを言うて行けば、もう議会なんてないほうがいいと
思つておるのです。そういうような
考えがここに出て来ておる。それが結び付いてこういう偏面的な生噛りのアメリカの赤毛布の市政視察の知識がここに結び付いて、こういう馬鹿なことが言われて、そうして無知識なるところの新聞紙がそれに附和雷同いたしておる。とい
つて私は必ずしも今日のこの議員の数というものがそのままでいいとは
考えません。例えば東京都の区
会議員、特別区の区
会議員の数のごときも、これも区の
行政組織そのものについて再
検討される必要があると
考えるのであります。そうして私が議員になる前にも、私、内閣のこの地方自治
制度を作るときの
審議会の委員でありましたが、そのときに私は非常に力説したのですけれ
ども、私の
意見は用いられなくて、木村君もおられたと思いますが、これが通
つて自治権が拡大された、そうして区長は公選されるし、区議会というものは非常に権力のあるようなものに
なつたのでありますが、あれが誤りであるということを私は非常に言うたけれ
ども、私の
意見が少数で通らなく
つてああいうことに
なつたのでありますが、これなんかは、これは区の
制度そのものを再
検討する必要がある。
従つてその権限の非常に拡大されたところの区
会議員というものがお手盛りで以てからに非常に多額の歳費を取
つて、権力をほしいままにしておるというようなことについては、これは私は再
検討しなくちやならんと
考えております。区の区
会議員の歳費のごときは前は一年に二百円だつた、ところが今日では一カ月に一万何千円というような歳費を取
つて威張り散らしておる。そうして区の
行政というものは一つの都でありながら、区々まちまちに東京都の
行政が区を單位にして行われておるというようなことは全く間違
つておる。而もそういうようなことが
衆議院の
法制局長であるところの入江君、これは
地方行政のことについては若干のエキスパートであるとみなされておるところの人間が、この間も言つたことでありますが、そんな間違つたところの区の権限の拡大運動に賛意を表しておるのでありますが、これは再
検討されなければならないと思います。又その議員の数というものについても
検討されることが必要でありまするけれ
ども、併しながら全国を通じてそういうようなことが言われておるのは、私が以上申上げたことによ
つて非常によくないことだと
思つておる。小倉君と私はプライベートに話合つたときには、吉川君、あなたはそう言われますけれ
ども、或る村では、この村の名前は忘れましたが、どこかの村では居住民が二、三千人しかいないのに村
会議員が二十名か三十名から出ておるというのは多過ぎます。併し私はそういう議論は成り立たないと思います。なぜならば、民主政治というものは居住民が全部その議決に加わるということがむしろ理想なんです。それはスイスのカントンなんかのデモクラシーについて絶えず引かれておりますように、居住民の意思が町内会や隣組のように、私は町内会や隣組には反対でありますが、そのように皆が自分の意思を述べることができるようになることがむしろ望ましいことであ
つて、むしろその数が減るということは決していいことじやない。ともかくも以上申上げたことでは十分でありませんが、私の言わんとすることは大体御了解願えると思いますが、第一そのアメリカの偏面的な知識が官僚イデオロギーの基本にな
つて、極端に言うならば議会というものはいやなものである、こんなものはないほうがいいというふうに、突きつめれば当然そこに行かなければならないような
考えの上に立
つて、そうしてたまたま自分に便利なようなこういう偏面的なアメリカの例を自分に都合のいいように引つ張
つて来て、そうして世人を迷わしておる。殊に又迷わされておるところの新聞その他が多くあるときにおいて、軽卒に中央
官庁であるところの
自治庁がそうした通牒を発せられたということについては、私は全くこれは反対であります。それについて一つ御所見を承わりたいのでありますが、特に私が申しましたところの欧洲諸国においては、日本の自治体議会におけると同じような人口に比例するところの議員の数を持
つておることについてはどうお
考えにな
つておるかということについても御所見を承りたい。